幕府の高級官僚の目でみた開国騒ぎというところ。小説家が描く徳川末期の官僚はなかなかよくはたらいている。兎に角使命感というのがあって、倫理的にはかなりピュアな勤労形態であったのか。権力闘争もあってなかなか倫理だけではかたつかないのは世の常として。ま・それに学閥なんてゆーのもなかったから実力主義も現今より機能しやすかっただろうし。もし為政者の見識が保証されるなら哲人独裁制がイデアルかも。なんで理想的な地方分権制の徳川政治が崩壊するんだろうか?
大江健三郎もファンであるらしい村上春樹の・アメリカだより。兎に角軽くて読みやすくて面白くて結局「くそ!うまいなぁ!」という以外にないエッセイ。誰にでもかけそうでその実巧妙なプロの技術が駆使されている紛れもない職人のワザか。内容がない・とか深みがないとかいったところで・とにかく活字を追うのが快感なんだからしかたがない。
なかなか意欲的な歴史書であるので下も借りたけど、精読する時間なし。しかしこういう独断的な本は大好きである。読みつづけたくはあるけれど・・通勤読書としてはいささか長いよ。
村上陽一郎・日高敏隆・清水博・猪瀬博・丸山圭三郎・伊谷純一郎・鶴見和子
との対話集。ニュートン・デカルト的パラダイム(客観科学万能主義のいいか)
批判が統一テーマ。フランス語の丸山・社会学の鶴見なんかがなかなか興味深い
論を展開している。ゆっくり楽しみたいけれど・ま・最近の狂騒で落ち着いて読む
心理状態ではない。・・・はたして・この頭の中に電灯が一斉にともるような知的
悦楽の時が来ることがあるんだろうか・・・
何等の事件も起らないゆったりとした回想文。豊穣な歴史的文学的悦楽・・だって?そんな気分じゃないよ。もう二度と文学に接近することもない。
府図の書棚から手当たり次第に選らんだにしてはまーまーなSFだった。活劇はなく謎解きだけのストーリー。2001年風のパターンというか。イギリス産。
例によって周時代の人物群。王・宰相。すっきりした時代である。賢者はその言動によって栄達し、愚者は滅びる。うーん。そーかぁ?
東ベルリン・CIA本部でのセッテイングの状況は興味あったけど、ぜんぜん面白くない小説。生の素材を持ち出してリアリティの保証にしたのだろうけど、それがために一向に事実の枠から離れられない。小説的興味がまるでない。登場人物の政治家・外交官・新聞記者がうそくさい。
春秋時代の晋の卿であったちょう家の家主4人の伝記。独立した小説だけど、1冊に纏まって読むと感慨は深い。周王の候である晋の家来の卿が国のような領地を持っているというような封建時代のジオテクニックが面白い。やがてそれが高じて戦国時代になるのであるが。物語としてのみ楽しんでいるが、本当は歴史的な興味でもって頭で読んだらもっと面白かろう。作者がのめりこんでしまった中国古代史の面白さが素直に読者に伝わってくる幸福な小説である。
「星を継ぐもの」の続編。ハードSFということで。よく考えて見ると例のETから「優しい」ETばっかりじゃん。それにどうしても人間モデルの枠からはずれない。大作のわりに脳味噌を撹乱される場面はない。うまくまとめてあるというだけのSF。しかし、府図で創玄SF文庫が借りられるのはいい。
当方より若い世代で租界時代の上海にのめりこんでいるひとがいる。なかなかのコレクション。昔の写真・アンソロジー・著者のエッセイ。スパイと娼婦と阿片の上海。ヨーロッパの零落貴族と亡命白系ロシア人と中国人・日本人。世界史の中に浮かび上がったカーニバル都市。マルローと堀田善衛。よくはしらねども何かお祭り騒ぎのような・そういう・アナクロにのめりこむ感覚。
上海生・横浜領事の父に同行しての日本・といった他国籍時代の日本語作家の単行本。紛れもない日本語の作品である。日本語を母国語としない・さらにいえば意図して日本語を文学表現として選んだ外国人による日本語小説。で・内容が子供の頃の源体験・大陸・への感傷旅行。そんなにうまい作品とも思わなかったけど、無理のない日本語と内容は小説としての読む楽しみはあった。
つまらないドタバタタイムトラベルもの。「1千億の昼と夜」の作者か・これが?
コンピュータ支配社会モノ。しかし、基本的には情報工学への信頼があって、コンピュータへの愛着か、理想的なハッピーエンドに持っていく展開。推論し、自己改造し、環境認識をし、ついに自我を持つコンピュータがリアルに・丁重に書き込まれている。後半のサスペンス部がなくっても前半の学者天国風の知のユートピー風がすでにおもしろい。
やはりグールドは大事件であった。ぼくがグールドのレコードを楽しんだのは平均律1・2の延べ5時間くらいかも知れないけれど。あれから25年経っている。未だにグールドは新進気鋭のピアニストのイメージがある。けれどもその実は例えばメニューインなんかと同じ世代なのだ。今・こうしたアンソロジーを読んでいると・事件の全貌がわかってくる。知的に音楽の面白さを演出・構成することが演奏なのだった。そしてあらゆる文章の中でグールド本人の書いたり・喋ったりしてるものが一番面白い。文章だけで・文字を読む楽しさが伝わってくる知的茶目ッ気。完璧に演奏をコントロールできる知性は文章も自在である。ルービンシュタインとかリヒテルなんかとはまったく違った巨人。グールドを聴こう。
フランス語参考書で目にした著者が思索家であったのを知ったのは、最近読んだ河合隼雄との対話集であった。巻末に若い弟子の手になるソシュール研究から哲学に踏み込んでいった長文の後書き論考が付属。写真で見ると苦みばしったいい男である。フランス語教師から言語学・哲学に直線的に進んでいった学究の軌跡がすがすがしい。60才没。内容はソシュール言語学初歩の初歩ということでsigne,sinifiant,sinifie、langue,language,palrolといったソシュール用語の絵解き。しかし、頭は溶けなかった。
府図にある植谷ものの第一陣。あんましたいした対談ではないけれど。樋口は当方と同年。まあ・まともなことを言ってる。この頃の植谷は自作をかなり絵解きしている感がある。ドストエフスキー・ツルゲーネフ・トルストイに比して植谷・武田・大岡なんていってる。さて、ある種の青春の拠り所であった植谷氏も逝ってしまったしぃ・・・
公式グールドの伝記。大冊であって最後まで読めなかったけれど、奇人ぶりを楽しめた。この人に顕著なのは殆ど努力というようなベートーベン式の切磋琢磨の気配がぜんぜん見えないこと。ぱっと天才として世に出、そのまま奇人天才として50年で死んでしまった。例えば作曲家としての名声が欲しかったとか・幻学趣味のレトリックで文才を誇示しょうとか云々といった妙に生々しい同時代人の天才。不思議な人なんだ。ストコフスキーとかルービンシュタインだとか伝説の巨人と同時代の現代人。バーンシュタインとのエピソードとか・・
ちょっと分厚い目の啓蒙書であって流し読み。遺伝子とは何者かが知りたいのだけどあんまり頭にかすらなかったよーだ。
スペインに居住していたと思っていた堀田氏はこの作品集ではイタリア史上の人物に思いを馳せている。とりわけ中近世のキリスト権威の中の個人としての人間幅。歴史のばかばかしさと歴史を手玉にとる個人。
読みこほしていた隆慶一郎もの。生理的快感。剣士のヒェラルキー。とてつもなく強い剣士を打ち破る相対的位階上昇の快感。
素人の手になる啓蒙書。しかしこれは幾分か頭に切り込んだところがある。自然選択による適者生存という大前提はもう何の意味も無い状況にある。遺伝子には偽遺伝子・イントロンというような適者とはなんの関係もない余計な種別も常にかかえこんでいる。自然状態において弱肉強食で絶滅した種はない。むしろ複数の種があれば共生関係にすすんでいく傾向がある。偶然獲得した形質が環境に適応していれば種として繁栄するという古典的な状況よりも積極的に環境の変化に対応するパーツの組み替えを遺伝子が行っているという風な。異体としての葉緑素を取り込むことによって成り立っている植物相とおなじくミトコンドリアを取り込んで成立している動物相。
