20年前の討論である。西欧と日本の中世の専門家が「中世」の問題を語り合う。問題というのは現代の観点では取りこぼしてしまう時代の独異性、あるいは逆に現代に通じる共通性であったり、西欧と日本との相違あるいは共通であったりする。阿部が中世の「音の風景」の視点を提示したり、網野が「史実」ではなくて「感性」を切り口とした歴史の構築をいったりする局面は、最近のマクロの歴史学風のアプローチを思わせる。
しかしまあ、ぼくは別に歴史「学」がどうであってもいいのだ。中世の音の世界と題される議論の中で、村の教会の鐘の音を中心としたくっきりとした音の世界を思い描く。そういう異次元からの感覚が脳内に喚起できれば、書物は自分が今生きている世界にまた別の陰影を付け加える。ぼくたちはホイジンガや阿部謹也の「中世」は歴史学ではなく、文学として読んできた。うすっぺらいこの世界の裏側を透視することで現代に収まりきらない自分の魂を慰める。
元の時代までに18の正史があったが、人々が通読できるような平易で簡略なものではない。曾先之(そうせんし)はこれを簡易な読み物にまとめ「十八史略」とし、異民族支配下の民族の自尊心の支えに啓したという。殷・周時代から宋朝の滅亡(13世紀)までの中国の王朝の興亡にまつわる史実・逸話・戦記を、今度は著者が脚色し日本語の物語とした。まあ、各王朝に関しては簡略だけれど、流石に先史時代に始まる中国通史全体は簡単には縮まらない。正月休み用に借りておいた書だったが、とても休み中には読みきれず2週間たっぷりかかってしまった。上・下合わせて1500ページ。他に「プログラミングPerl」(オライリー・ジャパン)800ページも借りていて、こちらも出社時・退社時に都度携帯しなければならなかったので、なんとも重苦しい新年の通勤だった。
中国歴史に取材した小説は常に安定した読書の楽しみを得られるので、図書館で目に付くとつい借りてしまう。で、たいていの英雄・豪傑の名は知っているんだけれど、通史として読むわけはないので、全くばらばらな歴史的時間関係しか持っていなかった。2千年の王朝の興亡の通史は、枝葉に縦糸が通り縫い合わされるようなるような有機的連関の土台を提供してくれる。それでいて、各王朝の建国にまつわる英雄達の物語的面白さも付加して小説化してあるのは陳さんのサービス。それにしても、あまりに登場人物が多く錯綜として定まらず、うう、ちょっとしんどかったね。
高校生時代に暗記した中国歴代王朝名:「夏・殷・周・秦・両漢・三国・両晋・南北朝・隋・唐・5代・宋・元・明・清・中華民国・中華人民共和国」は今でもオハコで、ときどきヤルが、その高校生当時もう一つ戦国7国を暗記したことを、実に30年以上ぶりで思い出した。「韓・魏・斉・燕・楚・趙・秦。」実は韓・魏・趙は3晋(重耳の晋の後裔国家)で並列すべきだったけど。
中国王朝史を通観した時、いかに名君が少なく、暗君や暴君が多いのに辟易する。暗君や暴君というのはとりもなおさず普通のヒトなのである。普通のヒトが権力を持つとどういうことになるのか。相も変わらず皇位継承の内紛があり、競争相手の兄弟殺しであり、他にすることないのか淫乱荒淫であり、ガキっぽい権力誇示の快楽殺人である。愚かというか、正直というか。かくて中国史は見たくないけど、ちらりとは見たくもある残虐刑の宝庫となる。
流体力学の教授が書き下ろす自然物理現象、統計確率計算、人間の心理等の「乱れ」を説明した、一見面白そうなくくり方をした本。一見というのは「ある状態から別の、新しい状態に移行するとき、『乱れ』はつねにその先駆けとなる。・・・『乱れ』は発展への序曲なのである。」とカバー裏の宣伝レジュメに、心が乱れたからである。
なんと魅惑的な切り口か。しかし、内容は各分野の一般啓蒙レベルよりやや上の解説で数式がたらたら出てくるのでそこは飛ばしてしまう。個別には含蓄に富んだ示唆があるのだが、ちょっとソコはついていけなかった。自然界の現象の乱れの解説が終わり、いよいよこの手の本では異色の人間の乱れ「心象風景に見る乱流」の章となり俄然期待したのだが、しかし、この部分は何のことは無い万葉・古今・新古今の千路に乱れた恋歌の解説に過ぎず、趣味の古典鑑賞の域をでない。結局、最初に乱れたカバー裏の文句が一番乱れたのであった。欲求不満気味。うーん、本当に乱れてみたいよー。
かなり自由な脚色を施したエリック・サティの伝記風小説。やたらとすなおな文章と平易で短い会話文。まるでサン=テグジュペリばりと思わず言わねばならない、多感な少年期から一歩も進まない風哲学と詩情風の描写で始まったので辟易した。それでも文章が平易で語り口がなめらかなので、すいすいと読まされ、いつのまにか小説の中に取り込まれてしまった。それはそれで確かに飄々とした文体の味があると言えるのかもしれない。しかし、何と言ってもあの頃のパリ。パリ万国博当時の青年芸術家達の、毎日が祝祭のような弾んだ精神から放射される昂揚感は感じられる。著者にはそれなりの思い入れはあるんだろうなぁ。サティおじさんとユトリロ少年との会話中に飛行船フランス号がパリの上空を飛行していく情景を、資料からの調べから案出した技術は確かなものだ。しかし、あの皮肉っぽいサティと破滅型人間のユトリロとの会話が、不時着したパイロットと星の王子さま風に描かれているが断じてそんなことはないよなぁ。著者の作風にイヤ味がないのであんまり悪口をいいたくないが、当方はとにかくイヤ味が好きなのでどこか物足りない。
ヨーロッパ「近代」がわれわれの価値の源泉だった。デカルト以降の合理主義、産業革命・市民革命の市民・富・力。確かにヨーロッパ「近代」は新しい価値基準であった。しかし、それが普遍であると疑いも無く思いつづけていいものだろうか?と著者は問う。ヨーロッパの「近代」なんていうのは歴史的にも地理的にもかなりの偏りのある極めて特殊な、普遍とは程遠い現象なのではないか?
加えて日本はヨーロッパ「近代」が生まれてきた土壌を知らず、その結果だけを忠実に模倣してきたのだ。そこにはすでに帝国主義とファシズムが胚胎していたというのに。
多分イギリスに留学経験のある山本は、ヨーロッパは「大人の社会」だという。それは成熟したというイミではなく、社会の取り決めを遵守し、自発的に社会の一構成員であるとの自覚を持った人間だけで運営されている社会なのである。「大人の、白人の、男」だけが人間であり、子供・女・黒人は動物でしかない。コンピュータのような2者択一、二分法、あれかこれかに還元するということが論理的というイミであり、異端を排除し抹殺する精神がファシズム・帝国主義、そしてロシア型共産主義を生む。これがヨーロッパ「近代」のもたらしたものなのだ。20世紀が終わる頃になって、この「近代合理主義」あるいは「科学主義」あるいは「物量経済主義」がいかに特異な偏った世界観であったのか、といういう認識が行われはじめたのである。
新書版にふさわしい、軽快で要領のよい多彩な分野からの縦横な論考である。10年前というのはベルリンの壁やソビエト・ロシアが崩壊した威勢の良い時期だったんだなぁ。
「新しくて、力と経済力があり、健康で若い」というパラダイムはこの「ヨーロッパ近代」のもたらした価値意識であって、私たちすべてに固有のものであったわけではない。これが普遍だと疑わない心理が、スポーツジムに自己脅迫的に通い、懸命に自らの老人性を否定しようとやっきになっている、ばかばかしい老人を量産する。「若いですね」といわれてどうして喜ばねばならないのか。老人であることの素晴らしさを誇りをもって感知でき、死んで肉体から開放されることを穏やかに寿げるような価値観がより好ましいのはいうまでもない。死は「無」ではない。生が全てで死が無という二律背反こそが悪しき近代合理主義であろう。内なる「ヨーロッパ近代」の克服。老いての開き直り(^^;
1945年4月ダッハウにある強制収容所が主に米軍の日系部隊によって開放された。ここで、ハワイ出身の日系米人の主人公とリトアニアから連行されて収容されていた少女とが邂逅する。物語の現在時1995年のイスラエルへのフライトで、偶然このカップルと乗り合わせて知り合った聞き手が、思いもかけぬ組み合わせのこのカップルの過去に招き入れられ聞き書きを始める。感動的な物語の枠組みが提示される。
「不遜な言い方をすれば『二十一世紀』に伝えたい『二十世紀』の物語が凝縮されている気がしたからです」と作者はあとがきでいう。確かに強制収容所のユダヤ人と祖父が会津藩士であるハワイ移民の日系2世の人生は典型的な20世紀の断面である。著者のノンフィクション作家としての実力が如実に感じられるハワイの日系米人社会についての記述や、ヨーロッパ戦線に投入された日系米人部隊での戦記は実に見事で、細部の考証にも目が行き届いていて圧巻。日本の戦記文学としても大岡昇平「野火」以来の出色の作といってもいい。
作者によれば日系人部隊の存在は杉原千畝の再評価以降やっと注目されてきたという。日系米人の強制収容という事実は、いわば「世界の警察」としてナチスの悪を制しにいったアメリカが足元に抱えていた恥部でもある。そして日系2世達は自分達のアイデンティティの曖昧さを疑われないように、なおさら愛国的な英雄とならねばならなかったし、事実そうなったのである。
この物語の参考文献として著者が挙げているソリー・ガノール「日本人に救われたユダヤ人の手記」を読んだときにも、ドイツ本国でのユダヤ人への迫害よりも周辺の傀儡政権によるユダヤ人狩りが激しかったという事実に着目したことがある。この事実と、日系部隊が「純」アメリカ人部隊よりも愛国的であり、「純」日本人よりも精神的「日本人的」であろうとしたということは、人の行動を駆り立てるものが何かということの密かな符合がある。
その昔孫子の兵法ブームというのがあった。その次あたりに吉川英二「徳川家康」だったかな。とにかく、高度経済成長期の株式会社日本の経営者達は自分達を戦国時代の群雄になぞらえ、ビジネス戦略の指針を古代の兵法家に求めたものだった。中国正史上では孫子は2人いる。春秋時代の孫武とその5代目(推測)戦国時代の孫繽である。著者のあとがきにれば「孫子兵法」の作者とされる孫武はどうも実在しなくて、孫繽の方の著作である可能性が強いという。しかし、この前読んだ陳さんの「小説18史略」では、最近孫繽の真作が発見されたという件があったと思う。
書としての「孫子の兵法」は13巻の木片に記され、古代の合戦の戦略を分析し、その方法論のエッセンスを纏めたものであるらしい。「戦争は戦わずしてすでに勝っている勝者が、そのことを証明するためにだけ行うものである」とかの警句は、どこかで聞いたことがある気がする。ま、とにかく中国史上初の戦争論・戦略教科書であり、以降の時代の兵法家の聖典となる。
その「春秋左氏伝」にわずか一行の記載があるだけという孫武の事跡を、小説家は自由な想像力で面白おかしく肉付けしていくのだが、その辺はさすがに2・3世代前の小説家である著者の中国古典の素養はさすがで、古代中国の英雄達の世界に無理無く楽しく入り込める。ま、孫繽が最初に拠った呉起将軍の部下掌握法を語るのに「辻正信のようなものである」なんて、もうぼくの世代では分からない例えもある。
大家の長浄瑠璃的に兵法を研究していたが、武の人ではなく、たんなる道楽親父の孫武が楚王に引っ張り出されて大将軍にされてしまい、的確な戦略・戦術で数々の勝利を上げるが、政争に巻き込まれないように未練も無く引退し、また元の道楽親父に帰る物語はさわやかで楽しめる。豪傑でもない、どちらかといえば貧相で押し出しの弱い著者の描く孫武の像は小説的に面白い。中国史に出てくる一方の神仙・あるいは賢人の趣もある。こういう物語のタネが発掘すれば無限に出てくるのが中国古代。書き手の中国趣味・研究をふんだんに駆使し虚実の線を超えたりもどったりして、やがてはこのような長編物語に膨らんでいく。手馴れた作家にとってはなかなか楽しい作業だったろうし、読者は物語に浸る楽しみをたっぷりと味わえるわけだ。この辺が歴史的な伝統がある日本の漢文教育がもたらした思いもかけぬ成果でもある。
うれしいね、グリシャムの新作。といっても図書館で見つける新作なので巷と2年ずれているが(^^; これがアメリカ産の最良のエンターティンメントですね。すぐにでも映画化できるような緊迫感のある筋運び、スピード感と気の利いたくすぐりのある文体、社会正義を描く清潔感、どでんがえしの末の最後のサクセスストーリー。と、そのくらいの芸はアメリカの売れている作家なら誰でもできる。グリシャムが描くアメリカの弁護士活動の仔細はそれだけでも日本の我々には興味しんしんである。とにかく弁護士が社会のあらゆる調停をしている国である。例えば日本にない3つのキーワードを挙げれば充分だろう。陪審員・司法取引・成功報酬。この3つを見ているだけで、素人目でも結構面白いストーリーを何とでもでっち上げれそうな気がするくらいだ。
今回グリシャムが描くのはアメリカ社会の最上層の大規模弁護士事務所を底辺のホームレスを支える無料法律相談所の弁護士が訴えるという、正にアメリカ法曹社会を縦断するダイナミズムである。いやー、前回「陪審評決」では巨大タバコ産業を訴えるハナシだったけど、今回は強制立ち退きで死亡したホームレスを原告に資本の論理を訴えるのである。お話の基底に社会正義の実現というような理念をおいてあるので、まったく非の打ち所のないさわやかな物語になっているのである。うむ、グリシャムはうまいなぁ。
この白石朗さんがずっとグリシャムの翻訳をしてるみたいだけど、この人もうまい。スピード感のある現代的な日本語になっている。スノッブな法律事務所の受け付け嬢のセリフ「洗面所はこの先になります。」並の翻訳家じゃない。ま、当方が訳すとすれば「洗面所の方は、この先となっております。」くらいにはするつもりだけど。
経済ライターとうのがこの作者の職業だそうである。使い捨てライターではないぞ。で、あとがきで言うには「娯楽作品でありながら、経済と金融の基礎が身につく作品」というたいへん「経済的」な小説なのだ。基本は赤字国債を発行し続けていく日本、相変わらず一人勝ちしているアメリカを2020年の時点に引っ張った経済シュミレーションが基になっている。
SF小説としての骨子はオーウェルの「1984」タイプの非人間独裁知性が支配を目論む近未来アンチ・ユートピーもの。この小説のビッグ・ブラザーは世界中のネットワーク回線で繋がったPCを非ノイマン型並列コンピュータとし、その上に胚胎する自己完結的に進化統合する知性プログラムである。ここで、是非とも書いておかねばならないが、このネットワークで結ばれた全世界のPC全体を分散処理の計算モジュールとして使うというアイデアは当方も昔考えたことがあるノダ。
ん、で、このビッグ・ブラザーの陰謀を天才的プログラマーの少女と中年の経済ライターが暴いてゆく正統的娯楽SF路線。どちらかというと、この筋立てはあくまで狂言回しで作者の書きたかったのは登場人物達が随所に立ち止まって長々と講義する経済・金融・情報科学・物理・統計数学のおいしそうな要約のように見える。主人公がハードボイルド風にアクションする唯一の見せ場が、ピストルを構える悪のマッドサイエンティストに向かって手にしたボールペンを投げることであった。しかも、このボールペンでピストルのねらいが外れ、高次の知性を構成するケーブルの一本が損傷、そこから神にもならんとするビッグブラザーの崩壊が始るのである。アンバランスじゃ!
著者の意図が「講義」にあるのは明らかなので、SF小説としての評はこれでやめておくが。経済・金融の方は勉強になりました。うむ、デリバティフのようなモノとしての実体の無いものがこの社会の根幹部分を動かしているという現在を説かれると、この世界全体がすでに安物のSFに成り下がっているような気になる。そしてそういう「気」自体が経済を根幹のところでコントロールし、世界恐慌まで引き起こす元凶である、ということは既にわれわれの世界がヘーゲルのいう「逆立ちした世界」になってしまっていることに他ならない。←イミ通じてる?
