旧約各編の記述から古代イスラエルの歴史を説き、史的考証から旧約各編の意味を説き明かしていく。聖書の意図に迫ろうと確かな学識が案内する古代の信仰の世界。神が他の民族をどこまでも「除外」し、古代イスラエルを「存続」させつづけてゆくことを物語るのが旧約聖書のライトモティールである、とする。あまりまともに聖書を読んだことのない当方にはきわめてクリアな旧約聖書全体にわたる鳥瞰図になり、神がその意志を明確に表している古代イスラエルの求心的な物語に引き込まれる。怒り、嫉妬し、命令する親としての神から、次第に人知では理解しがたい絶対的神へと結晶していく流れも読み取れる気がする。古代史の魅惑。同じ親から生まれた兄弟なのにホンの2,3世代後には「なんとか人」として氏族を構成し抗争したりする豊穣さ。例えばモーゼがエジプトをでたとき2千であったのに40年後カナンの地に到着したときは1万数千になっているというような。
感銘を受けるのは、古代イスラエルが危機に陥ったとき必ず預言者が現れ古来の神に帰るよう警鐘を鳴らすこと。また預言者が世襲の祭司ではなく「何でわたしが?」というような全くの恣意的に選ばれることの不思議。神の必然は人には偶然・奇跡としか見えない。結局神を理解しようとはするな、ただ神に全的に帰依することという絶対的なメッセージが旧約聖書全体を貫いているように見える。信仰とはそういうことか。
明治中期に仙台の二高から東京帝大文科大学へ入学した架空の人物を主人公にした疑似伝記。「坊ちゃん」風の文体・調子で往時の風物と気分を再現している。この著者の持つ万年学生的さわやかさが明治の学生気分と直接感応してなかなか楽しい小説になっている。小細工めいた作品しかよんでなかったけど、なかなか感興深い文学的ふくらみかたをしてきた気がし、ふと井上ひさしにおける「きりきり人」風の作風展開に思えて、他人事ながら喜ばしい気分である。青春のノスタルジーに満ちた明治という時代の気分。人物・事物の資料を探り、いかにも自分の体験であるように意識の上の再構築を行い記述していく作業の楽しさ。ことば遊び的小細工ではなく、紛れもなくこれは文学的にゆたかで、しかも楽しい遊びである。
「現代われわれがここまで死者を忘却するようになったのは、西洋社会の歴史において死者を忘却する考え方が徐々にすすんだ結果である。・・その世界、すなわちフランク人の政治的、文化的伝統がまだ生きていたヨーロッパ諸地域において、死はあらゆるところに偏在していた。」(序文)4本の論文が収まっているが、著者のいう偏在している死者は死者としての聖人のことだった。死者としての聖人が生者の世界にどのように影響を与えたかを聖人伝を通して考察する論集。細部は研究者的に細かく煩雑であまり面白いものではない。比較的面白かった事例を挙げておく。
ある聖人を守護者とする教会の地域住民が不利益をこうむった場合、住民はその聖人の遺物を箱から出し、地に置いたりして「辱める」。一年ほど辱めていると実際にその聖人が反省してちゃんと奇跡を起こしてくれるようである。
また、聖人の遺物はそれだけで奇跡を起こすと信じられていて実際に人気のある聖人の遺物は贈与、盗み、売買という手段を通じてよく流通していたという。よく盗まれれば盗まれるほどその聖人の人気は高まった。ケルン大聖堂の「東方3博士」の遺骸のように明らかに意図的に聖遺物を創作して成功した例もある。有名聖人の遺物がなければ教会の営業成績にもかかわるというので、まるで今日のプロスポーツの選手のスカウト合戦を思わせるような駆け引きにあけくれていたのだ。教区をあげて盗んできた聖遺物はまるで凱旋式のように迎えられたという。聖書の中でしきりに神が契約を持ち出すような即物性をふと思い合わせたりする。
タイトルどおりの独文対訳集。ま、おもしろい。ニュースなんか読むより読む興味が持続するか。関係ないけど、「番号は電話帳にのってますわ」「それでお名前は?」「番号の横にありましてよ」の最後の女性言葉は実際には聞いたことがない。一度聞いてみたいものだ。
「火宅の人」檀一雄の妻檀ヨソ子が記述する、裏から見た「火宅の人」という構造の実名小説。「不倫」相手のモデルも実名で登場し、子供の檀ふみちゃんに「帰れ!」と一喝されるような場面もあり、なんか汗が出てくるような私小説風実名小説。かように危い修羅場もありキワモノ的読み方もしてしまうが、読後感はなかなかすがすがしい。檀一雄の性格がくっきりと語られ、幾度かの修羅場を通り越して持続してきた永年の夫への愛情を語るということが本当のテーマとして浮かび上がってくる。檀一雄は放浪癖のある孤独愛好家でしかも無類の寂しがり屋である。「"ヒーさん"と事を起こしたぞ」と帰宅して妻に語らずにはいられない自分勝手な潔癖感や、恋愛の高揚はないが妻に対するやさしい心使いは忘れることがない、どうしても憎めない夫の姿が連綿と語られる。私小説作家の私生活のきわめてリアルなドキュメントでもあるけれど、紛れもなく愛情を物語っている文学である。
いわゆる疑似科学と正当科学の境目を検証する。ど素人の疑似科学から専門家の意識的・無意識的な正統からの逸脱、そして正統科学からは長い間異端視されてきたが、次第に市民権を獲得し一定の評価が定まったもの等の分類。ヴェリコフスキー「衝突する宇宙」と「常温核融合」が第一群。プレートテクニスによる大陸移動説が第3群。いろんな事例とその評価が述べられている。ま、本来は面白いはずだけど、いわゆる「とんでも本」の迫力はない。あまりに常識的な見解というか。事例への興味以外にはとりわけ面白味もない。翻訳もこなれてはいない。ひょっとして翻訳の悪さが興味を半減させているのでは?とも思えたり。
一応読んでしまったが、これは素人芸以外のなにものでもない。ご自分で書いて楽しむ分にはなんにもいわないけど、わざわざ出版するほどの文章ではないと思うよ。「平成もはや10年。」というような類型的でまったく素人くさい体言止の文体。とりわけ情感に満ちた世界を作り出しているわけでもない。死んだ母親が夫不在の戦争中に一夜の契りで生んだ子供のことを告白する文章を見つける話は少しは面白いけど、それもなんだか類型的だなぁ。うん。大阪府もこんな本に予算使うなよ。
*古代文明の謎を追え!(4)といった黒々とした活字が躍る厚めのペーパーバッグの本である。ローマ人によって作られた酒と戦闘が好きな巨人族バルバールというイメージとナチスドイツ・あるいはワーグナーによって喧伝された金髪碧眼の選ばれた純血民族のイメージがあった。本当はどうだったのか?訳者後書きによるとドイツ人自身でこのゲルマン人像をまともに検証した書物はなかったということだ。
東方より移動してきたインド・アーリア系の騎馬民族と北ヨーロッパに土着していた農耕民族との融合によって最初のゲルマン人が誕生したと説く。以降は当時の世界帝国ローマとの絶えざる支配と戦いの関係史である。ローマを悩ましたゲルマンの英雄アリオビストとローマ軍の高官として育ったゲルマン人アルミーニウスの反乱の話が熱っぽく語られる。ナチスドイツ風の何がなんでも優秀民族という立場ではないが、それはそれでドイツ人の心をくすぐる筆致という気もする。なかなか面白い歴史読み物である。
ベルギーの幻想文学作家の短編アンソロジー。不思議な女と邂逅し、一夜を共にする。翌朝目覚めると女は居ずかわりに古ぼけたしゃれこうべがあった・風の類型的な物語も多い。性と死を仲介する魔女のイメージ。「一番目の女は風の家をでてきた。・・」というリフレインのある3魔女をテーマにしたLes Vraines de nuitと題する散文詩風のイメージだけの小品が一番の収穫だった。夜と魔女と鏡。この世には夜になってただ寝る女と、夜になって本性を現す女がいる。きらきら輝いていた魔女の目がしゃれこうべになってしまうばかげた朝になじめない気質が物語りを紡ぎ出す。ぼくもそのような女をひとり知っていた。もっとも彼女の場合は朝になると夫との愛にあふれた生活に帰っていき、しゃれこうべになってしまうのはぼくの方だったんだけれど。
代々超能力を伝えながら人知れず市井に生きてきた常野一族のオムニバス物語。しかしかなり自由な短編集である。SFの系統としては良くあるパターンだけど、超能力を生かして悪と対決風の活劇ではなくて、超能力家系の悲哀、戦前戦後史との関わりといった人情話が主。時として叙情的筆致にもなる。なかなか好ましい語り口である。柳田国男「遠野物語」というような響きが聞こえたりする。
VIIがなかなか図書館に帰ってこない。まあいいかと、こらえ切れずVIIIを先に読む。
ガルバ・オトー・ベテリウス(以上69年)ヴェスパシアヌス・ティトゥス・ドミティアヌス(〜96)の小型皇帝時代30年の記、文筆家でいえばタキトウスと小プリニウスの時代でイベントはヴェスビオスの噴火である。戦争と政治、弁論と著述、大した逸材は登場しないが、資料から復元して行く事歴の見てきたような小説家によるリアルな再現。読んでいてここまで書くと「あぶない」なと心配になるような阪神大震災やクリントン訴追のスター独立検察官等の時事ネタもアリ。「ユダヤ戦記」著者の・・・の著作の翻訳出版を地道に続けた山本七平を紹介したりもする。そーいや、山本書店社長は昔イダヤ・ベンダソンという匿名で「日本人とユダヤ人」というベストセラーを書いてたな。小説家と歴史家の記述の違いを自分の歴史著述の立場表明として明示したりする。また歴史地図に比較のためと同縮尺の九州の地図を重ねたりという芸もある。至れり尽せり、まことに見事な著述でございます。
1924産。63歳のとき800万円を持ってエジプト・アレキサンドリアに行き、そのまま10年生き砂漠の奥に入って自死する話。豊かな日本への反発と貧困だけど豊かなエジプトの人達への共感・風にまとめてしまうとつまらない類型的な話なんだけど。買った娼婦とそのまま同棲しつづけたり、妙になまなましい老人の性の描写があったり、あるいはピラミッドの中で一人で一夜を過ごす体験を語ったり・と何か類型的でない・もっといえば狂おしいような挿話がある。まったく意味もなく著者自身が実名で登場したりするという素人っぽいとしかいいようもない場面もある。最後に砂漠に入っていって自死する描写が妙にリアルでいい。紛れもない性と死を70歳の老人が書いている。文体は悪くはない。なかなか怪しげであいまいな雰囲気の話ではあるが、文体は明晰で若々しい。奇妙な印象の本であり、変な老人の作者である。
京大ドイツ法の教授。ウェーバーの「職業としての学問」の成立過程をたどり、ゲオルゲ・フロイト・シュペングラー・ヘッケル・ヘッセ・マン等ドイツ語圏のビッグネーム達が同時代者として関係し合い、新しい行動様式を模索していた若若しい時代の雰囲気を描きだしていく労作。そうした青春の彷徨的熱気は遠く当方の少年時代にも感じられた。ヘッセの「デミアン」を読んで"アプラクサス"という響きが頭に封じこめられていた。しかしそれが何だったのかわからないまま30年経過してしまっていた。上山は時代の状況を克明に調べ復元し、懐かしい青春時代の熱に回帰していくように時代を共感をもって描いている。ヘッセのインド思想への接近も時代のコンテキストを追っていくと実に自然な流れであったのだ。ウェーバーは「ニーチェとマルクスの価値を認めないなら本当の思想ではない」といっていた。ユンクは匿名で発表された「デミアン」の作者がヘッセと分かっていた。実はグノーシス派のアプラクサスを研究し、ヘッセに間接的に教えたのがユンクであった。ウェバーの「職業としての学問」の成立を検証していく本の出だしは、かなり専門的であり読みやすいものではなかった。フィッシャーやディーデリヒスといった出版人が文学の黄金時代を支えたという「文芸出版の成立」という章あたりから、事実を読み取り再体験することで時代の精神を感じとろうとする著者の姿勢が明確になる。この時代の精神というとどうしても「青春の高揚」を思ってしまう。おそらく著者の内的な研究動機は「青春性」ではなかったか、と確信して間違いない。
今回は訳者の解説がなかなか楽しい。もちろん訳者名は偽名であろう。金庸が上海の辛口政治紙の主幹であることに触れ、文化大革命期の恐怖政治を金・元支配下の愛国的英雄譚になぞって語っているとする。ま、しかしそんなことはどうでもいい。4巻に付されていた解説では、なんと中国古代代数の命題を数種、代数方程式で示して解説するというなかなか面白いことをして遊んでいる。やはりただの翻訳者じゃないな。やるではないか。
京大教授。英会話のHow Toものめいたタイトルだが、最初に「文章を組み立てるより、名詞+Pleaseで充分」というような章がある他は語学雑談的。英語・米語のイントネーションの違い。「古池や」の句の英訳のバリエーション。代名詞以外での人物名の受け方(バリエーションと著者はいう)。ウインブルドンに出場した日本人プレーヤ等の例をあげ、結局バリエーションで様々に引用されるのは未知の情報である新人の方が圧倒的に多く、評価の定まっている有名プレーヤの場合はわざわざ国籍等のバリエーションを出す必要もないというような心理を分析している。文体は年齢のワリにはさわやか(^^)
日野啓三の文体は内省的であるけど、拡散することはなくあるイメージをくっきりと際立たせるようなすっきりとした集中力がある。ジャーナリストであった経験も生きているのかもしれない。それと「燃えよソウル」からずっと続いている異国と自分の内部の情熱に向かう心情。孤独だが孤高ではない。逃避ではなくて憧れというべきであろう。「今ここ」ではなく「あの時のあそこ」に向かって行く漂泊者めいた心の姿勢がなんとなくぼくに共振する。日野啓三はぼくの好きな作家である。
原題 "Intellectuals and the left in france" イギリスの読者向けの現代フランスの左翼知識人の動向紹介。サルトル以降、アルチェセール、ラカン、フーコー、ドゥルーズ、デリダ、ブルデュー、ボードリヤールといった名前を思想と、そしてもう少しフォーカス的に生々しい逸話も少々。しかし、実のところ政治意識ゼロに近い当方にとって特に読みたい、知りたいというようなテーマはなかった。ま、ロラン・バルトなら一冊くらいは読んでもいいかとはおもうけど。ここにしてはっきり分ったけど、ぼくは現代の哲学・社会政治思潮とは完全に無縁なヒトなんだなあ。ちょっと悲しい。
リチャード獅子心王・聖王ルイ・黒太子エドワード等の十字軍当時の英雄の話を小さい甥達に語るという趣向の本。しかしこういう中世物語は当方の求めるものではない。ちいさな子供に語るという前提から、「理解できること」だけを語っているように見える。ぼくは現在からは「理解できないこと」をみたいのだ。中世をそんなに薄めきって何が残るのか。
ミクロ歴史学というモノがあり、カルロス・ギンズバーグ「チーズとうじ虫」では「16世紀の1人の粉屋メノッキオという無名の人物の個人的な世界観を再構成すべく一所集中的な研究を遂行した」というようなものらしい。この本は正統歴史には現れない事象を点描する。例えば、フィラデルフィアのチャールズ・ピルを始めとする非アカデミックな、時として山師風でもあるマンモスや海産巨大魚の展示興行をした町の学者達の事跡、16世紀オランダの裁判ざたになった夫婦喧嘩の顛末、プリニウス的異形人間を描く文献の通史、ローマ法に記載がありその後中・近世のドイツで復活した袋詰溺死刑についての記録と法学者の解釈、etc.荒俣宏氏なんかが喜びそうなオタクな「博物誌」的ノリで読める本である。もちろんそれはミクロ歴史学であるのだろう。それにしては、と思うのは、素材が何となくキワものなのだ。著者がいみじくも言うように、頭がなくて胸に顔があるようなプリニウス的異形人間の存在を否定するために図版や文献を、さる学者は論文中に掲載していくのだが、もちろん読者はその図版によって逆に異形人間の存在を知るということもあり、この学者自体そのコレクションにのめりこんでいくような風もある。とりわけ読者としての私なんぞは異形人間の姿を楽しみ、犬・ヘビ・雄鶏・猿と罪人を皮袋につめて溺死させる残虐刑そのものに魅了されてしまっている。こういう風に言っちゃ叱られるんだろうけど、ぼくはこーゆーキワもの的学問、大好き。
著者は神戸の調律師。スタンウエイの音に出会い、設計思想に共鳴しその素晴らしさを語る。自分が惚れ込んだモノを知り尽くそうとする技術者としての熱、愛着、喜びを分かとうとする、素直な技術者としての職業意識がうかがえさわやか。日本のピアノは堅牢で精確に仕上げられていて、技術者が残響による音の濁りを避けすぎるため、あまりに完璧な止音メカニズムを仕上げてしまった。しかし、西洋のピアノのように多少音どうしがかさなって発音してしまうくらいのいいかげんさが「豊な音」を作るというような卓見がある。最近小中学生のブラスバンドが大変上手になったのは、最近の楽器が簡単に音が出るように作られてきたからだ、という。しかし、簡単に音が出る楽器は音楽的には貧弱な音しか出ない。そういう音に子供が慣れてしまうのは良くない。二流品でもいいからヨーロッパのピアノを買って練習することは十分な意味がある。日本の楽器は未だイミテーションの域をでない。
