そこまでしてはいかんのではな 会社業務で死ぬ日 (夢)
[死ぬにはもってこいの日] [時爺放言] [団塊の段階的生活]

私は78歳で死ぬ! 今だから言える秘められた根拠

2012/03/18
ハハオヤを救急車で入院させたのだが、そんな大げさなことではなく、単なる寝違いでの首の痛みだったようだ。その週末には退院した。
単なる首の痛みといっても84歳ともなると身体の各部分が連動し、腰や背中も不如意となり、タクシーにも乗せられず、救急車のタンカのお世話にならざるを得ない。
救急車の中でこの人は「チチオヤも84で死んだ。ワガもそろそろかいな。」と言っていた。
 
視力障害もあり、もちろん歩行器がないと日常的には歩けない。
高齢になると多かれ少なかれ各種障害が現れ、日常生活が不自由になってしまう。しかし、呼べば救急車が来てくれるし、介護保険内でヘルパーさんが料理をしてくれる、養護施設のディサービスに行って入浴もできる。
もちろん、家族(ヨメ)が時々様子を見に行き、今回のような緊急時には会社を休んで対応している。
自力で生活が出来なければ死ぬ以外に無かった昔とは違い、周囲の支えのおかげで、緩慢に、ホンのわずかずつ歩行器の移動スピードで最後の道のりを歩んでいるという状況だ。
 
私はモロに団塊の世代で、あと10年もすればご同輩ウチそろい町中に歩行器老人がのろのろとうごめいている光景が見られるのだろう。しかし、例えばウチも支えてくれる子供はなく、ヨメが老婆になった時には公的支援だけしか頼れない。
 
今の老人が享受しているような介護サービスが将来とも可能なんだろうか?
現に年金の額はハハオヤより私の方が少なく、ヨメの代にはもっと少なくなるだろう。
やはり、自力で老後の生活を何とかするということが基本で、公的支援に頼ることを最初からアテにはできないようだ。
 
このような介護老人社会の到来が歴史的な人類の勝利と考えるのか、それとも、もうどうしようもない生命の退廃の形と見るのか、解釈はいろいろあろう。
まあ、生命の退廃と思う人はあまりいないとは思うのだが。
 
生産できなくなった老齢の個体は速やかに退場し、世代交代をしなければ、人間以外の生物であれば種の衰退を招く。
人間だけが到達した超高齢社会ではあるが、この偉大な歴史的達成は圧倒的な現役世代の生産力のおかげだった。
この構図は、しかし、20世紀で終わったと私は見ている。
いや、科学技術の発達によって無限に生産力は向上すると思っていた20世紀だって、実をいうと南北格差を利用した富の一方向への集積や、原発に象徴されるように未来の不利益を担保にした見掛けだけの繁栄だったのかもしれない。
人類の生産力は実は有限だった。そんなことは今更いうまでもない。
だからただのろのろと歩いているだけの歩行器老人が無限に増殖することはない。
多分、私の世代から平均寿命の伸びは止まり、ヨメの世代からは縮小していくハズである。
周囲が支えてくれる限り、のろのろと生きられるだけ生きるというのもアリだろうが、そうはうまく行かない時代がすぐ来るのである。
 
しかし、そんな経済論で自分の人生を測られてしまうのは片腹痛い。
私は自分の人生を終える年齢を決め、その地点に向かって素直に生きて生きたい。

素直に、というのは馬鹿げた延命措置や無理な健康生活オプセッションに捉われないで、という意味である。
今の私から見れば、84歳のハハオヤの精神・身体状況では、自分が生きている気がしないだろう。
いや、高齢になるにしたがって私も生命に執着しはじめるのかもしれんかな。
 
ま、いいや。
自分の行動も自由にならない生活なら、そんなモンいらんわい、と今は思うのだ。
これを男子の矜持と言わせてもらう。
 
男女差は確かにあって、ウチのヨメの辞書には「矜持」という単語はどこにも載ってない。
それはそれでいいのだ。
自分のことを自分で決めるだけで、あなたのことはあなたがきめればいい。
 
しかし、カレーライスを食うのにルーと飯をコネるのは止めて欲しいし、スーパーですし醤油・わさびの小袋を必要量以上に持ち帰ってくるのも私はイヤだ。
誰でもやってるし、大阪ではソレが普通だって?
まあ、ヨメはこのあたり私よりはるかに強靭な生活力を持っていて、逞しくもうらやましい。
 
男の矜持ってそのレベル? いや、まあ待ちなさい。
 
今回、介護の便を考え、ハハオヤにもっと上級の障害者のお免状を取らせる画策をヨメが行った。
しかし、医者がなかなかよい点数を点けてくれない、というので私の同席を求められた。
 
医師は無愛想だったが正論を言っていた。
「日常生活でどのような個別の困難があったとして、両眼の視力合計が測定すれば0・2以上もあって、市の認定基準には達していないので、等級を上げるわけにはいかない。」
おっしゃること、ごもっともと、私は退場しようとするのだが、ヨメは食い下がる。
 
「その値は、日常生活とは関係のない測定場で、しかも、適正な矯正眼鏡をいろいろ試して行った結果でしょう? 日常生活でどんな不自由をしているかを見ていない。周囲の者には実際に障害支援が必要なのは明らかですが。」
「え?お義母さん、メガネどうしてかけてないの?」と、私。
「かけると頭が痛いから、イヤと言ってる。」
「それって、単にハハオヤのわがままじゃん?」
 
