OLIVIER MESSIAEN MUSIQUE ET COULEUR Nouveaux entretiens avec CLAUDE SAMUEL
膨大なメシアンの技法・作品の自己解説。訳文はあまりこなれていないが、作曲家が丹念に調べた音楽的正確性には信頼感がある。最近Naxosレーベルの「20 Regard」2枚組み「Catalogue d'Oiseaux」3枚組みを通勤途上愛聴している関係で読み始める。同時代の作曲家が克明に自分の音楽技法と作品を分析、文字どおり本人しか知らないオーケストレーションの意図・表現技法の目的とかをいかにも楽しそうに語る・意外に吸引力の強い読書だった。ゆるぎないカトリック信仰心の音楽的告白と鳥の歌。リズムと色彩の探求者。「私の音楽は本質的に喜びの表現者です」という素直な姿勢。あらためて現代作曲家としてのバランスのよさに思い至る。23才でパリのトリニティ教会のオルガニストを拝命し、以降77才の生涯を終えるまで常に同教会でオルガンを弾きつづけた安定感とリズム・野鳥の声の貪欲な探求者。オンド・マルトゥーノを初めとする自分の音楽にだけ使用するための楽器への固執。自分で考案した楽器もある。精神は古典・表現は現代。70才になったのだから少しはわがままを通してもいいだろうと思いました、といってのける自分の音楽的決算の産物としての巨大なオペラ「聖フランチェスコ」のほとんど各パッセージ毎の子細な技法と音楽的意図を雄弁に楽し気に語る。音色とスペクタクルの拡張を主張、パリオペラ座のオーケストラボックスを改造してまで上演したこのオペラはまるで現代のバイロイトではないか。無邪気に混じるフランス人の絵に描いたような日本びいき。「聖フランチェスコ」初演を指揮した小澤征爾の30年前の日本におけるトゥランガリラ交響曲の初演はしかと当方も見た。確かにその印象は鮮やかで、メシアンいう名はきらびやかな星たちの饗宴のイメージとともに当方の頭にも刷り込まれた。メシアンというのはこの時代にまれな、実に幸福な作曲家だったのではないか。
マムルークとは奴隷軍人のいいでイスラム社会における外人傭兵であった。東ヨーロッパ・ロシア・トルコ・アルバニア・アフリカ諸国から奴隷商人が優秀な子供を買ってき、イスラムに改宗させ軍事学校に入れ卒業と同時に開放奴隷とし、軍事的エリートとしてスルタンの親衛隊とする。トルコのイエニチェリの起源。売買の対象となる奴隷には違いないけれど、人格・人権が認められていた・民族的劣等差別はなかった・世襲ではない・自由意志で奴隷になったものも少なくない等の点でアフリカ産欧米向けの奴隷と同様な概念には一括できない。そして、エジプトのマムルーク朝は正にこの軍事奴隷マムルークがスルタンとして政権をになった王朝に他ならない。この特異なイスラムの奴隷制度に焦点を絞ったいかにも歴史専門書といった内容。国家・民族・領土の概念がくっきりと見える西洋近代史からは茫洋として一向に輪郭がはっきりとしないイスラム史のかなり有効な切り口であろう。奴隷として買われてきた外国人が支配者となるような国家とはどういうものか。イスラム史は面白い。
どうしようもない理想主義者ザビエルとユダ的日本人弟子アンジェローの史伝小説。といっても現代日常言葉で演じられる戯曲風の、あるいは「一方その頃・・」風に切り替わる場面転換がテレビドラマ風のしょーもない小説と見えたが、読み進むうちにそっけないほど散文的で現代語会話風のあっけらかんとした文体が新鮮に見え始め、率直ではったりのない筆致の計算された効果が確かな語り芸であると思わしめる。副主人公が死ぬ場面「狆親分は、アンジェローの心の臓を見事に刺し、漢方の薬をアンジェローの胸の上に置いた。」このそっけない文体は芝居のト書きそのものではないか。 作者の好みかもしれないけど、引用される信仰者の話にはやたらと改心者が多い。アンジェローは日本で女房を殺し、ポルトガルまで逃亡しようとゴアでザビエルに近づき、功利的にいかにも神を信じている様に演技をする。しかし、疑ることを知らないザビエルと暮らすうちに改心が起こる。またユダのようにザビエルを裏切って海賊になるが、ザビエルへの信頼は変わらない。不合理でも非論理的でもなんでもいい。ひとが信仰に入るのはただそこに純なものがあると感じられるからか。こういう改心の物語のうらから、親鸞の悪人正機説や「一定地獄は住処ぞかし」という声が聞こえもする。終わりまで読むと、なかなか感動的な本だったと思う。
埴谷雄高の弟子・高橋和巳の友人と称する著者の戦後文学主要作品解説。「死んでみせたことで、三島由紀夫は戦後に対する絶対的な否定者となった」「戦後文学を一言でいえば、この世界を、人間を、存在を、歴史を、肯定するか、否定するかといった大きな問いかけをもって出発した文学だということである。」という風に小気味よく分類陳列されている。とりわけ全六章のうち1章全部を使い切った大江健三郎の通読に熱がある。「四国の谷間」の村の図まであるのだ。「叫び声、性、沈黙、暴力、死、再生、狂気、「壊す人」、信仰をもたない人間の祈り、和解、癒しといった大切な文学のテーマが、ひとりのにんげんの小説の世界で解決をみたことは、奇跡のように思われる。」なんとなく、それはそれで大江健三郎の殆どの作品を読んできたけれど、こうして要領よく絵解き解説されていくと一体何が面白くて読んできたのかと思ったりもする。しかし、濃密な文学的想像と軽いユーモアと内省が滲み出す息の長い文体が作り上げていく・もう一つ別の現実・に共生する読書の楽しみで読んでいる当方の読み方でもいいではないか、とも思う。「このように巨大なうねりとなって変化する世界を、「私」を確立して表現してゆくという方法は、おそらく大江健三郎をもって終わったのだろうと僕は思う。」かくして「両村上」の登場となる。同時代者としてそれぞれの作品の成立にたちあっていると、紛れもなく本を読むことが当方の青春だったな、と実感できるよーな。読むことは書くことを挑発する・というような熱。
ヨーロッパ各都市に折り重なって層をなしている歴史・文化を歩きながら検証していくようなエッセイが9都市とパリ在住の目からヨーロッパ文化史を考えるエッセイがひとつ。その都市に旅行者として歩み入るところから文章が始まるけれど、それはエッセイの趣向を統一するためのマクラに過ぎず、ひとたび都市が内包する歴史にわけいると文は中世・近代のヨーロッパの時間をさまよう。あまりにも固有名詞の引用が多いので文学的エッセイというようりも論文風になるキライがあるけれど、なかなか求心力がある文章である。特に、ワルシャワ・プラハ・ウィーン等の文章に述べられているユダヤ人がヨーロッパ史に果たした役割についての論に新味がある。マルクス・フロイト・カフカ・マーラー・ホフフマンスタール等について、ヨーロッパのユダヤ人の精神性が一つの国家・社会に固定しない「普遍」という意識を育くみ、彼らの思想に広い世界性を与えたとし、排除しようとしたヨーロッパ自体を返って普遍にしたというアイロニーを語る。こうしたきらびやかな考察が繰り広げられる文章は楽しい。パリについての文章は留学・20年後の再移住のフランス生活の細部を描写し、「マルテ」のように、また森有正のような人生と思索と生活が一体となった「パリ」を活写してすがすがしい。「すがすがしい」と感じるのは、この形でパリに暮らすのは実年齢にかかわらず青春性がそうさせるからであるとおもう。リルケ・森どころではなくあらゆる知性が「パリ」を通過していき、何かしらの彼らの熱が「パリ」というとてつもなく豊穣なイメージを作り上げている。当方にもわずかながらその熱が感応できることを喜びとする。「西欧もまた、あらためて、重層的な内実をもつとともに、空間的にも一つではなく多様だという構造の、今日的な承認がここにある」というようなヨーロッパ史の豊穣をあらためて感じさせてくれる本。
91年から97年に少しずつ書かれていった連作短編集。女ができて家を出ていった息子の嫁と二人で暮らすこととなった老境に入った翻訳者・今時まごうことなき純私小説。別段ストーリーということもないが、息子の嫁のイメージがさわやか・たたなくなった自戒・自嘲とそれでも夢を彩る性・競馬と酒・ときどき訪れる気の合った仲間風の生活・というようなエッセイ風の抑制された文章が続き、いつ息子の嫁とデキてしまうのか様のちょっとしたサスペンス風縦糸に導かれて・それはそれで一気に読んでしまう。老人になること・「過去完了形」の「性」。翻訳者常盤新平が小説仕立てにまでして書くことで精神のバランスを保たねばならない・老人であることの咀嚼。
ハンガリー語で書かれたオスマントルコとハンガリー帝国軍との書名の武力衝突を扱った歴史書を工学系会社社長が訳した本。ハンガリー軍を率いるはHunyadi Jahos、方やmehmed II。で、なかなか面白い合戦であるハズだけど、横書き、ワープロダイレクト印刷の素人っぽい造本に恥じることなく、みごとな素人訳でありました。ぶつぶつと単語単語に切れた、em dash の挿入句やコロンの用法もまったく原文と同じ完璧このうえない逐語訳。一度かな書きしている固有名詞もとくに意味もなくアルファベットのままのこしてある。内容よりその、おおらかな翻訳スタイルにすっかり度肝を抜かれ、あれよあれよと読み進んでしまった。「Kosovo 平原での敗北以来、1444年に侮辱された運命を試したくないように、Hunyadiは既に5年間、トルコ国境にはいなかった.」「若い許婚はVajdahunyadに移転したが、11月には、潜行性の病気によって、彼女は連れ去られた」「特に、十字架を取ることによって告知された無罪に対して、その時までに必要であった5フォリント金貨を免除するように、Hunyadiは使節を説得した」ううう。これは別に作為的にひどいところを選んだワケではなくてすべてがこの調子である。ここまでおおらかに訳されると、それはそれで一種の格調さえ感じられたりして。そんなことで、とうとう内容が解らなかったりする。文句の付けようもない 快著。
トルコ系ドイツ人作家のハードボイルド。トルコ移民の子の私立探偵が下層移民社会の犯罪に関わる話。物語は標準的な線であろう。ドイツのトルコ人移民社会を扱っている点のみ興味を引かれた。それにしても偉大なオスマントルコ帝国の末裔・あるいはローマ帝国の末裔もそうだけど、現在のヨーロッパ社会に彼らをおいてみるときの断層をおもう。
男女の性愛に溺れ、憑かれ泣き笑いして最後に飽きてしまうことを、悟ることといい澄まして後は自分以外の超越的存在に全てを委ねて飄々としている勝手な支配階級の末裔一遍上人の事跡と相も変わらぬ現代の三角関係に纏わる物語を絡み合わせた・愚にも憑かぬ・作品である。しかしまあ、こんな小説を読みたかったのも事実であるけど。それはそれで全ての責任・係累を清算してすっきりさっぱり出家できたらいいなぁ・という思いにはさせられるけれど、よく考えてみれば散々女と・やり尽くして・さっぱりした風の一遍上人も世俗のことを捨て去って髪を下ろして仏門に入っているハズの寂聴尼も・なんでこのような物語を今更語りたいのだろうか。結局死ぬまで男と女のことしか頭に浮かばないのか。それはあんたがたもちもちてもてあますもの・もてるものの贅沢な悩みだよ・との感が強い。寂聴尼の引用する高僧連中も、結局は美男でどっぷりと女と悦楽の限りをつくし、やりあきて初めてせいせいした類の持つもの世界のハナシではないか。読後・だんだんとハラが立ってくるよーな。
笹川良一の「巣鴨日記」が刊行された。世間でいう笹川の偽善が掛け値なしの本心であったのではないか?という風調が出てきた。著者も「世間に流布している笹川イメージがいかに間違っているかに、かなりの力点をおくことになった」という。そういえば、戦前の右翼国粋大衆党の総裁、A級戦犯容疑で入獄、競艇競技の総元締という経歴の人物が「人類は皆兄弟・一日一善」といかにも偽善的にテレビコマーシャルでのたまう姿は、想像上の影の部分がとてつもなく大きくないとどうにもバランスが悪い。影でよほど悪いことをしているのではないか、と素朴に思ってしまう不愉快なCMであった。しかし、と著者はいう。それでは本当に笹川が法的・倫理的に悪いことをしたのか?まるで逆であって、笹川ほど素朴な庶民レベルの人助けに奔走した人物はいなかった。そして人間としての力量も並々ならぬものがあり、競艇という悪に日本の造船業・後年にはハンセン病撲滅その他の慈善事業という善を行わせるというダイナミックな活動を私人として行う。死後刊行された「巣鴨日記」には笹川の「ぼっちゃん」的とでもいうようなおおらかな正義感が自ずから活写されているらしい。よく考えれば当方も笹川が悪であるという具体的な物証を持っていなかった。ただ、こういうのが悪なんだという典型にどうしても見えてしまう。あるいはそれが、笹川流の庶民レベルのおおらかな正義感なんて有るわけはないと思い込んでしまうマスコミと無意識に同調してしまったものであった可能性が高い。「金持ち=悪」のひがみ根性か。
