[読書控 1998 index]

〔読書控〕1998/01/15(木) 22:04

多田富雄「免疫の意味論」青土社 1993

なかなかの書き手。最先端の研究者であって文章の書き手というのは得難い。文章が書けるというのは技術もあるにしても、書く思想性がなければかけない。書くに足る思想がここにはある。自己と非自己を区別する免疫系のしくみを解析することによって「自分」「生命」というような観念に具体的な肉付けをあたえ、しかし実際には古典的「自我」の崩壊を垣間見せる最先端の事実がある。臓器の機能低下が老化をもたらすのではなくて、むしろ自分自身を攻撃するような強制的なやり方で「老化」はプログラムされている。エイズは他からきて自らをのっとり自我となる。これが排除できないものであるかぎり、エイズは文化となる。エイズが自我の一部となった社会の形ができてくる。「平均年齢の低下は無常感をはぐくむのだろうか。若者が静かにお茶をたて、香を聞く・そういう光景が見える。」アレルギーが増えている。本来環境の中にいくらでもいる雑菌にたいする過敏反応がなんでもない花粉、日常の物質に対しても発現するようになってきた。大都会の人工的な無菌状態が巧妙に機構された古典的免疫システムを急激に時代遅れな有害なものとしてしまう。云々。免疫系という「自・他」の区別が身上のシステムがどのような問題を提起しているかということが、そのまま社会のアナロジーとして聞こえてしまうような恐るべき相似性。刺激に満ちた本。


〔読書控〕1998/01/14(水) 00:11

小串敏郎「王国のサバイバル・アラビア半島300年の歴史」日本国際問題研究所 1996

タイトルの軽さからは想像もつかない単調で真面目なサウジアラビア通史。文末がすべて「た」で終わっているという救いのない羅列体の大著。しかし、この国の歴史的事実の羅列はへたな装飾をしなくても十分読み進むに耐える好奇心をそそる。イブン・サウードによる建国史部分はブノアメシャン「砂漠の豹 イブン・サウド」で読んだところだが、以降の王子達の王位争いが政治の中身として現在にまで至っている王国の不思議。ナセルが死んでサダトになり、ベギンとノーベル賞を受けたのは記憶にあるが、その間サウジを含む半島で何があったのかぜんぜん知らなかった。イエメン戦争とかレバノン内戦とか現代史の大きなトピックなのに、とにかく知らない。一方でこの著者のように腰を据えて中東情勢を情報収集、分析記録している「専門家」もいる。当方が無知な分野の専門家は無条件で尊敬したほうがいいな。


〔読書控〕1998/01/04(日) 18:44

司馬遼太郎「燃えよ剣」(司馬遼太郎全集6)文芸春秋 1971

正月快楽読書その2。新選組副長土方歳三の伝記。新選組というと佐幕派暗殺集団で政治的には無思想、歴史的には孤立ただ大衆映画・物語の中だけの存在であった。確かに歴史を変えることはなかった。しかし、歴史とかかわってついに函館五稜郭にまでつきあうのだ。ちょっと余談を書く。今日今年のNHK大河ドラマ「徳川慶喜」の第一回を見た。司馬遼太郎の「最後の将軍」が下敷きらしいので今年は見てやるかと思ったのだけど。出演者として徳川斉昭役・菅原文太、新門辰五郎の女房・大原麗子とあって20年ほど前に熱中して見た「獅子の時代」を思い出した。明治革命期を生きた架空の会津藩士(脱藩)の物語であったが、五稜郭の名なんかはそのドラマで知ったような。いきなり第一回がパリ万国博で始まるというような思わず引き込まれる良くできたドラマだった。この土方歳三は近藤勇とともに農民剣士であり、政治思想で動くのではなくただほんものの武士であろうという美意識だけで明治革命と関わり合い、まさにその無思想故に幕府軍に最後まで忠誠であった風にすがすがしい痕跡をとどめ、司馬遼太郎に活写されることとなる。実をいうと新選組副長が当代唯一の剣士であり、日本でも独自な組織者であり、ついには洋式装備の幕府陸軍を采配し輝かしい戦績を揚げる指揮官でもあるというようなことは初耳であった。特に新選組以降の土方について他の明治革命をあつかった小説でお目にかかった覚えがない。どこからこんな素材を見つけ出してきたのか司馬遼太郎の目に感嘆。それにしても、あの時代どうしてそれ程の人材が輩出したのだろう。時代が人を選ぶのか。


〔読書控〕1998/01/17(土) 23:34

森雅裕「会津斬鉄風」集英社 1996

「ベートーベンな憂鬱症」の作者とは思えない題材。趣向としては幕末の会津からはじまって時代の有名人を書いた少々ミステリー仕立ての連作中編小説で、各小説の副登場人物が次作の主人公になるという・まあ・凝った作りである。しかし、なんとなく焦点に欠けるきらいがある。変わった経歴の作家である。最終的には芸大の美術を出てるらしい。やはり「ベートーベンな」が新鮮味があった。作家として試行錯誤をしている過程のような気がする。


〔読書控〕1998/01/20(火) 22:42

マルク・アルテール「救出者・なぜユダヤ人を助けたか」幸田礼雅訳 NHK出版 1997

戦争中にユダヤ人を救おうとした「正義の人」をインタビューするドキュメント。あまりに大きな悪を糾弾するよりも、ささやかではあるがそれでもあった「善」を記録しようとする著者の姿勢が表明される。対戦中リトアニアのカウナスで領事をしていた杉原千畝に言及されているので読んだ。杉原は「正義の人」と賞されるほどには身の危険はなかったように思う。免職処分。それより戦前のリトアニアの、首都でもない都市に住んでいた日本人という時と場所からそそられるものがある。「正義の人」は探せばどこにでもいる。ナチス親衛隊将校がユダヤ人に逃亡を示唆し、見逃す場面さえある。「当然のこと」であった。しかし、「当然のこと」が成立する時代背景ではなかった。著者の解説・思いいれがドキュメンタリの切れ味を鈍らせている。


〔読書控〕1998/01/21(水) 22:46

立山良司「エルサレム」新潮選書 1993

ジャーナリストの筆になるエルサレム案内。歴史的政治的宗教的軋轢重層性。パレスチナ問題。イスラムとユダヤの係争。まぁ、ユダヤはちょっと強引だと思う。そのちょっとが2000年も昔のハナシから来てるんだから。キリスト教徒の側の各宗派の争奪戦のハナシもえげつない。「聖墳墓教会のステイタス・クオをめぐる争いで現在もっとも深刻なものといわれているのがコプト正教とエチオピア正教との間の対立である」うーん。エチオピア正教なんてのはさしずめ天草カトリックというような代物なのかいな。イスラエルはエルサレムを首都としているが、各国は大使館をテルアビフにおく。エルサレム市のとなりがベツレヘム市である。ベツレヘムという響きになるととたんにクリスマス的祝祭神話的夢幻のヴェールが脳内にたちこめる。現実はどうか。ただの暑苦しい泥石中東都市だと思うけれど、実際に足を踏み入れて「これがベツレヘムか」と実際にいうとすれば頭の中はその夢幻と現実を調停しようとしてぐちゃぐちゃになってしまうような。そのありうべくゆれが精神を震撼させる高揚となるのか。うう・行ってみたい。


〔読書控〕1998/01/24(土) 12:29

巖谷國士「ヨーロッパの不思議な町」筑摩書店 1990

いままで読んだことはないが、本屋でよく見る著者である。専攻は仏文・ヨーロッパ文化を教えているそう。なんだ、当方と五つほどしか違わないじゃないか。それにしては死んだ澁澤龍彦を友人だなんて書いてあるし。うーん・とすると当方ももうかなりの年齢ということであるのか。B6変形縦長美術紙使用の豪華な装丁である。一読して3回おいしい。(1)文章がおいしい。確かに当方もあの町にはいった。しかし、文章はでてこなかった。ヨーロッパの町の不思議。それは旅をする目的である好奇心を満たす源という意味である。軽く次の町に降り立つマクラと起承転結を経てさらりとさりげないオチでしめくくる日付入りの文章。それはやはり、町を歩きながら文章を物してやろうという姿勢がないとだめだな。それが当方と違うんだな。

(2)変形縦長版の下側に脚注のようにあしらわれているふんだんな写真がなかなかそそる。フェルメールの「ターバンの女」だとか、ピサの斜塔だとかルーマニアのとあるカフェだとか。白黒の小さい写真がまるで自分で見てきた光景を思い出のように輪郭もくっきりとおさまっている。なかなか立ち止まってしげしげと見るに値するようなモノ多し。

(3)この文章の書かれた場所・時期に当方もそこにいた。ブダペストの風呂屋とか、リヨンだとか、バルセロナだとか、あ・ルクセンブルグは5年前のハナシか。したがって、著者の旅に従いつつ自分の旅もついでに回想してしまう。読んでるウチにふと今まで思い出したこともないような自分の旅のある光景が出現したりする。本を閉じるとまた消えてしまって、今はもう無いのだけれど。

旅の不思議を味わうために旅立たなきゃ・・・という挑発の本。


〔読書控〕1998/01/29(木) 01:45

D・マクニール/P・フライバーガー「ファジイ・ロジック」田中啓子訳 新曜社 1995

ロトフィ・ザディが主唱し日本で流行したファジイ理論の動向。インタビューとルポルタージュという極めてジャーナリスティックな構成。日本人名が大半を占める。バート・コスコの経歴が面白い。カラテ有段者でシンフォニーの作曲家でsf作家で数学者。興味のあることに向かって猪突猛進する若いアメリカの学者のプロトタイプを見るような。ファジィ理論そのものの解説は極めて初歩的な部分しかない。要するに二者択一的分岐の真・偽表論理操作で構成されていた理論体系をゼロ値から1までのアナログ的段階で評価するような論理操作に変えようということか。特徴として:システムの動作記述が決定論的に複雑な数式にまとめなくても良い→いいかげんに単純な規範記述。ルールの数が少なくとも良い。個々のルールが欠けても、誤っていても全体としては機能するような総合性がある。ということでいいことずくめであるそう。現実にはファジィ的論理評価を現象分析に多少生かすというような使用法がされているのだろう。ま、とにかくこの本はドキュメンタリであって理論書ではない。実際の技術についてはよーわからん。


〔読書控〕1998/01/31(土) 03:36

中薗英助「北京飯店旧館にて」筑摩書房 1992

大戦前に北京で青春期を過ごした著者が40年ぶりに取材で北京再訪する懐旧の連編小説集。小説というよりエッセイ・紀行か。上海にくらべ北京の戦前はなじみがない。貴重な文献というべきか。表紙裏に1938 年発行の、そして裏表紙裏に1988年発行の北京市街地図が装丁してあった。著者が個人的に入り込む懐旧歎につきあう義理はないと思えども、外地・戦時下の青春を描き、文革の後遺症がなお散見する現代北京を描き、とうとう一緒に10日間の滞在をつきあってしまった。現在の散文的状況に配して40年前の光景が美化されるのは老年期の著者を考えると責める気にはならない。滑らかで堅実な好感のもてる文体。



〔読書控〕1998/02/02(月) 21:01

ジョージ・クレア「ベルリン・廃虚の日々」兼武進訳 新潮社 1994

「La derniere valse de la vienne」だったけ、ストラスブールの本屋の特設売り場で買って読んだ。フランス語でまともに読んだ本はすべて翻訳ものだったような気がするが。ウイーンの成功したユダヤ人ブルジョアの家系の話だった。なかなか興味深く読んだ覚えがある。これがその続編。ようやくイギリスに脱出した24才のクレア氏が今度は戦勝イギリス軍人としてベルリンに赴き、ドイツ人の「非ナチ化」任務を遂行する日々の回想である。先ず、明晰で柔らかいユーモアのある文章が楽しめる。翻訳も悪くない。3層ほどの高揚がある。占領軍として赴く母語地域ベルリン。かつてユダヤ人として命の恐怖を味わった都市に今度はドイツ人を裁く勝者として帰ってくる逆転の高揚。戦後という未だ日常が始まらないエア・ポケットのような奇妙な祝祭の高揚。各国が入り乱れて戦後処理をするベルリンのやがて現代を規定するに至る歴史的・地理的焦点に生き会わせる高揚。なによりも24才の青春の高揚。まさか、青春文学として読んだ訳でも無いが、奇妙な開放感とリズムが紛れも無い著者の青春を感じさせる。ナチスの本拠ベルリンでは良識ある市民も多く反ってユダヤ人にとっては安全であった風な記述は、先に読んだマルク・アルテール「救出者・なぜユダヤ人を助けたか」と符号するし、ウイーンのナチスへの狂騒ぶりは映画で見たギュンター・グラス「ブリキの太鼓」のカリカチュア的シーンを思い出させる。この作品はベルリンの壁崩壊直前に書かれた。もちろんフルトベングラーやカラヤンももういない。多分「最後のベルリン」ものとなるのでは。