手慣れたSF。善意のETもの。植物性でまったくの方形というのがおもしろかった。
オチはなく、したがってハードSFの興奮はない。
久しぶりのクラークもの。小天体地球激突もの。まじめSF。実際にクラークは地球衝突の問題を現実に提起しているらしい。でも、小説としてはまともすぎる。
国際金融とコンピュータハッカーを組み合わせたなかなかよみ応えのあるエンターティンメントだった。とにかく専門分野の調べがきっちりされていて破綻がない。ストーリが
なんとなく弱いが、まじめな資料読みに感嘆。
遺伝子拡散の絶えざる手段としての性構造。一夫一婦制のバリエーション。社会的に一夫一婦制で安定し、不倫・浮気で機会拡大を計るというのが遺伝子の策略らしい。性による増殖はクローンに対して効率が悪いが、安全策として広く行われる。遺伝子の抗争相手は細菌・ビールスと他の遺伝子である。云々。面白くまとめてある。奈良出身のチカコさんに2回ほど電話で講義した種本。浮気のススメの理論武装(^^ゞ
ビッグバン理論があやしいという周辺の整理。しかし飛ばし読みで覚えてない。人間原理の的確な要約があった。狭義の人間原理:この人間が存在するという条件から演繹して宇宙のパラメータを設定する。→宇宙初期条件設定の回避
広義の人間原理:人間が存在できる系についてのみ議論が可能→他は科学のワクではない。ちょっと違うか?しかし・なかなか。
うまく構成されている連作短編集・長編。なかなかの趣向。パリに消えた祖父の足跡探求を縦糸にしてパリの日本人・華やかで豪気な戦前と現在のどこか暗くドロップアウトしてしまった日本人達。それぞれよく調べているし著者がそうであったというリアリティがある。当方も現在のパリの落ちこぼれ日本人達をまったく知らないというワケでもないから、あまりに小説的であったにしてもなんとなくうなずいてしまう描写。何よりも小説としての面白味が縦糸にあるのがいいな。喝采。1950年生。
ウイルスが引き起こした疫病の事例・ウイルス学・展望。軽い目の読み物を意図した文体。エイズよりもインフルエンザが殺傷量的可能性としては人類にとって致命的である指摘。遺伝子工学のベクターとして用いる「家畜としてのウイルス」。よくまとめてある記述である。しかし、ウイルスとは何かがやっぱりわからない。端的に増殖する機能だけをもった核としての自動装置。しかし人体内にもかつては外部から進入したウイルスであったものの痕跡があるとか。ううん。
「期待の新鋭、音楽小説で衝撃のデビュー」と帯にあり。ううーん。そーかぁ?1943年生で新鋭か。ちょっと焦点を絞れない物語。確かにパリ留学音楽学生の生活・旧満州国の移民の敗戦時の混乱・現代企業のトップのある一日とか細部の調査は確かだけど。一応出生の秘密の探求という線でまとめてあるにしても。語り手が替わる度にまったく違った物語の様相になる。そしてそれが成功していないんじゃなぁ。寄せ集めのようで。ま・主題が古典的浪漫的物語のようなので、あんまり生々しいドキュメントを挿入しても・というような。先に読んだ藤田宣永ものの方がはるかに小説的に面白かった。期せずしてフランス生活者の作を続けて読んだことになる。
リーガル・サスペンスではないけれど、検屍官という職業に密着したミステリ。デティールがリアルなのが強い。主要登場人物の大半が女性なのも面白い。大物政治家・検屍局長・ポスト紙記者・精神分析医。その辺のアメリカ事情の興味。それになかなか人物描写がていねい。何となく熱中して読んでしまった。それ以上のものではないけれど。
エッセイ風のミステリ作家仲間の楽屋オチ報告・連続うんこ事件という素材パロディ・「本格ミステリ」風の物語・脈絡もない宇宙論史のような素材・「小説ジャック」と銘打つコラージュ文学のパロディ、等々。それはそれで買う気もなくスーパーをひやかしている気分にもなるが。はっきりいって・つまらない小説。閉じられたミステリ文壇とファナチックな読者で構成される小宇宙内だけで流通する書籍である。しかしまあ・中井英夫、笠井潔、島田荘司なんかの名前は結構懐かしいのでついつい読んでしまったというところ。
日本で教育を受けた韓国官僚が老後、日本語で書いた作。日韓関係史をライフワークにする過程で表現法を個人史を軸にした小説にまとめた経緯も作中にふれられてある。なめらかという程ではないが、著者が愛読した風の司馬遼太郎等の歴史小説様のざっくりした文体。小説としては登場人物とくに大韓航空機撃墜で死亡した弟なんかの記述が意味もなくあったりして成功しているとはいいがたいが、そこはそれ、一気に読ませるだけの内容はあった。愛憎半ばする日本に対しての姿勢はよしとする。ま・言うべきことがあってとにかく言ったという思いは感じられた。老いたらせめて1冊の本を書く。誰でもそのくらいの歴史はあったのだから。
久方ぶりに読んだまっとうなSF。事故で減速装置が働かなくなった移民船が逆に高速化を計ることで銀河系を離脱・相対性理論により時間を引き伸ばし収縮に転じた宇宙の逆ビッグバンを通り越して新生宇宙でついに居住可能惑星に着陸するという・なんというかSFらしいSFというか。思考実験としてのSFの楽しみ。
九州大学医学部教授。一般向けに面白く書けている啓蒙書。T細胞が「非自己」を認識するメカニズム・細胞「教育」・自己免疫症におけるホメオタシスの中の矛盾。身体にとって脳自体も場合によっては「非自己」となり攻撃対照となる現象からの「自己とは何か」という問いかけ。人間といった一個の固体を絶対自己と思い込んでいる認識への別の角度からのゆさぶり。本当は個々の細胞の寄り集まった「社会」というのが自分自身なんだな。
1965年生・都立大独文助手。きらびやかな才気に満ちた異端文学案内・論。危なっかしい・青臭いレトリックが目につきささり、あ・ちょっとヤバイかなと思ったけど、どーして・どーしてなかなかの文章。独文の暗い森の奥の怪しい気配を楽しんでいる青年がいる。このくらいキザなスタイルで書いても読めてしまうのは恐るべき才能とゆー他はないか。諸君・脱帽したまえ。天才風だ。夢野久作・ハインツ・エバース・マゾホ等の論・というかエッセイ。「マゾヒズムは三角形として生まれたのではない。三角形になったのである。これは以下の展開のために、最初に明記されるべき事項である。」おお・かっこいい!ぱちぱち。
1978・24才の時の作。ミステリの中でミステリ小説を書くという2重構造。
ややこしいだけで、別にたいして面白いアイデアとも思わぬが。全体がファナチックな暗い情熱にあふれていて、果てしもない24才の妄想に満ちた夜の雰囲気がある。この年齢でよく書いたと思うけど、よく考えてみるとミステリ分野では何かしら、最初から同じファナチックなスタイルが確立していて、誰でも材料さえ工夫すれば文体を産み出す苦しみはクリアできるのだ。しかし、よく書いた。えらい。
一度読もうとしたけれど、大部分を占める辻家の古文書読み下し文に辟易して止めたよーな。今回はなんとなく通読してしまった。他人の家のルーツには興味はないけれど、辻邦生が自負するように・日本の典型的な地方旧家の生活資料・には違いないけど、急におやじの代から始まった怪しげなわが家系からは・ああ・そんなもんか・とつぶやいて敬遠する以外にはないけれど、今は人が自分の親の系統を知り、親というものに何事かの感情のつながりを見出し自分を親の子として認識する・その自己認知のやりかたも認めなくてはいかん・とおもう。旭子やヒロミの親に対する思いを聞いてすごしたここ何日か。彼女達には親というものへの愛情が確としてあり、それが彼女達の当方を引き付けてやまない性格の核になっている。旭子における家族という意味。ヒロミをさっぱりと生かしている父親の姿。ま・辻邦生さんとこの話とはあんまり関係がないかも知れないけど、家族というものについて始めて深く感じたりりしたこの時期の読み物というところでありました。