小説という形で近未来の予測をするまでもなく、2002年現在で経済という虚構に支配され、人間性まで失ってしまっている状態を異様とは感じない人類の現状はそれだけで充分悪夢である。さまざまな分野から面白そうなアイデアを拾い上げてくる作者の才気は買うが、小説としては月並み、文章にもふくらみがない。無理に「娯楽」小説にせず人類の悪夢をそのまま描いた方がはるかに深いところに達したはずである。
榎本武揚の伝記だと思って読み始めたが、何か怪しい雰囲気である。
榎本は黒田清隆の曳きで明治政府の官僚となり終には外務大臣にまで歴任するのだが、日本全権公使としてモスクワに赴任し帰朝時にシベリアを馬車で横断するルートを選び「シベリア日記」を書き記す。ここでシベリア流刑囚あがりのデカブリストと邂逅し北海道共和国総裁であった自らの理念と多いに共感するということがあり、密かな連絡網を作り上げる。ペレストロイカ前夜にシベリアにおける榎本の足跡をたどる企画を取材したジャーナリストが榎本の公刊されなかった「第二シベリア日記」を検証し、その隠された榎本機関の存在に迫るが、遂にKGBに逮捕され、云々。
というような具合にレジュメると怪しいのは丸分りだけれど、現在時の作者がペレストロイカ後KGBから出てきた逮捕されたジャーナリストが書いた文書の真贋を判定するという設定で、明治期の榎本の事跡から巧みな口調で克明に語り始めるので、まあ、どのみち最後に作者のオハナシであるとのオチが付くのは予測できるのだが、どの辺りからそのオハナシがはじまるのか、なかなか底を割らせない。なんせ戦後の歌声喫茶のボルガの舟歌なんかで育った世代が語る、史的過去・ジャーナリストの物語過去と作家である語り手の現在が交錯し、それのまつわる虚実も入り乱れそして鉄のカーテンの向こうのよくわからんKGBがからむハナシなので、ひょっとするとソレに近いこともあるのかも知れんなんてコロリと丸めこまれてしまいたい文学的誘惑もある。とにかく怪しいと眉に唾をつけておいて後は快く作家の語る物語に付き合ってシベリアを横断していればよいか、ということに結局はなるのである。
先に↑若い世代のアイデアだけのSFを読んだ後なので、この人の文章なんかを読むと、もう明らかに文章自体の豊かさが格段に違う。年季が違うというようなことではなく、ミステリー仕立てではあるけれど、紛れも無く文学として創作しているかどうかということの違いであるといえる。
14歳で臨済宗大徳寺に出家、雲水修行の後34歳で渡米、ハーバード大神学部を経て宗教学の博士号取得後プリンストンで助教授・現シンガポール大学準教授というなかなか大変な人の自伝。そういうわけで「文明の衝突」というなかなか大変なタイトルになってるようだ。しかし、けっして怪しいモノではない。この人の来し方には現代ではあまり流行らない「求道者」の面目がある。経歴からすれば宗教人のように見えるが、信仰の人ではなくて、自らの生き方で曖昧なところを許さないというような求道の姿勢である。禅宗の自己救済的イメージに近い生き方か。
雲水修行の記述も面白いが、渡米しての極貧生活、猛勉強時代の回想が力強い。なんというか、質実剛健克己勉励薫陶鞭撻誠心誠意とかなんとかワケもわからず漢字を並べてしまいたい雰囲気ですね。そして、著者のいう「ミニ・アメリカンドリーム」を実現してしまうのである。うむ。異様にねじくれ、中途半端なまま底辺に転落し、ふてくされている私の人生と思わず重ねて見てしまい、その結果としての現在の違いに暗澹とするが、それでも、やはりこういう人の話はさわやかである。
東大入試中止のあおりで志願者が集中し、京大入試に失敗という話だから、ほぼ同世代である。しかし私はあの時さらにその余波をうけた他の大学に失敗。高校時代・その後に家出の経験はあるが出家ではない。34歳で渡米とあるが、こちとらは同年に渡仏したんだよな。この違いはどうやらかなり大きいのかもしれない。
雲水時代のかなり特異な怪異体験は面白いが、あまり深い意味をこの人に与えていない。しかし、アメリカでの苦学体験が果たした役割はかなり大きいと思える。そして、この本の「教訓」部分である著者の現代への所感の根拠・論点もこのアメリカというものへの対峙の仕方が根幹となっている。だからこれは「アメリカとは何か」についての本でもある。
一言でいえば能力主義に尽きるのかもしれない。能力があるものが努力をし結果を生み出せば評価され成功者となる。実に単純で明確で普遍的風でもある。スタートして、一番早くゴールに到達したものが勝つのである。著者はスタートした時点では、最底辺であったが最後に到達し拍手されたのである。勝者に対するアメリカの公平さと正義感。
それと表裏一体である敗者になることへの嫌悪とストレス・そして敗者となった人々のどうすることもできない無力感。例えばプリンストン大学の湖のほとりの天国的に美しい遊歩道や、休暇で訪れる国立公園の生命の根源からの喜びを掻き立てる壮大で厳粛な光景。アメリカ嫌いの私でさえ、思わず目を星条旗にしてしまうくらいの魅惑がある。しかし、その裏側でプリンストンの明るく陽気な学生の三分の一が、ストレスで学内の心理カウンセリングを受けている事実や、同じ都会のもう一方の側に存在するどうしょうもないスラムをこの人は引用するのである。
一人勝ちを続けるアメリカを正当に評価しつつ、盲目的アメリカ化ではなく、各国民族固有の文化を育てそれを国際化することがグローバリゼーションであると著者はいう。(←勝手にかなりマトメてしまいました。)実際に日本とアメリカの体験者であり、実践者でる著者の見方に異を唱えるツモリはない。が、そのようなお題目風の総括より、「自分の物語を持つ」という言い方で表明された、ゆるぎない個人としての価値観を確立することを述べる語り口にこの人の妙味を感じる。ちなみに、著者ほどは「密度の高い物語」を持てなかった私の最近の自戒も「他との比較をするな」ということになっている。
すさまじいばかりの貧困生活から「大学教授」となった物語の主人公は、もう一度ゆれ戻しの人生の蹉跌に足をとられてしまった私にも多少のエネルギーを放射するようである。
「すると女が走りより、腰を男の股の間に入れてうずくまる。ペニスを挿入するやいなや、男は素早く小刻みに腰を動かし、あっというまに射精してしまう。」
ああ、気持ちいいなぁ。原文は女が「メス」男が「オス」だったんだけど(^^;
チンパンジーの性行動は即物的でまったく「愛」という思い入れの入る余地はない。そして、仲の良いオスとメスには性交はない。そして性交には遊びの要素はない。これに対し、ボノボは多分に"性的なサル”で、くわしくは引用しないが、同じ相手と対面体位やアクロバティックな変形も加え、何度でも交わる。この繰り返すということが「遊び」の特徴であるという。
「わたしが霊長類学の道を志したのは・・・人の性について知りたかったからである」(あとがき)・・なるほどなぁ。チンパンジー・ゴリラ・オランウータン・ボノボのケースを演繹しながら、人の性行為の生物社会学的な意味を分析し、愛の発生、結婚という制度の発達を説明していく試みである。文学的・哲学的に「愛」というものを捕捉しようとしても捕らえようもない気がするが、他のサルとの進化論的比較で考えればいともカンタンなことになる。
ヒトやボノボが共通して持つ性質にネオテニー(neoteny:幼形成熟)がある。著者によれば、ヒトの頭が大きくなりすぎた結果、分娩の簡便性から胎児を未成熟なまま産むということが行われ、そして子供を育てるという期間が延びていく。心の成長の遅れによって、いつまでも親に依存する心がある。「ヒトの愛は母と息子の心理的な基盤を特定の異性に対して転用して生まれたと考えている。」ヒトの性行為における遊びの要素、愛撫やキスは母親が子供に対して行う要素である。チンパンジーの場合なら親しい異性同士では避けられている発情行為が、ヒトにおいて親しい仲でもエッチができるという仕組みに組替えられたのは、実にこの「愛」の発明の産物に他ならないというのだ。心に幼さを残したまま大人になってしまうヒトでは、性行為という育児遊びの延長をしながら心のつながりを感じとっていくのである。
うむ。エッチしているときにはかなり幼児的になるのは自覚するが、だからといって激しい恋愛感情が却って性欲を阻害する情況にも苦しんだことがある。まあ、ヒトが愛を発明して現在までかなり経ってるからなぁ。それに、特に前半の記述に多く見られる単純適者生存進化論的論旨をそのまま飲み込む気にはなれないこともある。大筋で適者生存則が成立するとしても、遺伝子がランダムに組替えられるという機構があることは、進化がそのような直線的なものではないことを強く暗示していると私には思える。
とはいえ、この明快な著者の性・愛・結婚の定義はかなり爽快だ。第一、複雑怪奇摩訶不思議な性にまつわる人間社会の紆余曲折を裸のサルに演じさせれば、余計な挟雑物に隠されていた真実が浮き上がってくるような、「こりゃ本当かもね」風の力強い説得力がある。特にインセスト(近親相姦)タブーや浮気の実に分かりやすい議論が圧巻。
インセストタブーがあるということはインセストが広く行われているという証拠である。ちなみにインセストはヒトのネオテニー性質からワケなく演繹できる。遺伝子からいえばできるだけ多数の精子・卵子を得ようとするのが戦略であろうし、育児期間の永さから言えば固定した頼りになる月給運び人が居る方が安心であろう。しかし、子供は一人では不利である。純粋戦略論でいえば、ゆるぎない家庭を構えつつ浮気して広く子孫をばら撒く、あるいは仕込むのが一番カシコイのである。
その他、なかなか示唆に富む議論や事例が豊富で、いろいろ参考になりました。何の参考にするのかはこの際秘匿しときますが。扱い方によっては焚書坑儒にされてしまうような内容を真摯に語っていく姿勢は好ましい。焚書坑儒ではないが、こういう分野の研究では多分キリスト教の支配が強い国の研究者より、日本人男性学者の方が有利なような気がする。
著者の本業は新聞記者。クローン羊・ドリーを生み出した生化学者にもインタビューをしている。クローンの技術を人間に適用すればどういう応用があるのか?遺伝子工学に投資が集中するアメリカの企業社会から見れば、「不老」を販売するビジネスが真っ先にくるだろう。そうした科学と社会のティピカルな現象を取材し、古典的な陰謀犯罪小説にまとめているのがこの作品。いかにもニューヨークタイムズ文化面編集長の書く「おもしろくてタメになる」小説である。近未来の悪夢のパターンとしては、この素材でのアイデアは新味がある。このくらいの犯罪的ビジネスはすでに行われているという感もある。
しかしクローン技術をつかった犯罪の謎の解明を追う小説の筋立ては饒舌で長くて退屈する。ヒローがいて、絡む女がいて、犯罪組織が魔の手をのばし、云々。面白くないこともないが筋立ての意外性がなく、B級犯罪小説プロトコルから一歩も出るところがない。だから、クローン技術とその周辺知識が要領よく解説されている部分はじっくり読んだが、筋立て部分では早く終われとばかりの速度で通過した。
翻訳が悪いというわけではないが、いかにも翻訳口調のセリフに閉口する。女性科学者の口調がどうして「の」と「わ」で終わらねばならないのか、じっくり考えて欲しい。初対面の記者に解説する場面:「・・調べてみたの。驚くほどの一致点がみつかるわ。」
どうして「です。ます。」に翻訳しないんだろうか。女性は社会的地位に関係なく「の、わ」口調で訳すというのは性差別ではなかろうか?
NHKが製作する海外ドキュメントを良く見るが、この翻訳と同じノリのプロトタイプでしか吹き替えない演出が耳につく。後ろに聞こえている本人は知的な穏やかな英語を話しているのに、吹き替えの声優が「ええ、そうなの。驚いたわ。」とまったくの門きり型、若い女1タイプのセリフをかぶせてしまう。若い男であれば「そうなんだ。驚いたぜ。」老人であれば「そう思うのじゃ。じゃよって・・」と、わざとかすれた声の声優を配して言わせる。だれがそのように訳されねばならないと決めたのか?多くの場合日本語での公式な発言は男女・年齢を問わず「です。ます。」調であるはずだ。NHKの演出はいつも滑稽で腹立たしい。ま、しかし、これはこの翻訳者の所為ではない。
講演者:堀米・木村・今野國雄・新倉俊一・今道友信・伊東俊太郎・柳宗玄・皆川達夫・堀越孝一
NHK放送大学実験講座全13回の収録。この豪華な顔ぶれが各回、それぞれの専門分野での12世紀というものを講義し、後で編者二人を交えて鼎談するという構成。
ギリシャ・ローマの古代が終焉し、15世紀ルネサンスが始まるまでの西欧は、教会の絶対権威と頑迷な封建社会しかない「暗黒の中世」であったという認識が行われていた。しかし、むしろイタリア・ルネサンスの方がローカルで底の浅い現象で、真に今日に見られる特徴的な「西欧精神」は12世紀が用意したものである、という議論が文化・社会の各方面で示される。堀米にいわせれば西欧社会と日本だけに見られる農民とその軍事的保護者である領主で構成された封建小国家の成立。直接生産しなくともよい階層が生まれたことで出来てくる都市。曲がりくねった不衛生な中世都市の路上で胚胎されていく市民という意識。この時多量に翻訳されたアラビアの書物からくる古代ギリシャの科学を含んだ知識の堆積とヨーロッパの大学の成立(ボーローニア1088、パリ1150)、クリューニー修道院とそこで歌われるグレゴリアンチャントやステンドグラスの技法。シトー会修道会の成立とロマン様式の教会の建立。いろいろ興味深い事例が挙げられていく。まあ、基本的には労働生産性の向上が上部構造を豊かに変形させていく余裕を生み、ギリシャ・ローマの遺産とキリスト教・侵略者とアラブのような文化的対立者に囲まれて、今日のヨーロッパ精神の原型がここで生まれたというところか。
それにしても豊かな内容の講義だった。学生が教師を雇いう大学とは場所のことではなくて制度のことであるという今道の語る中世の大学の成立や、伊東が例示するアベラール等の中世知識人の高度な思索内容、「愛、この12世紀の発明」と題する新倉の論が印象深い。
私は内なる近代合理主義への反発からくる「反動的中世びいき」(^^;に過ぎないのであるが、またホイジンガの「中世の秋」を多分に文学的にしか読まなかったと、つい最近も書いたばかりではあるけれど、この講演者達の話を聞いていると「学」としての歴史そのものの面白味を突きつけられてしまう。それぞれの社会の諸相を分析し、原因と結果を推論し仮説を立て事実と照合し新しい視点を獲得していく楽しい知識の作業がある。で、また、この演繹や帰納という、まことにヨーロッパ的な方法論自体が12世紀の発明であるらしいのだ。うむ。楽しかったのは事実なんだけど、白っぽいシアンの影絵のような薄暗い中世の静的な光景がもっと遠くに追いやられたような一抹の寂しさもある。どうも私は論理の人ではないようだな。
エイズの流行が示すようなバイオハザードがもたらす危機を人為的に引き起こす手法のテロを扱った小説である。この小説の場合は少年期のトラウマから心理異常者となったマッド・サイエンティストが、破壊する神の意を呈してテロを仕掛けるハナシになる。なかなかイキのいい現象を扱っていて、1999年という時点を考えれば予言的でもある。「ニューヨーク無差別殺人テロ」や「炭阻菌テロ」等。実際に生物兵器がテロに使用されたのは1992年の東京サリン事件が嚆矢だろうけど、この作中でも指摘されているように軍が兵器として作成使用する多くは公式に報道されることはない。また、実際に事故的に異種間感染菌の被害があっても局地的で、エイズほどの社会的影響がなければ報道管制がしかれたことも多くあったろう。
作者の内前者は医師であり、作中の主人公のような未知の病原菌情報を収集広報するウエブサイトを主催しているらしい。
件のマッド・サイエンティストはモーゼの出エジプト記に記載されているイスラエルの民がこうむった10の災いを現代に再現しようと企て、その次なる災厄は何か?という謎を旧約聖書の記述を実際のバイオハザードに当てはめて解いていくのが小説の主要なプロットである。この生化学上の探偵劇は実際の医学者である著者の独壇場だ。このような聖書の科学的読み解きは実際にも研究されているようで、例えば出エジプト記に記されている「暗闇が訪れた」というような災厄は、穀物に付着したカビ毒による中毒症で視覚障害が引き起こされたことを示すという風に解き明かす。例のベルジャーエフの「衝突する宇宙」を読んでいるような面白みがある。人類には未知の毒素に被患した肉体がすさまじく変形していくような描写は、実際の研究者でなくては書けない強烈なリアリティがあって興奮させてくれました。ユダヤ教で現在でも行われている過ぎ越しの祭りで種無しパンを焼くのも、古代のバイオハザードの災厄に起因するなんていう指摘は説得力があるし、楽しい。当方も最近生活自衛上、毎朝のパンは自分で焼くことにしているのでイースト菌の管理を始めたところである。←まったく関係ないが。
小説を書きたいと思っている素人は多い。しかし、アイデアがあってもストーリーを組み立て文章を起こすのはプロのライターでないと売れる小説にはならない。そこでプロのライターに共同作業を持ちかけるか、雇うかするのだろう。この作のように明確に示されていなくともゴーストライターが書いている小説はアメリカでは非常に多いのではないだろうか。作中にも「スピーチ・ライター」に高額の金を支払ってスピーチをする情景の描写がある。そういえば、いかに紋切り型決まり言葉に収束させようかという日本のそれとは違い、明らかにアメリカには明確なスピーチスタイルがある。ユーモアで湧かせ、気の利いたオチで拍手を取る、というパターン。昨夜フランス大統領候補の演説のサワリをテレビで見たが、「私は大統領選を戦うために出馬したのではない。大統領になるために出馬したのだ。」というようなレトリック使っていた。別に意味なんてあるようには思えないが、うまく拍手をするタイミングを与えていたと思う。このような職業もあるというのはいかにもアメリカ流という気がする。このように小説にも受けるためのサワリが必要で、そういう技術を著者のうち後者のライターが受け持っているんだろう。そういうわけで、この長編にはアメリカの読者に媚びるような余計なサービスもたっぷりついている。この手のサスペンスモノで当方がいつもうんざりするのが主人公の「家庭」がいつもついてくることだ。愛する妻と、まあ、オプションで子供達。ストーリには何らの関係も無いのだが、何故かそういう家庭の人間関係を持ち出して物語の肉付けをしている部分が多い。これもアメリカの標準的読者がそのように期待しているからなんだろう。そして、この辺が日本人無神論者独身貧民の私には読むのが煩わしいところ。
この小説ライターの力量はさすがと思わせる。私にぶつくさ文句を言われつつも次第に善玉科学者が悪玉科学者に陥れられようとし、間一髪で逃れ次第に真相をつきとめていく過程で物語から目が離せなくなり、ついには徹夜コースとなったのである。
作者の名の「青」だけが青字印刷されている装丁。「張騫」「殺青」「青州刹使」の3作が収められている中篇集。どうやら青という文字をキーに束ね、漢の武帝の治世の張騫・司馬遷、後一人という独立した3人の伝記の連作で、脇の一部の人物を重複させて登場させたりする凝った趣向である。
表題「張騫」は匈奴支配の西域をバクトリアまで遠征する長大な古代の旅を共に味わったが、「殺青」はライフワークを定めるまでの若き司馬遷の伝記で、漢の武帝の外征の事務官吏からの見聞というくらいの地味な物語。「青州刹使」と題する、今では名前を挙げるのも億劫なマイナーな3作目の人物の物語に至っては、当方の中国史の記憶との接点がもうまるで見当たらない些少な史的イベントである。その意味では独異の作風といわねばならないが、それでも複雑に絡み合う人物名を追い事跡をたどるのは正直に言って煩わしかった。中国史の中に、それなりにしっかりとした架空の小説空間を忍び込ませ確立しているのに、小説としての力点がどこに置かれているのか判然としないという疑問が残ってしまう。この読書中に私的な鬱状態が突発し、読書の注意力を散らせてしまったのかもしれないという反省もあるので、これ以上の論評は控えることにする。
埴谷雄高を論じることは「死霊」を論じることに他ならず、そこでは主人公達がとめどもなく繰り広げる議論を整理し理解することから始めねばならない。著者が埴谷が豊多摩刑務所で出会うカント「純粋理性批判」の解説から説き起こすのは極めて親切な配慮だと言える。なぜならぼく達は屋根裏の妄想文学として埴谷を読んだのであって、自分とは何か、世界とは何かという埴谷の「存在論」を真面目に学ぼうとしたわけではない。
しかし、と著者はいう。『「存在」ということがそもそも問題として論じられるところには、その問題へと人を導くなにかが、論理以前のところで「気分」としてすでに働いているはずであるが、そうした「前-存在論的根本気分」と呼ぶべきものがそこには充溢している。・・「存在論」という切り口から埴谷文学を読む、とは、最終的にこうしたことを明らかにする道なのだ、・・・』