森本哲郎「ウィーン」(世界の都市の物語)


〔読書控〕1998/02/03(火) 22:28

島津義忠「わが魂、売りもうさず」PHP研究所 1996

北陸の小藩のお家騒動にからむ剛直な藩士と組み抜けをした伊賀忍者との交遊・忍者剣豪陰謀地方都市風情エトセトラ。達者な語り口ではあるが、今一つ盛り上がりに欠ける。会社重役の余技だそうである。ならば結構。


〔読書控〕1998/02/09(月) 22:57

金庸「碧血剣」全3編 岡崎由美監修・小島早依訳 徳間書店 1997

中国系ベトナム人のDeが読んでいるのを見た記憶がある武侠小説のビッグネーム金庸。寒くて何もする気の無い日曜日、こたつにはいって口になにがしかほうばりながら読とやめられない風の全3冊。明朝末の群盗・結社・私兵が割拠する背景の英雄潭。一癖ありそうな風貌の各流派の達人達が披露する技の数々、若年の主人公が超人強さで技能のヒエラルキーを上っていく快感。どのみち物語を推し進める興味は主人公の超人性なんだから、おぜんだてがもっともらしく、多彩なのがいい。そこがそれ、本場中国のおどろおどろしい魁偉達が似つかわしい。ああ、おもしろかったぁ。


〔読書控〕1998/02/15(日) 12:09

笠井潔「群集の悪魔」講談社 1996

「哲学者の密室」の膨大で精緻な遊びとしての知の技術。今回はフランス2月革命期の社会情勢を背景にした連続殺人を創作する。犯罪の動機にフランス市民革命の背景説明が必要だとして門外漢には前半のバルザック的社会描写がなんとも退屈だった。社会の中心が王侯英雄革命家個人ではなく群集という取り柄もない個の集合体へと移っていく考察が犯罪の構成要因になるという衒学的な構成なんだけど、ちょっと遊びすぎではないか。名探偵のワトソン役を務めるシャルル青年がボードレールと察せられた時点で当方もやや、この凝った仕掛けを楽しみはじめたけれど。最後の胸のすく鮮やかな名探偵の手並みを楽しむのにこれほどの衒学的仕掛けが果たして必要なんだろうか。確かに、「哲学者」のときは名探偵登場後よりもその前の仕掛け自身が面白かったようなんだけど。結局パリ革命はナチスドイツよりも当方に対する刺激が弱すぎるということか。


〔読書控〕1998/02/18(水) 00:12

井野博美「アンドロギュヌスの肖像」青弓社 1994

若い美女の男である両性具有の青い目の日本人が主人公。作者と主人公がどの程度の相関性を持っているのか分からないけれど、半陰陽の性と自我を語る異色の小説。といっても別におどろおどろしくはなくて妙に軽い今風会話で流れる青春小説の趣である。グルノーブルのコンディラックAで一夏を過ごす設定であって、半陰陽よりもそちらの方が吸引力があったか。確かにぼくもグルノーブルの夏の講座にいた。そういえば東京の語学学校から夏の間若い女の子達が大挙してやってきていた。夏の終りには例えば「アヌシーへ悩みにいく」とか称して、それぞれの性的発露の決着をつける風の女の子もいたような。軽いくせに妙にクセのある、饒舌調の文体。二重にあいまいな主人公の独白には似つかわしい文体か。ちっとも現実臭のないカスみたいな小説。で、こういうのが小説を読む楽しみというか。


〔読書控〕1998/02/20(金) 21:51

クリントン・V・ブラック「カリブ海の海賊たち」増田義郎訳 新潮選書 1990

有名なカリブの海賊船長の列伝である。虐待された下級水夫達のユートピアとしての海賊生活。何の面白味もない下層生活よりも波乱に満ちた太く短い人生を選択した海賊達。抵抗するものには残虐ではあるが、合理的な指揮系統と仲間意識と獲物分配の明確な協定、すっきりとした力の価値観が支配する喜怒哀楽的人間の世界。スチーブンソンの「宝島」やベルヌの「15少年」に出てくる敵役としての御伽噺敵海賊というものを歴史として紹介している好読み物。かなり砕けた原著の口調だと思うが、増田教授の翻訳はぎこちない。翻訳口調まるだしで日本語になっていない部分多し。


〔読書控〕1998/02/23(月) 23:53

リック・リッジウエイ他「七つの最高峰」三浦恵美理訳 文藝春秋 1995

テキサスの石油資産家ディック・バス、ワーナーブラザース社長フランク・ウエルズという成功を収めたビジネスマンが50才を越えて7大陸のそれぞれの最高峰に登攀するという冒険をくわだて、実行するドキュメント。最初は金持ちの道楽的な甘えがあったフランクも、真摯な努力をし、ついには征服するという勲章よりも山で出会う仲間達との時間が貴重なのだという風に目覚めていくといった、いかにも、ハリウッド的に臭いストーリーもある。南極最高峰ヴィンソンやエベレストの登攀記には生死の境目を往来することも辞さない不思議な登山の力学があって、目が離せない。緊迫した描写は読者の休憩をも許さない。自分で企てた計画に従ってそれを実現していく。それだけのことなのだが、そのままふらりと死の方向に入っていってしまいたい極限的疲労を通り越してまで自分の計画に従うものなのか。失敗してもそれは別に他人にはどうでもいいことなのだ。死の縁をのぞいてまでして生還し、始めて自分の意志の強さ、しぶとく生きている肉体に安堵するのか。なんという生物だ。あるいは原始のすべての他者に対する生存闘争の記憶が自分自身の細胞にむけられるのかもしれない。ま・そんなことはともかく、いかにもアメリカ人らしい精神と肉体と社会的成功賛美のさわやかな一冊。訳者は書中に登場する三浦雄一郎の娘。でも、素人とは思えないいい翻訳である。


〔読書控〕1998/02/24(火) 23:11

松田毅一「日欧のかけはし・南蛮学の窓から」恩文閣出版 1990

フロイスの「日本史」を訳した南蛮学者の一般向け著作のアンソロジー。き真面目で面白味のない学者の苦しい文体である。日本における南蛮人の事跡の克明な報告。支倉六衛門(常長)・ソテロの遣欧使節のみすぼらしい実態の考証。日本語漢字では読み方がわからない当時の発音が宣教師たちの報告書の欧文文字表記で明らかになる例証等等。もう少し文章に才があればなぁ。


〔読書控〕1998/02/25(水) 23:59

リービ英雄「日本語の勝利」講談社 1992

タイトルがものものしいが、著者の日本語による第一エッセイ集。前回読んだ小説では叙述スタイルが端正な古典日本語私小説であったかような印象がある。いきおい日本・日本語とのかかわりあいがテーマのエッセイが多くなるが、韓国モノもある。李良枝に触れた文章が多い。確かに、日本文学に「差別」という視点以外の豊かさをもたらしたと当方も書いた。彼女が次作を書くことなく37歳ですでに死亡しているのを初めて知った。で、日本語でオーソドックスな私小説をものすることのできるこの著者はどういう視点を持ち込もうというのか。もうここには「外国人が書いた日本語による作品」という注釈の必要もない、紛れもない日本語から出発した翻訳でない日本語の作品、更に言うならすでに完成している著者の日本語のスタイルに従ってことばと発想がつらなる純日本語作品として最初から成立している文学がある。なぜ日本語か?という問いかけは、この光景を日本語で記述したいという著者の言の前に消えてしまう。文体や言語は自由に選べる世代。かなりローカルな地帯で青春してしまった当方より2つ下のアメリカ人である著者の方が70年代の新宿の青春を語るにふさわしいとはいえよう。



〔読書控〕1998/03/08(日) 13:21

パトリック・セリー「名人と蠍」高橋啓訳 飛鳥新社 1997

かつてのチエスのチャンピオンである強制収容所の囚人が所長に呼ばれてチェスをする魅力的なシーンに誘い込まれて一気に読まされてしまった。中間におかれているナチスのサディズムの極致・人間チェスの場面の被害者イコール加害者の錯綜した心理劇。チエスの名人が脳髄のなかで膨大な可能性の配列をたどるときの意識が無意識となり狂気と神の領域になっていくような描写。収容所の本当の悲惨はナチスの行状ではなくて同じユダヤ人がちっぽけな権力の犬となって同胞を脅かす構造である・という風な感慨。通信チエス世界選手権の相手から送られてきた「毒をしこんだポーン」を食ってしまい、あるときふとその仕掛けの筋道が見え、致命的な失策を犯したと気がつくときの狂乱。基本的にはチエスをプレーすることですべての人生を営んできた強制収容所帰りの老人の心理劇である。現実の極北のナチスによる収容所の恐怖の演出の数々と灰色物質内で行われる思考の極北。エンターティンメントB級小説このみのわたくしメとしては最後に致命的な失策を神のような天才的閃きで逆転させ、高揚の中で意識をうしなっていくような通俗的終幕が欲しかったところであるが。


〔読書控〕1998/03/09(月) 23:33

陳舜臣「耶律楚材」上・下 集英社 1994

女真(満州)系金王朝の契丹人宰相の子耶律楚材がモンゴル帝国の宰相となり2代の皇帝に仕え天寿をまっとうする。日本在住の華僑の息子で、日本語で表現する陳氏の創作意図はよくわかるが、武将でなく、詩人でもない単なる文人政治家の伝記ではあまりにも地味という感がいなめない。確かに、よく調べられた伝記ではあるものの、小説としての起承転結というかメリハリがぜんぜんないのはさびしい。蛮人モンゴルに徴用され高官となる楚材が、モンゴルの圧倒的な力を制御し、漢文化を守ることを自己の使命として職責を果たし皇帝に寵愛されるいうのが縦糸であるけれど、なんかあまりにも大義名分すぎて、くそ面白くもないということになってくる。ま、実際にも真面目な宰相であったのかもしれないけれど、ただ異民族帝国で宰相をしていただけでは小説にはならないような。