1957年産。生きのいい若い世代の学者である。イスラームは単に宗教ではなくて国家・宗教・言語・社会を縦断する世界システムである。現代のイスラムの実態を前段で世界のイスラム人口表などあげて概説したあと、主としてイスラム学の潮流のハナシがメインで登場する。内容と文体の見本=「パレスティナ出身クリスティアンで英文学研究者のE・W・サイード(コロンビア大学ユニバーシティ・プロフェッサー)が、19世紀ヨーロッパの文献学から徐々に形成され、後に巨大な一つの知のシステムとして構築されることになったオリエンタリズム(東洋学)のもつ、ヨーロッパ中心主義イデオロキーへの徹底的批判によって喚起された、内容と諸現象とを指示しようとしているからである。」明晰ではあるけれど、こなれていない典型的な論文口調。ま、馴れれば畳み込むような調子に快感を感じることもできるかもしれない。日本におけるイスラム学の歴史の記述があって、意外な名前大川周明が大きく取り上げられている。もっともこの辺になるとイスラムの本質とは何の関係もなく、研究者にしか意味のないハナシではあるけれど、それはそれでなかなか自分の研究者としての位置をよく踏まえた・まっとうなヒトであるようだ。
ストラスブール近辺の写真が美しい。1987年からルイ・パスツール大学の客員教授として赴任しグーテンベルグ広場近くに居を構えた著者のアルザス案内。フランス経済の研究者のようだが、歴史・美術・音楽にも造詣が深く、ストラスブールを巡る歴史・地理・文化が熱っぽく語られている。こうして鳥瞰してみると今更ながらアルザスの「ヨーロッパとしての豊かさ」を思い知る。どうやらストラスブールでは当方が先輩のようで、かの地で遅まきながら青春をすごしたという思い入れは著者には負けないが、その実アルザスのなんたるかを知らずただ過ごしていたとの慙愧の念も湧く。著者ほどアルザスを楽しんではいなかった。脱帽。当方とフランス語のクラスで一緒だった中谷陽一教授と親しいようである。同窓会のアルバムを繰っているような読書であった。
エッセイ風コント集。パリの日本大使館の一等書記官から外務省の外交使節団長・ベトナム大使・ウイーン大使・最後はベルギー大使として各地に赴任し、さも有りそうな白昼夢として時空を遍歴する趣味人の話。なかなか凝ったタイトル・趣向である。小説としてあまりに素朴なオチなので高校生のときに書いた習作を思い出してしまった。しかし、10話まとめて通読してみると・それはそれでステレオチップなオチが説話風決まりごと様趣向と見えてそれも良かろう。封建的特権階級を感じさせる・つまりはヨーロッパの貴族と一応同列にみなされる唯一の職業である外交官という設定が可能にする、趣味の世界。著者がその筋の素人作家だとすると「ライン・ゴールド」と称するスカトロジーを扱い、奇妙な夢を扱った文章は天才的だ。もっともこの文章だけは異質な気がするが。外交官が架空だとすると設定のうまさとそれなりのリアリティに職人芸を感じさせる。ま・そのくらいであるのなら、この気取ったタイトルもゆるそう。
当方と同年でフランスで暮らしたことのある笠井潔には「哲学者の密室」以来何事か共有する世代の感覚があるような親密感を抱いているが、しかし、「密室」以来たいして見るべき作がないという気もする。この作もとりわけ面白いというほどのこともない。笠井潔が本気になって書けばこんなモノではなかろう。本気で書いてくれよぉ。
いかにもコントらしい短編小説8編。どこが「邪悪」かというと、この世・というかこの世界というかを好意的に見ていない風な少しばかり「突き抜けた」ところのあるハナシばかりである。軽いSFのノリもあるが、なかなかおどろおどろしい世界にのめり込む風の作もある。奇をてらい手足・目鼻を自ら削いだ身体で舞台にあがる執念の歌舞伎役者を描いた「再臨」・趣味の殺人者に殺されることとなった顛末「救済」・ただ上流からおどろおどろしい死体が流れてくる物語を語り「しかしわたしには最初に述べたようにこの話を残した著者には何か別の意図があったように思えてならない。残念ながらわたしにはその意図のかけらすらわからないのであるが。」ととぼけてみせる「流れる」等、なかなかの鬼才。
ウィーンの「あの時代」に生きていた著者の物語る「あの時代」前後のウィーンの人物群像。文学者から画家・作曲家というような幅広い人物の要領のいいスケッチがある。ツェムリンスキー・ヴァイニンガー等々作品は知らないけれどきらびやかな名前が次々と登場する。例えば宮廷歌劇場監督のマーラーの留任嘆願書に署名した人物名:フロイト、シュニッツラー、クリムト、シェーンベルク、シュテファン・ツヴァイク。最近やっとCDを手に入れ作品を聞くことができたコルンゴルトも、その父親とともに引用されている。「著者はこの画期的な文化時代について書くにあたって、その時代の想像に貢献した男女諸氏のうち、誰がユダヤ系であるかを示さずにすめばよかったと思う。」享楽のワルツとオペレッタの町が12音を生み出し、きらびやかなユダヤの天才達のすぐ後ろで流行のように人が自殺していく町。「(カフカ・・、)リルケはまちがいなくオーストリア人だった。だがどちらも、ウィーンっ子だったらもっと作風が違っていただろう。」例えば世紀末という響きもあったにしても、この現象ウィーンが引き起こす胸騒ぎは何なのか。きらびやかな天才達の活動の集積への目くらましい憧れではなく、歴史と人種と文化と地理の複雑な動的総体が劇的に政治によってプツンと途切れてしまった、完全に消えてしまったものへの哀惜の念であろう・この「秋」の語感は。作中でも数回引用されている、1988年のパリで見た展覧会の残像は未だ心の中でくすぶっている。
なかなか図書館に現れないので「現在」どこまで行ってるか・当方がどこまで読んだのかはっきりしなかったが、とにかくすっかりお馴染みのすっきりした装丁・心地よい厚さの本を手にした。カエサルの養子でポスト・カエサルの政争を勝ち抜き初代ローマ皇帝となったアウグストゥス(オクタビアヌス)の物語。カエサルほどの超人ではなく派手な戦績もない地味な現実家である。著者によって共感たっぷりと「見てきたように」語られる二千年前の男が現在のどの世界的知性にも劣らない透徹した合理性の人である事実を知ることの面白さ。身近な世界には到底実見することのできない、すっきりとした理性が支配していた古代の地中海世界。最近のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争・「フルブライト留学生」(←最近でもないが・・・)等をひきあいにだして生き生きと語る著者の古代ローマ世界への傾倒が文章にリズムをあたえ読者に感染する。ところが平易に具体的に語ることは巻末の参考文献に示されるように膨大な基礎調査に支えられているのだ。いつもながら歴史をこういった形で記述できたのだったら一体あのしち面倒くさい歴史学書はなんなのかと思ってしまう。面白くてタメになる・安心して読める理想の読書時間のための当方推薦保証付きシリーズ。
まったく面白くない小説集である。完全見事に私小説であるが、あきらかに著者の個人的回想であるのにもかかわらずすべて架空の人名地名学校名会社名をあてはめてある。普通なら固有名詞をぼかすために架空名をあてはめるが、大西巨人はどういうわけか架空の人名に架空の経歴を子細に割り当て架空の電車の駅から架空の会社に行かせる。しかしこの架空の総体は実態のモデルのあからさまな投影であってたやすく判別でき、しかも実際のモデルと読み替えたところでこの全体の叙述は作品の本質には何の関係もない。単にただ名前が出てくるだけの人物に対して「西海県の旧制鏡山高校から本郷の国立首都大学の文学部にすすみ」というような経歴の列挙。かつて「神聖喜劇」の主人公の博覧強記・一度読んだ本の内容は日・英・独の言語に関わらずすべて諳んじることができる痛快なヒーローを目撃した印象からは、大西巨人にとってはどんなに些細な細部であってもとにかくまとまった一連の記憶は全体としてその人物となっていて不可分ということなのか、というような気までしてくる。たとえば「(一郎は)小型のトランクから書物2冊(北条民雄短編集「いのちの初夜」(創元社1936年刊)と谷川徹三評論集「文学の周囲」(岩波書店1936年刊)を取り出し、・・」というふうな文章があり、作品中で本を特定せねばならない必然性は何もないのである。まあ、大西巨人だからできるんかな、と妙に感心したりして。というようなヘンなリアリティのある著者の回想の一こま集。わずかに表題策「五里霧」がすこし複雑な余韻を残すが、あとは別にわざわざ他人に読ませるほどの感興が盛り込まれているわけでもない。文章的には「特殊の」「特殊的の」というような言い回しが世代を感じさせた。
いつか面白くなるんだろうと我慢して途中まで読んだ。我慢できずに飛ばし読みして最後のページを読んだ。依然感情移入のまったくできないアンチャンとネーチャンの雑漠な愛憎劇が続いていた。以前にもこの人の作を読みかけてあまりの面白くなさに止めてしまったことが二三度ある。なんでこの人の世評が高いのかよくわからん。芥川賞をとって同世代の作家として視野に入ってきたが、作品は常に当方には面白くなかった。あるいは失敗作ばかり手に取ったのかもしれない。最近死んでしまったけれど、結局この作家とは見ている世界が違うと結論せざるを得ない。
今風の短く軽め読みやすい文体。単純直接話法会話文多用の視覚性・まあ、テレビ・映画シナリオ的とゆーか。軽いユーモア・ホンの少しの毒。時代好みの文体ということになるか。とりわけユニークであったというわけでもない。50台作家が20歳年下の恋人を得て家をたてる顛末が述べられていく。「もし、おれが推理作家なら、億万長者の老人が若い妻に喜んで殺されて行く物語を書くだろう。おれにはその老人の気持ちがわかるからだ。」と引用したのは当方にもわかるからだ。「家と性と死をめぐるブラック・コメディ」と帯書されている。そいや、そんな気もしないこともない。家はいいとして、性は半分、死についてはわざわざ帯書する程も出てこなかったぞ。三題話風にまとめて落語風にしたかったのかも。ま、手ごろな読書でした。
真実の人・嵐山光三郎さん(1944産)のしごくまともなお仕事である。以前に見たわるのり過剰ユーモアの文体ではなくて、短くしっかりとしたイメージに支えられた手慣れた文体。夏目漱石・森鴎外・樋口一葉あたりから始まる、食とのかかわりということに焦点を絞ったユニークな作家論集。面白い着眼点で、ほんとにそのアイデアが最後までつらぬけるのかと心配してたが、有名文学者たるものは例外なく語るに値する食あるいは性の逸話にことかかない。あるいは死(自殺)。嵐山氏は文芸雑誌編集者で谷崎や志賀直哉に実際に会ってい、檀一雄の担当編集者として一緒に過ごし、坂口安吾・太宰治の逸話をよく聞かされたりしてそう。志賀直哉が死んだ時は当方も「え・志賀直哉ってまだ生きてたん?」というような印象を受けたのを覚えているが、彼ら近代日本のビッグネームが同時代人であるという思いが、著者の世代を媒介にしたときはっきりと感覚することができる。まことに食(性)はゴシップの雄で、作品では窺い知れない生身の作家のイメージを活写する。中原中也が本当に性悪なガキであったり、林芙美子がイヤミな女の代表だったり、とこれはFriday的興味もあるけど、食への好みという視点からはくっきりと作家の実像がうかびあがる。おしなべて作家という職業を選んだ連中の食欲と性欲に感嘆する。著者の同時代人としての作家達への等身大の記述は、それが自分自身の青春への思いであるに違いないし、幾分かは当方にもその懐かしい人々のうわさの興味はあるのだけれど、やっぱりこちとらは作家にはなれない人間の幅でしかないなと思ったりもする。
