罪刑法定主義とは何か (2)Killingme
[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

   「死ぬにはもってこいの日」
(1)  死後の祭

2010/11/23
(1)
連続テレビドラマのLOSTが終わってしまった。(AXN放映分)
5年ほど前から視聴しているが、いよいよ最終章なのでドラマとしての決着のつけ方に注目していた。
前回まではいよいよ「大団円」か?というような盛り上がりもあった気がしたのだが。
とにかく、シリーズ1の設定が秀逸だったし、ハワイ・ロケの無人島の映像も美しかったので視聴率がよかったらしい。好評なのでシリーズを増やしていき、その度にストーリーを脈絡もなく繋いでいったので、奇妙に錯綜したプロットが膨らんでいった。だから、一体どのように決着をつけようとしているのか楽しみだった。
これまでのストーリーと矛盾せず、しかもできたらハッピーエンドの決着とするにはよほどのチカラワザがないと無理と思えた。これまでにも主要登場人物やその恋人がバタバタ死んでいるので、どのようにして生き返らせてハッピーエンドに持ち込もうというのか?とか。
 
最終回のネタをばらしてしまうと(注意!)、これまで描かれていた2重の現実のハッピーな方は実は死後の世界だった、というオチだったのだ。
つまり、主人公達は皆死んでしまい、その魂達がハッピーな世界で何事もなく暮らしていて、次第にかつての(生前の)係累を思い出していく過程を描いていたのが一方の世界だったのだ。
 
これはずるい!
物語の収拾つかなくなった時、「はっ!なんだ夢だったのかぁ。」と安直に終わらせてしまう類の禁じ手である。
主人公が自分が死んだことを知らずにいる(そして視聴者も知らない)という設定は「シックス・センス」や「ツゴイネルワイゼン」(鈴木清純)の例がある。
しかし、全員が死後の世界で再会し幸福になるというのは、バカバカしいと思う以外にない。
それでも、シナリオ作者達がどうしょうもなく錯綜してしまったストーリーを前に「もうどうしょうもないなぁ」と
言っているようで同情はできるのだが。
それに、主人公達にとっては現実の方が「悪夢」だったという伏線は以前から張ってあったことだし。
 
死後の世界は、当然だが主人公達は死んだときの年齢で始まる。そしておそらく歳はとらない。
時間の観念はもうないからである。
 
このラストを見て、私が千夜一夜物語風に毎晩ヨメを寝かすのに語っているヨタ話のひとつを思い出した。
 
死後の祭 hemiq 2006

死後の世界にやって来た。

当然私はもうヨレヨレの老人だ。
周囲の殆どが高齢の圧倒的な老人の世界である。
緩慢にしか動けないし、口もよくまわらない。
しかたがない。アチラでは長生きしてきたんだから。
 
・・・と思っていると、突然輝くばかりの若者が駆け足でやってくる。
どうしょうもない老人の世界の中で、この若者だけは光りにつつまれているような圧倒的な
若さのエネルギーを発散している。

 
どういうことだ?
ここは死後の世界なのに、なんでこんな若者がいるんだ?
 
「え?ああ。ぼくは17歳の時失恋しちゃって自殺したんですよ!おかげでコチラではずっと若者のまま。
ま、結果論だけど、今では他人より早くコチラに来て良かったと思ってますよ。ははは。
おっと失礼!」
 
おい!こんな理不尽なハナシってあるか!
オレはこの先、一生、というか永遠にしょぼくれた老人のママなのに、アイツは永遠の青春だって?
ああ、しまったぁ。文字通り一生の不覚だった。
 
私もあの時、勇気を出して死んでたら良かった!クソ。
---<>---
 
長生きするのって本当にいいの?という皮肉が詰っていてなかなかの作だが、この世界で早死にしたり、事故死したり、殺されたりした不幸な方ほどアチラでは報われる風でもあるので、そういう意味でも大きな救いを与えてくれるアイデアだと自賛したくなる。
 
こういうハナシをマクラに、次回から、お得な(今風の誤用では「エコな」というらしい)「終り方」を考えていこうと思う。
 
※総タイトルの「死ぬにはもってこいの日」はアメリカ・インディアンが戦いに出る時にいうセリフとのことである。私はイタく気に入り、すでに何回が使用している。
いよいよ今回は総タイトルとして大々的に盗用させていただく。

*ジム・ハリスン「死ぬには、もってこいの日。」大嶋双恵訳 柏艫舎 2002

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