最近面白く読んでいる翻訳法廷推理物(リーガル・サスペンスというらしい)のはしりらしい。地方検事・地方判事というのは市長同様に選挙で争う政治職らしい。小説としてはなかなか最後のトリッキーなどでん返しまでよく読者を引っ張っていっている。なかなか。
第二次世界対戦についての分厚いインタビュー集。面白い記述もあったが途中で息が切れた。ドイツに侵攻したアメリカ兵が・なんて穏やかで美しい風景だ・と言っていた。日本は小さくて小汚くて醜い。
同じ敵でもヨーロッパ人と日本人では分類が違うのだ。
ニクソン時代の大物補佐菅であったらしい。国際謀略もの・実名小説。権力への憧れ。ああ・スパイになりたい。
ウオール街の投機銀行ソロモンブラザースの興亡記。軽妙な筆致。もう一つの現実としてのマネーゲームの世界。地震災害渦中に読んだのでふとこの騒ぎから金を引き出す方策を考えている。
遠藤周作・中村雄二郎等との対話集。「死」という現象にまつわる情報の収拾と論理的整理・分析・態度決定。固体としての死と集団・全体の生。例の臨死体験のいみするもの。阪神大震災の影響で「死」が近しいものになった。改めて生きる意味を考える。
トリノの聖骸布の歴史と科学的信剽性についての考察。イエスの像が刻印されたのはイエスの死体から強いエネルギーが放射されたからとの結論になったそうである。奇跡がキリスト教伝播の根本的吸引力であったと知る。昔常人にはない異常能力をもった人物がいて、世界観を語った。この人は数々の奇跡をおこしたのでこの人は創造主の代弁者と考えられた。あるいはそれが事実であってもよい。しかし作品は作者とは別に生き始める。作中人物の一人にすぎない一個人にとっては自分の内的世界が唯一の真実である。大災害によって瞬時に個人が崩壊するとして、その時全世界はなくなり・あとの世界がどのような秩序体系であろうと知ったことではない。ホーキンスの人間原理というところか。ひょっとしたら死後の霊的世界があるのかもしれない。そうだとしても向こう側の観測・情報収拾が不可能なのだからこちら側からすれば存在しないとする。「非存在」は情報がなにもないということであって、「本当に」存在するのかしないのかという絶対性の話しではない。本当にあってもなくともこちら側にはなんにも影響がないのである。人間としては自分に見えないものは存在しない。
確実なモノの描写・原子力発電所の内部・船の部品・コンピュータのファイルの中身がしっかりと安心して作り話に入り込ませる。何故かいつも主人公が混血であるのか釈然としないけど、まあいい。せりふもしっかり書けている。読ませるのは全体の重苦しいムード。女性が書く中年男の重苦しいムード。難波・あべの・十三の低い町並みのムード。いいなあ。
ユンク派精神分析医の語る華厳経の世界。明恵という高僧の夢記解題。著者によれば夢を見ることで現実の補完(compensation)とし、生が進むという。ああなるほど・ああそういうものか・ううむ。というなかなか面白い本であった。この人にも奇跡体験があり、ユンクの共時性(synchronity)という概念が説明するという。ま、精神的に高まれば宗教的啓示もやって来るらしい。なんか、重苦しい日常で何か一つ高みにのぼる夢にでもありつきたいもんだ。
当方も1970に夢日記をつけたことがあったな。忘れるにしてはなんか消しがたい余韻を残すそれでも消えた行った夢の数々。と、思って今日の夢を振り替えるとなんだかvisual Basicのプログラムのコードがでていたような。何て即物的な今日の夢。
ちょっとしんどい読書であった。なかなか科学とオカルトの境目で「境界」領域をしていらしゃる。ま、本来物語にのめりこむ人の理性的昇華型学問というところか。精神分析医。もちろんこんな方がメスをとって手術をするわけではない。文化・文明という中の個のなりたち。日本人の心理。ユンクのperfectionとcompletion. 「科学的」で割り切ってしまわない論理性。ま、問題提起だけで解答はない領域のはなし。
リーガルサスペンス。ゲイでエイズの弁護士が所属する事務所を差別で訴える話。ま、あんまり面白くなかったな。
英マークス&スペンサーの社長と結婚し、ladyとなった著者の社会比較記。ま、ヨーロッパ生活者の通常日本社会批判の域より出ず。文章もそんなに面白くない。
標準的スパイ娯楽小説。ただ、カリブ海にあそびに行くというideeがconcu.
著名なセロー氏による中国紀行。なかなかの中国通で漢字も読める。「紀行文とは旅行記の体裁を借りて自分自身を語ることだ」とちゃっかり文中に定義してある。旅行の記録・臨場感の再現は簡単なようで、読ませるのがむつかしいと思うけど、この本は読まされてしまったな。プロの作家とはこういう文をかけるのか。中国人の痰吐きについて記述すること数回。痰吐きで数ページ読ませるのは流石という以外にない。中国旅行というidee.