〔読書控〕1998/03/10(火) 22:55

森本哲郎「ウィーン」(世界の都市の物語) 文芸春秋 1992

安野光雅の装丁が印象的な世界の都市の物語シリーズの一冊。前回読んだ陳舜臣「イスタンブール」も面白かったが、こちらの趣向も負けてはいない。ウイーンのカフェに腰を下ろし、連想の赴くまま回想にふけり、思い立ってかの人々が住んでいた家を見に行く。歩きながらまた歴史の中に迷い込むといった自由な都市案内である。音楽家と画家と建築家と文学者・科学者の他、ウィトゲンシュタインとヒトラーにも思いをはせる。ついでながらクリムト描くところの肖像マルガレーテはウィトゲンシュタインの姉であったり、掲載されているヒトラーの写真が「チャプリン風」でない真摯な表情をしていたので見入ってしまったりした。子供の頃のコレクションであるマッチのラベルのアールヌボー風意匠の話しからはじまって、フロイトに言及するとき自分の青年期の女性へのいわれなき嫉妬の念を告白したり、そう、ウィーンは誰にとってもある種のかかわりがある町である。
1988年パリで開催されたウイーンの回顧展を見に行って最終展示室のスライド、シュテファン・ツバイクを初めとする今世紀初頭のウイーンで活躍したユダヤ人のビッグネーム達の名前とただ亡命・自殺といった死亡年だけが列挙されたスライドと、突然終わるシュトラウスのワルツ、に衝撃的な印象を受けた当方も、こちらはこちらで気ままに回想する。ジョージ・クレア「la derniere valse de la vienne」、ケン・ラッセルの「マーラー」や、これもフランス語で読んだ、誰のだっけ「l'art d'aimer」というアルマ・マーラーの伝記、あるいは本文中に引用されているアルフレッド・シュバイッアー「シューベルト」朝井真男訳というタイトルを見てかつての当方の蔵書の何冊かを思い浮かべる。とりわけブルックナーの伝記。ムジール「特性のない男」を読んだ記憶。芸術新潮に1982頃に連載されていた「エゴン・シーレ」が最初のシーレ。ナチスであったクルト・ワルトハイムが大統領になったときもうウイーンに足を踏み入れることはないといっていたストラスブールのユンク。等々。例えばウイーン世紀末の存在に気がついたのはウイーンから帰ってしばらく経ってからだった。実際に当方がウイーンで見たものは市民公園のヨハン・シュトラウスの浮き彫りの石像だけだったんだから。
文学カフェの連想が森本を編集者として場にいた「近代文学」や「夜の会」の思い出を語らせる。あ、なんでこんなところで植谷雄高の名前を見るんだろうか。となると、戦後の一時期にあった政治と文学の季節の記憶が案内者の回想と重なる。ついに当方に実現することのなかった文学と東京。時代錯誤な美しき蒼きドナウ。


〔読書控〕1998/03/16(月) 01:14

メランベルジェ「宮沢賢治をフランス語で読む」白水社 1995

大阪日仏センター編の翻訳の授業ライブシリーズ。一度フランス語を勉強していたときこの人の講座を受けた。授業はフランス語だった。最初の質問者の当方がフランス語で質問したからか?この本では日本語のやり取りになっている。あるいは翻訳か。なかなかユーモアと語学的センスがあって楽しかった。で、実際的にいうと、日本人学習者がフランス語に翻訳するというのは学習という効果を別にするとまったく意味がない。例えば rendre ce livre jusqu'a lundi は不可能。毎日本を返しつづけることになるから。というような実例は説明を聞くとよく納得できるが、外国人の耳には別に不自然に聞こえない。生活者でない学習者が翻訳することは不可能である。そして、外国人というレベルならこのフレーズは十分理解可能であろう。手段・道具としての語学ということを見極めると受講者達のレベルはもう充分である。だから、こういう学習は実用以外の知的遊戯というべきだ。
それにしても・語学というのはコレクションに似てこれで十分という見極めができない技術である。別に今更フランス語をどうこうしようという気はないが、何の役にも立たない une piece droleとune drole de pieceの違いを眺めて、うん、なるほど、と悦にいるのが知的快楽というものか。


〔読書控〕1998/03/16(月) 21:26

杉山正明「遊牧民から見た世界史・民族も国境もこえて」日本経済新聞社 1997

のっけに「凄まじいばかりの漢字の造形力」に注意せよとの警告。遊牧の「遊」は遊行の「遊」でのんびりとした遊びというイメージを持ってはならない。草原と荒地は限りなく近い。といようなところから国家・国民の語の安易な使用と命名されてしまってなんとなく納得してしまうこの文字のまやかしというところまで。中央アジア遊牧民・文献に残ることの少なかった集団を、中国と西欧の文献をとおしてだけでしか理解していなかったわれわれの歴史観の欺瞞性を説く。その上で可能な限り事実だと思われるスキタイからモンゴルに至る連綿と世界史に影響を与えつづけ、西欧が東洋を発見するはるか依然から世界帝国が存在していた中央アジアの「遊牧民国家」の歴史を述べていく。
去年から、トルコから始まってアラビア・ペルシャ・インド史関係の本を読んでいるが、地球の陸地の中心であるアジア大陸の中央が初めて見えてきた気もする刺激的な好著である。タイトル自体はひところフランスで話題になった "Croisades vues par les Arabes" (Amin Maalouf) を思わせる。当方も比較的中国史に題をとった小説を楽しんできたクチであるけれど、ついこの間も陳舜臣「耶律楚材」を読んだところである。陳さん描くところの「悪徳モンゴルを何とか漢文化で感化し善導する」というは正に著者のいう中華・あるいは西欧が自分達を正当化するために作り上げた遊牧民・胡(モンゴル)の傲慢で一方的な文献上の作為に乗せられた見方ということになる。ちなみにこの著に耶律楚材の名はなく、陳氏の小説では敵役のイスラム商人出身のアフマドが大変な現代的経営の才とされている。
その他歴代中国王朝といえども王家自体遊牧民の出身であったケースが圧倒的に多いこと。つまりは「漢」文化が古代から連綿と中華にあったわけではなく、遊牧民をふくめた雑多な人種の連合体国家のいいであったのが本当のところ。中国正史ではぼかされているが前漢王朝は匈奴帝国の属国であったし、その後は漢王家と匈奴王家の通婚がすすみ最高の貴種として匈奴王家の血は中国に存在しつづけた。唐や元といった非漢王朝によって中国は世界国家としての大帝国を持つ。ことほどさように北の遊牧民の存在は中国に深いかかわりをもっているのだが、何故か中国史は「漢人」だけが存在していたかのようである。アレキサンダー大王が目標にし・意識したと伝わるからダリウス大帝治世下のペルシャが歴史に記憶され、そのペルシャと対等に覇を争そっていたということで始めてスキタイが歴史に登場する。この分野ではペルシャ語・漢文を初め今は存在していないような言語で書かれた文献等雑多な語学的知識が不可欠なので研究者にとって大変な能力と時間を要求するものだそうである。
書中で著者が前に発表した論文を「お詫びし、ここに訂正します」と申し立てること数回。同業者・同僚のの業績を固有名詞をだして賞賛しているところ数箇所。なかなか地道ないかにも玄人ごのみの分野の学者ではあるが、そのわりには文章が話し言葉にちかく簡明、時として俗臭あり。1952産の、当方より4歳若くて京大教授である。


〔読書控〕1998/03/21(土) 22:07

田中博「東海に蓬莱国あり・徐福伝」海鳥社 1991

福岡の出版社・著者による伝記。秦の始皇帝に滅ぼされた斉の貴族の子弟・徐福が策を用い始皇帝に不老不死の探求という名目で後援させて、蓬莱国とされる日本に3000の斉の遺児とともに亡命・入植する物語。あまりおもしろそうではないな、と読み始めて、やっぱり面白くなかったな、と読み終わる。文体に格調なく、史実に劇的武勇なく、ただ、渡海した人々が足跡をしるしたのが紀元前3世紀の弥生時代だったという事実がなんとなく印象に残った。そうなんだ。焚書坑儒というような思想弾圧まである大陸の側の文字も社会もなかった日本列島。


〔読書控〕1998/03/21(土) 22:07

谷甲州「遙なり神々の座」早川書房 1990

ネパール・中国国境の8000メートル級の尾根を舞台にした活劇。確かな登山技術やネパールの風土・山岳の描写に国境紛争にからまるスパイやチベット独立を目指すゲリラ部隊等を配した異色の小説。旧日本軍人のゲリラ部隊参謀や主人公にからむ女性達の配し方が筋立てから浮き上がってしまっているのが難。他は確実で破綻のない文体と的確な描写力・あまり紹介されることのないネパール山岳地帯の社会政治背景の絵解き等等、快適な読書が楽しめた。垂直の壁をわずかな一センチにも満たないわずかな手がかりだけでトラバースする場面の興奮、追跡してくる見事に統率された中国軍の山岳騎馬部隊の描写、中国・インドという大国に挟まれた小国ネパールの国際政治上の戦略的手法のなぞ解き等見所多し。大阪工大出身。あまり知らなかったけど、確かな手応えがある冒険小説作家である。


〔読書控〕1998/03/24(火) 22:12

巌谷國士「アジアの不思議な町」筑摩書房 1992

前著「ヨーロッパの不思議な町」が著者の出版物としては広範囲に受け入れられ、それではというようなシリーズ第二作。当方も前作の旅の楽しみをもう一度味わおうと、今回は作者の案内でアジアに遊ぶのである。趣向は前回と同じほどほどに軽くて、遊び心もふんだんにある達意の文章と陰影がはっきりしたモノクロの写真。清涼な趣のある中国抗州紀行は別として、今回著者がおとずれるのはマニエリスムの沸騰する熱いアジアの雑踏と遺跡や寺院。ボロブドールの遺跡の質量感・シンガポールのタイガーバームガーデンの俗悪セメント人形達というような、一種わけのわからない混沌とした過剰をふところにかかえたアジアの密集。そういえば澁澤龍彦集成なんかの「幻想美術館」を読んで怪しげな「理想宮」な写真に見入っていたのは30年前のことか。澁澤と親交のあったという著者の興味もわけのわからないアジアの混沌とした細部充填装飾宇宙に入り込むのである。


〔読書控〕1998/03/29(日) 22:33

金庸「書剣恩仇録」1−4 岡崎由美訳 徳間書店 1996

清朝期滅満興漢反清復明斑紅花会総舵主陳某・高貴出生貴種流離的眉目秀麗武侠名手・魁偉快傑階級制覇的快感波瀾万丈的奇想天外風荒唐無稽規模壮大御都合主義的・政治的文学的主張皆無的単純明快物語。西域新彊回教遊牧地域徘徊群狼的広大草原単騎疾走超絶武術神仙師父的爽快情景。物語主題的主人公不定印象是大衆説話的手法可否?文学的暗喩教養小説的艱難辛苦成長心技有然主題無定型的乗興横道付加挿話散漫的発展的無思想無節操明解第一級娯楽作品!



〔読書控〕1998/04/01(水) 23:21

辻由美「翻訳史のプロムナード」 みすず書房 1993

だいたい翻訳史なんて成立するのか。こういうどうでもいいような事象を文献の間から読み起こしていくようなものが研究・学問ということで、毎日の職業生活として行われているぞっとしない研究者の人生・というようなイメージ先行で・絶対面白くも何もない本であろうと読み始めるのだけれど、後半は結構おもしろかった。古代中世の「翻訳者」は、今のような技術者ではなく、書物の内容に通じた先駆者として畏敬された。日本でも蘭学が始まった頃、オランダ通辞がそのまま医師として活動したことを思い出す。翻訳者の価値が低下した現代。後半はさしずめ女流翻訳者列伝とでもいった様相になり、ニュートンやダーウインをフランスに紹介した二人の女性の伝記や、現在の翻訳家組合、コレジュの創立者等をたずねる話しとかになり結構面白い文章。


〔読書控〕1998/04/05(日) 23:50

養老孟司「脳が読む・本の解剖学1」法蔵館 1994

養老教授の書評集。予測どおりなかなか広範囲な読書家でスティーブン・キングのペーパーバック版なんか愛読している風である。はぎれよく短い明晰な日本語。恐怖とユーモアは論理的思考ができないと感じられない感覚だそう。文章のオチにユーモアを多用する傾向がある。短くて明晰でユーモアがあれば立派な文章家ではないか。学生時代の渋沢龍雄が筆者の家で寝ていたそうである。進化論についての評:ダーウイン・マルクス・フロイトといった20世紀の迷信が・・まだ生き残っているからとて目くじらをたててもはじまらない。進化の見方はそれぞれが違っていて当たり前で、あっているとか間違えているとか決着をつけたがるのが西欧風学問の悪い癖であろう云々。あ・そーいっていただければなんとなく安心いたしました。