(ロシアでなくて)ソビエト・(ドイツでなくて)東ドイツ・東欧紀行。トルストイ・ドストエフスキーに文学的洗礼を受けたと称する作家の克明な文学史跡への旅。体制の違う国の不自由さのワナをかい潜って自分にとってのかけがえのない場所に身を運ぶ・やはり相当にナイーブな好奇心。東欧・東ドイツは当方の経験を追体験するような読みかたになってしまった。そうなのだ。やはり好奇心にあふれ、ひとり外国を旅するイメージはなにものにもかえがたい高揚感を生じさせる。作家が団体旅行で果たせなかったワイマールを一人で再訪する最後の描写の高揚感。異国を旅する高揚感のおすそわけにあずかれる、トクな読書。
ブラウザで簡単に表現できる3DグラフィックVRMLの入門書。ちょっとやってみたがなるほどなかなか面白い。
Le Mond,L'express等の記事の解説と訳。著者はサンケイ新聞パリ支社長を歴任。比較的最近の記事が多い。語学本の域を越えているいい時事解説がある。
現在のバスク独立運動テロ・過去の市民戦争、二つのスペインの時代にうまくからめた筋はこび。スペイン市民戦争を闘った日本人の足跡をたどるというジャーナリスティックな興味をかきたてるダイナミスムさえしっかりと設定すれば、あとは比較的楽に筋が運ぶとは思う。文献と実地の取材力が光る小説。巻末にスペイン現代史文献一覧があり、よくあるカッコ付けの装飾でなくて読者に対する読書案内としているのがいい。それにしても、海外という舞台でしか高揚しない・難儀な心。しかし、作者にしても海外取材の高揚感をバネにしているフシもある。確かに以前読んだ作者の「さまよえる脳髄」にはこのような高揚はない。あるいは若さというものか。
アルザスの言語をめぐる歴史のまとめ。ドイツ系アレマン人の地方アルザス→1648 フランス王国に併合→1870普仏戦争後プロシャ→1918第一次大戦後フランス→第二次大戦中ドイツ→後フランス。この間の言語の変遷。基本的にはドイツ方言アルザス語の地方であったが行政語のレベルではもちろん戦勝国のものが強制される。フランスの言語支配がきつい。訳者はなかなかの研究者風だけど、訳文が悪い。日本語のレベルになってないのが残念。2次資料としての注釈が子細で興味深い。ま、当方の個人的思い入れもあるだろうけど。
遂に二日目の半ばにして「向こう」いってしまった埴谷氏。この前本屋で見つけて・ふと・「死霊」第9章を買ったのはいいが、さて6から8章を読んだのかどうか定かではない当方から見て、実にまじめな「死霊」の読み手である。著者は河出書房の植谷や高橋和巳担当編集者だったんだから、プロの「読者」には違いない。屋根裏に住んでいた20前の当方に強烈なインパクトを与えた作品で、未だにインターネットのチャットでは時々「黒川健吉」という名前を使用することもある。ところで・一体「あれ」は何だったんだろう?生活・仕事といった白昼のただ経過する時間とは対局にある、夜の発熱する妄想の自在な時間。語られるのはこの生身の世界からどれだけ遠くに行けるのかという憑かれた情熱そのものではないか。何が語られているのかよーわからん。しかし、その語り口が誘う夜の自在な想像力の時間・不思議な吸引力をもつ夢そのもののような活字の連なり。文学にはこういう力がある。ところで・川西氏の「謎解き」は克明で、全巻読んでない人でも「死霊」について何事か語れるような気分にさせてくれるが、実際は埴谷が何を言ってるのか理解することなんぞどうでもよくって、人間がどこまで自分の妄想にのめりこめるか・というカタチを文字情報として目で確認し・おどろき・あきれ・ま・ふーん・と感心すればよいのでは。ま・川西氏と共にもう一度埴谷雄高という異色の文学者の世界にのめり込んだ日々の記憶を反芻する時間は、それはそれで。
1993年すばる文学賞受賞作。1968年生。うーん、soisante huiteかぁ。支倉常長に従って渡欧し、スペインに居着いた下級武士の冒険潭。大変面白い素材だと思うけど、文体が妙に芝居かかっていて変に軽く違和感がある。筋運びも俗っぽくて素材を生かしきれているとは思えない。面白かったけど、つまらん作品だった。
図書館の個人全集を見ていたら小松左京氏ものがあったので思わず借りてしまった。初期の長編2編、30年前に読んだ作品である。ぜんぜん関係ないけど、ドストエフスキーの全集でも読み返してみようとふと思ったりする。トルストイやドストエフスキーを読んだ・もしくは埴谷雄高を読んだのが20歳以前の少年期の体験だった。今から思うと文学があれほど当方に刺激を与えた時期はもうやってこなかった。と同時にSFマガジンなんかを古本屋でまとめ買いして読み漁ったのもあの時期であったろう。純文学ではなくてSF的刺激に対してはその後ももうしばらく持続はしたはずだが。ま。思い入れは大きい小松左京氏、しかし大半のあらすじは忘れている。ただ人間とその文明はどこへいくのかという思考実験が面白くて楽しめ、またそれなりの刺激は受けた気がする。刺激。ひとつは著者が作中に挟みこむ著者自身が歴史や科学史上で興味を持ち、調べた事象のカタログ。生の知的刺激のソース。小松左京が想像する人類の行く末。そして、手持ちの材料からハナシをでっち上げていく作家作業の語り部の語り口の楽しみ。例えば「果てしなき流れの果てに」は34歳のときにかかれている。たしか埴谷の「死霊」第4章までも34歳の時の発表ではなかったか。小松の興味の中心でありつづける人類の未来はここでちらりと娯楽作品のワクを越え、意識と存在の発生という地点にたどり着く。絶対者としての「宇宙の意志」とそれに果敢な反逆を試みる「個」としての人間の意識。パスカルが「考える葦」と喝破した時点でこの人間対絶対者の対立が意識に入って来た。現代の宇宙論と人間とは何かという太古の疑問・自分を宇宙史の文脈で理解しようとする・ふと・または・どうしょうもなく考えてしまう根源的問題。「自分とは何か」。小松はSFという形式で34歳の妄想を紙に定着させた。埴谷は埴谷で。ところで当方の34歳はただすたこら日本を逃げ出しゴマかしきってしまったと・いうべきか。
中世フランス語散文詩 La queste del saint graalの天沢訳。アーサー王の円卓の騎士が繰り広げる聖杯探求の"aventure"。湖水のランスロの不倫の息子ガラアドが真の騎士として聖杯を得る物語。象徴的な事件や見た夢を隠者・聖者に絵解きしてもらうという構図。たわいもない荒唐無稽な冒険歎が多い。中世の圧倒的なキリスト世界。遍歴の騎士・固定的身分制度→高貴な家柄に対する絶対評価。純潔の賛美。ばかばかしいくらいに不犯を賞賛する。逆に悪魔的サバトが存在し・性的に自由であったような中世の現実をあぶりだしているのかもしれない。なつかしい詩人である訳者の名前に引かれて読んだ。遍歴の騎士という中世ロマンチシズム以外にはあまり価値のある文学ではない。しかし、フランス語文献としては高い価値があるのかもしれん。懐かしい天沢退二郎の名にひかれて読んだ。多分この前の読書は20年前の「宮沢賢治の彼方へ」であり、その前は「天沢退二郎詩集」現代詩文庫であったろう。
「装いせよ、わが魂よ」「遠く、苦痛の谷を歩いている時」ほか。高橋和巳も埴谷雄高ももう死んじまって始めて高橋たか子を読む気になった。名前だけは奇妙になつかしい。余談だけど、22歳のとき淀屋橋近辺を合唱団の高橋和子サンと歩いていて「たかこ」と読むんではないか?と尋ねたことを思い出す。いいえ・カズコ。カズノミヤよ!とかなんとかという回答。そして最近奈良の合唱団で本人(喜田和子)と会った。25年ぶりというわけか。埴谷雄高が死んで川西政明「謎解き死霊論」を読み、その中に高橋たか子の名も引用されていた。旦那と関係のない引用であった。へえっ?高橋たか子かあ。というような感想があって、では読んでみようと思っていたら図書館に自選小説集があったというわけ。ああ・長い前置きだったけど、今日は「装いせよ、わが魂よ」について書くと決めていたのである。さて、どこから書こうか。