日本国憲法を素材にしたパロディ集。パロディにするには元のカタチを咀嚼していなければならない、という意味では啓蒙的意味のある書物。つまらないパロディもある。しゃれのめして笑ってやろうという様な作品がもっともパロディらしくていい。憲法前文をクーナウのEtude des styles風に21のバリエーションでもって笑ってみた作品。戦争放棄条項を暴走族の抗争物語に当てはめてみた作品等。特に後者は憲法改正論議のなかなか見事な小説的移植である。著者の立場はどちらかというと護憲風であるが、なにはともあれ憲法を読ませようという啓蒙的意図があり、まずはその志操を評価すべきか。
いつもながらネタがいいし、手つきもあざやか。常にいい素材を仕入れる目配りと勉強が感じられてうまいと思う。日米開戦時の駐米日本大使館がらみでは今でも印象深い作品があって名を挙げておこう。寺崎英成一等書記官の混血の娘の名がタイトルの柳田邦男「マリコ」・来栖特命大使の混血の息子を素材にした加賀乙彦「錨のない船」。まあ、後者は直接大使館には関係ないけど。ドキュメント・純文学ときて、この佐々木作品は、架空の留学生・国務省補佐官・スパイの女タイピストを配し開戦前夜の政治的緊張感をうまく狂言回しにし娯楽活劇スパイ冒険小説(新潮ミステリー倶楽部の1冊)に料理しきってしまった。オチもなかなかありそうな話にうまくまとまり、おみごとでした。
外国語との関わりをつづるエッセイ集。阿部謹也さんの名前だけで読んだが、あまり大した文章はなかった。日高敏隆氏がストラスブール大学に留学したこと、ペーテル・アッケルマンという独人の外国語としての日本語学習の文が入っているのが印象に残るくらいか。
その昔「全書現代文学の発見・存在の探求」という分厚いアンソロジーがあり、植谷雄高「死霊」・稲垣足穂「・・・忘れた・・等が編まれてい、当方の魂に未だに残っている何事かの痕跡を刻み付けた本であった。中島敦「悟浄出世」はその中にあった。「自分とは何か・この世とは何か」風の青年の哲学志向を流砂河の川底に棲む妖怪達の間を遍歴する悟浄を狂言回しにして語る面白さ・見事さの印象は鮮やかだった。30年前に読んだ20ページ・1時間ほどの印象が今でも残っているのも考えてみれば奇妙な話である。「悟浄出世」の最後に「わが西遊記より」という辞があることまで覚えていて、てっきりこれは膨大な「わが西遊記」という長編の極一部であるに違いない、いつか全編を読んでみたいものだと思っていた。中島敦・東大国文を出て女学校の教師をしながら書き、早くも30台半ばで死んでいる。最後にはアフォリズムもどきの短歌に収束するくらいの短く引き締まった短編作家であった。匈奴に捕らえられた将軍と司馬選を描く「李陵」等。古今東西・和洋中の文学を旺盛な食欲で消化した戦前の日本の知識人・文人の水準を感じさせる。
(オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所)
日本でオランダというと西欧諸国の中で唯一鎖国日本と交渉があった国としての親近感がある。しかし、オランダで日本はどうなのか。1602年オランダ東インド会社設立以降300年にわたって植民地を経営してきたオランダ人が1942年日本軍のジャワ島侵攻で主客の座を逆転され、収容所に入れられ猿のようなアジア人によって支配される。この前代未聞の屈辱が東京裁判となり、あるいは現代にまで続く卑劣な日本というイメージを生み出す原体験となっている。蘭領東インド(現インドネシア)に生まれ少年期を植民地経営者の息子として暮らし、やがて収容所に入れられる著者は、自らの見聞を記述することで「オランダ(西欧):善、日本(アジア):悪」のステレオタイプに異議を唱える。日本人は本当に悪でしかなかったのか、オランダ人は果たして常に善であったのか。ここには期待するような善意の日本人が書かれている訳ではない。しかし、植民地の支配者オランダ人の手厳しい旧悪の報告はある。そして日本人の悪をいうが自らの悪を隠蔽しようとする人々への批判がある。著者は、日本人が白人種を殴る時の心理は自らの人種的劣等感からであると分析をする。絶対悪とレッテルを貼る代わりに人間の心理として分析をすることが著者の公正さへの自負である。
50歳にして衝動的にスタンウエイのピアノを買い、ピアノの練習を始めたラジオジャーナリストのエッセイ。ピアノ教師・技術者・生徒である大人・著名なプレイヤー達とのインタビューや私的・公的な交流、さらには一年後のクリスマスにシューマンのトロイメライを妻のために弾きこなし感涙の幕となる風の生活のドラマありで、結構読ませる。アメリカという国にそんなに大した思い入れはないが、こういうアメリカ人は好きである。やりたいと思うことを、素直にやりはじめる健康な精神がある。ラジオのインタビューアーの手法でバランスよく配置された読みやすいエピソード群。最初は通信販売で買ったマックのソフト「ミラクル」でキーボードの練習を始めるとか、1週間のピアノ合宿に参加するとか、それでどうなったん?というような調子でレッスンの様子を尋ねたくなるような。アメリカ市民レベルの健全さがすがすがしい。
win95になって長い名前のファイル名をつけることが出来るようになった。で、ときどきファイル名自体をメールにしてネット上の相手のディスクに書き込むという風なこともしたりする。「ど〜お?元気ぃ?」というファイル名とか。中身はない。タイトルを見ただけで全部わかってしまう小説、というか、タイトル自体が作品そのものであるような小説。ほかには筒井康隆「日本以外全部沈没」というのがある。実際にもそのとおりであることが著者の後書きで示されているが。パロディは好きである。この人のパロディは素材が面白い。日本国憲法だの国語入試問題だの。他収録作品「渋滞原論」「旧石器の男」が秀。
もう20年くらい前の雑誌記事・他人の全集の解説や本の序・講演記録等の小文アンソロジー。例えば「日本史から見た国家」1969 には、独得のねばりのような説得力がある国家・日本論がある。「地理的に隣り合っている藩・農民なら村という単位なら隣との喧嘩を命がけでやるが、国家という範囲では何も意識がない。明治政府は天皇への忠誠心を養成して、それで国家を維持しようとした。戦後は明治の天皇制も統一国家もメッキだった、ということがはっきりした。われわれは元の地金にもどった。古来、日本人を安定させてきた日本社会の自然な姿であるローカル主義である。島国というのは、いつでも「ここが天地」で隣がみえない。日本は史上はじめてモデルのない時期にきた。中国・ヨーロッパの模倣ではなくて自分自身でモデルをつくらなければならなくなった。政治というものは素朴に常識政党と非常識政党との二つがありさえすればよい。非常識政党が必要になるときが二百年か三百年に一度かならずある。現実には非常識政党・日本共産党は開店休業状態で「革命いたします」という看板が風雨にさらされてしまっている。国内に異民族を抱えているロシアは専制独裁に向いた国であり、日本は宿命的に多党政治が性に合う国だ。」・・引用していくとキリがない。歴史をふまえ、自分の解釈で現状を理解・分析し、その上で構成されていく確たるイメージを表現する言葉をもっている強み。学者ではない”素人”が自分の興味という視点でずかずかと歴史に入り込んでいって掴んでくる実体の面白さと、めりはりを自由に織り込める自分の語り口をもっている人の文章は、小文に至るまで面白い。
完全に分裂した2部からなる長編小説。例によって無国籍の、何ら係累のない一人になろうとする現れであるらしいパリ一人暮らしから、オルガンの音に誘われて次第に自分にとっての意味を見つけていく経緯を描く前半と、作中小説で純粋に「魂」のハナシである後半。作者が持っているらしい精神であり、魂である問題意識は説明されていない。一般には社会と個人の相克風の生きにくさというものがあって、無名の人に還元されるパリに来たというところか。オルガンの音をきっかけに魔法の扉が次々と開いていくような、不思議な人との連関が始まっていく、それはいかにも小説らしい語りである。しかし、もともと作者の問題意識が当方とすれ違っている以上後半の純粋創作物語・男女の愛と神への愛との物語か?には何らの読書意欲も刺激されなかった。結局高橋たか子は、「装いせよわが魂」とともに、異国人として暮らし始めたパリでの、人との関わりを始めていく物語の作者としてしか当方には意味がないようだ。
女性法律家による体外受精・代理妻等の新しい人工生殖法の総括的な報告と考察。法的にも倫理的にもすっきりした見解が出せないが、確実に技術は進化し普及していっている。アメリカにおける商業代理妻が契約を破棄し自分の子として育てる宣言をした裁判等の生々しい検証がある。遺伝的側面だけを親子の絆として重視する感覚は男性側のもので、妊娠期間の胎児との交流体験も女性にとっては強い親子の絆と感ずるという。体外受精が受精卵の観察・検査を容易にし、結果選択的分娩を可能にすることの問題点がある。欠陥や病気をもった胚の排除から始まり、好みの性別、人種、目の色等の子を持つことの人為的な選択がもたらす問題。身体障害者団体が障害者の人権問題であるとしている現状。「倫理的に問題があるからといって、国家が子を持ちたい不妊の人々の実現可能性を法で禁止することはできない。これは個人の選択の問題である」という著者の見解はうなずける。しかし、「人口問題を受胎技術の規制根拠とするのは論外」とする論拠は肯えない。国家が規制する問題ではない。しかし、子を持とうとする個人が一切社会的要件を考慮にいれる必要がないわけがない。人工受胎を繰り返し精神的・肉体的に追いつめられている女性の告白がある。しかし、子を持ちたいという欲望は、自らの固体としての生存条件が満たされている『恵まれた』レベルのものと見える。病苦・障害というような「より緊急な」医療活動の問題と比較すると強いて医療が是非取り組まねばならない問題とも思えない。子を産むことは基本的な人権なのかどうか、さらに、そこまでして子を持たねば人としての幸福はないのか、当方には判然としない。
信長の妹・お市とその娘達の系譜をたどり、やがて女が裏から権策謀術数を行使する大奥にいたる、「武士社会の女達」というくくり方でまとめた歴史小説。個人にしぼらないので小説としての収まりは非常に悪い。時々作者が地の文で顔を出す。「だが何よりも、私は北琵琶湖の春を愛する。多くの人は知らないが、桜の木がいつまでも尽きない湖畔があって、うるむような物憂い晩春、花吹雪のなかで、あまりの美しさに息をのんだことがある。」(「行く春を近江の人と惜しみけり」風であるなぁ・・)エッセイがかった小説というか。さすがというか、日本における歴史上のキリシタンにまつわる挿話が豊富で興味深い。有馬神学校の一卒業生が単身ゴアからアラビアの砂漠を横断しローマに達し、コレッジオ・ロマーノで勉学しついに神父となり、更に弾圧を覚悟で日本に布教しに戻って非転向のまま拷問死するペドロ岐部の挿話なんぞは、あきらかに「女」とは何の関係もない。それにしても、これもこの本のテーマとは関係がないが、最近中世の人々の死ぬ意識のことをよく考える。義のために信長に逆らって死ぬ浅井長政・大阪城とともに焼ける淀君とか、将軍家光の死去に伴い、語らって殉死・切腹する老中達。禁制下にキリスト教徒であることを公言し刑死することを願いでる長吉・お春の夫婦の挿話。死ぬことは自分で演出できる人生最大のイベントであるからには、それなりの趣向を凝らさねばという風に思う。現代の死を厭い可能な限り遠ざけようとする風潮は病的である。と、ま、こんな感慨を抱くのは、当方も歴史小説が好きな気質があるからか。
初版は1964。著者のオリエント3部作の最後。前2作はトルコのケマル、サウジアラビアのサウドの伝記だった。今回は人物としてはエジプトのナセルである。しかし、記述の大半は1956年のスエズ運河の国有化から始まるイスラエル・エジプトのスエズ戦争の子細なドキュメントが占める。これは著者が実際に体験した緊迫した中東情勢の同時代のジャーナリストとしての生の報告である。そしてアイゼンハワー・イーデン・ナセル・ダヤン・ハマーショルドといった人物は当方の同時代人でもある。「エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言」このフレーズに似たものが子供のときの記憶として未に残っている。生々しい1956年のドキュメントは名前だけ知っている人々の顔に目鼻をつけていく。まるで地名だけ親しんでいた地方を実際に訪れ、ああ、こういうところだったのかという風に脳髄の空白が埋まっていくような思いがする。ナセルのエジプトが政策的にソビエトに近寄り、英仏がイスラエルの侵攻に便乗し、やがて中東の紛争が東西陣営の代理戦争という様相になっていき、現在に至るまで戦争と和平の間で揺れつづける熱い地帯となる。東西陣営の駆け引きと国連の動き・ベドウインの騎馬部隊とイスラエルの機械化部隊・伝説的英雄のサウド王と若き革命家ナセル中佐、これらは生々しい同時代の出来事である。巻末に訳者による中東のその後についての良心的な補足があり、改版する度に追加されている。最後の1990年の補足で「現在も第一線で活躍しているのはヨルダンのフセイン国王ただ一人である。」とあった。フセインはこの2月に死去したところである。