〔読書控〕1998/04/09(木) 00:05

ジャン・ラスパイユ「引き裂かれた神の代理人・教皇正統記」殿原民部訳 東洋書林 1997

Jean Raspail

L'anneau du pe^cheur

貧しい身なりをしているが何かいわくありげな孤独な老人の正体が、平行して示されていく14世紀の教会分裂劇の子細によって次第に明らかになっていく。彼こそは6世紀の間連綿と伝統を守り迫害をのりこえて存続していたアビニョン派の正統教皇の最後の一人である・・・。作者はこれを実際に起きた事件であるという。いや、本当にそうかも知れんと思わせるリアリティを感じさせる優れた筆致である。読者の側のそうであって欲しいという願望がよりリアリティを際立たせるのかもしれない。壮麗なバチカンと対抗するこの教皇が世間から隠れ、乞食のような風体で放浪している・さもありなん・というような。散文的な現代であるがゆえにこそ本当であって欲しいと思わせる、孤独な6世紀にわたる純粋な信仰心の話しである。小説的な盛り上がりも1994年についに最後の一人が昇天する見せ場に向かってのサスペンスをうまくしこんである。
ウンベルト・エコーの「薔薇の名前」を思わせる歴史のペダンと謎解きのサスペンス。文句なく面白い歴史小説。


〔読書控〕1998/04/11(土) 09:52

松井透「バニヤンの樹かげで・異文化への視野」筑摩書房 1994

インド史が専門らしい老教授のてすさびエッセー風。読者の知的興味に媚びるとでもいった、ちょっと演出過剰気味の文章ではじまったので懸念したが許容範囲であった。地理・歴史・言語のペダンチックな話題をマクラ・中身・オチと面白おかしい風に構成していった紀行文。インドでの土地や人・牛との交歓記がなかなかの目配りである。「東インド会社」の歴史や語源的意味の解説は情報として新鮮であった。ちなみに現在の世にはびこる株式会社というシステムも後期の東インド会社が先駆をつけたそうである。日差しが輝くアフリカを「暗黒大陸」とよんでいた愚をいましめる。言語的なペダンを話に織り込みたくなるのは学者の常か。ヨーロッパの上流階級のワイン頒布会によって維持されている世に出ない最高級ワインの御相伴に預かる話、インドの小道で後ろから来た牛に道をゆずってくれと鼻ずらでサインされた話とかあまり凝らない小品のほうがすなおで面白い。


〔読書控〕1998/04/18(土) 11:00

森毅・安野光雅「対談・数学大明神」ちくま文庫 1992

ひところのタレント数学者森毅と科学啓蒙絵本も出している安野光雅が数字の0から始めて10に至る、数・図形の話題を肴に秘術の限りを使って喋りまくった対談集。この世代の図形証明問題に対する愛着に思いいる。一度森毅教授の自伝を読んだことがあるが、くだけて書こうとする意図がうらめにでて読むに耐える文章ではなかった。対談ではそれなりにまっとうで、ユーモアがあり面白い話し手である。理系雑学は好きな方で、車内読書の2・3時間でかたつくだろうと思ったけど、意外と手間取った。一つの主題がぐいぐいと押していくような小説と違って対談は細切れで読書中断が多い印象。今週は光子のことで頭に雲がかかっているしぃ・・単行本としては1982年に出版されている。昨年ついに証明されたと話題になったフェルマーの定理にも言及されている。フェルマーの定理の証明にすべての余生を費やすようなヒトもいるという。「フェルマー1段」とか「フェルマー3段」とかの段位認定をしたら?というような愉快な提案もある。


〔読書控〕1998/04/21(火) 22:20

エイドリアン・ベリー「次の500年」三枝小夜子訳 茂木健一郎監修 徳間書店 1997

賭博でいうところの「一人勝ち」状態を人類は続けるであろう。という無限のテクノロジーの進歩を前提にした次の500年間のもっとも楽観的な予測。環境破壊、温暖化、オゾン層の破壊というような現在のペシミスチックな風潮を政治家や学者の無責任な煽り立てであるという。これだけ19世紀風の洋洋とした未来を世紀末の現在に提示していいものだろうか。現在の流行はテクノロジー万能時代の危機をいうことにあるんだから。文中でもよく引用されているクラークのSFの肯定的な未来像に共通する、胸のすくようなすがすがしいイメージもある。監修者茂木健一郎のいうイギリス式思考=「自分を離れた視点」というとらえかたが面白かった。完全に客観的な見方ができるということか。


〔読書控〕1998/04/27(月) 22:33

シドニー・ウィグノール「ヒマラヤのスパイ」三浦彊子訳 文芸春秋社 1997

1956年にヒマラヤの遠征し、チベット側の中共軍の勢力を探る密命を帯びて国境を越え中共軍にとらえられたイギリス人登山家の記録。先月読んだ谷甲州「遙なり神々の座」と似た状況である。閉ざされた共産中国にヒマラヤを越えて潜入するというアイデアの種本はこれか。山岳登攀記としても、スパイものとしても中途半端なドキュメントであまり熱中しなかった。イギリス人らしい(←知らんけど)不屈のユーモア、いささかカリカチュア気味の中共軍上級将校の描写等。ま、このあたりは回想中の現在が挿入した可能性もある。訳文は可。


〔読書控〕1998/04/30(木) 22:32

マリアン・S・ドーキンズ「動物たちの心の世界」長野敬他訳 青土社 1995

例のドーキンズの夫人であったらしい。人間以外の動物に意識や心があるか?ない、という人にはこういう例証を、ある、という人には、しかしそれは単なる単純反応の連関では?と諭すごく中庸な動物心理の概要書。ラットは扉の数を数えることができ、オウムは物体が違っていても3つという概念に当てはまるれば3と答える。全部で1ダースばかりの動物に「答えさせる」実験事例を解説しているのだが、どうでもいい説明が多すぎる。また、単純反応が積み重なっているので複雑な思考と見えてしまう罠に警告をしているが、しかし、人間で行われている思考自体、単純反応が複雑に絡み合っているだけのような気もするのだが。
タイトルほど面白い内容ではない。欧文構造がそのまま透けて見える翻訳。自然科学系の文章だから可。ときどき訳語に原語が添えてある。プロの翻訳者だとプライドがゆるさない。素人的生真面目さか。


〔読書控〕1998/04/30(木) 22:32

ジュール・ヴェルヌ「二十世紀のパリ」榊原晃三訳 綜合社 1995

1994年に発見されたヴェルヌの未発表小説。100年後のフランスを描く、近未来予測小説である。ヴェルヌこそは光に満ちた科学文明の賛美者と思っていたら、オーウエルなみの逆ユートピア、悪夢の未来であった。実利主義で詩や音楽が軽視・迫害される時代。主人公の若き詩人は絶望してパリを呪う。ま・これじゃ多分出版されていても売れなかったろうな。子供のとき読んだ本で一番引き付けられたのは「15少年漂流記」だった。と付け足しておこう。



〔読書控〕1998/05/05(火) 11:57

アーサー・C・クラーク&リー「宇宙のランデブー2・3」山高昭訳 早川書房 1991/1993

明らかにクラークの作風ではない。圧倒的に巨大なものに対する畏怖と正に人知を超えた知能をもつ異生物に対する憧れ。すがすがしいイメージの想像力がクラークであった。しかし、この人間世界のドタバタ、家族愛と反抗する世代、社会正義と不正に対する糾弾。なんでこんなものがクラークなんだろう。おまけにこの人間社会のカリカチュアはあまりに陳腐で古臭くて類型的だ。鉄のカーテンが崩壊した現在から見てもいかにも古い。とても西暦2200年代の社会には思えない。わずかに残されているクラーク担当部分的異生物知能との接触の描写を楽しみに我慢して読みつづける800ページ。一体どうして「あの」さっそうと登場したラーマ宇宙船がこんなばかげた人間社会のドタバタ劇の舞台になってしまねばならないのか。東宝の「ゴジラ」ばりの悲しいシリーズ化である。翻訳も悪い。会話にト書きが割り込む英語のクセのまま工夫なしに訳している。


〔読書控〕1998/05/10(日) 21:50

アーサー・C・クラーク「3001年終局への旅」伊藤典夫訳 早川書房 1997

2001の解決編という触れ込み。「宇宙のランデブー2.3」よりはマシだけど、せっかく深淵な形而上学的疑問符に到達しながら、簡単に絵解きをしてしまう卑小化が残念。伊藤のそれなりになめらかな翻訳の所為でもあるけど、語り口のアメリカ産テレビドラマ風冗談が混じる軽さもこのシリーズにそぐわない。人類を見守り進化を教育してきた知性が人類を見限るのに抵抗してモノリス内にコンピュータウイルスを食わせ、知性にいっぱい食わせるというのが粗筋。あまりにもご都合主義的なモノリスの卑小化ではないか。2001では人類がその存在を意識することもできないような高次な知性への畏怖が感動を与えたのに、その知性に一杯くわす話なんて・あんまりじゃ。

再読書評


〔読書控〕1998/05/11(月) 23:18

バチア・グール「精神分析ゲーム」秋津信訳 イースト・プレス 1994

イスラエルの作家による警察小説。原文・訳文ともに水準以上の作、というべきだろう。しかし、イスラエル・精神分析医についての情報が得られる他はとりわけ熱中する仕掛けというのはない。事件があって警察の捜査の描写と関係者の心理描写が続き、犯行にいたる動機の解明が成功し、犯人が逮捕される。主人公が特別に超人的な活躍をするのでもなく、複雑なトリックがあるわけでもない。ただ、「良質の推理小説」(解説の引用)としてよく書き込まれた400ページがあって、電車の中で読んだというだけのことである。別に読まなくともこちらの人生になんの影響もない。最近あまりたいした本にあたっていないので評もからくなる。読んだけど、それがどーした・というように。


〔読書控〕1998/05/17(日) 22:23

ミヒャエル・エンデ「自由の牢獄」田村都志夫訳 岩波書店 1994

現在の寓話作家エンデの物語集。実をいうとモモも果てのない物語も読んでないが、作風はなんとなく知っていたような。魂の求めるところにしたがって遍歴をするドイツ教養小説を手っ取り早く幻想と寓話の世界で絵に描いて表現したというように。本当いうとあんまりこの手の作家は好きではない。まともにぶつからず、くすぐり・あてこすりの類でごまかして物語りに仕立てている、なんとなくひきような作風。さすがにサン・テグジュペリのような素人とは違い文学的趣向はいろいろで、中世物語風、SF風、アラビア説話風、聖書物語風とまあいろとりどりで、そういうイミでは楽しい本ではあった。しかし、いっておくけど、内容は空疎につきる。


〔読書控〕1998/05/22(金) 02:16

ポール・セロー「古きアフガニスタンの思い出」別宮貞徳・月村純枝訳 心交社 1988

紀行エッセイ集の抄訳。「さすが」に訳文は冴えているといっておこう。原文読んでないので大きなことは言えないが、確かな文体が背後にあるのを感じさせる訳である。インドの鉄道を乗り回す旅行記もなかなか興味深いが、自分のことを書いている文章「帰郷・高校同窓会」「岬の夏」「夜明け、海獣たちと」が非常に面白い。自分の来し方に対する大いなる肯定というような感覚に裏打ちされたアメリカ地方都市の高校生であった頃の回想。「あの頃の私はなにものだったのか?その答えは簡単だ。そしたいまようやく、私はその答えに堪えることができる。私はただのガキだったのだ。」普段はイギリスで仕事をしているが夏は故郷のアメリカの岬に帰り海と遊ぶ3ヶ月を過ごすライフスタイル。荒れる海上をひとりボートで渡る命懸けの冒険。完全にガキに返っている休暇。海の時間と陸の時間は別なのだ。突然、ボートで一人海上にいる自足のイメージに捕らえられる。他者の気配はなく、自分と世界とだけ。現在の当方にとって啓示的魅惑を与えるイメージ。


〔読書控〕1998/05/25(月) 23:53

筒井康隆「悪と異端者」中央公論社 1995

新聞・雑誌に書き散らした雑文の数々。新聞の書評欄を受け持ったり大江健三郎と同じく三島文学賞の審査員を引き受けたり、流行ドタバタSF作家がすっかりただの「作家・文学者」となる。しかし、一貫して筒井の姿勢は変わらず、少々露悪的に自分を「おれ」と自称し、「おれ」という個の感覚レベルの正義感から権威・善意・良識というような得体の知れない価値に異議をとなえ笑いのめす。まあ、筒井のドタバタのネタもいつも「良識」をどんどん踏み越えていく爽快さにあったような気もする。で、雑文を集めてみても笑いをとってやろう・ギャグってやろうという文体と「おれ」はおれだとの姿勢は変わらず金太郎アメ風に筒井康隆しているのである。筒井の意志表明は文章を書くことにとどまらず断筆宣言や文芸家協会が永山則夫の加盟申請を認めなかったことに対する抗議の脱退というような実際の行動も引き起こす。一種の「坊ちゃん」的正義感か。


