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2012/03/16 |
(6)死刑制度は何をめざしているのか
昨日(3・15)大阪平野区の母子殺人事件の再審判決のニュースがあった。
容疑者は二審では死刑判決を受けたのだが、この差し戻し再審の判決は無罪だった。 死刑と無罪?あまりにも落差が大きく、複雑な感慨に捕らわれる。
この容疑者だった方から見れば、無実で死刑にされるところだったのだ。 報道されている限りではこの方を有罪・死刑とする根拠は無い。
いわゆる状況証拠だけがあり、100パーセント確実な証拠はない。 このような判例を見ていると、今までにも100パーセント確実な証拠もないまま死罪に処せられたケースもかなり多いと推測できる。 真実は誰にもわからない。
しかし、裁判ではデジタル式に有罪無罪を決定しなければならない。 「疑わしきは罰せず」というのが法適用の原則だが、状況証拠という名目で80パーセントくらいの可能性でも有罪となってしまうようである。
ということは、容疑者が無実である可能性が20パーセントあったとしても、その人の生命を100パーセント抹消する死刑に処せられるケースがあるということだ。 上記の報道では、「犯人に間違いないのに、無罪なんて悔しい。このままでは娘親子が浮かばれない。司法に憤りを感じる。」という旨の被害者の両親のコメントがあった。
この連載の(3)で言及した光市の母子殺人事件では、加害者の少年に死刑判決が出たのだが、一時この少年の犯意の不明や年齢的な条件から死刑は適用できないとの見解があった。被害者の夫が粘り強く犯罪の悪質性を訴え、これも考慮されての死刑判決だったようだ。
「もし死刑でないならば、無罪判決として犯人を釈放して欲しい。そしたら私が自分で犯人を殺すことが出来る」という被害者の夫であり親である方のコメントが記憶に残っている。 このすさまじいまでの憤りを引き起こす悲しみの総量とは一体どのように膨大なものなのだろうか。
「疑わしきは罰せず」というのは理想論で、現実には誰かを犯人として処刑しなければ遺族や世間の社会正義感という公序良俗を満足させることができないようにも思える。
これが死刑制度廃止反対意見80パーセント社会の相場というものだろう。 もしかすると、中には無実と知りながら、「政治的判断で」処刑を黙認するケースもあるのでは、というような危惧を感じさえする。そしてこれを「必要悪」と称し飲み込んでいるのだろうと。
死刑というのは矛盾した制度だ。
殺人という悪を殺人という悪で取り除く。正に「必要悪」である。 「人を殺せば、自分が死刑になる」だから殺人への抑止力が死刑制度にはあるという主張もある。なんだか核の抑止力に似たような構図である。
しかし、こういう抑止力も100パーセントではないのは自明のことだ。
プロの殺人者には通用しないし、素人が人を殺すというような究極の逆上中でそのような判断ができるのだろうか? 抑止力としての死刑は「ないよりマシ」程度だと私は思う。 私は他人の意思で自分の命を奪われたくないので死刑制度は止めて欲しいのだが、現在私が参画している社会の多数が死刑に賛同されているらしい。多数決には従います。私が悪ければ死刑に処せられても制度への文句はタレません。
ただ、このような絶対的な社会的異分子隔離策は神ならぬ身では傲慢の極みだとは思のだ。
あんたには生きている意味はないよ、と誰が判定できるんだろうか?
せいぜい、あんたは我々の社会に居てくれては迷惑だよ、ということくらいだろう。
だから、できれば懐かしいレトロ調の流罪・遠島刑にしてこの社会とは別の世界に追放ということで、許していただけたらありがたいのだが。
しかし、人間はもう一人では生きられないことになってしまっている。どうしても周囲の社会との折り合いをつけて暮らしていく他はない。社会から隔離されればやはり生きていけない。
先天的、後天的な欠陥で良好な隣人関係を築けない者も多い。 もしその欠陥が周囲を傷つける方向にしか向かなくなってしまっているのなら、社会としてはこれを取り除く他はないことにもなる。そして、異端分子として苦しい生を強いられるより、この人にとってこの処置の方が「楽」であることもある。 絶対多数者が殺人犯に対して報復として死を求めているのなら、法はそのように定めるべきだろう。
私は制度としての死刑に反対なのだが、それは自分の死も他人の死もなるべく見たくないという情緒的な判断だけが言わせるものだ。 法というものの性格上、少数者に不利ではあっても多数決には当然従わねばならない。 現代では安直だが、この多数決原理しか一応納得できる判断基準が見つからない。
しかし、私の情緒は同時代の大多数とあまり共有する部分がないので戸惑うのだ。
本当に犠牲者の遺族の方は、犯人を特定し探し出して殺さねば憤りは収まらないのだろうか?
私はそのような悲惨な体験がないので、実際に身内を理不尽にも殺された憤りの本質は理解できないのかもしれない。 しかし、憤りが多少緩和されたとして、その膨大な悲しみが消えることはないと思うのだ。
理不尽なのは殺人だけではない。地震や津波の犠牲者の周囲にだって決して日常感覚に収められない不条理な憤りや悲しみがあるはずだ。 死刑は被害者の遺族の心を鎮めるためには本当に有効なんだろうか?
殺人者を殺人によって抹殺することだけしか心を鎮める方法はないものか?
