(9) 死んだもの勝ち そこまでしてはいかんのではな
[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

      「死ぬにはもってこいの日」
(10)  死滅する国家

2011/01/28
(10)
昨年より私はこのコラムを展開し、独自に「良く死ぬ」とはどういうことかという視点を提起してきた。
ところが、最近私のコラムに大きく影響され、同様の主旨の出版物が図書館・書店で多数目に付くようになった。
「どうしたらうまく死ねるのか」を考えることがある種のブームにまでなってきたようだ。
 
その中で「文芸春秋 spesial」季刊冬号を紹介する。
「この国で死ぬということ」という総タイトルで各論者が末期医療や死、あるいは死後の事務処理の問題にいたるまでさまざまな視点を提供しくれている。
もちろん、概ね内容自体はすでに私のコラムで論じたもののパクリが殆どだが、わずかに新しい視点もなくもない。ちょいとさわりを紹介しておくので気になったら書店で千円出して欲しい。
 
○「さて、どうやって死ぬか、それが問題だ」
 (上野千鶴子サンの巻頭エッセイのタイトル)
脳梗塞などで、後遺症外を持って生きるのはどうか。そんな高齢男性のひとりが、「あのとき、家族が救急車を呼ばずにいてくれたら・・・」と何度思ったか、というのを聞いた事がある。(・・・)障害者を持って生きることにどんなに抵抗感が強いかがわかる。
 (同エッセイ)
 
○ゆえに我々は死を活用できる。例えば、仏教体系は「死のイメージトレーニング」の技法を数多く有している。  (釈徹宗)
 
○小学生が八月二十日くらいに、もうじき夏休みも終わりだね、と言われた時のいやな感じに似ている。
 (清水義範)
 
○けれど、人生のゴールである自分がふっと消えてしまうこの世界の出口の方から眺めてみると、残された行程の中で、自分がどうしたいのかが見えてくる。
 (久田恵)
 
○終末期についての意思を残す事は、いわば家族への愛情の証である。
 (渡辺敏恵(内科医))
 
○それでも、楽な死に方を迎えたかったら、多少早くなるかもしれないが、病院に近寄らないことが賢明だろう。あるいは、逆説的な言い方になるが、医療をしない病院をさがすか。
 久坂部羊(医師、作家)
 
○老いの渦中、意外に多くの人が死を希望する。生きて下さいよと説得することはない。
 徳永進(医師)
 
○動物実験では心停止後脳内にエンドルフィン、エンケファリン(快感物質)が分泌されるとの報告があり、これは臨死体験の恍惚感と符合する。
 井形昭弘(日本尊厳死協会理事長)
 
○生前に遺品整理を申し込む人が増えている
 吉田太一(遺品整理サービスセンター社長)
 
○「死ぬまで働きどおしだったお爺ちゃん、あっちに行ったらゆっくりお休みください」等の忌辞について)
死後の世界は生前の苦労を補い、できなかったことも可能になり、送り出す側がなんとか安心できるよう描かれる。それはもはや、生き残った人々の欲望ではないか。(玄侑宗久)

 と言うわけで、そのような総括的な論集も手に入るようになったことで、私のこのコラムも少しは現代日本が直面しようとする死の問題への蒙を啓く役には立ったと自負し、そろそろ幕にしたい。
 
しかし、問題は個人のことではなくて国家の死のことである。

日本国も私達いわゆる「団塊の世代」とともに老熟し、死亡適齢期にさしかかっていると見る方がいい。
少なくとも、そのように見、考えることが非常に有意であると以前から私は主張してきたのだ。
しかし、この観点の天才的な独創性には未だ論壇が追いつけないでいる。
衆愚の国の常ではあるが、なんとも歯がゆいことだ。
 
ただ、「国家の死滅」と冠してしまえば、そんじょそこらのアナーキスト系過激派と混同されてしまう怖れがある。もっとおだやかに「国家の撤退」とでも言っておこうかな。
戦略論から言えば、侵攻があれば撤退もある。
そしてどの戦術家も攻めよりは撤退が至難であると異口同音に指摘しているのだ。
 
膨張し、増大した経済をコントロールし、健全な国家経済を運営することを目指すには暫時縮小していくことが最も安全で一般的な解であるはずだ。
しかし国家経済を縮小していこうという、家庭財政では当然な解を国家レベルで政策化しようとする為政者は誰もいない。
誰もが「一日でも長く生きたい」なんぞという個人的強欲を反映させた視点でしか国家経済を考えないから、縮小経済モデルを論じる為政者には票を投じないという理屈だろう。
まさに衆愚政治とはそういう状態をいうのである。
 
この縮小していく国家というモデルは私の独創なのだが、古今東西の為政者が「国家の死滅」をうまく指揮した例は皆無である。
国家は史的には突然破滅してしまうのだ。
 
景気刺激策と称し更なる赤字国債の発行することしかビジョンのない現行の民主党政権を引き合いに出すのも情けないことだ。
今、どうしょうもなく膨張し切った国家経済を円滑に縮小させつつ、めでたく国家の円満消滅にまで導く理論的指導者が現れれば世界史は史的弁証法以来の新たなファーズに入って行けるのだが。
 
もちろん、私が当然その使命を引き受けるべきなのだが、目下自分の死滅を考える方がはるかに楽しいので、別項を立てて論を展開する気にはなれない。
これは世界史的規模の損失といえ、すこぶる残念ではあるがいたし方ない。
 
国家?目の前の一杯のコーヒーにくらべりゃ、そんなもの何の意味もないわな。

 
死ぬにはもってこいの日 完 義父の四十九日明け記)

blog upload: 2011/1/28(金) 午前 1:54

(9) 死んだもの勝ち そこまでしてはいかんのではな