それなら分かる。埴谷の「死霊」は何よりも「気分」だった。(用語的には「気配」が正しいか)膨大な議論と角突き合わす論理のせめぎあいがあるとしても、それは白昼の堅固な自明に収束するのでなく、すべてを大きく逸脱し夜の果てへと拡散していく。しかし、白昼のこうでなければならないという自明のドグマよりも、得体の知れない虚体の向こうに、より本当らしさの「気配」があるとぼく達の気質が気分する。少なくとも、このような気質を持った者が「死霊」に取り付かれ、この世の自明になじめぬままあてもない深夜の彷徨を続けるのだ。
確かに埴谷はカントの先験的弁証論に接し、「自分」というもの、「世界・宇宙・存在」というものの非論理性を徹底した論理で弁証するという知の病に冒された。正しい逸脱と非在の存在、自同律の不快。どうやらドイツ観念論専攻であるらしい著者が実際のカントを示し、埴谷が何を触発されどう「誤読した」かを明らかにする。別にそれは誤読ではない。埴谷は埴谷の読み方をするだけだ。
以下、主として「死霊」に現れる議論を整理し、比較分析の手を入れ埴谷のミクロコスモス内で何が起こっていたのかが明らかにされていく。このような脳髄の徹底した腑分けは、埴谷が死体にならなければ出来なかったろう。埴谷はこの本が成立する3年前に死んでいる。生きている埴谷を分析することは不可能であったろう。ぼく達は自分達の思春期に抗い難い闇の力でもって埴谷の「死のう団」に取り込まれていたのだから。
うっと、どうも埴谷のこととなると、どうしても気張ってしまうなぁ。まるで自分の過去を分析するような気分になるのかもしれない。著者が明らかにする埴谷の解剖でも、怜悧な批判の裏に、そのような自分の青春を腑分けしているような、自己愛のような眼差しが絶えずあるのに気が付く。
戦後すぐに出した「死霊」の第三章までと、それ以降20年後くらいから順次出版された第4章以降とでは、当然作品の力点が違ってくる。そもそも「存在論」なんてことは第三章までにひとことも言ってないのだ。この間埴谷は一種独特のカリスマ作家となっている。「埴谷雄高」を演じていくうち、本当に埴谷雄高は自分が「埴谷雄高」であると思い込み初め、そして遂には堂々とした「埴谷雄高」そのものになり、それ以外は何もなかったような風になっていってしまう。
そういえば晩年の埴谷の怪気炎は、明らかに屋根裏で逡巡する黒川健吉ではなく、首猛夫の確信犯的躁状態を思わせた。第4章以降は三輪与志の思想がすべてを覆ってしまい、いわば皆でにぎやかに「存在の革命」へと向かっていくようである。
ドストエフスキーに学んだポリフォニー的展開、あるいはカオス状のせめぎあいが後半の作品では平板な単一の想念の解説になってしまい、明らかに小説としての力を失ってしまったと著者は評している。そうかもしれない。我々は埴谷の「存在論」に導かれて「死霊」を読み始めたのではなく、闇の中で何事かがうごめくような予感にとらわれて「死霊」を読み始め、それから後に埴谷の後を追ってブラックホールをくぐったのだ。「死霊」が三輪与志の「存在論」の解説書のごとき様相になったとき、あれだけ前半での存在感のあったトリックスター首猛夫は急激に小さくなり、圧倒的なパワーを持つアンチ・テーゼとして登場することはなくなってしまった、という指摘は象徴的だ。晩年の埴谷の明るさはからは「存在の不快」の果てしない暗闇を見つけることが出来ない。
当方も著者とともに小説としての吸引力の拡散を惜しむものだが、現実の埴谷としてはこの間に「闇の中の黒い馬」のようなより夢幻的な無重力の宇宙の方に向かって飛翔していったと思える。そして、前半の背景として描かれ小説の気分の基調を与えていた暗い隅田川沿いの「貧民窟」はもう現実には存在しない光景となっているのだろう。この意味で、死霊第三章まではやはり時代の気分を強く反映していたように思う。そして、その気分に何か狂おしいような青春の鬱屈したエネルギーがかぶさり、不思議な小説世界が出現したのだ。やはりベルリンの壁が崩壊して見通しがカラリと良くなってしまった時代に同じ気分が持続していることを期待するのは無理というものである。
ともあれ、当方とくらべればはるかに若い著者が埴谷の「存在論」という切り口で「死霊」を分析した手際は鮮やかで、今まで読んだどの埴谷論よりも明確で説得力があった。やはり埴谷が亡くなり、もうこれ以上「死霊」が続行することもなくなって初めて可能になった客観かな、という思いを抱く。
意外と知らなかったアレクサンダー大王の伝記。アリストテレスに教育を受け、セレウコス朝シリアのセレウコスやプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス等が大王の東征にも従っている学友幕僚である。というよりも大王の死後彼らが分離独立するわけだが。
ヘレニズム諸国の辺境であるマケドニアが、強大な軍事力を背景にアテナイに代わりペルシャに対抗する汎ヘレニズム同盟の盟主となる。若くして王権を奪取したアレクサンダーは軍事の天才であり、青年の狂的な未知に対する好奇心とヘレニズムを波及させるという理想主義とが相乗し無謀な東征を企てる。ところが、やはり神がかり的なカリスマ性があり人臣の圧倒的な支持を受け、ペルシャを通り越しインダス川流域まで制圧してしまう。この中には昨今の情勢で喧伝されるアフガンのカンダハール等も含まれるのが、今更ながらこの膨大な版図を古代に実現してしまったというあきれるばかりの行動力を想起させる。このヘレニズムの伝播が「ミリンダ王の問」、アレキサンダーの漢音である安禄山で象徴される西域人の中国王朝内の出現、やがては天平時代美術へのはるかな影響というような広大な波及までを引き起こすのである。世界史上で個人が為した影響としては三大宗教始祖の次あたりに間違いなくランクされるだろう。もちろん軍人・政治家・王様としてはジンギスカンと並び堂々の一位に当選するはずである。しかし、意外とその伝記には暗かった気がするなあ。
という訳で、この多作で高名な読み物作家が書き下ろすアレクサンダー伝、いろいろと教示されるところがありました。しかし、難をいえば文体に趣味が感じられない。やたらと読みやすいのも困ったもんだ。古代史上の話なんだからもっと古色豊かな趣向があった方が雰囲気というもので良かったのになあ。その辺がこの作家の特色なのかも知れない。
さて、さすがの軍事的天才アレクサンダーも東征から帰還するときの砂漠越えの艱難辛苦が印象的だ。4万の軍勢が1万5千に縮んでしまう。そして栄光とは裏腹な血の粛清や権謀術数の横行もある。そうだろう、そうだろう、神に愛でられし天才のままではなんとなく落ち着かないよ。
それにしてもヘレニズム理想主義に燃える若い王者の権力欲くらいは理解できるが、極寒のアフガニスタンくんだりまで兵士達の不満を押し切って突き進む、その民族融和策や合理主義とはアンバランスな無意味とも思える軍事侵攻のモチベーションは何だったのか?作者のいうように少しの「狂」が混じる性格であったのだろう。人の子として生まれた「神」であれば、われわれから見て「狂」としか判定することはできない道理である。
この作者でこのタイトルであればもう読まずとも内容が割れてしまうぞ。で、いそいそと読み始める訳である。主人公は「坊ちゃん」ではない。秋田庄内の田舎臭い孤児で、養子先が一応忍術の家元なので修行をしたという設定。この「忍者」というのも小説の筋運びには何らの必然性もない。まったくいいかげんなタイトル。
この人の擬夏目漱石会話体、諧謔自問体はさすが。前回読んだ「猫」はちょっと懲りすぎてくどかったが、今回は文体だけ借用し、人物・筋まわしは関係のない設定となっている。この手法の方が物語りとしてはベターですね。もう偽作家のように「坊ちゃん」と冠する必要もないと思うが。さて文体。音読して歯切れよく、短いセリフの中に転がっている諧謔味と日本語のリズム感は生理的快感である。文体だけでもマネているとやっぱり物語は江戸前落語の弱点だらけでそれでも憎めない登場人物達を呼び出してくる感がある。「平成軽薄体」風の軽い文体が持て囃されるご時世だけど、この「坊ちゃん」体は軽くて、一文完結性オチというギャグも盛りやすいし、なんとなく明治の文豪の古式もゆかしく大変おトクな文体ですね。
この作家の強みは時代考証が行き届いていることにもある。第二次世界大戦前夜のベルリン、大正時代の上海と来て、今回の幕末京都もなかなか芸が細かい描写をしてある。格式はあるが貧乏公家の屋敷の池に「かえるの卵なんぞがふかふか浮いている」という芸の細かさ。恐れ入りました。
困ったもんだ。先ずジョイスを読んでいない。しかし、フィネガンスウェイク、ユリシーズの言語についてのうわさは聞いた。デリダも読んでない。なんといっても現在もっとも高名な哲学者である。もちろんその名前に惹かれて読もうとするのだが。訳者達も困っている。これはジョイスの特異な言語世界をフランス語訳版と読み比べ、豊饒で暗喩に満ちた、カオス的で複雑系のフラクタル状言葉と意識の重層構造を翻訳の問題に絡めた哲学者の極めて恣意的なモノローグである。訳者あとがきにあるように『ましてや「二重拘束」としての「翻訳」の不可避性と不可能性を語った書物の翻訳である。』。一体こんなものを日本語に翻訳してどうするというのか?ユリシーズの翻訳でさえ不可能だというのに。デリダが思いを馳せるのは英語・フランス語時としてドイツ語内、あるいは言語相互間の音と意味の連関であり、意識の連想である。日本語にしてしまえば音と意味に関する連想や語呂合わせがすっ飛んでしまってカスも残らず、無意味の極みでしかない。訳者達が取った方法は克明に日本語訳語のすぐ後に括弧で原綴を挿入しておくことである。しかし、各行に原語の綴りがうようよと這い回っている虫食い日本語が果たして翻訳と言えるのか。
しかも時として文章のレベルまで括弧で英・仏・独の原語のまま引用参照されていたりする。読者がそのくらい言語に達者なら翻訳はいらんだろうとも思い、訳者の責任として原語における語呂・連想の根拠を示す誠実な方法かなとも考える。おかげさまでデリダが引用する例は言語のレベルではよくわかるのだが、しかし一体それがどこに向かっているのかとんと追っていけないのだ。はっきりいってお手上げ。それでも最後まで読んでしまうのはデリダという名前に引きずり込まれてしまっているからだろう。この翻訳が有効な場面があるとすれば、ジョイスを英語でデリダをフランス語で読める日本人が、自分の読解の参考にするためにの本を読む、という情況しか思い浮かばない。どう考えてもこれは翻訳本ではない、これは訳者達のデリダの読解研究書である。
1970年代中期、新聞で報じられるカンボジアの「鎖国」は衝撃的だった。国内の情報が一切の外国メディアに公開されないまま、未曾有の大虐殺が行われているという報道もあった。しかしすべてが未確認情報である。ベトナム戦争も決着した「現在」、そのような国があるということが信じられなかった。(しかし、今ではそのような「世界」に対する信頼はもうない。未だに信じられないことが起こっている。)
10年経って映画「キリング・フィールド」を見た。知識人・都会生活者を抹殺していく映像に戦慄した。この本でもこの映画に描かれたことはほぼ事実であると書かれている。
ポル・ポト政権が崩壊してもポル・ポト派は依然として地方に勢力を持ち、ベトナムに対抗する中国の傀儡として生き延びていく。1998年ポル・ポトが死亡、将軍達が政府軍に投降することにより1999年完全にポル・ポト派が消滅する。著者はNHKのディレクターと記者で、やっとポル・ポト時代の影が薄くなり、しかし当事者達が過去に口を閉ざしたまま老人となってやがては消えていく今しか真実を記録する時期はないというジャーナリストの意識から「ポル・ポトの悪夢」という番組を制作する。この本はその取材の記録でもある。
サロト・サル(ポル・ポト)はごくおとなしい秀才タイプの学生で、フランスに留学し当時のフランス共産党の影響下でカンボジア共産革命の夢を同士と語り合う。帰国後教師をするが、カンボジア労働者党(クメール・ルージュ)を結成、ふとした偶然で書記となる。1970年、ロン・ノルによるクーデターでシアヌークが失脚、内戦状態となり1975年クメール・ルージュがプノンペンを制圧する。このあとポル・ポトは首都プノンペンのすべての住民を強制退去させ一国の首都を無人の都市としてしまうのだ。そして児戯のように滑稽で悲惨なビッグ・ブラザーゲームが始る。今世紀の大量虐殺といえばヒトラーやスターリンの顔を思い浮かべるが、ポル・ポトはどうみてもそのような狂信的カリスマの顔ではない。温厚なおとなしい「普通の」秀才のようだ。ここでも「オンカー」とよばれる絶対組織の自己保存原理が働き、過去の悪しき組織の悪夢がすべていとも易々と再現されていく。ナチスの恐怖による支配と、自分だけは助かるための密告の横行。スターリンのやった、すべての反抗分子の大量抹殺。文化革命時の中国がやった、狂信的な正義感を植え付けられ批判感を一切もたない理想の兵としての子供(紅衛兵)の利用。あるいは、政治に向けるべき不満を隣人に対する差別というはけ口に流し込む古典的政治手法。通常これはホロコースト、ジェノサイドとなるが、カンボジアでは同民族の都市生活者・知識人に向けられたのが異例である。こういう他人を支配しようとする忌まわしい権力意識あるいは組織意識が米ソ、中国ベトナムの勢力の間のキャスティングポイントとして一種のブラックボックスになったカンボジアで、まったく外界から遮断された中で子供の遊戯のようにやすやすと大量殺人を生産していったのだ。元来カンボジアの人々は信仰の篤い仏教徒である。しかし、すべての情報から遮断され、かぎりなく単純化された局面で炙り出されれてくる裸の人間の心理に暗澹とするのである。
1.組織は意に添わない下級者を単純に殺すということ。
2.下級者は自分が殺されるよりは組織への盲目的な服従を選び、時として組織の先導をすることもあること。
自己防衛で人を殺すことは理解しやすい。しかし、組織の中で嬉々として、あるいは狂信的な正義感に燃えて他人を密告し、陥れ、殺す、権力者でもない普通の人々の存在がこの世を地獄に変えてしまう。
自分の中にある、つきつめて考えたくない社会正義感と自己保身欲の血が滴るような苦しいせめぎあいが呼び出されてしまう。多分ぼくは自分の信念や美意識を損なわれるくらいなら「死」を選ぶことくらいはできるだろう。しかし、自殺もできない情況での拷問には耐えられない。以降ぼくも鬼となる他はない。
1993年の出版。ベルリンの壁の崩壊、ソビエト連邦、ユーゴスラビアの解体、チェコ・スロバキアの分離、湾岸戦争等各地で大きな変動が続いた時期の雑誌連載記事のタイムリーな出版。全部で20くらいの各民族問題当事国の事情を4ページくらいで広く浅く概観解説している。今となってはそれほどの新しい情報はない。
序で「民族」という概念が何であるのか良く分からないということを述べている。人種・言語・宗教・血縁いずれでも区切り切れない概念である。ユダヤ人やアラブ人の定義は法的な問題も引き起こす。結局は各個人の自己意識を拠り所とする意外にないのかもしれない。しかし、これが大量殺人を伴う紛争の原因となる。
アメリカ型の自発的な国籍を選択した人々の中にあるユダヤ人・黒人・ヒスパニックというアイデンティティや中国・ロシア型の行政的に併合され融和あるいは分離独立をさまざまな機会に試みる少数民族。さまざまなパターンの民族紛争のタネがある。
情報として多少目新しかった事例を挙げておく。中国内の朝鮮族(延辺朝鮮族自治州等)は朝鮮本国への帰属運動も分離独立運動もなく政治的には安定した少数民族である。チェコ・スロバキアの分離は相互理解と協力関係を前提としたおだやかな「ビロード」分裂であった。アメリカの非WASP人口(黒人、ヒスパニック、アジア系)は増加しつづけ、あと20年くらいで人口の過半数を占めるであろうという予測。「アメリカ人」は白人の代名詞であったが、あと20年して「アメリカ人」というと、どういう顔つきが先ず思い浮かべられるんだろうか?
すっかり先端科学啓蒙ライターとなった著者十八番の科学者インタビュー。科学者達も著者の名前や力量を認めている風で、どこか仲間内風の口調になったりくだけたユーモアが出てきたりする。著者の立場は充分な理論的知識を持って科学者達に挑発的な質問をぶつけ、最先端の証言を引き出ことである。科学者達も恰好の聞き手を得て嬉々としてリアルタイムの成果を披露するのである。また相手が話しに乗ってくる理由のひとつは、立花が子供のような好奇心を持ちまるで目を輝かすとでもいったような顔で質問することにもあると思う。立花隆という名前は伊達ではない。
しかし、科学者達があまりにオプチミストなのでなんだか一言いいたくなるのだ。
岐阜県神岡鉱山の地下1000メートルに建造されているニュートリノ検出施設スーパーカミオカンデの話を聞くと、手塚治の未来科学マンガに親しんだ世代としての「夢」が実現しているような幸福な未来の思いを味わうのも事実だが、しかし地下一キロメーターに5万トンの純水の貯水湖を作るという費用のことを思わないわけには行かない。基礎科学を直接金に換算するわけには行かないだろうが、しかし税金を使用する以上納税者に対する有効性を説明できねばならない。例えば、ニュートリノの研究がストップしこの分野や波及分野での業績が日本から消えてしまったらどうなるのか?いや、世界全体から理論物理学が素粒子の段階でストップしてしまったらどうなるのか?別にどうなるというものでもない。
例えば、私は今年財政難により今まで支払ってきたすべての生命保険を解約した。それによって生活は何も変らない。この措置が将来どういう結果をもたらすかは今はわからない。しかし確かなことは、今私には将来に備える経済的余裕はないということだ。
余裕のある芸ですね。楽しんで書いているのに独り善がりにならず、われわれの文化の普遍性というような部分なんかも刺激し、楽しませてくれる。悠然たる芸というか。
作品の造りは非常に凝っている。昭和に入った東京麻布の小説家児島蕭々の家に同業者どもが夜な夜な集まり、てんで勝手に議論をしたり遊んだりしている様子を5歳になる一人娘麗子ちゃんが語ることになっている。この連中が漱石のいう「高等遊民」で、芥川・菊池・小島政次郎達のほぼ実像再構成架空モデル小説である。その時代と、いかにも彼らが繰り広げそうな議論、そしてこの文士達の文体をそれらしく作っていく、モノ書きとしてはぞくぞくするような創作の遊びになる。大泉光の漱石の偽作モノもなかなかの芸だけど、こちらの方がもう一枚上手という恪になる。文体だけではなくて時代と情景、つまりは文学がもっと一般の強い関心事だった日本のある時期の総体をドラマのシナリオ的リアルさで再現していることにもなる。当方は別に昭和の始めの東京山の手を知ってるわけではない。しかし、いつとは知らず読んでいる漱石や芥川の書いたものから、例えばお昼になる午砲(ドン)なんてものを言われると「懐かしい」と思ってしまうのである。もっと言えば18歳の夏に家出して初めて東京に行ったとき、御茶ノ水のニコライ堂とか玉川上水とか奇妙に懐かしい響きの中に実際に足を踏み入れている感覚が面白かったのだ。
これは書物・その他の架空のメディアからの知識が個人の中で発酵し実際の体験によるものと変らない存在感で根付いているということだろう。そういったことを文化というのだ。著者にとってもこの「懐かしい」記憶を再構成することは興味深い作業であったに違いない。だから全体に何かしら遊びや余裕の楽しみという雰囲気があふれている。
しかし、それだけではない。
この麗子ちゃんがとんでもないヒネたガキで、同類の三島由紀夫がモデルと思われる近所の比呂志くんとも共謀して辛らつに、逆におおいにガキっぽい大人の文士達を批判的に揶揄したりする。で、なんとも憎たらしいことに表面はかわいい5歳の麗子ちゃんを演じているのである。そういえば前回読んだ「卑弥呼」では女装して20歳の女の子になりきれるなら当方もやってみたいと思ったものだったけど、なんと5歳とはね。
で、単なる衒学的天才児比呂志くんとは違い、この麗子ちゃんは見かけは5歳だけど、精神内部は性的に成熟してしまっていて、狂気と死に取り付かれてしまっている九鬼(芥川)を女としてかなり性的に執着していて、「おしっこを漏らしそうないい気分になる」というようなアブナイ5歳なのである。ううむ。いくらなんでもちょっと遊びすぎではないの?久世さん。
造本のイラストが楽しく美しい。ニューヨークタイムスのサイエンス・ライターが執筆する科学コラムで、動物行動学、寄生虫、遺伝子やアポトーシス(細胞死)というようなおいしそーな話題を読みやすい文章で纏めている。うまいタイトルを付けているので思わず読んでしまうが、サソリやハイエナや蛇・カエル・ゴキブリの生態についての面白い話の他にも話題は飛んでいる。世界一見生涯連れ添っているように見えるつがいの鳥でも、巣の中にはメスが不倫をした他のタネの卵が何パーセントとか常に混じっているという話とか、華麗で貪欲な蘭の受粉戦略とかは別に嫌われ者でもないよーな。更にいえば後半には先端の研究者2/3人のインタビュー記事なんかもある。それってやっぱり「嫌われ者」ってあてつけなん?