まず、外国人にとってのパリの非情なイメージ。「人はパリに死にに来ているように見える」とはリルケのマルテの手記の冒頭だったと思う。そしてそのようにして・死にに来るというわけではないが、生き悩んで生活を捨てて行くのにふさわしい都会はパリしかない。雑然と外国人がそれぞれ捨ててやってくる都会。旅行者にとって外国人しか見えない都会。ふとしたきっかけで教会の地下のパイプオルガンを時間借りして練習することとなった主人公が、都会の内部に「ふと」入り込んでしまったら今度はフランス人としか会わなくなったという感慨。男と女という生き方が「強い」のがヨーロッパ人という観察。その他随所に見られる「捨てて」住むものに対するパリの表情の的確な描写。安ホテルで観察できる・それぞれの事情でパリにやってくる観光客以外の外国人たちの描写。当方がカルチェ・ラタンの安ホテルでパリの第一夜を過ごしたのはこの作品の3年後か。茫洋とした記憶からたちのぼるパリの憂鬱。猥雑なメトロの通路。冷房のない夏。地方に行く二等車のコンパートメンントの人々。当方が持っている記憶の材料が高橋の素材と重なるところが多いので文学とは少し違う側面で活字を追う吸引力が生ずる。日本では強すぎる生きる力がヨーロッパの男の「強さ」と互角になる・と主人公に言わしめる「強さ」も理解可能。「個人」のことであり、それは男と女のことになり、やがて「神」に対するものになる。「個人」で生きていく国なのだ。日本での「生きにくさ」は主に性に関する不満として発露する。自分に見合う男がいない。しからば絶対的男としての「神」にいくか。
後で年譜を見れば48から50歳の作である。主人公は38歳。カフェで知り合った男に誘惑されてブルターニュあたりに一緒に行く挿話。日常を変えようとしているから男が誘うのか。なかなか意外でもあり、密かに待っていたような展開でもあり・うまい筋はこび。「日本脱出」がまた強く誘惑する時期だけに、なかなか刺激的で充分なっとくできた読書。あるいは「書く」ということで脱出することも可能か。
音楽ミステリーだそう。音楽ジャーナリストが主人公で幻の巨匠の来日にまつわる秘密を解明していく趣向。巨匠の弟子の美人女流ピアニストの出生の秘密とその心理的帰結というような動機がメイン。作者は業界のヒトらしくいかにも「音楽の苑」社とか私立音大の松芳学園とか・運野教授事件とか、いかにもホンモノらしく使う偽名が変に趣味が悪い。まあ・話の舞台装置である楽壇事情に興味をそそられるけど、小説としてはたいして面白くなかった。幻の巨匠がストラスブール生まれの仏・独混血というような設定がなかなか通だけど、何か安っぽいイメージがつきまとう。所詮はクラシック音楽界の「事件」であっても世間ではマイナーな出来事で、主人公達が大騒ぎをするのがなんだか大袈裟で滑稽というようなイメージか。
最良の読書の楽しみを保証してくれるシリーズ。興味ある素材を唖然とするくらいパーソナライズされた文体で語ってゆく・現代の西洋浪曲風。自分の息子の話をさりげなく混ぜてみたりするような、大冊ではあるけれどアカデミックな歴史物を書いてやろうというような気負いもつっぱりもない著者自身が惚れ込んだ男の話。ああ・そうか。この人、ほれた男の話をしたいだけなんだ・というようなスタイルがまことに平易でよくわかる話にさせている。合理的で超人的で怜悧で人間くさい英雄NO.1のカエサルという男の魅力が小気味よく伝わってくる。なんだかラテン語で「ガリア戦記」を読みたくなったりするような。カエサルと子飼いの軍団の兵士達との数々の逸話は十分浪曲的だし、天才的戦術と冷静な戦略は中国の英雄歎と同質の興奮があるし、政治思想は現代でもうなずける合理性に満ちてしかも・凱旋式のパレードでの兵士達の「市民達よ、女房を隠せ!禿の女たらしが帰ってきたぞ!」とのカエサルにあてつけたシュピレヒコールの逸話が語るような哄笑もある。古代というのはなんて豊かな時代だったんだろう。
ドイツ現代小説。死んだグレングールドと語り手と自殺したその友人の思い出をただ語るだけの小説。グレングールドという実在の人物が読者に周知であるから読み進められるだけの。しかしなかなか凝ったというか・アリアとその変奏風の語りだけの構造は見事というか。なんか意味がありそうで、別にまとまったメッセージを示しているわけでもない、思わせぶりなゴチック字体の用法。でもな・休み中でもないとこんなくそ面白くもない小説は車内ではよめないぞ。
一夢庵風流記は再読になるので読む気はなかったが、手元にあるとなんとなく活字を追い始めてしまい・結局全部読んでしまったというような面白さ。豪傑談の爽快さと忍者・山窩・くぐつ使い等の反権力の自由民に対する思い入れがサラリーマン生活の対局にあるユートピアを垣間見せてくれる。中にはとってつけたような好色場面があるけれど、これは週刊誌連載という発表形式におけるサービスか。いや・精力絶倫というのも豪傑潭には欠かせない要素ではあるけれど。
日本における通訳業の先達・出島・長崎通詞の系譜。著者がどうしてこうも通詞達に肩入れするのかよくわからんが、学術的というよりは思い入れ過多な文体。通詞のなかの天才達の業績。出島のオランダ商館長と日本人妻の子がライデン大学で優秀な成績を修めデカルトの著作に彼の記述があるというような挿話。通詞は世襲であり、通詞の子は子供のうちから家業の教育をうけ出島の原語に接しなどして現在のわれわれが心配することもなくみごとなオランダ語をあやつっていた。現在のわれわれにしても海外の風物に接し未知に対する憧れと高揚を感じるのである。当時唯一の西欧情報提供業通詞達の心情を想像することの面白味。それから、鎖国令前の時代に日本人貿易業者あたりががたとえばバダビアに普通に交易に行き、遊女その他の日本人が異国暮らしを普通にしていた状況も忘れることはできない。著者とともに「もし鎖国令がなかったら?」という歴史へのifでしばらく空想をする。
1952年生。10才、20才、30才、40才であった時代のそれぞれのノスタルジーと個人的思い入れに満ちた異色のミステリー。それぞれの殺人のトリックもなかなか読ませる。その時代でなければ成立しなかった殺人・あるいはトリックというのが2重に面白い。昭和30年代の呼び出し電話とか。著者とは4才の差があるが、ほぼ同じ世代といってもいい。そして昭和30年代の風物を作者が挙げていくとき、ああ・そうそうという風に時代を共有した思いがあり、学生運動最中の40年代で実際には大学に行かなかった当方の思い出の追認は中途半端となり、昭和50年いかに貧しくとも東京のマスコミ関連で働いている著者の語る風物は完全に当方とは分離する。ともかく、ミステリ仕立てで戦後日本を背景に自分の生活史を語るというなかなか素敵な発想は並みではない。
エイズウィルスを生物兵器的に利用しようとする企業の陰謀に立ち向かう考古学専攻大学助教授という設定。ウイルス学と古代日本史についてなかなか調べているけれど、何か全体が物語りになってない。たとえば日本の首相が皮相で滑稽な人物として描かれるステレオチップはうんさりするし、プロローグと同一文章を繰り返すエピローグもとってつけたような印象でどういう効果を期待しているのかよくわからん。エンターティンメントとして消化不良をおこしてしまう一冊。
自分のDC3で国際貨物のやとわれ運び屋をする日本人機長というなかなか魅力的な設定の主人公。飛行機で東・中央アジア砂漠や山脈を越えていくような情景はいつでも生理的な快感があるのではあるけれど。中国内のウイグル族やアフガニスタンのゲリラが登場する物語自体は安直な活劇であり、興ざめする運びでしかない。主人公の危機は常に以前助けた族長の息子・けんかしてお互いの腕力を認め合った人夫頭等が助けてくれることになる。その伏線がなんとも素朴な形で見え見えに出てくるので活劇としての先の展開がすでにわかってしまうというくらいの安直さである。せっかくの面白い設定なのにもっとうまい語り口にならないのかい?