私には絶対に忘れられない事件があり、この顛末を知ったことでこの違和感だらけの社会に生きていく上でのある程度の救いを得た。
○小松川事件 (wikipediaより)
1958年8月17日、東京都江戸川区の東京都立小松川高等学校定時制に通う女子学生(当時16歳)が行方不明になる。同月20日に、読売新聞社に同女子学生を殺害したという男から、その遺体遺棄現場を知らせる犯行声明とも取れる電話が来る。 小松川署捜査本部は9月1日に工員で同校1年生の男子学生・李珍宇(当時18歳)を逮捕した。
犯人は東京都亀戸出身の在日韓国人で、その家庭は極貧で環境も劣悪で、その暮らし故か窃盗癖があった。図書館からの大量の書籍の他、現金・自転車の窃盗を行い、保護観察処分を受けていた[1]。 男子学生は1940年2月生まれで犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月27日に東京地裁で死刑が宣告された。二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定した。
事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があり、大岡昇平[2]ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。 犯人は拘置所でカトリックに帰依の洗礼を受けるが、被害者たちに対しては「彼女たちが自分に殺されたのだという思いは、ベールを通してしか感じることができない」と罪の意識を感じることはなかった[3]。 翌1962年8月には東京拘置所から宮城刑務所に移送(当時東京拘置所には処刑設備がなかった)され、11月26日に刑が執行された。享年22。 この事件は広く反響を呼び、いろんな角度で論じられ、特に死刑制度反対論から例示とされ引用されることが多い。
罪から言えば死刑に該当するのだが、この少年個人がその責を全面的に負わねばならないのか?との疑問は残る。なお、一部には少年は無実だったとの意見もあるようだ。
ここで私が是非言及せねばならないことがある。
他の殺人事件と本質的に異なるのが犠牲者の両親の感情のあり方だった。
この犠牲者の両親は関東大震災の時に無実の在日朝鮮人達が日本人によって殺された死体を実際に目撃し、心を痛めていた。自分達の娘が殺された後、多くの在日朝鮮人が遺憾の手紙を寄せてくれたことにも深く感謝し、犯人の助命請願を正式に出している。
犯人の少年の母親が申し訳なく、こらえられない思いで犠牲者の家に謝罪に行くというエピソードがある。
犠牲者の母親は娘を殺した少年を憎むことはなく、返って少年の母親の苦しみを気遣い慰め、終にお互いに抱き合って号泣する。
処刑後も犯人の母親と犠牲者の母親は連れ立ち、死んでいった子達の墓参に行ったりして交流を続ける。
このような境地に至る人もいる。
このような深い悲しみは、個々の罪や罰に対し起因するようなものではなく、人間であることそのものの悲しみでもあるような気がする。
私たちは本質的に不完全で傷つきやすい存在で、その悲しみが時にこのような事件として噴出してしまう。
犠牲者も犯人も人間という存在の本来的な悲しさからは、違いはなにも無い。
別の例がある。
死刑囚が獄中でクリスチャンとなり、自分の罪を悔いながら死を受け入れていく過程を、死罪を求刑した担当検事と交わした文通等を通して描いていくドキュメンタリが昨年NHKで放映されたようだ。この関係の情報でも殺人や死刑制度にまつわる殺伐とした喧騒の中で、思いもかけぬ静かな感動とでもいうべき印象を受けた手記を見つけたのだが、今ネット上で埋もれてしまい探せなくなっている。再発見できたら紹介したい。
粗暴で反抗的だった犯人が自発的に反抗の自供をはじめてから、つきものがとれたように人間らしさを回復していく。ついには死刑囚として収監されてからやっと本当の人生を見つけたと、死刑を求刑した担当検事に礼状を書く。そして死刑が実施され、落ち着いた静かな様子で死んでいった、という。
犯人が改悛しているから許せ、とか、犯人にもそれなりのやむなき事情があるので死刑にするな、とかの感情的な判断を述べたいのではない。 現行法の下では死刑は存在し、そして死刑と裁定されれば生命を絶たれるシステムが多数の支持を得ている。単純な感情論を死刑制度反対の論拠にはできない。 死刑囚の魂の救済が問題ではない。
ここで考えなければならないことは、殺人という不条理に対する遺族の憤りをどのようにすれば救えるのか、という遺族の魂の問題である。
上記のブログのドキュメント等でも伺えるのだが、その生命は救えないにしても、罪を犯した者の魂が救われるということは可能なようだ。
殺人を犯すまでに荒廃した魂が、悔悛することによって「初めて生きている意味を知った」と書き、自分の死をも乗り越えてしまうのである。自分が死刑になって「良かった」と述べもする。
がしかし、親鸞の悪人正機説を持ち出すまでも無く、不条理な憤りの中に放置される遺族にはこのような「起死回生の」転回点が生じることはない。 死刑で犯人の心が救えることがあるにしても、殺された遺族の荒らぶる魂が救われることはないと思うのだ。
裁判により死刑が求刑されると、生命のツケを生命で支払うことになる。
しかし、それはあくまでこの世での、いわばビジネスライクな収支決裁でしかない。
私はこのような魂の問題が死刑で決着がつくとは思えない。
それは法制ではなくて、全く別の次元で考えるべきではないだろうか?
残された遺族の魂が犯人への報復で鎮められるのではなく、できれば小松川事件の遺族が示したように、憎しみよりも憐憫の念、さらには広い意味での恩讐を越えた人間愛、あるいは慈悲という方向へ昇華する、そのような世界を夢想するのみだ。
法制ではなくて。 blog upload: 2012/3/16(金) 午後 5:28
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