雑誌基礎ドイツ語連載のコラムの集成。初学者向けに書きおろす「肩のこらない」記事、例によってあんまりおもしろくもないくすぐり程度のとってつけたようなユーモアで薄めた語学雑記での原稿料稼ぎ・・といってしまってはちょっと失礼か。文体感覚が今では古くてあまり面白くなかったが、ドイツ語の先生本来の分野の文法記事に結構役に立つリフェレンスがあった。分離または非分離の前綴りによって付加されるニュアンスを系統的な例文によって示す一連の記事は非常に有用。また語義の解釈を「意味形態」と称するパターンによって行い、ある意味では生成変形文法に近い捉え方で分類しているような手法が面白かった。生成変形文法のような「最近のはやり」についてはこの先生はあまり好意的ではないようなのではあるけれど。
芥川賞受賞作「村の名前」(1990)は文芸春秋誌上で読んだ。確かな中国を見る目と軽い文体で確かに達者な文章という印象があったが、それだけだったような。しかし今ここにある大部で魅力的な小説で作者がまぎれもなく物語る作家、つまりは本物の小説家になったことがわかった。本当に面白い作品を構想することができる人である。次作が楽しみだ。
さて、物語は中世随一の世界都市長安を擁する唐の安史の乱を背景に、日本人留学生上がりの大臣朝衡(阿倍仲麻呂)が宰相揚国忠あるいは節度使の軍閥安禄山を相手に政争、抗争を挑む話である。なにしろこの同時代人達の顔ぶれが豪華絢爛。玄宗・楊貴妃・鑑真・王維・李白・杜甫・安禄山といった世界史上の人物と阿部仲麻呂が渡り合う。王維や李白が阿部仲麻呂の文人仲間であって、玄宗皇帝の政府高官であるのは史実である。その伝えられた歴史から逸脱しない枠組みのなかで波瀾万丈の大活劇が構築されている。司馬陵太郎・宮城谷昌光風の史実解釈型中国物の亜流ではない。どちらかというと金庸の武侠小説の影響があるような気もする。きっちりと中国史を押えた上での物語りの遊び。いや、見事な小説でした。古雅な宮城谷風の文体ではなくて、現代エンターティンメント系の軽い目の文体。阿部仲麻呂が若い副主人公藤原真幸(たぶんこれは架空の人物)を呼ぶのに「藤原くん」といわせている。その伝でこれらの人物群の心理行動様式は現代人風になってしまっている。隠者くさいイメージが付きまとう李白はこの物語中では尻の軽い軽率で単純な放浪者であるし、杜甫はうだつの上がらない乞食詩人である。この作者にこう言われれば、唐詩選の大詩人の実体はそんなもんだったんかなぁ、というような気もする。これも関係ないけど、突厥ソグドの混血の安禄山という名はアレクサンダーの漢字当て字だそうである。
社会学者(民族音楽)がジャズのインプロビゼーションの構造と習得習得法を「現象学的」手法で記述していった「ジャズ即興演奏入門」風学術論文。まあ、なにが現象学なのかよく知らないけど、随所に挿入された演奏中の手のカタチの図や与えられたコードの中から可能なルートを踏破する指の形態的記述が、そういやーなぜこう弾くかという理論とゆーよりも「実際に弾いている状態はこうである」という現象面を記述してるんかなぁ、なんて思ったりはするものの。最初に初歩のコードの構造の図解説明があって、本格的にコード進行やモード選択を分析しまくる硬派音楽入門書かと思われたが、その実は即興中に演奏者の内部に去来する意識の記述が主になっていて、精神科臨床サンプルのような雰囲気の書物。こんなものを読んでもアドリブがうまくなるはずはない。一体だれがこのような書物を読むのかターゲットがよくわからん。巻末に訳者を中心とした座談会があってゲストの山下洋輔あたりがさかんに面白がっているが、このあたりがターゲットなのか。さてその山下洋輔氏あたりの批判は、「著者は右手(メロディ)だけが即興だと思っているようだ。左手(あるいはコード・リズム的要素)との総合でないとジャズにはならないけど。」というようなものだった。ジャズは門外漢の私としては批評するほどの見識もないけど、まあ、コード進行やモードの使用からジャズの理論的解明をするのはよくあるハナシだけど、ジャズという現象を記述する別の切り口がここで模索されているとでも評しておこう。
まるで明治の文豪のような中国趣味をあしらった文学的駄洒落。キリスト教・仏教典なんかを下敷きに「酒」とひっかけてしゃれのめす快著ではあるけど、いささか悪乗りが過ぎるようなところがあって、ごちゃごちゃとしてさわやかではない。古典落語の影響も明示的に混ぜてある調子のいい語り口で、まあ、芸としては達者なモンだというほかはない。しかしこの人、当方よりも10歳も若いぜ。うーん。いい若いもんがこんなダンナ遊びみたいな文学にのめりこんでどーする!面白いけどなぁ。
フランスに居たとき、自己紹介で「アキラです」というと「アッチラ?」と聞き返されることが多かった。今はマンガの主人公のおかげで多分「アキラ」は認知されているだろうけど。ことほどさように「アッチラ」はヨーロッパ人の記憶に鮮烈な印象を与えている。アッチラが中央アジアからつついたことで諸民族が同盟し、近代ヨーロッパ国家の意識を胚胎させることになる。アッチラは父という「atta」に親愛感をこめた縮小辞がついたものだそうだ。トルコの父・アタチュルクと同じじゃないか。フン族はスキタイ・トルコ系かモンゴル系か2説あるようだ。中国史でおなじみの匈奴の末裔であればトルコ系ではないか?しかしイメージ的にはアジア人の顔をした暴虐非道な「蛮族」である。ちなみに現在ヨーロッパでは「フン族の国」という名の国家は2つある。HungariaとFinlandである。ハンガリアの伝説ではさる中世ハンガリア王家がアッチラ末裔となっている。この辺のアジア・ヨーロッパの股にかけかたがアッチラである。またゲルマン伝説ニーベルンゲンの歌にもアッチラは「エッチェル」として登場するのだ。古代ヨーロッパ人の心に刻み付けられた異民族の大王。アッチラ伝とはなっているが本人の伝記部分は微々たるもので、どちらかというとアッチラにかきまわされたヨーロッパ(東西ローマ、東西ゴート、その他のゲルマン諸族)の記述が主。ジャーナリスティックな筆致とあまり流暢でもない翻訳。「パトワというフランス方言があり」というような小さな翻訳ミス。とにかくアッチラは古代ゲルマン諸族の創生期の英雄であり、ゲルマン神話の王としてのドイツ人にとっての思い入れは大きいようだ。
前回と前後したが、初代皇帝アウグストゥスの後をうけてティベリウス→カリグラ→クラウディウス→ネロの時代の話。このうちティベリウス・クラウディウスはローマ風に真面目な皇帝で前者は冷徹な軍人・後者は軟弱な学者ということで善政を施すが、人気はない。カリグラ・ネロは若くして皇帝に推挙され若いなりの人気を獲得するが、若いなりの無神経な失政をして結局は反乱を起こされ殺される。善政をしても人気が無いと支持されなくなり、人気があっても失政があると殺されるのだ。ローマのこの時代の皇帝は東方の絶対君主ではなく、古典的貴族政治の作者に言わせれば共和党元老院にたいする市民代表の民主党の支持を受けた大統領とでもいった立場であったようだ。選挙ではないが、多数の支持がなければ治世できないシステムになっている。しかしそれは激しい粛清をともなう選挙戦を引き起こす危険もある。現にアウグストゥスはアントニウスとクレオパトラを滅ぼしてプリンチプス(第一人者)となった。そしてその内戦の危険を避けるために血統で選ばれる皇帝制を敷くのだが、あくまで東方的専制君主制ではないという実に巧妙に共和制とのバランスを大義名分上保ったシステムにしたのだ。作者の言ではそれは「壮大なるフィクション」ということとなる。 ローマ皇帝には王冠はない。だから戴冠式もない。元老院が「プリンチプス」という称号を与えることを決定し、市民が歓呼するという承認があった時点で皇帝として君臨する。そして例の「暴君ネロ」ということになるのだけど、どうもこの超有名な「暴君ネロ」のイメージはキリスト教社会が作り上げた誇張ということらしい。確かにネロは200人のキリスト教徒を処刑したが史実があるが、たった一回の突発的な人気取り政策だったのだ。別に全治世を通じて迫害しつづけたワケではない。そして当時のキリスト教は、ローマの敗者の神々も取りこんで実に30万ともいわれる寛容な多神教社会を根底的に否定する、それこそ政治的には許容できない宗教であったのだ。ユダヤ教も一神教であり、ローマ社会での異端ではあったが、他者に布教しない限りローマ社会と共存できたのだ。 ネロは臆病で無思慮な現代風若者で16歳で即位、30歳で殺されている。この間確かに母親を殺し、妻を殺し、恩師のセネカを自殺に追い込み、勇将コルブロを処刑しているが、人々は劇場で自作の詩を披露する「歌う皇帝」に喝采していたのだ。どうも非キリスト教徒の作者からは「権力を持ってしまった過保護な若者」くらいな評価で「愛すべき」とまではいかないにしても、意外と可愛いのである。この辺が筆の力というか。付け加えて言えば、この著者のコルブロという男らしいきっぱりとした軍人への筆致はあまりにも鮮やかなので、なんだかこの人の女性性がモロにでたような気もする。
小型のすっきりとした造本。訳者名は読んでから知った。幼年期の記憶が立ち昇り、薄い日常性の皮膜の向こう側に不思議な実体を再現される。何か大切なもの・あるいは見えない真実が語られると思わせる時間。文学が捏造する擬似体験。「アブサン」という第一次世界大戦前に製造が禁止されたアルコールの醸造人と液体製造工程をときどき遊びに行く子供の目をとおして語るという仕掛けだが、語る人語られる人とも純然たる文学的フィクションであり(作者は当時21歳)、それでいて奇妙な懐かしさに満ちた文章である。訳者(堀内)後書き「これはもちろんアブサンの歴史をたどる小説ではない。・・・文学が幻を見せるものであることをしめしているのである。」 Christphe Bataille "ABSINTHE"
ヨーロッパ史のエッセイ。一般雑誌掲載記事の集成。ハプスブルグ・ブルボン両家のせめぎあい、コジモ・ロレンッツオのメジチ家のパトロン・メセナ活動の意味、中近世ヨーロッパ宮廷の非優雅な大食饗宴(個人用の皿に一人分を給仕する現在様式とは異なる無法マナー)、平時の王侯の生活を支配する退屈との戦い、ギリシャオリンピックの出場者の「全裸」というコスチューム(プラトンは格闘技のエクスパートであったそう。肉体が保証する知性の時代)、ライプチヒ大学に対抗する新進ハレ大学の学問的興隆とハレ出身でイギリスで活躍したヘンデル、ハレに職を得たが給料で折り合わず、結局ライプチヒのカントルになったバッハの逸話。シェークスピアのリア王とテンペスト(プロスペロ)に置ける「老い」の引き際の違い、等々博識の樺山教授がヨーロッパ史のおいしいところを適当に料理し盛り付けて出してくれる。すこし味付けが甘すぎるような気もするが、ま、食べやすかろうという親切心であろう。例えば体言止の女性好みの文体とか。しかし、何よりも料理する楽しみという気分が支配していて、あっさりとおいしくいただけました。ごちそうさま。
第一作らしい。テーマは最先端の遺伝子工学上の不老細胞テメラーゼの解明に関わる「アメリカ企業体の国際的陰謀」?もの。なかなか生きのいい活劇である。樹齢何千年というレバノン杉というようなイメージもなかなか魅力的である。素材の新鮮さ、面白さに比べて小説的筋運びは今一つな印象がある。次第に明らかになって行く「陰謀」の解明過程が興味の中心になっていて、例えば主人公の超人的活躍や汗の出るようなアクション・あるいはエッチなシーン、想いもかけないどでんがえしの連続といった小説的動きがないので何か不満がのこる。。豊富な素材を頭で組み立てて破綻の無い筆使いで作製しました、というだけのような。要するに書きながら物語自体が生命を孕み自己増殖していくような快感がないというか。しかしそれは本物の作家になってからしかできないワザなのかもしれん。
語学雑誌連載記事。外国語を学ぶというのはコニュニケーションの手段ではなく、異なる文化的枠組みを比較することによって自らと他者の言語=知の体系の特色を可視的に操作できるオブジェクトとして認識することなんだという思いを抱く。日仏の「類集合詞」のくくり方の違いの話なんかは当方のcheval de batalle でもある。ちなみに著者の挙げる例では、vetement(靴類含む)、bete(人間以外すべて)、フランス語にない「虫」、日本語にない「ver」、日・英の豆・beans
nu と裸の違いetc。名詞から始まって前置詞の包含関係、副詞の倒置にみられる心理的修飾関係による変化、あるいは仏語特有の3人称命令(qu'il entre)というような話題が提示される。ちなみに「明日天気になーれ!」というのがこの3人称命令の気分と書いている。
泉先生の講義はよくわかって面白い。そういや、最近よくわからんドイツ語とか英語とかの講義が多かったもんなあ。さすがにこの程度のフランス語の語感なら当方にも多少はある。わかるということはうれしいことだ(^^;
写真集「小瀬の自然」をバイブルのように手に持ち小瀬を散策中、「もし著者の武田先生ならどういう構図にするかな」と同行者に尋ねる。すると背後から声がする。「もし私なら・・」。著者のイギリス紳士武田久吉がにこやかに立っている。実にすがすがしい知を求めるものの出会いの光景である。武田久吉の父は幕末の日本に関する日記を残したアーネスト・サトウ。この時から久しく民俗学の指導を受けることになるこの学生は甲府の民俗学者中沢厚、新一の父である(野生のエレガンス)。
中沢新一の文章にはつややかな弾みがあり、新鮮な知の刺激に満ちている。例えば哺乳類が所持できない、半音階的グラデーション様の「浮気っぽい色彩」に満ちた鳥類、爬虫類の輝きに人類は正常な秩序から逸脱してしまうような異世界への誘惑を感じるが、この玉虫色の豊穣な色彩は実に規則正しい分子構造に由来する、というパラドクスに着目する知的感受性(玉虫色の輝き)。
宝石の冷たい輝きに魅せられるのは死への憧れであるとする美意識(結晶はねむっているか)。
学識と才気が飛び散るみずみずしい文体。それに恐ろしいことにこの白昼の論理的世界に兆す密やかな死と闇と狂気の影まで嗅ぎ取ってしまう真の文学的感受性まで持っている風なのだ。
後半に「地上にひとつの場所を」という文章がある。それまでは曲りなりに博学誌的エッセイ風だったがこれは「新潮」掲載の私小説風である。豊穣なイメージと議論。チベット密教、精神分析、フランス現代哲学、ジョンケージ・ギンズバーグ・横尾忠則達の夢想する宇宙論の性と死を貫くイメージがちりばめられた空間を飛翔するためのコトバを燃料とする飛行機械。
「ガソリンスタンドの娘のもとに、がらの悪い大天使ガブリエルがやってくる。おまえは受胎したぞ。いいかげんなことをしてるとぶっとばすぞ。ボーイフレンドとセックスしたこともないのに?お父さんはだれ?ばかやろう。<想像的父>にきまってらあ。」わはは。この才気。
1950年産。ほぼ当方と同世代か。70年代の熱気がふと立ち昇る。見事なスタイル。当方が何を言っても全く外的世界に影響はないのだが、それでも言葉が映像より、音響よりパワーのある構築物を構成できることの証としてここで絶賛しておく。
世紀末ウィーンの各分野の天才達に纏わる著者以外の論も含めたアンソロジー。
クリムト・シーレ・マーラー・ウイットゲンシュタイン・DHロレンス・フロイトについての比較的自由な形式の論集。特に吉野さよ子のウイットゲンシュタイン論は破格の小説風スタイルである。でもあんまり面白くなかったが。懐かしい名前達と過ごす世紀末ウィーン回顧風にさらりと読んだ。最後の伊藤の晩年のフロイトの思索についての論が力作だった。性の欲望から出発し、文明に対する確信的なアナーキーな批判にまでつきすすみ、「死への欲望」というような既成のキリスト教文化からは到底容認できない論を展開するフロイトを伊藤は尊敬と共感をもって紹介している。もちろんアドラー、ユンク、フロム等の修正フロイト主義への目配りもある。特にマルクーゼを現代におけるフロイトの最も適正なアダプテーションとして共感をもって論じている。フロイトというのはやはり文明的規模の現象だったのだ。
山の湖のほとりに住む旧家のそれぞれに違う三姉妹の性格と人生、それぞれにからまる男。各自からのモノローグ調のそれぞれの文体。うむ。思わせぶりな状況。月の光を拡散させる湖の漣。だかしかし、結局思わせぶり以上のものは無かった。もすこし感動か、それとも感嘆させてくれよ。確かにそそられる状況なんだけど、何か中途半端な。物語の前段だけがあって始まらなかったような。クメールルージュにすべての住民を追い払われ、ただ存在していた無人の都市の非現実な空間というイメージはなるほどこの作者の表現だったけど。あえていわしてもらえば、日野啓三さんは三姉妹の恋の物語を書くような気質の作家ではないんだよなあ。
雑誌「学燈」連載の「ヴィヨンという名がわが半生にどう関わったか」というエッセイ。ヴィヨン詩のベランメエ口調の生きのいい訳と学者仲間の楽屋オチまで含んだ注釈の、オレの解釈の方が絶対いいよ風のサワリ付きで「放浪学生」として西洋中世にかかずりあった回想の数々。そうか、当方はといえば30年その昔、中公世界の名著でホイジンガ「中世の秋」の訳文を読んで確かにのめりこんだのがこの著者の文章を読んだ最初だったのか。アレは師匠堀米庸三との共訳だったんだな。しかしこのシリーズエッセイのスタイルは!