な・な・な、開いた口がふさがらない。なんというきらびやかな才能。飛行機に乗りあわせたアメリカ人のウイリーのセリフからごく私小説的紀行文のようにさりげなく突然この活字による前代未聞の体験が始まる。中世神秘主義神学のシンボリスム、バルセロナのバルのカルマロ・フリット、オウエルのカタローニア賛歌、69年東京のバリケードの中の講座に出てきた田舎の高校生である作者、ホーキンス教授の「現象の地平線」、ラベルのボレロ、フィボナッチ数列、ピカソのファロス、エトセトラ・エトセトラ。カタローニア数3のダイナミスムとカソリック・法秩序の4がせめぎあうのが世界の本質であるということについての恐るべき知の遊び。小説でも紀行文でもエッセイでも論文でもなさそうだけど、まぎれもなくこれは興奮させる文学である。自由気侭な博覧強記の引用が確かな文体に支えられて明確なイメージをこれでもか・これでもかと紡ぎ出す。このイメージの連関・転調感は詩に特有なものである。まいったよ。白旗上げて降参です。1995bの読書評に中沢の才に瞠目した記述がある。うん。やはりこいつは「あの」ゆーめいな中沢新一だったんだ。
中沢新一に続けて安野光雅のカタルニア。画家安野氏にスケッチで案内されるカザルスの故郷。ピカソ・ミロ・ガウディときてカザルスか。関係ないけどカサドというチェリストもいて、日本人原智恵子が女房だったとおもうけど、弟子の平井丈一郎が日本でデビューコンサートを開いたときドボルザークの指揮をするため来日、イスに座って棒を振っていたのをテレビで見た。25年前。さらに戦前のEPレコードの付録にドボルザークのスコアがついているのがあって、古本屋で見つけて買った。堀内啓三もしくは野村あらえびすの解説があって奏者カサドであった。しかしカザルスは見た記憶はない。バッハの無伴奏チェロ組曲・ぼくのもっていたレコードは誰の演奏だったか。シュタルケルだったか。更にピエールフルニエはいつかの大阪国際フェスティバルで見たと思うし、サインをもらったような記憶もある。ロストロポービッチだったら確実に見たのを覚えているのだけど。さて、安野氏のカザルスはぼくよりも年長な分だけ巨匠カザルスの名がくっきりと刻み込まれてい、更に反ファシズムの闘志として生きた同時代史が生々しく、ゆかりの地を訪れる感興も大きいようである。スペイン市民戦争勃発時にフランコという名を新聞で見た世代。手慣れたスケッチと写真で読みやすく構成された、カザルスのカタローニアへの思い入れの書。いつもながらの手慣れた気負いのない読みやすい文章。才人。
「二台の壊れたロボットのための愛と哀しみに満ちた世界文学」という副題がある。しかし、タイトルも副題も一切内容とは異なる。マルコポーロの「東方見分録」や百科全書、本のカタログ、イエスズ会の宣教師の手紙等の体裁を借りてふざけまわる文章のジムナスティックの集成。政治風刺があるような正当パロディではなくって、無害明朗単純明解なただのパロディである。この辺の発想の一つや二つは今日も電話でちかこチャンに「パブロフのチンポ」の話をしたりして当方も得意分野ではあるけれど、ま・高橋源ちゃんのこれでもかとばかり量産した同工異曲の数々、壮観。さすがはプロの作家ということか。
主にDOS/V時代の外国語表示に関するノウハウ・実践例の集成。この分野で4年前の情報はもう殆ど意味のないものになっているが、なつかしさで目をとおしてしまった。当時新発売のWPのDOS/V日本語版が最新の日本語・各国語表示のツールであった時代。しかし、ぼくのTERADRIVEではうまくWPJが動作しなかった。買ったが実際使用しなかったもったいないソフトのはしり。しかしDOS/Vは良かった。ユーザーが苦労して作り上げた「文化」があった。当方のパソコン事始めと重なっていた時代であるからか・当時の雰囲気への思い入れは深い。
梅棹忠男・立花隆・林望他との鼎談集。5年前の出版ですでにこの情報整理分野の情報としての意味はない。梅棹・立花は除いて対談者の大半が当方と同世代。荒俣氏が一つ上か。林の端正な風貌に嘆。立花がワープロに批判的なのが面白い。並列的なデータベースではなくて、人間の目で取捨選択した・つまりは恣意的に意味を付加されたメモ的記録を通読することによってストーリーが見えてくるという。ま・全体的に荒俣好みの雑学書誌学慶応閥人選。
いわゆる疑似科学・とんでも本。しかしながら当方には文章のレベルは別にして、論旨の誤謬は発見できなかった。それどころか既成科学アカデミズムに勇気をもって批判を加える熱気に思わず肩入れしてしまった。ことほどさようにアカデミズムの弊害の根は深いという基本的認識が当方にあるからか。特にアインシュタイン・ホーキング等の批判として数学的に割り出された解はあくまで思考実験としての論理解であって、そのまま真実=現実の世界がそうであるということではない、云々というような主張はいちいち腑に落ちる。そうなのだ。数学的に正しくとも虚数なんていうものは現実には存在しない。この人間の感覚の常識でもってすべての論理解を検証しなければ空疎な論理のための論理となってしまう、云々。実にまっとうではないか。後でインターネットnews fuji.pesiodscienceを読む。曰く、この手の「誤った」論理を大手出版社が発行することが問題だ。というような問答無用の説であるらしい。news groupで見た意見で唯一の肯定的論調は「科学エンターティンメント」として読めばそれはそれで楽しいのではないか、というものだった。確かに。
いつのまにか「おかしな・・・」がシリーズになってるようである。決してさっそうとした剣豪でない、時代の小市民的侍達。時代劇小説にしては劇的場面がなく面白くないのだけど、なんとはなしに読み進んでしまうのは素材がユニークなためか。ま・こういう切り口もあってもいい・といっておこう。
サンフランシスコ州立大の日本人留学生がバイトに明け暮れ、女の子と付き合いアメリカを観察する自伝的小説。1967年の20才の若者の目で見たアメリカの細部が実に的確で生き生きと書けている。著者が主人公という保証はないが、これだけの細部を書くにはやはり主人公が著者でないと。生活基盤がなくともなんとかやっていける若者の軽いノリがなかなかさわやか。ベトナム戦争について大学生がよく議論したあの時代の雰囲気へのノスタルジーに満ちた小説でもある。
安野光雅の装丁がやわらかくて美しい「世界の都市の物語」シリーズの一冊。世界の都市で今一番行ってみたい地名。ボスポラス海峡をはさんだアジア・ヨーロッパに跨る都市。1453年メフメットU世によるビザンチン帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンチノープル入城でトルコのヨーロッパ化が始まり、コンスタンチノープルのイスラム化が行われる。モーツアルトのトルコマーチに残るイエニチェリ軍楽隊の響きがウイーンにまで押し寄せた中央アジア産の遊牧民族の栄光の名残である。イスタンブールの4基のミュレットのセント・ソフィア寺院の前身はギリシァ正教の司教区本山であって、イスラム教徒はキリスト教寺院を破壊せずに使用し、むしろ十字軍による異端寺院の破壊がひどかった。ついでながら例の中国にまで伝播した景教の祖ネストリウスは5世紀のコンスタンチノープルの主教であった。歴史的・地理的に興味あふれる都市で、ヨーロッパ人がオリエントの言葉からまっすぐ連想する地名であろう。昔のハリウッド的観光式スパイ映画で「トプカピ(トプカプ)のダイア」風のタイトルの映画を見た記憶。あ・さらに陳さんもふれているけど日本におけるE・H・エリック・岡田真澄という亡命トルコ人の存在も思い出す。前者は日本のマスメディアにおける「おかしな外人」の元祖であり、日本人が最初に親しんだ「西洋人」ではなかったか。弟の後者が純日本人としての役どころであったのも実にトルコではある。彼等は日常的に家庭内ではフランス語を使用していたのはどこかのエッセイで読んだ記憶がある。後はストラスブールのトルコ語学徒小島剛一氏の思い出か。陳氏の文章は平易で、紀行文と歴史解説とが適当に交錯しているなかなか面白いまとめ方である。歴史自体も非常に面白いので、へぇーっとか感嘆の声をあげながら著者の案内でイスタンブールを案内してもらった雰囲気の本。