アメリカベトナム戦争時代の青春小説。素材取材は(日本人にしては)貴重なものだとは思うが、小説としてはなーんにも面白くない。ロバートレッドフォードのB級青春映画的。才能0。
分類する固定観念をひっくり返した功績は買う。「知的生産の方法」以来この手の本は実行マニュアルというよりも著者がいかに読者を驚かすかのテクニックが面白いのでよむ。ま、「知的生産の方法」で当方もB6版「京大式」カードを買ってしばらく遊んだクチなのであった。
よく書けた小説。56歳の主人公の性的高揚感の描写・家族関係の心理的深遠。リーガルサスペンスの枠ではない。どうしたらこういう風に文章を紡ぎだして行けるのか。作家というものは。
スーパーコンピュータの現状。立花氏の問題意識の出方は実に自然でさわやか。スーパーコンピューターを買った人が搬入されてから1週間は計算ばかりさせて暮らしたというような愉快なエピソード。パラレルコンピュータ・ニューロコンピュータ。パラレルの発想は当方も思い付いたことがある。あとは偶然ルーチン。コンピューターの中でネズミを飼うというイメージ。さて、パラレルコンピュータの話しを聞いていると、新しいアイデアがうまれた。パソコンネットにつながっている100万台の16ビット機をパラレルコンピュータの一素子として使うっていうのはどうだ。電話回線という途方もなく遅い回路だけど、もし同時にデータ取得・計算・転送をさせれば立派なパラレルスパーコンピュータになるのではないか。
中浜万次郎、dit ジョン万次郎の伝記。小説的脚色がどのくらいされているのかしかと定かではないが、あまりに通俗的に高名すぎてまゆつばものという風にうもれていたジョン万次郎さんの数奇な生涯。江戸末期の土佐の漁師の子供が遭難・漂流し、ピューリタン期・アメリカの船長に救われ、学校に行き、優秀な成績で卒業する。クロスカルチャー。幕臣の末席となった二本差が巻き舌の英語を喋るという光景。読み進むうちに上昇する物語の勢いから当方に湧いて来るいつもながらのアンチクライマックスというつぶやき。ま、日本の体制がアメリカの教育を受けたものに自由な振幅をあたえるはずもない・その程度のアンチクライマックスではあったけど。そういや、親族の吉村のおじさんもアメリカで青春の彷徨をして日本に自動車部品・『ライニングのやきつけ』というものを本邦にもたらしたヒトであったはず。吉村のおじさんか。あの人の逸話はただひとつ、アメリカを再訪し、ヒューストンにすむ旧知の女性と歓談したという話しだけだった。いつか発掘してみたい気もする。努力して成功する人の話しは・それはそれとして・おもしろい・なんて。
壁が出来る前夜のベルリンの諜報活動にすこし噛んだイギリス青年のイニシエーションの物語。あんまり面白くなかった。ただ事故で殺してしまった死体を切断してトランクに詰める描写は圧巻。最悪の作業の陰惨な色彩とそれでもなにやら日常的に疲れてしまう人間の心理というもののさもありなんという風な文章。
ヨーロッパ旅行のホテル・列車室のスケッチ。図でも写真でもない味のある線画。せめてこのくらいの作品を残さなきゃヨーロッパを回った投資にひきあわない→反省。
これが一番自伝的で脚色がすくないのではなかろうか。「燃え上がる緑の樹」では事実とフィクションの関り合いがなかなか創造力というものの本質をというか、小説というものの面白味をみせてくれたけど、こういう自伝もなかなか。結局作家とは自伝しか書いていないのかな。
高村薫の新調社ミステリー大賞授賞作。とにかく雑漠な細部の描写の物量が大阪風でいいな。調査と創作力。これでもかというような書き込みのエネルギー。
たった15年位の歴史しかないのに一大産業となったパソコン業界の興亡。IBM/APPLE/INTEL/NOVEL等々。して見ると当方もこの業界の成長期に生まれ合わせたということになる。ま・同時代のよしみでもうすこしこの業界につきあってやるか。
ああ、つまらん。サントリーミステリー大賞授賞作。何にもないぞ。我慢して最後まで一応目を通したが、だらだら文章がつづくばかりで・何にもおきない。
で、しかたなく読み始めたら、他愛もなく・感動・してしまった。
等身大の文章というか、自分が書いていることをよくわかっている。何を伝えたいのかよく伝わって来る平易な文。いい文章というべきか。
FEMME FATALE というものがあって、あらがいようもない魔力で白昼の生活を無意味にさせる。この世が仮のもので本当のイミは夜の底で圧倒的な力でもって沈んでいる。一度見てしまったら二度と戻れない。家族や仕事というもので連鎖した社会生活を一瞬にして空しくさせるSIRENNEの誘惑。・・・というのもこちとらが未だにそのFEMME FATALEの幻影から抜け出せず・ちゃんと・生きていないからか。村上春樹は・どうもね・なんてあんまり読みたい感じではなかったけど、面白いからしかたがない。