要領よく読みやすく仕上がっていて、こういう書物を評するのに「恰好の読み物である」という言葉があるんだろう。
さて、訳文。日本語として自然で優秀。糞の中の一大食物連鎖の生物生態系の話は記事としても面白かったが、「食糞コガネムシにとってこれはまさにフン刻みの作業だ」というごろ遊びは、うまくやりすぎて原文を見れないという欲求不満を引き起こしてしまう。
しかし、とここで書いておかねばならない。女性のセリフのステレオタイプをなんとかしてもらいたいものだ。
女性科学者(ヴィクトリア・エリザベス・フォー)のインタビュー記事からの引用。
「胚を見るのは最高におもしろいわ」「まるでお祭り気分よ。わくわくするほど楽しいの。」
これって女性としての翻訳者が、本当にご自分でこのような言葉使いをしているとは私には思えない。本当に原文の英語でそのようなリズムを感じたとしても、日本語に写すときには日本語の社会的文化的な枠組みの中で言葉を選ぶべきだ。こういう紋切り型「若い女性」口調でセリフを置き換えるのは私には差別意識としか思えないのだ。
これが辻邦生の遺作である。あとがきで辻佐保子が書いているように、この作品は「ほぼ二十年におよぶ過去の懐かしい記憶をあれこれと追体験しながら、心をこめて最後の一年を共に過ごすための本当に貴重な機会」になった自伝であり同時代者の評伝であり、なによりも「ある時代に生きた青春の群像」(前書き)への回想である。そして読んでいるぼくにとっても自分自身の青春への深い回想を呼び起こしていった。だからこの書評は大きく逸脱して死んだ辻邦生と、死んだぼく自身の青春へのオマージュとしたい。作家が亡くなった時には、日常の雑事にかまけてぼくにとってのこの作家の意味を深く考えることはなかった。今改めてこの本を通じ、ぼくの中にずっと生きつづけていた「辻邦生のようなもの」を確認し、そして遅まきながらまったく個人的にその死をここで悼みたい。
最近痔が悪化し肛門がひりひりする。最初は単なる違和感だけど、歩くのが億劫という気分が心理全体を憂鬱な調子に落とし込み、自然に生きること自体が煩わしいという所にまで行く。まるで胴体の下端からエーテル状の精神がたらたらと漏れこぼれて、人間としての脈絡を保とうとする中身がどんどん減っていっていくような気分である。これがぼくが自覚する「老い」の端的な症状といってもいい。そしてその「減っていく中身、エーテル状の精神」を、かつてまったく逆方向の頭から注ぎ込んでくれていたのが、若い頃親しんだ辻邦夫の作品だった。もちろん他にも多大な影響を受けた作家も多いが、この人の場合は端的にいって、ぼく達が生きていくことに戸惑う青春期に、生きる喜びに向かおうとする自然で心楽しい方向へのパワーを注ぎ込むんでくれたような思いがある。今、自分の老いを自覚する時点になって辻邦生のこの作品を読むと、どうしても自分の過ぎ去った青春を共に過ごしたというような懐かしい仲間意識を抑えることができない。それが一読者の勝手で一方的な片思いであるとしても。
「私は長編小説の連載も初めてなら、小説の書き方について何か具体的な手法を身につけていたわけでもなかった。ただ書いていて、何か胸が晴れていくような不思議な幸福感を味わった。他人の書いたものを読むのとはまったく違うこうした幸福感を、途切れずに吐き出してゆくことを一つの目安として書いていった。」(『回廊にて』について)
「それは決して容易な執筆ではなかったが、『書くこと』が言いようのない至福であることを、その夏、私は心底から味わった。」(『夏の砦』について)
ぼくは自分の個人としての人生の最初の段階を通過していく傍らに、このような晴れやかな文学に喚起され、鼓舞された昂揚をも持っていたはずである。しかし、
ぼくが自分の愚劣な過ぎ去った人生で、ただひとつ派手に「青春」的と呼べる決断をし行動を起こしたのはフランスに「留学」という名目で移住したことである。もう二度と日本には帰らないというつもりだった。最後に読む日本語の本として当時の蔵書の中から森有正「バビロンの流れのほとりにて」だけを持っていった。実は「唐詩選」と「土佐日記」も持参したが、これは意識して書店で買ったものだ。そして、実際に置いていった残りすべての蔵書は帰国したときには綺麗に跡形も無く消滅してしまっていたのである。以降、辞書類を除いてぼくは自分の蔵書といえるものを所有したことはない。図書館の本を借読する習慣が、防忘禄としてのこういう読書禄を付け始める動機になっている。二十歳台の乏しい給料の中から買った本のことは鮮明に覚えている。その中でも高価につくセットの本のことは今でも古書店で見かけるたびに慌てて目をそらせてしまう。死んだ子のような意識がある。堀田善衛全集、埴谷雄高の河出から刊行されていたすべての小説と未来社の全対話シリーズ、澁澤龍彦集成とそして辻邦生作品集。
もちろんこのフランス渡航の動機は単純ではなく、特に最初はドイツに行きたかったのだ。けれども、いろんな事情でフランス留学と決めた後は、読みつづけた辻邦生の小説やエッセイで描かれた情景が去来し、やはりフランスでいいのだ、という思いがあふれてきた。特にこの人の描く旅行先の自然描写の例えば「体がこなごなになっていくような幸福感」というような表現のみずみずしい感受性はぼくのまだ柔らかかった精神に侵みとおり、晴れ晴れとした昂揚がしばらく続くのだ。この時期は、常に「愚劣な」という形容詞をつけねばおさまらないぼくの人生を通して唯一の「辻邦生的」生き方に一番接近した時だった。この作家の作品を読まなかったとしたらフランスには行かなかったのは確かなことだ。
もちろん、神に愛でられしミューズの子孫であるこのような才能はぼくには無く、その後の人生でも文学あるいは芸術のようなものが生活のコアとなることもなく、ただ日々の糧をいやいや得ているだけの愚劣で猥雑な一生となってしまう。そしてこの作品の大きな主題である共に生き、語りあった同志的同時代者・友人・師・妻、そういう人々との豊かな交友関係が、ぼくにはまったく欠如したまま早くも老い、人間としての店じまいを始めてしまっている。
かつて一度「辻邦生的」選択をした。ぼくはこの作品で語られているような文学と青春と自然への憧れや、語るべき友に囲まれた世界で生活していきたかったのだ。しかし、その意思を貫徹することはなく、ずるずると意に添わない日常を引きずってここまで来てしまった。実に愚劣で無残で無念である。この不如意が今のぼくのメランコリーの主成分になっている。例えばフランスから撤退してから後、この25年一度も辻邦生の本のことを他者と語り合ったことはない。いつも場違いなところで生きているという思いが心底にあってどうしても払拭できない。荒廃した精神が、荒廃した社会にどうしょうも無く吹き寄せられるように、日本でもっとも散文的な町に今日も働きに行く。
ぼくが「辻邦生に影響されてフランスに行った」ということを、事実として他者に表明したことがある。アルザス滞在中に当地に分校設立を準備していた成城学園に通訳として就職活動をし、東京の成城に出かけ、当時の高校部校長の諸我氏の面接を受け、何かのきっかけでそのような表明をしたのである。
後、実際にアルザス成城学園設立の学園側通訳として諸我校長他氏と2週間ほど一緒に生活した。そのときこの校長がフランスに分校を設立する案の主導者で、そしてその公式でないほうの内的な動機がこの校長先生の「辻邦生」読みにあることが判明するということがある。あるとき諸我校長が遠方で開かれた退屈な会議をすっぽかして、ぼくを案内人にし、二人でホテルまで鉄道で帰ったことがある。そのとき、成城でのぼくの「辻邦生に影響されて」というセリフをサカナに、この一世代上の数学の先生にして文学青年と親しく仲間として語り合ったということがあったのだ。「パリのクリュィニューの修道院には他にも素晴らしいものがある。知ってる?辻邦生作品集の」「淡い緑色の表紙のやつですね?」「そう。その表紙の裏側の意匠に使われているのがベリー候の時祷書。クリュィニューで公開されている。」「ああ、あの綺麗な色彩の。そうだったんですかぁ。」というような会話を親しくしていただいたのが懐かしい。そしていうなら、それがぼくが辻邦生のことを共に語る相手を得た最後の機会だったのだ。
まあ、この作品にも感じられることであるが、自分の青春を次第に美化していくのは個人的回想としては避けられないことだ。ぼくの場合も一方では「辻邦生的」生き方をしたいという希望があったのは確かなことだが、しかし同時に鷲巣繁男という詩人のことを抜かすわけにはいかない。
大阪の西成区萩之茶屋商店街にあった古書店「津田書店」の店主の座っている直ぐ後ろの、多分ちょっと高めの本の棚に何年も動かずにあったので気になっていて、遂に著者が誰だかも知らずに買ってしまたのが「定本鷲巣繁男詩集」だった。いいかげんマイナーな詩人だけど、後に現代詩文庫の一冊で「鷲巣繁男詩集」が刊行されていたので無名というわけではない。とにかくひょんなことでこの詩人の読者となったのである。そして、この博識な詩人の生活に辻邦生の場合とはまったく違った形の生き方への啓示を受けた。
東大仏文切符はもとより基本乗車券である大卒チケットさえ持ってないぼくが、いくら辻邦生の青春をイミテたいと思っても、既に本人自身がそのように生きていけると信じていたわけではない。ただ、生涯かけて憧れるような美女と一度でいいから寝てみたい、そしたら後の人生はもう何もなくとも生きていける、とでもいうような一点豪華主義風フランス留学だったのだ。
鷲巣繁男は横浜の旧制中学を出、一時中央文壇で賞をとったりしたが戦争で札幌に疎開したきり、そのまま定住し印刷屋の校正係りをして身過ぎをしながら文壇とはほぼ無縁に書き続けた。
「定本詩集」を所持し、何となく無名の詩人との絆を感じていたが、後で多分現代詩文庫版の解説等であの博覧強記で、もちろん東大仏文、まったく違った貴族的かつ趣味的文学者澁澤龍彦がまるで兄事するがごとく札幌の鷲巣繁男に接しているのに驚愕した。そこでようやくこの地方の印刷屋の店員が西欧古典とくに呪術や悪魔学・カバラ教義等の紛れも無い権威である事実を知る。いわば澁澤龍雄がかっこいいのは当然で、まあ誰が見てもかっこいいのであるが、実はこの鷲巣繁男の方がもっとかっこのいい生き方だと思ったのである。
辻邦生的人生のマネはたった一回しかできなかったが、見かけはただの地方の印刷屋の校正係だけど、その実は大変な文学者という詩人のマネだったらなんとか。というワケではないが、何かしら「こういう生き方もあるんだ」という納得を与えてくれる。華々しく中央で文学者として生活しているわけではなく、どんな生活をしていても文学者でありつづけることは可能なのである。現在、大阪のもっとも散文的な町の印刷会社で働いているぼくは、ときどき苦し紛れにこの詩人のことを思いだす。
さて、この作品は辻邦生はまったく辻邦生風に生きたんだなぁと、今更のように思わせる。「文学は生きる喜び」と何のけれんみなく書ける小説家が果たして何人いるんだろうか。辻邦生の作品に自分の人生が導かれていった時がある。しかし、ぼくは辻邦生になることができなかったのは当然だ。やはり辻邦生のように生きることができるのは辻邦生しかいないのだから。
ともかく、「文学は生きる喜びなのだ」という昂揚に満ちた人生を終えた作家をここに哀悼するものである。
最近翻訳文学の女性のセリフの臭さに閉口することが多いが、この作品の中で見つけた女性口調は参考としなければいけない。大学生の辻邦生が車内でたいへん上品な婦人と乗り合わせ、その婦人が降りるときにこの学生にいう言葉「あなた、そんなご本読んではいけないわ」。ある時期の日本の、ある場所ではこのような女性口調が行われていたということはあったのだろう。
話題についていきたいが、入門書を買って読んでも細かいところを理解するのがメンドくさくって放ってしまうという文科系出身サラリーマンの為の理科系の、一応先端科学の語彙にちょっとは触れる清水得意のくすぐり文体サイバラマンガ付き週刊誌連載記事単行本第二弾。昔「よっちゃんの勉強マンガ」という本があったよなぁ。触れている話題は:生命、生物、性分化、発生、遺伝とつけたしで宇宙、ロケット、ビッグバン。本人が買った参考書で読み飛ばした細かいところをすべて外し、話題として面白い部分だけを軽妙な文章で読ましてしまおうという本。サイバラマンガのテーマには本質的にまったく関係のない位相のズレも奇妙なノリのよさがある。結局、こんなテーマでも「笑い」を取れるぞ、という作家とマンガ家の芸を見せてもらっているということか。
でも、自分は素人であるがと開き直って考えてみる科学には、時として本質的で意外な鋭い指摘があるのを感じたりもする。ビッグバンを解説していて「論理的帰結」ではそうなるが、一般的感覚では「そんなバカな」という気が打ち消せないということを素直に漫才化している章は意外とタメになりました。論理的なことが真実で、心理とは論理が整合していることだというのは近代にドグマに過ぎないんではないか、と私も最近思ったりもする。
素粒子やビッグバンを研究している大学系学者と、この世は絡みあった業から成っているとでもいう尊師達とは何も違いはないのではないか。一方が公的に承認されているのは「公的に有功である」からだとすると、イスラム原理主義の方が政治理論としてはもっと実効があったりする。どうも近代国家であるという自負がやみくもに科学万能主義に走るという見栄を生んでいるのではあるまいか。「真理」は論理の積み重ねだけで到達すべきものであるという、いわば罪刑法定主義のような、一見公平そうなルール。
しかし、実用目的から体系化されていった法律と科学とは自ずから素性が違う。「真理?そんなこと別にこっちの生活には何の関係もないじゃん?」という気分は何時までも消えることはない。結局車内で読む週刊誌の時間つぶしネタを提供することだけが「(科学的)真理」が確実に果たせる役割ではないの?もし、応用科学の実際面の有効性をいうなら、どこの社会でも行われている大小の宗教の心理的有効性も無視することもできない。だから科学的真理って一体本当は何の意味があるんだろう?ハイゼンベルグの不確定性原理のように「本当のことは誰にも解らん」ということを証明すること?あるいはホーキングの人間原理のように「普遍性とは価値の中心は自分自身である」と証明すること?
