を読んだ。先日周野さんよりの贈呈本(少女趣味の当方のネーム入り手製しおり付き)。ま、しかしここ10年こんな形のプレゼントはなかったので特に記しておく。
こういったテの本はにがてではあるが、英語読まねばとおもっていたのですこし沈読。教訓は余計であるが、完結なオチのついたタイトルのエッセイは簡明で可。
一昨年読んだ前作より落ちる。頭脳犯罪で大金を手にしてカリブ海のリゾート地で安楽に暮らす夢。
大著。全部読めなかった。今日返却に行く。中公新書「ユダヤ人」の著者で、けっして歴史小説家ではないが、どうだろうこの膨大な資料を書き込む力は。エピソードが多くて小説としては散漫。でも小説ではなくて史実物語のようである。明治維新という事象は聞いたことがあるが、こうして史実を眺めていくと何にもしらなかったんだなあという気。今更勉強する気もないけどもう少し歴史を知らんといかんなと思う。
やっぱり面白い中国春秋時代の宰相晏弱・晏嬰の物語。まったく司馬遼太郎の筆致と区別がつかない。中国史劇物語のプロトコルか。人が名誉のためにころころ死んでいく時代。なんとも爽快な死に方であることよ。晏子は君子に仕えながら君子を諌め続けた宰相であるらしい。あらゆる地上の権力・暴力にたいしてただ自分の論理の正当性だけを主張して譲らず。ほんとかね。ま・こーゆーひともいたんだな。
少し前に大江健三郎氏が吉本バナナ他の、この作品評・なんでだらだらとこんな長編が・というのに対して「ゆったりとした時間の流れを作っていく力量」という風な弁護をしていた。ささいなエピソードの積みかさねで・それでも読者にとっては読んでいる時間がもう一つ別の人生を生きているような体験になるのが物語の基本であろう。この人の感覚は近しいし、平易な言葉で近似した日常を物語る語り口のうまさは見事な作家ということになる。なかなか楽しめました。
すべての人のための分かりやすい形而上学・ベルグソン哲学とユング心理学を軸に生命の基本法則を求めて・という思わせぶりなサブタイトルがついた魅力的な装丁の本。
最近の勇ましい素人科学変革?の流れか?
生物の精緻な完全な合目的性をもった構造に着目してこれは純生命の意志のなせる業である。と結論し、この純生命の意図に沿った生き方をすることが善・生きる意味であるとした明瞭な主張である。絶対者の証明にホント分かりやすい手法をもちいて爽快な部分もある。!?というところか。当方が高校生当時に着想した「宇宙の意志」というのと同じである。結論はちがう。当方は当時宇宙の意志は宇宙自体の破壊であると持っていったのだけど。(後でもういちど思い出してみよう)
時間がない。おもしろかった。興奮したりしたと記しておこう。
未知の作者の長編。小説的に面白かったのでトクをした本。ハプスグルグ・ブルボンが覇を競っていた時代の外交をよく調べて小説化している。どこか甘いという気がするのは歴史小説の雄・司馬遼太郎氏のイメージがちらつくからか。先週亡くなってしまったのだ。大変な作家であったと思う。小説的に面白くて史実がよく咀嚼され・そして独自の歴史観がある。もう司馬遼太郎モノが読めないのは惜しいことである。当方もくらいハプスブルグ史をうまく素材にしているが、なんとはなくご都合主義で・ほんとかいな・と思うフシあり。オーストリにおけるユダヤ人・ジュリアン・ソレルの出世物語である。一人の力量によって歴史が変わるというのは小説的に面白いが・そんなばかな・という思いを残してしまう。
宮本輝もつまらない作家になった。すれていない物語を書く希有の才能であったのに。
\1900たった1章の値段。
植谷雄高・死霊を書きはじめたのが昭和23年。叢書「現代文学の発見」で第一部を読んだのが昭和42年であったか。18才の感受性に東京墨田川ぞいの「貧民窟」の屋根裏の妄想が染み込んだ。そして・いつしか思索は消えていった。しかし・白昼の勤め人生活が仮のもので実態は屋根裏で妄想にふけっている脳髄という扇動は今も生きている。今か。47才になった。未だ始めていない。妄想に生きること。絶対にありえないシェークスピアもびっくりのながったらしい比喩で装飾されたセリフをきいていると・なーんだ・まだ18才ではないかと。