かなり分厚い¥5000。どういう素性の作者か知らねどもたいして面白くもない坊主の伝記をよくもまあ。文学青年めいた倒置のレトリックは青臭いけど、内容が内容だけにま、読みやすくはしている。もっとも斜め読みにちかかったが。最後までページを繰らせて頂いたけど、結局あまりのってこなかった。作者の何年かの没頭に思いを馳せて了。
戦闘的・挑発的なタイトルで有名な同い年上野千鶴子サンのエッセイ。遠くで見ているぶんにはやれやれ!と声援を送り、近くによって来ると逃げ出したくなるようなイメージであるけど、このエッセイはしごくまとも。ときおり交じる学生口調が身上か。
東ドイツの項からの引用。
「−わたしたちが望んだのは自由であって、資本主義ではありませんでした。
おい、資本主義。おまえが勝っただなんてうぬぼれるなよ。」
細かい学説紹介が多くてそんなには頭のボルテージは上がらなかった。とにかく印歐語のオリジン問題はゲルマン人主導で行われていてナチスの影がさしていた時代があったこと。最後の後書きにNiftyで2・3回話しをした「プロの学者」熊本裕氏の名が同学のとして挙げられていたこと。
岡本き堂「半七捕物帳」他のアンソロジー。このシリーズは読書案内風で面白くない。やっぱり大衆小説はどっぷりと粗悪な紙に浸りこまなきゃ面白くない。それにしても中里介山「大菩薩峠」いつ読むのだろうか?
中国の紙を主軸とした歴史・地理・文化エッセー。なかなか複雑で情報の少ない中央アジア史のうまい記述である。ま、そんなに熱中しなかったけど、遥かな時間と茫洋たる地理のイメージがすこし。
これは文句なく面白かった。
Last night, I ate a chickin in the backyard. 冠詞
The cranes were observed by binoculars. 前置詞
written on a typewriter, written with a pen.
by telephone, on word processor.
get in the car, get on the train.
University of Meiji →Meiji University
the pandas of Ueno Zoo
Ueno Zooo's pandas
Ueno Zoo pandas
What do you usually do on Sundays? ...
The Nobel Prize which I received last year was a great honor.
The Nobel Prize, which Ireceived last year, was a great honor.
受動態の多用。Especially,とははじめられない。
accordingly と consequently
とりわけ、日本人名を名・姓と書くことへの批判。
ウェイン・ジョン主役の「駅馬車」と同じ。
妙にシュールでエロチックなサラリーマンSF小説。
「若返り」をする老婆との性的交流が最後の消滅点にむかって収束する時の余韻。
これはいいぞ。
日本で8年間くらした韓国人女性の日本社会観察。最初の一編東京入管批判はさもありなんという風に納得。醜い日本人がいる。そうだ。それはたしかだ。
しかし、だんだんと怒りを共同するのが難しくなってきた。韓国人ならこうなのに日本人はこうだ。ということだけが批判の根拠となってしまって、まるで視点が広がらない。ヨーロッパ人だったらまた違った見方をするだろうにという部分もある。子供のしつけが特にいけない。著者の子供がうるさいと家主にねじ込んだ日本人は正しい。──子供のためにどうしてオトナが楽しみを奪われなければならないんだ─とのたまわった関西大学の某氏はえらい。
残念だけど、この人は本当の作家になってしまった。やっぱり村上龍氏よりクラスは上だったな。書くことがかくのごとく自在となれば本物の作家としかいいようはない。ああ、とうとう同世代の作家を認めてしまった。実にいやな気分。気分と生理と恐怖と楽しみと。生きたまま皮をはがれるノモンハン。夢精のやり切れないような糸を引く柔らかさ。くそ、いいたいことをうまくいいおって。くそ。
タイトルの割にはおもしろくない。ただの戦史データー集にちかい。もっと知ったかぶりのエピソードをいれんかい!
テレパシーで交信してくる女性に会いに行くサスペンスでとうとう最後まで引っ張って行ってしまった。卑怯な小説である。オチもなにもない。最後まで「?」で読者を突き放す。くそ!
自分本位な青春の回想と芥川・藪の中式思い出の混乱。純文学志向というか、全然他人にとっては面白くないナナシ。これがこの著者の作品の第一回目のlectureだったら以降もう読まなかったろう。なんで面白いお話しで売れたら純文学志向となってしまうのか。いいかげんにせんかい!
