人間の意識は裁くことは... 心の問題を法で解決できる...
[罪刑法定主義とは何か] [時爺放言]

あなたは本当に100パーセント被害者か?
罪刑法定主義とは何か?(5)

2012/03/15
(5)
 
1)被害者と加害者しかいないのか? 
ウチのハハオヤ(義母)は逝去したチチオヤの遺族年金分も入るようになり、私とは一レベル上の不労所得を得ている。
と、いってももちろん現役勤め人のヨメの半額以下なのだが、とにかく暮していくには不自由はなく、余った小金も貯めればちょっとした額にはなる。
別に貰った年金をきっちり全部使わなくともいい、と思うのだがスーパーの安物買いにイソイソと出かけ、電気屋に言われるがまま使いもしない風呂場暖房設備に大金を出し、親戚の慶忌には見得で法外な額を送付する。
 
この人には「金」(と地位)で人を計る卑しさが抜けず、自分の幸福感は消費する金に比例することになってしまっているようだ。
私がせっかく間に入って公平にヨメと二分したチチオヤの遺産金も、きれいに「親戚の・・にやった」そうである。
ええっ!と思ったがもう遅い。
八十の老婆の人生にとって世間とは常にそういうものだったんだろう。
まあ、ハハオヤの人生の主催者はハハオヤだ。余生を好きに生きればいい、とは思うのだ。
しかし、その悪癖のおかげで親戚筋にはウチ(私とヨメ)まで余裕のある所帯だと見なされ、おかしな要求をされたり、年金額で自分よりはるか下回るムコの私がボロカスに言われたりする。
 
ええい、こうなれば、私も田舎風拝金亡者の列に加わりハハオヤに取り入り、甘言を弄し毎日ドブに捨てている金を自分のフトコロに誘導してやれ。その方が、よほど世の中の為になるハズだし。
・・・とかは、たかが老女の年金内のハナシで、余りにもケチくさくあり得ないのだが。
 
このような、金でしか人とつながれない拝金主義老女のような振る舞いが、ふりこめ詐欺や結婚詐欺サイトの犯罪を誘発しているのは確かだと思える。
 
何百万もの金を確認もせず、どうして簡単に電話の相手に振り込むことが出来るのか?
5000万という金(第一回参照)をいかがわしいサイトに振り込みながら、「おかしい」とは一度も思わなかったのか?
 
自分がしっかりと管理できる以上の額の金を持っていることが犯罪を生んでいる。
加害者を弁護する気はないが、被害者に同情する気もさらさらない。
犯罪にあわなくとも、その金はどのみちドブに流され、醜悪な腐臭を放っていたはずだ。
5000万もの金を積めば人と繋がれる、と思っている人に私は何らの人間的な共感も持ちえない。
ありていに言えば、そのような金こそバーチャル(仮想現実)な産物なので、ならば速やかに闇に消失すべきだと思ってしまう。
もし犯罪が成立するのなら、その金の存在を匂わせた被害者の側がこの犯罪の真の黒幕であると思うのだ。
 
拝金主義の被害者達が拝金主義の社会を養い、育て、教育し、一人前の立派な、法や倫理を歯牙にもかけない拝金主義者達を排出させている。
地下鉄の中で口を開けたハンドバッグからサイフを覘かせるのは既に限りなく犯罪に近いと心得るべきだ。
 
 
2)あなたは本当に100パーセント被害者なのか?
福島第二原発事故の被害者は気の毒であるのは当然だが、地元楢崎町町長の言うように、事故前は東電の地元への数々の原子力発電の協力金の恩恵を受けてきたのは事実である。
被害者の中には原子力発電推進派や東電から仕事を請け負っていた人もいらっしゃる。
直接の恩恵は受けなくとも、町に住むことで町のインフラ施設や税金面で間接的に東電の恩恵を受けていたのは事実だろう。
この人達はやはり東電を支えていた一人でもあったと言えるだろう。
 
原子力施設の安全性について東電や関係省庁の原子力安全説を信じたのが悪いとは言わないのだが、けっして良いことでもなかったことが結果として明らかになった。
以前から原発の安全性に対して疑問を持ち、反原発運動を展開していた人もいたのである。
この人達から見れば、私たちは自分の意思で原発を容認してきた側にいることは否定できない。
安全管理を行った東電側や安易な選択をした行政の責任は免れないのだが、それを容認していた側も幾分かの加害責任はあるはずだ。
 
原発事故の被害者が存在するなら、これに対し、この政策を進めた為政者を選択し、もしくは容認していた選挙権者、原発電力を享受していた大多数の電力使用者も数パーセントの加害責任はあるだろう。
 
直接間接の放射能被害に見舞われている方の中の何パーセントが100パーセント被害者と言えるんだろうか?
ただ目に見える被害の量に比べ、自分が自覚できる加害の量が少なかっただけではないのだろうか?
 
 
一般に、100パーセント加害者と100パーセント被害者だけで事件や事故が成り立っているとは思えない。
被害者も数パーセントの加害責任があり、加害者もあるいは被害を蒙っていたのかもしれない。
この世の事象は全て善悪、可否、白黒、○×の2デジットで判定できるものではない。

刑事裁判では、裁判員は自分が被害者であると考え、被害者に成り代わって加害者を裁くのか、それとも自分も加害者だったのかも知れないと考えるのか。
 
私には先ず自分が加害者であると思ってしまう性癖がある。
この故か、私は法曹ではないのに人を裁くという行為がどうしても傲慢な振る舞いであると自分で思ってしまうのだ。
 
「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
  
(ヨハネ福音書)

blog upload: 2012/3/15(木) 午後 1:35
人間の意識は裁くことはできな... 心の問題を法で解決できるのか...