まあまあの娯楽作品。もう忘れた。
時々文春誌上で読む楽しくもおもしろ懐かしい連載。日本語で確かな表現ができる数少ない作家。まとめて読んで見ると雑誌連載の小品としての見せかたが実にうまいのに気がつく。特にマクラがプロですね。いきなりはじまった戦中の小学生であった思い出が平均寿命42.3歳という戦時中の統計のはなしになり、やがて「恍惚の人」に持っていくという展開のあざやかさ。
借りて見て再読であったのに気付く。しかたが無いのでまた読む。売文プロとしてのバリエーション。この人は無数にある常識を構成している要素の一つを徹底的にパロディにして笑いとばす、あるいは読者を引きずりまわすペンの力がすごい。今回は「樹木 法廷に立つ」という小品の日本語の破壊力を再読。
死んでますます評価の高い司馬遼太郎。当方もながらく単なる歴史モノベストセラー作家のイメージが強く実際に作品を読みはじめたのが遅かった。最初は本当にチャンバラ小説作家だと思っていたのだから。「空海の風景」で決定的に評価が変わったと思う。今は日本最大級の知性(あんまりいい表現ではないが)"どいっていい"と納得している。日本語もこころよい。慶喜の伝記。人物のおもしろさ。人間の運命のおもしろさ。司馬遼太郎のおもしろさ。
雑誌寄稿文のアンソロジー。「人」の生きかたについての関心が中心。
死体がなぜタブーなのか。それは人工・社会・管理にたいする自然・個人・非制御物であるから。養老先生の文章はなかなかのものであるし、文型書物もよくよんでらっしゃる。なかなか得難い個性の書き手である。
この作者の芥川賞を受賞したときが、当方が文芸雑誌をちらりと読み始めた時期と重なり特別に親しみを持っている。タイトルは忘れたけれど、戦前に東京の大学に入るために植民地から日本に渡る少年の旅を描写してなかなか感動したと思う。「「文芸」とはこういう作品なんだ」とかなんとか。しかし、これは、出来損ないのSFであった。SF的醍醐味なし、付け加えるべき新たな感覚なし、ちょっとしたミステリーだけでつないでいるだけ。
いい小説・ストーリー性とよく消化された資料・3部作としての文学的遊び。第一作の主人公飛行士安藤大尉の妹の結婚式の場面ですべての人物をなんとかつなげてしまった力わざ。飛行士の話は勇ましくてよかったけどただの冒険小説であった。この作品でパリから戦時下のヨーロッパを横断して満州に到達させた力量・終戦時の日本指導層の動き何ぞという膨大な資料を使いこなした力量は相当なものである。主人公だけはいかにもウソくさいけど。なんていう才能なんだろう。
加賀乙彦「錨のない船」・柳田邦男「マリコ」・そういえばそろそろ杉原領事代理をモデルにした小説がでてもいいはずかな。
杉原氏は美談として通り過ぎて取材するとそんなに魅力のある人物ではなかったのかも知れない。
翻訳に関するエッセイのアンソロジー。結局は日本語・英語の翻訳は不可能的エッセイが多い。英語の間接話法が訳しようがないはなしとか。女性の会話だと女性書き言葉語尾になるのは当方もいいかげん頭に来る。NHKでこの前みた「マルセデス・小沢の音楽の楽しみ」とかいう番組でマスセデス氏?が黒人なので「・・・なんだ」とかいうような若者・下層階級語尾で訳していたのも頭に来る。どのみち翻訳不能なんだから女性・黒人であろうとニュートラルな「・・・です」にせよ。翻訳家としてのたのしみとして英語のジョークをうまく日本語で表現できたときの自己満足をあげていた例。別宮貞徳氏の「欠陥翻訳時評」は誤訳の指摘が目的ではなく、日本語のレベルが水準に達しない翻訳文の指摘が骨子であるとか。
ガラパゴスフィンチフィールドワークの記録。純粋に孤立した生態系では進化が目の前で行われている。環境進化圧と性選択進化圧とが相互作用して適者生存がまるで絵に描いたように観察される。劇的な進化の実験場。よろしい。そこまではわかった。しかし嘴の形状が世代から世代へと変わっていったとして、いつそれが種のレベルを超えるのか?いくら形状がかわったとしても鳥から哺乳類に移行することができるのか?