〔読書控〕1998/05/26(火) 22:21

モレノ路子「スペイン夏物語・わが田舎の家族」河出書房新社 1993

後書きによると23年前と15年前にスペイン人の夫の故郷を家族で訪れた印象を10年間かかって書いたとのこと。小説仕立てで著者と思しき人物を三人称で語っている。なかなか自由な脚色があるようで並みの海外事情紹介モノの域を脱し、文章を読む楽しみがある。スペインの小さな田舎での夏の一月の印象。なによりも家族がであって過ごす夏の田舎の喜びの表現が際立ってすがすがしい。こういう紀行文の書き方もあったのか。誰にでも一生のうちに何度も反芻する思いでがあり、誰でも一冊は本が書ける・というような本。


〔読書控〕1998/05/31(日) 23:33

司馬遼太郎「国取り物語」(司馬遼太郎全集10/11)文芸春秋 1971

前編は斎藤道三、後編は道三の弟子織田信長と明智光秀の物語。苦渋に満ちた後編の主人公達に比べて前編の斎藤道三の肖像はさわやかで古典的英雄の像にぴたりと当てはまる。美濃の国主としての生活と京の油問屋の主人としての二重生活のイメージが新鮮だった。それはそうだ。まったく独立した二つの人生を超人的力量でそれぞれ成功裡に生きること。さわやかなのは、やはりこうでしかない単一の人生を担っている読者がせめて本の中だけでももう一つ違う人生を生きたいという潜在的願望があるからか。後半は織田信長よりも明智光秀に記述の中心がある。狂気の天才信長にはなかなか感情移入しにくいけれど、信長に対してのクーデターに走らざるを得なかった光秀なら現代のサラリーマンとしても自然に感情移入してしまえる人格であり、シチュエーションであるというべきか。光秀と石田三成のイメージが重なる。智の人であって世に人気なく、怪物的英雄に最後に負けてしまう。日本の歴史はこれこのように理の人によって受け継がれていったのではなく、わけのわからん粗暴な男達に暴力的に構成されてきた。司馬遼太郎40歳ころの作。文体・構造とも安定した遼太郎節。



〔読書控〕1998/06/05(金) 00:15

ジェーン・S・ヒッチコック「魔女の鉄槌」浅羽莢子訳 角川書店 1995

「魔女の鉄槌」をそのまま信奉している現代の狂信者組織のミステリ。秘密のオカルト集団は確かに現代の狂気の端的な例である。組織の謎を追求していく筋そのものはかなり単純だけど、女性主人公の心理的な性的冒険のかなり詳しい分析とを男性の女性蔑視の吐露に他ならない「魔女の鉄槌」をかなり読み込ませることで、かなり内容が濃くなり生理的な戦慄の域までつれこまれる。主人公側の大半が、普通なら無事事件が解決して幸せな生活を共にするかのような副主人公の作家まで絞殺されるのはエンターティンメントとしては乱暴に過ぎる。これも普通なら組織に捕まって火刑にされる寸前で助けるはずの誘拐された女性も目の前で燃やしてしまったりするのはかなりのおどろおどろしさである。全体に狂信・オカルト・サドマド・中世・アンチクリスト様のミステリの悪魔的舞台装置が利いていて楽しい。妙に女性としての作者の生理が見える小説だった。追記:"Malleus Maleficarum"の著者ハインリッヒ・クレイマー/ヤコブ・スプレンガーは双方ともストラスブールにゆかりのある人物なようである。


〔読書控〕1998/06/08(月) 09:11

カルロス・カスタネダ「呪師に成る・イクストランへの旅」真崎義博訳 二見書房 1974

インディアンの老呪術師ドン・ファンが示す戦士/知者/呪術師に成るためのイニシエーションの記録。岩波新書「北米インディアンの詩」を読んで、精神と肉体・人工と自然・意識と現実・夢と覚醒という2分式世界観によらない表現のイメージの力強さに感心した覚えがある。ここでも自然と一体化し、「死」とともに生き、意識することが現実となる圧倒的に力強いイメージがある。風や鳥と会話し、それが擬人化したイメージではなく、われわれの認知する世界とはまた別種の確かな世界での実体なんだと納得させてしまう圧倒的な慰めに満ちた生きる術がかかれている。あるいは現代人という現象は、「超自然的」解釈を「不合理」というひとことで排してしまうきわめつきの異例にすぎず、膨大な人類の歴史的時間からいえば自然現象の中に超自然的啓示を見ていた時期が本流であったという思いも強い。何よりもカスタネダの記録する老呪術師の風貌がさわやかで、現代のわれわれとはまったく違った価値観で生きていること自体の。明白な「楽しさ」が実感させられてしまう。ある日学習のかいあって、さる外国語で思考している自分を見つけたときの自己拡大感。


〔読書控〕1998/06/15(月) 21:10

佐藤吉彦「満州・誰の大地」近代文芸社 1997

傀儡満州国建国直後の北満で中華新聞の記者をしている主人公が、通訳として軍属になり宣撫隊の一員としてプロパガンタ旅行する体験。別段小説的な高揚はなく単なる歴史の証言的興味で読んだ。たぶん日本軍の非人間的な傲慢さを糾弾する、あるいは次第に日本軍への批判が形をとっていくという風な小説主題だろうけど、なにぶん主人公の性格が弱く、魅力もなにもない。単なる解説者風。どういう作者が知らないけれど、プロではない。小説の体裁をとった回想のごときものであろう。一時代の証言としては興味をそそる。


〔読書控〕1998/06/15(月) 21:10

青木澄夫「アフリカにわたった日本人」時事通信社 1993

アフリカがらみの職を持つ著者が調べた明治期にアフリカを訪れた日本人の足跡。「世界無銭旅行家」中村直吉、ケープタウンの商人古谷駒平、マダガスカルのホテル主・赤崎伝三郎等。それとアフリカにおける「からゆきさん」日本人出稼ぎ娼婦の実体。仕事の合間に楽しんで調べまとめた好奇心の書。明治の青年の直線的「海外雄飛」の姿勢はなかなかさわやか。しかし、あまり詳しくはないけれど、そういった「まとも」な生業を持つ男子より身一つで自分自身を売り込んで世界に散らばる「からゆきさん」の方が実際は数が多かったようである。「娼婦といえばフランス人と並び日本人と相場はきまっていた」風の時代があったのである。覚えておこう。



〔読書控〕1998/07/01(水) 20:58

J.Coimard et R.Stragliati(edit.)「Histoires de Cauchemars」Press Pocket 1977

Comme le biblioth que etait en fermeture annuelle

tire de ce libre dans mon biblioth que. Un libre de la serie "la grande anthologie du fantastique" avec le couverture en illustre de cauchemaresque une 10enne des contes de horreur ou de surnaturelle axes au reve ou cauchemars. Parmi divers auteurs Tourgueniev ou Maugham presque pas de francais. Bien un jour de mon epoch en France je pansais que pas de conte de revenu en ce pays par apport de l'Almagne et l'Angleterre je me souviens. Comme toujours il ne me parvient pas une lecture entiere cette fois-ci aussi. Comme il s'agit de l'anthologie 3 4 sont bien termines. Un reve donne d'une sensation bizarement reelle c'est pourquoi... Moi-meme deux trois des reves inouvriables comme si il'y avait un autre monde aussi reel qu'on a presque ouvrie... Peut-etre il'y a quelque chose au-dela de la theorie de Froide dans le mechanisme de faire reve.


〔読書控〕1998/07/03(金) 08:40

アントラム栢木利美「国際空港乗客物語」学陽書房 1996

サンフランシスコ空港に勤務する著者の見聞。ジャーナリストのコラム風に短くまとまった逸話集。新鮮に感じるのは、ある種のアメリカ人の素朴な向上心と個人性についての描写である。個人性というのは自分の人生の責任は自分で負う・だから別に他人の思わくなどには影響されることはない、といったようなポジティブな個人主義の謂い。挿話はそれぞれ面白く聞け、時折こういう人生もあるんだなとの感慨も抱く。55歳で定年退職してからバークレーに留学・勉学中のヒトの話等。高年サラリーマンは日本社会では不幸である。年齢・経歴にかかわりなく実力は評価し、相応の仕事につける可能性がある社会だから個人も成長できるのである。再び日本・日本人の未来に疑問を抱く。この本の評価とはなんの関係もないのだけど。


〔読書控〕1998/07/06(月) 08:40

椎名誠「草の海・モンゴル奥地への旅」集英社 1992

何のけれんみもなくごくすっきりと「おれはシーナだけんね。もんくあっか?」と公明正大にシーナをしているモンゴル紀行。草のくすんだ緑にまみれた挿入写真馬上のシーナ氏はガキの面影もあったりして結構サマになっている。このモンゴルというのは最近2名の会話者が引用した旅行先だったのでとりあえず借りて読んでみたというところ。華麗にるると流れる平成軽薄体で語られるかの地の模様を総括すれば、mal de vie 真っ只中のこの日本のきわめてシンメトリックな国情といわねばならぬ。ごちゃごちゃしたモノにあふれかえっている日本と対し、すっきりと風が草原に舞うだけの、観光名所でさえない荒原。白昼当方のカバンをひったくろうとする輩に代表される他人達だけがうごめいている日本と対し、移動中ゲル(テント=家)を見つければ馳走されにずかずか中に入り込んでいく圧倒的共生感。モンゴル引用者の内一人にはねつけられ、ぐちゃぐちゃの mal de vie を這い回っている直中ではこの単純明快さが大きな救いであった。


〔読書控〕1998/07/09(木) 00:11

養老孟司「本が虫」法蔵館 1994

短い書評集。この人のいうことは解る。書評もこれだけ集めれば読んだ本を通して自分のいいたいことをいっているのが見える。著者が「唯脳論」と名づける帰結もなんとなくわかったような気になる。短いが適当にメリハリもきいていて、ほどよいくすぐりと自己主張がある達意の文章集。医者の余技ではない。あるいは本人も森鴎外を意識してたりして。免疫学者で文名の高い多田富雄氏は能楽を演じ、臓器移植に問題を提起する新作能の作者でもあるそうだ。


〔読書控〕1998/07/12(日) 21:39

と学会編「トンデモ本の世界」洋泉社 1995

一連のトンデモ本再発見ブームの先駆け古典である。「相対性理論は間違っていた」等は当方のレベルではトンデモではなかった。そしてと学会がトンデモであると規定しても別にそれは当方に影響はない。当方にとって科学啓蒙書は単なる刺激物であるから面白ければ正統・異端を問わない。だからこの・と・のノリもそうは面白くはない。しかし、実際の擬似科学モノよりも紹介されている文芸書・思想書・受験参考書・競馬予想本の類の狂想ぶりがおもしろかった。とにかく、変なことをいう人がいて本を書いたら、買って真剣に読むひともいる。狂気のなかの正気は実は狂気ではないのか。と・学会のスタンスは別にその狂気を糾弾することではなくて、その狂気を楽しむ風であるので返って狂気になることから免れている。と・本にたいして怒ることのこの危険さを回避するのは笑い飛ばすことである。真剣にかかれた、たいしたことはないマトモな本より、真剣にかかれたたいしたことはないトンデモ本のほうが遥かに読書の意味がある。本を買う者は何か面白い本が読みたいのであって、別に真実を学ぼうとしているわけではない。本を書くには当然、ある種の狂信が必要であろう。


〔読書控〕1998/07/12(日) 21:39

筒井康隆「邪眼鳥」新潮社 1997

断筆宣言解除後第一作。古典的推理モノの因縁の家系といった枠組みを借りて、次第に錯綜としてくる時間と個人の関係の融合・混乱のどたばた性で盛り上げていこうという、あまり面白くない作品。筒井康隆氏も老齢作家になりつつある。併載の「RPG思案-ある夫婦の遍歴」がわれわれの期待するこの作家の正統作品であった。人生の最後らしい主人公の回想と、さりげなく日常に紛れ込んでいる超自然的体験。現実の叙述が次第に白昼夢的に崩壊していく様。老いと死が意識されている。