どこでどーゆー風に真理の探究をやってても別にかまいませんが、私ごとき貧乏人から巻き上げた税金を別にどちらでもいいような「真理」探求に使わないで欲しい。私自身は論理を積み上げて壮大な仮定を組み立てるような見世物そのものは嫌いじゃないんだけど、それってあくまで個人の趣味でするもんだと思う。でなきゃ賛同者からの会費だけで運営する科学研究法人とすべきだろう。そうなったら私が面白いと思った研究だけにお金を払います。好きなコンサートのチケットを買うみたいにね。
緑の森のカラー写真を全面に扱ったすっきりとした装丁は、なにやら「環境」問題がらみの内容ですよと暗示する。突然ビルの一室で巨大なオスのローランドゴリラが語りだす。そうだったのだ。これは人間だけの住環境をいうヤワな「環境小説」ではない。老練なローランドゴリラがこの300万年間に最終的にホモサピエンスとなる人類が行った悪しき選択を、うんざりとしながらではあるが、諭していく物語である。
旧約聖書時代にあるグループが達成した農業革命が人類のあるグループ「取るもの」を作り出す。それまでは狩猟採集社会であり、基本的には人類も残りの生物と同じ「残すもの」であったのだ。「残すもの」は必要なものだけ採集し、「取るもの」のようにとり尽くし、全てを所有することはなかった。旧約の神が採集者アベルの捧げ物を祝福し、農耕者カインの産物を忌み嫌った所以である。この時人類は、楽園から追放され自らが神となって全てを主催しようとするのである。農業は果てしない拡大生産システムを内包している。現在必要でない食料の生産。更に貯蔵。これが富になり、仏教の言い方では「欲」となる(とは書いてないが)。先ず「母文化」が常に私達に働くこと、生産すること、物質的に豊かになることという文明の神話を語り、私達は他の動物とは違う存在にならねばならないという勤労神話の刷り込みを疑うことはなかった。食料の増産が果たして飢餓を克服したか?人口は増産した食糧に見合うだけ増加し、飢餓人口は無くならず、遂には地上の全ての土地を生産の場にしようとする。つまり、この「取るもの」は必然的に全てをとり尽くすまで拡大し、地上で一人勝ちし全てを滅ぼして自分自身が終わるのだ。まるで寄生虫が母体を食い尽くした時点で自分も存在できなくなるように。狩猟採集社会が農耕社会よりも貧しかったという根拠はない。狩猟採集社会は日に2,3時間の労働だけで「食っていける」高度な余暇社会であったという研究も出てきている。云々。とゆーよーなことをこのローランドゴリラのイシュマエル師は語るのだ。この動物の引っ込んだ眼窩が特徴的な顔つきを思い出し、最初この賢者ぶりとは小説的誇張のミスマッチと思えたが、しかしなかなかかなりそれなりに納得する配役と思われてくるのもなんとなくおかしい。
そういえば、3つ前に読んだ「嫌われ者ほど美しい」という本の中でも、一回狩りをすれば2週間は何もせずにぶらぶらしている優雅な肉食獣の話があった。仲間を襲ってライオンが満腹したら、何事も無かったようにそのそばでまたガゼルが草を食べ始めるんだったなぁ。それから「植物化しつつある動物」ナマケモノなんてのもあった。
うむ。農業だったんだなぁ。農耕がすべてを変えたキーワードだったのか。自分の手で食べ物を作り出したとき、人は神の手から離れて自分の力で食べることを始めた。そしてそれは無限に続く自転車操業的生産の始まりだった。なんとなれば、もう神様が恵んでくれる食べ物に依存できないのだから。
確かにこの本の説明は前世紀の経済主導型生活と全世界をアメリカ化(アメリカ奉仕国化)せずにはおかない今世紀への私の嫌悪の源泉を明確にしたところがある。
農耕思想が私達に染み付いていて、天からの食物を当てにせず、自分の力で生産し、貯えるという「気分」が人間の基本的生存条件のように思っていた。経済情勢が逼迫してきたので個人的には、蓄財・将来への備え・富の他人との比較・自分が出来るだけ永く生き続けること・病気、事故を極端に嫌うこと、つまり「無い」ことへの極端な恐怖を克服しようとしてきたのだけど、それが農耕してきたことに根拠があると示されれば納得してしまう。経済主導が諸悪の根源のような気がしてたが、結局生産の余剰がなれれば市場も成立しない。農業的食料生産法がモノを蓄積し商業を可能にするんだった。
この本の示す「行動指針」はどちらかというと他の生物を絶滅させずにはおかない人間の傲慢さを反省し、自分自身を含めた人類が「かつてのように」すべての生物共同体の代謝の環に違和感なく収まるように「縮小」していいくことを示唆しているのである。ここでも、しかし、基本的なヒューマニズムまたは人間に対する信頼は失われてはいない。おだやかに人類は元の場所に回帰していくという未来像がある。私自身はそこまでの、この人類に対する運命共同体意識はない。はっきりいってもう隣人達の集合体としての人類とは無縁になりたいと思っているのである。
この翻訳者はこの本に入れ込んでいる様子で、よく内容を咀嚼した素直な訳文である。しかし「ソロンやドラコやモーゼやイエスやモハメッドのような予言者が必要だった。」 というように致命的な誤訳がある。これは「預言者」でなければならない。
推理小説として読もうとしていたのだ。それにしてはいやに細部や心理描写が饒舌で漢字カタカナがうるさく、これはストーリーを楽しむのに枝葉の飛ばし読みをしなければならないと思った。大きな間違いだった。これは細部に至るまで豊饒な言葉によるエネルギーに満ち、詩的でさえある文体に支えられた恐るべき文学だ。
<<死はドイツからきた一人のマイスターだ>>という印象的なリフレイン。
ドストエフスキーの「大審問官」を思い出させる修道士のたとえ話、『何もわかってない神』に激怒して立ち去り、ナチスのSSの制服を着て殺戮を繰り返すイエス。
切断されたおぞましい死体の生々しい描写をする言葉の客観性。
生まれてくる子供を悪の根源と意識する妊婦の悪夢のような心理描写。具体性のない白昼夢の描写だけの数ページを読者の意識をひきつけ高い注意力を維持させたままにさせておくような文章力は、トーマスマンの「ベニスに死す」のエッシェンバッハの悪夢を思い起こさせる。
ナチスのホロコーストを廻り、小説的に一癖も二癖もある人物達が「絶対悪」とは何かを語り、演じていく。縦糸としての惨殺犯探しのストーリーは犯罪小説のジャンルを標榜するが、語り口の異様な迫力はジャンルを突き抜け、我々の生きている世界自体の不安定な様を想起させるに至る。小説ではあるが、作者の強烈な世界観が文体を通して伝わってくる。
この意味でドストエフスキー「罪と罰」、中井英夫「虚無への供物」や埴谷雄高「死霊」なんかを思いおこさせる。高村薫の大阪西成モノ(?)のことも思い起こさせてしまうのは、作者がまだ若い女性だからか。小便くさい大阪の下町の荒んだうす暗さを高村という女性が表現していることは驚きだったが、この作品の根底にある人間の魔とでもいう他ない犯罪性を現代史、政治、神学上の概念と言葉をからめ、くっきりとした小説的造形としているのがこの年齢の女性だというのは信じ難い。これはフランス文学史上にときどき見られる、ランボーやラディゲのような早熟の天才現象なのかもしれない。
訳文もすごい。原作の畳み掛けるような抽象的イメージの連なりを、この人は日本語のエネルギーに置き換え文章とする術をものしている。あまりに良く出来ている日本語なので逆に文章の半ば以上は翻訳者自身の文体なのではないか、という疑いを抱いてしまう。こういう作品の場合、文体は作品の文学的価値のかなりな部分を占める。更に言えば、この訳文は原文より触発された訳者の創作部分も混じっているのではないか、とまで思うのだ。
この訳者の文学的表現力とは別に翻訳者の態度として訳のわからないものがあることを指摘しておく。
当然日本語化しなければならない言葉がそのままカタカナで書かれている部分が前半で特に目に付く。例えば「フラン・マソン達」と生のままのフランス語をカタカナにしても訳したことにはならない。解せないのは、後半では「フリーメーソン」とちゃんと「日本語」になっていることだ。その他髪型の「シメノン」、東方ユダヤ人を指す「アシュケナージ」等日本語にはなってない部分が目に付いた。後半にあるかなり昂揚したセリフの中「おまえは大勢だ!お前はレギオンだ。」というのがある。これは何なんだろうか?言葉の響きだけを生かしたとでも?これは大変な手抜きというべきだろう。しかし、これだけの日本語使いである。本筋とは関係が無く文脈上推測のつくような言葉にはいちいちテストの答案のような解説的翻訳を付したく無かったのかもしれない。
この項を書いてから訳者のあとがきに「本書は、諸事情により、原文のテキストを何ヶ所か書きかえて訳したものである。」というさわりがあるのを発見した。かなりな主体性をもった翻訳者だということは確かだろう。私は主体性が恣意性となっているのではないか、とふと疑がったりもするのである。かくのごとくすばらしい訳業だということだ。
偶然とはいえ、よくも極端に違う本を続けて読んだモンだ。↑上の才媛アベカシスの作品は若い女性の筆であるのに驚愕したが、よく考えるとあれだけのアイデアと言葉を凝縮していく作業は若い頭脳でないと持たないのかもしれない。まあ、原平サンも若い頃はニセ1000エンとか、アカイアサヒとかトガってたところもあったんだ。しかし「老人力」。なんといっても「老人力」。これなんかいかにも赤瀬川原平って気がしますね。まともにぶつかってるんではないが、それどころか、もとから勝負からすたこら逃げ出してる姿勢なんだけど、却って普通に勝負するより反響があったりして思わぬ力を発揮するよーな。とにかく「老人力」を発見というか発明しちゃったんだもんな。初めに言葉ありき。的確な言葉さえ作れば実体は後からなんとなく吹き寄せられて集まってくるような。
ぼくだって「老人力」と聞いた瞬間に実体がすっと入っていくのを感じたからね。それってアレでしょ?前世紀の「力・金・健康」オムニポテンツ・グローバリゼーション・パラダイムへのアンチテーゼでしょ?ちゅうか、単なる開き直りともいうが。「年寄りのどこが悪い?」ってね。
ぼくもとにかく人目が気になる人だったので、例えばピンクの煽情的なネオンが点滅する店に入ったりすることができるようになるにはかなりの老人力の修練が必要だった。うむ。あまりに適切すぎる例だったかな?でもまあ、その割には傍若無人な会社の同僚あるいは隣人達の素行にすり減らされる余計な神経が細いまま残っていて、今日も胃が痛い。このようなちゃちな日常の刺激に無反応になっていくにはまだまだ修行が足りないと思う。老人力の達人ともなればもう、生きながら死んでるような至高の境地に達するんだろうなあ。いいなあ。
当方も、「忘却力」や「立たない力」の研鑚を積み、最終的には「死亡力」もりもり状態の、この道・十年の大権威になれる自信はある。でも、これってやっぱり「若さ・力・効率」的世界の中だからくすぐりの冗談になっているんではない?「まだ若いですね」といわれて喜ぶようなバカげた老人が、ちと多すぎる。懸命にプールに通い、アートネーチャー・高須クリニックに大金をはたいているウチはいいが、もうどうにも隠しようがなくなったらどうするつもりなん?そのときに「いや、今度は老人力がついてきたんだ」という自嘲の笑いで誤魔化すしかないんじゃ?要するに「老い」が現代ではあまりに悲惨なので、笑って誤魔化そうという、臭いものにかぶせるフタを若向きデザインにした、というのが「老人力」ブームの本質のよーな。わざわざ「老人力」と意気込んで見るその心根がいやしい。さっき冗談で言ってみた『「死亡力」もりもり』のように、何事も「はちきれんばかりに在る」ということでないと落ち着かない心的貧乏人根性がまる見え。ふつーにのほほんと老いて死ぬことすらできない変な世界になっちゃってるんじゃない?やだな。
テレビで見る西部はパイプをくゆらし、イヤミたらしい論客で、中沢新一の東大助教授就任が拒否されたことに反発して東大教授を辞したというように反骨・独立独歩というようなイメージもある。思想的にはどうだか知らないが、精緻な理論に裏付けられた「正論」を展開してくれるという期待を抱かせる。さらには内なる、アメリカが象徴する生産・経済のみに価値をおいた20世紀の思考様式を何とかして押さえ込もうとあくせくしてる私には多少期するところがあったのだ。
しかし、先ず西部の文体には閉口させられた。威勢のいい名詞が羅列されている演説弁論調とでもいう他はなく、読むにつらいものだ。下部構造である論理が正しくとも口調が反発を抱かせることもある。逆にいえば文体で丸め込まれてしまえば、論理の正当性なんてどうでもいいというようなところが私にはあるな。
「日本国憲法がちょうど五十年を閲(けみ)した。つまりそれはおのれの天命を知るべき秋(とき)に達したわけである。」「そうであればこそアメリカの訴訟社会は、法律的アルゴリズムのみせかけの下に、実際には、三百代言めいた弁護士の跳梁跋扈する場所になりはてている。」
このような漢文調美辞麗句を見ると内容が調子のいい言葉の勢いに押され、厳密な意味の検証が妨げられるのではないかと危惧を抱いてしまう。文体に内容が押されていくのは当然なので文句はいわないが、ちょっと大時代的なセリフにすぎるのではないかと生理的に反発してしまうのだ。
カタカナ語も一方ではテクニカル・タームでもあるので仕方が無い部分もあるが、もう少し整理すべきである。
チープ・レーバーつまり安価な労働を武器として」
その新市場のエマージング(出現)にもとづくメガコムペティションのなかで」
「ノントレーダブルな産業に、つまり不動産業や流通業に」
ザ・ウィナー・テークス・オールつまり勝利者が市場を席捲する。」
その人の視野はマイオピック(近視眼的)になる。マイオペアにかかった人々が」
政府は夜警国家であるべきだなどという・・・が、ナイト・ウォッチング・ステートという」
「『小さな政府』をいうことができるのはレッセ・フェールの徒にかぎられる。」
「政治家や役人にレント・スィーキング(利権探索)の行動である。ベステド・インタレストといいレントといい、」
「ハイブリッド・コーン(雑種とうもろこし)」
この日本語で言い換えるクセはやめてくれよ。それなら最初から日本語で書けばいいのにと思う。「レッセ・フェール」はフランス語だが、「放任主義」とでもいう専門用語化してるんだろうか?あまりにも安直なカタカナ語の使用である。
「アメリカの属国人よろしく、アメリカニズムとグローバリズムとキャピタリズムの三位一体の前で拝きする、そんな日本人の姿は滑稽というよりも醜悪だということである。」個人主義、アメリカ流の経済自由放任主義とその伝播の結果である規制緩和というような傾向に激しく反発する。西部によれば、例えば規制緩和は公の任務の放棄であり、アメリカのように果てしない個対個の訴訟社会を生み出すだけだとする。そして、各国家の歴史や慣習という伝統的価値の復権を対立項として提唱する。ここで西部が単純なナショナリストと一線を画すのは、なかなか面白い「良識」觀を提唱していることである。
的確な引用ではないかもしれないが、「自由と秩序を平衡させるところに活力という徳が、平等と格差を平衡させるところに公正という徳が、友愛と厳格を平衡させるところに規則という徳が、それぞれ生まれてくるのである。この平衡の支点を指し示すものこそが、歴史的英知という意味での良識なのであった。」という文章に見られる、ある種のダイナミックな良識というポイントの定め方は核心をついていると思える。ここで国粋的ナショナリズムであれば、単にアメリカニズムの裏返しという硬直した立場でしかないということが逆に浮き彫りになってくる。「人間の活力ある状態とは、私的欲望と公的欲望とが互いに影響を与えつつ平衡を保っている場合のことではないのか。」アメリカニズムが私的欲望の追求をかけがえの無い善とみなしているのは自明である。しかし、現在アメリカの数人だけが勝者になって残り全ての人数が敗者になってゲームの決着がつきかけているのがはっきりしている。このとき強大な少人数の支配を抑える調整者としての「公」の役割が必要だ。そして調整者としての集団の利害の代行者が国家であるはずだ。西部の論は「個と公」「伝統と革新」といった対立要素の戦略的もしくは政治・経済上での実質的な配備を示唆している。その意味では期待は満たされたのだけど、言葉と立場の違いへの違和感はどうしようもない。
表紙カバーの絵が美しい。カイ・ニールセン(デンマーク、1886-1958)という挿画家のものだそうである。20世紀初頭のパリでのオリエンタルブームのエキゾチシズムの反映と、クリムトなんかの装飾的なデザイン感覚が華麗な画面を構成している。そしてこのタイトルにだまされて本を手に取る仕組みになっている。しかし、内容はラテン語・イタリア語の文献が大半を占める膨大な参考文献リストも付属したかなり専門的な歴史書。とおい中世のイスラム型王国への憧れだけではカタつかない。
12世紀シチリアにノルマン人征服王の元で五十年ほどの栄華を見た王国があった。歴史的地理的経緯によりギリシャ系やイスラム系の住人も多く、ユダヤ人もいる。パレルモにあった王宮では主にこのイタリア(ランゴバルド)人、ギリシャ人、アラビア人達が官僚となり北欧系のノルマン人の王の元に宰相を努めカソリック、ギリシャ正教、ユダヤ、イスラム諸宗派が共存していた非常に面白い歴史上の特異点である。最近よく聞く”12世紀ルネサンス”という西洋史上のメルクマールの端緒を実はこの王国が開いたといえないことも無いというのが著者の主張するところだ。公文書がラテン語とギリシャ語とアラビア語で残されていて、読者は初っ端から著者による古文書解読作業のレッスンを受けることになる。また、この国を専門に研究する学者もそんなに多くはなさそうなので、著者にそそのかされてパレルモの古文書館で2,3年アラビア語と格闘すれば、何とか世界的権威の一人になれそうな気もしたり。するわけもないが、とにかく著者は若くしてこの道にのめり込み、そんなに厳密でもなさそうだった中世シチリア王国学会の通説に新風を吹き込んでいる若き権威となってるようだ。そういった「学」へのけれんみのない素直な好奇心がところどころ読み取れる、専門的一般啓蒙書という感じの本である。
この時期のパレルモの人口約10万。比較としてパリ、ナポリ10万。ケルン、ローマ、マルセーユ5万・・というような資料が掲載されている。1000年前のヨーロッパでは都市といっても殆どは5千人規模のものだったとコメントされている。というようなところで読者としては中世ヨーロッパにしばし思いを馳せるのだ。現在のわれわれの周囲を取り巻いているバックグラウンドとしての騒音や光の交錯を消し、うっそうとした森に囲まれたわずかな耕地と集落。ローマ時代のローマは別格だったろうが、圧倒的な人の少なさ。しばらく現在のこの異常な人口を想念上で消し去る作業に熱中したりする。
関ケ原合戦期の山陰の小藩鹿野亀井家の庶子鈴木八郎右衛門が藩の事業の御朱印船貿易を通じて渡ったタイで妻女を娶り帰国して帰農する物語。しかし、この戦国末期の国際結婚には深く踏み込まず、単にその後の士籍返還と開墾事業、一時取りざたされた藩主復帰の策謀といったプロットが小説の時間内で語られ、妻女のタイ人はいかなる小説的策動もしない。単に主人公の鷹揚な性格を述べるに、外国人妻に対する分け隔ての無い処遇を一例としてあげているような扱いに過ぎない。タイトルに曳かれて読み始めると最後までカタルシスは訪れない。もっとも、妻女がタイ出身としか伝えられていない事実からは小説的に膨らませるということは不可能なことかもしれない。まあ、そのような事例も戦国末期にはあったということを頭にインプットしておけばいいというものだろう。
この人の文体は基本的に大時代的「であった。」調で、特に以下のような構文に違和感を覚える。
「しかし、常日ごろは、禁酒が守られ、勤勉いちずな村人であった。」
「四ヶ月余ぶりり、激しく睦みあった八郎右衛門とサクラである。」
これって、あんまり文才がないけど何か書いてみたい中年女性がひところ多用していたようなソレじゃない?違和感とともに何かしら見てはならないものを見てしまったような気恥ずかしさを感じてしまう私なのであった。
現役弁護士が書いたリーガルサスペンス。かなり厚い本で退屈はしなかったが、もうひとつ何か興奮させてくれるような要素が欲しかった。ひとつには法廷場面があっさりしすぎていることがある。法廷での目のさめるような弁護士の活躍がテーマではない。事実としては有罪の犯罪者を弁護して無実を勝ち取るという弁護行為の欺瞞性を自問するのがテーマのひとつになっている。法とモラルの矛盾。刑事犯の場合、検察側は犯罪が行われたことを充分に立証しなければならない。これが立証できなければ、つまり、陪審員が「検察官が充分な根拠でもって犯罪を立証した」と思えなければ容疑者は無罪となるのである。これは「容疑者が無罪であると考える」こととは別の話だ。だから法で善悪の決着がつくというわけではない。社会システムの基本的な約束事として法による決着を、正式な社会での決着と便宜的に取り決めているのである。まあ、このへんのアヤを伏線として物語の結末で一回ひねり返してある。アメリカ産のエンターティメント小説で、主人公に物語とは関係の無い家庭生活だとか恋人だとかがおまけで必ず絡んでくるのに辟易していたのだが、今回はそのあたりもちょっとヒネられてしまった。つまり、おまけの余計な登場人物と思っていた主人公の恋人が実は真犯人だったりするのだ。おっと、ネタをばらしちゃった。ごめんね。
あ、っと。翻訳評。手馴れた危なげない翻訳で、翻訳者を感じさせなかった。翻訳者というのも矛盾した存在で、翻訳文が良ければ誰も翻訳者の存在を感じないのである。この人の訳しかたで気のついたことをひとつ。わざわざ「このメス犬め」なんて不自然な日本語にしようとはしないで、「このビッチ」とそのままカナ書きしてあった。そのくらい解かっている読者を想定していると思われる。そうしていただいた方が読者としては気持ちがいい。
10巻目の今回は通史的年代記ではなくて、ローマの街道と水道をテーマにした特別編で、カラー写真の添付も多い。人物ではなくてインフラストラクチュアーそのものの話なんて別に面白くもなんともない、と思いはするが、そこはソレ、いつもながらの徹底的に個人の感覚からの、著者にいわせれば素人の目からの屈託のない語り口につらつらと一気に読まされてしまうのである。前回も確か登場した「うちの息子」も出てくる。今回はカエサルがガリアに攻め込んだ真相のうがった意見をはいている。前回は通っている学校の話だったと思う。こういうのも「正式な」あるいは「公の」歴史書にはない。 この「公」と「私」という区別ということに今回のテーマに関連して多くの示唆を受けた。
ローマ時代の水道(橋)は実際にもその上で踊ってきたこともあるのだが、実は本当はどういうものなのか考えたこともがかった。水道という日常的な言葉から、何かパイプが通っているようなイメージがあったのだ。パイプはあった。都市部では鉛管もあったようだが、よく考えてみればパイプよりも電動ポンプが無かったということが大事な点だった。動力は高低差の位置エネルギーだけなのだった。だから丘から一定の勾配を保ったまま野越え山越え、あ、山は越えられないからトンネルを穿ち、川にさしかかると高い水道橋まで設置してはるばる都市部にまで送水するのである。その結果ローマの泉の彫刻の口から豊かな水が四六時中垂れ流れていることとなる。街道といい水道といい、この雄大な土木工事が完璧に、しかも充分に美的な配慮もされながら2000年も前に施政されているということに先ず驚こう。
「財政が豊かだから作るのではなくて、人々の暮らしに必要だから作る」それが「公」の役割である。うむ。この、なんと公明正大あっけらかんと当然のことがマトモに出来ない時代になっちゃってるんだろう。例えば皇帝は「公」の最高責任者として公共事業を企画し実施するが、一方「私人」として私財を投じて浴場や神殿を建設し「公」に寄贈するのである。つまり為政者は単純に自分の為にではなく被統治者のために施政し、一方為政者でない私人も公のために奉仕するということが当然と行われていたのだ。
もっと単純にいうと、「公、私」という区別は実はわれわれ後世の感覚であり、当時は自分が豊かになる為と同時に他人の為にも働くという感覚が自然であったようなのだ。これはローマ社会がファミリーが拡大したという感覚から運営されていたということがある。おどろくほど身分や出身による法的な区別がないというのも世界家族という感覚が説明するようである。
私達の感覚からはどうしても「公」と「私」の利害が対立している認識から出発してしまう。規制緩和という声の根底には私の利益を公が制限するという対立があるが、さて、一体どうして後世、私の利益と公益が対立するようなことになっていったのだろうか?