久しぶりの辻邦生の長編。しかし、通勤読書にはちょっと重たい。漢字・細部は飛ばし読み。生きることをどうなっとくするかという辻邦生節は散見すれども。小説的にはストーリー性が弱い。
20世紀の異端の書との詞書にだまされて借りたけれど。ふるい扇動される群集もの。SFの仕掛けがばからしい。なっとくできない読書。
家庭劇ミステリー。ばかばかしい筋だて。ハッピーエンドでないのが新鮮ではあった。
大胆に史実をB級娯楽作品にした創意は認めるが筋だてが乱暴なので少しも興奮しない。どうも大衆文学というものをばかにしているのではないか。せめて司馬遼太郎氏くらいの・・・
初期の作品となるけどなかなか。史実を小説的にまとめてなかなか楽しい作品になっている。楽しいな。
会社の仕事にかこつけて久しぶりに新しい言語の文法をすこし。文法構造は既知だけど動詞の活用がうるさい。いまさら活用表の丸暗記でもあるまい。スペイン語の詩を朗唱したいとはおもうけど。
東北大薬学部博士過程在学中の26才のホラー文学大賞受賞作ということであるらしい。
細胞の中で共生するミトコンデリアの反乱というテーマで、新味がある。けれどホラーにしてしまうのには惜しい素材だとおもう。小松左京氏ならもっと中身のある肉付けができただろうに。照れず、惜しまず、性行為を書ける世代。・・映画を意識しすぎか?
1950生国学院出身の小説家。F1を素材にした小説で売れたらしい。水準的作風の伝統的私小説風短編のアンソロジー。確かに自分の文体を持っているようではある。それ以上は何も感じられなかった。
前に読んだ「遠雷」は当方の感性とは相容れない面白くない小説であったけど、このエッセイ集は面白い。農民型の作家でアジアには強い様だ。この世代では貴重な書き手ということになるか。最近テレビで見る言が多い。とつとつとしたいかにも農村青年である。アジアを旅する懐かしさ。それは解る気がする。
リズム合わず。読まず。
たいした情報はなかった。http://www.sfc.keio.ac.jp^kilyong/kilyong.html
文春連載の鼎談書評。3人の絡み合いがおもしろい。とくに木村氏が文壇派とは違う切り口なのがおもしろい。よく読んでいる著者たちの子供のいいあい風の掛け合いがなかなか刺激的でもあった。ああ、ちゃんと本をよみたいな。
20年間日本で暮らして最近帰国した学者の韓国民主化運動史。読み応えがあった。激しい政治の圧力があった隣国の雰囲気。チラリと覗いたのはもう10年も前か。富嶽山近くの国道でいきなり乗り込んで検問をしてきた兵士。ソウルの地下鉄の入り口で歩哨をしていた武装兵士。熱しやすい韓国民の激しい反政府運動。詩人たち。どうだろうか。ぬくぬくと日本にくるまって。今どうだろうか。もし私があのときあそこにいれば。という思いはむなしいか。生命と引換えに何事かをなそうとしたことはなかった。そしてただ生きた。そしてこれはなにか。これが人生か。
いやに玄人が誉めている短編集。なるほど素直に読める。しかし。だからどうだというのだ、というような。
この人の本はいつよんでも不思議な人間の心理の向こうをみせてくれる。今回は児童文学書の紹介といった形で自分とは何かの萌芽の時代の心理を解き明かす。といった固いものでもなく大人の物語とはちがった位相の児童文学の楽しみを楽しんで書いている。
理解できない世界を物語として理解する。
そういえばしきりみたトンネルの夢をおもいだす。
きっかけは子供の頃住んでいた家を建てたとき隣家との堺の壁がまだ完成してなくて、かべを潜って隣家に行ったという兄のセリフだったろう。当方には思い出としてはない。しかし壁くぐりのイメージは長い窮屈なトンネル潜りとなって夢に形をあたえる。
現在の地下鉄難波駅の段差のある地下道のイメージ。
秘密の地下道。秘密の地下室。地下に隠された小部屋がある。あるいはよく潜んでいた天井裏のイメージか。窮屈で幾重にも下界と遮断された天井裏、あるいは押し入れの中のしきり壁の向こう。腹這いになって苦しいトンネルを進む。トンネルを越えること自体に一つの物語があって、どこで頭を傾けるとかの技術が積み重なる。腹這いになって苦しいトンネルを通過することは非常に危険なことだ。死ぬかもしれない。途中で動けなくなってそれでももう引き返せないとなると誰もしらない秘密のトンネルの中でそのまま死んでいくしかない。恐怖。それでもトンネルは続いている。どこに連なるのか。