「ポン・マリ橋のたものとの停留所から67番のビュスに乗る。ビュスって、あの、バスのことです。ほんの二百メートルも走らないうちにビュスのやつ、気を変えて、河岸から外れ、サンジャルヴェ教会の横のせまい道にむりやり入りこむ。道端に停まっている車をこづきまわして、ビュスは強引に進む。サンタントワーヌ通りにでて、勇躍、グググッと廻りこもうとするが、どっこいそうは問屋が卸さない。交差点のド真ん中に腰を据えたプジョーのお尻に鼻面をぶっつけんばかりに急停車。腹を立てて、ガクンガクンと小刻みに腰を震わせている。」
江戸前落語の世界か。ボイジンガ・ヴィヨンを読み進む学者人生の各段階の光景が一応クロニカルに、狐につままれるほど、学者離れもはなはだしくアルビトレール・個人的思い入れたっぷりに語られる。うむ。ヴィヨンなんて読んだこともない当方には、中身でなにがいいたいのか良くわかんないけど、確かに生きのいい文体のリズムに乗せられてするすると最後まで読まされてしまった。で?面白かった?うむ。良くわかんないけど、とにかくすげー芸だったよな。
ちゃきっちゃきのフランスの人気作家の出世作。このシリーズ先ずガリマールのセリーノワールで刊行されたが、最後には純文学ブランシュ版になったという。デパートで起きる連続爆破事件の真相解明という推理小説風縦糸で話が引っ張られて行くが、その筋立ての楽しみがこの本の主たる魅力というわけではない。個性的な登場人物やナイーブで饒舌な文体、書くことによって脳髄中のイメージが活性し、やがて書き手が存在する現実よりも書かれている物語の中の現実のほうが豊かになっていく愉悦がある。一つの光景を物語るための豊穣なユーモアをはじけさせる驚異のスタイル。本業はリセのフランス語の教師だったそうだ。そしてそのユーモアをちゃんと日本語に再現している訳者もなかなかの実力ありと見た。うん。このシリーズは面白い。
Daniel Pennac: Au bonheur des ogres, Editions Gallimard, 1985
表紙の、いかにも修行を積んで円熟したという風格のダライラマ14世と、今年1月インドに亡命したカルマ黒帽ラマ(カルマパ)17世の不思議な突き通るような目つきの霊童ぶりの写真が印象的。チベットはインド・中国という一次資源生産大国に対し、仏教という情報文化の輸出国となることで抗してきた、チベット仏教の興隆と独自の転生活仏制度の創出も、低い農業生産性と、参入する人口を制限することで仏教という低コスト高利潤の第三次産業の質を維持するためのものであると説く。
チベットは秘境の代名詞だった。昔東宝の怪獣映画で怪獣が最初に痕跡を示すのが「岩手県のチベットといわれる」場所だったなぁ・・。国際帝国唐朝と覇を競った匈奴がトルコ系・あるいはフン族系の近代諸国の精神的支柱だったように、チベット民族のアイデンティティは古代吐蕃王国(5世紀)からスタートする。そしてこの民族は第三次産業としての仏教の輸出という事業によって歴代の中国王朝に独自性を認めさせ、政治的に併合されてしまうことを免れていたのである。この図式はインドのダライラマ亡命政府が共産中国に対抗している現在にも連なっている。チベットの東アジアにおける文化先進国としての役割は、例えば蒙古文字(パスパ文字)はモンゴルに重要されたチベットの僧パクパが制定したというようなことでもうかがえる。
そしてこの高次な精神文化であるチベット密教の体系は、転生霊童を後継者とする極めて得意な家元制度で維持されて来たのである。
高僧が入寂するとその遺言に従って生まれ変わりの児童が探索され、正統と認められた児童は膨大な天才教育を受けやがて家元の全機能を引き継ぐ。確かに転生説自体は不合理に見えるかもしれない。しかし、入寂高僧の遺言は適度に曖昧であり、条件をクリアする天才児が複数見つかるくらいの幅があったり、あるいは意中の特定の児童が既に居て、その児童に該当するように遺言を操作している可能性もある。それは単に血縁者の中から後継ぎを選定して天才教育を施す歌舞伎の家元制度よりも、まったく実力本位で天才児が選ばれることからして余程合理的であると著者は言う。うっと、そこまで言ってなかった?
また、高僧の入寂から転生児童が成人するまでの政治的空白期間を補完するためにできたのが、カルマ派のNo.1黒帽ラマとNo.2赤帽ラマのオルタネート制である。黒帽ラマは赤帽ラマの転生霊童を探しだし養育し、自分のすべての教理体系を伝える。黒帽ラマが入寂すれば、「弟子」の赤帽ラマが黒帽の転生霊童を探査、養育、天才教育を施しすべてを伝えるのである。このオルタネート制はゲルク派のダライラマ・パンチェンラマの二活仏制にも引き継がれて行く。現在のダライラマはゲルク派の管長であるばかりではなく、亡命チベット首長としてチベット仏教各派を平等に統括することになってる。かつて血なまぐさい派閥抗争をゲルク派と繰り返したカルマ派の一七世黒帽ラマがインドのダライラマ14世の元に亡命していったのは現代のチベット仏教・あるいはチベット問題を見ていく上で実に象徴的な動きであると著者はいう。いや、そこまでいってなかったか(^^;
この「転生」という独自の一見不合理なイベントこそが、現在においてチベット仏教の宗教としてのインパクトを返って強めているのは疑いはない。また、特に文化革命時の中国政府に対して多くの亡命チベット僧を輩出し、彼等の活躍によって国際的なチベット仏教への関心が高まり、中国政府への圧力となっている構図も面白い。
この本の話ではないけど、例のずっとチベットで仏教を修行していた異才中沢新一くんは、著作「虹の階梯」を修行のテキストとして使用した例のオウム真理教・麻原彰晃師を『「タントラ仏教の本質を非常に正確に理解している」と高く評価してきた』ことで論壇の矢面に立ったということだ。→出典
確かに今「転生」というような不可解な制度を内包したチベット密教は現代を独自に魅惑している。一七世カルマ黒帽ラマの写真の不思議な目の魅惑。
この人と庄司薫とよく間違える。中村紘子とは関係なくて倒産した三田工業と三田和子の線だったなぁ。しかし、混同の根元のあたりにある「赤頭巾ちゃん気をつけて」「僕って何?」風の若い芥川賞受賞作家も、当方のうらぶれ方と同じく既に50歳をこえたおっさんをしてるんだろうなぁ。で、懐かしさから読み始めてみて、何回も疑った。別に庄司薫と混同してるわけではない。しかし、これって本当にあの三田誠広?いったいアンタって誰?
いい加減なB級娯楽作品である。
一応日本古代史上の天皇から武士、神道から仏教というような変遷の時のコンテキストでおもしろそうな雰囲気だったけど、見事なほど面白くない。著者自身も真面目に半村良とか光瀬龍風の本格伝奇小説にし立てるだけのつもりもなく、安直な筋立てと時代考証、いい加減な描写とセリフのドタバタ劇にしてしまっている。いやしくも芥川賞だろ?日本文芸家協会常務理事だろ?その、芥川賞作家という・てらい・があってワザと純直木賞風にまとめることを避けてるのか?
緊密な伝奇小説風のおどろおどろしい非日常世界に沈潜したいと思っている読者を、まるで性交中絶的にはぐらかしてしまう。「どす黒いトルネードとなって」「玉座の前の御簾が、ブラインドのようにまき上がる」「そのキングコングみたいな姿が」というようなワザととしか思えないぶち壊し方。もしかして、それが現在の講釈師の語り口であるというんだろうか?それともなにかこれはそのぶち壊しの芸であるとでも?
正直言ってコレは当方が知っていた三田誠広ではないし、若くして職業作家となった円熟の小説家の手馴れてこなれた手練の芸でもない。
いったいコレって何?
ひところの人工知能開発への楽天的ブームは去った。コンピュータと対比することで明らかになった人間の知能の圧倒的な優位性は、膨大な背景情報をかすませてしまい、必要な情報だけを浮かび上がらせることができるフレーム構造に存する。1997にチェスの世界チャンピオン・カスパロスはIBMのディープ・ブルーに負けてしまったが、人間はコンピュータに負けたのではない。車が人より早く走るからといって誰も人間は車に負けたとはいわないのと同様である。多能機ではなくチェスだけのための単能機。マシンではなくプログラマー集団の勝利。
本田技研が開発した人間型ロボットは技術者からすれば既存の技術の寄せ集めに過ぎない。しかし、一般の人の反応は違う。それはモノ以上の何物かという印象を与えてしまうのだ。そしてアシモフのロボット3原則風のロボット倫理の制定を急げというような社会的認知を促す世論まで引き起こす。そうなのだ。人格を持たない単なる物であっても、人格を持つと認められれば人格を持っているのだ。「存在は関係性においてのみ存在する」う〜ん。わかるかな?しかし著者は別にそうは言ってなくて、人間は状況内にすでに存在している存在、つまりハイデガーのいう世界内存在であるといっている。まあ、わかるわけはないよなぁ。
人間は肉体と意志あるいは欲求を持っている、そのことをAI研究者は無視してきた。フローチャート式な判断の総体がすべての人格構造を決定しているのではない。演算が超高速となり膨大なメモリさえ備えれば知能が再現されるという直線的解の可能性はなくなった。ある行動を規定する条件をすべて明示しようとすると、ハイゼンベルグの不確定性理論風に永遠にかすんで行ってしまう。
そうではなくて、ごく単純な3つくらいの条件・あるいは規範を与え、あたえられた状況でその規範が常に成立するものというような単純素朴なカタチでプログラムをすると、アウトプットのカタチの印象は驚くほど天然・自然・生行動に似ている。ライフゲームだね、これは。マンデンブロのフラクタル理論であり、ファジーであり、複雑系である。AIは失敗したがAIもどきはすぐとなりにいる。とまあそういうわけだ。
巻末にオマケとして新聞連載のひとくちエッセイが収録されている。面白いので記録しておく。
○活性炭の表面積は後楽園球場に匹敵するという時、計測するメジャーが違っている。比較することのウソ。
○単に自然を切り取るだけのカラー写真ではなくて、モノクロは変形させるという意志のフィルトリングが入り表現力が強くなる。ここでは情報量と表現力は比例しない。
○SP録音で聞くような演奏家は多分現在ほど他の演奏家の演奏を聞く機会はなかったろう。平均化にさらされない以前の強烈な個性がそこにはある。
○AMラジオを聞いた。アナウンサーも出演者も気負いがなく妙に淡々としていて気持ちが良かった。「先端の座を他に譲り、そのことで競争原理からも逃れることができたメディアは、静かに成熟することができる。そして、こういう存在を許容できることを《文化》と呼ぶのかもしれない」
著名作曲者・演奏者・ピアノ製作者等のエピソードをピアノを媒介としてつないで行った音楽史読み物。バッハ時代はやった宮廷音楽試合。天才少年ピアニスト・ツェルニーは大家ベートーベンの元につれて行かれて演奏し弟子入りを許されたが、そのツェルニーの元に今度は天才少年ピアニスト・リストがやってくる。ワグナーの家に逗留するのににぎやかに弟子を引き連れてくるが、婿につれて来るなといわれしゅんとしている大ピアニスト・リスト。天才少女から出発し、常に卓越した演奏家でありつづけたクララ・ヴィークとその夫シューマン・愛人ブラームスとのエピソード。ザクセン系シュタインウエック家の家業のピアノが有名になり、スタンウェイという名前の使用権をめぐる商標裁判の記。最初のアメリカ人国際ピアニスト・ゴッドシャルクの南北戦争当時の見世物演奏旅行の日記。ブゾーニやルービンシュタインのような前世紀の巨匠ピアニストのうわさ話、etc。装飾過多の文体でおもしろおかしく綴った通俗音楽史である。
訳文はなかなか苦労したろうな、とは思うけど、全体に翻訳口調が抜けなくてこなれていない。それに日本語のレベル自体が古臭い。「何々をば、する」というような日本語が現在の訳文として存在することが不思議である。悪い印象は持たないが、この翻訳文はあまり評価できない。
前回の「西洋中世の愛と人格・「世間」論序説」の先駆けとなる講座の講義録。感想文でヨーロッパを見る視角とは日本を考える視角であると明示的に設計された、阿部先生得意の中世逸話が豊富な面白おかしい講義だけど、全体の論調ほぼ前回の書評のワクの中なので繰り返さない。
「告解が個人意識を生むこと」に加え、贈与互酬による親分・子分的「世間」が、教会への寄進することによって崩壊する筋書き等。伝説の死者の軍隊(アルゴ探検隊のスケルトンの軍隊を思い出す)は中世の、人格を剥奪された森への棄民が時たま町に帰ってくることの名残ではないかという説(公式にはその人達は見えないことになっている)、とか。
「正編」である「序説」の方では言及されていない師・増田四郎が、貧しい奈良県月ケ瀬から出て来てどのようにして「西欧における市民意識が成立したか」という問題に接近していったかというような、いわば楽屋話の類が豊富で楽しい。
思えばやはり当方も日本で日本人をやっている自分という意識があり、阿部謹也の吹く「中世の窓から・ハーメルンの笛吹男」という別世界の音に魅入られ、ふらふらと西洋中世にまでついていったクチではなかったか。
あちら・西欧における個人と市民社会と恋愛の成立と、こちら・日本人としての自分内部の個人と社会と恋愛の不成立という風に。
目次を挙げておく。
第一講 「世間」からの離陸
第二講 個人の成立
第三講 恋愛の成立と新しい男女関係
第四講 市民意識の成立
第五講 キリスト教と伝統社会
この著者の「本の都市リヨン」を手に取ったことがあるはずだ。分厚い学術書で、テーマには惹かれるもののとても全巻通読には至らなかったと思う。今回は雑誌「ふらんす」連載が原型の「おもしろまじめ」文である。1947産といえば当方と同世代ではないか。後書きには高階秀爾・阿部勤也・松原秀一・新倉俊一諸氏の同系書物のタイトルの引用がある。それぞれ学問的分類では美学・歴史・文学・言語と違ってるんだろうけど、なにかしら面白がっているモノが共通しているような気がする。
ところでこの著者はルネサンス文学、特にラブレーが専門のようだけど、手法は書誌文献学に拠っているようだ。この本のテーマも文献の異本がらみの話も多い。トリスタンとイズーのバージョンの話、ティル・オイレンシュピーゲルの仏訳版から原型のフラマン語を想定する話とか。他封建領主の家事日記の読み込み、フッガー家の会計主任の「服飾自伝」の話。著者のホームグランドのひとつであるらしいイタリアのシェナのパリオの競馬の紹介、分析は内容と文章双方とも面白かった。
まあ、一切の近代的感情吐露を排した田舎領主の家事日記の仔細な記述にまでのめりこむという嗜虐的なまでに禁欲的な学者の楽しみまでは共有できないが、西欧ルネサンスという時空の果ての一地点にワープし、うっとおし日常を閉め出して屋根裏部屋にこもるような幸福感のほてりくらいは当方も感知・感応することができる。
この同世代の宮下教授も流石に筆は立つ。というよりラブレー、ヴィヨンの底抜けの語ることの快活さを楽しむ人にとっては、このくらいの手遊びくらいできなくてどーする、というところか。
子供の頃に読んだヴェルヌ(1828-1905)の「15少年漂流記」や「80日間世界一週」あるいは「地底旅行」のそれぞれの場面は未だに頭に残っている。例えば「80日間」の副主人公の名が「パスパルトゥー」で、そのなんとなく綿菓子のようなふわふわした音のイメージは40年経っても消えていない。pass-par-toutだったんだよな、これが。
というわけでヴェルヌへの思い入れは大きい。
パリ万国博覧会当時の世界は好奇心と科学へのオプチミスムに満ちていた。日本政府と島津藩が独自に出店し、下級氏族の若者が西欧を見た。同時に西欧は異国への新鮮な冒険心をかきたれられた。例のパスパルトゥー氏は、なんと開国直後の江戸のお座敷芸人をしたりした。
世界は若者らしく未知な世界が次々に明らかとなり、人類の生活を楽しく便利にしていく過程の只中にいることにわくわくし、科学による豊かな未来を確信していた。
それは人類がまだ子供であった時にだけ可能であった夢の見方であった、と今では言うべきか。
巻末の解説によるとヴェルヌ自身は科学主義の行く末にある種の懐疑も抱いていたという。「破滅への予感を内包したその作品群は、ますますその意味を増しているといえる」そんなところまでヴェルヌを読む必要はない気はする。