イスラエル警察OBのスヴォレイ氏がニューヨークに本拠をおくナチス戦犯の私的糾弾機関ウィーゼンタール財団の支援で現代ドイツのネオナチ組織を内部取材するドキュメント。不況の度に強くなる外国人排斥の右翼組織と心情的なドイツの栄光を忘れられない層は確かにある。ドキュメントとして正義のために悪の組織に潜入するスパイ小説もどきの構造を取る書物だけど、なんかフライディ・フォーカス的「許せない・人には言えないドイツの暗部」というようなタイトルが似つかわしいような内容に受け取れる。書物作成上の演出が透けて見えるからか。
英語をものするにはナチュラルスピードの英語を浴びるように聞くこと、に尽きるようである。英語のリズム・論理を肉体化するということらしい。しかし、この人の本の特色は「英語の居合い(斬り)」「英語道」「現在7段の高所から振り返ると・・」なんぞと、スポ根モノ・諸国漫遊武者修業講談風自己開示を延々とすることであろう。本人自身も自負しているように、どうしても体育会系のノリが全体を貫いている。それはそれで、具体的に良く分かるので、この種の本では有効。しかし、気恥ずかしい。この気恥ずかしさを堂々と活字に出来るのが体育会系、あるいは人によっては関西人に特有な性格とというだろう。しかしながら、英語に上達する方法が書いてある本を何冊読んでも英語は上達しない。せめて一冊くらいは英文の本を読まにゃ。
「ぼく」という一人称で進行する軽い文体。かなりの長編であるが、するすると流れていく筋立てとリズム感。適度な小説的サスペンスもあって、なかなかの実力。進化しつつある新種のサルの養殖をめぐるマッドサイエンチスト・自称環境保護団体・動物ブローカー・詐欺師・ギャング等のどたばたに巻き込まれる「ぼく」の話。村上春樹の文体によく似ている。分析すると学生言葉の延長上にある会話調と友人に話すくらいの距離の独白調か。女友達が主人公に呼びかける二人称が「シンノスケくん」に対して、主人公から女友達は「森下さん」。両者は対等の関係だが、二人称用法からいえば完全に女性優位である。この「さん」は目上に対する敬称ではなくて女性汎用の「さん」。男性には「くん」女性には「さん」。学生言葉である。社会人になってもこれをそのまま持ち越すのがこの世代の等身大の言葉づかいであろう。
1961年産だからこの本を書いたのが23歳。きらびやかで、遊びごころに満ちた文体。既に完成した作家としてのスタイルがある。こーゆーのは「天才」というレッテルを早めに貼ってカタつけておこう。自分の年齢と比較したってしかたが無い。当方だって17歳のときにはそのくらいの遊びはやってたぞ・と言いたいが。「ところで読者の皆さん、僕の小説が朗読に向いていることをご存知ですか?」とあとがきでしゃーしゃーと言ってのけるような芸当に思わず唸ってしまった。17歳の感受性ならのめり込まざるを得ない反現実・脱現実の毒もある。この反抗期の主人公達、つまりは作者の分身達のセリフを紡ぎ出しているのは作者の脳髄であるが、軽く揶揄するような調子で記述できるのは、書くことで既にもう一つ別の世界を実現する手段を手に入れてしまっているものの余裕か。楽譜の引用・自作のココーシュカ風の輪郭のある絵数点も挿入されている。島田雅彦=書くことの悦楽、と評しておく。
第14回横溝正史賞受賞作。ノルマンディ上陸作戦を失敗させようとするソビエトの謀略に対し、祖国の共産化をはばもうと作戦を成功させる工作をするドイツ大使館の情報将校。この構図の着想は面白い。しかし、戦時の軽井沢を舞台にこのドイツ将校と日本の支配階級大使の娘とのメロドラマは、あまりに作り物臭くて素人っぽい印象だった。時間も無いし構想が見えたところで、本を閉じようかなと思った。次に在日二世の朝鮮人刑事が登場し、なかなかの奥行きが出たので読みつづけることとする。しかし、2、3ページ後にはこの刑事は東京空襲で死んでしまうのだ。佐々木譲なら、膨大な資料を駆使してもっと緊迫した物語をくみ上げていく素材である。50年後の再会というのも月並みなような。兎に角もう少しシェイブアップできる作品だと思う。
実をいうとアルバニア関連の書物を探していたのだ。アルバニア情報はほとんどない。ついでにいうと、ふとアフガニスタンと混同しそうになったりして。アメニアはコーカサスのアララト山を民族の象徴と考える典型的な少数民族で世界で最初にキリスト教を国教としたという歴史を持つ。アッシリア・ビザンチン・トルコ・ロシアというような強国に絶えず支配されている国家無き民族としての時間が永い。今世紀初頭にトルコ領内のアルメニア人のホロコーストがおこる。現在の国家無き民族クルドはこの時虐殺者の側にある。古代の大アルメニア王国から現在のアルメニア共和国に至るまでの要領よく纏められた労作。あとがきの中で、30年前にふと知り合ったアルメニア人からトルコによるアルメニア人の虐殺のことをきき「何かたいへんな歴史をわたしたちは、そっくり落としてならってきたのではないか」という感想を持ったことが述べられている。特にこのホロコーストの報告が詳しい。ハチャトゥリアンの「ガイーヌ(ガャーネ)」がアルメニアの歴史上の殉教者の名であること。あと、カラヤン、アシュケナージ(なんか、ユダヤ系のような気もするが)、サロイヤン、ソ連で長い間外相だったミコヤンなんかもアルメニア系だそう。少数民族の摩擦に宗教がからめば必ず虐殺をうむ構図が今もある。それほどまでに民族としてのアイデンテティは保持しなければならないものなんだろか。無宗教・民族意識ゼロの当方にしてみれば、個人としてのアイデンテティしか問題にはならないけれど。
14-15世紀ケルン市の年代記・市参事会記録・塔牢獄調書等の資料から「名誉ある」と冠せられない・下級の都市生活者を分類調査しまとめられた報告。猥雑な下層階級の生業と事件。第一級の学術資料であるが、口調は説話調を真似ている。訳文にも因ると思われる、たびたび妙にくだけた口調になるが、そのわりにはすっきりと意味がとおらないところも散見する。学術資料であろうとするのか、あくまで読み物であることをめざしているのか。要するに中途半端な書物である。ホイジンガ「中世の秋」の文学的刺激とは比すべきもない。この本で取り上げられている「アウトサイダー」を列挙しておこう。乞食、ならず者、浮浪者、ハンセン病患者、狂人、風呂屋・床屋、大道芸人・楽士、魔法使い・売らない女、狼男、ジプシー、娼婦、刑吏。このうち床屋は後に医者と分離する。「現在われわれは医者に対する高い報酬を、医療実務にたずさわる人々への数世紀にわたる差別代としても払っている。」刑吏の項では、死体・死獣を扱う人々への差別感の形成が語られている。江戸時代の被差別階層が同時に警察権力となる岡引を思わせる部分もある。あと、中世の残虐刑の数々。見世物として行われた死刑。「断頭台から発する残酷な魅力と大きな感動によって、民衆の精神は養われた。それは道徳を伴う見世物だった」というホイジンガの言葉が紹介されている。人々は残虐刑を見物に集まり、感動し、神に感謝し、興奮して帰るのだ。くっきりと輪郭が刻まれた木版画のような世界・中世。
「天安門事件」のリーダーの一人として公安当局に逮捕投獄された、北京師範大学新聞編集長高新(GAO XIN)の獄中記。「天安門」は毛沢東後の中国社会を語る指標として未だに米国のマスコミなんかで引用されている。「ヒロシマ」風事象名詞になりつつある。本文は、予想したような政治的主義主張表明はなく、「明るく楽しい」獄中見聞記である。別に「明るく楽しい」訳はないが、なんとなくそう頭につけたくなるような気分もある。登場人物群の1は警察・看守であり、単純に粗暴な者・それなりに相手を人間として扱うことが出来る者の2類がある。登場人物群の2は同じ収容者・罪人仲間であり、これはほとんど全員が著者を年長の人間・知識人(大学の先生)として尊敬し、暗に陽に親切の限りを尽くしてくれる類ばかりである。著者は手かせをはめられ、劣悪な獄中の生活条件下に置かれるが、罪の意識もない確信犯であり、過酷な肉体環境を鍛練の場と意識を擦りかえてしまえるくらいの強靭な精神がある。何よりもこの獄中記が語るのは、同居する若い殺人犯・死刑囚達の同情に満ちたエピソードと著者との交流である。牢獄の中の死刑囚という極限の生活の中で、ユーモアや思いやりというような普遍の人間性が存続しているのを見るときの感銘は確かに通常の社会では遭遇できないことどもであろう。現代中国の監獄内部のドキュメントという資料価値もあるが、こうした人間達の交流が意外とさわやかで、なんとなく「明るく楽しい」読後感を得られる本。
ダーウイニスムは検証されていない仮説で、単細胞生物から脊椎動物にいたるまでを整理することなく記述したごちゃませ進化論だと説く。著者にいわせれば少なくとも脊椎動物の進化は「突然変異」と「自然淘汰」では有り得ない。却ってラマルクの「用不要」の原理と「獲得形質の遺伝」に近い過程で生物の形態が変わっていくということを主張する。著者は、遺伝子の変化に頼ることなく、単に環境が変わることで確実に生物の形態は1世代内で変化していくのを例証する実験を実施し、結局は重力に対する各固体の運動がそれぞれの形態を規定し引き継がれていくことを示す。遺伝子はハード機構であり、形態はソフトである。ハードが同じであってもソフトを変えることで別種のものになる、という。獲得形質の遺伝については、いつかハードはソフトについてくる風のかなり粗っぽい記述しかない。ダーウイニスム批判で真っ先にやり玉にあがっていたヘッケルの「固体発生は系統発生を繰り返す」が、ここではまた復活する。うーん。面白いといえば面白い。なかなか明晰な語り口で自説を述べ世界で初めて成功した自分の実験を語る。少しマッド・サイエンチスト風の自家執着も多少ある。だから面白い。
FM音楽放送ディレクターが本業だそうである。業界のウラ事情をネタにひねり出した短編小説集。小説とするための物語が安直で安手のテレビドラマ風。多分この著者が書く熱となっているのは愛着するステージ音楽への熱なんだろう。しかし、こちらの過ごしてきた時間とは完全にすれ違った世界のハナシである。従って、むりやりひねり出したプロットしか読むところはないが、これが粗くて安っぽい。「赤いユトリロ」と称する作品は、日本人のアルゼンチン移民とナチスのアルゼンチン亡命を接点としたプロットがあって、そこだけ秀。
イルカと交流させることで自閉症を治癒させる研究をしてきた著者の20年間の活動報告。イルカには高い知能と好奇心があり、人間に対して共生者としての仲間意識があるようだ。犬猫とは違って、もしくは他の人間達のように上下(主従)の関係ではなく、ヒトの個人とイルカの一匹には対等の友情関係が生じることがある。著者とある時期共同作業をしたイルカは報酬目的ではなく純粋に教育的目的で自閉症児の治癒プログラムに参加していたという。また、ある自閉症児は、交流しているイルカの捕らわれてプールに飼われている悲しみを感知し、振り向いたとき涙をながしていたと著者は報告する。高い知能があり、天敵もすくなく比較的単純な社会で競争することもなく生きていると、慈愛に満ちた生のカタチとなるんだろうか。イルカの存在は人間社会の悲惨の原因はどこにあるのかを暗示するようである。
