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[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活] |
「死ぬにはもってこいの日」 |
2010/12/24 |
(6)
「団塊の世代」である我々が老化し、早い方ならボツボツと死亡適齢期に差し掛かってくる。
大量の老人が末期医療を経て死亡し、今度は熾烈な墓地確保争奪戦でも始めるかということになる。
私には同僚諸氏の競争社会からは早々と「受験戦争」時代ですでに敗退、脱落してしまった苦い過去がある。
だから最後の死亡競争では先手を打って修練を積み、晴れがましくも一番の栄誉を勝ち取りたいと企んでいるわけだ。
で、手始めに末期医療の実際を義父の実例で記録していこうと思っていたのだが、本人は私には非協力的で勝手に急逝してしまった。
葬儀後も遺品整理や各種届け出・申請書類作成手配等の事務処理が山積し、もう末期医療の諸問題に立ち入るスキがなくなってしまった。
雑誌「WEDGE」の11月号で自分のコトとしての末期医療への態度表明カードの例が出ていたので、参考にコピーさせていただいて、末期医療問題のトピックは終了することにする。
---無断引用-----WEDGE November 2010より-------
「元気なうちから家族と考えておきたい具体的な事柄」 ◯終末期の療養の場について
[自宅/◯◯◯病院/◯◯◯老人ホーム]を希望する。 ◯終末期になったときに受けたい医療
・心臓マッサージなどの心肺蘇生は[して欲しい/して欲しくない。] ・延命のための人工呼吸器は[つけて欲しい/つけて欲しくない] ・胃瘻や鼻チューブによる栄養補給は[して欲しい/して欲しくない] ◯食事を口から摂れなくなったとき
・胃瘻や鼻チューブによる栄養補給は[して欲しい/して欲しくない] ◯痛みや苦痛を取る緩和治療
・消炎鎮痛剤、麻薬、鎮静剤は[積極的に使用して欲しい/使用を控えて欲しい] ・緩和治療が不十分で効果がない場合は[鎮静剤の投与で意識を失わせて欲しい。このために死期が早まったとしても止むをえない/意識を保ちたいので我慢する] ◯延命治療の中止を望む場合
・余命[一ヶ月/2ヶ月/3ヶ月/4ヶ月/5ヶ月/6ヶ月]以下と診断された場合は、すべての積極的治療、延命治療を拒否する。 ・いわゆる植物状態が[一ヶ月以上/三ヶ月以上/六ヶ月以上]続いた場合は、人工呼吸器や栄養チューブなどを外し、自然経過に任せる。 ◯認知症等になり、自分で希望する医療が判断できなくなったとき、その直前の意識清明なときに指示した内容に「従って欲しい/従わず、代理人と相談して欲しい]。
・自分で希望する医療が判別できなくなったとき、主治医が相談すべき人を[◯◯◯氏に指定する/指定しない」。 --------引用終了----
しかし、最後の項目にも暗示されているように、せっかく意識のクリアなときに、しっかりと態度表明してもいざ実際に死がすぐ目の前に来れば動揺し「助けてくれぇ!」と泣き叫ぶだけなのかもしれない。
病も末期になれば意識のコントロールがボケてきて、ただの子供になりさがり本能的な暗闇への恐怖心だけになっていることだろう。
義父の場合でいうと、緊急入院し、酸素吸入・点滴で生かされてから数日で言語を発することができなくなった。
本人の意思は確認できず、単純に顔面の異物をイヤがっている整理的反応ばかりが外界へのメッセージのすべてになる。
それに、瀕死の患者に死を前提とした問いを発するのは一般的にタブーである。
「大丈夫ですよ、すぐ良くなりますよ」とかの方向で統一しないとイカンらしいのだ。
本人が「もういいから楽にさせてくれ!」と思っていても、周囲はそのような態度を患者が取ることを絶対許さない。「がんばって生きていてください!」と一蹴されるのがオチである。 救急車で運ばれた時点でもう自分がどう思っていようが、自分の身体は自分のものでなくなり、家族や医者の意向に従う以外にないと覚悟すべきである。 イヤなら救急車に乗せられる前に自分で決着をつけてしまう他ないのだが、実はこれも傲慢な態度と言わねばならない。
大体働けなくなり、エサも自分で摂取できなくなった時点で社会的存在としての人間は死んでしまっている。
家族や介護サービス、健康保険システム等に全面的に支えられて生かされてきているのである。
さんざんぱら周囲に支えてもらって生きてきたのに、最後だけ自分の意思を尊重せよ、周囲の意向は無視、なんて都合の良いことを考えるのは実に自分本位な態度だと思う。甘いよ。
寝たきりになった時には、自分の身体を自分でコントロールすることが出来ず、既に自分の身体の所有権は家族・周囲に移っていると考えるべきなのである。
生かすも殺すもすべてスポンサーの意思。
私なら詮のない自己主張なんぞいたしません。あんたの気の済むようにどうぞ、かな。
当初は延命目的の治療はしないと表明していたのに、義父が瀕死の急病で病院のベッドに縛り付けられ、それでも何とか自分の意思を表明していたとき、やはりヨメは延命治療を拒むことはできなかった。
延命措置不要と確認したはずの医者も、やはりそのような患者には当然のように治療を施す。
おそらく医師が密かに治療を打ち切ろうと考えるのは、患者のコミュニケーション能力が無くなったときだろうと考えられる。
多分話しかけても応えることのない患者に対して、もう人間として生きていることにはならない、と周囲の家族も納得するだろう。
生物的には生きていて生理代謝を行っているにしても。
義父が意外とあっけなく逝去し、私はとにもかくにも「人生を全うしはった」この人のために、密かに「寿いだ」と前回書いた。
しかし、実の娘であるヨメは「せめてもう一年生きていて欲しかった」と言ってよく涙ぐんでいるのである。 残されたもののどうしょうもない欠落感、らしい。 義父の存在感は死去した今もヨメの周囲を漂っている。 義父の気配は霊的存在としてまだ生きているのだ。 おそらくその辺が四十九日の感情的根拠になっているのかもしれない。
人は先ず社会的存在として死に、人間として死に、生物として死に、
最後に霊的存在としてゆるやかに、そして確実に死んでいくのだろう。
blog upload: 2010/12/24(金) 午前 1:56
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