妙にワケ知りの子供じゃなくって、既に今世紀のわれわれが失ってしまった、かけがえなく豊かな子供時代の記録としてのヴェルヌを読みたい。
確かに「地軸変更計画(Sans dessus-dessous)」はあまりぱっとした小説ではない。地軸を変更するという天才科学者と最初は熱狂するが次第に今日的エコロジーの観点からパニックに陥っていく世間という社会素材のSF風になる。計算中に鳴った雷の影響で計算に破綻が出て失敗するというオチは安直で、それはそれでなかなか古き良き昔風でいいんだけど。
併載「西暦2889年・アメリカ新聞王の一日」(1889)未来小道具を記載しただけの小品。今から見れば1989年だとしても多少古めかしいところがある。新聞は読み物ではなく電話で情報を売るようになっている。ラジオ・テレビを予見しているが、一対多のマスメディアになっていないのが愉快。1500人もの記者が読者に毎日の記事を電話しまくるのだ。カラー写真は日本人が発明するらしい。発明者の名は「アリュツィスワ=リオチ=ニコメ=サンジュカンポ=キオ=バスキ=ク」だそうである。うむ。ロシア人とイタリア人とアフリカ人とバスク人とベトナム人の混血のような気もするが(^^)
ああ、叢書ウニベルシタス。懐かしいなぁ。以前に読んだのは確かバシュラールの「空と夢」だった。30年前か?このシリーズの白地に赤と黒の線だけの装丁は実にいい。白水社系学術書のすっきりと高雅な感覚ではなくて、何処かしらバロックを感じさせるダイナミスムがある。叢書といえば岩波叢書なんかも昔あったけど、今はもう見かけない。この叢書ウニベルシタスの何時までも古びることのない装丁デザインを新ためて見直したりする。
で、中身の方だけど。まったく解らんかったのだ、これが(^^;
翻訳は悪くないと思う。それどころかしっかりした日本語だった。テーマもカオスの古典文学的解釈からマンデルブローのフラクタルまで幅広く論じられて多彩であった。キューブリックのHAL君やその名も懐かしいマクルーハン氏も登場していたのだが。訳者後書きにあるように「気鋭の若手論客の文章にはとかく気取った、ことさらに難解な叙述が多いものだが、本書にもその傾向は強く・・」ということかも知れぬ。
うむ。今回はそーゆーことにしておこう。(^^;
日米開戦時の東条英機内閣、ポツダム宣言受諾時の鈴木貫太郎内閣の外相、東郷茂徳の伝記小説。軍人が支配する内閣内で日米開戦時は戦争回避に努力を傾け、敗戦時は戦争早期終結に画策した気骨の人として描かれている。
島津家が朝鮮戦役の折りに連れ帰り、保護した薩摩の朝鮮人陶工の村の出身であり、少年時代は祖先が朝鮮系ということで差別を受けたという。ドイツ文学者を志すがやがて外交に転じ、時流に流されず信念を貫くプロの冷徹な外交官として国際的な認知を受ける。
日米開戦時とポツダム宣言受諾時の軍部との確執が小説の「現在」で、克明な閣議や御前会議のやり取りが実況中継ドラマ風に描写され、各閣僚の性格が明瞭に描かれていてなかなかの臨場感である。軍人閣僚の非論理的感情論の前に言葉が通じず、やりきれない思いを抱くが最後まで妥協をしなかった人物への賛嘆の筆致。
作中にもふれられているように、これはシャーロックホームズ的「本格」推理小説ではなくて中井英雄「虚無への供物」風の推理小説風小説である。本格推理小説だとすると、主人公が犯人らしいとか、小説内の事実が毒物による幻覚であったとか、探偵が犯罪の演出者であったとか、一体犯人は誰で被害者はだれなんだよ!と切れてしまう小説である。ところがこの「藪の中」状態を作り出す物語作法が実に楽しい芸で感嘆してしまう。最初に「わたし」という一人称で物語が語り始められる。実際はこの「わたし」は単なる狂言回しにもなっていない弱小登場人物である。「わたし」として登場するんなら、どこかでもっと活躍するのかと思うのが人情であるが、見事に何の意味もない「わたし」だった。
大江健三郎の「四国の谷間」モノを連想するような、土俗の共同幻想的が現実の事件を神話可してしまう風の事件。山村に逼塞生活を送る自己閉鎖セクト内の凝縮されたな議論と性。実に見事な舞台がある。濃密な嫉妬や憧れや性交のイメージ。濃密な物語。主人公の意識内の明瞭な論理性とすぐ裏側にある非論理の物語にのめりこむ自己憧着と悪夢。
狂言回しのドイツ哲学徒達の会話の調子が現世的な自己冷笑に満ちていて楽しい。狂言回しの会話だけど、「「考える葦」とは傷ついた葦のことで、傷つくが故に宇宙より尊い」だとか、「動物は食物として植物を摂取するとき必然的に中毒性のあるアルカロイドを摂取してしまう。動物がアルカロイドによる幻想を孕んでしまう(=意識を持つ)ということが植物の動物に対する復讐である。」というような根拠もない無責任な議論が実に楽しい。「脱皮する蛇のきしむような笑い声」というようなイメージも豊穣である。
一口に言う。読書による濃密な愉悦がこの本にある。
睡眠研究者の主人公が正しい「眠り人」として不純な社会を告発し、夢の中を探検するというような話。軽いユーモア系SFのタッチ。解説によれば文学的カリカチュアが面白いというが、別にそんなに面白くはない。現代文学では珍しく平明な文章で書かれているというが、この内容でどう複雑に書けるというのか。文例:「気が滅入ったときには、2,3滴ばかりの迫害と、さらに怒りを数粒、それに、憎しみをひとつまみ加えて、あとはひたすら頭の中でことこと煮込んでいくだけだ。」そんなに面白くもない。たいした内容でもない。大げさな空騒ぎというような。ヒマ人ならこの作者の後続本につきあうかも知れないが、ぼくはもういいよ。
前作「東郷茂徳」で使用した資料がまた生きる大変コストパーフォーマンスのよい小説である。重光もまた東郷と同様英米との戦争を避け、かつ早期停戦を実現しようと努力した外交官で、東郷を書くと必然的に筆が呼び出してしまうテーマなのに違いない。むしろ重光を書くために最初に東郷を書いたのかも知れない。東郷の場合、その生い立ちが小説家のプロット創出を助けたが、重光の場合は戦後も生き延び、ミズリー号上での降伏調印をし、戦後自民党鳩山内閣の副総理・外相として1956年、日本の国連加盟承認にニューヨークの国連総会で立ち会う。中国公使時代にテロで片足を切断、東京裁判では日本軍に虐待された捕虜の米人証人に「あの人がここにいる(裁かれる)のは間違いだ。平和と正義を実現しょうとした人だ」と言わしめるエピソードを持つ。戦争中の内閣や御前会議の様子が「見てきたように」詳しい。資料としても面白いけど、世界戦争をはさんで活躍しつづけた外交官の生涯は脚色する必要もないほどそれ自体が興味深い。どうしょうもない幼児性世界観の軍部との軋轢が戦時中の主たるテーマになるが、自分の信ずるところにしたがって毅然と処する人の言動はすがすがしい。戦後に政界に転身するくだりまで行くと「重光外務大臣」という響きが脳髄の奥のほうから蘇る。この人達が用意した時代にぼくの最初の記憶が胚胎した。
本筋とは関係ないが、外交官という職業の職責の重さと地位と特権と華やかさは、今のぼくの職業に対極であるに違いない。今度生まれたら外交官になってやろうっと。
ベルギーのジャン=フランソワ・ジルモンという書物史学者が架空の歴史小説家の名前で著した擬作歴史小説。いかにも「本の都リヨン」という大著がある書誌学者宮下氏好みの趣向である。ミクロ歴史学の潮流からいえば歴史学者のひとつの論文といえるのかもしれない。グーテンベルグがストラスブールで活版印刷を発明した黎明期の印刷職人の雇用形態や作業仔細、厳格なプロテスタンチスムが支配する宗教都市ジュネーブの司法の様子等が小説の形で読めることになっている。ところで、実を言えば小説とするとたいして面白くはない。何と言うか、なるほど歴史的考証は完璧なんだろうけど、この主人公たちは中世人の感性ではないような印象である。小説ということにすると心理描写がさけられないが、このときに学者の筆の限界を見る気がする。超未来的宇宙船を乗り回しているくせに心理は現代人ってのが安手のSFによくあるが、おんなじようなものか。
「プラハの古本屋」とか「外国語上達法」あるいは「チェコ語入門」がこの人の著作で当方が読んできたもので語学屋さん風の印象であった。今回は言語学教授に立ち返って素人にプラハ学派を中心とする現代言語学の基礎を鳥瞰させてくれる有益な講座である。
「1.言語学へのいざない」は言語学の各分野の現状を概説した後推薦入門文献を2・3挙げるコンパクトで有益な記事。
「2.現代言語事情」はカフカス(コーカサス)諸語のたとえばウフビ語話し手2.3人というような極端な言語の事情なんかが想像を刺激し、楽しい。後著者によれば実態のない呼称だけど「東ヨーロッパ」の言語事情で、「チェコ人がチェコ語で話すとスロバキア人とは95%、ポーランド人となら70%、クロアチア人60%、セルビア人50%、ブルガリア人とは40%ぐらい理解し合える関係にある。ルーマニア人(ロマンス語派)、アルバニア人(独立一派)とはまったく理解し合えず、同じインドヨーロッパ語族に属する言語であるということは学者の指摘によって分かるだけである。もちろん語族の違うハンガリー人(ウラル語族)とはまったく理解し合えない。」というような具体的な相関関係の説明は素人には大変よくわかってうれしい。とにかく言語学は「学」的でなければなんてたって面白いんだから。ま、この本の解説分野には残念ながらなかったけど、素人語源学が一番たのしいんだけど。
「3.近代言語学を築いた人々」ソシュールとかR.ヤコブソンしかしらなかったけど、プラハ学派周辺の天才達のちょっとした伝記と業績紹介。言語の構造というような目に見えないものの理論を言語によって組み立てていくというややこしい操作に没頭した人達はえらい、と思いマス。
突然人間を含む動物が蒸発してしまい、偶然残った人間がインターネットで交信しつつ原因を探り、サバイバルを試みるパニックSF小説。現象の原因が動物に対する優位を復権させようとする植物の共同幻想による遺伝子工学的操作というのが面白いが、他はかなり類型的な筋運びで、人物像が安っぽい。それに「インターネットで交信」というが、中身は完全に商用パソコン通信のフォーラムのノリ。猫田にゃん子とか大統領とかのハンドル名のつけ方が非インターネット的である。しかしインターネットということにしないとニューヨークの貿易センタービルの生存者8人とかの交信ができないしぃ。それと、遺伝子工学的にDNAに埋め込まれた破壊情報を中和するのに経口投薬ワクチンとはね。世界的天才の博士が開発したワクチンの争奪というのがないと筋がドタバタしないのかもしれないけど、このあたりかなりご都合主義的にウソくさくて大幅減点。SF書くなら小松左京ばりの気配りをしろよ。
ピストル・ヤクザ・バンドマン・芸能プロモーター・オカマ・麻薬・美少女・近親相姦・男の自尊心・殴りこみ。朝の通勤電車で猥雑なスポーツ新聞の芸能欄を広げている人がいて、目にうるさいと思いつつ密かにちらちら記事の内容を窺うっている光景を思い出す。やかましくてうるさくてグロテスクで、まるで商店街のべっとりとまつわりつく演歌のような不快感がある。たとえば村上龍の悪ぶり小説にも似たような猥雑性はあるとおもうが、龍は決して自分が正当で正義でヒーローだという自己撞着はしない。鼻持ちならないのは主人公のちっぽけな自我を正当ヒーローとして全面的に同意することを読者に押し付けるからではないか。演歌もそうだよ。他人にとってはどうでもいいちっぽけな自己撞着の自閉世界。主人公のジャズギタリストの音楽的素養を際立たせるためだと思うけど、時々クラシック音楽のタイトルが言及される。ヤクザ者なのにクラシックにも造詣が深いという超人的英雄性というわけだろうけど、挙げられているタイトルはラフマニノフ「ピアノコンチェルト第2番」、ドビッシー「月の光」交響詩「海」というような素人好みの超通俗名曲である。悪いけど笑ってしまうよ。とにかく冒頭にあげたようなモノ・事象を次々と繰り出せば読者はあれよあれよといいながらついてくるだろうというような、大げさで安直な演歌小説。読後の不快感はこうこきおろしてもおさまらない。
ジョルジュ・デヴュイ、アラン・コルバンと3人のフランス・アナル派の史論集。「感性の歴史」とはマクロな事象の記述に偏した旧来の歴史学とはまったく違う視点での真実を発掘する試みの謂いである。とすれば最近2・3読んだミクロ歴史観の同類か。
アラン・コルバンの小論「電気と文化」電灯がもたらした生活の変化や(谷崎「陰影礼賛」の引用あり)同「音の風景」日常生活の物音、動物の鳴き声への人々の感性への影響の示唆。フェーブル「魔術」近代合理精神内に同居する不合理「おおよそと正確さという感性」、デュビィ「社会史と心性史」の年齢集団・系族集団(領主になれない2,3男が十字軍の気風を作った)の重要性。等々といったいわばソフト面からみた時代へのアプローチである。硬い目の書物だけど、各論がエッセイ風小論なので読み飛ばし風に最後までいってしまった。ちょっと目に残ったイメージ:中世の刑罰は死刑か無罪かの2つしかない。民衆は大悪人が無罪になったとしてもそれはそれで大喜びしたのだ。それと死刑執行のまさにそのときに「grace」と叫びながら馬で騎士が駆け込んでくるというような中世の王様のよくやる演出。
sensiviliteの訳語が「感性」はまあいいとして、mentaliteの訳語が「心性」は違うと思う。「心性」というのはいかにも訳語臭い。うむ、しかし「こころ」というのもどうもね。フランス語では普通の言葉なのに日本語ではうまくいえないという類か。
1994年時点でのショスタコーヴィチ関係の仔細な資料(年譜、作品一覧、ディスコグラフィー、参考文献)と人物論・作品論の適当なコラムを組み合わせた読みやすい解説書。ヴォルコフの「証言」がでたのが1980年、以降「証言」そのものは偽書であるが、作曲家本人が関わっていることも否定できず、という評価になっているそうである。この本の主たる論調は2重言語の作曲家であるようだ。「証言」ほど明確な内面反体制を貫いたということではなく、つかず離れず・というよりも、そうでもありそうでもない、といったダブル・スタンダードの作曲家という解釈。ぼくがショスタコーヴィチを再発見したのは最後の交響曲15番に明確なダンス・マカーブルを聞き取ったときだった。体制・反体制というような生々しいことにかかずりあって生きて来ざるを得なかったが、そんなことは本当はどうでもいい、面白い音楽ができりゃいいんだ。世俗の人生に対する自嘲、メメントモリ。苦笑と諧謔。その響きを聞き取ったとき、ショスタコーヴィチがぼくの中で再生する。この視点での論はまだないようだ。
かなり厚い目の小説だったが、途中から止めることが出来ず半徹夜状態で一気に読んでしまった。ローンが払えず自己破産申告をした貧乏ロースクール学生が超大物弁護士と大企業相手の訴訟に着々と勝利を収めて行く小気味のいいストーリー展開、いやみにならない程度の気の利いた言い回しと文体のスピード感、舞台装置であるアメリカの法曹社会の実際や法廷駆け引きのノウハウ等興味はつきない。貧乏のどん底で司法試験の結果を待ち合格の報を受け取るときの高揚感や法廷で大物弁護士をやり込める勝利の興奮はリアルである。交通事故があると示談額の3分の一の成功報酬を目当てにすかさず被害者に擦り寄っていく病院に群がる下層弁護士達、どんなに高額な謝礼を支払っても少しでも自分側に有利な陪審員を選定しようとする大法律事務所のための陪審員コンサルタントのような職業の存在。
アメリカは訴訟社会だといわれるが、こういった小説でみるかぎり判事や弁護士の個人の特性が如実に判決に表れる仕組みになっているといえる。個人差が如実に表れる社会。うーむ、それでいいとは思うが、実をいうとしんどい社会かもしれん。