まだ全部読んでないけど、日本国家のしたことを例証していく事実の積み重なりにまったくaccableされてしまった。もちろんこれはすべて一方的な事実の見方であると、反論することは可能であろう。例証は主に伝聞・新聞記事・小説によっているゆえ。しかし、さもありなんと事実の保証をするのは、現在の日本人に接している当方のこの感覚だ。当方の感受性が真実である、と肯定するのだ。集団で残虐な日本人。深く考えることもなく、人の痛みに対する感受性もなく。彼らが善良であるのはただ善良であるように集団が要請している時だけなのだ。そして、集団に従う限り自分の善良を信じてうたがわない。しかし、これはいい。これは弱い人間としての当方にとっても同じことであろうから。明記しなければならないのは現在の日本人の権力に近い人々の中に、こういった過去の残虐を明確に隠蔽しょうとする者達がいること。社会正義・公正・「人間性」といった指標よりも「力」を優位におく人種がいる・ということである。これらは受け入れがたい。これらと当方は人間としての在り方を共有することはできない。従って双方にとって双方は明らかに敵なのだ。
醜い日本人。
家永三郎は南京大虐殺・アウシュビッツ・原爆投下を三大犯罪としているが、原爆投下は感受性のレベルではそんなに大きくはない。原爆を投下する人間は実際に苦しむ人間を目撃することはない。捕虜を遊び半分で銃剣で突き刺す人間の心は比較を越える。殺すのは同じでも苦しみを見る為に殺すのと、ただ殺戮が目的であるのとは大きく異なる何かの規範がある。この違いにこだわる。例えば当方は原爆の投下ボタンを押すことはできる。けれども他人の身体に金属を差し込むことはできない。自分の位置。
きわめて論理的に戦争という名のもとに行われた犯罪を分類してゆく明確な書物。
そして、法的責任はまぬがれても倫理的責任はある・といった記載に出来るだけ正確に物事を判断しようという態度がいいなあ。一般に政府は法的価値観だけですべての責任を一括するし、「一般国民」にいたっては被害者・加害者・善悪といったおおまかな一元的価値観だけが自分の根拠となっているというものであろう。エピソードとして不時着した米軍パイロットの虐殺を身をもってかばった一老人・戦後私費で中国にわたり、人々の前で土下座したもと軍人なんかがでてくる。いつでもこういった自分の判断で行動できる人はいる。ま、あまりにも人数が少ないのが・ね。誰だって自分の肉体・精神が危機に晒されるのは避けたい。心ならずも大勢に迎合しなければならない時がある。そればかり・とのきもするが。しかし自分は迎合しているんだ・との覚めた意識さえあれば致命的な罪を犯しはしないのではないか。迎合していることが自然な自発となってしまう人々があまりに多い。大いなる憤激の書・とまでは激高していない筆致ではあるが。
大いなる安らぎの書。結局は自我というものが生命全体の中の一現象であって他の生命との共生あるいは一体感を受け入れた時初めて生きていることの幸せが実感できる・風の書物。共生が得意でない当方には家永憤激の書の方が熱っぽかったのではあるが、さらりと読まされてしまった。本当に不幸な人生であるな・と思っているから・ま・主に他人との軋轢のストレスだけの毎日であるから・夢中で読んでしまったというところ。鯨・象・人間というのは成長時間スパンと脳の容量が同じであるらしい。人間だけが「知」のある部分を発達させ、前二者はまた別種の「知」を保持しているという。ま、人類の脳の容量が言語習得前と後でそんなに物理的に変わっている訳でもないのだから鯨や象の脳にはまた別種の情報がたっぷりとつまっていても不思議はないが。著者によればそれは自然との共生を行う知恵という。
性に関する2章があって性行為の意味を克明に書いている。文筆家でもないのになかなか御苦労サンな文章でありました。
おどろおどろしい夢野久作的舞台。「外人」との混血の子・近親相姦・連続殺人と死体。でもね。作者がのめりこめばのめり込むほど読んでいるほうはばからしい。正直にいって当方には近親相姦を犯したからといって自殺するというような罪の意識に囚われるという精神のしくみが理解出来ない。だいたい殺人者がどうしてそんなつまらないモラルに縛られなきゃならないんだろう。それともフツーのヒトにはそれほど衝撃的なタブー意識があるのだろうか。国木田独歩の「厭世論者」?だったかな?ま、その時代の小さな道徳的枠組みでしかないと思える。例のLevi Straussの近親相姦のタブーの存在は逆にかつては人類がごく普通にinsectisisumeで子孫を増やして行ったことを物語っている。タブーは優生保護法的な客観的規範・知のレベルの法規であって、情的な仮借を引き起こすとは考えられないのだ。うう・当方の感覚はかなりminorityであるか?