〔読書控〕1998/07/16(木) 22:06

ルイス・アダミック「わが祖国ユーゴスラヴィアの人々」田原正三訳 PMC出版 1990

The native's return

1934の50年以上経っての初翻訳らしい。大戦前のアメリカの産業を支えたのはヨーロッパの貧しい国からの移民であった。その代表というべきユーゴスラビア(スロベニア・セルビア・クロアチア・モンテネグロ・ボスニア=ヘルツゴビナ・マケドニア/当時のダルマチア)出身の作家が祖国を20年ぶりに再訪するドキュメントである。当時のアメリカ読書界で評判になった本らしい。このスロベニア系アメリカ人は完全にアメリカの作家の目と文体を持っていて、50年以上前の著であることを感じさせない。たとえばポール・セローの紀行に見られる好奇心・ユーモア・批判精神・ローカルな人間賛歌といったものと同質の精神性である。豊かで美しい自然と心やさしい農民達/醜悪な都会と独裁的政治者というような構図。ヨーロッパが国家のモザイクであるとしたら、バルカン半島はそのもっとも過密なモデルといえよう。金権政治と独裁権力をきらう「健全な目」がある。それは同時に無私の農民生活にシンパシィを抱く感覚にささえられている。そういった作家をアメリカが育てているのならばアメリカという国は健全ということができる。


〔読書控〕1998/07/24(金) 22:26

薄井ゆうじ「雨の扉」光文社 1996

舞台で演じられている虚構と生身の俳優である人間の生活の場で起こる現実が相関関係を持つ二重構造の物語を昔構想したことがある。舞台の上の虚構として相手を殺すクライマックスの場面が演技ではなく現実として相手の俳優を愛憎のすえ殺す時の2重の昇華が面白いと考えた。ところでこの小説も同様の仕掛けである。くわえて時間の重層性がある。現実が虚構とつながり、現在が過去とつながる。宿命的に愛する女への思い。突っ走る過去を再現しようとする現在。自分にはできないということを自覚し、そのような人生となった未来を撃ち殺す現在。女への愛を表から裏から語ろうとする小説のロマネスク。半ばで手法と主題が明らかになり、後半はどこまで破綻せずに語りつづけていくのかという、本来的にはどうでもいい興味で読んだ。ま・若書きの魅力はある。細部はそれなりにしっかりしているが、筋立てはごくいいかげんという感がある。手法は面白いがそれでロマネスクな雰囲気が強調されているか、というと、いいかげんな御都合主義の気恥ずかしい、一人よがりな小説作りという印象が強くなる。うーん、面白かったといえば面白かったが、つまらん、といえば退屈な小説だったかな。


〔読書控〕1998/07/29(水) 22:30

馬場謙一・他編「エロスの深層・日本人の深層分析3」有斐閣 1985

そういえば「性」の問題についてフロイト以降の蘊蓄を聞いたことがなかったか。とりわけユングはどういったのか。そしてなぜいまだに性なのか。あきらかに生物学的には無意味な老年の性行為。今朝も激しい性欲に勃起して目が覚めた。いったい何だというのか。この性は?性の現象と問題をさらりと報告した小論集。もちろんやらない人はやらないが、やる人はいくつになってもやっている統計や、心理学・精神分析の臨床報告であるハネムーン時の不能者・男子同性愛者の事例を興味本位で眺める。文章的に読むに耐える論者の名だけ引用しておく。松代洋一・1937帝京大学薬学部、内沼幸雄・1935帝京大学文学部。



〔読書控〕1998/08/01(土) 22:51

遠藤周作「反逆」講談社 1995 (初出1988)

日本では例が無かった絶対専制君主織田信長に謀反を企てた荒木村重・明智光秀の伝記。あと、著者の好みの人物高山右近の2度に渡る士籍、城・領地返還の顛末もくわしく述べられている。自分の人生のすべてが絶対君主の意向に委ねられていることを自覚する近代的自我の居心地の悪さ。服従は屈辱である。そして屈辱こそが反逆を育むエネルギーである。あまり描かれることのなかった荒木村重の晩年が興味深い。自分が決断した反逆のせいで多くの人が死に、おめおめと自分だけが生き残っているという状況への嘲笑。反逆が成功すれば屈辱のこの上ない昇華であろう。しかし、反逆が失敗におわるとき、屈辱よりももっと深い苦しみがあるのを知る。信長や秀吉のような個性ではなくて、目先の栄華に翻弄され、屈辱に悩みやがてほろんでゆく荒木・明智・高山に著者は心理の近さを感じるのだろう。


〔読書控〕1998/08/02(日) 22:03

ソリー・ガノール「日本人に救われたユダヤ人の手記」大谷堅志郎訳 講談社 1997

Light One candle / a survivor's tale from Lithania to jerusalem

この日本語のタイトルはひどい。といって、このタイトルに目をひかれて読みはじめたのは事実ではあるけれど。カウナスの領事代理・杉原千畝と著者は知り合いであったが、直接杉原のビザですくわれた人々の一人ではない。その後もカウナスのゲットーに残り、ダッハウの死の行進にいたる囚人としてのなまなましい手記が本書の主部である。そして連合国軍がナチスドイツを追いつめる過程で、著者が初めて遭遇したアメリカ兵が二世部隊522大隊のクレランス・マツムラ(もちろん米国籍である)であったということにすぎない。とはいえ、杉原やが心やさしい日本人であったことが著者とのエピソードからうかがえたのは確かだが。ジョージ・クレアの著作のウイーンの状況でもあきらかだが、ナチスドイツ占領下の諸国民によるユダヤ人の迫害はここでもかわらず、「ドイツ兵は無関心か軽蔑」の表情だったのにたいし、リトアニア人が憎しみによる暴力をユダヤ人に向けるという記載がある。政治がきっかけを与えればキリスト教徒という名による素朴なユダヤ人への迫害は簡単に人々に伝播する。だからどうだということもないけれど。重苦しいが最後まで目を背けることができない証言。ドイツに移された著者が南ドイツの明るく、よく手入れされたあくまで美しい景観に賛嘆する場面が印象的である。「このような美しい景色のどこにあの邪悪が潜むことができるのか」

ジョージ・クレア「ベルリン・廃虚の日々」


〔読書控〕1998/08/06(木) 22:46

コートニー・ブラウン「コズミック・ヴォエージ」南山宏・ケイ・ミズモリ訳 徳間書店1997

エモリー大学準教授ブラウン博士が本業そっちのけで修行したリモート・ヴューイングの秘儀を使い、自室に居ながらにして察知した驚くべき真実の報告。じつは火星人がユタ州の洞窟に隠れ暮らし、知能のすぐれたグレイ人が火星人が地球人に姿を見せて対話するように努力しつつあるのだ。・・・うーん。驚くべき真実なのだが、真実の常として面白くない。だから途中で飽きてしまい最後まで読んでなかったりする。真実でも創作でも読者としてはどっちでもいい。よーするに面白ければそれでいいのだ。


〔読書控〕1998/08/06(木) 22:46

スティーヴン・キング「ミザリー」矢野浩三訳 文芸春秋 1990

小説の作り出すサスペンス・的確な文章が喚起する肉体的共感・狂気と痛みの極限的状況だが、妙にユーモラスなセリフがとびだしたりして却ってさもありなんというリアリティが増す。しかも手慣れたベストセラー作家が自分が創作する密やかな動機と創作進行中のインスピレーションの現れかた、書くということのイミ・ついには現実よりも書くという行為に中毒してしまうような作家の真実がそこここに配置されていて、奇妙に面白い。

シェラザードは王様のために物語るが最終的には自分のために書いているというような意識に変わっていって、なにやらすごいこととなる。さすがベストセラーを量産する作家の実力である。しかし以前読んだこの作家の小説はぜんぜん面白くなかった。養老孟司氏がさかんに面白いというので、読んでみる気になったのだけど。


〔読書控〕1998/08/12(水) 10:16

大和岩雄「魔女はなぜ空を飛ぶか」大和書房 1995

ヨーロッパの伝説・前キリスト教神話・信仰に見る太母信仰=聖母=魔女の数々を紹介。またびきが多そうだけどそれなりに豊富な例証と図版がペダンチックな楽しみをそそる。しかし何か散漫で「ああそうですか」的反応しかでてこない。多産・豊饒のシンボルであった女と性交のプラスイメージがストイックなキリスト教理に変形されて魔女・サバト的に悪のイメージに集結していく。悪のイメージの誘惑的なことよ。


〔読書控〕1998/08/14(金) 00:23

李鎬仁「力道山伝説」崔舜星訳 朝鮮青年社 1996

北朝鮮人としての力道山を強調した伝記。確かに子供心に鮮やかな力道山のイメージは外人と対等に渡り合う日本の象徴であった。その心理的エネルギーが日本人という仮面の下の朝鮮人としての意地であったという要旨。金日成が力道山を評価し家族に特別待遇を与え、力道山もそれに感激して金日成に高級車を贈ったというような逸話が興味深い。


〔読書控〕1998/08/18(火) 22:56

ブラッドベリ他「シミュレーションズ」朝倉久志他訳 ジャストシステム 1995

ヴァーチュアルリアリティをテーマとした小編SFのアンソロジー。

個人のすべての脳内・体内の情報をコンピュータに記憶させ、情報としての電子形態だけで生きる不死の人類とか、脳髄だけになってコンピュータが管理するヴァーチュアルな世界を唯一の現実として生きる人類という構図が究極のもとのしてある。前者の系統では記憶した父親の情報(バーチュアル父親)を移し替えるときに、記憶元のデータが消去できなくなってしまい、それぞれの父親が主人公に不満を訴え、どうにかしてくれと懇願するので困ってしまう話・まさかいくら情報であっても父親を殺すわけにもいがず、というジレンマを描いたジョージ・ゼブロウスキーの「死後のいくつかの生」がさもありなんという感じ。後者では、脳髄だけになってただ夢にひたるのみの人生を拒否し「覚醒者」として現実の世界に逃亡し、人間的な生を回復するためにレジスタンスを行う男がいるが、彼のその人生そのものこそが反逆的傾向にあるこの男のために設計されたバーチュアル人生であったというひねったオチがある、ジェラルド・ペイジ「幸福な男」が愉快。


〔読書控〕1998/08/25(火) 23:19

アーサー・C・クラーク「超常現象の謎を解く」森下泰輔監訳 リム出版 1991

クラークは密やかな「宇宙の意志」的スーパーパワーに憧れている。そして根っからの人間主義者ゆえころりとユーリーゲラーにだまされたりする。要はスーパーパワーを見たくてたまらないのだ。クラークが集めた超自然的パワーの記録。聖痕・PK・ダウンジング・予知・テレパシー・火渡りの秘術等。このうちなんとか説明がつくものとして聖痕、成功率が高いものとして石油・水脈探しのダウンジング、確実な実現者がいるので100%確実な火渡りが肯定的である。当方の超自然パワーに対する感触もクラークとほぼ同様の憧れ度合いだろうか。火渡りを実際に経験したイギリス人教授のコメントがトランス状態にある人間の力を実感させてくれる。火の上を歩けるに違いないという確信が湧き起こり、実際に火の中に入ると下半身が涼しく、それが楽しくてしかたない・・というような高揚感。いつか夢でみた空中飛翔感覚を思い出させる。