そして、さてどうしてこの合理的で、どう考えても人類史上最上の政治形態を試みていたローマの施政の根底がくずれていったのだろうか?
キリスト教がローマの国教となってそれまで30万ともいわれる萬の「ローマ市民権をもった」神が駆逐された。ここから「公」と「私」のニュアンスが変っていったようである。
あれだけの「公共施設」が充実していながら学校と病院が見当たらない、という著者が指摘する部分。医療と教育はカエサル時代のローマでは「私中心」に行われていた、と著者はいう。そして「キリスト教の『慈愛』は、近代になると「人権」にとって代わり、医療もまた『公』中心の担当分野と考えられて現在に至っている。そして教育のほうも、『私』中心主義から『公』中心主義に移行したという点で、医療とにていたのであった。」
強力な一神教は、神が行うことと、人の行いの境界を定めてしまう。この流れは神権の行使者としての王や国家権力のあり方を準備したのではなかったのか。
多神教ローマでは、為政は人が人の為にすることであったのだ。私達の歴史が、うっとごめん、西洋史が近代を成立させる前夜には、すでに絶対的な「公」という存在が「私」の上に君臨している図式で世界が成り立っているという世界観を誰も疑わないという時代になっていたのではなかったか。
現代では「私」が「公」の為に労役することは税、もしくは刑罰としての懲役でしかなく、それでもそうする人はわざわざ「ボランティア(自由意思)です」と言わないと収まりが悪いようである。なんか、そのような損得の基準がせこいなぁ。
わが職場のトイレも当番制で清掃していたのだけど、リストラでメンバーが減ってしまい掃除当番が居ない時期が多くなり放置されだした。そうなると当番に当たっている人までしなくなる。汚くってしゃーないので私が消えたメンバーの当番日に清掃していると、たまたま入ってきた人が弁解のごとく私にいう。「人数が少なくなったんだから、早く当番表を改定しないとなぁ」当方の答「汚いと思った人がしたらいかがですか?」件の方の応答「そんなわけにはいかん。ちゃんと決めないと。」
これが法治国家の基本らしい。「公」の部分に属すると見なされる部分に、私レベルで処置するという発想はまったくない。いわゆる「法の下の平等」の卑近な徹底だろう。決められていないと処置できない、あるいは決められてもないのに処置することは損である、という民主主義の真髄ですね。「先ずみんなで決めよう」で決まらない限り何もしない。更に言うと、この「法治」の徹底は、反比例式に個人的自治能力の低下をもたらす。とにかく法が絶対だから、法に従っている限りは個人のモラルで自己規制する必要はない。つまり個人的モラルは忘れていいのだ。法的規制内で最大限個人の利益を追求する姿勢がかくして誘引されてくる。政治、あるいは社会的調整は「公」、利益、欲求の追求は「私」という完全な分業がここにして成立してしまうのである。かくして、「わしや、難しいことは分からん。けど、法を犯すようなことは何にもしてない。」という完全に個人のモラルの部分が消去された個人の集団ができてしまうのだ。こういうのは放置国家とでも呼んでおこう。
この分業というシステムが近代を成立させた一大発明であると思う。あるいはヘンリー・フォードさんの発明した、大衆の徹底した部品化が徹底的に現代人の自意識の根底の部分を既定している。自分に与えられた場での「仕様」をきっちりと果たすことだけが自分の生存理由であり、価値の源泉である人がやたらと多い。マニュアル人間とゆーか。決して自分で判断をすることはなく、何事もマニュアル通りでないと気がすまない。しかし、こういう方々のおかげで実は20世紀日本が経済大国になったことは否めない。総合的判断を下すのは「公」であり、「私」は「公」から提示されたマニュアルどおり忠実に作動しさえすればいい、という実に効率のいい社会だったのだ、アノ時代の日本は。徹底した分業社会の効率人間。
結局、政治の大筋で連綿とつづいていたギリシャ・ローマの「人間主義」が崩壊し、政治を行うのは「神」あるいは「公」であり、我々庶民には関係ないね、という分業を受け入れたときに、すでに現在のマニュアル人間もしくはモラル放置人間を生む土壌ができたということではないか?
まあ、でも私自身としてはこうした徹底分業社会の一部品化して生きられるのなら、楽でいいなぁ、とは思っているのだ。ただ、私が部品として組み込まれているこの社会の個別、ローカルな部分の出来が特に悪いと思うしかないワケで。粗悪な部品の下で、そのまた部品としてコキつかわれている自分の位置関係が思いっきり情けないよ。
昭和3年(1928)パリで貧困生活を送る日々の回想的自伝。日本だけではなくて当時のパリは世界の中心であったろう。本文中にもパリ万国博に日本から興行でやってきて、そのままヨーロッパに居るついている日本人もよほど多いというような記述がある。旅行者ではなく、職や機会をもとめて渡仏する人口は現在よりも多かったのではないか、とも思える。大陸浪人という言葉が生きていた当時である。一人の成功したフジタの陰には数え切れないくらいの多くの敗残者がいる。もう目的も無く、ただ最後の日の到来を日延べにして生きているだけになった者もいる。パリはそうした無数の無名の生活を飲み込み、それをも養分として「花のパリ」であり続ける。
パリに来た邦人が先ずやっかいになる諏訪旅館を経営している老夫婦がブリュッセルで入濠して自殺したという知らせに暗澹とする場面がある。前半でこの老人夫妻を「日本人でもパリに根を下ろしている人がいる」と感嘆の思いで紹介されているだけに、読んでいるこちらもこの老人夫妻の人生にしばし思いを馳せることになる。
どん底の貧困生活をしながら日々の糧を得る暮らしをしている井上のパリは、芸術家くずれ、娼婦・詐欺師、酔いどれ、偽貴族等が他人も自分もだましながら何とか生きている、最下層の澱のようなパリである。日本で一応賞をもらった詩人であったが、ここではまったく詩とは無縁の生活をしている。
清岡卓行が「マロニエの花が笑った」で、同時代パリの2詩人、井上とロベール・デスモスの詩に関する架空の対話を空想しているが、実際にはこのときの井上の意識には詩は存在する余地はないである。デスモスのことを「藤田の家でごろごろしている銀行員か何か」としか書いていないのだ。
だらだらと句点でつづく饒舌体の文章で、ふと江戸古典落語の語り口を思わせる。ときおり挟まれるくっきりしたイメージの暗喩は詩人であるという自負からくるのか。
「花のパリ」に夢を託してやってきた文学青年の夫婦一組のことをいう文:
「彼らのふくらんだ夢が、ゴム風船のようにぱんぱんわれてゆくのを、今か今かときたいしてみている僕らは、慈悲をわきまえないわけではないが、同類の多いのをよろこぶ意地悪さではなく、他人の欠落、不運だけをよりどころにし、支えにして生き延びなければならない、われも他人もおなじ、生きるということの本質の、嘔吐につながる臭気にみちた化膿部の深さ、むなしさ、くらさであって、その共感のうえにこそ、人が人を憫み、愛情を感じ、手をさしのべる結縁が成り立ち、ペンペン草の花のような、影よりもいじけてあわれな小花もつくというものである。」
長いなぁ。なんとなく昭和3年の語り口だという雰囲気がある。語り口は古いが、記述は妙に生々しく、引きずり込まれるような現実感がある。外から窺い知れない「花のパリ」の下部構造の生々しさ。もちろん社会的あるいは心理的な洞察の的確さもあるが、特にパリのジゴロや娼婦、あるいは妻やすれ違う男女との淫猥でしたたかな交渉の語り口は、そこだけくっきりとした輪郭が与えられているように鮮明だ。井上の詩は読んだことがないが、この辺りの感性がこの詩人の特質であろうと思う。
やっぱり文章の調子がいいなぁ。古典漢文の簡潔で力強い表現、言葉と文字の内包する豊かなイメージに支えられたエネルギーを、決して卑俗に陥らない稟とした流れのよい日本語に照射した心地よさ。いつまでも読んでいたいという調子のよさである。やっぱり古代の歴史小説なんだから、できるだけ現代語の凡俗な語彙や調子から遠ざからなくっちゃ。と書いて、もう一度見直すが、この作家に顕著なのは絶対にカタカナが出てこないことである。例えばすでにこの私の文章でもイメージとかエネルギーとか便利だけど、凡庸なカタカナ語に頼ってしまっている。このあたりの節操が実にチャーミング。やっぱり作家はスタイルがなくっちゃなぁ。
ええと、これは統一秦の宰相になる(らしい)呂不葦の成人する頃までの物語。多分に中国的な脚色があると思うが、15歳で旅に出てたて続けにビッグネーム達と遭遇、知己を得る。筍子他の諸子百家、戦国4君のうち孟嘗君と春申君(うむ、われながらよくカナ漢変換をさせたもんだ。まともに読みを入れてもこんなのは変換してくれないのだ。)、他の貴人武人。一種の教養小説のように主人公は偉人と出会うたびに、ポイントを上げゴールドを稼ぎレベルアップしてやがては人臣の最高位を極める。小気味のいい生涯である。この時代には個人の威というものを尊び、弁舌挙動の風や格、あるいは論からその人となりを見抜き「むむ、おぬしやるな・・・」風の認知をすることで人が結びつくのである。この邂逅の妙がこの小説の花の部分である。まあ、こういう風(ふう)というものが、現代の実績主義、あるいはテスト成績重視主義に慣れ親しみ、特にその評価がかんばしくない私のような敗残者をして古代に憧れさせる所以であろう。うむ。言わせていただく。英雄は実力で立つにあらず、時が英雄を選ぶのである。(ita語録 2002)
アンナプルナの側の封鎖地帯に伝説の雪男イェティを探索に行く科学者・登山家にタチの悪いスパイが絡む、山岳SFスパイパニックアクション小説。おりしも、ここ1週間印パ紛争がきな臭く、その意味でもタイムリーな題材でありました。ハイテクとスパイとヒマラヤ登山と、最新のDNA遺伝子解析の話題やなんかをてんこ盛りにした飽食時代の活字エンターティンメント。といっても、ヒマラヤの厳粛な寒気が作中に満ちていて、どこかに峻厳さが残っているのが好感できる。もともとヒマラヤ一体の国境線は印パ・中チベット入り乱れての怪しい地帯であるが、伝説の雪男イェティがやってきてお産はするは、雪の中を裸で歩行するヨガの聖人と会話を交わすは、というような大変アブナイ怪しげな場面がハリウッド映画的に15分に一回挿入満載げっぷもでるが、議論や技術の細部の描写が行き届いていて専門家の話を聞くように納得できるので、小説空間としてのリアリティは持続する。超人的ヨガの聖人もウソくさいのだが、さわやかないいヒトらしく書かれているので許す。まあ、何と言っても興味の中心は、ジュラシックパーク風の失われた大型動物がいきなりこの世界に登場して度肝も抜かれる、あの、見たかったものが見られるという好奇心充足型のバーチャルエンターティンメントの本道ですね。見られるといえば、大人の皆さんには主人公の美貌の女性科学者が雪上で素っ裸になるシーンももちろん入れてます。
でもねぇ。そのシーンはちょっと通俗アクションモノの古典的危機一髪状況を回避する常套手段のパロディにしか見えませんねェ。勝ち誇った悪者は素直に引き金を引けばいいのに、なんか自慢話を始めて結局油断して逆転させられるという・こすいパターン。この小説では、悪漢がよせばいいのに美貌の女性科学者に劣情を覚え、一思いにやっちまえばいいのに、裸にして尻を突き出させ、もぞもぞとハイテク防寒服を脱ぎ出すというものである。オイオイ、いくらなんでもそりゃないよ。大体8000メートル厳寒のヒマラヤ山中で、しかも獰猛なイェテイが周囲に潜んでるというような二重に縮みこんでしまう状況でやる気になんかなるもんか。ほれ、いわんこっちゃない。もぞもぞハイテク防寒服のズボンを下ろすのに苦労してる間にイェティに襲われて食われちゃったぞい。これなんか飛び掛ろうとしたときにティラノザウルスに食われてしまうヴェロキラプトスのパロディにしかならない。ディズニーが映画化権を買ったというが、この雪上全裸尻突き出しシーン映画ではどーするんだろね。もちっと納得できる言い訳考えといてくれよなぁ。
幾分か高踏的軽井沢文学の匂いを漂わせながらも、ならぬ恋に取り憑かれたある家系の三代の男の物語をまことしやかに語ってのける小説家の語り口に乗っかってたっぷり虚の世界に遊ぶことはできたのだ。例えば「十八歳になった君は母の許しをもらって、旅にでた。」とミッシェル・ビュートルが「時刻表」でやったような二人称で主人公を指すやり方は面白くとも何とも無く、却って散漫で薄っぺらい印象しか与えない。でも、幸いにしてこの「君」と呼びかけられる形式的主語風主人公はすぐ退場し、本来のマダム・バタフライとピンカートンとの間に生まれた「あいだの子」の家系の物語が始まる。このあたりの虚実の見定め方はいかにも小説本来の想像力の遊びを思わせ、楽しい。以降、明治から現代にいたる日米の現代史を背景に据えながらの小説的展開は、物語を語る楽しさが感じられ、ついついつられて読んでいくくらいのリズムはある。最後の方には「蝶々夫人」の付き人であった「スズキ」さんも登場する芸もなかなかのものである。だからこそ中途半端な形式主語的主人公「君」の扱いがいかにも残念だ。充分な存在感のある物語空間が形成されているのに、どこか絵空ごとのような作り物の印象が混ざってしまうのだ。どこか散漫な印象も残るのはこのような小手先の芸に走っている部分が、本来の物語の濃密な空間に針穴を開けてしまっているからではないか?逆説的だけど、作家としてもうすこし禁欲的であれば、もっと求心力のある小説になったと思う。
つらい季節になった。窓を開けなければ蒸し暑いが、すっかりスラム化してしまった住居の周囲からバイクの排気音やマージャン音、けたたましい男女の嬌声が押し寄せてくる。今までにもいくら切れたか分らない。しかし、切れれば余計に惨めになる。憤怒をたたきつけても自分に跳ね返ってくるだけなのだ。自らこの狂気に身を浸し、人間であるという自覚を捨て修羅として生きる以外にはない。思えば汚辱の中でしか自分の人生は無かった。そしてこれからもこの世の有様を悪意としてしか受容することは無かろう。
地上における生命共同体の戦略は意図的に各時代の異端分子を孕ませる。それが万一の予測不可能な天変地異に対する保険となる。しかし殆どすべての保険は無駄にかけ捨てるのが前提である。それが生命が通常に繁殖をしつづける限り異端分子は抹殺されて消えていく。自分が掛け捨てにされた保険に他ならないということを自覚したとき、悪意でしか繋がれない他者とのシステム自体が自分の運命であるということがしかと理解できる。時を得ず。ただ中国武侠小説にのめりこむ。
金庸モノより更に即興性が強く、さらに行き当たりばったりいい加減である。外枠がいい加減だから最後まで行っても盛り上がらない。でもまあ、どうこう批評するようなジャンルではない。死ぬまで生きるには娯楽は必要だ。時には娯楽が狂気を抑えたりもする。
トインビーが A Stady of world history (1934) を書き、これまで行われていた(1)西洋からみた(2)古代->中世->近世という通時的な記述ではない歴史を提唱した。
歴史とは個別に生起する各文明間の関係を記述することに他ならない、とは言ってないが、何か、まあ、そのように理解した。そのトインビーからの発想により比較文明という手法が認知されて来、現在では文明が直線的に西欧近世に向かって収束し、そしてそれが各地に伝播してゆくという一方的な史観はさすがになりをひそめている。トインビーの研究者で比較文明学会を運営する著者が、トインビーの文明表を参照しつつ今日的な意味のある文明に対する比較文明学的な考察をする。個別の論題には触れないが、印象に残った話題を記しておく。
技術的発展によって削ぎ落とされた部分を保持していたアフリカの精神的豊かさを初めて言ったのもトインビーであるらしい。
日本とともに大文明になりかけの周辺文明と位置付けられているロシアの、ローマ→ビザンチン→ロシアという自我意識。
12世紀ルネッサンスはとりもなおさずイスラム文化との接触によってもたらされた。「つまりイスラムがヨーロッパを生んだのだ」(ノーマン・デイヴィス)とは少し違う意味であるが、ヨーロッパはイスラムによって作られたとの思いがある。旧約のユダヤ史における遊牧民の神ヤーベと農耕の神バールとのせめぎあい、預言者エリアがバールの神官との論争に勝ち雨を降らせ、これ以降ヤーベが農耕の神としても有功であると認知されたということが普遍宗教としてのエホバの出発である。
最後に日本の比較文明学(学会)の「歴史」記述があり、山本新、梅棹忠男という東西の2大碩学から派生してくるその筋の人脈のワイドショー的鳥瞰もあって、それなりの知識も得られる。そうだよね。まあ、当方にしてみれば「西欧の没落」(シュペングラー)→「文明の生態史觀」(梅棹忠男)ときていきなり→「宇宙船ビューグル号の冒険」(ヴァン・ヴォクトー)にいってしまうような状態だったもんなぁ。いくらなんでもそれではイカンよ。
なかなか面白い話題が詰まっているが、ややもすると教科書的なカタい説明口調での総花的概説風記述が多いのが残念である。歴史は年代記ではない。梅棹忠男の創めた「季刊人類学」なんかを購読しかけた時代もあった。フィールドに出、頭脳以外の感覚で理解する、まあ、体で理解するというような学問的姿勢が新鮮だった気がする。
著者も中世ヨーロッパに関するフィールドワークが豊富な碩学である。是非とも文学としても読めるような流麗な文体で、当方の感覚を攪拌するような歴史記述をものして欲しい。
アヘン戦争期の香港・上海を舞台にした洪門海賊の物語。かなり凝った大掛かりな舞台装置である。清朝末期の混沌とした中国社会、産業革命後海外に利権を求め香港にビクトリア市を建設するイギリス、さらに海外事情を検討しはじめる徳川政権と諸藩。香港に舞台を定めると当時の世界の縮図を絶えず参照するということになる。また、そのあたりが作家の企みであったと思える。しかし、冒険物語という縦糸と史実の列記の絡み具合が小説的に発酵し新たな味わいを醸すところまではいかなかった。林則除や洪珠全、あるいはウェリントン将軍やグラッドストーン、はたまた上海を視察する長州の高杉晋作等の実名を出してしまうと、どうしても物語の闊達性がなくなり想像力に足かせがはめられてしまう。それに史的コンテクストの説明がやたらと詳しい。確かに舞台をロンドンにまで広げ第一回万国博覧会の模様なんかも借景にしてしまう構想力は感嘆するのだけれど。
要するに主人公の日本混血児の海賊の造形が弱い。この主人公がどうしても主人公として納得できる程の重みがなく、小説の世界に引き込んでしまうだけの魅力が感じられない。だから印象としては錯綜とした当時の史的情況を解説するための狂言回しに成り下がってしまっている。この小粒の主人公に率いられた物語からすれば、この膨大でまじめな史実の取材の成果はただうるさい。物語を浮き彫りに際立たせるには切り捨てるということが必要だ。
毎年夏になりかけると騒々しい外界が疎ましく、心が荒み、狂気の夜の果てにこの腐った魂のつまった肉体を捨て向こう側にいってしまいたいと思う時間がやってくる。肉体は苦痛だけで、魂は不快だけで外と繋がっている状態である。
昔アシジに行ったことがある。人々は聖フランチェスコを知ってアシジに行くのだが、アシジに行って聖フランチェスコを初めて知ったという人も世界中にそんなに多くは無いはずだ。アンコーナ、リミニからローマに向かったのだが、何故だか知らないがアッシジに急に行きたくなった。この時、この聖人がぼくの魂を掴みに来たと書いたとしてもそれほど間違ってはいない情況だった。ボローニャ駅前でイタリア人の友人Sが車でぼくを拾いに来てくれ、ウルビノで彼の友人達と過ごし、ついでにぼくのピアノのヨーロッパ初演を行い、彼と別れてアドリア海側からローマを目指したのだった。アシジで過ごした翌日ふたたびローマに向かう列車に乗って何気なく外を見ていると、ローマから来たすれ違う列車の窓からやはり何気なく外を眺めている男と目があった。なんと数日前に別れたSではないか。驚愕しお互いに窓から腕を出して手を振りつづけた。列車が遠ざかっていき、ゆくっりと上下する腕は見えないくなるまで小さくなっていく。Sもローマに所要で日帰りで行くかもしれないとは聞いていた。ぼくがアシジで宿泊するという予定は無かった。とにかく、ふとすれ違った列車に乗り合わせ、お互いに逆側から外を見ていて相手を認識するという確率は大変低い。いうなれば奇跡的確率である。今思い出しても不思議な出来事だった。何よりも数々の奇蹟を体現した聖者のアシジが介在していたのだから。
サン・フランチェスコは何とも軽薄な人物であった。うれしくなると直ぐどこでも歌い踊りだし、小鳥に話し掛けたりする。そのような人物が既に11世紀イタリアの社会に生まれ、生まれついた富裕を捨て隠者となり徹底した清貧と苦行を続けるのである。
サン・フランチェスコの事跡の中で聖痕(スティグマ)が現われたり、神の声を聞いたりする数々の奇蹟は実はぼくにとってはどうでもいいことだ。この聖人の生涯は徹底した清貧と肉体の欲望の排除を貫きとおしたことに尽きる。作者カザンツァキは史実とされる数々の奇蹟を配しはするが、あくまでこの変てこで一見ひ弱な肉体を持つサン・フランチェスコを最後まで等身大の人間として書くという姿勢を貫き、小説的に強い存在感を与えた。この詩人は聖者を描くのに、あわれにもサン・フランチェスコに魅入られてしまって常に行動を共にする修道僧を配置し、この僧に人間的な視点からの感想を語らせる。肉体が欲求するのは当然のことで、どうして好んで苦難を引き受けるのか?と心の中では聖人を批判するのだが、しかし最後まで行動と苦難を共にする。それはフランチェスコの信仰がゆるぎないものであることを知ってい、それよりなにより、フランチェスコが好きなのだから、ということになる。おそらく後世の我々も、ますます傲慢に存在を主張するこの肉体という入れ物に振り回されてしまっていて、そのことで内側の魂はサン・フランチェスコの清貧にますます強く憧れているという情況ではないだろうか?