そして物語を語り終えたような永い時間が経ってやっとトンネルの向こうに出る。
トンネルの向こうの不思議な空間。たしか地下から潜り来たはずなのにしろっぽい光に満ちた川の側のドームの屋上に出ている。人気はない。ここがその場所なのだ。自分が自分であった場所。自分自身の場所。懐かしく自分を包み込む白っぽい光景。。。。
ふと思い出したようにトンネルの夢を見る。ああ、そうだ。地下にトンネルがあって、潜りぬければ秘密場所に至り、自分自身を思い出すのだ。地下のトンネル。あるとき随分大きくなってトンネルを思い出した。確かに入り口はあった。総てを思いだしかけている。トンネルを潜らねば。試みる。しかし。もう頭がトンネルに入らないのだ。そうか。もうトンネルを潜ることはできないのだ。
夢は曲者で単独の夢が以前の夢と連鎖しているように思わせることもある。しかしどうしても3つの夢が独立して存在していたようなのだ。川辺のドーム。トンネル潜り。とトンネルを思い出したがもう潜れなかった夢。絵解きに過ぎないような解釈をしてしまっているが、夢の中で行った解釈は別種の心理値を残す。大人になってしまった。救いようもなく大人になってしまった喪失感。
こんな文章ならこちとらにも書けるなんてもう思わない。実にのびやかで解りやすくて気負いのないよい文章ではないか。ここにして日本はやっと新しい日本語の文体見つけたのか。アメリカ滞在中の連載エッセイであるそうだけど、結局内容なんてなにもない。文体だけがすらすらと流れてゆく。活字中毒にご注意。なんていう芸。
第二次世界対戦期国民党青年将校と結婚し上海で日本軍に情報を売ったイタリア人ビアンカ・タムの手記。唄い文句ほど劇的なスパイではない。ここでは戦争中の上海が興味をそそる。中国と日本とヨーロッパが渾然と混じり合ってしまったらどういう都市となるのか。中国の革命家と日本軍の憲兵とスパイと得体の知れないヨーロッパの流れ貴族と、そして戦争。
ブラジルのベストセラーであるらしい。サンテグジュペリ風の少年遍歴寓話。さらりと読めるさらりと忘れる。とはいえ現代文学にはもう出てこない分野の貴重な本というべきか。
スイスロマンドのハンガリー系作家。外国人のフランス語というものがすっきりとした無駄のない文体を作っているのかもしれない。したたかに戦時下のヨーロッパの田舎に生きる双子の兄弟。この双子の設定は奇妙で興味をそそる。クール。ヒューマニスムとか少年遍歴教養寓話とかまったく関係のない地点からの文体。さわやかな悪漢小説。なかなかよい。
ゲームののりに近いのではないか。戦略と冒険と英雄と。うだつのあがらない会社勤めとは対局の人生。中国古代の単純化された社会の栄華盛衰。こういう物語もよみだすと面白くてやめられない。
この前よんだ丸谷才一ほかの鼎談で絶賛されていた鉄道旅行マニアの紀行。しかしこの人中央公論の編集長をしていたその道のプロではある。かるくて素直な文章。プロが見るとにくらしいほどの達意の文章であるらしい。韓国旅行のその気になった。表情は愛想がないが、その実は非常に親切という韓国人評。かもしれない。
城山氏の一ツ橋時代の恩師山田雄三教授との老後の交友を描いた文章。少々まじめすぎて経済部外者にはお手上げだった。
往年の女優パリ在住、15年前にベニスですれ違ったと当方が勝手に思っている岸恵子さんのエッセイ集。なにか前著では賞をもらったそうで書くのには自信があるらしい。主にテレビのジャーナリストとしての取材での旅行の記。ヨーロッパに来てから出くわしたユダヤ人の問題が一応のテーマになっている。ま、文章がかけることはわかる。しかし装飾過多・演技過剰・演出しすぎとみえる。これは当方がよんでもしろうとっぽい。そういう意味では先の宮脇氏の文章はなるほどプロの手であるな。