ダリの「スペイン市民戦争の予感」という絵がスペイン戦争のイメージを決めてしまっていた。英雄的で悲劇的である。共和国政府がフランコのファシスト軍の蜂起にあい、外国から自発的にファシストと戦うために、オーウェルのような青年が義勇兵として馳せ参じる心踊るイメージもある。アメリカ共産党からはジャック白井という日本人も参戦している。「カタロニア讃歌」というタイトルのイメージもある。労働者の共和国と王政ファシストの戦い。Homage to Catalonia。それでは、実際に参戦したオーウェルは何を見たか。英雄的な戦闘はなく、貧弱な武器と装備を手渡されたつらくて惨めな兵隊生活。上官も兵士も「同志」と呼びかけ身分・給与の差が一切ない軍隊だったが、それは素人集団であるということに過ぎない。結局「武器を持っている方が勝ったのだ。」実際には共和国政府内の各政党の権力奪取争いの色彩が強く、なかでもソビエト共産党が、革命をなしくずしにするために各派を弾圧したのである。オーウェルはコミュンテルンの「国際旅団」ではなくPOUM(統一マルキスト労働党)の師団で戦い、後に共和国政府に非合法化され逮捕・投獄の危険をかいくぐってスペインから、そしてスペイン戦争から追い出されるということとなる。少しも英雄的でない惨めな戦場で、オーウェルは自分の見たことを軽い諧謔感をまぶして克明に記していく。敵も味方も同じ規格の大砲を使っているので、敵の不発弾があれば、それをまた敵に向かってぶっ放す。しかしまた不発で敵から打ち込まれ、返ってくる。このようにして何とかという渾名のついた有名な不発弾がある「という話である。」自分が安全な場所で見ているのなら、敵の弾が飛んできたとき、味方の建物であっても景気よく当たることを「つい期待してしまう。」「無蓋貨車の上の大砲は、やっぱり人の心を躍らせる。それを見ていると、戦争は素晴らしいという、あの有害な感情がよみがえってしまう。」英雄でもなく卑怯者でもない、まっとうな青年のまっとうな感慨というか。最後まで変わらなかったスペイン人一般への好意的な感情が、爽やか目の文体を紡ぎ出しているような気がする。翻訳は秀逸。
新聞連載のエッセイ風啓蒙書。ドーキンスの日本への紹介者ということで「利己的遺伝子」の振る舞いを一般的に説く部分が大半。老いというのも次世代と競合させないという遺伝子のプログラムによると説く。プログラミングされた人生という運命論・決定論に対しての著者の見解は、プログラムはあくまでシナリオで、とう演じるかは役者の主体性が入るという比喩である。あまり新味はない。
イルカ研究者村山はイルカについて過剰にいわれている知能・言語能力・人間とのコミュニケーション意欲等にことさらの根拠を見出さない。確かに物理的な脳の大きさはヒトに次ぐし、論理的判断力や記憶力もあるのは確か。しかし、人が「賢い」という基準は人の行動様式に近いかどうかでしかなく、その動物にとって本質的な能力の適切な判断にはなっていない。人を基準として見ることをいましめる。「ヒトにとって大切な能力だからといって、イルカしてみればあってもなくてもどちらでもいいようなことで、知能の優劣を測られたのでは、さぞかしイルカも無念でしょう。」
クジラ研究者笠松は完全にブラックボックスであったクジラの生態と統計的事実についての最新の情報を報告する。特に現在まで研究・調査されることがなかった「地味な」小型クジラが海洋生態系全体にあたえる影響力ではキーになる種類ということが明らかになったとする。有名なセミクジラの「歌」は30キロ離れた場所からでもはっきりと水中マイクで捉えることができ、シロナガスクジラでは1000キロ離れていても特殊なマイクなら拾うことが出来るそうである。広漠とした外洋の深海を何百キロも離れたクジラの「歌」が伝わってくるイメージは強い吸引力がある。シャチが氷の上のセイウチをねらっている写真もなかなか興味深い。10年前に白浜のワールドサハリパークでみたシャチの大きさとスピード感の鮮やかな記憶がよみがえる。生態系の頂点に立ち、広大な海中を獲物を追って突き進むシャチのことを、ヒト社会の底辺から憧れる。
実名小説というか。快著で怪著。中身の大半は官僚・実業家・政治家の悪辣な拝金システムの微細にわたる報告である。日本国内にとどまらず、ロスチャイルド家を頂点とする国際金融マフィアのいいように支配されている国際経済についてのうんちくもある。例えば防衛庁汚職が大蔵官僚・防衛庁幹部・軍需産業トップがほぼ同じ閨閥人脈内金持ちクラブの連綿と続く税金私有収集システムの表層に過ぎないこと、特に官僚の帳簿を検査する会計検査院自体が大蔵官僚クラブの一ポストである。北朝鮮の脅威は軍需産業をとおして利を確保するための作為である。原子力発電は実用にはならないが、発電所建設・メンテナンスでゼネコンに金をばらまくため、未来のエネルギーという虚のイメージを陰謀し、ジャーナリズムもそのイメージの忠実な伝導者に成り下がっている。等々。実名で利権に群がる現職の大臣達を糾弾しているからには、もしそれが嘘であれば名誉毀損ものである。だから、やはり事実なんだろう。克明に報告されている官僚を始めとする「金持ちクラブ」の暴虐ぶりに腹も立つ。しかし、自分の地位を100パーセント蓄財の手段とする狡知、あるいは英知を考えると、それはそれで個人の最大限の生命活動ではないかともいえる。何故腹立たしいのかは、彼らが負けたゲームの支払も公的資金・税金つまり当方の労働で支払われるという個人に直結する不利があるからである。主人公が世の不正に糾弾していこうと決意を固める過程が小説としての縦糸であるけれど、この筋のほうはあまりに素直な正義感とご都合主義でひとつも面白くない。そんな単純な勧善懲悪がすこしも心を捉えないのは、もし自分が「金持ちクラブ」のメンバーであれば同じようなことをしているのではないか?と考える大多数の本質的な生き方のジレンマが欠如していることである。
全5巻本の1、2。フランスでベストセラーだったそう。2年前にどこかの本屋で平積みされていた記憶がある。作者はエジプト学者、テレビでお馴染み吉村教授の監修ということで古代エジプトにアカデミックに埋没できるかと思ったが。陰謀あり、冒険あり、愛あり、戦争あり、権力ありのありふれた活劇の域を出ない。物語としては、まあ飽きずに読みつづけられる程度。先ず訳語に問題がある。警察長官、外務卿、よく冷えたいなご豆のジュースとか、少しも古代エジプト的な語感ではない。では何が古代エジプト的かといわれても困るけれど。翻訳は平易な方がいいが、言葉は理解されればされるほどいいというものでもない。意味不明であっても語感の方が大事なこともある。小説としての語り方も平凡で類型的である。愛友情正義信頼という近代の物語のステレオタイプから一歩も外れるところはない。中世人の感覚でも現代とは大いに違う。古代エジプトのファラオが友情がどうのこうのと言わないで欲しい。あまりに近代人的に過ぎる。もっと異質で理解しがたい心理、行動の物語を期待していたのだ。憧れの外国に行って土産を買ってきたのに、よく見るとmade in Japanと書いてあったという風な、せっかくあそこまで行ってこんなもんかというような、残念な物語。
なんていう魅惑的なタイトルだろう。ボーヌはブルゴーニュ公国の古都。100年戦争期に建設された L'Hotel-Dieu de Beaunne ボーヌ施療院を中心に据え、ここから建物・絵・人・戦争・時代を見ることで演繹的に中世を語ろうとする、くっきりとした鳥瞰の書物。先ず正に本家<中世の秋>と同質の、深い奥行きのある読書の時間を得たことを記しておく。切り口の鮮やかさと的確な文章力、何よりも中世ヨーロッパに憑かれ憧れのめり込んで知ろうとする新鮮な好奇に満ちた心性が読者にも感応していく。大著ではないが中世の時・所の中の一点を固定したことで深く鮮やかな印象を残す。
先ず病室に置かれていたフランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの大作「最後の審判」のレターブル(祭壇画?)の細部を見る。「タピスリーの間からもう、それは見える。ガラス戸を透かして、かなた、真っ暗な空間に、それは浮きあがって見える。黄金色の光線が横長に、一面に拡がって、まさしく天国の残光さながらに、いくらかくすんだ、高雅な光の粒々をまき散らしている中に、赤、白、紫色、褐色、薄青色がぼうっといりまじり・・・思わず、心がかるい興奮にわき立つ。・・・」こういう直截な文がこの1930年産の碩学の記すところ。ただの学者ではなさそうだぞ。
そして次々と取り上げられる中世おもちゃ箱。王様(=ブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボン)と宰相(シャンセリエ、ニコラ・ロラン)、100年戦争とペスト、ジャンヌ・ダルクとジル・ド・レ。狂信者と乞食、ダンス・マカーブル、騎士道と愛の命題。
先ず中世は「死」と共存した精神の時代である。「15世紀におけるほど強く徹底的に、死の思想が人々の胸深く食い込んだ時代は他にない」(ホイジンガの引用)。中世人の心性は、かくも日常的な死に取り囲まれた無常感の反映であり、反発でもある。
今ようやく、当方にも世紀末の気分が染み渡り、自分の老いと決して明快ではない不条理な現世を重ねて「この世は夢ぞ、ただ狂え」とふとつぶやく様にいたり、中世の薄くらく、うすさびしく哄笑が響く気分が妙に近しい。確かに当今の経済破綻が心に与えた影響は大きい。この世の確実性をしっかりと支えていると思えた大生産性による物量世界が、本当はもろい仮想にすぎなかったのを暴露し、本当の生は相変わらず不安定で苦しくて不条理であることを否応なく悟らせてしまう。近世がデカルト流の論理実証主義から始まるとして現代の物量社会を帰結とした大きな時代のうねりが、今また収束に向かっている気がしてならない。中世は物量の貧しさ、ペスト・戦役による膨大な死の中にかろうじて浮いているもろい生という認識を共有した時代である。人々は物的なものではなく心的なものに生の意義を託した。この「はかない生」という思いへの共感が中世にのめり込ませるのはないか。著者も読者としての当方も。王様がのめり込むのは騎士団創設の遊びであった。「現実がすさまじくも過酷で情け容赦のないとき、人々はその現実を騎士理想の美しい夢の中に引き戻し、そこで生活遊戯にふけったのだ」(ホイジンガの引用)。ジャンヌ・ダルクを逮捕させた「現実的」政治感覚の持ち主であるブルゴーニュ公は、内なる精神的価値に重きをおいて生きることを自己に課す、禁欲、貞淑、清貧の厳しいおきてを固守する金羊毛(トワゾン・ドール)騎士団を創設し、のめり込む。そしてこの本の力学的焦点である、純粋に贅沢な掛け値なしの慈善事業であるボーヌ施療院の建設にも繋がっていく。
「それは良心と利己心とから成る不可思議な混合物であり、およそ近代人が他の一切のもの、信仰、愛、希望等を自己の咎によると否とにかかわらずことごとく失ってしまった後にも、なお依然として残しているところのものである。この名誉感ははなはだしい利己主義や大きな悪事とも手を携え、途方もない欺瞞をもあえてすることができるが、しかしまたおよそ人間の人格に残留し得た一切の高貴なものはこれと関連を有し、この源泉からして新たなる力を汲むことができる」(ブルクハルトの引用:ルネサンスの名誉感について)。生に執着して高貴なものは何もない。物欲の時代の終焉を見る。
新世紀小説の誕生!衝撃のデビュー作!!だそう。ハードボイルド系SFホラーB級活劇。普通人ではない超人系の種族があり世の迫害をおそれて市井に隠れ住んでいるが、宿命の対決を闇の世界で戦う・・風なジャンル。一気に読ませるくらいの娯楽性はある。毒系おどろおどろしさも少しはあるが、この手の作品には滅多に見られない5歳の女の子の生態の描写が妙にいきいきと上手いのが新味。
物語としては大団円になり悪の魔術師・腹黒い兄は死に、敵ヒッタイトは友邦となりアブシンベルの壮麗な神殿が完成し、王妃は息を引き取る。おいおい、第4巻でそこまでやったら後どうするんだよ、まだ一巻残ってるのにぃ。ま、解説の鏡明氏が「面白いぞ。」といってるが(第三巻)、何もわかっちゃいない。エジプトである必然性は何も無い。なんで吉村作治の顔写真が原作者の顔と並べてあるんだ?ラムセスの学友であるモーゼがヘブライ人を連れてエジプトを出る有名なエピソードも取り込んでいるが、これも物語りの通りを悪くしているだけのような。重厚な外観に誘われて入った喫茶店で演歌を聞かされたような気分。
三省堂新明快国語辞典の字義・用例をとおして「新解さん」の人間像に迫ろうという遊びを遊ぶ文章。赤瀬川は社会的には何の意味もないとされていることをことをして遊ぶ生活をしてきた人である。しかし芥川賞をもらって今はすっかり「文豪」をしているようである。「新解釈国語辞典」もたいした代物のようだ。ひとつだけ引用されている字義例を転記する:「[動物園]生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえてきた多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。」これってビアズレーの「悪魔の辞書」でない?