〔読書控〕1998/09/07(月) 22:44

夏之炎(シアチイェン)「秘密結社 洪門(ホンメン)」布施直子訳 文芸春秋 1994

鄭成功によって創始された反清の秘密結社洪門が華僑の互助組織として生き長らえ現代においても超政府的な影響力を行使してさまざまな合法・非合法な活動をしている。太極拳の奥義を極め、超人間的な能力を持ち、華僑資本の大企業の日本支社長である主人公が組織に加入し、共産ベトナムから中国系人口を亡命させる工作に奔走し、天才的な音楽の才をもつ美貌の女との恋に生きる・・・なにやらよく分からんが言ってみれば007流の国際スパイ物・時事ネタ・政治謀略モノ・国際企業内幕もの・超人カンフー者・通俗メロドラマありの、中華丼風何でもありの物語。いかにも伝統の中国小説風という気はするものの、結局は何が主題なのかよーわからん。特に最後の母親の霊に導かれてのご先祖探訪がいったいどんな必然があるのかよーわからん。これ、ひょっとして未完の小説でない?秘密結社の内幕はなかなかよく書き込まれて面白かったけれど、結局主人公が何を働いたのかさっぱり要領を得ない。作者もよくわからず途中でメロドラマにでもするか・とばかりねじまげたような形跡もあり。ま・それはそれで楽しかったか。


〔読書控〕1998/09/16(水) 13:57

マンシェット・J・P「眠りなき狙撃者」中条省平訳 学習研究社 1997

フランス・serie noireの旗手。すでに故人である。フランス文学の棚からいいかげんに選んできたが、なかなか硬質のハードボイルドで一気読みができた。ストーリーはそこそこだけど、文体がかわいていてすぐ人が死ぬのが妙なリアリティを感じさせる。実際にピストルを構えているヤツは相手につけいるヒマも与えず殺してしまうのだ。若くて精悍でニヒルな殺し屋が失語症になったり、田舎の間の抜けたウエイターとして余生を暮らすというのも奇妙なリアリティだし。もう一冊くらい読んでもいいな。


〔読書控〕1998/09/23(水) 21:40

脇山怜「和製語から英語を学ぶ」新潮選書 1985

新聞コラム的一口知識風一般向け英語啓蒙書としては意外と読み応えがある。なかなか丹念に英・和双方の語源を調べてあり少しの語源学的興奮もある。たとえばoutletを日本人がなぜ「コンセント」というかが初めて解ったりする。今、英会話をならってる身にとっては厄介なモというほかないが、それにしても今更ながら日本人のカタカナ造語力には驚かされる。別に英語風でなくとも、現に3年前は「携帯電話」であったものが今は「ケイタイ」が一般的。この分では「ケイタイ」を英語と間違える世代も出てくるのではないか。


〔読書控〕1998/09/23(水) 21:40

谷甲州「神々の座を越えて」早川書房 1996

前作「遥かなり神々の座」の続編。とにかく圧倒的な山岳登はん技術用語と中国・インド・ネパールのテリトリーが錯綜するヒマラヤ地理の知識に支えられた冒険小説の快適さは健在だ。たとえばエベレスト登頂記等のドキュメントを読むときのバーチャル極限状態体験等は真の読書の醍醐味であり、未知の分野で専門家が蘊蓄を傾けるのを簡単に拝聴でき、自分もその分野のオーソリティにでもなったような気分でいられるのも読書ならではの楽しみである。そういった細部のリアリティがしっかりと感じられればストーリーがどうであったとしても読書の至福は成立する。なかなか得難い作家である。尚、後書きで「ヨーロッパにおける邦人の滞在や就労に関してはパリ在住の江下雅之氏に教示いただいた」とあり、旧知の江下氏がパリの名物男になりつつあるのを知る。


〔読書控〕1998/09/23(水) 21:40

鳥羽亮「三鬼の剣」講談社 1994

連続殺人事件を解決する捕物ストーリーを縦糸に配した剣豪小説。主人公がいかに犯人・敵の妖剣を打ち破るかが焦点。ストーリーはたいして面白くない。登場人物もなんとなくうそくさく、軽い。大体、主人公の剣士の他に探偵役を配するダブルスタンダードがすべてを弱くしている。大体、岡引が自発的に探偵をするわけがない。このくらいのネタだったら、司馬遼太郎は20枚くらいのぴりっと引き締まった短編にするものと思われる。



〔読書控〕1998/10/02(金) 23:06

淑徳与野高等学校編「女子高校生が見た韓国独立記念館」かのう書房 1993

1989年に行われた同校の韓国修学旅行の記録。日本軍政時代の残虐な拷問の展示もある独立記念館に日本の女子高校生達がどのように相対するのか、というタイトルの本。この高校では既に4年前から韓国修学旅行が実施されていて毎年記録を出版している。真面目な教師達がホントにナイーブな(当今の女子高生と比す)素材を得て社会正義・歴史認識・自己啓発等の野心に満ちた教育的実験をしている風でもある。彼女達がほぼ均質にマトモに日韓の史的事実を学習し、反省した上で韓国と友好な関係を結ぼうという線で紀行文をものしていることにホントかね?とは思うものの安堵し感心もした。も少し差別的偏見に満ちた文章があってもいいと思うけれど。次年度からは韓国を廃し、オーストラリア旅行となったということである。それがいい。


〔読書控〕1998/10/02(金) 23:06

金庸「秘曲笑傲江湖」1・2 小島瑞紀訳 徳間書店 1998

全七巻大活劇武侠小説之弐巻。金庸的一気通読的読書快感。悪人即善根・善人非常善的個人異風色彩豪傑快漢多数活躍。期待続編。


〔読書控〕1998/10/07(水) 22:23

米原万里「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」徳間書店 1994

ロシア語通訳者の通訳論・体験記。軽い目の文体ですこしやぼったい。扱っている言語の特性かもしれないけれど、下ネタ多し。通訳と翻訳の違いを子細に分析してある論とか通訳を介したコニュニケーションのシステムとかの論考とかまともな文章は面白くも何ともない。例証として挙げられている現場の体験談の方はたのしい。ま、当方にも既知の体験があり、新鮮ということでもないが。体験談・業界情報に絞ったほうがいい本になったろう。タイトルは「原語には忠実でないが、日本語はイイ」「原語に忠実だが日本語はマズイ」という通訳状況のコト。


〔読書控〕1998/10/12(月) 22:28

宇神幸男「ニーベルングの城」講談社 1992

読んでいるうちに前作「神宿る手」を読んだのを思い出す。一連の音楽推理モノ。確かにクラシック音楽界を素材にした推理・活劇小説は珍しい。ワーグナーのニーベルングの指輪のライトモチーフを小道具にした筋だて。ヒトラーとフルトベングラーを絡ませる。音楽フアンには面白い趣向である。オリジナルのピアノ曲の譜面も入っていて遊びごころ十分といったところか。ただし、推理小説としては物足りない。楽譜の暗号も単なる音名のアルファベットを使った単純なものだし、ネオナチの襲撃もご都合主義的にイヌに噛まれてポシャってしまう。せっかくの歴史を下敷きにした割には凄みが感じられない。趣味の世界に遊ぶことに好感は持つが、凝ってる割にはそう面白くないというところ。


〔読書控〕1998/10/14(水) 00:35

田崎清忠「助語と遊ぼう」サイマル出版界会 1987

軽いだけがとりえの一話完結式初心者向英会話啓蒙書。一話毎に面白おかしくマクラとオチをつけているが、えてしてこじつけ作りすぎでたいして面白くない。さすがに各タイトルの大項目も既知の情報である。


〔読書控〕1998/10/22(木) 22:35

林勝一「ゴールの雄鶏・ことばにみるフランス」筑摩書房 1988

10年前の出版だから時事ネタは多少古い。ミッテランとシラクのcohavitation、バール・シラク・ジスカールデスタンのfreres enemis関係等。とおりいっぺんのお勉強ではなかなか気がつかないフランス特有の「ことば」に内在する歴史・文化。"entre chien et loup"のオオカミに対する伝統的恐怖・pot du vinに見られる食習慣・家族用語・douce Franceの村落共同体へのアイデンティティ。などなど。フランスではJaponの他にnippon(名詞・形容詞)を古くから使っている、世界はどこでも英語と同じ動きをするわけではない、云々。毎日新聞パリ支局長を勤めた著者が仏紙から拾い集めて分析・分類したうんちくの数々。学者ではなくジャーナリストの目で生きのいい・含蓄のあることばが多数紹介されている。これは価値ある一冊というべきだ。フランスにいたときそれでも時々新聞を読みはしたが、なんとはなくはっきりしないまま読了したような経験が多かった。これはひょっとしてこの本が収集しているようなフランス人にしかわからないconotationを当方が理解できなかったためではなかろうか、と今思ったりする。図書館の借読ではあまりにもったいない情報がつまっている。こんど本屋でみかけたら自分で買って持っておこうっと。


〔読書控〕1998/10/25(日) 22:35

工藤美代子「カラコルムの風」産経新聞社 1994

全体には通俗メロドラマ仕立てで進行するが、細部がよく書けているので面白く読めた。美人で大企業社長の娘で研究所教授でロンドン全権公使の恋人である主人公がモンゴルに隠棲するかってのモンゴル独裁者の腹心の日本人を探す話。ケンブリッジに留学中に国際インターナショナルに加盟しスペイン戦争の義勇兵を組織しモスクワや金日成とつながるこのなぞの日本人の生涯を聞き出すのが小説のクライマックスになるというミステリーとしてよめばなんとも腑抜けた仕掛けである。モンゴルやロンドンの風情・スペイン戦争当時のケンブリッジの雰囲気、北朝鮮とモンゴルの関係並びに政治風土なんかがいかにもソレらしく書かれているのですっかり読まされてしまった。単なる調査ではわからないようなウラ情報もある。かなり実際の事情に詳しくないと書けないと思う。どういう経歴の作者なのか。


〔読書控〕1998/10/26(月) 21:56

梶尾真治「OKAGE」早川書房 1996

福岡のローカルな固有名詞・地名をふんだんに使った舞台の設定はいいと思う。それなりの「地に足がついた」臨場感はある。世界各地で子供たちが集団で失踪する、と言うミステリー。三分の一くらい読んだところでクラークの「地球幼年期の終わり」型のパターンという先が見えてしまって興味が半減した。地軸の移動という未曾有の大異変の予感が子供に進化圧を加えて新たな人類となるべく行動を起こすというパターン。後は天変地異と旧人類(大人)の進化に抵抗しようとする意識が生み出した魔との戦いというドタバタ加減をさらりとながめて終わり。書く実力はあるが、アイデアがSFの醍醐味とまでは行っていない。可もなく、不可もなし的印象。

再読書評


〔読書控〕1998/11/10(火) 22:50

大越愛子「フェミニズム入門」ちくま新書 1996

一般啓蒙書にふさわしくない研究者楽屋内の隠語とあまりはやらないアジ演説風漢語多用文体。おそらくここ25年ばかり直線的に活動してきたので文体的には進歩はなかったのであろう・という風な悪口を先ず書いておく。この辺が本当は大事なところで、最初から門外漢を拒否するような姿勢というものは決してこのテーマを語るにふさわしいとは思えない。リプロダクション(再生産)という経済用語がここではひとことの説明もなく「育児・家事労働による生産形態」という意味で用いられている。なんか危険だなぁ。しかし、それはそれで、すぱすぱと一口でフェミニズムの各時代の潮流を切り取り、紋切り型断定口調で批判してゆくスピードは快感でないこともない。弁証法的3段論法の各段階にぴたりと照合するフェミニズム史の3段階、男性原理に迎合し正当化したとするフロイト批判(ヘテロセクシュアル至上主義は男性側の捏造である)、社会制度よりも「下部構造」の挑発的解析を得意とし問題を矮小化したとする上野千鶴子批判・等々。男性に属する当方としてはいささか揶揄的すが目で読み進むが、フェミニズムの問題を解明することは男性をも開放するという論理の快感に乗っかってみたい思いもある。


〔読書控〕1998/11/16(月) 23:06

間野英二他「内陸アジア」(地域からの世界史6) 朝日新聞社 1992

茫洋とした中央アジア史、最近かなり匈奴やウイグルに明るくなったが、中央アジア現代史となるとお手上げである。後半はソビエト崩壊後まで視野に入った現代史。貴重な文献であるけど、だからといって当方が明るくなったわけではない。ややこしくってよくわからん。(^^;) チムールは都市の建設に力を入れたが自分は都市に定住せず、近郊に壮大なゲルを張って暮らした。遊牧民にとって定住とは人生の大半の楽しみを奪うものであるらしいというような価値観。 ムガール帝国の創始バーブルが武人・文人として別格記載されている。なかなか面白そうな人物である。前半の著者・監修の間野氏のバーブル「バブール・ナーマ」の和訳が参考文献にあがっている。いつかよもう。いつか・・?