退職ANA機長のうらやましいお仕事の記。空を飛ぶという仕事。誰でも出来るという訳ではない・うらやましがらせるに足るお仕事で当人達もその特権的な見られ方を意識している風である。いや本当は狭いコックピットの中で暑苦しい権力ヒエラルキーの醜い人間関係が展開しているんであろうな・と勘繰るのはこちらのひがみか?コックピットからでしか見ることの出来ないジェット機同士のすれ違い・・か。あああ。出来ないことの方が多いと既に先が割れてしまった人生であることだよな。
これも職業物理学者の自伝。好奇心のおもむくまま気ままに生きたら学者という範疇にすんなりと収まり、楽しい人生を送ったヒトのエピソード集。実はなかなか愉快な書物で、うっぷんに満ちた会社の帰宅車内でニタニタ笑ってしまった。未だにときどき思いだすコーネル大学のカール・セーガン教授の「実によい時代に偶然生まれてきた」というようないかにも「アメリカ人」的ですっきりとした行動様式である。物理学はこの人の最大の遊び道具であった。ほかにも読唇術・金庫破り・ヒトのにおいをかぎ分ける・とかなんとかよく遊び、周囲がおどろくのを楽しむ。あああ。ノーベル賞なんてこの先だれも当方にはくれないだろうな・・と先が割れてしまった人生であることだよな。ま、エピソードのひとつだけ書いておく。ロスアラモスで原爆実験が成功した日、周囲のお祭り騒ぎをよそに一人だけ「大変なものを造ってしまった」とつぶやいていた同僚がいたことを著者は記している。「みんなが考えることを止めていた時に一人だけ考え続けていた人がいる」と書いている。
というわけで、鬱屈たる当方の人生の対極、feynman氏の軽妙なエッセイをまた楽しんだ。直線的に目の前のものを片付けて行くてきぱきとした生き方。自分の線を伸ばして行くと余りに明確なので思わず他人もあわせてくれるという風な。30年前の日本の風景が美しく記述されていた。人々が善良で農村で。いまではめずらしくない外国人であるけど、西洋人に対する無限親切が生きていたそのころの日本が目の前にあった。ああ・なんていうとおいところなんだろう。
高村薫解説。脚注と挿絵が目障りなシリーズである。
様々な残虐殺人の例示。残虐行為が性的快感につながるという指標。それと社会を逆にコントロールしてやるという誘惑。うん。当方にも殺人ができるかも知れない。
ちびくろサンボ焚書事件にまつわる議論を中心にした、正しい言葉狩り反駁の議論の書。「差別用語」があるとしてその差別用語を使用することが表現の自由ということなのだ。という解りやすい主張である。「自分は差別の意図はないのだが、ある言葉がある人を傷つけるとしたら悪いのでその言葉はつかわない」という意識こそ差別なのだ、との勇ましくも簡明な論旨。
死刑賛成論者のディレンマを思い出す。人命は何物にも代えがたい、だから人命を奪う人は人命の範疇には入らない。だから抹殺しなければならない。
結局議論というものは論理様に見えて実はしい的な個人の価値観の言葉による正当化という思いがする。例えどんなに破綻なく精緻に組み立てられた理論でも頭が悪ければ理解できないよう。一般相対性理論も理解できない頭なのにあんたの言ってることなんか解るわけはない。結局は感覚的に納得できるかどうかしかないんではないか?