医者が書く病院モノ小説。弁護士が書くリーガル・サスペンスは法廷駆け引きと訴訟勝利がクライマックスとなるけれど、内分泌科医が主人公ではそれほどのクライマックスは期待できない。せめて外科医であれば颯爽たるメスさばきが見せ所になるんだけど。医者に不信感を抱き、検査を勝手にキャンセルするような弁護士の手術に際し、麻酔薬に極端に反応する副腎褐色腫瘍がある可能性を指摘し、医者としての倫理感で手術の危険性を回避するように尽力し、最後に患者・弁護士の信頼を得るという大筋である。そこに大学病院の医者達の教授・専門医・フェロー・レジデント・インターン・学生といったヒエラルキーがらみの人間模様が織り込まれ、どうでもいいような主人公を巡る女性達とのからみだとかが繰り広げられ、いかにも米国産マクドナルド風なんでもありの定食小説になっている。ごちゃごちゃした印象が残るのが専門作家でない素人風でもある。しかし、専門家が語る専門領域の話はいつでも興味深い。実際の施術における外科医・麻酔科医・内科医・レントゲン科医の役割分担と責任範囲だとか、臨床家と研究医の立場の違いだとかは小説という形で書かれるとくっきりと明瞭になる。
訳者もハーバード大学の医者らしい。本文の中に囲み記事で訳者による医療用語の解説があったり、巻末にインフォームド・コンセントについての別記事の訳があったりで、それも楽しい。
しかし、米国ではジョン・グレシャムの本でも書いてあったが医者と弁護士は仲が悪いのが相場というものらしい。
しかしこの人は東京工大名誉教授であり、著書も数冊あるいってみれば悠悠自適をすでに体現している老人である。ドイツで手術を受けるのにすぐ日本に帰り主治医に相談できるような経済的基盤がある。結局は経済活動をリタイアしても自由に暮らせるだけの基盤がある老人が残りの人生をどう過ごすかという一例にすぎず、タイトルで教唆されるような捨て身の選択ではない。本人にとっては永年の信仰を深化させることに余生をささげる真摯な選択なんだけど、東京に家があり、「ドイツで人に迷惑をかけるのならすぐ帰って来い」という兄弟や、ヨーロッパ各地に知人が暮らしているような「恵まれた」老人という思いがする。平明な文章、子供のような素直な感受性とゆるぎない信仰でつづるドイツ暮らしのエッセイ。素直に読んでいって楽しい本であるのは確かだけど。
生命現象という幻想連合体の内側に閉じ込められているが、外側に厳然としてありつづける存在するものを観想し直感し、死とはその「心の本性」に還元同化されることなのだと正しく認識すること。自然と対峙し瞑想することによってそのような真理を体得することが三万年前から連面と続いてきた原アフリカ人種の思考様式であり生き方であった。この人達は地続きであったアジアからオーストラリアに至り、現代のアボリジニーとなる。この人達は3万年もの間、全く物質的な生活水準を向上させるというような次元とは別の生活感覚で生きてきた。死に近くなった老人は一人で砂漠にこもり、ただ太陽に向かって瞑想する。それは「認識によって死を超える」作業である。この人達の意識がチベット仏教の本質にある死生観と共通し、調査に加わった僧を驚愕させる。
古代チベット周辺のアジアには広くこういった死生観が普遍であり、シャキムニというインド・ヨーロッパ系の知性がこれに出会い論理づけ体系化する。チベット仏教はこの3万年もの間連面として受け継がれ、確認されてきたこうした真実の気の遠くなるような集積である、というのがこのタイトルの意味らしい。
こういった概論の後、ニンマ派の経典「太陽と月の結合」「バルド・トドゥル」に沿って死後人が何を体験していくのかが語られ、こうした「テルマ」(埋蔵経)をいかに発掘してきたか、あるいは輩出する偉大な宗教者が発掘するということはインスパイアされるということに他ならないというような考察がつづく。
NHKテレビで放映されたシナリオが核になっていて、絢爛豪華で極彩色爛漫、参曼荼羅五曼荼羅の横尾忠則ごのみ風の挿画・装丁の派手な本。座位で女と交合しながら目をらんらんと光らせて次々と仏を生み出してゆくクンツサンポの像が印象的である。
別にこのチベット仏教の説く世界観が真実であるかどうかはどうでもいいことだ。こういった感じ方を知ることや感応することで、健康で幸福に生きることというドグマに満ちた「こうでしかない」この世界を切るもうひとつ別のやり方もあるのかという刺激を感じればいい。宗教とはあくまで自分側の認識を作り上げる作業であって、この世の仕組みを自分の認識にあわせて作り直すことではない。その辺わかっているのか、オウム改称アレフの麻原さんは。
ドルイドはヨーロッパの先住民族ケルトの司祭階級ということになっている。史実としては古代ギリシャ人(含ストラボン)やローマ人(含カエサル)が記載している少数の文献に拠るしかない。それも冷徹な史書ではなく、黄金時代神話に影響された「高貴な野蛮人」風の根拠もない憧れ、もしくはカエサルのように自分が服属させた民族の指導者がいかに強力だったかというようなプロパガンダでしかないのである。現代イギリスではドルイドを名乗る怪しげな結社集団があり、夏至の日にストーンヘッジの周りに集まり白いチュニック風のコスチュームで「古来から」の儀式を行っているが、この風習の起源は19世紀に流行した民族詩人(Bards)達の創作にしか過ぎない。
フランスの国民的基礎文化である漫画「アステリクス」の中で魔法のポーションを大なべで煮ている白髭の老賢者が最終的に完成されたドルイドのイメージだ。そーいや、このテの老賢者のイメージはどこにでも散見されるなぁ。例のゾロアスター氏もなんとなくドルイド的イメージである。
これはドルイドについての史実を語る本ではなく、英国特にウェールズ人がどのようにドルイドに対するイメージを育んできたかを語る「ドルイド学」の本である。
訳文は可。訳者は地味な分野の学者なのに、なかなか勇ましいヒトであるらしい。
金庸的武侠小説中比較的規模小也。物語的錯綜無主人公的性格凡庸荒唐無稽娯楽度僅少。著者後書在曰小説的主人公在実在人物勿論此人非武芸者的作者年少時知人的陥冤罪無力作男。著者同情心作為此人創作恰武芸英雄。強言社会正義的措文芸上実現也。著者的文芸思想表明明在此作品。而我欲多娯楽性無欲社会性(^^;
この夏は大企業の不祥事が多かった。雪印乳業の食中毒事件や三菱自動車のリコール隠し等。「食品メーカーとして消費者の健康に気を配り」とか「安全第一」とか企業単位では立派な企業行動指針を表明するのだけれど、実際の生産現場の労働者はそんな大げさな心構えで働いているわけではない。この仕事早くかたずけて帰ってビールでも食らってやろうとか、問題にされると面倒だから適当に個別に修理して黙っておこう、全部回収して修理なんてことすると採算があわない、とにかく営利企業なんだから。というような感覚で働いている人が大部分だと思う方が現実に即していると思える。大企業といえども、私と同じような「ただの人」の集合で構成されているだけなのだ。いかに大きく複雑に見えても結局は個としての形が無限に繰り返されて出来上がっている総体に過ぎず、このイミでは個と、その隣との関係を正しく数式として記述できればどんなに複雑な集合体でも計算で補足できてしまう。係数を変化させれば全体は考えられないような変形をしていく。しかしどんなに複雑に見えても社会全体は個の拡大された相似系として記述できるのだ。これをフラクタル社会学という。←ウソ。
樹木や山肌、海岸線や地形といった自然界にある形をそのまま模倣しようとすると膨大なデータが必要である。複雑に曲がりくねった海岸線を記述しようと思えば、各砂つぶの一つ一つの座標を示さなければならないだろう。しかし数学者は最初の数粒の砂の配置さえ数式化できれば海岸線全体を計算上で示すことができる数理を作成したのだ。
実際にハリウッドの映画会社でコンピュータで山や地形を作成したSF風の画像も転載されている。50年前には数学者の頭の中にしか存在しなかったフラクタル図形は、現在では単純計算を厭きもせず続けられるコンピュータの出現で、簡単に視覚化することができるのだ。フラクタルの計算をさせることがコンピュータで味わえる愉悦の最たるものであろう。残念ながら車内で読むだけでは本書に付録されているBASICのプログラムを動かすわけにはいかない。これから楽しんでやろうと思う。うん。この文章は全く書評にはなってないな、ははは。
「笑う」ことに関する主として医学的な考察と研究。
最初に犬が笑うという記述についての文献の例が挙げてある。しかしこれは人間の側の思い込みであろうと結論する。次に下位のチンパンジーが上位固体に向かって「追従笑い」をするというような記述があり、歯をむき出して威嚇する動作が、害意はないという恭順を示す追従を表すようになって固定したとする。
こういった序の後、多面的な笑いについての分析が続く。表情としての笑いを形作る筋肉の動きや、「快の笑い」「社交上の笑い」「緊張緩和の笑い」等の笑いの心理的分析と笑いの影響の医学的考察が報告される。
主として著者の系列の阪大精神医学系の医師達の論がいちいち「大阪さやま病院のだれそれ」とか「警察病院勤務医のなになに」というように地方色豊かに引用されている。「大阪ミナミのクラブ・サロンでのトイレで観察するところによれば」「これから期待される快の笑い」を浮かべて小用を足している人が多い、というような著者自身の臨床的観察もある。その他「難波グランド花月」での研究や、著者の実験室で「喜劇のビデオ」を鑑賞させての実験なんかが紹介されていく。まあ、別に大阪の大学ではそんなことしか研究することがないのか、とは思わないけど、確かに「笑い」の研究は他のシリアスな医学的研究と比べてどこかのどかで、なんとなく「笑って」しまう。まじめな研究書なんだけど、なんとなくそんな印象ですいすい読んでいってしまって、研究の眼目要点は実はよく覚えてなかったりする。それにしても学生どもを集めて吉本のビデオを見せて、何回わらったとかを勘定して、どういうときに笑ったというような論文を書いて、そのようなことを毎日してらっしゃるんだなと思うと、(くすくす)。
後書きに「・・私の長く深い自慰との付き合いから生まれた一つの副産物・・」という告白がある。自慰の主として社会的意味付けについての歴史上の文献の紹介から始まる。功罪論議よりも先に「自慰がそれとして際だたされたのはキリスト教のおかげだといっていい」。以前は確とした名称すら存在しなかった。著者によれば先ず宗教的罪として弾劾され、道徳的悪(例えばカント)が来、18世紀に生理学的病(ティソー)とされる。その後、エリス、フロイトで社会的で恣意的な意味付けが排除され、個人の心理の問題となり、今世紀のキンゼイが「マスターベーションによって肉体的、精神的に損傷を受けるケースはない」と証言し、マスターズ/ジョンソンがオナニスムも異性性交も全く同じ生理行動であると断言する。最後に著者の専門領域であるらしいジャック・アタリの「自慰型商品秩序」の概念への解説が置かれる。
こういった文献上の整理にかぶせて著者自身の自慰への考察・見解が繰り広げられる。真摯な著述である。20年前のいわば論理を肉体化しようとするような世代の狂おしくも熱っぽい雰囲気もある。今再びこの世代の熱を共有するエネルギーはぼくにはない。←著者の論述は適当に読み流したというイミ(^^;)
しかし今でも依然として自慰を語るに何かしらのタブーはある。自慰をしたことが無いという者2名、当方の傍らで実際に「普通に」自慰をした者2名。未だ一般解には至らず。
「常日頃目にするものを、不気味な様相に変えてみてしまうのだ。・・・すなわち物事すべて忌み嫌われる方向へと解釈してしまうのである。これを死体専門用語では『マカーブルな性向』と称している。」(前書き)という「生きのいい」お姐さんの死体・骸骨趣味の案内。とはいえ後半は一冊子とするのに埋めた本のタイトルとは関係の無い小論数編を含んでいる。その一遍で紹介されているフェルナン・クノップフの画風はなかなかそそられもしたが。後書きで「macabre」の語源諸説が云々されている。著者によればヘンデルのユダス・マカベスという響きも親しい旧約のマカベア書に記されたマカベア一族の死との関わり会いから来ているという。主として西洋美術史の中の一テーマとしてのネクロフォリアの諸作品を紹介する図版多し。文学・歴史ではなく美術の棚からのマカーブルへの誘い。
話し言葉に限りなく近い文体の持ち主が、知りたいと思うテーマの専門家に取材に行き拾ってきた話とそれにまつわるモノローグ。ど素人が科学に期待するのは日常生活の中からは聞けない違う世界の面白い話である。知的好奇心は強い、しかしシチめんどくさい本にはついていけない。そういう著者が学者・専門家から聞いてきた話をおもしろおかしく聞かせていただく。楽だな。こーゆー本は。このところ学者の書く本を何日かかかって読むパターンが多かったので、するすると読めてしまう目にやさしい本。しかし、図書館で借りてくるから、楽でいいけど、自分で買うのならもったいない気がする。せっかく本を買ったのに一日分も読書時間が稼げなかったら何か損した気分になる。うむ。同じページ数でも長持ちする方がありがたくて得だという世知辛い根性があるな。困ったもんだ。
さて、著者の対話者がみんな・・・先生という肩書きで目次に登場するのが素人っぽくていい。東大の先生もいればひよこの雌雄鑑別士の先生もいる。なるほど、「先生」という肩書きは便利だな。
「植物に脳はないのだけど、固体というものはあり、その固体に自我はある。・・地中の木の根も他の存在を察知して、そちらの領分へは伸びていかない。・・たとえば虫にとっての一本の大木は、生活する場所そのもので、猿とか蛇から見ても、山や丘という変わらぬ地形のようなものである。一方その一本の大木にとっての動物たちは、周りで無数に生まれたり死んだりを繰り返している、いわば雨や雪や空気のようなものとしてあるわけである。」というような感慨が植物の感覚システムを探る研究室の見学から出てくる。
後面白かったのは、たとえば「カオスチップ」を組み込んだコンピュータがセールスマン問題でいい成績をあげたとかいう話、だとか。
この人の面白がるものはやっぱり当方も面白い。お互いど素人だもんね。
編者に加え、芥正彦、桑田禮彰との討論とフイリップ・ラクー=ラバルトの2文が収録されている。
3月の読本中の「フランス現代思想」評で『ぼくは現代の哲学・社会政治思潮とは完全に無縁なヒトなんだなあ。ちょっと悲しい。』と書いたが、それはそれで現代フランス論壇のデリダを始めとするビッグネームはちゃっかりと頭に刷り込んで、ドゥルーズやレオタールと聞くともうなんだかよく知っている世界のことのような気がする、わけはないが。しかし、ハイデガーと聞くとこれは別格。高校生になって本を読むということを覚え、哲学というモノがこの世にあり、それは最高に知的で抽象的な学問の極北である、というイメージが高揚感と憧を伴って高校生の当時は純白の頭に胚胎する。そしてそこに厳然と現代哲学の最高峰として刷り込まれていたのはサルトル・ハイデガーという名だったのだ。うむ、なんてたってハイデガーだもんな。
「嘔吐」は読んだが「存在と無」は読んだことがない。多分死ぬまで読むことはないだろう、と別に威張ることではないが。
「1987-88年に起きたフランス思想界での事件、それがハイデガー事件(問題)と呼ばれたことはだれもがしっている。」とはしがき冒頭にある。
うむ、そうだったのか。知らなかった(^^;
10年ほど前に笠井潔「哲学者の密室」を読んだ。ハイデガーの哲学・言動とナチスが巧妙に小説の横糸になっていて見事な物語だった。後でこの作者が当方と同世代で、パリ留学組だと知る。全共闘世代といういいかたがある。フランス語ではソワサントウイッテーヌ(68年世代)というのもある。
編者の浅利は当方と同年、早稲田の大学院からフランスに渡り、パリ東洋語学校の日本語講師の職を得、ダリダに師事し、ラクー=ラバルトの「政治という虚構」を翻訳する。フランス人の女房付きである。
少し年長の芥は、あのとき東大全共闘で、封鎖東大内の公開討論で三島由紀夫を呼んだ本人である。芥の発言のリズムが妙になつかしい。「だから、もしまだ今日、劇場がアコースティックな力や光、あるいは闇というものを所有しているとすれば、メディアが隠蔽したものや、肉体に対し、絶えず無を暴くように、劇場はそれらを気遣いする場、というか、闇を定位して、そこにもうひとつの眼と声を発生させなければならない。」うん。これだったなぁ。観念と言葉が生のまま飛び交って、それがそのまま日常になっていた稀有な時空があった。めくらましい観念達の熱っぽい祝祭。あの時は観念が世界を変える寸前までいっていたのだ、少なくともバリケードの中では。