遊びで生きているヒトの視点からの文章は、ためにはならないけど楽しい。でもなんか少し売文業者風文章書きになってきてしまっている気がする。昔は確かに毒気もあったハズだけど。
ダンス・マカーブルの起源を説いた後、ホルバインの木版画(15世紀)とリチャード・ダグレイ「死の所業」(エッチング・19世紀)を紹介する。後者はどうみても稚拙で魅力がない。身分の高低にかかわらず死は必ず訪れる・ということを教皇・皇帝から乞食・罪人にいたるまでの登場人物が「死」にとり憑かれる様を描いた一連の図柄で示す。表面的には「死を忘れるな(mement mori)」を教訓として映像化してみせたものといえるが、創作欲の根元は髑髏という形態が現実の世界にかかわりあう、おどろおどろしい構図の斬新な美しさであろう。そしておそらく鑑賞者の目も教訓ではなくて、内なる「死の美学」の不思議な魅力を読み取っていたのだろう・・・というのは現代の鑑賞者の思い入れにすぎるか。中世人にとっては絵画は虚構ではなくて真実の表象であったはずだ。こうした死のカタチを目にした衝撃は現在の比ではあるまい。「この世は夢よ・ただ狂え」という今様との親近性。
適当な厚さの本を時間に追われていいかげんに選んで借りたつもりだったけど、当たってしまった。ソビエトの崩壊時の政治的混乱・観光地とタイアップした名所巡り娯楽スパイ映画風を一瞬思い出させるが、本当にロシア通であり冬のシベリアに魅了されている目を確かに感じさせる筆致に驚く。当方も中学生のとき雑誌で見てソビエト大使館から「今日のソ連邦」を送ってもらったことを思い出す。母親はいかにも恐ろし気に「そんなん、せん方がいいのに」といった。昭和15年産の作者にはなにやら深い思い入れがあるようだ。日本の高度成長期を支えた中小企業の創業者達の、汗まみれの、多少はあぶないこともしてきた記憶もしっかりと行間から見えたりする。サスペンスとしても最後まで引っ張るプロットあり、通俗的ではあるけれど、極端にべたつくことはない適度に抑制された悲恋の物語もある。昔でいう大使館駐在武官格の大使館出向警視、政務次官私設秘書、パイロット、スチワーデス等の職業描写も破綻がない。とりわけサハリン郊外に帰化して住む旧日本軍属老人とその家族のエピソード描写は単なる冒険小説の域ではない。読んでいろいろトクする気分になる小説。
雑誌に書き散らした灘校・浪人・大阪芸大時代回想のエッセイ。この才人にしては常識的な筆致であまり面白くない。しかしまあ、灘校在学中にどんどんと落ちこぼれる感覚はなまなましい。浪人時代の「いろいろあったハズだが思い返すと空白」様の記述も当方の同時代を想起させる。作者の落ちこぼれぶりを聞いていて、思わず共感してしまうことは、くやしいけど多い。こちらも30歳ちかくまで高校が卒業できず落第を重ねている設定の夢がつきまとったのをなんとなく思い出す。
上智大学系研究者による小論集。橋口倫介古希記念論文集であるそうである。興味のない主題を読んで見るというほど面白い文章ではない。興があった文章と筆者を書いておく。
「ヴェズレーの十二世紀」池田健二:12世紀に栄えたブルゴーニュのヴェズレー修道院を描く。聖者ベルナールの栄光。現在はただの田舎と化している時の経過に歴史的感興をそそられる。
「中世ヨーロッパにおける癩」東丸恭子:癩は肉体の病ではなく涜神罪の発露であった。中世において慈善が活発化した根拠を癩者救済の精神に見る。
「中世のパリ大学と書籍商」大嶋誠:印刷術発明以前の書物の位置。パリ大学の監督下にあった当時の書籍商の実際を紹介。
「天文時計断章」相野理子:ストラスブール大聖堂の「宇宙時計」から中世の時間感を考える。時間を計測する道具ではなく統一された宇宙のメタファーとしての時計。
・・・実はストラスブールの「宇宙時計」を忘れていた。偶然この本の中に的確な解説を見つけ喜ぶ。こういうものに引かれ考察する人はやはりいるんだなぁ。
やっと全部用事がかたずいた土曜日の夜、王将で餃子定食とビンビール、マクドでフライドポテトとアメリカンを食べながら読んだ。後、家でクーラーをつけっぱなして寝ころがって読了。月刊漫画雑誌が来るとお菓子をほうばりながら一気に読み通した子供の頃を思い出す。
昔得体の知れない大部の冊子を出していた工作社という出版社の主筆というようなことだったと思う。この人の書いたフリッチョ・カプラ「道(TAO)」の何とかという本を読んだ覚えもある。まだ若そうなのに和服を着た写真のイメージがあり、よくわからんが何やら難しそうなことを言うカリスマ的人物という記憶がある。松岡洋右や中野正剛なんていう戦前の政治家も想起させ、話は胡散臭く混沌とする。この本も「工作社的」造本である。大判で大冊でソフトカバーで欄外注釈付。1944年産。編集工学研究所所長とある。東大客員教授という怪しげなタイトルもある。しかし、この本の松岡は適当にくだけて、面白おかしく歴史を語る。千葉大学での講義録だそうである。情報編集作業として歴史を語っているという。歴史の最初にDNAという仕組みについて解説があり、続いて生物発生学的経緯が置かれる。なるほど、見事な歴史への誘い込みである。やがてヒトの社会の歴史となり、地域的な分類ではなく情報操作というワクでくくった歴史を展開する。ミンネジンガーと西行が同時代でありパイプオルガンの流行と今様の流行が同じ年である。「ローランの歌」「アーサー王物語」「源氏物語」「今昔物語」をくくり中世物語編集時代とする。読書は近代に至るまで音読が普通であった。印刷術が黙読をうながし、黙読が対話よりも個人の内的思考を促す。音読=耳・同時性、黙読=目・追認型。これが近代の学問を発達させた。云々。魅惑的な指摘がつづく。なかなかの刺激。
めでたしめでたしとラムセス王の大往生までつきあってしまった。世界史からいうと大変な素材だろうけど、遠くの世界への憧れも感じられないままなんとなく読了。小説的にしようと手変え品変えのプロットが粗製濫造というか。安っぽい芝居のようなというか。ま、5巻にも膨らませた力量はあるのだろうけど。はい、お帰りはこちらぁ・みたいな。
日本で最初にして唯一のコルンゴルト(1897-1957)についての専門書であるらしい。白が基調のいかにもみすず書房風典雅な装丁の学術図書といった見かけだが、実のところは非常に読みやすくよくできた評伝だった。モーツアルトも早熟な天才だったが、世紀末ウイーンに生まれた分だけコルンゴルトの早熟度が高い。なにしろいきなり後期ロマン派のきらびやかな和声で処女作が始まるのだから。マーラー、R・シュトラウス、ツェムリンスキーを瞠目させ、同時代人としてのシェーンベルグをはるかに凌駕するポピュラリティを持つが、「難解な」現代音楽を書かずハリウッドで映画音楽を書いていたため時代遅れの忘れられた作曲家となってしまった。「コルンゴルトの音楽は『映画音楽みたい』と非難されるが、それは順序が逆なのであって、映画音楽の方がかれの作風を模倣しているだけなのである。」世紀末のウィーンからハリウッド映画の黄金時代とレッドパージ、そして戦争と冷戦の時代までの一人のユダヤ人音楽家を描くのはかなりの力技のはずである。著者は全ての時代の雰囲気をみごとに描き切っていて破綻がない。特にシェーンベルク、アルマ・マーラー、トーマス・マン、クレンペラーというようなハリウッドの亡命者コロニーの様相なんかが当方には目新しい。関係ないけど、コルンゴルトにも「左手のためのピアノ協奏曲」があり、ラベルのそれと同様ピアニストの兄ヴィットゲンシュタインの依頼であるそうだ。この「きさくな天才」は映画音楽作家としてもマジメに仕事をするが、プロコフィエフ、ストラビンスキー、シェーンベルクはその伝ではなかった。しかし、われわれの時代は後者を大作曲家と記憶し、自分の音楽をつらぬいたコルンゴルトをマイナーな作家として忘れようとしている。天才として現れ二流として消えていく。有り体に言えば当方としてはアンチ・クライマックスの典型的人物としての伝記を「期待」していたのだけど、読了した時点でこの作曲家への親しみと興味を高められてしまい、少なくともストラビンスキーよりは人間的にも「上」であるなと、著者の思い入れに感化されてしまった。巻末の資料も丁寧に作られている。歴史と音楽と映画のたのしみを全部味わえる。定価\5500は決して高くない。ところで著者は専門家ではなくて会社努めの傍らの余技であるということだ。文章もしっかりしているし、構成もみごとである。うむ。
動物の死、植物の死、細胞の死、人間の死、宇宙の死の5章を各分野の専門家が執筆。歩きながら突然崩れるように死ぬゾウの記述が暗示的。「寝たきり」は人間だけの現象。(動物の死)。生きている細胞と死んだ細胞が同棲しているような樹木、樹齢3000年の屋久杉。(植物の死)。アポトーシス(細胞死)、細胞老化テロメア説。(細胞の死)。安楽死と尊厳死(人間の死)。宇宙の死(小尾信也)では星の一生の、複数あるシナリオを記述する。超新星ができる光景、パルサー、連星とうを語った後、熱膨張の果ての宇宙の終焉を語る。別段人間の死について言及しているのではない。ただ宇宙の一生を語り終えたとき、清冽な静謐感が来る。「そして、永遠の暗黒な空間と、時間だけが残される。」この宇宙は終焉する時が来る。そのとき、どのような高度な文明をもっていたとしても、この宇宙の「内部」のすべての物理・生命活動は全部終わってしまう。この地点からみる時、我々の意識を始めとするこの生命という現象は一体なんだったのか?との思いは消えない。あるいは宇宙自体の自意識が生命を生んだのか。
Gilbert sinoue "Le livre de saphir"
エジプト・フランスの混血作家。大部な物語はキリスト教の修道士とユダヤ教のラビ、イスラムのシャイフが異端審問が始まったスペインで神のメッセージが記されているというサファイアの書を共同して探索する話である。新旧聖書とコーランの引用が手がかりになっている「バラの名前」を彷彿とさせるペダンチックミステリーとゆーか。ユダヤ人、そしてモロ人の排斥が始まったスペインで3人の各宗教の碩学が謎を解いていくという筋立てはなかなか面白い。しかし、聖書とコーランを読んだ事もない当方にしてみれば、なぞ解き部分の面白味はまったく解らない。解らないなりに、いかにも作り物めいた謎にシャーロックホームズ的ご都合主義を感じてしまったりする。3人の碩学の性格描写はくっきりとしてよかったけど、のこりの人物像、特にイザベル女王の親友の女主人公格が物語りのなかで果たしている役割が判然としない。大部の長編をある一定の興味で読み進めさせる力量は認めるが。
金庸的大作完結編。巻末著者的自解在。曰執筆間文化大革命。記政治的人間和隠者的人間是執筆意図。我不知作者意図。只感嫌悪対政治的人間。肯巨悪生起大活劇。
ただのフランス語の先生ではない丸山圭三郎教授とただの漫画家と思ってた黒鉄ヒロシ氏の異色の対談。ところが異色と思ってたのは当方で黒鉄はなかなかの丸山哲学の心酔者であるらしい。丸山先生も最初は「存在自体というのはない、ただ関係がある」とかまっとうに喋っていたのが、後半はかなりあぶない雰囲気になっている。性と笑いと狂気と死。ついには「死を楽しむ」なんてところで盛り上がってしまっている。黒鉄も若死にしていく友人・狂気の知人の話やブラックユーモア・ギャンブルの醍醐味は圧倒的な他との無関係性であるとかいったりしてこれ挑発に務める。「心頭滅却すれば火もまた涼し」と快川和尚がせっかく滅却してるのに信長が槍でつつく、するとまた快川がやり直すのをまた突っついて、気持ちよくさせないで焼き殺そうとする。信長という人は・・と黒鉄が持ち掛けると「素晴らしい人だと思います」と丸山。バタイユの語る中国人のすごいリンチ「うっとりし始めたら、またギリギリやるんです。気持ちいいでしょうよ、やるほうもやられるほうも。」とうっとりとかたる丸山。この本の校正中に丸山は逝去したということである。
タングルウッドはバークシャ州のカントリーサイドで、50年前にクーセビッキ、BSO(ボストンシンフォニーオーケストラ)を中心に始められた夏の音楽講習会・音楽祭の開催地である。1970年からは小澤征爾が音楽監督をしている。世界中からやってくる若い才能が緑に囲まれた牧歌的な環境に集う夏の音楽講習会のイメージは、たった3日の夏休みを終えて地下鉄で煙草の煙が充満する地獄の職場に通う当方とは対極の世界である。指揮者でいえば小澤を始め、バーンスタイン、アバド、メータが「卒業生」となる。真に才能に恵まれたものだけが入れるユートピアのような至福の場がある。地元新聞の音楽批評家による、調べればいくらでもエピソードが出てきそうなそのタングルウッドの50年史。巨匠達の逸話から座席の下に潜り込んでコンサートの客を脅かしたスカンクの話まで盛りだくさんで非常に楽しい本。しかし、訳文自体はそれなりのリズム感があるけれど、非常に誤植が多い。著名作曲家の表記も疑問である。オーバーメシアンとかショーエンバーグだとか。「神はわが櫓」のカンタータが80番だとか。校正ミスがあまりにも多い。ひとこといっておく。