実はぼくが興味があったのはこの聖人が富豪の息子であり放蕩三昧に暮らしていた生活からどのようにして回心したかということだった。しかし、この作品は正に回心した直後から始まってしまう。考えてみれば、どのようにして回心したかを分析しても意味はないという気はする。作中の聖人も自分の狂気を自認するが、信仰の本質は決して分析しないということであろう。論理で到達しようとする試みは不幸である。ぼく達の苦しみは理解しようとしても答えが得られないという不条理の苦しみである。強く美しいと見えた肉体は見る間に崩壊していく。ぼく達はみな地上の安逸が仮のものに過ぎないのを知っている。自分の存在が唯一絶対のものではないということを認識するのは悲しく恐ろしいことだ。この自意識を生じせしめる肉体というフィクションを悟ることが仏教の基本理念である。極楽の蓮の上に端坐し不滅を体現する仏のイメージは方便で、無もしくは空という認識を行い終えた自意識の自己否定が到達する状態の比喩である。こういう認識の方法論自体は極めて論理的なものだ。今、サン・フランチェスコの清貧や苦行をカザンツァキが再構成した物語が示す信仰は明らかに論理ではない。深淵に向かって跳ぶことが信仰である。この砂漠の神は絶えず信仰者に跳ぶことを要求し決して見返りを与えることはない。何故跳ぶのかという問いを発することなく、ただひたすら跳ぶ。人間として肉体を持って生まれた者がどれだけ神に向って跳ぶことができるのか?という答えをぼく達はサン・フランチェスコの生涯に見ようとする。
弟子達の人間的な弱さや、聖人の身体を奪おうとして争う村人、聖人を愚弄するサルタンや聖戦の名のもとに略奪を行う十字軍の悪徳に心を痛めるが、どうすることもできない非力で頼りないフランチェスコ、また、新しく贈られた端布を縫い合わせた法衣を着、女子修道院を訪れるのは、実は法衣を見せびらかしたいのだという子供っぽいフランチェスコも描写されて信仰の実践者という側面だけを直線的に描いているわけではない。キリストが人間として現われたように、この聖人も普通に町に暮らしていたただの人で、われわれと違う特殊な能力があったわけではない。ただ自らの信仰への絶対的な確信を除いて。
われわれにも多少の信仰心はある。ただいかにもそれは弱く、日常の雑多な欲望と感情にたやすく消されてしまう。ただここで不思議なことだが、世俗の諸々の欲望だけが人間の本性であるということが確信となることは無いのである。われわれにはどこかに清らかで犯しがたい聖なるものに感応してしまう部分が常に残っている。われわれは自分の生活から逃れることはできないが、そのことでますます全てを捨てた聖人に憧れる思いは掻き立てられる。「苦」を自分の養分としてしまう聖人の傍らでぼく達は自分の苦を相対化しようとするのだ。作者がサン・フランチェスコに救われ、支えられたというように、この聖者に負ってもらいたい現代のぼく達の苦悩はますます肥大する。
しかし、この信仰に見られる世界の認識についてはここでは書かない。纏めることが多すぎる。帰宅途上ゆっくりと人気ない城跡に立ち寄り、暮れ行く世界を眺めながらこの聖者のことを考えた。文学はここでは信仰と相乗し、確かな力を現実世界に放っている。
この作品に対する共感あふれるあとがきも書いている訳者にも敬意を表する。翻訳という行為が使命感から為されることもあるのだ。この人は他にロマン・ロランとイブ・ボンヌフォアの訳業もある仏文学者。かつてぼくの妻だった人のメトリーズ(修士)論文のテーマがこのフランス現代詩人だった。彼女の寮でぼくが草稿を見ながらオリベッティのタイプライタで全部タイプした。内容は何も覚えていないが、鳩の形で立ち上ってくる魂のイメージが残っている。まったく関係の無い話ではあるけど、何かふと不合理なものの連関に向って魂を跳ばせて見たい気がする。
A Good Day to Die。何ていう素敵なタイトルなんだろう。インディアンが戦いの前に行う呪文であるらしいが、小説を売るにももってこいの呪文であろう。都会での職業生活になじめないダメ男の失業者がベトナム帰りのどこかが壊れている男と知り合い、なぜだか解からないがグランドキャニオンに架かっているダムを爆破しに行く話。何かというとドラッグとアルコールとセックスと暴力でお茶を濁すアメリカで大量に生産されるB級映画のような道中に、ちらりと主人公の自然への憧れとベトナム帰還兵の純な魂の部分が見える。通り過ぎる猥雑なアメリカの田舎町を背景のインディアンの伝説が残る広大な自然が包み込んでいる。都会的なものに痛めつけられた人間性が深い自然の中から際立ってくるという構造か。アメリカの南部の田舎を車で旅する情景に退屈はしなかったが、いかにもアメリカ人ローカルな心理小説である。文学の普遍にまでは到達していない。もう、タイトルがやたらといいので、ついそちらの方に目が行ってしまう。「死ぬには、もってこいの日。」いいなあ。こういう言葉を聞くと、なんかあっけらかんと死ねますね。もう、ぐだぐだ言ってないで、スパっといこう、スパっと。A good day to die. うん。これでかなり死亡力がついたぞ。
おどろおどろしい極彩色の表紙がオカルト考古ホラー冒険SFの気分を暗示する。ぱらぱらとひも解けばなにやらラテン語らしき暗号図もある。というところで喜んで荒唐無稽な話の一席を拝聴する準備はできてたのだが。シカケはケルトのドルイド、南フランスのカタリ派、テンプル騎士団あたりを織り込んだ異端の系譜の悪魔的秘儀秘蹟モノ。さすがに博物史家荒俣氏だけのことはあるお膳立てである。クリスチァニズムの裏側に常にうごめいている得体の知れない異端悪魔信仰の陰は絶えずぼく達の好奇心とひょっとしたら実は本当は・・という夢を誘う。ということで楽しい背景なんだけど、物語があまりにもデタラメで、とまでは言わないが、あまりにもありきたりのご都合主義的冒険小説のパターンで進行していくので興ざめする。主人公の日本人考古学者に、もひとつの魅力がない。とりわけ最後のクライマックスに持っていくやり方が性急で、とにかくホラー映画並におどろおどろしい場面に持ち込まないと話は終わらない風に、無理矢理作ったという感じが残る。なんか必然性のない場面が非常に多いなぁ。雑誌連載というような制約もあるのかもしれない。背景になっているキリスト教異端の系譜なんかの話はなかなかぞくぞくとさせてくれる知的興奮もないではないのに物語りはいかにも安っぽく進行する。無理に冒険小説風のスジをこじつけなくともいいのになぁと思う。無理にハードボイルド風に主人公を肉体的に活躍させなくともいい。例えばシャーロックホームズのようにデッキチェアで純粋に推理するだけでも小説の興奮は可能だし、その方がもっとかっこいいのになぁ。
もうマンネリでちっとも面白くなかったが、さすがに「ちろりん村とくるみの木」が終わって「ひょっこりひょうたん島」が始った時は、あまりのノリの違いに違和感を感じ、しばらくなじめなかった。「ちろりん村」は、ぼくが実際には知らない日本のありふれた光景である農村の「雑木林」の吸い込まれるような土俗臭があり、子供心にも幸福な田園生活というものになにか感応していた部分があったのだ。「ひょうたん島」はいきなり都会風の騒々しいジャズ風の和音で始った。そのころには充分都会の猥雑に悩まされていたガキのぼくにとっては、もう夢想の入り込む余地のないただのテレビの騒音に過ぎない番組になってしまった。それでも後で面白いと思ったのは、ニヒルな男が大真面目で「わが主イエス、われを愛す」という賛美歌を歌うシーンなんかの演劇的アイデアだった。「ちろりん村」はいかにもNHK的よい子主義しかなかったが、「ひょうたん島」には、それまでNHKの風土にはなかった「悪ふざけ」といういかにもテレビ的な要素を持ち込んだのだった。しかしまあ、未だにNHKには「ギャグ」番組が育つ土壌はない。司会者にしても、なんとなく東大、せいぜい早稲田出身の研究者、ジャーナリスト風の個性しかいない。バラエティ番組の司会は自社のアナウンサーでは間がもたなくて、民放プロレス中継アナ出身の古館伊知郎なんかを呼んで来るしかない。かつて浅草のストリップ劇場の作者であった、井上ひさしもこのようにして日本テレビの「ギャグ」部から呼ばれて来たんだろう。また、東北弁ネイティブであり、吃音者で東京に出てきたという言語的二重苦の克服の経験もある。中央・権威にたいする地方・庶民。これが吉里吉里人井上ですね。「きりきり」で「吉里吉里」がIME2000で一発で出てくるくらいの権威になってるんだから。というわけで、この人のテレビで培ったギャグ、ユーモア混じりの言語感覚で、われわれの世代は育ってきた。反感を抱いて皮肉まじりで攻撃するのは官僚やお役所の無責任な姿勢と言葉使いだし、若い世代にちゃんとした、にほん語の抑揚を聞かせてこなかったと嘆くのである。実は本当は批判してるのだけど、自分のこととして嘆くというのが井上なんかが愛用する自虐性ユーモア。実はこういうテクニックはぼく達の世代には当然な武器で、例えば500万円の収賄で逮捕された鈴木宗男議員(私と同い年)を批判し、「ま、5億円くれるというならぼくも何でもするが」と緩和策を付け加えるのが習慣になっている。
この本は読売新聞日曜版のあたりさわりのない口調でのコラムの集成。日本語に格別の思い入れを持っている著者にしては、万人向けに毒気を極力抜いた手ぬるい発言ばかりである。
私は日本人が英語の文脈で<名-姓>の呼称を採用するのに実にイヤな感じがするのだけど、最近は日本語の文脈でもそういう場面が増てきた気がする。グリーンスタジアム神戸の場内放送には度肝を抜かれた。イチローがオリックスにいた時初めて中継を見て、あまりのばかばかしさに呆れてしまった。日本人が日本人に日本人選手を紹介するのに「イッチロー、スズゥキィ」と放送していたのである。このばかばかしさ。
著者のこの問題に対する発言の要旨は次のごとくである↓
英語圏の「名→姓」呼称順は、例えば個から全体に広げていくズームアウト式住所も同じ発想であるとし、日本の発想であるズームインとは違うという観点から日本人が採用するのに否定的だ。「とするならば、たとえ英文の中でも、日本人は自分たちの世界認識の基本的な枠組みを変えてはいけないのではないか。むしろ、<名-姓>が世界の標準であると信じきっている英語圏の人たちに、『いや、世界は多様ですよ』と釘をさすためにも、わたしたちは、<姓-名>で名前をかくべきではないか。」
淡々と論理で展開され、最後には日本人だけではなく、英語世界に対する主張ともなってなかなか模範的な解答になっている。でも、なんとなく小賢くまとめてしまった印象である。私の分析とは違う。ローマ字<名→性>表記を日本語文脈の中でも得意がって採用しているグリーンスタジアム神戸のような事例を前にすると、こういう日本人の感性のあり方自体を考察しなければ、口当たりの良い提言なんて単に原稿用紙の空白を意味もなく埋めている作業に過ぎない。「観察ノート」としてはあくまでニュートラルな記述に徹するということなんだろうか。
渡欧する以前、20代のぼくはリューベックの夢を何度か見た。夢の中でヨーロッパに居ると気がつくと、そこは何故だかリューベックだった。倉庫の立ち並ぶ港町を、ああ、ここがあのリューベックだったのか、という初々しい昂揚感に包まれて、正に夢の中でのようにぼくはふわふわと歩いているのだ。夢から覚めてもヨーロッパに行ったという昂揚感は鮮明に残っていた。当時のぼくにとってはヨーロッパへの憧れの源泉にトーマス・マンという作家のイメージがあったのだ。しかし、読んでいた作品は少ない。「トニオ・クレーゲル」「詐欺師フェリックスの告白」「ベニスに死す」「魔の山」河出世界文学全集版第一巻のみ(^^;くらいではないか。例えば「ブデンブローグ」は読んでいないのだ。しかしそれでも夢にリューベックを見るということはどういうことなのか?多分、北壮夫や辻邦生のマンへの傾倒に煽られていた、という気がする。確かにベートベンやゲーテ、あるいはヘルダーリンやリルケといったドイツ語的芸術家達の作品に親しみを持っていた。この感覚は圧倒的にドイツ的青春に共感を抱いていた最後の旧制高校生達の世代から引き継いだものに思われる。ランボーやベルレーヌ、カミュ、サルトルといったフランス系のきらめくような文学者達の才気にはどうももう一つついていけない。フランスは常に先端を行く都会であり、ぼく達が住んでいた日本は田舎だったのだ。そいう田園風な叙情性や田舎風生真面目さがドイツ文学への親近感を抱かせたのではなかったろうか?当時の日本でも高い人気があったと思われるロマン・ロランやマルタン・デュ・ガールは、その作品から言えばフランス文学ではなくドイツの文学の伝統にはるかに近い作家である。また、堀田善衛や辻邦生は後にはフランス文学と深くかかわることになるのだが、旧制高校の年代にはやはりゲルマニストであったのだ。
30年前大学受験に失敗したぼくは図書館でアルバイトをしながらドイツ語を本町のゲーテ・インスティトゥートに習いにいった。当時のNHKドイツ語講座の講師が小塩節氏だった。メガネをかけた恰幅の良い紳士(多分常に黒っぽい背広)でなかなかユーモアたっぷりな語り口だったように思う。
後にフランスの町に住むようになり鉄道を使ってよく旅行をしたが、ハンブルグまでは行くのだけど、リューベックを訪れる機会はなかった。鉄道ではリューベックは周遊しにくい路線になってしまう。これから北欧に向おうという時にハンブルグからリューベックに向うともう一度ハンブルグに戻らなければならない行程になってしまうのである。
昨年冬10日間の日程で旅行したとき、ハンブルグからベルリンに向う途中でついにリューベックに立ち寄ることができた。初めてヨーロッパに降り立つ夢を見てから30年かかってしまったが、個人的感慨としてやっと何事かの円環が閉じた気がする。まあ、月並みなセリフだけど、「もう、これで死んでもいい」と思ったものだ。
夢の中のリューベックはバルト海に面していて、なんとなく海の玄関からヨーロッパに降り立つというイメージだったが、実際は河川を伝ってかなり内陸にある町である。今は北ドイツの小さな町だが、川に沿って林立しているどことなく倉庫風の、飾りのない窓が穿たれている4,5階建ての家屋を従えて中世風の鈍重な塔のあるホルスティン門が往時の繁栄を彷彿とさせる。
この本は一風変ったトーマス・マンの伝記である。小塩先生はマンの生涯をたどることで近代ドイツそのものの伝記を書こうと企てているのである。遠い東方のわれわれから見たドイツは中世のマイスタージンガーやハンザ同盟から連綿と続く、音楽・文学や科学技術・軍事、産業が一体となった確固とした一大文化圏という像になるが、実は歴史的な大きなうねりがあって絶えず民族としてのアイデンティティを失うような危機があったことに思い至る。それどころか、ドイツの文化は言ってみれば絶えず危機状態にあったアイデンティテイの涙ぐましい復活という意思によって支えられてきたような気もする。文化的に成功すれば、例えばドイツロマン派文学の確立であろうし、行き過ぎればナチズムのような形で世界の袋叩きにあったりする。とにかくローマ時代にはゲルマンの戦士というのは上半身裸で戦闘していた獰猛な蛮人だったんだからなぁ。おっと、マンの話。
ハンザ同盟が衰退し、軍事力でドイツ帝国が実現されていった1871年以降の20年間ほど『ドイツ人一般が精神的な創造性を失った時期はない。まったく、何も生み出さなかったといっていい。」と小塩先生が断言する時代があった。『自然科学・技術の進展だけはすさまじかったのに。』
「ブデンブローグ」家もそうなのだが、結局一代目が汗水たらして創業、2代目が経済的に安定させ、そして3代目がその金を食いつぶして芸術家になるという、例の3代目芸術家方程式が如実に露呈するのがドイツのうねりに見えてくる。産業技術や経済と芸術家というカテゴリーがドイツ如実に実生活上の違いをもたらす。小塩先生の指摘でもう一つ大事なのは、プロテスタンティズムである。ルターもかなり狂信的な人だったようだけど、ハンザ同盟の末裔のドイツの商人達は敬虔なプロテスタントとして勤勉・克個のプロテスタンティズムに精神的に支えられて富を築くのである。世俗の逸楽を否定することなく生活に染み込んでいるようなカソリックのイタリアやフランスではなくて、厳格で融通の利かないプロテスタントのドイツ商人の息子としてのトーマス・マン。そういう精神的な断絶が「トニオ・クレーゲル」を生み出し、一方では伝統的に堅実な精神が教養小説としての「ブデンブローグ」を成立させるのである。明治以降の日本は、どちらかというとカソリック的なものよりも、プロテスタント的な精神をより近しく感じたのではないか。そのような親近性もわれわれのトーマス・マンに対する敬意に含まれていると思われる。
小塩は面白い統計を挙げている。フランス・イギリス・ドイツの社会的地位の高さのランキング。
イギリス(1)教職・聖職者(2)研究者(3)官僚
フランス(1)大学教授(2)文化人(3)官僚
ドイツ(1)大学教授(2)企業経営者