「トンデモ」となってるけど「ト」学会のスタンスではなく、むしろ「トンデモ」派にちかいスタンスで異端とされる説・学者をさらりと紹介している本。ロジャー・ペンローズが最高点。異端はきり捨てるものではなく、正統にはない未知の可能性がひょっとすると明日の正統になるかも。というような、当方からすればまっとうとおもえるスタンス。どのみち物理科学の徒ではない当方にとっては正統も異端も関係なくただ面白ければいいのではあるけれど。この本は記述は平明であるけれど、正統物理学の文脈がわかっていないモノにとっては異端性もわからず、最終的にもよくわからん本。ベリコフスキー「衝突する宇宙」事件というのがあったそうで、正統学会からの圧力が出版社にあって結局学術書の出版を専門としない出版社から出版することになった・ということである。当方も昔買って読んだ(日本語版:法政大学出版局)ことを思い出す。確か異端ではあるがまじめな大冊。どうも・アレが「トンデモ」のはしりであったらしい。
ついになれなかった職業(大工、極地探検家、芸術家等)についての自伝的エッセイ。今でこそ学際研究が脚光を浴びているけれど、恐らく梅棹氏はアカデミズムの本道ではなかった。しかし京大系はもともと東大正統アカデミスムへのアンチテーデ風でもあったろうからこの人もついには親分になった。考えてみれば「季刊人類学」というのが一般書店で売り出されたとき創刊号を買ったのは何年前か。確か梅棹氏は京大人文研究所助教授であった。今は民博館長だもんな。今でも一番マスコミ受けしている学者ではなかろうか。岩波新書の「モゴール族探検記」も読んだし、当然「知的生産の技術」に影響されもしたりした。ある意味ではついにアカデミックな何者にも関係なくぼんやり過ごしてしまった当方の人生の「裏がえしの自伝」というのが梅棹氏であったような。別にその方面で何らの活動をしたワケではないが、あり得べく人生というものの中に学者という項目があれば、それは梅棹氏風のモノだったろうというような。こういった自伝風エッセイを読むにつけ自分のしたいことと社会の枠組みが見事にかみあった幸福な学者生活が見えてくる。「季刊人類学」の読者であった時代には、それがこれほど遠くの世界であるとは思ってなかったけど。
利き腕・言語における右優位・サイコロの目・回文・渦・メビウス・クライン環からはじまってDNA・電流・原子・粒子・スピン・パリティ・スーパーストリング理論というふうに最先端での対称性の話題を極めていく。子供の頃1957年度ノーベル賞受賞者李・楊氏の写真を見た記憶がある。中国生まれということで印象に残っている。彼らの業績が素粒子のパリティの非対称性を明かすことに関するものであったと今知った。世界は対称性でなくてはならないという美意識から脱却きたのは彼らが東洋人であるからであったというコメントも紹介されている。物理学とは壮大な遊戯であって、いかにもっともらしい首尾一貫したウソを固めていくかというソフィストの修辞学である。からして「数学パズル」のノリがなつかしいガードナー氏が語るのがもっともふさわしいような。
時代劇剣豪小説風SF伝奇小説。SFとしての新趣向はないが、ま・はちゃめちゃのそれなりに楽しめる活劇。暴力によるおどろおどろしい身体のデフォルメーション・淫蕩卑猥な獣的性行為の描写等これでもか風に続く。ご都合主義のストーリー・思い付きがいかされていない登場人物等粗雑な部分にも事欠かない。しかし、「初めにいっておくが、これは傑作である」にはじまる後書きの遊びのノリがおもしろかった。文章製造の遊び。
ひょうひょうとした軽薄体のエッセイ。日常の中のふつーのイベントを改めてよく考えてみると、何かしら見えてくるものもある・という路上観察の大家のうんちく。さすがに偽千円札事件の顛末に触れたエッセイがおもしろかった。そういえば、千円札を描けと言われても全く手も足もでない。後で良く見ると聖徳太子ではなくて伊藤博文ではなくて夏目漱石だったりする。見てないものである。「原稿の途中ですが、医者に行ってきました」というふうなノリはもう限りなく話し言葉に近い文章の証か。
対談集(大岡信・池田満寿夫・中村雄二郎・中島梓等)また古いコンピュータ関係の本を借りてしまった。3年経てば情報としてはもう使い物にならない。しかし、西垣氏は技術者というよりは知的冒険者という風情で、情報技術論より雑学的興味で読めてしまう。「あの」哲学者中村雄二郎と互角にやりあってるのは見事であった。トピックスとしては古くてもう誰もいわない話題も多いけれど、たとえば巽孝之とのSF事情は参考になった。今は話題がインターネットに行ってしまった感があるけれど、ひところのコンピュータに対する思い入れ、高揚があった時代の雰囲気はかすかに感じられる。
1937にアメリカ労働者としてスペイン戦争に参戦したジャック白井の足跡を追ったルポルタージュ。民主主義・反ファシズムという若々しい情熱にかられて労働者が「個人の意志で」祖国ではなく外国の政府を防衛するために銃を持ち戦った時代のお話。ここにも理想に駆られ行動する個人と現実に取り巻く組織の理想とは程遠い内紛や教条主義が夢幻的な美談の高揚を醒まさせる。しかし一日本人ジャック白井に関するルポとする限りは戦前の日本の孤児→アメリカ市民生活→スペイン義勇兵という魂の開放物語として直線的な切り口で語り終える事ができる。当方もうわさに聞くスペイン市民戦争の実態をこの日本人を軸になんとか聞きおえたというところ。
「元編集者のワード・ウォッチング」とのサブタイトルあり。職業学者でない趣味的語学の達人がうんちくを傾ける語源の話。そういやしばらく語学もやってないな。パソコン通信の書き込みに熱中していた時代の話の種はこの手の各言語をたて横につらぬく語源・語彙の発見の話題であった。correctのrectからドイツ語rechtを見、英語rightを類推する風の発見の面白味は、ペダントリ趣味にも合い、パズル的でもある。どうやら日本評論社で校正をしてきた横井氏は日本語・英仏独露各言語が守備範囲であるらしい。感心するのは英語の発音に詳しいこと。この辺は実際に使用できる証ということであろう。日本語の言い回しにも一家言あるのは編集者という職業柄からか。趣味・雑学の王様はやっぱり語学。
少し古い本だけど、有りそうでなかったケマル・アタチュルクの伝記。フランス人外交官・伝記作家の書。ガージ・ムスタファ・ケマル・アタチュルク。最後の「トルコの父」は共和国になってから作った姓であるそうな。ケマルも通称に近いような記述がある。ま・とにかく風采の上がらぬ農民出身のうるさい将軍がオスマン期以前のシュメールやヒッタイト遊牧民的頑迷さでライバルを何とか蹴落とし、共和国の理想を説く口と同じとは思えない乱暴な粛正でもって独裁を勝ち取る。ここまでは南米小国風私利私欲の悪徳将軍による軍事クーデターのようなイメージもある。共和国大統領になってからの逸話が奇妙におかしくて明るい。腐敗崩壊したオスマン帝国をわずか10年で新生トルコ共和国に作り変えちまったのだ。イスラムの廃止、暦・教育制度・アルファベットの採用・自前の経済復興・鉄道の建設等々。反対派をことごとく死刑にしてしまって行う全能の独裁者による民主国家の建設。国民が競ってアルファベットを習いに学校に通ったというような、大戦直後の日本のような・奇妙な明るさ。底辺にまで落ちることによってようやく拭切れる捨て身の明るさ。カラマーゾフ兄の語る大審問官の挿話のキリストのような大衆と独裁者の関係。B6ではあるが、細かい活字2段組の大著。翻訳文もまあまあ。
何やら長大な小説らしいので読み始めたが、おどろおどろしいSM・屍姦・人体料理・楽屋オチ風半実名悪ふざけ(栗本慎太郎・南伸宏他)・三浦半島独立はちゃめちゃSF・語呂合わせ遊び小説となってきたので、時間もないし・だいたいわかったよ・というところで、以降は読まないこととする。ま・遊びたいだけ遊んでいる感じがして面白いんだけども。
前回読んだ同じ著者のケマル・アタチュルクの伝記に導かれて読。夢中になって読んだ。サラセン帝国の成立から説き起こされ、突然パリの貧相なマグレバンのイメージから豊かな中世アラビア文化が立ち沸き上がる。何よりも詩人が重要な職業として位置する言葉による文化。中世以前の西洋がさかだちしてもかなわない豊饒なアラビア文化のイメージに陶然となる。現代史上に奇跡的に成立した神話、イブン・サウドによるサウジ・アラビアの建国。古代中国の義による戦争を見ているようなイスラムの大儀による超人的な王の聖戦。地球儀的規模でも認識できる広大なアラビア半島の大半を領地とする王国を無から作り上げた現代の王。そして奇跡・油田の発見。宗主王国という中世と石油パイプラインの奇妙な混合。未だに混沌としている中東の政治風土。アラビア史という未知の豊かな知識の油田を掘り当てたか?
