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[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

      「死ぬにはもってこいの日」
(8) 日本語で死ぬと、英語で死ぬよりしんどい。

2010/12/28
(8)
「木はこうして第二の人生を始めるのです。」(HNKのドキュメント番組より)
え?「木」なんだから「第二の木生(もくせい?)」でないの?
そんな用法はないな。「第二の生」とすると生物的に再生するようで主旨とちがうか。
気がついたのだが、日本語には”Second life"というときのLifeのようなニュートラルなコトバがない。
"Student life"を「学生人生」とやると大げさ。
"Second life"は「第二の生活」ではないわな。
まあ、使用言語は深く自分の人生観にも深い影響を与えていることだろう。
ちなみに「人生観」ってどう訳してるの?
英語で言えば単にVisionとかThoughtなのでは?
とすると「人生観」という日本語はいかにも大げさだ。
 
ThanatologyもしくはDeath Stadiesは「死学」という意味のハズだが、日本語では「死生学」と「生」をくっつけて訳している。
これは東大の学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間」(2009)で島薗進氏がそのように言っている。←大げさ(^^;
「人生観」という語感が「死観」ではなく、「死生観」という響きを呼び出すこともある。
しかし、これは多分「死」だけをカンバンに掲げることへの忌みがあるのだと私は考える。
日本では「死」というコトバも、英語Lifeの例で挙げたようなニュートラルな現象ではないのだ。
もろもろの感情を既に含んでしまっている妙に重いコトバになっている。
日本語で「死」を考えようとすると、どうしても歴史的文化的な陰を引きずってきてしまって、純粋論理処理をするのが困難になる。学問としてとにかく扱いにくい。
よって私は以降英語で書く以外にない。←もちろんウソですからね(^^)
 
義父の死去につきあって、実際の葬儀その他一式を第三者的に経験した。
自分の両親の葬儀では故人の生の諸相がその死から跳ね返ってくる。
死そのものだけを観察することはできなかった。
今回は他人の葬儀なので、客観的なオブザーバーであり得、自分の番のための予行演習としての勉強もさせて頂きましたよ(^^)/ 
↑まあ、こんなマークをつけるのは、なるたけ「死」の語感に付随してくるもろもろの澱のような付加感情を薄めようとしているのだ。
 
私はこういう澱のような共同幻想にウトく、いわゆる場の空気を読めないので社会参加が困難なヒトである。
大阪市営北火葬場で義父のお骨を拾う時、箸を渡されたのでつい鍋物とカン違いし、「タレはどこに?」と発言してまたひとつ顰蹙を買ったりした。
しかし箸で骨拾いするのは何だか滑稽な気がする。
私は箸の持ち方下手で、うまく扱えない。
現代では箸を使えない人もいるだろう。ピンセットのような道具にすべきだ。
 
お骨を拾って49日まで家で祀り、その後は墓に、というようなことは古くから行ってきた習慣のように錯覚するが、そんなことはない。火葬は明治政府が政策として始めたもので、つい最近まで土葬も多かったのだ。(←葬儀社「花長」松本氏談)
たかだかこの100年くらいに出来上がった慣習だね。
 
欧米では土葬なので、故人の骨を持っているようなマネはできない。
私は子供の時に、墓に埋められてから意識を取り戻すというハナシをどこかで読んで非常な恐怖にみまわれた。
身動きできない真っ暗な棺おけに詰められ、覚醒しちゃったら、もうどうしょうもない。
のたうちまわって「まだ生きている」のを呪う以外にないのである。
ああ、恐ろしい。
そんな目に会う恐れがあるなら絶対火葬の方がいいよなぁ。
まだ意識が残っていようと、中途半端に自分の死体という棺に閉じ込められて苦しむよりは、都島区の近代的な北火葬場で超高温で瞬時に焼却して頂いてサッと決着つけていただく方が余ほど気分がいい、というものだ。

実際にも焼却場のオートメーション式近代的工場風清潔さに感銘をうけ、私もここで焼いてもらえるか訊ねた。通常一回1万円だが、大阪市民以外だとかなりふんだくられるということだ。残念なり。
焼却後、その流れで初七日(←かなりいい加減だな^^)も済ませ、家に帰る時に葬儀社が「清めの塩」を渡してくれる。
この「清める」という習慣は仏教とは何の関係もない。
神道のハナシだ。(←「花長」談)
まあ、死にまつわる「忌み」や「不浄」というような日本的感覚も根拠はかなり恣意的なもんだね。
私はその辺の感覚はもちろんないのだが、そこはそれ、尊重しているフリでもしてないと社会から排除されてしまうのである。
常にそういうことを仕切り、作法に外れる者がいるとしたり顔で非難を浴びせるヤツが何処にでもいる。
ああ、イヤだなぁ。
 
で、普段はお寺に参る(詣でるは神社か)こともなく、何らの宗教的バックボーンもない義母が、ここからは仕切りだすのである(^^);
お寺呼べとか、49日は当然やらんといかんとか。
義父も「アカハタ」の販売員をしていたくらいの信心のなさだったが、何故か墓は要るなんだとか言ってたらしい。
結局、49日はおろかフタ七日、ミ七日というようにフルコースを発注することになった。
この人には仏教でも神道でも何でもいいのだ。
ただ「死」には絶対的に読経と線香がセットでくっついていて不可分、この定食を注文しないと親不孝という糾弾の矢が飛んでくる。
 
ここでも葬儀屋が49日までの各法要に使用するお布施袋を用意してくれて、作法にまったく疎い者には便利この上ない。
お布施袋は不幸用の黄色の水引が印刷されているのだが、葬儀屋「花長」氏はここで注釈を付け加えてくれる。
「いくら忌中でも、仏像を買ったり、お墓に入れるときは「祝いごと」なので、祝い事用の水引にしてください」、と。
ははあ。
忌中であっても不幸だけがあるのではく、仏になるとか、永遠の休息(西欧的表現か)に入るとかは祝うべきことなんだ。
だから私が義父の死を個人的に「寿い」でも何ら差し支えは無いのだ。
 
12月に義父が他界したのだが、偶然毎年賀状をいただく知人からも「喪中につき賀状を欠礼します」とのハガキをいただいた。
おっと、そういう配慮もしないといかんのだったな。
 
ま、しかし、多分賀状の欠礼も宗教的にはあまり根拠のない習慣だろう。
正月を祝うのと死者を悼むのとは別のことだ。
私はお悔やみを述べ、同時に正月を祝っても何ら差し障りがないと思う。
死者が出た家族にマナーとして配慮すれはいいので、機械的に賀状を欠礼しなければならないということではないだろう。
むしろ、死者の家族から賀状が来ると「正月早々縁起が悪い」なんてしたり顔で言いふらすような心が疎ましい。
 
「死」について考えると、無意識に引きずっている意味のない膨大なconotationの澱に圧倒されてしまう。

blog upload: 2010/12/28(火) 午後 9:25
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