まあ、医者に対して食い下がる根性は、立派な大阪のオバハンである。
矜持の話とはあまり関係はないかもしれないのだが、どうも「大阪のオバハン」というのは価値観が絶対的にユニラテラルで、医者の論拠、行政の根拠、夫の戸惑い、そんなものには全く影響されない。
ヨメがハハオヤに上位障害認定が必要と判断したのなら、医師・行政・夫はそれを実現する義務がある、と信じているようだ。
これは強烈な善意への信頼ともいえる。
医師・行政・夫はここに困っている人がいるのであれば、何をさておきこの救済を第一義とすべきである、と考えているはずだ。
私が「罪刑法定主義とは何か?」を連載し、懸命に法の下での正義とは何かを追求しているのに、ヨメはそんなもの(法・規定・赤字大阪市への遠慮)なんて自分の正義の感覚からは見事に消去し、無視し切っている気配。こういう人が身内にいると大変心強い。
 
でも、ヨメは本質的に狂信的なクレーマーではなく、ごく普通に善良な性格なのでそれ以上自己主張をごり押しすることはない。
「しかし、80越えた老人に今更メガネかけよ、といっても無理でしょう?」
「いや、矯正視力で0・2以下と規定があるんだから、そのくらいは我慢してもらわないと。」
「そかな・・・」とか、ぶつぶつ言うだけで・・
 
やはり、この社会の中で生きている限りは、いくら高齢でも、自分の意にそわなくとも、公のルールには最低限従わねばならない。社会的責任が果たせなければ、共同体からは早く消去したい個体と思われてしまう。
反対に公のルールであっても、自分個人の範囲だけに被害がとどまるものなら自己責任で処理してもいいだろう。
60歳以上で麻薬・買春・歩行者としての赤信号無視解禁とか。あ、やっぱり問題ある?
 
自分自身で生きられなくなった時に死ぬ。
生物としてのこの原則は未だに例外がない。
たとえ、食物を給餌してもらったとして、胃ろうで無理やり流し込んだとして、自分で消化できなければ死ぬのである。
 
自分の身が周囲や社会の過度の負担になっていると思えるのなら、私は退場したい。
その思いが私の矜持である。と思うだけで何らの強制力も規範も宣伝も福音も説かない。
すべて、自分で決めることだ。
 
自分の84歳を見るのは遠慮したい。
私はおそくとも78で退場すると決めているのだ。
これは当時の社会保険庁の年金相談所に行くと「何歳まで生きるつもりだい?」と決断をせまられ、「78くらいなら」と思っただけだ。
 
私は早めに引退したので、実は年金の繰上げ支給手続きをしたのである。
別に繰り上げ支給してもらう程困窮していたわけではなかったが、どのみちそんなに長くは生きる予定がなかったので、自分の掛け金は早めに回収しておくべきと考えたのだ。
その時、いろいろ計算していただいたが、78歳で通常支給者に生涯年金額を追い越されるモデルが一番トクなようだった。
つまり、78歳までに死ねばトク、それ以上生きればソンということになっている。
 
つまらん! それが男の矜持か!
へい、すんません。
 
このときは何気なく78という数字がでてきたのだが、しかし、言葉は発せられた瞬間、魔力を持つ。(ドン・フレーザー「金枝篇」)
事実上私は自分の運命を自分で決めたことに気がついたのである。
このときから私の人生は78で終わる、ということが既定事実のごとくになり、終には確信となっていった。
 
そして、生命からの自分の退場時期をあらかじめ決めたことで、精神的には大変すっきりした気分になったのである。
 
これで自分の84歳を見なくてすむ。
78までに終わるんだから、財産や家作をそれ以上だらだら残しておく必要もない。
(↑あくまでこれは言葉のアヤですので、そんなものありません。誤解なさらないように。)
 
なによりも、やりたいと思っていることはソレまでには片つけておく、という長期的な生活指針を立てることができる。昨年はドイツに短期留学するという予定の歳だったのである。
78までには身辺も周囲も全部きれいにきっちり片つけられる。
78というのは絶妙の設定ではないか、と思えもする。
それでも充分長いのだが、長すぎるということもないだろう。
 
ん、なかなかいいんでは? にんまり(^^/
 
 
        しかし、うまく78までで死んでなかったらどうするんだ?
 
        ・・・むむ、その時はえらいすんません(^^;
 
私の矜持とはその程度のもんかね。
大丈夫、その歳まで生きているということは私の矜持の根拠になっている自意識もなくなっているハズ。
糖尿病での意識の混濁、認知症やなんかで、もう自分が何言ったか、きれいさっぱり忘れてる予定です。

そんな歳までこの面妖な自意識を持っていたくはない。
さっさと最後の救い、老人惚けに逃げ込んでしまうことにする。
 
78までは自分で責任持ちますが、あとはゴメンね>ヨメ。
それからは本当の余生、できるだけ周囲の迷惑にならないよう、おとなしい死にかけのジジイをやってますので。
 
残り時間を自分で設定している、という意識があれば残りの時間生きやすいというハナシです。
個人差が大きいので、別に私の設定値、お気になさらずに。

そこまでしてはいかんのではな 会社業務で死ぬ日 (夢)