ハッカー、ケヴィン・ミトニックと下村努を協力者とするFBIの捜査逮捕のドキュメント。史上最悪のクラッカーとしてミトニックを描き、下村を正義の味方とする商業主義的出版物と対抗する形での出版というスタンスだそうである。単なるちっぽけな愉快犯であるミトニックをスケープゴートにし、新聞に書き立てて世論をあおり結局は自著への宣伝とする、下村のインサイダー・NYタイムスのマーコフ記者への疑問を投げかけている。とにかく電子メデイア上のことであり、ミトニックが本当に実害を与えたのか判然としないし、下村の行状もなにやらあやしい。事件全体として、善玉・悪玉の個人名が大きく報道され、記者の筆致がたやすく世論を形成するようである米国のジャーナリズム、同じく個人の捜査感覚が大きく影響するようであるFBIや検事の捜査令状サイン等々が面白かった。
日本軍管理時代の上海。日本生まれのダンスホールの名花・スパイのリリーをめぐる日本軍中佐・アメリカ人外交官・人民軍将軍達の物語。狂言回しの当時の少年が現在上海を老人かつての中佐をつれて危篤の現上海の党の元老であるリリーに会いに行く話との重層構造。戦前の上海に素材をとり、人物を適当にピックアップしてくればこのくらいの物語は自動的にできてしまうのではないか・程度の小説。といえば失礼か。強いて言えば主人公が現在中国の党の大物になっているとう設定で現在との接点を作り話を立体化したのが新味。
欠陥翻訳時評シリーズ集約版。当方にも一応翻訳のシゴトが入っているのでまたベック節を聞く気になった。ベック氏の憤りはよく解る。単に日本語らしきものをでっち上げて翻訳でございと称する商品例は当方の机上にもある。これが憤激をそそるのは作者に罪の意識なく、編集者に反省なく、読者に追求の意志がなく世に流通してしまっていることである。金銭詐欺なら刑事事件として公示されるが、翻訳詐欺はベック氏が細々と連載している場でしか糾弾の機会がないのがなんとも情けない。
誤訳のパターン)(当方の分析)
1 英語が解っていない→直約単語の羅列→日本語になっていない文章
2 原著者の意図が読み取れていない→「てにをは」の不自然さ、めりはりのない日本語3 日本語が解っていない→理解させることを意図していない日本語
ということで、たいていの場合意味不明の日本語があるということが誤訳の指標となるはずだったけれど、新しいパターンもあった。
4 英語が解っていない→内容を勝手にでっち上げる→よく解る日本語
最後のパターンは少ないけれど、一見自然な日本語のなかにも誤訳の可能性があるというケース。今回の例中ではさる女性翻訳者のものがソレ。
多くの場合翻訳者が専門の翻訳者ではなく、各分野の専門家で言葉に対する感受性に問題のあることが誤訳の主原因であった。各先生方の読者に情報を提供する姿勢が「翻訳を買ってもらう」というより「何とか日本語で紹介してやったのだから後は自分で考えよ」風であり、確かに今に至るまで日本語としてこなれていない「翻訳口調」が普通に通用している・社会的に許容されているという事情もある。学校の英語教育も単語対単語の逐語訳を正解としていた事情もあるだろう。つまり、英語文中で使用されているすべての単語が「漏れなく」訳されていなければ正答とならなかったったというように。確かに流麗な日本語をものすることはむつかしい。だからといって翻訳モノだから日本語以前の単語の羅列でいいとはならないのは自明である。たとえ悪訳であろうと一度読んだ書物は新訳がでたとしても再読しないのが当方のようなふつーの読者の通例であろう。せっかく時間を割いて読みはじめた翻訳書が誤訳・悪訳に満ちていたとしたら、心理的には立派な詐欺罪が成立すると思える。なぜ誤訳本が詐欺罪で告発されることがないのか?
新人の第一作だそう。上海公安部(警察)の捜査員を主人公にした日本人がでてこない警察小説。文革時の上海が舞台。どういう経歴の作者か解らないけど、ただの資料読みからだけではうかがえないような異国のある時代・ある職場の雰囲気を活写している。ストーリー自体は別に面白くもなんともないミステリだけれど、同時代史資料的な興味で読み進むことができる。いままで冷戦時代の米ソ・あるいは英人スパイ小説を日本人が書いた例はあるけれど、上海とは恐れ入った。フィクションとしてはあまり豊かではない気もするが、まじめ風の文体、取材で好感はもてる作風である。
著者の住所・西成区聖天下。在野のもの書きというところか。ルイ14世・フリードリヒ大王・ナポレオン・ビスマルク・ヒトラー等の人物を主に語る歴史談。「フランスとドイツ、フランス人とドイツ人、いずれ劣らぬ、世にすぐれたる二つの国民の上に、永遠の平和と、幸せと、栄光あれ!」という結びの文章が明示しているような文体とおおらかな精神である。著者のたとえばビスマルクに対する思い入れが無反省に素朴でおおらかで俗々しくって・もういいか・と停読しかけたが、結局面白く最後まで読んでしまった。特にビスマルクとヴィルヘルムII王のくだりがおもしろかったな。考えてみると名のみ高いビスマルクの行状については無知であった。この人もケマル・アタチュルクみたいな頑迷で不細工で独裁的な指導者であったが、何の虚飾もなく政治におけるプラグマチズムを実践した人として語られている。おそらく著者がもっとも共感するタイプということなんでしょう。独仏闘争史という線で現在のベルリンの壁の崩壊や拡大ECの経緯をまとめている視線はなかなか新鮮でもある。東ドイツの吸収とビスマルクの統一ドイツを直接結び付けるとか。ま・愉快でさわやかな読後感ではありました。
A.D.クックス・開高健・桑原武夫・ライシャワー・網野善彦・大岡信・李御寧・樋口陽一との対談集。死んでますます声望高い感のある司馬遼太郎で当方のイメージもかなり変わっていく。とにかく最初は剣豪小説作家というイメージだったんだから。日本史・日本人の幅広い知識からくる納得の行く分析と見通し。あるいは対談者達のような歴史・文学の専門家にはできない通史的・通時的視線で全体を眺めるときの感慨。たとえばユニークな日本人・日本文化というものが成立したのが室町時代であり、現在でもその文化遺産をくいつぶしているだけ・というような観察。国政にもムラのレベルの「オトナと若衆宿」の権力構造があり、実際に活動する若者を裏でオトナがたしなめ・コントロールするカタチで動いてきたというような権力の二重構造への洞察。大岡信との対談にでてくる中世歌謡の無常感とそれを楽しむ遊びの気分「何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ」(閑吟集)。日本のルネサンスか。
中国歴史小説で「胡」と記され、地理歴史の中央に登場してはこなかった匈奴・あるいは部族連合としての匈奴国家。こうした「外」側からの記述を読むと実際には歴史・地理に中央はないことに気がつく。ゴビ砂漠の北方の地理を思い浮かべようとしても漠として形を成さない。結局は文学・文字をもたない民族・国は歴史の記述の外側に埋もれていってしまう。匈奴の名も中国小説で目にするだけで、したがって中華周辺の少数民族「胡」の国家という認識が強いのはいたしかたがない。しかし、漢代では国家としての力は匈奴の方が上であり、遊牧民としての生活原理からくる民族的自負・定着農民よりも自由な自分達の生活への誇りがあったようである。漢代以降は次第に中国化し、五胡十六国代以降では北魏のような遊牧生活部族連合ではない中国式国家を営む部族も多くなる。しかし、遊牧生活をすてなかった部族もあり、ゲルマン民族移動のきっかけとなったフン族(fin)は北匈奴の200年後の姿に他ならないという説もある。ちなみにヨーロッパ人は未だにこのフン族の記憶が強く、当方の名前をいうと「アッチラ」と聞き取られたりしたことを思い出す。
呂不葦伝その1・少年時代。宮城谷の中国もの新作が出るとほくほくとして借りてしまう。中国古代のすっきりとした英雄・豪傑達のふるまい、賢人・王候・宰相・武将達の豊富な逸話。宮城谷が題材にとる春秋・戦国時代の偉人達の物語を読み漁っていると旧知の偉人達もそれぞれに関連し記述されるのは歴史事実として当然となり、前作の物語もすべて一体となった総合歴史小説になるのではないか。清涼な快著。
それでもわからん中東・と返したくなるほど複雑な中東事情。タイトルの割にはアカデミックとまで言わないけど、なかなか細かくデータ・統計・クロニックを挙げていてカタイめの本。政府出向のベイルート駐在が永い、中東経済研究所主幹氏の労作。細かい事件・事象に立ち入って読みはしなかったが、それなりに「中東は複雑なんだ」と納得できる内容。アラブ・ペルシャ・トルコのからみ。スンニ(スンナ)派とシーア派。アラブの雄・サウジのワッハーブ。隠者の篭もる山という歴史からくるベイルート内戦の分析が新情報で興味深かった。アラブが未知である限りアラブの情報にはいつでも気をひかれる。もうしばらくアラブにつきあおう。
