死後の祭「死ぬにはもっ (3) アンチ・クライマック...
[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

   「死ぬにはもってこいの日」
(2)  Killing me softly

2010/11/26
(2)
残念ながら私はついに得心のいく信仰を得られないまま今日まで来てしまった。
だから死後の世界を見ることはないだろう。また、そんなものは見たくもない。
私にとって死とは単純に自分が元の「無」に帰ることでしかない。
しかし、これ↑は「虚無」ではない。
そんな「存在と無」的な、ヘンに哲学的・あるいは感情的に重苦しいものではないのだ。
無色透明、単純明快であっけらかんとした、ただの・なんにもない「無」。
猥雑で喧騒に満ち不安定なこの世からすれば、実に清潔で安らげるイメージである。
ひょっとするとこの静謐を「涅槃」と呼ぶのかもしれない。
さすがに「天国」というようなにぎやかなイメージではないのだが。
(↑これはおそらく「ナントカ天国」というような、常套句からくるイメージだろう(^^;)
 
今まで2回全身麻酔を施術されたことがある。
これは実に楽しい経験だった。
点滴されているうちにするりと意識が落ちてしまい、次の瞬間「hemiさん、hemiさん!」と
呼ぶ声が耳に入ってくる。
そして全身麻酔での手術を自分が通過した事にゆるゆると意識が戻り始める。
 
麻酔施術は睡眠とは全く別のものだ。夢を見る事もないし、一切の記憶が欠落している。
私の生物としての時間がそこだけ切り取られて欠落し、完全な空白になっている。
いや、空白ですら無かった。
だから何も無かったのだ。
つまり、「死」とはそういうことだ。
 
「死」が忌み嫌われているのは、ひとつには死に至る過程が苦痛にみちた悲惨なものであることが
多いということもある。
病・老・苦・死。 事故・自殺・殺人・餓死。
しかし、それは「死」ではなく、生の方の苦しみである。
つまり死にとっては「ぬれぎぬ」というもんだ。
生きていることの苦痛が耐えがたくなった時、最後の万能の解として死が用意されている。
人間には逃れられない苦痛なんてない。
 
私の全身麻酔経験は「死」と「苦痛」が全く別のものであることを再認識させてくれた。
あんな「楽な」、もっと言えば「楽しい」死があったんだ。
私はもちろんアホくさい延命処置なんてされたくないし、病院で植物状態になって、それでも生かされて
しまっている方を目にするたびに常に暗澹とした気分になる。
「生命の尊重」ということをはき違えている。死が含まれていない生はない。
どうして医療は生の最後の段階の邪魔ばかりするのか?
患者は医者の自己満足の道具にすぎないのか!(←もちろん、これは言いすぎなのはわかってマスが。)
 
しかし、全身麻酔の経験は医療への信頼をとり戻させてくれた。
医療よ、アンタ、実はやれば出来るんじゃん(^^)
全身麻酔効いているウチに、サッサとやってくれれば、もう完璧。
こんな楽な死に方はない。 ワクワクですねぇ(^^/
 
シジフォスは人間に火を与えた罪によって、神から罰せられる。
絶対に終わることのない苦役が延々と永久に繰り返されるのだ。
ええと、これはプロメテウスの方だったか・・ウロ覚えなんで二つのハナシがごっちゃになってるんだが:
山の上に大石を運びあげ、やっと一日の苦役が終わるのだが、翌日にはまた大石が山の麓に還っている。
毎日大鷲に胸の肉を裂かれ死んでしまうのだが、翌日には生き返り、また大鷲に胸をついばまれる。
・・まあ、どちらでもいいが、サラリーマン時代には私はシジフォスの神話をよく思い出していた。
死ぬことができないというのは、苦痛から逃れる術がないということだ。
 
まあ、私にとって生きてることはそんなに楽な仕事ではなかった。
自分で60歳まで生きるとは全く予想してなかった。
だから、60歳になった時は嬉しかった。
でも、「生きてて良かった」というマジメなヤツではない。
これでもう会社に行かなくてもいいんだ、ざまあみろ、というヤツ。
 
現実にも日本で年間3万人は生きる苦痛を逃れるために自発的に死んでいる。
どっちもイヤだけど、死ぬほうがまだマシ。そのような現実もある。
 
別に現実はそんなに苦しいことでもないのだが、まあ、なんていうか、「死ぬのも楽しみですね」、
なんて言ってた先生も中にはいる。丸山圭三郎さん(フランス語の先生なんで)なんかとか。
 
ま、とにかく、私は今ではとっくに自分を見切った身で、これ以上がんばっても何も出てこないと
分かっている。
だから別にがんばる必要もなく、無理に生きることも、無理に死ぬこともない。
あの全身麻酔施術中に事故的に私が死んでいたとしても、私自身は「あ、そうなん?」くらいの
感慨しか抱かない。
もちろん、実際に死んだら何の感慨を抱くこともない。
つまり、生きようと死のうと私は別にもうどうでもいい。
 
ただ無理に生かされることへの嫌悪感が、実際の恐怖としてどす黒いカタチに固まっている。
だから、こうしてムダで無意味な延命治療だけはヤメてくれ・・と事前に表明しているワケだ。
実際問題として日本では尊厳死を法的には認めていないので、憧れの全身麻酔でコロリ
とはやってくれないというつらい事実がある。
 
それでは、そういう積極的に「死」を苦痛の最終解として積極的に活用していこうという方に、
私がとっておきの代案を教えましょう。ただし、肉体的苦痛限定。
 
身体を鍛えましょう。
水泳やランニングがいい。
死ぬにも体力が要る・・ということもあるけど。
 
息継ぎが円滑にできず呼吸困難になったり、外反母趾で足が痛いのに、それで止まらず走り続けると
ある地点からだんだんと苦しさや痛みが減速してくるポイントがある。
エンドルフィン(快楽物質)が脳内に分泌されてそれ以上の苦痛を感じるのを止めてくれる、
ということになっている。ランナーズ・ハイと言うやつですね。
 
このエンドルフィンを分泌するのは多少のコツが必要で、日頃そんなちょいと苦し目の運動を
しておかないと、分泌メカニズムが発達しない。
 
苦痛が大きければ、ちゃんとそのような自己救済システムが働くようになっているのだ。
そして、何回もいうように、それでも耐え難い苦痛というものがあれば、このとき
究極のセキュリティ・システム(^^)としての「死」が完備されていることを思いだそう。
 
こういう生の自己完結性を阻害しているのが現代の医療の現場である。

blog upload: 2010/11/26(金) 午前 3:06
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