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[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

      「死ぬにはもってこいの日」
(7) 死のデジタル配信

2010/12/24
(7)
11月末でエコポイントが半減するとせっつかれ、お宅のテレビは古い!と毎日画面の下でちらちらされ、元から小さいテレビ画面が最近ことさら上下をカットされてますます小さく放送され、さすがにキレた。
怒り心頭に発し、ジョーシンで40インチ液晶テレビを買っちゃった(^^)/
ちなみに、エコポイントは40インチTVからは下のクラスより還元率が2倍にアップするのである。
 
でもまあ、さすがにフル・ハイビジョンの大画面の臨場感はウチの小狭いリビングで圧倒的な存在感を示す。
チャネルもやたら多い。
ウチは集合住宅で勝手にアンテナ入力からアナログ・地デジ・BS・CS(KCN)が入って来ているのだ。
そのほか以前から、LAN回線でオンデマンドTVの配信を契約している。
それにクラス最安値だったソニーのブラビアではインターネットにも対応し、なんとネットブラウジングも出来てしまう。
流石にテレビのリモコンでは操作性が悪く、対応しているWEB上の画像・音源形式も少ないので、わざわざTVでインターネットアクセスする必要はないのだが。
 
インターネットで配信されるTV向け有料サービスの中にベルリンフィルの2008年度からの全ての定演のハイビジョン・アーカイブがあり、ハイライトなら無料で見て回れる。(www.digitalconsert.com)

なんという贅沢だろうか。
ハイビジョンによる生々しいコンサートの臨場感。
ここしばらくコンサートには足が遠のいているが、何とベルリンフィルがウチのリビングまで演奏しに来てくれているのである。
恍惚となってしまうような至福の40インチフルハイビジョン。
それに日本の演奏会とは違い、比較的現代曲も多くとりあげられ、新鮮な音響が久しぶりにコンサートの興奮を思い出させてくれた。
 
義父の遺品に大量のCDのコレクションがある。
ヨメに促されて形見わけを頂こうと物色したのだが、見事に世界名曲集の類ばかりだった。
バッハ・ベートーベン・ブラームス・・等、わずか10人足らずの作曲家のポピュラーな「名曲」ばかりよくもまあ。
当然、重複もかなりある。わざわざCD買うんだからTV・ラジオで聞けない曲を、と私は思う。
ひと頃にはナクソスのカタログで未知の作曲家や曲を探して発注するのが楽しみだった。
しかし、この人は正反対だったようだ。
ひたすらラジオで聞いた曲を見つけては買っていたのだろう。
「三大交響曲」だの、ピアノ名曲集「エリーゼのために」だの。
たった一つだけ私が聞いた記憶のない曲があった。フォーレのノクターン全集。
しかし、2枚組みの中身の一つは別のCDだった。
この人はこのような通俗名曲集を100万円のスピーカーで聞いて楽しんでいたのだ。
私にすれば高校生の時にはすでにこの類の名曲は聞き飽き、あるいは一端の通ぶって、最初に心斎橋ヤマハで買い求めたCDは、じゃないや、LPはカラヤン+ベルリンフィルのシェーンベルグ、ベルグ、ウェーベルンのオーケストラ曲集だった。
 
でも、通俗名曲集ばかりだったとはいえ、たしかにこの人は晩年までCDを楽しんで聞いていたのは確かだ。
私が使っていたヘッドフォーンを父の散歩用にとヨメに盗られたこともある。
多分、音楽そのものというより、クラシックの名曲から聞こえてくるヨーロッパの香りというか、
気分というものが好ましかったのではないだろうか?
また、そのような演歌ではない、ちょいとハイカラな趣味を持っているという自己満足的自己主張も。
 
ヨメではないが、ハイビジョンのベルリンフィル定期演奏会を見ていると、切に義父にこのコンサートを見せてやりたかったと思う。どんなに驚嘆しただろうか。
 
義父の音楽のコレクションは他人には何の意味もない。
クラシック音楽に目覚めたばかりの高校生ならばあるいは喜ぶのかも知れない。
しかし、もうCDで音楽を聴く時代ではない。
音楽はネットで配信されてくるものだ。
大量のCDは単なる処理に困る不燃ゴミに過ぎない。
 
私はiPhoneを導入し、iPodで音楽が配信され、実際にCDの「中身の」音楽だけを購入するシステムを知り、自分が買い集めたCDの処理の回答を得た。
CDを一枚ずつiTune、もしくはWindows Media Playerに読ませ、ハードディスクに落としていく。
そしてコピーしたCDは廃棄していけばいいのだ。
 
実際にも私の手書き日記は少しずつスキャナーでpdf化していっている。
最近では買った本を即分解し、高速スキャナーで読み取って電子化するという蔵書法を実践する人もいるらしい。
昔、朔太郎だか犀星だかが本屋で書物を買うと、その場で表紙・裏表紙を破り捨て、中身だけ懐に入れて帰るのが常だったいうハナシを思い出した。
本を買って即ばらばらに分解し、スキャンして読むというのは、もっとドラスティックなことだ。
結局印刷物は電子出版に置き換えられていくのだろう。
本などというかさばる媒体は一部の金持ちだけが趣味的に購入するレア・アイテムとなっていくのか。
まあ、私の世代では本に対する愛着があり、電子書籍にはちょいと抵抗を感じるところもあるのだが。
 
物理的な痕跡は努めて残さないようにすべきだ。
義父は逝去しても物理的な痕跡がまだ生々しく残っているので、去りきれない思いが霊魂になって漂うのだ。
 
私は霊魂化はせず、電子化してハードディスクの中でとりあえず、しばらくは暮らすつもりだ。
 
以前、podcast(iPodのデジタル配信番組)のiTune U (大学提供番組)について、日本では慶応大学だけ、と書いてしまったが、もちろん他の大学の配信もある。
中でも東京大学の「学術俯瞰講座・死すべきものとしての人間」が内容・量とも群を抜いている。
 
このテーマで社会学部や文学部の教師達がそれぞれの専門分野における「死」の捉え方を連続講義している非常に興味深い講座で、もちろん無料。まあ、私がこんなところで「死」についてグダグダ書いているよりよほど系統的で、よりアカデミックなのは保証する。

それになんたってクサっても(←単なる常套句)東京大学の講座である。
アソコの大学の教授達というのは、どんな講義をしているのか覘いてみたいとは思いませんか?
自分の小汚いリビングでベルリン・フィルの定演や東大の講座に実際に参加しているような体験ができる時代。
私だって自分のデジタル分身を現にこのようにネット配信しているのである。
私の本体だけ完全にデジタルコピーしておけば、実体は次のナマゴミの日にポイ捨てしてしまえばいい。
それに2テラバイトのハードディスクでも狭苦しいと思えば、勝手にネットに漂い出て、世界中のデジタル環境に出没して悪さしまくる、という究極の自己顕示も可能になる。
 
ネットに漂い出た私のデジタル人格は、四十九日くらいでは絶対駆除されてやるもんか。
 

blog upload: 2010/12/24(金) 午前 4:25
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