〔読書控〕1998/11/16(月) 23:06

トミー植松「英語・その言葉の魅力」丸善ライブラリー 1997

「100万人の英語」講座の講師であった。文化・社会的背景という文脈から言葉を理解せよ・という教訓満載の英会話こぼれ話。この前読んだ田崎氏の同類書よりは表現がおだやか。まるで芸能人のような安直な印象の姓と名。本名だから仕方ないのか。東京で社内アナウンス騒音問題で訴訟を起こしたという話を聞き、すぐ支援の手紙を書いたりするという風な良識もある。


〔読書控〕1998/11/24(火) 23:42

佐久間治「英語に強くなる多義語100」ちくま新書 1998

語学をかじっていて一番面白いのは、ことばの語源的変遷、その裏に透けて見える文化的背景なんかに思いをはせ、いわゆる語感ができたと自覚できる時である。手持ちのボキャブラリのコレクションの楽しみというか。こういった当方の素人語学談義の神髄をまさについた書である。著者はいわゆる大学教授的アカデミズムの英語研究者ではないようだ。英和辞典で日本語訳を充てることよりも、原単語のイメージを視覚的にとらえ英語使用者の意識にどういう語感を与えてるのか子細に解説がほどこされている。developの日本語訳として「発展」と「開発」が充てられているが、これは英語の語感としては同一物であり単に日本語の問題に過ぎないというような指摘も的確。当方としては英単語としては未知の用法であってもequilibrantがフランス語にあるケースが多く、著者の意識しなかた別の発見もあった。もったいないから書いておく。

英)virtue はvirileな「力」であり、virtual「実質上の」という意味につながっていく。これが、実際はそうであっても名目は違うという語感になり「仮想の」という意味をも持つようになる。

仏)本来形はvertueで、形容詞virtuelでは完全に意味の分離が起こり「虚」しかない。あるいは英語形容詞の逆輸入かもしれない。

いずれにしてもvertualの語感は100%の力ではなく、その見えざる実力がほぼ完璧なら「実際に」となり、まだ不完全なら「虚の」となる。日本語の定義としての2面性が、原語のアナログ的連続性を隠してしまう。もっともフランス語での例でわかるとおり、英語としても話者は明確にパーセンテージを限定して使用しているのかもしれない。


〔読書控〕1998/11/30(月) 22:47

森田良行「日本人の発想、日本語の表現」中公新書 1998

1930年産早稲田大教授。日本語に特徴的な表現を分析、日本人の発想を演繹する。例えば「フランス語のこころ」といった書物は山ほどあるのに、今年刊行されているこの本の言に従えば「・・という気がするのは筆者だけだろうか」というような、定説化されていない属性記述がめだつのは、案外こういう「比較日本語学」とでもいうような分野は今までになかったのか。確かに著者の分析するごとく日本語はある。(←ワザと日本語ではなくしてある。)全体として・なるほどね、というような内容。しかし、なんかおかしなところもある。「海が見られる」が他動詞の受動態表現で「海が見える」は自動詞表現である・というようなラテン文法にあてはめた日本語記述は意味があるのかどうか。英語にだって"it changes" "it is changed"というような変態用法もある。さて、それでは日本語とはなにか。筆者によれば自分を客体視するのではなく、すべてを自分の視点からの描写でかたってしまう。すべては自分中心的表現としての受動態で描写し、このとき動詞同士の態が受動態へと変わって行く。日本人の心性の言語への反映をこの受動態多用に見る、としているが、当方の意見では単に主語(人)を省略する(明示するのを嫌う)クセがモノを主体とした表現としての受動態的表現の多用をもたらしたのではないか?これはフランス語の"se voir"等の再帰用法に近いのではあるまいか、とも思う。車内でこういう記述について思いを馳せていると、車内放送が聞こえてくる「乗り換えの電車は、階段をとおって6番線から発車します」うむ、電車が階段をとおるか・・と反語し、思わずほくそ笑む。



〔読書控〕1998/12/09(水) 22:42

土井良三「軍艦奉行木村摂津守」中公新書 1994

勝海舟の咸臨丸で渡米した遣米使節の司令官ですぐれた外交感覚を持ち、現地の新聞が貴人と報じた幕末の幕閣の伝記。軍艦奉行として後の日本海軍の礎となる組織を準備した功で明治30年日本政府から顕彰される。人が意気に感じて交渉しあい、何事か新しいものを作っていった時代の、私心なく職分を果たし功績を残した偉人のすがすがしさ。政府が変わって在野にくだってからも、時代の人勝海軍省長官や福沢諭吉等が常に尊敬の念を惜しまなかった自適の人生である。当方としては偉人がどういう風に転落していくのかが気になる本来的アンチクライマックス運命論者であるが、もしかして、時代が活気に満ちていればしかるべき人生がまっとうできるのではないかとも思う。幕末・明治の人は偉かった、多分時代が偉人を輩出させるのだろう。著者は引退した社長サンであるらしい。老後の余技にはとても見えない資料の読み、けれんみのない筆致で堂々とした伝記である。


〔読書控〕1998/12/13(日) 11:46

長谷川真理子「オスとメス=性の不思議」講談社現代新書 1994

1952年産。裏表紙の写真は目元の涼しい美女である。後書き最後に「よき配偶者を得たことを感謝したいとおもいます。」とある。内容は生物学的にいう性の成り立ちと、人間社会における性の捉えかたを説く。ごく簡単な解説書であるが、こういった視点からまとめた啓蒙書はそんなに多くないようである。社会における男女間の差異というのはすべて社会が強制したシステムから生じたものであるとする狂信的フェミニスムに陥ることなく、生物学的な差異が厳として存在することを認識する必要はあるが、だからといって例えば夫が家庭外性交で子孫を確保しようというのは生物学的には論理的だが、自然の成り立ちがそうであるとして人間がそれに従わねばならないという理屈はない、というような視点。しかし、細部で疑問がたらたらと湧く。あらゆる生物で男女の比率は50パーセントなのは、アダムスミスの神の見えざる手(著者の比喩ではない)様の需供の平衡が働く、と解説したすぐ次の章は、精子の再生産時間は卵子の生産時間よりも短いため、男性は受精後すぐ次の生産行動に移れるが、女性は準備期間が必要である。したがって妊娠可能な女性数が絶えず供給精子より下回るので男性間の競争が常となる、という章がつづく。これは論理的矛盾である。前章の論理からすればこのような生物種では男性比率が少なくなるハズではないか。また、「セックス」は初期において生殖とは別の行為であった、というテーゼの下にアオミドロの接合をいうが、問題になっている男性・女性という性の分化は繁殖にともなうシステムとして発達した由が述べられていて、このアオミドロの「セックス」は「体を重ねる」風の性行為もどきというイミしかなく、性とはなんの関係もないことは自明である。やはり女性性が感じられる本。

あまり本とは関係ないが、読書中にサケの産卵のイメージにとらわれた。海中で成熟したサケは突然次次と胸をかきむしられるような故郷への憧憬に捉えられる。体が押えようも無く興奮しわけのわからない高揚感が突き動かす。同じように興奮し異常な目つきをした仲間がいっせいに川をさかのぼっていく。数万というサケの発情で川全体が赤く色ずく。行かねばならない、という内的衝動が何処を指しているか今は分かる。それは自分が生まれた場所であり、自分がおそらく死ぬ場所である。そして始めて自分の人生がそ・こ・でまっとうし、果てしない高揚と生命の根源的な喜びとが一つになってもう一つの世界を生む予感にからだが震える。そうだったのだ。ぼくたちはそのために生まれてきたんだから。


〔読書控〕1998/12/15(火) 23:50

井上ひさし「文学強盗の最後の仕事」中央公論社 1994

エッセイ集9。鯛焼きのアンコのようにどこを切ってもおいしい、エンタティンメント系文学者の職人芸。隅々まで行き届いた芝居心というか。自作の芝居公演のパンフレットに書いた文章も多かったが、そんな簡単な文章でも見事に人を楽しませるシカケが詰まっているサービス精神。中にはストリップショーとヌードショーは違うというような文章もある。浅草軽演劇・テレビ台本作者の職人芸というか。この人の戯曲は「イーハトーボの劇列車」しかテレビでみてないが、魯迅を主人公とした「シャンハイ・ムーン」や太宰治の「人間合格」、あるいは昔読んだことがある「道元の冒険」というように史伝とでもいうジャンルの戯曲ばかり書いているようである。人間に対する興味、しかもいわば人間に対する信頼という基調音が常にこの人には流れている。この人の日本語を読むのはいつだって楽しく面白い。「吉里吉里人」(吉里吉里と一発で変換したぞ!)「50万歩の男」以来長編小説は書いていないようだけど、エッセイ集をまとめて読もうかな。


〔読書控〕1998/12/16(水) 23:46

田辺保「フランス語はどんな言葉か」講談社学術文庫 1997

入門書のようなタイトルだけど、通訳資格がある当方にとってもなかなか新鮮な情報が詰まっていて楽しめた。特に単語の語源や英語とは違った意味がある同根語、フランス人の姓の由来、前に来る形容詞の意味等等語学の面白味が充分伝わってきた。この著者のように、フランスに留学しフランス生活の匂いを嗅ぎ、その高揚を持続することが天職となっていくような素直な人生を思う。ふと、溢れる青春のパリの香りがぼくの周りにもたちこめることがあり、数分間の過去回想で時が止まる。この本の初版は20数年前の発行であるらしい。前書きにあるように留学直後のほてりが感じられ、初々しい。資料としても持っていていい本である。


〔読書控〕1998/12/16(水) 23:46

藤原智美「群体(クラスター)」講談社 1994

超近代的なビルにねずみが出、大企業組織をゆすぶる話。ねずみというと開高健「パニック」を思い出してしまう。あれもそうだけど、これもすっきりとした小説らしい小説といえよう。近代的オフィスに納まっている総合メーカーの、いかにも合理的なイメージの組織の中に、裏の存在としての不合理なねずみをもってくるミスマッチが興味をそそり、短編的吸引力がある。現在の大企業内の日常がなかなかの臨場感で書かれている。しかし、長編としてはテーマがぼやけていく感じがある。意外な大企業のもろさの揶揄なのか、組織の人間のカリカチュアを書こうとしているのか、純粋サスペンスなのか、何か中途半端に長編になってしまった感じもある。基本的にはすっきりとした短編にして欲しかった。「パニック」の鮮やかさを思う。


〔読書控〕1998/12/25(金) 23:24

小泉譲「上海物語・第一部顔のない城」上・下 批評社 1990

実に生真面目で無骨な・まるで中野重治の小説風に始まっていき・あ・ちょっとしんどいか、と思った。しかし次第に紛れも無い青春小説だと確信がいき、すがすがしく読書できた。革命的理想に燃える主人公の周囲に小説的な事件はたいして起こらないのだが、著者の回想する青春が高揚に満ちているというか、さわやかな筆致で当時を再現している。中国人財閥令嬢・日本人外交官令嬢・中国人革命的同志の妹とかの仄かな思慕。浜口幸男・幣原重一郎内閣と軍部との軋轢。中国共産党内部の造反。蒋介石・張作霖の子の張学良軍の動き、ゾルゲという名のソビエト共産党工作員・スメドレーという名のアメリカ人女性新聞記者等等との交渉・1930年代の上海は国際政治の結節点であり、日本人の若者が直にインターナショナルな世界とコンタクトを持つことのできる希有な場所であった。2冊読んでしまってから「第一部」となっていることに気がつく。さすれば、このあたりは登場人物紹介というような場面に過ぎないのか。それなら格別な小説的事件のないのも納得できる。これが序章に過ぎないのなら、本編はさぞかしにぎやかだろうという期待が湧く。逆算していうと、これはかなりな作品だよ。

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