討ち入りしなかった不義士石野七郎次のその後。大阪で商人となるが・作者のつもりでは景気後退時の社会と人間を描くとされているが・なんとも小説的に面白くない物語である。主人公は結局なにもせず一生を終わる。なにもせず一生をおわる人の伝記に上下2冊はちょっとしんどいと思う。
いつもながらの筆のさえ。なかなか平易でたんたんとしたユーモアで世の常識とは違う切り込みかたをさらりと書く。才能。星新一の文章に似ている。
ちょっとアイデアだけでまとまりに欠ける短編集。かなり突き抜けた発想で文章も自在だけど。この人の長編がパソコン通信で話題になっていた。才人ではある。
中国戦国時代の英雄をこの調子ですべて描こうとするのだろうか。史実があって細部があきらかではない伝記。確実な知識と想像力があればどうにでも料理できる素材なのか。できたのはいつも面白いのでもっとやれと声援をおくる。
昔フランスでみた映画「アフリカの日々」の原作者の時代錯誤ロマネスク短編集。ホフマン物語のような幻想。通勤車内ではどうしょうもないので敬遠したけど、夏休みの日中にはなかなかいい時間であった。そうか。本も読まなくなったのか。
夏から商の時代。文字もなく王が政治家ではなく呪術者であったような時代。の人物が未だに語り伝えられているというのは。作者が後書きで中国史にのめりこんでいった様子をさらりと書いている。物語する楽しみ。
すこし有名になると文学ずいてどうも・・というような書評があった。が、どうしてどうして。高村薫に推理小説の胸のすくロジックを期待しているわけではない。いままで誰も描けなかった大阪西成の小便くさいどうしようもない杜撰な町の雰囲気と何故か若いのにどろどろになっているような重苦しい日常の・雰囲気だけの。町工場の機械油と金属削片の錆びるにおい。ストーリーなんて別にどうでもいいではないか。ぐちゃぐちゃの生活。
紀元前7000年のアリューシャン列島の物語というふれこみ。著者は研究者でもあるそうだけど、登場人物の心理描写がまったく現代小説とかわりない。人間の心理はいつの時代でも同じという主張かもしれないけど、そんなこたーないだろう。紀元前7000年に設定しながら当方には時のへだたりの目も眩む陶酔感はなかった。つまらないラブロマンス。紀元前7000年の北方の島というイメージを勝手にふくらましただけの収穫。
「裸のサル」で20年前にベストセラーになった著者の近作。前作は読んでないけど、ベストセラーのこのテモノにある知的ほのめかしの興奮はある。人類は狩猟生活に入る前の時代水棲生活をしていた・という説の紹介が面白い。体毛と毛の生え方、2本足歩行を促す水中でのカタチ。水を嫌わない習性とか。体毛はないのに頭髪だけは1mも伸びる生物の奇妙さ。さて遺伝子の入れ物にすぎない人生だとして、すでに生殖適齢期を過ぎても何故だらだらと生きているかということでは、祖父としての役割があるからだそうである。とてつもなく永い子供の時代の面倒を見るには両親だけでは足りないという。そこで子供のない老後というものを考えてしまう。ま、例え遺伝子の容れものにすぎないにしても自意識がある限りこの世の主体としてふるまってしまっても別段おかしくはない。すでに自意識が発生していることで遺伝子のプログラムからはかなり自由な逸脱もしているのだ。としても。性的には既に存在意義を失った年齢ということは今認めなくてはならないだろう。なによりも醒めた意識で明言すべきは、既に子供の生産は最終的にできないし、してはいけない。親でありつづける期間がもうとてつもなく永すぎるのだ。自分の老いという問題を咀嚼すべきときが来た。
しかし、人間が生物学的に合目的的にプログラミングされた存在だとしても、それではどうしてこの歳で若い女に性的興奮を感じなければならないんだ。生殖から切り離された性行為が遊びとして可能な生理メカニズムが内在してるのなら、老婆から興奮を引き起こされるようなシステムである方が自然ではないか。無生殖目的的性衝動。いったいなんなの・これは。ひよっとして自己分裂から自己消滅を誘因するこれも巧妙な生物学的メカニズム?なんでそんな手のこんだことをするの?