幕末の越後長岡藩家老・河合継次郎伝。司馬遼太郎が丹念に掘り起こす日本人の歴史。河合は気鋭の下級武士として生まれながら維新の偉人達とはことなり徳川譜代の長岡藩という枠のなかで自己の政治を行う。勤王でもなく佐幕でもないスイス風の武装中立を目指す。卓越した指導力と豊かなアイデアと人脈で成功寸前相手を得ず挫折し、悲劇的に生涯を終える。いつもながら豊かな資料の読みと想像力にひきこまれてしまい、この大冊を一晩で読み尽くしてしまった。吉原の遊女・京の性的に開放されている貴族の女との交情場面。奥羽各藩の代表者が集って衆議する場面で、当時は議長によって運営される会議というような風はなく、ただ回状がまわされてくるのみだった、とかいう蘊蓄。さもありなん。しかし、よくそんなところに目がいくなぁ。大政奉還後慶喜は水戸に隠棲してしまい、官軍が西から攻め上ってくる江戸の革命前夜の様相。武士50万・町人50万の人口の半分が残務整理をし江戸を落ちのびていき、次第に無人の町となっていくような、混沌とした時の出現。時代が変わるときに出てくる英雄・豪傑の類。何かが変わろうとする時代の雰囲気。密かに戦争や革命といった時代の異常な変転を心待ちしている風な。
誤訳パトロールでおなじみベック氏の音楽エッセイ。雑文家としてもなかなか腕の立つところを見せている。実兄が別宮貞夫と聞いてかすかにそういう名前の作曲家がいたことを思い出す。一高・東大オーケストラ時代からの絵に描いたようなクラシック音楽愛好家。この年代の西洋音楽に対する思い入れはこちらの世代に倍加する。少・青年期の感受性からくる文化的憧れがそのままの社会生活の核につらなる、いってみれば少年の夢が大人としてのライフスタイルに直結している明快なすがすがしさがある。当方がすがすがしくないのはやはり当方がベック氏ではなかったからであろう。エッセイの最後に掲載されている青年時代からの同好の士を語る追悼文。死んだ他人の人生を鳥瞰するときの、ひとまとめにすべてよしとしてしまうような善意誤魔化しはあるとしても、先ずは青年期の憧れの矢印が生涯の終わりまで運んでいってしまうすっきりとした線。
中編小説2本。夫に逃げられた田舎の主婦が東京で結婚詐欺師に付け入られる。しかし、逆に謀って詐欺師を夫にし田舎に帰る話。都会が田舎にいっぱい食わされる逆転劇は爽快・学生運動家を装う詐欺師のらしいセリフがなかなかの出来。他一遍はグロバリンで自殺を試みる自称詩人がもうろうとした意識で迎える隣の女との、真実か妄想かというようなセリフの駆け引き。そんなに面白い小説でもないけど、いかにも小説書きらしい作風の筆。1949産。
エッセイ風のあとがきは村上春樹ばりの内省軽薄ひらかな「ぼく」人称会話体で、目にすらすらと読めてしまう芸風を認める。超常現象や恋愛感覚の若々しい断片をおもしろおかしく、怪異潭ふうの味付けもして、いかにも大衆文芸雑誌にあぶなげなく掲載することができる短編小説集。村上春樹よりは村上龍風の悪ぶりもつよい。本文に思わせぶりな(アグレッシブな・と書いてある)写真が挿入されていたりして雑誌風小説というか。面白くは読めたけど・すでにそれがどーした風のマンネリズムに見えたりして。しかし、後であるシーンを妙に思いだしたりする。確かにプラスアルファがある作家かも知れん。
元タイトル"Word & play"という1冊の翻訳書の誤訳のみをコレクトしてコレクトした・それだけで1冊の本として出版されている驚くべき書。とはいえ、下欄には本文の解説・補足・参照・蘊蓄・あるいは連想から喚起された別のコラムがあったりして、雑誌構成に近いノリにはなっているのだけれど。しかし、真に驚くべきは著者の日本語操作能力か。どうして日本人のプロの翻訳者の文章より的確な日本語を書けるのか・ま・言語に対する抜群のセンスというほかはない。絶えず繰り出される日本語の駄洒落。
1571年の教皇・ベネツィア・スペイン連合軍とトルコ海軍の数時間の海戦での主にキリスト教連合軍側の人物に焦点をあてた記述。この人の筆致には地中海風とでもいうような乾いた熱があってなかなか快い。くだくだしく・忌まわしい業の合間にベネツィア風の豪華な海戦の図のカバーがかかっている本を開くと、遠い地・遠い時間からの風が吹き込んで快さに今を忘れる。これが読書の楽しみというものではないか。「海の都の物語」や最近の「ローマ人の物語」に比べれば・ま・あまりに短い一瞬の歴史ではあるけれど。
いかにも慶応出身の育ち・毛並みの素直な文章。軽くて外国ネタで安心して読める、しかしまあ、読まなくったって別にどうでもいいような。とりわけ、けなす理由もないような。今回のくっきりとした意見で記憶にのこるもの:イギリスと日本の銀行員の態度よりのアナロジィの結論「イギリスの銀行は信用できないけど、信頼できる。日本のは信用できるが、信頼はできない。」なるほど、考えてみればヨーロッパで接した商店主・売り子・事務所の係員・郵便局の窓口担当は人間としての客との会話からはじまる。現在日常的に買い物をする日本の商店では自動販売機にすぎない売り子しかいない。いや、南都銀行郡山支店の担当の女の子はそーでもなかったけど。かの地でなかなか自動販売機が普及しない理由のひとつはその辺にあるのかもしれない。
大航海時代とは西洋側からの呼称であり、東洋・インドは発見される前から厳として存在していた、との前置きで始まる著者の視点を良しとする。先週はレパント開戦を西洋側の人材から描いた塩野七生の書を読んだが、オスマン帝国でさえ記述されるのは西洋との関係においての相だけである。オスマントルコ・サファビ朝ペルシャにティムール帝国の後裔であるインドのムガル朝の建国と拡大、そして終焉を平行して述べた力作。イスラム系帝国ではあるけれど、それぞれに経緯と歴史があり、特にサファビ朝・ムガル朝のややこしい王位継承紛争の子細な記述は目を見張る。イスラム正統アリと神聖ローマー皇帝の血をひくサファビ朝イスマールの物語とか、バーブルやアクバルのムガル朝の王子同士の争いとかなかなか興味深いものがある。中国古代の建国物語は小説の主題として日本語で読めるのだけど、アラビア・イスラム・インドあたりの建国物語をものするもの書きはいないものかなぁ。中国モノに勝ともおとらない筋立てが可能なんだがなぁ。
建国潭は多いけれど、これは元に滅ぼされる宗の人々を描いた滅亡潭というか。文体に目立った特徴はないが、なかなか手慣れた語り口だと思う。司馬遼太郎や宮城谷昌光にくらべると面白おかしく語る創作力に欠ける気もする。参考文献を見てみると中国発行の書籍が数多く引用されている。学者の系列の小説家かもしれぬ。征服者元のフビライや大臣バヤンをなかなかの人物として描写している。あるいは元の建国潭といってもいい。まずまずの書。
正月読書用にかりてきた大著。司馬遼太郎にしか書けない全体小説的歴史小説である。石田三成を物語るのが大筋として、後はしかし歴史・政治的背景分析・島左近を中心とする武勇伝、上は大名から下はたまたま後世が覚えていた名もない農民達の逸話。セリフを与えられた人物は数百名、名を記載された人物は千を超すのではないか。石田と島の性格を描き出すための小説的光景の創出。歴史に隠れてしまって比較的自由に講釈できる石田の愛妾との情景。この時代「義」という観念が希薄であったというような、藤原惺窩が日本で初めて学者という職業を始めた、とかいうような時代考証。圧倒的な情報量である。石田については堺屋太一の小説が近代の法治主義の模範的官僚として好意的に扱っていた。司馬遼太郎も同じような見解だか、その小児的正義感を家康の老巧と対置してやや揶揄するようではある。それにしても悲劇に終わった正義の人という日本人好みの舞台装置であったのに、後世の不人気はどうしてなんだろう。才子・官僚・知識人という風なイメージに対する反感があるのかな。遼太郎の筆致も石田を語るときはなかなか手放しで筆を滑らせられない風情である。この点、すぐそばに配した島左近を語るときの自由な筆致がひきたってしまう。最初から最後まで超人的な武士、戦術家としてのびやかに小説をものしている。やはり、こいうタイプの豪傑でないとハナシにならない。司馬遼太郎も豪傑を語りたいだろうし、日本人・僕たちもそういった超人的英雄潭が本当に好きなんだから。