「死ぬ瞬間」シリーズの著者の講演集。死に行く人々の精神を記録してきた真摯な研究者。死にゆく人は自分の死期を「前向き」に受け入れるのに、見取る家族の思いが爽やかな「成仏」を妨げる事例が多い。死期の近い人にしてあげることができるのは「遣り残した仕事」をかたつけるのを手伝うことだ、とする。科学者として充分理知的な口調で死と死後の霊的存在を宗教的な意義があるような方向に、つまり肯定的に語っている。彼女の語る死に行く子供の話はなかなか美しくて思わず涙がでる。全体として慰めに満ちた死の解釈。著者の母が寝たきりとなり、人から与えられるだけの歯がゆく、やるせなくつらい数年の後死んでいったことに対する著者の解釈はこうだった。「他人からただ与えられことを受け入れることを、これだけの期間を使って学習する必要があったのだ。」当方の母親の不条理な死もこれからそう思う事にしょう。
天才ピアニストとしてデビュー、ながらくカザルスの伴奏者を務めソリストとしては忘れられた存在であったが、80歳を越えてから再評価されその年齢とともに現在の伝説となったホルショフスキーの生涯を鳥瞰。新聞記事を材料にしている部分が多いが、その翻訳がぎこちない。多分マジメな書物なんだろうけど、翻訳文がひどいので好感を持てなかった。無作為抽出例示「この音楽の楽しみはホルショフスキー氏の演奏によって輝き出された。もし彼がむしろけばけばしく力強くはじめなかったら、第二ソナタの中間部でよでんでしまったろうし、彼のすばらしい可愛さと手ぎわのよい演奏が沈んでしまったであろう。」原文をちゃんと理解してから翻訳した方がいいと思うよ。
あまりタイトルとは関係のないエッセイ集。科学者であって科学のワク組みの中から仄かに外を窺う風の奇妙な視点がある。筆致はなかなかしっとりとしてい、終始押えた情熱のようなものがあって同じ気分が持続する。数度にわたって引用されている子供のときの夏の森のなかの昆虫採集の光景の時間が止まって、細部が奇妙に拡大されている世界のイメージ。現実とは脳内のニューロンの発光がつくりだした仮想なんだ。ブロードという人の脳の機能の解釈を紹介している。人間は本来あらゆる時空上のあらゆる情報を共時的にアクセスできてしまうものである。脳はその膨大な情報から必要なことだけをフィルトリングする器官である(制限バルブ説)。なんという発想なんだろうか。著者は厳密な科学者としてもちろんこの説を肯定することはない。しかしこういった発想の果たす役割を評価する。また、臨死体験者がかたる全知になった意識を、もはや未知を探索する意志のなくなった状態であるとする。とすると欠けるものがあると意識し、知を補填しようとする意欲が生きるということか。
ローマの「小説家」アルブキウス・シルスの作品を著者が紹介する奇妙な小説・評論・エッセイ・翻訳。ローマの弁論家アルブキウスの「小説」も実はdeclamatio[仮想弁論]という奇妙なものだ。死と裏切りと汚物と海賊と戦争と不貞と性器がふんだんに入り乱れた架空の事件をレトリックを駆使して朗誦するものだったらしい。弁論術を創めたギリシャのソフィスト達が聞いたらあきれる猥雑で乱暴な市井の事象である。しかも、すべてがローマ風の法廷論争として朗読される。そして訴えるもの、訴えられたものの勝利の基準は法ではなくて、より気の利いた警句を吐いたものにあたえられる、という様式である。
しかし、それが「小説」であり、劇場であった。猥雑な事件と気の利いたセリフ。ヘルスセンターのドサ回り一座の人情芝居。書物で残された一次資料で伺える以外の古代ローマの生活感覚。キニャールの文体は直截だが短く押えて無駄がない。意図してラテン語原文を随所に配置している。ラテン語の引き締まった響きが全体を支配する。この響きを聞き取った時、この奇妙な小説は愉悦となる。翻訳者の功績もある。巻末に訳者高橋啓の力の入った長編の解説があって、この異質な文学の世界の独自の考察がある。深い共感と理解がなければこのような作品を翻訳することはできないだろう。
確かに凝った作り。キーツの詩を下敷きにしたタイトル。相対性理論によって通常の時間が経過しない宇宙飛行士が生涯に4度しか会えない普通の時間内の女との恋愛だとか。未来の人類が現在に送り込んできた殺戮機械だとか。かなり細部にも凝っているハードSF。その割にはしかし、盛り上がりに欠ける。訳者の後書きで始めて連作の第一作とわかる。そか。ならしゃーない。せっかく時間かけて読んだんだから続編も借りて読むか。訳者はなかなか斬新にやってる感じがする。「信」というのは人とコトバのいいなり、だとか、馬鞍山脈だとか。エンターティンメントだからできるアクロバット訳。翻訳には喝采しておくぞ。
ロサンジェルス自殺予防センターの自殺学者の書く「自殺の定義」。自殺学というくらいで歴史的な自殺の考察古今の哲学者の見解等が整理するために紹介分類されている。「語源的な意味からすれば、1635年より前に自殺をすることは不可能であった。」自殺(suicide)という言葉の登場は案外新しい。そしてそれまでは自ら命を絶ったにしても消滅するのではなく別の世界に行くという意識だった(?)。クリスチァニスムにおいて自殺を罪と規定したのはアウグスチヌスで、殉教によって信者人口が減ることを恐れたのだ。というような文章は面白いけれど、大半は自殺予防の臨床的技術というまとめ方がされていてそんなに面白い本でもなかった。つまりは当方が「自殺」の観念を玩ぶのにもうそろそろ飽きてきたということか。
最初にホーソーン「緋文字」を引く。「不義密通の罪を犯し緋文字の縫い取りを一生付けることになり人々から貶められた生活をしていてもヘスタ・プリンは相手の名を絶対に明かさなかった。相手と最後に抱き合う場面がある。彼女はいう『私たちのしたことには、それなりに神聖なものがありました。』不義密通の罪を犯したが、それが『神性なものであった』ということばがこの小説のなかで発せられるまでに、ヨーロッパ史は千数百年を要したのです。」不覚にも通勤車内で涙を流す。古代から中世に至るヨーロッパ社会のなかでの性を現在の目から見直す作業である。ヨーロッパはキリストによって呪術的世界観から人間以外のものに悪の根元を帰せる世界観を得る。ローマ法では両性の合意と愛情によって結婚が成立すると考えられている。イエスが離婚を禁止する(不貞を例外とする)。とりあえずキリスト教下で妻の社会的な地位が確保された。結婚制度は父親が誰かという相続上の問題を解決するためにできてきた。・・以降子細に渡る結婚・性がどのように現象してきたかの報告がある。時折「(明治期日本と対比して)7・8百年前のヨーロッパでは戦争を遂行する立場にあるものが、妻の権利をはっきりと認める教令集をつくっていたのです。」というような著者の立場を明示する発言が混じる。あと、娼婦の地位(聖女になった娼婦も多い)の歴史を経て最後にアベラール・エロイーズの事件の克明な解説がある。とりわけエロイーズの書簡に見られる神の掟よりも自分の愛を甘美と告白する姿勢を共感をもって紹介する。「キリスト教会は千年以上もの間、人間の愛を肉体抜きでしか認めようとはしなかったのですが、エローイーズは肉体を備えた男女の会いが真に深い愛に向かうことができることをこのような状況のなかで語りつづけ」という文章で全体を結ぶ。このような研究・労作に感謝。
地図で見るとケープコッドはアメリカ大陸が大西洋に突き出した人差し指のように見える。突き出したけれど、あまりの潮の強さにはじき返されているところのようだ。すぐ下のナンタケット島という響きはメルビルの白鯨を読んだときの記憶を呼び覚ます。大西洋に突き刺した指には大陸化あるいは文明化した本土にはない荒荒しい野生が残っている。このエッセイ集の最初の記述は砂丘に踏み込んで全く文明とは切り離され野生の中で死と直面する場面から始まる。合衆国で真っ先に「文明化」されたマサチューセッツ州内で人はもういちど人に媚びていない毅然とした野生を見る。北極圏からきた白ふくろうの高貴な飛翔。狐の家族の悠々とした営みを屋根の上での大工仕事をしていて目撃し、すべての動きを止めて見入る文明側の感性。そこでは野生は人に頓着しない。おのずから人は野生の尊厳の前に動きを止めて見入るだけである。暖炉にくべられた木材に巣くっていたアリの集団に関する感動的なエッセイがある。あらゆる生存手段をアリ達は試み、その間にも仲間は火の中に落ちパンと弾けてしまう。しかし個々のアリ達にパニックはまったくなく、黙々と新しい脱出ルートを探し失敗して仲間のところにもどって来、触覚を付き合わせて報告する。『燃え盛る炎が彼らのアンテナをカールさせ、縮ませ、これ以上の意見の交換を永久に不能にしているのに、それでも彼らは盲目の孤立の中で、炎の迫り来る闇の中で、炎に飲み込まれながらも、市民にふさわしい整然とした脱出法がどこかにあるに違いないと信じつづけている。』ここで、著者はアリ達の死の営みに感動するがマキに手を伸ばし窮地に陥っているアリ達を救おうとしてはいないのだ。別のエッセイよりの引用「まるで、おまえたちの基準で判断され救助されるなんてまっぴらだ、と言っているようだ。」アリ達に死の恐怖心はない。そこに毅然としたものを見てしまうのはこちらの感傷にすぎない。しかしそれでもなおかつ同じ生命を持つものとしての尊厳は感じてしまうのだ。
実に凝ったシツエーション。先ず各章に古式よろしくレジュメ風概要をつける。戦前のウィーンの貴族である青年の内面告白的気障ったらしいレトリック。何らの破綻もみられないディティールの地理歴史的考証。しかもこれは2重人格と非物質化し肉体から抜け出すことのできる体質の主人公がくり広けるSFであり、ナチスの少尉に追われるアクション物語でありサスペンス小説でもある。時代を書いているわけでも、人間や文化を書いているわけでもない。つまり、非常に古典的な意味での「趣味的」な物語である。ごたごたいわず素直に作者の才を楽しむべきであろう。しかしこの軽いユーモアと冷笑と自己憐憫とレトリックに満ちた文体はどうだ。どうして29才の著者がこんな完成された文体を駆使することができるんだろうか。(嶋宏子推薦図書)
魏の説客范?(はんしょ)は時の魏の宰相に無実の罪で追われ、苦節の末秦の宰相となり復讐を果たす。人を誇示し策を売り込む中国戦国時代の治世と戦争はゲームである。そしてゲーム感覚で自説に殉じ死ぬという形もある。思いを果たすためには死も手段となる。この小説の本来の力点ではないが、おもわず現代の生き方との比較をしてしまう。独自の漢字の語感、古雅な文体、的確な情景描写、興味深い物語展開は読書の楽しみの極北といえる。この物語でまたまた本筋とは関係のない感想をいってしまうが、性愛の描写に印象の深いものがある。「原声(女)はきよらかな重みですわっているようである」擬古的な文体ではかなり観念的な描写にならざるを得ないのだが、不思議に生身の男と女の気配が漏れてくる。あるいは当方の生身の心境の我田引水か (^^;
ジャンヌ・ダルクを生み出した中世の宗教的風土、時代の精神を鳥瞰し、事実を俯瞰、その聖性の根拠を述べる、よくまとまった小冊子。「天の声」がよく聞かれ、見神者が列をなして王に会いにくる中世風土。先駆ける聖女・魔女の系譜マルグリット・ポーレート、シエナのカタリナの超常的霊感。男装する女性の聖性もしくは象徴的無性性の例。そして異端の聖女ジャンヌ・ダルクが来る。シャルル七世を戴冠させる栄光と宗教裁判で異端とされ火刑場で焼かれる悲劇性。これこそが中世というものであろう。女性である著者の感応が伝わってくるような書。唐突な後書きの最後の文を引用しておく。「・・そして自分を王様にしてくれる女の子が現れるのをひょっとして待っているかもしれない男性たちに、この本を捧げます。」
バチカンの情報局員が主人公の異色のスパイもの。第2次世界大戦終結時のカトリック結社の活動秘話、現在のバチカンの諜報活動、南米の「開放の神学」の政治にコミットするカトリック神父達、中南米における米国海外諜報機関の分布(CIA、軍、麻薬取締局)等なかなか盛りだくさんな興味深いファクターを積み重ねている。しかし、圧倒的に諜報目的の小説的娯楽性が弱い。南米におけるカトリック信仰の礎石となる教会を建設し、その起工式に教皇を臨席させることが目的ということでは手に汗の握り様もない。そして圧倒的に強力な「敵」の不足。スパイ小説としては面白くともなんともない。素材の異色性で読ませてしまう小説。
奈良フロイデ合唱団シバタ氏の人生を変えた書ということではあるが、合唱を止めてしまった当方には「ああ、そうですか」的冷ややか目の感想しかなかった読書だった。確かに日本の合唱運動には独自の熱気のようなものがあって、一度とりつかれると著者のように一生をその中で過ごしてしまう人もいる。合唱=音楽+α。それが魅力である人もいるが、わたしはちょっと遠慮したい。わたしにとっては 音楽−β=合唱 に他ならないから。もしかしたら アマチュアの合唱=α+γで、ま、なんでもよいが、音楽とは別に関係のないものなのかもしれない。うう。本の感想とはぜんぜん関係のない話ではある。
祈りは魂の呼吸である。祈りで願いがかなうわけではない、舟人は陸地が自分が漕ぐと陸地が近づいてくるように思うが、実は自分が陸地に引き寄せられているのである。祈るために生活の時間を断ち切ることの大切さ。生活の中で実践する祈り。著者は禅仏教から改宗したカソリック司祭。サルトル、正方眼蔵、明治の詩人等からの引用が多用されている。また別にキリスト者としての祈りにはこだわっていないようである。多様な祈りの諸相。やや文体がふるくて不器用。