それに、実をいうと、差別があろうとなかろうとそんなことは本当の目的ではない。ただこの議論の組み立て方、反論の緊張感、相手を打ちのめす快感、自ら分類できないでいた未分化な感覚がある種の論理の組み方で整理されるんではないかという予定調和的快感。そんなものが・実は「社会正義」の中身であったりして。
ああ、いいなあ。実に金属手仕事の楽しみ。大阪裏地帯の闇の中の町工場。なんでこの人があんな暗く侘しく非情な地帯にのめりこむのかね。TVでみたご本人はほんとに色気のないぜんぜんおもしろくない女性でありましたが。
前に著者のエッセイを読んだときは奈良県ということをあまり意識しなかったと思うから渡欧前だったか。高村薫風エンターティンメント的視点からは退屈な日常生活エッセイでしかないけど、この人の「感性」(気恥ずかしいからかっこ)はしごく自然にのりうつる。さすが歌人の目というべきか。それにこのエッセィ、いろんな仕掛けがしてあってどうも新しいタイプの私小説という趣である。「その夜、・・・私は安らかに夢精をした」なんて老境にはいった方がごく自然に書くんだから。大和東吉野。山村の住人の思い出がかたられていく。で、なんとなく都会に出ていく者達は本当はだめ人間だから落ちこぼれ、ちゃんとした方なら生まれた地方を離れる訳はない・と思う。
国際法的叙述。読み物としては面白味に欠ける。上官の命令と道徳的規範についての考察で、ミルグラムの実験なるものを紹介している。これはたしか逢坂剛の小説で扱われていた。人間は命令されればいつか命令の体現者に成り果ててしまい残虐への生理的嫌悪が正当な行動としていつか自分の行動様式となってしまう。ミルグラム「権威への服従」1974。代理人状態=「人が他の人の望みを実行するための代理人と自らをみなすときの人の条件」個人が、この属するシステムのかなで自分の良心の価値を権威の価値に置き換える状態。
博識な小説家が材料を古今東西にもとめて知識を広めていった結果物事を判断するのにもっとも適切であろうとする意志がおのづから生じる見本みたいなひとだな。それに日本語の語感にもなかなか新鮮なものがある。「日本中が、持ち物のすべてをうしなって、いっせいに尻餅をついたとき、衝動的にわきあがってくる哄笑のようなものが戦後、四、五年つづいたように思います。」「これをいきいきと感じ、これを正しく知り、これをほがらかによろこぶ者」ほがらかによろこぶか。いちどでいいからほがらかになりたいものだよな。
長編活劇で最近作がばかに評判がいいものだから期待して夏休みの読書としたけど、ばかばかしい。クルド独立問題をメインで進行させているのは日本の小説としてはなななかの取材力ではあるが、雑多に登場する人物群が雑多で散漫でどうしょうもない。だらだらよんでだらだら終わってしまった。まとまりのない小説。
第一次対戦前夜の朝鮮・ロシアを舞台にした歴史SF。素材がおもしろそうだったけど、読むに耐える記述ではない。明石大佐とかラスプーチンとかだしてくるが、地に付かない。散漫な印象。ぜんぜんおもしろくない。
当然清岡卓行の「朝の悲しみ」を意識したタイトルであろう。20年前に読んだ清岡の作品は純一な感性がなかなかの印象を与えたけれど、今は女房が死んでからも複雑な人間関係が刺激するものらしい。なにか小じんまりとした小説家になった感のある宮本輝が45才の生活を報告する作品。小じんまりという印象は適当に読ませて口当たりもまぁまぁ適当に会話もはずみ、人がでくわす感情の対立もそうであろうというような、おもしろく読めるけどそれ以上は進まないような。ま、しかし現在作家では貴重な古典的作風の作家である。うーん、なんか決定的なものに欠けるな。
饒舌体SFもどき。部分のイメージは面白いものもあったけど、結局合計¥5400円もだしてこんな暇なお話しにつきあっていられるか。くだくだと作家の日常に去来するイメージを押し込んで水増ししただけの長編ではないか。
・・・南京大虐殺はなかったとする論敵への反駁の書。ところで活字がうるさいから読まなかったのだ。
長編推理書き下ろし(新潮ミステリークラブ)で評判の作品が図書館にはいったので喜んで借りて帰ったけれど。ああ、期待外れでありました。この手の歴史を素材にした長編の雰囲気、内容では司馬遼太郎に遠く及ばないし、ミステリーとしても杜撰な運びである。この前の「砂のクロニクル」とにたような印象。素材はおもしろそうでなかなか期待できそうな本の厚みであるけど、内容が安直なのだ。とくに10人近い主人公を書き込んであるのはいいけど、なんだ、最後にみんな殺されて終わりとはあまりに安直。もうこの人の作品は読まない。
日系一世からの聞き書き集。多くの人々が戦時中の日系人収容所(location camp)を肯定的に語っていた。直接の意図は人種差別に他ならないが、外部からの圧力のprotectとしての役割と、収容所内の人道的な生活がアメリカのヒューマニスムの健在を示す。