しかし、ぼくは彼らと同じ世代だけど、違う世界にいた。やはり思索というものに畏怖を抱き、ひそかに彼らに憧れていた。同時にある種のひねくれた批判も常に持っていた。しかし結局、あんた達は大学生だからそのように行動する場があり、そのように熱っぽく思想を語る仲間がいる。ぼくはそのような青春の発端からして真に孤独だった。
その後10年余りの時が経過し、ベトナム戦争が終結し、政治と革命の季節が完全に終わった。ぼくは10年に亘るサラリーマン生活に嫌気がさし、職を辞めてフランス・ストラスブールで偽学生生活に入る。別にアナル派を慕っていったわけではないし、もちろんラクー=ラバルトがストラスブール大学で教えていると知っていたわけでもない。ただ、日本人が少ない所らしいというだけの理由である。
そこでもう一度同じ世代の日本人学生上がり大学周辺生活者達とのゆるやかな邂逅がある。語学学校で同級になった一橋社会学系A氏(予備校英語教師退職)と親しくなり、彼のアパートに行ってよく一緒に勉強した。別に彼と社会思想上の話をした覚えはない。しかし、彼にとってのストラスブール在住は当方とは違う意味があったはずだ。でも彼は全共闘世代の少し下、「日本では皆が8時間労働している。ぼくも一日8時間は勉強する。」と語る文字通り真面目な学徒である。
彼と一緒にフライブルグに行った。もちろんハイデガーが学長をしたあのフライブルグ大学を見に行ったのだ。ちなみにフライブルグは、「ライン川を挟んでストラスブールと斜めに向き合った位置にある。」(ラクー=ラバルト「国民社会主義の精神とその運命」浅利訳注釈1)三木清がここでハイデガーに師事している。もちろん当方も三木清の名くらいは知っている。読んだのは岩波新書「論文の書き方」くらいだろうけど(^^; A氏と当方はその辺の事情の会話を交わしつつ大学構内を歩いていた。ふと後ろから老婦人が「日本人か?」と尋ね、そのまま3人で立ち話をする。独語ではなかったはずだ。仏語と英語混用だったろう。国際情勢、米国批判のような内容だった気がする。多分大学関係者だろうと思う。後でA氏はごく日常的に外国人と国際情勢を議論する、まあ、当然のことだけど、英独仏語いずれでも自己表現ができる、そういう老婦人が、ふと後にあたりまえのように歩いているというヨーロッパの大学というものに感動している。実にさわやかに素直な人である。
ストラスブール大学で日本語講座が新しく開設されるのに伴い、日本人講師を採用するという話があり、担当のMm.Tamba教授に面談にいったことがある。Mm.Tambaは仏文学の先生でフランス人だけど、旦那が作曲家の丹波朗氏であることから日本語講座の開設担当になっているようだった。後に当方の連れ合いになる女性が修士論文を彼女に指導してもらっている関係上、前者にそそのかされて一応就職希望を表明しにいった。もちろんぼくには大卒資格はないので単なる冷やかしである。その時B氏も日本人講師の口を志願していると聞いた。
B氏は京大哲学系の学徒で当方よりひとつ上、関西なまりが抜けない人だった。A氏はB氏に私淑し親しく交流していたようである。あるときA氏がB氏を評して「あの人は全共闘活動家としての自己批判から当地に引きこもり、何かよくわからないけど総括しようとしているらしい」とある種の感激をこめて語るのを聞く。そのときもぼくは何かしらの違和感を覚えたのだ。挫折した革命家であったとしても、徹底的な自己批判をするにしても、とにかく大学という場内での話であればなんとでもなるんだなぁ。予備校講師でも日本語講座講師でもなんとでもしながらずっと大学周辺で棲息していけるものなんだ、とにかく大卒切符=知識人証明書さえあれば。
その後B氏が首尾よく日本語講師に就任したかどうかは知らない。当方は下級労働者としてバブル期直前の日本経済にいやいやながら復帰を果たし、永遠に大学知識人的世界とは無縁な日常に埋没して現在にいたっているのだから。
ハイデガー問題というのは知識人の生き方の問題である。ヒトラーの殲滅の思想はナチス共同体の存在を証す神話を作り出す作業で、ヘレニズム・クリスチャニスムの後に最後にやってきたヨーロッパの必然の帰結であった。ヘルダーリン・ヘーゲル・ニーチェ・ハイデガーとヨーロッパはゲルマンの森の暗闇から強健な論理でもって新しい秩序の体系化を目論み、そして激しく自壊した。世界的哲学者ハイデガーはナチス政権によってフライブルグ大学学長(1934-35)に推され就任する。一時はナチスの思想的指導者であったハイデガーは戦後その間の事情を一切語らず弁明もしなかった。
戦後フランスにおいても転向問題はある。非占領国であったと同時に傀儡政権がありcollaboがいる。ある意味ではドイツよりももっと陰湿で複雑な形の転向問題がある。68年の全世界を巻き込んだ学生の革命闘争は先ずストラスブール大学で発生し、ついでパリ・カルチェラタンに飛び火する。一年後に東大安田講堂が占拠され、東京神田お茶の水通りが神田解放区と呼ばれる。その明治大学学生会館3階に勝手に入り込んでたった一週間だけぼくとこの若き知識人達の白昼夢的イベントが交差する。
フランスでは絶えず知識人が自分の問題としてヨーロッパの歴史を検証し、ユダヤ人強制収容所がヨーロッパの必然であったのかを考えている。ハイデガーをどう捉えるかが何度も提起され議論されている。議論が途切れることがないこと自体が知識人の健全さを示している。
では日本はどうなのか?
というのが編者達の問題意識である。その流れでこの本の主要部分は4人の論者による議論の記録である。前述したように、まさに全共闘時代の熱っぽいアクセントが未だに飛びはねる芥正彦がとてもついていけない首猛夫風カリスマ的トリックスターになって議論をかき回す。楽しいが中身はよくわからん。西田幾多郎・絶対矛盾的自己同一、お、懐かしい。日本主義を言うとき必ず出てくる本居宣長、丸山真男・京都学派批判、「近代の超克」論議等々という日本の思想的イベントと独仏のカレントを対照しつつ挙げられていく。それで結局結論はどうなん?とつい安直に答えを出してもらおうと思ってしまうのは悪いクセ。しかし、一番若い萩野文隆の論点はくっきりと明瞭である。また萩野は独立して「他者なき思想」という論を載せ、これがこの本の総タイトルにもなっている。
萩野は言う。鎖国、独立した藩制度、完全まるごと密封的身分制度が完成し、機能した250年に何が起きたか。それは完全な他者の不在であるという。外国は見えず、他のローカル藩も見えず、他の身分社会も見えない。自分が今いる場所での自己完結的生存様式の中で「他者」は消える。そして「他者」が不在ということは「自己」が認識されることががないということなのだ。そして、少しでも「他者」の気配があると見えなくしてしまうようなメカニズムが働く。村八分であり、日本の殖民地支配政策(異民族性の隠蔽)であり、大政翼賛会的ジャーナリスムの限界である。うむ。圧倒的に納得してしまうなぁ。そうか、その辺が日本collectivismの原点だったのか。この線で署名記事のないマスメディアとか、ミドリ十字(石井部隊の残党)による非加熱血液製剤エイズ感染事件報道の扱いといった現代の知識人の姿勢が浮かび上がる。日本国憲法がpeopleを指すのに「人民」ではなく「国民」を訳語としたことで、日本国籍を持ったものの権利と規定し、人権(=人間であることという条件だけで得なければならない権利)を否定した。これがまさに他者の排除・否認の論理だとする。他者が存在しないところに自己はない。他者を隠蔽する国家的装置が日本である。というような議論がハイデガー問題をとおして抽出され、フランス知識人の系譜という指標を参照しながら展開されていく。
フランス革命が百科全書派等の知識啓蒙によって準備されたのは定説である。しかし日本で本当に知識自体が社会そのものに変革を働きかけたことがあったのか?
あの時、確かに社会はバリケードの中の革命思想でもって変革されるかに見えた。狂熱の時が過ぎるとバリケードの中のエネルギーは浅間山荘・連合赤軍へと変形していく。そしてあの時既成の体制変革を叫んだ学生達はやはり今大学で教え、フランスで日本語を教えているのである。つまりは結局大学という中だけでの話なのだ。社会が大学を変革することがあっても大学が社会を変革したことはない。君たちのいう革命は知識人切符を持ち大学周辺で繋がっていれば食うには困らない仲間内での革命ごっこに過ぎなかったのか。結局実際の革命が起きてしまえば自分達が無用な階級として真っ先に抹殺されると計算してたということではないか。生きるために使用する知だけがあって、知の為に生きることは一度としてなかったのではないか。というような恨みつらみがぼく個人の内側には抜きがたくあることが判る。あれか30年を経て未だにあのことの「総括」がきちっと提出されるのを目撃したことがない。未だに日本文学は連合赤軍事件を、例えばドストエフスキー「悪霊」のような形ででも、扱ってはいない。本当に君たちは血のしたたるような「知」を生きたのか?
高校時代、先輩C氏と受験戦争と呼ばれていた当時の体制批判論をたたかわせ意気投合していたのだ。ぼくは密かに自分の「思想」への忠誠心があり大学に行かず、C氏は変革するにも大学は必要だと大阪市大マル経系に行く。一年後ぼく達は町でぱったりであう。ぼくは母校であった卒業式粉砕派事件を語ろうとするが、C氏は「これからベトナム反戦デモに行くんだよ。じゃあね。」といってさっそうとセクト旗を担ぎながら去っていくのである。
・・・うむ。ハイデガー問題をめぐる編者達の議論は未処理のまま放ってある当方の呪わしい過去の感覚を引きずり出してくる。困ったよ。
若いドイツ人写真家マリオ・アンプロスィウスが、何れも物故した文壇・画壇・樂界のビッグネームの自宅に出かけ、写真を撮りその語る内容と組み合わせて纏めた本。まあ、武満、あるいは猪熊は海外での評価が高いので異国の若い写真家がインタビューするというのも判らんでもない。でも埴谷雄高が翻訳されているとは思えないし、日本文学を代表するというにはあまりに異端である。ま、しかし埴谷の語りがあったということで読み出したのは事実。
で、当方は永年に渡る読者であるが、この本の埴谷雄高のモノローグは異色だった。確かに特異で独自の境地を開いた作家である。対談もかなりの分量が出版されている。ここで若い異国のカメラマン相手に怪気炎をあげている老人の強烈な自負に圧倒される。自分は死んでも誰かに乗り移って「死霊」は書きつづける、と以前言ってたが、本当にそのくらいのことはやってのけそうだ。夢(可能性)を書くことは誰でもできる。自分は誰もしたことが無い「不可能性」を書く(唯一の)作家である。うむ。まあ、いいだろう。当方の若い頭に強烈な爆弾を仕掛けた「死霊」をとうとう完成することなく逝ってしまった埴谷氏が、死ぬ間際までかくしゃくと自己の文学的妄想を語り続けたことを知って流石の念がある。やはり、この人は黒川健吉ではなくて首猛夫だったのだ。
後、猪熊・武満はそれなりの、ま、埴谷と比べれば「良識」のある話ぶりで、それなりの読み物になっていて面白かった。うむ、おかしな表現だなぁ。とにかく埴谷の怪気炎ほどは破格ではない。特に武満のストラビンスキーやメシアン、ストックハウゼンなんかとの交流の裏話は楽しい。樂壇に限らず瀧口修造を始め大江、大岡、谷川達との交遊は広く聞こえている。独学、独自の孤高の風貌とはうらはらに、現在日本のもっとも華やかで豊かな作曲家としての経験を積み、評価され自分の職業を全うした人だったんだなと思った。
さて、その写真である。自宅のピアノの上部を覆い尽くすように置いてある大きなオーケストラスコアに物静かに譜を書き込んでいる武満の像が秀逸である。モノクロ写真の静かな構図はピアノの落ち着いた黒光りする物質感と楽譜を照らす光がさえ、いかにも風・完璧な芸術家写真になっている。猪熊のアトリエも小品や絵の具やオブジェ共が散乱していて楽しいが、モノクロームの押し迫る力はない。実をいうと20歳の当方が訪れたこともある吉祥寺の般若家の和室で寝転がったりしている着流しの埴谷雄高写真は、確かに容貌にどこか凛としたものがあるものの、ただのおじいちゃんのスナップだった。
田舎の小学校にやってきた新任藤田先生が担任の生徒に時折魔術を披露し、自分の教育理念を実践していくという、なかなか得がたい牧歌的で素直な筆致の小説だった。この作品は第6回鮎川哲也賞佳作ということである。つまり推理小説という分野での作品で、メインは藤田先生が見せる魔術のトリックの解明なんだけど、それ自体はごくつまらないネタである。現代では失われた昔の田舎の小学校の先生と生徒達との心の交流絵を描いたユーピア小説として読んで結構楽しかった。逆にいうと純文学として書かれたのならばこういう無責任にもお気楽な情景は書くことができないのかもしれない。文章自体も少し退屈だし。著者は高校教師。理想の教師-生徒関係を小説に書くことは著者自身の楽しみでもあったに違いない。
どういうのか、本人は別に保守主義者を表明している訳ではない。
休刊になった朝日ジャーナルへの思い(「鎮魂『朝日ジャーナル』−「心情左翼」を思う」)がこの人の軌跡を示している。そうだったなぁ。「朝日ジャーナル」を読むことは当時シンボリックな意味があった。実際には「プレイボーイ」を買った方が多かったけれど。当方より5歳年長の著者は当然ながらジャーナルの定期購読者だった。しかし、自由・良識・反権力というような図式しか感じられない佐世保闘争のレポート(1968)等に違和感を感じ、時々買って読むという風になり、距離を置いていく。著者の距離と比例するように次第に朝日ジャーナルは読者を失っていく。
羽丹五郎を筆頭とするいわゆる左翼知識人への硬直した教条主義への批判がある。ほぼ同じ見方を「永久革命者の悲哀」の線の埴谷雄高に見、その90年代のソビエト崩壊時のコメントを同情をもって紹介している。
60年安保の樺美智子への扱いを克明に追ったレポートが面白かった(「60年安保の「聖家族」)。樺美智子を反権力闘争のシンボルにしてしまった人々がい、そういった喧騒の表面に出ることなくただ墓を守っている美智子の兄のような人もいる。保坂が見るのは上っ面の言葉・実体のないシンボルを操ろうとする指導者達への嫌悪である。
巻頭の論「言わねばならぬこと、論ぜねばならぬこと」は明治以降の政治家の演説を分析分析し、主として言葉の面から主張や信条を解析する労作である。日本の政治家の演説が次第に空疎な言葉で埋められていき、やがて論理性の無い戦争肯定演説に行き着く論旨は見事である。そして今もこの空疎な政治演説が巷にはびこっているのは日ごろ実感するところだ。美辞麗句と紋きり型表現に満ちた実態の無い政治家の演説にいつしかぼく達は慣れきってしまい、他者に向かって語りかける言葉とはそのようなものだという認識が日常対話にまで及んでしまっている。今も「鳥取西部地震被災者に皆様の暖かいご支援を賜りますよう」とジャスコ前でがなりたてている公明党の拡声器の声が無遠慮に侵入してくる。
こういった保坂の、皮相な指導者達の言動への嫌悪は共感できる。しかし中には理解不能な論もある。「同じ戦場で同じ場所に立っていたAとBがわずか50センチはなれていただけで、生死をわけたとき、死んだBが不運でAが幸運であったというのは生者の論理でしか物事を判断できない非善人の陥りやすい罠である。BはまぎれもなくAの犠牲になったのであり、Aに代表される生者の身代わりになったのだ」というような。
保坂の立場は保守中道良識派とでもいうか。勇ましい右派左派が大向こうの耳目を惹くのは当然だが、中道あるいは良識ある保守という立場はなかなかポジションを明確に表明しにくい感じがする。すなわち、左右、是非しか存在しない政治という論理に違和感を持つのであれば政治そのものに連なろうとは思わないというものである。できる事なら見たくは無い。しかし、政治は向うから拡声器付で侵入してくる。いつかは「やめてくれ!」と言わねばならないのかもしれない。