ゾロアスターは古来からあった多神教的宇宙論を、「絶対にあい入れない善悪の闘争的な2原理とし、想像と破壊、生と死の動的な対立関係として捉えなおし、そのいずれかを人間はみずからの意思で選取決定しなければならないとする。善の選択は悪との戦いを前提としている。この悪との戦いが人間に高い目的を与えることとなったのである。」拝火教は現在も生きているが、その教義は未知のままである。古代アベスタの翻訳が成されるようになってきたが、全容は不明。ほぼ仏教の成立と時を同じくして成立したと推定され、西洋社会が一神教に収束して行きキリスト教が成立する動きに与えた影響は明白である。まさにキリストの生誕を東方3博士のマギ僧(ゾロアスター系)が祝福したという思いがする。また西欧の知識人が東方の知恵を思うときゾロアスターの名が常にささやかれてきた。アウグスチヌス・モーツアルト・ヴォルテール・ニーチェ。この小冊子は西欧におけるゾロアスター認識の各様相も扱い、焦点がぼけてかなり散漫な印象もある。所詮は紹介書、しかし著者の中央アジアへの「見果てぬ夢」への熱気は感じられる。「私はゾロアスターをさまざまな時代の人の多様な言説の海中に、船を浮かべて、夢見つつたゆたうあの絵皿のディアニュソスのように、その虚実さだかならぬ言葉の響きに身をゆだね悠々と聞き流していたかった。」この人はいい学者だ。
癌で妻に死なれてから、そのかけがえのない愛情に気づき妻の転生の可能性まで期待して探しに行く男。遊びで付き合い捨てた男のゆるぎない信仰が唯一の信じられるものとなっていく冷笑的な美貌の女。極限状態の戦場で人肉を食った戦友に助けられ後その狂おしい生と死を見取った男。この戦友に「喜んで自分の死体を食ってくれ」といったのだという救いを示す遠藤周作のキリストである「おばかさん」。正統教会からは異端視されるが、あくまでも自分を掴んではなさない内なるキリストだけに忠実に従い貧しい不可触選民の死体を運んでいる男。他様々な生の軌跡をガンジス河のカオス的生と死の混濁のほとりに集め、それぞれの生き方の象徴的断面を見せる。各人物の横の関係がまったくないので長編小説としての感動はない。辻邦生がよくやったように連作短編集としたほうが良かった。また、明らかに不要な人物・物語もある。美貌の女と不器用でみすぼらしい男の物語だけが小説的に高揚していた。ひたすら不器用でみすぼらしい男に「醜く威厳もない」キリスト像を体現させる、遠藤周作は現代に出現したイエスを書こうとしていた作家であった。「私はイエスにつかまったのです。」
トランスベスタイト(異性装)- トランスジェンダー(フルタイムでの異性化)- トランスセクシュアル(性転換者)とそれ以外の絶対多数者。更にその性的パートナーの総当たり順列トーナメント様の組み合わせ。どのような組み合わせも有り得、それはそれで自然な営みである。そのことだけを実例と匿名座談会の「純種女性」当てというような企画で示す。絶対多数者のみが顕在する社会では異常とされる性制の実体はそれでも刺激的である。考えてみれば当方にも女装趣味くらいの逸脱性はある気もする。そろそろ実践してみようかな。うふふ。
日韓混血で日本で農学者となり朝鮮戦争前夜に招かれて単身韓国に渡り、以来韓国農業に寄与して国民的英雄となった禹長春の伝記。といっても小説的に生涯を再構成した文芸伝記ではなく、取材状況やインタビュー時の生の印象を取り込んだジャーナリスティックな伝記作法である。作者の現在が出てしまうというキライはあるが、基本的な主人公への共感が持続していてそれなりに緊密な読書感が持続する。作者の経歴自体も面白そうである。韓国側からすれば不快な事実も掘り下げてある。父は日本軍に協力して日本に亡命した韓国軍人であり、韓国では誤って種無しスイカの発明者と教科書にも記載されてしまっている、というようなこと。在日韓国人への差別が禹長春の「帰国」を決意させた風な解釈の否定。市井の差別とは裏腹に、日本社会の上層部分では無自覚な民族差別はなかった、少なくとも禹博士のケースは差別は明白な「帰国」のモチベーションではない。客観的に事実に迫ろうとするなかなか信頼に足る作者の目がある。こういう分野の書き手は少ない。この人の作品は他にも読む価値はある。
1928産1969よりスペイン在住。解説の中野孝次の言によれば現地でヒッピーの溜まり場の親父みたいな暮らしをしているそうである。原則的には、訪ねてきた内外老若男女との会話文で「コトバと文化の相互作用を考える」風のまとめ方である。この会話文がなかなか上手でするすると読ませてしまう。後半の章が論文調になるのが残念。カタルーニァに行く列車に乗り合わせたフランス人青年と文化と言語について語り合い、意気投合して翌朝訪問先の田舎の家庭にまで同行させ、またインターナショナルでローカルなコトバの話題をしゃべりあう「あぶらを売る」章は著者の面目躍如たる感がある。確かにヨーロッパを旅していて偶然の異国の同乗者と語り合うというケースは多い。お互いに外国人であるということが逆説的な仲間意識を抱かせる。それと外国を放浪する万年学生のような人種の存在。論点そのものよりも、対話し、考えることを生活とする知のユートピアとでもいうべき幸福感が印象的な本である。
聖パトリックは土俗の神話伝説やドルイド教を完全には排除しないカタチでアイルランドに布教し、結果そういった異相の神々は妖精になり現在に至るまで人間の共生者として生き延びてきた。ゴブリン・エルフ・ドワーフ・魔術師マーリンといったパソコンゲームでお馴染みの名前が引用され、うれしくなる。そしてシェークスピアのオーベロン、マブの女王やパックが登場し人間くさい行動を示すようになり、最後に近代作家たちが、昆虫のイメージのような牧歌的な花に遊ぶ妖精のプロトコルを創出する。神話から現代の作家に及ぶ「妖精」のイメージの集大成とその紹介と分類。ロビンソン・クルーソやガリバー、というような冒険譚を生み出すイギリス文学の土壌にはケルトの妖精が棲んでいた。でもまあ、膨大な資料ではあるけれど、妖精なんてものは学問するよりもお話(fairy tail)を読んでる方がいいんでは?と思ってしまうが。
別にたいした文才があるとは思えない。この体験は実際のものだろう。克明に自分の少年期にのめりこんでしまっている。永山則夫の現状を思うと、これはフィクションではない。壁の中で回想する少年期。その時のことを出来るだけ詳しく追体験しようとするための小説。当方も急に家出の少年期を思い出す。あのまま、家にかえらなかったとしたら、Nのように見知らぬ町で見知らぬ人々と米屋で働いているのではないか。家出少年のその後の事情という興味で読んだ。永山が壁の中で反芻し反芻し大事に取り出す自由であった時間。そういう読み方はいかんが、永山のケースではいたしかたがない。
伊藤を「明治の元勲という誤った虚像によって大政治家であるかのように思われて」いることに憤慨し、対するに安重根の志向の高さと暗殺の必然性論を擁護し普及していくという立場。後半は安の獄中の作「安応七歴史」「東洋平和論」(未完)の内容の紹介にかなりのページが割かれている。伊藤暗殺の現場の復元はかなりジャーナリスティクな筆致であったが、あとは読んでいて熱中できるというような本ではない。文体冗長。論旨重複。著者は例の中野正剛の子息であるらしい。「父・中野正剛」という著があるようだ。
資料では支倉常長の乗った船が修理のためにサントロペに寄港したのがフランスを訪れた最初の日本人という。幕府はフランスに軍事顧問の派遣を要請、30名の仏軍人が来日して軍事教練を教えた。鳥羽伏見の戦いにも仏軍人は幕府軍の一翼として参戦すべく船で大阪に向かうが、参戦はさせてもらえなかった。幕府崩壊にともない仏人軍事顧問団は帰国するが、伍長何某とその部下5名は自らの意志で幕府軍にとどまり、函館戦争に参戦する。第二次世界大戦中8隻のイ号潜水艦がフランス占領中のドイツ軍との接触任務にあたり、ただ1隻が首尾好くカレーの軍港に到着任務遂行後帰任した。・・といったエピソードしか覚えてないが、他は幕末・明治にかけての日本におけるフランス語学の仔細な人物・教育機関・書物の紹介である。幕末期の日本人仏語教授・通弁達の残したフランス語原文なんかも取り上げられている。なんだかよーわからん文章だったなぁ。辞書・教科書の列記部分は通読するに煩雑。純粋資料集。しかし、資料とするならフランス語に限定せず外国語教育一般とする方が利用価値は高いと思われるが。
ぼくはポート・アンジェルスの背後に山をこさえ、家を建てて永らくフライトの基地としていた。カナダとの国境、米本土最西端の飛行場である。シアトルからの水路と島々を縫ってバンクーバまで飛ぶこともあるが、途中ポート・アンジェルスの我が家に立ち寄るのがパターンだった。今はもうFS4で飛ぶことは無いがなつかしい地名だ。シアトルのジャーナリストの著者がこの町に進出してきた大昭和製紙を通じて日本人との関わりを取材、次第に時間の糸を解きほぐし、160年前の遭難日本人漁民が漂着した史実から掘り起こして行く。1930年台にシアトルから流れてきた日本人夫妻の経営したソバ屋とその息子の日米史。日本への興味からやがて日本に移住して教育に携わる英語教授。第2時大戦中唯一の米本土における日本軍の爆撃の被害者・ポートアンジェルス出身で風船爆弾の死者の遺族と呉で風船爆弾を作っていた女子学生との戦後の交流。富士市の大昭和製紙に研修で派遣された親の代からのポート・アンジェルスの製紙職人の日本と、その関わり。山と海と森林しかない最西端の町。ぼくしか知らない隠れ家と思っていたが、この本のタイトルを見て実に意外な思いに満たされた。おそらくアメリカの読者一般にもそのような意外さがあるのではないか。ジャーナリストの書く読み物の典型なのかもしれない。翻訳は自然で無理の無い日本語。
「ほぼ30年間、西欧社会の研究をしてきたあとで、ようやく最近になって、日本を見る視覚が定まってきたような気がする。」「社会」というコトバの日本における成立事情を考察したあと日本には社会(他に対する責任を持つ個人の集合)はなく、「世間」(全体によってあらかじめ個は役割が規定されている)がある。西欧はキリスト教の告解という慣習によって個人意識を育まれた。この個人は社会を批判することもする。例えば航空事故の場合日本では被害者の氏名を報道するが、ドイツでは事故の際の人名の公表はプライバシイの保護という観点から避けられる。日本人は、社会を構成する個人である前に、世間の中である位置を持たなければならない。世間とは、・・互いに顔見知りの人間関係のことである。外国における航空機事故の際の氏名公表は日本全体がひとつの世間である、という意識である。
初期キリスト教の禁欲:この親密な関係(男女)を肉の面で棄てることによって得られるもの、それが「一つの心」であった。自分の肉体の奥底にある「真の自分」を発見し、絶対者である神に直面しようとする態度である。彼らは世俗的な現世の喜びを放棄することによって、自己を発見し、そのことを通じて、ローマ社会に大きな変革をもたらしたのである。禁欲とは、ある目的のために全身を捧げる中で心からの喜びを持って欲望を克服すること。人間の中にある動物的なもの(自然)を拒否し、霊的な存在にまで自分達を高めようとしたのである。
中世初期:8世紀のカール大帝のカロリング・ルネッサンスは、ゲルマン的続伸と慣習のただなかにあって、伝導を進めなければならなかったカールが、そのための理論武装をするために行ったのだ。
告解という制度は、ヨーロッパの歴史の中では極めて重要な転機となる制度であった。個人の私的な領域に司祭が介入してくることによって、個人は自分の行為をすくなくとも第三者の前で客観的な基準に合わせるべく努力する姿勢を示さなければならなかったのである。個人が自己を意識する大きなきっかけとなったのである。
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ながながと引用してしまうが、かつての著者の西欧中世への詩的・牧歌的な関心は今や現代に生きるわれわれの問題を分析する手法へと回帰してきた感がある。こういった学者の志向の筋道はなかなか頼もしく信頼感を与える。それに60歳を越えて阿部先生の思念はどうも「性と愛」の問題に集中しつつあるようでもある。これまたすこぶる頼もしい。
才気たっぷりな若者の都会生活寓話。現代に生きているということの記述。そうかもしれない。かつてはぼくも新宿近辺の終夜喫茶で夜を過ごし妄想が実体化するような、あらゆる物語が無関係に同時に語られていくような時間に沈潜したこともある。物語を紡ぎ出し、文章として実体化することと、文章を紡ぎ出すことで物語を進めていくことができる紛れも無い完成された作家である。しかし、どこか類型的であって、是非とも語らなければならない切実なものが感じられない。書くという行為はこの著者にとってはまるでゲームのようなものなのではないか。面白くなければいつでも止められるゲームとしての小説。「おもちゃ箱」としての都会、小説。
軽く読めるドイツ語源エッセイ。ドイツ語は英語に比してラテン系のアナライズが利かないゲルマンオリジンの単語が多いので殆どが初耳の話だった。著者は京大独文教授だが北欧ゲルマン語一般にも強いようである。ドイツ語への刺激には恰好の書。