あまりにも細部に絡む文章で止めようと思ったけど、図書館の休館日に引っ掛かってもう週間手元に残ったので読んでしまった。ギャング組織に潜入するスパイの話。「寒い国からのスパイ」の作者は冷戦終結でも書く素材はある、という。ま、適当なサスペンスで最後にいたりました。
タレント篠沢教授一家のパリ暮らしエッセイ。なかなか自在な筆致である。顔と似合ったいやみのないユーモアが身上か。この人の「フランス語単語の覚えかた」を買って当方のフランス留学に備えた覚えがある。ちらちらとフランス時代の光景が触発されたたちのぼる。ところで我がフランス生活記はいつ着手されるのか?いつも明姫のところで中断するような予感。
柳宗悦に朝鮮白磁を教えた浅井功の伝記小説。植民地人の蔑視が普通になっていた時代に朝鮮に魅入られ人々にしたわれた一市民。たんたんとした文章。普通に読める善意のよみもの。ただし、通勤往路であらかた読めてしまうくらいの単行本としては量的に問題のある本。
100年前に起こった事件の驚くべき再構成の記。散在する資料から事実を推し測り肉付けしてゆく作業。おそらくこうであったろう、あるいはこうであったろうという研究者の枠組みを小説とすることであっさりクリアする。どうしてこんなに生々しく「見て来たような」記述が可能なんだろうか。これがこの人の芸というものか。
世界のなかでの日本の特殊性についての幅広い視点。日本海の広さが「文化は渡ってくるが、軍隊は渡ってこれない距離」等の卓見がある。その他有用な論点が散在し、メモでもとろうとは思いつつ。
「壁の中」ブームのときの出版らしい。際物。仙台刑務所の死刑囚を身近にみていた雑役囚の手記。あまり上質な本ではない。死刑執行の様子が具体的。死刑とは絶対悪であるとの意。
読んで見て再読とわかった。前回はあまりの登場人物のご都合主義に辟易してやめたのだった。沖田総志と坂本龍馬がゼウスの神殿でアンネ・フランクとマタハリがシュリーマンの金時計のことで云々。ああ、ばからしかった。有名人を登場させるのは愚かな感じがする。最後・善と悪でもない敵味方でもないが絶えず相手の動きを阻止しょうとする2つの勢力によって宇宙の出来事が監視・コントロールされるというアイデアだけ。短編でよい。
雑誌連載の映画をテーマにした連作エッセイ。映画そのものに当方はふかく思い入れすることもないが、(ああ、貧困な生活。)あいかわらずの生きのよい口調とおもしろい感性がいいなあ。ところで連作「ローマ人の物語」今年はでてないようだけど?
功なり名をあげた小説家としての余裕に満ちた講座文学再入門と朝日連載の文芸時評。文体と生真面目な生活感覚か。大江健三郎が文芸時評とは。余裕。
同い年の社会学者こわい上野千鶴子女史の新聞コラム。ずけずけしゃべることのできる、大人ではない世代。エッセイなので別段これといって記載すべき内容もみあたらないけど、感覚的には近しい。やれ、やれ!
こちらは往年の京都若手学者集団時代の異端的論者梅原猛の大家となった余裕の新聞コラム。日本史・世相にまつわる常に一人で論壇で活躍していたなごりのぶつくさ集。
1936生。小説としては力点が分散していて構成に疑問はあるが、思いがけず面白い作品で得をした思い。かすかに記憶がある「日本アパッチ族」(これは小松左京のタイトル)の生き残りと思われる作者の体験的小説か。とにかく妙に懐かしい戦後大阪スラムの雰囲気、在日朝鮮人の内部の問題。後半は長崎・大村収容所の告発調となって小説的分裂を招いているが、しかし細部はユーモアとリアリティにあふれた好感のもてる作風である。会話が生きている。日本政府告発するだけではなくしっかりと在日内部や現朝・韓両国の問題にも目配りがしてある。最後のまとめもなかなか印象的な終わらせ方であったと思う。まあ、当方と近しい大阪環状線東側の光景であったのでイメージの喚起力が違うという点もあると思う。しかし、いい読書だったな。
49年生。NHK記者。湾岸戦争中の日本とアメリカ政治状況のドキュメント的小説。金はだしたが、出した分だけの評価は得られなかった日本を敗北と規定する。国際政治感覚の貧困批判。しかし、現場の国際政治記者の筆致はなかなか冴えていて一寸したスパイ小説の趣がある。・・・本当は外交官になりたかったと、読みながら思った。それも戦時下のヨーロッパの辺境の小国の大使館勤務。異常な緊迫感と外交官特権という一種の完全武装をした安逸。ラトビアかリトアニア。杉原代理領事のような、か。日本の戦時下にあってヨーロッパの小国の大使館に勤務しているという状況。
この前選挙で落選した大前研一氏の唱える「平成維新」の発想の根拠。国家の枠がインターネットで旧来の意味がなくなる。何となれば産業活動が簡単にネットワークを通じて国際につながるから。現産業体制の温存を図る政府はこの状況に対応できない。明治維新と同じような規模の維新が必要。戦闘的で面白いと思う。パリに居住しながら日本のネットを利用して盛んに著作活動をしている江下氏をおもいだした。ちいさなローカル会社でいながら当方も一時は・・・という気もする。とにかく今、現体制で萎縮しているのは事実なんだから当方もなんとかネットを通じて活動しなけりゃと思っているのではあるが。