日本でも陪審員制度が検討され始めたが、この小説を読むと到底日本の現状に合わないという気がする。あくまで陪審員制度は社会正義や公正というということが基本的な合意事項と了解されている市民社会で機能するものである。ぼくの属しているローカルはそうではない。金さえくれれば自分の意見を変えるのは当然じゃないか。もともと、大勢に従うという以外の個人的信念が存在しない社会なんだから。しかし、それではアメリカの市民社会が健全である、というわけでもない。だからこういう知的悪漢小説のリアリティが面白い。一応法による正義の理念や信仰は社会を成り立たせる紳士淑女協定ではあるが、個々の人々のミクロコスモスはもっと多様である。
もう一つ、タバコ産業への懲罰裁判の内情はいかにもタイムリーだ。すでに著者は法曹小説におけるベストセラー作家なんだから、このようなキワモノ的テーマを扱う冒険をしなくてもいいはずだ。しかし、このテーマに踏み込んでいくのは、やはり基本的社会正義という理念があるからか。そして、このような小説がベストセラーになり、別にタバコ産業からの圧力もかかっていない(あとがき)ということの全体が、アメリカの強さではないか。
過去のグレシャムの作品とは違い、主人公の素状が明らかになる過程も重要なプロットである都合上、前半では読者が全面的に主人公を特定しそれに肩入れできないというもどかしさがある。ひよっとして敵役のタバコ産業に雇われる非情な裏仕事の執行者が主人公ではないかという気もする。まあ、最後には例によって胸のすくような逆転があり、めでたく主人公が読者の喝采をあびる仕掛けになっているので安心して本を閉じられるのだが。しかし、うまい。最後の数十ページを読まないで寝ることは不可能だ。「あなたの健康を害するおそれがありますので読みすぎには注意しましょう」
すっかり「不思議な町」シリーズの読者になってしまった。著者の方もこの辺りまでくると不思議レポーター風の取材を挙行し、ナント・ストラスブール辺りの都会もあるものの、田舎のちょっと普通の日本人ならいきそうにもない小さな町までくりだしていく。
しかしまあ、ルルドなら観光団が行くかもしれんなぁ。そーいやぁ、Hところのカトリック系ルルド探検隊はもう出発したのかなぁ。今回はグルノーブル、(ブザンソン)、ストラスブールの東辺フランス紀行もあり、特に当方が半年暮らしたグルノーブルの記述は懐かしく、もうほとんど覚えていないスタンダール博物館周辺の遠い光景が記憶のそこからちらちらと発光する。
それにしても、と、まがりなりにもフランスで暮らしたこともある当方が思うのだけど、知らない町がたくさんあるな。そして今ではフランスの中の単なる町でございと口裏を合わせているが、その実はそれぞれの町は過去とだけその歴史と風土を連ならせていて、フランスというものに横並びしているのではないということが際立ってくる。
なるほどパリはインターナショナルな都会である。しかしその国際性はそういった個性豊かな地方都市に支えられているからその間口の広さを保証されているとも思える。パリは世界中の亡命活動家・芸術家を受け入れたが、その前に排他独立的に存在する地方の町からの移住者をすでに受け入れているのだ。上京すると自分の地方性を消さねばならないような東京のような都会はインターナショナルな存在には絶対になれない。
そういう文化の豊穣さを楽しんで見て取ってくることを著者は「不思議」と呼ぶ。
未知のものを求める旅の楽しさは持続している。しかし、観光案内風とまではいわないけど、なんだかシリーズ化してたいへん読みやすい文章が多くなっような。
スタンダード仏和の編者の一人。東京青山の骨董屋に生まれ、東大仏文で渡辺一雄に師事し、30年間仏文の教師として立教大学に勤める。この間3回の研究休暇でパリに滞在。というようなフランス語教師の見聞を退職後に纏めた奇をてらわない素直なスタイルのエッセイ集。
例えばおよそ権威主義的ではないこのような述懐がある。「こちらはそれ(=フランス語)を教えているとはいっても、日本人相手に、それも日本語を用いて教授するから教師がつとまるだけのことにすぎない。フランス語を使ってフランス人の間で生活するとなれば、勝手が違って戸惑うのは当然だろう。・・・この程度の単語は知っているはずだとか、・・・そんな焦りにせかされて、ますます言葉につまってしまう。」そこまで正直に書いていいの?というくらいの率直さ。なんだ、仏文の教授でもそうなのかぁ、と読んでいて妙に安心してしまったりする。
そうなんだよなぁ。有形無形の圧力を妙に意識すると、とたんにだめになるタイプですよね。「がんばれ!」といわれるともうあがってしまって自分がコントロールできなくなるし、そのことで一人でずーっと落ち込んだりする。金輪際スポーツ選手とか演奏家にはなれないタイプ。何にも言わずにほっといて欲しい、一人で本を読んでるのがいちばんですよね、と勝手に自分の性格に同一としてしまいそう。(^^;
例えば電話での会話が苦手であると告白し、それは別にフランス語に限ったことではなく、子供の頃母親からの電話で喋ることが出来なくて泣いてしまったというような回想に行き着く。他にも旅行にいった京都で父とはぐれ、向こうからやってくる父を認めた瞬間泣いてしまった、というようなエッセイもある。要するに病弱で繊細な子供だったんだろう。サラリーマンにも商売人にも芸術家にもスポース選手にもなれないだろうなぁ。結局フランス文学でもやって大学教授くらいになるしかない。おっと、失礼。
きらびやかな文体ではないし、筆が立つ風の軽やかさもない。この道30年風地道実直な文章というか。本当はかなりエライ先生なんだけど、そんな風にはとても見えない素直で実直な文章。子供の頃の回想が多いのも、生涯を通じて紆余曲折がなく、幼児の頃の感受性がそのままずーっと消えずに温存されているからか。ああ、実を言えば当方もできたらこの人のように、淡々と生きてきたかったよ。
うむ。この書評も個人的述懐に偏しすぎてるなぁ。最近、またおちこんでるからなぁ。とほほ。
コンピュータ時代の基礎を築いたノイマン、ウィナー、チューリング達を独自の視点から記述したエッセイ風情報理論、というか何と言うか。伝記とすれば恣意的にすぎ、文学的エッセイとすれば文体が陳腐である。哲学・社会学・情報工学系の論としても中途半端なしろものだ。各項目はかなり凝った文章の立て方をしているが、全体はかなり陳腐な印象を受ける。「なのだ」「である」調の文体が性急で落ち着きのない印象を与える。
この論の骨子は、コンピュータは完全抽象形式もしくは単純理論の普遍的実行者ではない。むしろ人間的欲望と無機的論理機械を仲介する位置にある。人間の欲望が反対の性に向くというなら、コンピュータは欲望の仲介者として先ず存在し、次第に欲望の対象そのものともなりうる。この意味でコンピュータは第三の性である。ナルシスは自分に欲望した訳ではなく、水面に写る自分の背後にある他者の目を意識していたのだ。そして今コンピュータが水面に写る自分の姿の役割を果たしている。
少し違うけど、そんな社会・心理学的イメージを文学的な表現で書き進んでいった論。10年前の発表当時のパソコン創世記の社会的文脈においてみると、当時の熱気は十分察することができる。十分想像力を刺激する論であると思うけど、どこかしら陳腐な印象がある。ひょっとすると、当方のパソコンに対する熱が冷めてしまったからかもしれない。
しかしマイクロソフト製品はもう自費で買う気もないが、フリーで流通しているPerlのようなインタープリタには十分欲情してるんだけど。
カバーの裏の見返しに「著者近影パリにて」という写真があって、なんとなくパリによくいる定職なしの遊民を彷彿とさせる人物が写っている。この人のオナニスムに関する著作を少し前に読んだ。なかなか真摯な研究者でアカデミズムとは無縁なディレッタント風の印象を持つ。
17世紀パリ市が大発展を遂げる前夜のベネチア市とのベネチアガラス製作上の競合を縦線に、ルネ・デカルト「方法序説」中の完全機械への言及を少しばかり脚色したミステリーを配した構成。ちなみに本の帯文句では「大型新人の面白くてスリリングな歴史ミステリー」となっている。
うむ。確かにいわくありげな17世紀のパリ市王立板ガラス製作所の銅版画があしらってあったり、ベルサイユの鏡の間、鏡の魔、ベネチアングラス製法の秘伝、自動人形への編愛云々というような材料、コルベールやルイ14世も登場する時代背景は揃っている。しかし、期待するほどのおどろおどろしい粘着力はない。文体、特に会話の調子が軽すぎる。政治的トリックスターであるベネチア大使と初代パリ市警視総監になるラ・レイニとのデカルトを巡る会話なんかにも上面で軽薄な議論の印象しかない。物語のキーになるらしいデカルトの話もとってつけたような印象が残る。要するに材料だけがあっても発酵作業がなければ芳醇な物語は醸造できないということだ。当方と同い年のこの人には酷かもしれないけど、「新人」として後20年は本格的な作家の語り口を会得するのに必要と思われる。
この小説家のCDコレクション中、名曲の各演奏家バージョンによる聴き比べの企画。
中学生の頃の将来の職業の第一選択肢が音楽家であったこと等が回想風に文章に入り込んでいたりして、かなり年季の入ったクラシック音楽ファンであるようだ。考えてみれば小説家というものは仕事中にも絶えず音楽を聴くことができる職業であるに違いなく、もう30年もこの演奏を聞いているとかいうような記述もある。
宮城谷の小説家としての文体は現代離れした古雅の気というようなものがあるが、各演奏の感受力というか、指揮者の意図の受容力が鋭敏なことがくっきりと文章に表れていて、文学や音楽に対する才の豊かさをうかがわせる。音楽の中でもいわゆるロマン派傾向への好みが強く、バッハやモーツアルトへの言及はないこともこの作家の気風であろう。
音楽・演奏についてのことどもを文章で表現することの無粋を恥じるというエクスキューズもあったりするのだけど、好きな演奏、だめな演奏をずばりと指摘する文章は爽快である。「素人」としての気楽さといってしまえばみもフタもないが。
中央大学出身の生きのいい同大助教授1950年産。なかなか「構造的」な本で、最初の章に「旅のスケジュール」と題するシラバスがあって、要領よく現代言語学の流れの見所を案内している。ジュネーブ(ソシュール)→プラーグ、コペンハーゲン(音韻論)→アメリカ(米初期構造主義)→パリ(構造主義)→アメリカ(生成変形文法)その後、というような行程である。ふむ。なるほど。いままでバラバラだったプラハ学派や現代フランス思想界のビッグネームなんかの言語学史的な系譜が多少解った。という気になる。
以降その旅程に従がって現代言語学の中心テーマをみていくが、なかなか面白い語り口で参加者をあきささない。「学士とアザラシ」というような項タイトルを立て目を引いておいて、単語 bachelor の多義性の図式へと導くような語り口は、こういう新書の素人読者を連れて行くのにふさわしいスタイルだ。この辺は朝日カルチャーセンターのど素人、あるいは中央大理工学部の門外漢相手に鍛えたワザかもしれぬ。
フランス系のデリダ・アルチュセール・バルト・リクール・フーコーといったスター達の業績が「言語と思考」というような場からの位置付けで説明整理しているのが簡明安直で良い。なかなかどれもちゃんと読んでる風である。(^^;
語り口と次々登場するビッグネームに目を惹かれてついて行くが、とても各派の論を頭に染み込ませるには至らない。それに、本当は現代言語学概論をうろ覚えたとしても使うところもない。何か一冊の原典をちゃんと読まないことにゃぁなぁ。
妻の岳父の引きで大企業の社長になった中年男と野心満々の大統領候補の妻がパリで出会い、お互いの虚飾に満ちた生き方を捨て二人の愛に生きる感動の一遍。パリ・ヴァンドーム広場のホテルリッツに宿泊する金持ち社会の雰囲気が味わえ、非情なビジネスと政治社会のトップの件策謀術数に憤慨し、道ならぬ恋のかきたてる情熱に身を焦がしたり風の下々生活者には本でしか読めない世界にあこがれた後、とどのつまりは上流社会の虚飾に満ちた生活を愛のために捨てるという結末で、貧乏人を最後には安心させてくれる無害明朗な物語。まあ、そういう目で見ると駅売店で買って車内で消費するにはもってこいの内容かな、という気はする。うむ。そういやぁ、最近大阪で一番高いリッツ・カールトンに泊まったなぁと関係ないけどここに記しておく。ホテルのプールで泳いできたぞ。一泊5万円だったなぁ。ざまーみろ(^^;
とにかくこれは大好評の超訳(アカデミー出版の登録商標)モノなのである。どういうところが超訳か、といえば「どんなに一緒にいたくとも、別れなければならない二人であった」というような気恥ずかしい日本語になっているところであるらしい。発表される作品がすべて「ベストセラーの第一位にランクされる」ダニエルスティール「さん」の作品。ベストセラーというのは売れ行きが第一位のもののことのような気がするが。ついでに裏の広告の「ベストセラー中」というのもヘンな日本語だね。
故あって群馬・「舞橋」の土地のやくざに追われているタイの美女をつれて逃亡する、あの手この手の小気味のよいハリウッド映画風の追いかけのサスペンスがなかなかうまい。いろいろやってみるがなかなか舞橋市から出られないというところにふとカフカの城を思い出したりする。そして、クライマックスは、あの東映ヤクザ映画でおなじみの組事務所に一人敢然と殴りこむ主人公の怒る男の復讐場面になる。いやー、快調で結構面白かったね。ただ、タイの美女のセリフがあまりに陳腐なのと時々体言止で文が終わるのが気になった。
この人の文章には耳慣れない漢語風の言い回しが混じり、もちろん中国古典の雰囲気を醸し出す効果もあるが、文章の流れの意識的な中断を引き起こし、それがいってみれば歌舞伎の役者が見栄を切る時のようなメリハリになる。流麗だけでは眠ってしまう聴衆を覚醒させておく話芸の絶妙な呼吸といっておこう。一口に中国古典風といってしまうが太公望が活躍したのは紀元前11世紀であり、実をいえばまだ漢字による豊穣な中国文が成立した時代よりもずっと昔のことである。甲骨文字が呪術用具として用いられていた程度である。人類はまだ文字による思考を始めてはいなかった。作中でも文字を知るという人間の行為の特権性が扱われていたりする。それにしても宮城谷の描く太公望は、その超人的武術は創作としても、ずば抜けた合理的知性の持ち主として描かれ、とうていその時代の精神ではありえない。文字を獲得してからの中国の永く豊穣な文学思想伝承の歴史が史実を伝説とし、伝説がまぎれもない史実となっていく。事実はアプリオリに存在するのではなく、言語によって確認、補足されさらに創造されていくものである。太公望というのはそういう現象の謂いであろう。
著者のヨーロッパ通史全4巻の2。この2巻だけでも500ページを超える驚くべき分量である。トインビーの例でもあるようにイギリス人の史学部教授というのはこのような膨大な通史を書く習慣があるんだろうか。
書棚に並べば退屈そうなそっけない装丁とは裏腹に、この膨大な文章は当方のような素人が通読するのに足る適度なくすぐりと卑属にならないユーモアに満ちた語り口を持っている。まあ、別宮氏の訳文のおかげでもあるといっておこう。当初は訳者のあら捜しをするような目もあったのだけど、最後には著者の語り口に乗ってどんどん読み進んでしまう。訳者が見えなくなって初めて翻訳は完成する。まあ、一箇所だけちょっとあぶないかなというのを引用しておく:「ゲーテのエッセー「ドイツ建築について」(Von deutcher Baukunst)は、ストラスブール大聖堂の由来とその建築者エルヴィーン・フォン・シュタインバッハを神秘めかしていて、多くの論文を触発することになった。」