現職検事正のコラム。文章が書ける検事という自負がありありの気取った文章である。自分を「検事」と3人称で登場させるのは芸であるが。ま、なかなか世にでないこの業界のうちわ話しが読めるのは話しのタネに・といったレベル。全部通読するほど暇でなし。
2つのつまらないラブストーリが独立して進行する2重につまらない小説。
エボラヴィールスに関するドキュメンタリ。もっとも原始的でただ増殖するだけの物体と人間との遭遇。頻繁に起る新株への変転・と現在の交通網とによって可能性としては簡単に人類滅亡までいってしまう。しかし寄生体を滅亡させてしまうと自分自身も消滅するという根源的な矛盾。共生関係。
この前読んだ「夢見る人々」に引かれて借り出した。そしてこれはいい読書だった。素材と文章。なかなか素晴らしい表現力。文章のまとめかた。適切でいきいきとした比喩。ヨーロッパの教養ある階級の実力か。第一次世界大戦時のケニアの農場。ソマリ族・マサイ族・キクユ族等のくっきりとした性格。マサイ族の戦士の見事な頭飾りの他は何も見につけないきっぱりとした姿。キクユ族の生死感。昔のアフリカのしみじみとした自然描写。観念だけの子供であったときにふと感じた何事か奇妙になつかしい感覚。道端の雑草をしゃがんでじっくりと見るときの感覚か。水に映る木の影の感覚か。膨大な歴史の中でのこの時代の人間の特殊性が見える。苦痛や不幸はキクユ族にとっては笑いの対称になる。笑いとは繰り返す日常の中の波だちのリアクション。考えてみればそうなのだ。死ぬことを極端に恐れ、健康と「よい」生活のことだけしか考えないで生きているこの時代の特殊性。死ぬことが食べることと同様な自然な出来事だとどうして自分で納得しないのか。自己意識というヤツか。他、飼犬がいかにも山猫がいるというふうに吠えたて、あわてて銃をとって駆け出した主人がやがて家の飼い猫だとわかって犬を見たら、犬はしてやったりと「大笑い」して喜んでじゃれついてくる、というような場面。なかなか新鮮なアフリカの風景でありました。
今はこんなばかばかしいというかシンプルというか・面白い本しか読まないぞ。料理の得意なスパイ。フルコースのレシピ入りの小説。訳者はサラリーマンらしい。
「悪童物語」の続編。外国人の書くフランス語の冗長性が極端に排除され、鋭くとがった文体。淡々とした語り口が物語るとりとめもない人間の生活の揶揄。新しい切り口の小説。
著名な科学者が犯した誤謬の数々。ガリレオ・コペルニクス・パストゥル・デカルト。彼らが後世に残る業績を示したのは誤った思い込み・またはとんでもない錯誤の結果だった。ま・科学史のゴシップ集である。美化された天才達の伝記を読むときに常に参照しなければならない真実。ああ・それでいいのだ。みんな間違う。間違う故に進展あり。
さらりとした短編。特にこれといって感興をそそられた場面なし。
「悪童日記」第3作。だんだんつまらなくなる連作。主人公が普通の人格に習練して果てる。50年後の兄弟の再会というのは劇的な想像を喚起するが、うまく肩透かしを食らった感じである。この兄弟はあくまで戦争や家庭なんぞという俗事を常に超越していなければならない。
亡命者の記録。日常的なものごとがすべて虚構のような亡命先の生活。外国人としての日常。奇妙な夢。超俗的な日々の中で読んだので・また・国外逃亡の夢をそそられる。
Politically correct表現を逆手にとったアンデルセン・グリム童話のパロディ。アイデアは面白く楽しく読めたがそれだけのはなし。差別用語を・日本でいえば放送禁止語の置き換えをつかって古典を書き直す作業・とうぜんそのばかばかしさがストーリに影響を与え自ずからパロディになるだろう。
宦官がらみの中国史挿話集とでもいうか。