やっと次の世代の歴史小説作家に出会った。もう書く気力のない司馬遼太郎氏にかわってこの人はまだ若いので当分作品の生産が見込める。よかったよかった。押さえた文章と正確な時代考証、ゆったりとした運びとそれに小説翊的工夫もおこたりのない紛れもない長編作家だ。夏・殷・周・晋とつづくその晋の文公・重耳の伝記。楽しい読書であった。
山本七平さんもなくなったけど、実にいい仕事を残しているものだ。誰も知らない旧日本軍朝鮮人中将のマニラの戦犯裁判の記録と検証。暴虐の限りをつくした日本軍というイメージに本人も将校であった著者が弁護・抗弁した書ともいえる。
旧日本軍の中に決して改名しなかった朝鮮人将軍がいて、その人徳は周囲に感銘を与えた。フィリピンの日本軍はアメリカ人捕虜を安全にアメリカに引き渡すよう努力した。日本軍には組織としての意志はなく、常に指揮者の度量が暴虐と 秩序を決めていた。おおがね高級将校は知識人でジュネーブ協定の精神を貴んでいた。いつでも日本人のmassのなかの小ボスが暴虐の中心であった。アメリカの軍事戦犯裁判では日本的責任(無責任)体系が理解されず結果表記中将が処刑された。
局地的にはいい日本人も悪い日本人もいる。日本軍の暗黒面のイメージのみが戦後生き残っていたと。
久しぶりに読んだ村上クン。これは「限りなく・・」の時代への思い出の連作短編集である。そういえば実は「限りなく・・」はよんでないのだ。1970年の東京にはある種のムードがあった。当方も一度は東京神田で1971に人生をはじめかけた。あのとき里心がついて帰っていなかったら確実にもう一つ別の人生があったろう。とにかくあの時代あのときには村上龍のような若者が生きていける場所があったんだから。
ちょいと最近名前を見る新進女流作家。で、読んで見たけどB級エンタティンメントそのもの。ま、雑誌連載ということもあるだろうけど、適当に現代の花形広告業界に巣食うヒローを配してのどたばた劇。主人公が在日韓国人という設定であるが、なんの意味にもなってない。読むに値せず。
人間社会に匹敵する社会的動物のアリを主人公に持って来たなかなか意欲的な小説。描かれたアリの生態がどこまで本当か知らねども、単なるSFと読んでもそれなりに異次元の感覚を味わえる。未知の魅力に満ちたミクロコスモスのアリの生態に比較して人間が登場する場面はいかにも通俗。アリ社会で完結して欲しかった。
久しぶりの吉本氏、この対談ではあとの二人に食われていた。タイトルは何といっても吉本流。梅原猛さんはこのまえエッセイを読んだかな。あいかわらずの戦闘的弁論家である。ところで、この若い中沢新一なるものは何者なんだろう。両大家を向こうにまわして一歩もゆずらない鋭さで魅力的な論を展開している。わかくて切れて、ひところの舛添要一みたいなスタンドプレー型ではない地道な学究で好感がもてる。ひさしぶりの知的興奮。ま、あんまり中身がわかってないんだけど、雰囲気だけは。
だんだんとミステリーが始まる書き出しはよかった。あとはどたばたパニックもの。ひところのSFのステレオタイプ。
高名な物理学者の理論を正面切って間違いだ!と指摘するなんとも評価しようのない書物。この書店の発行で糾弾調の文体。怪しげなホンとの感もあるが、当方の知識ではどう考えてもこの人のいうことがうなずけてしまう。相対性理論で時間が遡れるのは時間を数式化し空間と同じ取り扱いをしたという理論的便宜にすぎない、という。ファインマンとかホーキングとかいうのは理論のために現象をフィクション化し、それが説明できたという便宜主義の輩にすぎないという。ホントかね。が、しかし、こういうのがおもしろい。
著者が実際にFBI在職中に取り扱った殺人事件の顛末。小説ではないが、ま、小説的に読めるくらいFBIってのは面白いことをする。去年はアメリカのリーガル・ノベルをよく読んだがけど、今回もアメリカの裁判のへんてこさが面白かった。司法取引と陪審員制。
前回のちょっと怪しげな書物に続いて現代物理学シリーズ、これは固めのちゃんとした本。千代島氏の独創と見えたものの原形がここにある。時間の可逆性のパラドックス。熱力学第二法則の初期値問題。楽観的なホーキングス批判等々。
安心して楽しめる中国英雄歎。「重耳」を読んだ後なのでもう新鮮味はないストーリーではあったけど。
年末にやっと図書館に来た、まちにまった書物である。前回ははなばなしい英雄がすくなくさびしかったが、いよいよカエサル。物語も佳境というところか。いつもながらの現代風講釈でたのしんだ。今回は挿絵にゴッシーニのASTELIXなんかも登場してなかなかの芸である。カエサルという人物の魅力にひきつけられた作者の筆は軽い。こういった歴史物語も可能なんだ。ひょっとしてすごい才能というべきなのかもしれない。こういう書き方もできるなら今までの歴史の授業はいったいなんだったのか。古代ローマで過ごした幸福な1週間。それにしても共和制ローマの政治と比べ、いかに現代日本がみすぼらしいところであることか。