個人通史の特色を生かし、掲載されている表は特に中世にこだわることなく現代まで視点に入っていて何れも興味深い。グランド・オペラのスタンダード・レパートリーと題する表はモンテヴェルディの「オルフェオ」(1607)からペンレッキ「ルーダンの悪魔」(1969)までが引かれている。通時的な本文の記述と切り離して枠罫囲みでカプセル注なるものがあり、これがほとんど歴史こぼれ話的逸話に満ちていて楽しい。シャルマーニュが賞味したブリー高原のチーズを作っているモー修道院の院長が革命テロの最中にイギリスに逃れ途中のノルマンディ地方の村でとどまりチーズ製法の知識を伝授した。この村がカマンベールだった。というようなノリである。また中世の市庁舎で演奏された正午のファンファーレの楽譜なんかも掲載されている。また、当時の勢力地図類も豊富。こういった傍系資料がホイジンガ風のほの暗い中世を照明していく。また、本文は通時的記述ではあるが、いわゆるヨーロッパの西側の視点に固定するのを極力避け、東や北からの視点からの記述も仔細である。例えば中世のある時期ではリトアニア・ポーランド王国がヨーロッパ最大の版図を誇っていたなんてことは今までしらなかったのだ。
旧来のショービジニスム的歴史記述に関する批判は明示的に本文中に示されている。「コロンブスのアメリカ発見」は発見ではなく二つの世界の遭遇というべきであり、コロンブスという人物自体の評価も低下している。それ以前にアメリカに到達したヨーロッパ大陸人の例も多い。
ドイツが音楽に優れている理由はルターが彼自身優れた詩人・音楽家で、プロテスタントの典礼中に音楽を多用し、ドイツ語による宗教教育を強力に推し進めたことだ。これがバッハからブラームスに至るドイツ音楽の系譜を生む。
時計の発明は中世期以降のことであり、それまでは現代風の明確な時の観点は無かった。というような興味深い記事が満載の価値ある500ページ。手元に置いときたいが、でも4巻そろえるとしたら2万円になるなぁ。うーむ。
町のレストランでウエイトレスに「お決まりでしょうか?」と尋ねられて、「お決めでしょうか?」ではないか、と憤慨するリエさんに文法先生が、モノが主語だとすると「決まる」人が主語なら「決める」であるが、表現というものはいったん生まれてしまうと違和感がなくなっていくものであるからして、というような解説を加える。「パンかライスか?」で憤慨するのではなく、どうもお皿に持って出てくるものは「ごはん」ではなく「ライス」と呼ぶようだというような分析はなかなか中庸な独特の角度の付け方である。別に正しい日本語をつかいましょうといってるのではなく、こんな言い方もするんだというデーターを収集していくと面白いということらしい。面白く読んでいったが、途中でネタが切れ、やはり大学関係者であるらしい著者2名の著作・論文の抜粋を材料にする我田引水風になっていって後半はたいしたこともなく終わってしまった。
にほんごもそうかもしれない。論理的におかしいといっても現にそれで通用しているという現状を受け入れる勇気が必要だ。しかしこういうのを勇気といいたくはないけれど。
理不尽な揉め事に巻き込まれ、世と関わりあう苦しみの中タイトルが目に飛び込む。悪意でしか接してくれない見知らぬ人々の世界に身動きもならず織り込まれてしまっているこの生をどう理解良いのか。不条理である。納得することができない。例え苦しみは解消することがないとしても理解し、納得することさえできれば自分の生自体は許容することはできる。自分の非を悔い、潔く死刑を受容していく悪人のように晴れやかに死にたい。悪意に満ちた冤罪で納得のゆかない死を押し付けられるようなどうしようもない救いがたい不条理がこの世には在る。
小阪は「倫理的性癖の強い」哲学の教授である。倫理とは「応報主義」の謂いであり、本来的にアンバランスなものである「個」から成り立つ社会を「普遍」として抽象化し秩序あるいは社会正義を実現しようとするメカニズムである。しかし、その倫理の抽象論からは明らかに救いようの無い事例に遭遇することで私達の日常が成り立っている。
小阪は先ずヨブの受難に論究する。神を見ることでヨブ自体の受難は解消した訳ではない。神もヨブの「何故私が受難しなければならないのか?」という問いに答えることはない。ヨブ記の解釈として2つの説が紹介される。
1.ヨブは別に受難を避けようと「何故」を発したのではない。自分の信仰そのものの根拠に対する「本当に神は在るのか」という「何故」である。最後にヨブは神を見る。ヨブにとって神が存在したということ確認できればもう自問することはない。受難は肉体と精神の苦しみではなく、神はいないのではないかという自分の存在的根拠に関わる問題だったのだ。
2.神はヨブの「何故?」には答えず、ただ神の創造の偉大をヨブに聞かせる。ヨブは神の意図を理解しようとした自分の傲慢に思い至る。神は人の善悪の彼岸を超えて存在する。神を試すことはできない。
旧約からは自分の子を生贄にささげるように神に命ぜられたイサクの物語も考究され、同様に自分の娘を国家安寧の大儀のために生贄にしたアガメムノンの神話と対比する。アガメムノンの悲劇はしかし納得し、同意できる普遍があるとし、イサクのケースは神と自分という「個」の問題であり、納得も同意もできない。しかし、このような絶対的な個としての解決、つまり倫理ではカバーできない問題を扱うのが宗教である、と小阪は明確に論別する。
次に親鸞の悪人正機説が呼び出される。親鸞にとって「悪人」とは倫理的呼称ではなく自力で本願が出来ない弱者のことをいい、更に根底には一切衆上はことごとく「悪人」であるという思想があるという。これは正にアウグスチヌスの原罪と重なる。一定地獄は住みかぞかし、という精神はヨブやイサクの絶対神と同じ確信である。
あとカント「実践悟性批判」ニーチェの「権力への意思」、キルケゴールの信仰論という西洋哲学の極北を要領よく紹介し、倫理を超えた信仰という主音を補強する。
結局「善人がなぜ苦しむのか」という問いに対して、この問いの持つ「応報主義」的倫理観ではどうすることもできない世界を宗教が扱うのだというのが小阪の変わらぬ態度である。密かに自負するように、「倫理(学)から見た宗教」という観点での類書は少ないのかもしれない。当方の今の精神状態にも拠り、読書の緊張感は持続した。
簡単に含水試料の美しい画像が得られる走査電子顕微鏡(Scaning Electron Microscope)での撮影写真にエッセイ風コメントをつけた本文と、実際のSEMの構造・操作を解説した教本的部分とで構成されている本。画像は細菌やウイルスのような先端研究の資料ではなく、ウマ面のウスバカゲロウの顔とかマグロのトロの切り口だとかでかなり興味本位なものである。つまりこれは国立大学医学部を退職し現役を退いた老教授の趣味の世界での話である。そういや、天体望遠鏡とか顕微鏡とかに憧れた子供時代がある。新鮮で健康な好奇心と高級機材を操れるという自己拡大感か。理学系の学究にはそのような子供の憧れが職業となった人達も多くいんだろう。子供の科学→講談社ブルーバックスなんかをむさぼり読んで何時の間にか科学者になってしまう人もいるだろう。いつぞや立花隆の科学啓蒙書でスーパーコンピューターを趣味で購入し、流体力学なんかの計算をさせて悦にいっている人の話を読んだことがある。そのような幸福な科学の夢が嬉々としてEMSを扱う老教授の本からも窺える。
1992即位礼中の天皇を狙撃するという場面が韓国のテレビで放映され、それに対する遺憾の意が官房長官から出された、とする新聞記事が表紙見開きにあしらわれ、それにつられてまんまと読まされた。朝鮮半島の現代史の悲劇は日本によって巧妙に王政を廃止され、統一のシンボルを失ったことが主因であるといい、この小説は最後の朝鮮王の後継者を巡る現代史と時事ネタをからませた謎解き風サスペンスである。「朝鮮皇帝万歳」という最後のリフレインのように作者が自己陶酔に陥ると作品の力そのものは弱まる。中間部の雪獄山(ソラクサン)がある地方都市での生い立ち説明が不必要にながったらしく、小説のスピードを鈍化させる。素材は面白いが作品はB級。
細部に渡り厳密な法的考証が行われている圧倒的リアリティ。よくできたパズルを解き明かすシャーロックホームズ的謎解きの知的快感と、アメリカ南部地方都市の法曹界、政治と企業の各様の駆け引き描写のジャーナリスティックな生理的快感?。短いエピソードにちりばめられたさまざまな人間の心理と行動の描写、適当なスリル。エロチックな濡れ場こそないけれど、やっぱりどうしょうもなく面白い。陪審員制度・司法取引というような駆け引きが通常であるアメリカの裁判風景は実際にも劇場風に面白そうである。巧妙な筋立てで最後まで一気に読ませてしまう。だがまてよ、最後のどでん返しを認めてしまえば、主人公が取引材料につかう9千万ドル自体無くなるワケだから、司法取引は成立せず物語は振り出しに戻らねばならんはずだ。最後のどでん返しはあまりにもサービス過剰だと思う。 この小説の主登場人物達は法曹界、政界・財界のエグゼクティブであるが、年齢の想定は45歳くらいの平均である。多分日本ならば判事は70歳、企業実務責任者は55歳くらいになるのではないか?そういや、J.F.ケネディは45歳で大統領になったんだったな。
もちろん『死霊』の変奏を意識しているんだろうから観念の遊戯である。しかし埴谷の悪魔的登場人物達が都会の裏側の夜の領域で繰り広げる熱い物語はない。軽いノリの安手の翻訳SF風の情景と会話で成り立っている。時として鼻持ちならない純文学少女風自己陶酔風思い入れたっぷり他人には意味不明の軽薄な文章が連なる。真面目に読める本ではない。「眠りの中で、季節がいくめぐりかしたようだった。幾度も目覚めては、夢の迷路を彷徨い歩き、胸騒ぎを覚えながらようやくのことで抜け出てきた」それがどうした!というモノであるけど、しばらく付き合うとゴチックで引用された文章が下界から拾い上げてきたモノのコラージュであることに気づく。「機械仕掛けのカブトムシ」「耳鳴りの奥から」といった章タイトルも当然パロディであろう。この大げさな章建て自体『死霊』のパロディである。果たして作者が自分で語っているほどの埴谷雄高式生者への死者からのメッセージというレベルの感応性を読者に刺激するかは異様な木々のざわめきの立ち騒ぐ地面に投棄され、圧死した蜜柑に他ならない。それが果たして「繊維質たっぷりの」胚胎する青白いディスプレイだとして、例えば目の前の一杯の紅茶の香りが「トパーズ色のたそがれ」のラグーンの方から垂直上昇式軽走空機に乗ってわれわれの電子メールで武装した下半身を突然「十字架にかけられたうらなりひょうたん」のように試用するとは限らない。
とまあ、当方も不真面目に流し読みをしてしまうが、ときとしてちらりと才気が感じられる引用もある。予備校の国語教師をしながら得た材料、主として大学入試問題から素材を得ているとのこと。本文よりも作品意図を語る後書きが語ってる。
正しいうんこを出す、声を出して本を読む、靴を磨く、等々。車を楽しむ項に徹底的に安全運転を心がけ、事故は勿論もらい事故を避けるのも運転者の責任であるというのは明確であいまいさがなく、免許とりたての当方はいたく納得してしまうのである。
30年前に出現した豊かな物社会で大人がどう遊ぶかという情報を提供していた「プレイボーイ」「平凡パンチ」という週間誌があって、この作家の小説やコラムが連載され都会派の自由業という先端のライフスタイルモデルを提供していたイメージがある。性を除けば、車とそして靴をはじめとするモノに「こだわる」風の記事がやたらと多かった。実用目的ではなくモノを愛玩する生活習慣がその頃から始まった。それ以前は愛玩するのは少数の富裕階級のための書画・骨董の類であり下々の者が手に入れることの出来る工業製品ではなかったのだ。五木寛之さんももう70歳に近くなっちゃったが、相変わらずライフスタイルモデル提供業は健在みたいですね。
日本ドイツ語教育界のドン故関口存男の孫で、慶応のドイツ語教授30年の著者が、自分が受けて来、また授けて来もした語学教育法の反省から出発した現在の教育法を語る書。まあ、タイトルどおりの内容である。この、名前だけでも生まれたときからドイツ語がペラペラというような印象のあるこの先生にして、最初に独文助教授の肩書きで留学した時に自分のドイツ語が使い物にならないと思い知らされるという告白をするのが圧巻である。いやー、こーゆーのは全く思い出したくない恥部ですね。
当方にも例えば、電子オルガン演奏のプロとして、行楽地須磨浦公園のドレミファ噴水パレスで練習したこともないピアノを弾く契約をし、当日全く指が動かず呆れ顔の観客・スタッフに囲まれて立ち往生した記憶や、オルレアンのホンダフランスに通訳として雇われ最初の会議通訳をした折、パリ人社員の早口についていくことが出来ず、もたもたしているのを先輩通訳が見かねて「代わってあげましょう」と申し出られた時等の悪夢のような挫折と屈辱の時間が忌まわしく脳髄にこびりついている。
そして当方は栄光の舞台を諦め次第にコソコソと撤退して遂にはどーしょーもない安サラリーマンに身を持ち崩すのであるけれど、さすが関口サンその屈辱をバネにして『使える』ドイツ語の特訓を自らに課し、遂にはその教育理念の実践を生業とするに至るのである。
この屈辱をバネに猛然と奮起した関口サンの取った方法は、テープレコーダーに向かって決めたテーマーを語るというものである。先ず自発的な話題の提示と、自分の論旨をとにかくあらゆるきたない手をつかってでも表現する意思・テクニック。そして後で自分の外国語を聞き返すという強烈な自己破壊体験を自らに課す。この苦痛は非常に良くわかる。
最近はフランス語を喋ることはないけれど、昨年の奈良文化会館国際ホールでの私のソロの録音を親切心から聞かせてくれた人がいて、自我の崩壊感覚が立ち起こるのに3秒とかからなかった。歌でもピアノでも外国語でも自分の内なるSpigeleinに映る姿はかなり格好いいものなのだ。しかし客観的手段で外から見たとき、その落差に思わず鏡を割りたくなる。
関口の表現「これはたまらない。自分が話した外国語のテープを自分で聞くぐらい、最悪のことは無い。・・まるでかきすてたはずの恥が雨のごとく降り注いできたようなものである。・・後でこの空白を聞き返すことを考えるとラジカセごとぶちこわしたくなる」
関口にとってこの苦痛は既に通過したものであるからこの様な率直な告白が可能なんだろう。当方は人生の最後までこの苦痛を誰にも告げられず一人で背負い込んで消えていく以外にはないんだろうなぁ。悶々。
「中世」だけにしとこうと思ったけどつい読み出してしまった。軽妙な文体と雑学的トピックスに補完されたヨーロッパ通史。今回は啓蒙主義と絶対主義に始まる革命とナポレオンで明け暮れたヨーロッパ諸国が未曾有の第一次世界大戦に突入するまでの一席。フランス革命・ナポレオンの傍らで例えばフランス革命に先立って成立していたポーランド共和国憲法の先進性に触れるとかの東欧・中欧諸国の事情にも事欠かない。あるいはソビエト連邦公式百科事典では簡単にしか検索できないチェリノヴィルのリトアニア大公領以来の歴史と宗教的変遷を詳しく述べ、地名の由来がニガヨモギであり、これは聖書では神の怒りを意味すると遊んでいる。ほかカプセル注でのトピック:ギヨチンはギロチンの発明者ではなく提唱者、ウィーンの著名ユダヤ人の項音楽家としてマーラー、シェーンベルグと共にコルンゴルトの名、左翼・右翼について「フランス三部会のごく初期から宮廷派の貴族は本能的に国王の右側の席についていた。云々」、ザクセン・コーブルク=ゴータ家を祖とするビクトリア女王を中心としたヨーロッパの各王家の始祖の相互連関図。後者はフォーカス的でもあるがヨーロッパの汗の滴るような本質でもある。
プロシャのビスマルク風の軍事大国の体を整えていく大国は、サラエボ事変で遂に今世紀形の世界大戦を誘発していく。この前夜の記述が圧巻であった。世間知らずの遊び人の皇太子の悲報を聞いてフランツ・ヨーゼフ皇帝は「神はその義務を果たした」といったとかいわなかったとか、世界大戦となるキーであったイギリス参戦を決断する当事者グレイ外相の先代が例のアール・グレイであるとか、開戦当日のパリでのプルースト、D.H.ロレンス、トーマスマン、ツバイクがウィーン西停車場に着いたときトロッツキーが出て行ったという同時代人の一日をかなりジャーナリスティックな手法で展開していき、そして「現代」に突入するのである。うーむ。早速「現代」を探したが未だ書棚には無かった。「古代」はあった。ちらりと読むとギリシャ・ローマであった。ナポレオン・ボナパルトの演説兵士掌握のスタイルはカエサルに似ているなあ。ナポレオンの脳裏にはカエサルのイメージがあったに違いなく、そういう隔世遺伝の系譜がヨーロッパという意識を育てていったんだよなぁ。