イスラーム社会に対する常識を仕入れようとおもったが。どうもすらりとした見通しは立ってくれない。各国一人の報告者による論文のアンソロジー。現在社会で唯一の生きている政治=宗教。
劉邦と彼にまつわるひとびとの伝記的短編集。安定した語り口が古代中国のひとびとの心情を語る。
鉄道でヨーロッパ・以前たどった道。かるい文章。ある記載に突然地図を手に町を歩いた感覚の再現があり頭脳白濁。それだけ。
前生がイタリアルネサンスの彫刻家であったと告げられた著者のデジデリオ発掘物語。これがすべてフィクションだとしたら大変な筆力。事実の記載だとしたらふつーのノンフィクション。
ひょっとしてこの作家の作品は初めて読む?なかなかどうして思わせぶりな出だしの文章で引き込まれてしまった。物語はだんだんと通俗的になり近未来sf調になりだらだらとつづき感動もなくおわってしまうのだけど。木が産み落とされた嬰児を見ながらその未来を予見するという凝ったつくりだけど・それがどーした風に・その設定が生きてくる場面はなかった。趣向で読まされてしまっただけのよーな。
なかなか良くできた小説といおうか。新聞社女性論説委員という設定が・確か評論家にほめられていた。ま・素材と会話とがうまく噛み合っている・いかにも小説か。えー・ま・知的な女性45才・美人が引き起こす小事件の顛末。小説家の描く高年ちかい男女の生態。官僚・大企業幹部・政府首脳・やくざの親分といった日本の表の顔のきらびやかな生活。ところで・45才女性(映画では吉永さゆり)の魅力とはどんなものであるか・実世界ではついぞお目にかからないサークルの内側はホントにこーなってるのか・とすると・やっぱり・当方のおかれている生活の場というのは・やぱり・ということでもなく。45才であっても魅力ある女性がいて・55才の哲学者とホテルで密会し・・・というような・やはり・そーゆー階層もあるのであろう・でも・それが小説という絵空ごとのたのしみとゆーものであるか・・・
相変わらず・会話調のぶつ切れの悪文であるけれど・馴れてしまったか。イタリアの章の憧れと同意と熱気はよかった。ヨーロッパ暮らしの高揚が感染する。それとチェコ亡命婦人との会話。さすがに犬養という名はだてではない。
商の最後の大臣棋士を軸にした商・周革命時のはなし。解りやすい縦糸横糸古文の簡潔な文体残酷な古代の栄枯盛衰英雄豪傑・の楽しみ。
慶応出の東京芸術大学助教授書誌学者・ケンブリッジ留学のエッセイ。軽妙な語り口で最近エッセイ集を量産している。イギリスにはカゼマスクはない・とか。御先祖様の加護とか。安心して出版できる著者になったか。
地球外の観察者が見たこの千年の世界史。西欧世界中心ではない見方といういい。中世・近世のアフリカ諸帝国とか世界史文脈の中の日本とか。歴史こぼれ話しといった趣もある。別宮貞徳監訳にしてこの文章:「今日の認識では17世紀末から18世紀末までの間に、「世界随一の町」だったものが、不健康な場所だという評判のために敵の攻撃を受けることがないほどの墓場と化してしまった。」翻訳口調の日本語でない文章。投書してやろう。
ノーベル賞前後の講演録。30分くらいの講演に自分のいいたいテーマをまとめ、話しの振りに適当なユーモアをもってき、最後には言いきってしまうなかなかの上手である。
エンターティンメントに奉仕する民俗学。才人である。オカルトとアフリカ旅行体験とドタバタテレビ風筋運びがなんともうまく・読ませられてしまう。呪術や格闘技の勝負の興奮。元よりB級娯楽小説に徹しているので強引な後半のオチつくりも許してしまう。ただ、細部の暗示がうまく最後に解決できなかった破綻がある。この前読んだ「タナトノート」と傾向がうまくペアになった2冊であるが、こちらの方がうまい。