出典が挙げられていないので、本当の統計ではなく、あるいはよくある三題話風の冗談であるかもしれないが、小塩は勤勉というプロテスタント精神がこういう商人の地位の高さをもたらしているというのである。
マンは30歳のとき、ユダヤ系大富豪プリングスハイム家のカチアと結婚、生涯連れそう。こうしたユダヤ系のドイツ人達のドイツへの同化という目的に支えられた文化振興意欲が果たした役割も小塩は注意を喚起している。ドイツ人以上にドイツ的になろうとするユダヤ系ドイツ人達の心理。うむ。これも何かしら基本的な「ドイツ精神」のあり様に強烈な形を与えているのだろう。そうでないとあのナチスの異様なホロコーストの心理的な拡がりが読めてこない。マンはアメリカに亡命してからもドイツとドイツ人というテーマでずっと書きつづけたのである。実はマンがリューベックに住んでいたのは20歳までで、また第二次世界大戦後はアメリカ、後にスイスに居住していた。しかし、我々は依然としてトーマス・マンをリューベックの作家と見るイメージは消えない。それはトーマス・マンの生涯と作品こそが近代ドイツの歴史と文化を体現している代表であると思える故である。
著者はスイスのダボスの村で静かに隠棲しているマン未亡人のカチア夫人との交流があり、この人にも一章を費やしている。心あたたまる逸話に満ちたたのしい回想記で、この辺でテレビ講座のユーモアあふれる小塩先生の面目躍如たるものがある。そして、読者はこの本は著者のトーマス・マンへの親愛の情に支えられていることを感じるのである。
火星のシドニア地区にある「顔」を初めとする不思議な地形は古代の知的生物が残したものである、という考古ミステリーが前半。小惑星や彗星の地球への衝突の歴史と可能性を詳説するのが後半。で、結局火星の「顔」は人類に迫っている大災厄への警告ではないだろうか?というような所に連れて行かれる。怪しげな雰囲気はないこともないが、事実や定説を丹念に紹介しているいたって真面目な態度に終始しているので、狂信的なデマゴークではないようだ。閲読中、NASAのホームページにアクセスして最新の「顔」写真をダウンロードした。2001年の撮影で、かなり鮮明に「顔」の部分の地形が見て取れる。多少自然物にしては「不自然」な気もするが、とても顔には見えない。NASAが事実を隠しているのではないか?という疑惑も、そういうこともあっても不思議はないという気はするが、ちょっとミスティファイし過ぎだという印象。
後半の小惑星・彗星の衝突事例はなかなか感銘を受けた。といってもまともな方向の感銘ではない。小惑星が地上と海上に衝突するシミュレーションの迫力、例えば直径1キロメートルの岩石が海に衝突すれば高さ8キロメートルの津波が陸地に押し寄せる、とか。うう、エベレストのような圧倒的な波が海の向こうからやってくるのか・・見た〜いよ。
地球は『つまり、ほぼ3000万年ごとに、太陽は銀河の星の密集した平面領域を通過しているのである。』で、もちろん、現在はこの周期での危険な時代に入っているのである。ゾクゾクしますね。
「過去一億年をふりかえったとき、このような大量絶滅は9450万年前、6500万年前、3690万年前に起こっているという。・・われわれがほぼ2万年にわたってそのような衝突が起こっても不思議はない時期にあると考えているのだ。」ちなみに恐竜が絶滅したのが6500万年前である。
このような尺度で紀元前4000年から3000年にかけてのエンケ彗星の崩壊による災厄、と聞くと、あ、ついこの間ではないか、という感覚になる。こういう時間感覚が脳髄内で撹乱されるのは快感である。だから、「ちなみに、この次に牡牛座流の中心と地球軌道が交差するのは西暦3000年頃とされている」といわれると、もうすぐじゃん!と思ったりするが、本当は後2000年もある。とてもそんなに待てないよぉ。
著者は極めて人道的な立場からNASAがこの小天体衝突への予測に予算をつぎ込まないことに憤慨している。しかし、この辺で言わしてもらおう。
はっきりって、もしそれが1キロ以下の天体なら何とか銀行預金を現金化しておいてコタツにもぐりこむとかの対策も有効かもしれない。しかし、10キロを越すなら衝突が予測出来てももうどうすることもできないのではないか。例え地球の反対側に避難したところで100年はカールセーガンのいう「核の冬」状態になるだろう。結局、うまくいってまた人類は洞窟のクロマニヨン人状態から再出発になる。それに、一瞬にして地球自体が無くなるような規模だとどうしょうもない。正に天が落ちてくる「杞憂」というヤツだ。もっとも、本来の意味は「ありそうもないことを心配する」ということだけど、ほんとうは天はいつか必ず落ちてくる。だから「どうにもならないことを考えてしまう」という意味に解釈するのが今日的だと思うのだ。
それに、これは密かに著者に聞いてみたいのだが、「ひょっとしてあなたは、そのような黙示録的スペクタクルに密かに魅了されてこの本を書いていたのではないんですか?」と。この、とっかえひっかえの天体衝突事例の列挙は、なにかランナーズハイのような、妙に人類滅亡エンドルフィンの連続放出という気がするのである。
でもこんな本を喜んで読んでいる人って、そういった未曾有な天変地異を一生に一回でいいから(まあ、2回は無いでしょう)見たいと思ってる人だけではないだろうか。少なくとも私自身はそのような不埒な読者でございました。すんません。
テレビで当り障りのない埋め草によく使われる海中の風景フィルムなんかを見ていて印象的なのは、無数の細かい魚の群れが周囲の情況に反応して一斉に方向を変える情景だ。鳥の群れが方向を変えるのは多分リーダーの動きに従った反応だと思うけど、この小魚達のアクションの見事な同時性は、リーダーの命令を個別に実行した結果の集約的光景であるであるとはとても思えない。多分、この魚達の「個」はとても希薄で群全体が一個の「個」であるとしか思えない。そして、その意思統一の見事さが返って摩訶不思議な言語というものを介してしか他と繋がりようがない我々人間のコミュニケーションの不確かさをあざ笑っているようにも見えてしまうのは私のひねくれた性分のなす技か(^^;
だから、いつだって言語というモノとは何なのか考えてしまう。
群体生物のイメージ...マイクル・クライトン「プレイ(上・下)」この本は言語習得はいつどのような過程を経て行われるのか?言語は人に固有な能力なのか?言語を操る能力とは一体何なのか?というような疑問に導かれて、幼児の言語習得過程を考察する。かのチョムスキー大先生の、人類の種特異性としての普遍文法説(生成変形文法とか構造主義とか昔は言ってたような気がするが・・そのような熟語はこの本には出てこなかった)がかなりの支持を得ているのだが、さりとてそれだけで事が足りるということはあるまい、というのが著者の立場。
考えてみれば言葉の習得過程を研究するのは至難のワザである。乳幼児に薬学でやるような一方では言語教育をし、一方ではまったく社会と接触させないグループを作って比較するなんてことは人道上できないし、もしやったとしても脳の中身を顕微鏡でのぞいても言語は見つからない。実際に昔のどこかの国の王様は乳児を集めて地下室に閉じ込めてどうなるか実験したそうである。いや、知りたいという欲求は良く分る。しかし、当然現在ではそんな乱暴な実験をするわけにはいかない。そこで、言語発生にかかわる学者は、ボノボのような類人猿に言語教育を施したり、たまたま社会の中で事故的に発生する異常児の事例を集めて考察するのである。少年期まで地下牢に隔離されて養育された、公位継承争いの犠牲者カスパール・ハウザーとか、1歳で突然視力聴力を奪われたかのヘレンケラーの事例等。そういえば去年は新潟の10年間にわたる少女監禁事件なんてあったなぁ。
で、この本は一義的には言語の発生の研究事例の紹介なんだけど、実はそういう異常な幼児を産む、このわれわれの社会でそこかしこに起こっている猟奇事件の紹介風という風に読んでしまったりするわけである。ごめんなさい!私は本当に悪い読者です。
1970年アメリカで救出されたジニーの家庭の事例なんか、妙に心に残ってしまう。父親は異常に騒音を嫌悪し、無音の家の中であらゆる音を出すのを禁じられ寝袋に押し込められて一切の言語活動を許されないまま13歳まで育ってしまうのである。父親は自分の子供はすべて12歳までに早死にすると信じていて、13歳になっても生きていたら開放すると約束していたのに、そうしなかったので思い余った母親が娘を連れて脱出したということである。この母親もなんかヘンだけど、まあ、そういうこともママあるようだ。で、この父親は「世間は、決して私を理解しないだろう」という遺書を残して自殺してしまう。とすると全くの狂気ではなく、世間の良識がどういうものかということは充分理解していたのだろう。その上で自らの狂気を生きていた。世間は理解しなくとも、私はちょっとは理解してしまったりする。うん、あぶないなぁ。
ということでまともな読者ではなかったけれど、著者が私のように猟奇趣味に淫することなく(当然じゃ!)、多くの先行する学者達が陥った一方的な思い込みによる結論の誘導に目を眩まされることもなく、各事例の正当な評価を試み「言語獲得」という神の領域を少しでも明らかにしていこうという姿勢には信頼感がある。人間の言語取り扱い能力は(先験文法とも言ってなかった?)殆ど神に選ばれた種族という中世的な思いも抱かされるが、かといって他の動物にこの能力が皆無であるわけでもない。チョムスキーなんかの解説を読んでると、絶対に進化論なんてコザ賢い手で、キリンの首がしこしこと延びていったように(冗談ですよ)暫時発達していったようには見えない。正に人類の種特異性という感じだが、果たしてそこまで言えるのかという著者の態度は学者的中庸というものであろう。あまり良い読者ではなかったが、実は私も今精神遅滞期であったりするんですよ。ご容赦。
最近、さる会社の内部文書を閲読する機会があったが、誤字・誤用の多さにあきれ、当方とは何の関係もないのに怒りまで覚えるところまでいってしまったことがある。もっとも別に日本語の誤用に対して腹を立てたというよりも、自国語での表現能力はこの程度の人でも社会的な地位としては当方よりもはるかに上なんだという事実に対する自憤かもしれないが。だって、誤字・誤用の実例を目撃するのは結構楽しいし、中には爆笑できるのさえあるんだから。
誉め言葉のつもりで「さすが、部長!『腐っても鯛』『枯れ木も山の賑わい』ですねぇ」という人なんかには大いに笑わせていただけますねぇ。でも、あまり笑っていると、私もかなり危ない日本語を書いてるかもしれないので(ま、書いてるでしょう)、揚げ足を取られる恐れがあるので、ちょっと笑い声はかみ殺しておくことにしておこう。なんだって?コレも「揚げ足をすくわれる」という人がいる?むふは。でも、そっちの方がより視覚的な効果は大きいなぁ。こういうヤツは得てして、後で正用になる可能性があるのかも。ところで、著者は当方より二回りより年長のようである。世代によっても誤用度、もしくは誤用許容度は違ってくるが、この本に挙げられている誤用・誤字でいうとだいたい90パーセントまでは私の日本語感覚でも誤字・誤用と思えた。あとの5パーセントは知らなかった(私も間違えていた)ものであり、残りは明らかに私から見ると誤用でないというケースである。
誤用と気づかず何となく理解してあげていたのは「私ごときが社長とはなんとも『役不足』ではありますが、」という言い回し。この人の心情はわかるのだが、「社長では不足じゃ、会長職をよこせ」という意味であると正しく解釈する人もいるので、やはり誤用という意識を持たないとだめだな。
「鳥肌が立つ」は著者によれば悪い感覚にしか使えない表現で、「感動して鳥肌が立つ」は誤用としているが、私には「鳥肌が立つくらい感動した」という文であれば抵抗はない。また「自説」は誤用「持説」が正、としているが、この漢字を使い分けるくらいのニュアンスの差はあると思う。
そういう意味では、各世代が自分の世代の誤字・誤用標準表を書かなくっちゃと思ったりする。
間違いの無い言葉を使うのは当然だけど、常に辞書で確認しながら喋るわけにはいかない。だから、普段から誤用や誤字について注意することが必要になる。そして、どうしてそれが誤用なのかを考えることは、間違わないという消極的な効用だけではなく、言葉に対する感受性を高めることに他ならない。「なおざり」と「おざなり」の違いを今まで考えたことは無かったが、著者の採取した例を見ていけばやっぱり違うということが納得できる。「所詮」は「結局」とはやはり等価ではない。こういった細かいニュアンスの違いを考察し、自分の頼りない言語感覚に確とした根拠を与えることは、単に他人の失敗をただ笑うより余程意味のあることだろう。
この本で例示されている誤用の中には、ウケねらいで意図的に間違って見せている例もあるかもしれない。話し言葉なら聞き手の注意を喚起しなきゃ意味はないとばかり、わざと間違えて見せる。それがウケればマネする人も現われ、次第と人口にカイして(←IME2000はダメ、出てこないよぉ)悪貨は良貨を駆逐し最後に広辞苑に収録されて立派な日本語となる。「おはよう」、とか「さようなら」なんか、最初は誰か軽率なヤツがウケねらいでおどけて端折ったのではない?もうじき「まいど」なんかも正式挨拶になるかもしれない。クラスの明るい挨拶推進委員が毎朝最初に立ち上がり「まいど!」と元気よく発声すると、一同礼儀正しく大きな声で「まいどぉ!」と唱和する、なんてね。
私にも「目指せ広辞苑」用のオリジナルがある。
○「『やったらかし』でかまいませんよ。後はなんとかしますから」
○「あの子は公園に『行ったらかし』でねぇ。」
○「『書いたらかし』ではなくよく推敲するのが肝要。」
え?本歌の「放ったらかし」は関西方言だって?そか(^^;
ゲーデルは1930年ウィーン大学時代に「不完全性定理」を証明した。これにより、一貫した一つの論理システム内では、究極的に無矛盾であることができないことを示したとされる。著者はこの純粋に観念だけの思考から成り立つこの証明を新書版の読者に理解させるのに、数個の論理パズルを使用して説明する。「ナイトとネイブ」のパズル。基本的には「『クレタ人は嘘つきだ』とあるクレタ人がいった」というパターンである。
この論理パズルを始めて知ったガキである私は天才的にも、この論理がどうして矛盾してくるのかの大まかな自己解を即座に思いついた。平たく言えば、言葉は同じでも、内容が言及している範囲・レベル・システムが違うのである。このクレタ人が「クレタ人」という時、「自分以外の」という限定が入っていることは自明と思える。そして、あなたもその「クレタ人」ではないか?と矛盾を指摘する反論者は結局はゲームのルールを踏み越えてしまっているのだ。
素人にとってこんな簡単で自明なことが、現在でも数学・論理学の学者を悩ましているようである。きみらね、考えすぎだよ、といいたくもなってしまう。ゲーデルの「不完全性定理」の証明の帰結だって、ガキの頃の私の考えとそんなに違っているわけではない。単一なレベル(論理システム)内だけで自己完結的に矛盾から逃れられるシステムない、といっているのだ。
また後年ゲーデルは神の存在を論理的に証明した。まあ、論理の仔細は省略する。著者が論理記号で書かれた証明を日本語に直した定理の一つを「記念に」書き写しておこう。
「定理2: もし対象Xが神性Gをもつならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。そこで、神性Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在するならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。よって、神性Gを持つ対称xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在することも可能である。したがって、Gを持つ対象xが少なくとも一つ存在することが可能ならば、Gを持つ対象yが少なくとも一つ必然的に存在する。」
なんともはや。へどが出そう。う、ついに言ってしまったぁ(^^; これはあくまで全てを論理で詰めて行こうとする究極的良心であるが、究極の無意味という気もする。結局ゲーデル自身も「あくまでこれは論理上の話」とし、本人自身は神秘家であるようなのだ。
ハイゼンベルグの不確定性理論とゲーデルの不完全性定理を並べ、結局真理は論理と科学では到達できないのだと思えばよい。うむ、いやまてよ、ゲーデルの定理の証明は自己言及的(自己完結的システム)論理体系では矛盾を排除できないといっているのだ。結局ゲーデルの証明自体にも内的矛盾を孕むといってるのだから、やっぱり「不完全」では矛盾するのだ。かくてゲーデルの不完全性の証明は「不完全」で、本当は真理だけでできた論理体系は可能なんだよ。え?違うって?ええい。結局良く解らん。どのみち、論理によって神の存在証明を模索してきた西洋的知性からは程遠いところにある私達のような不条理な精神にとって、今更論理が破綻したと聞いても日々の生活に何らの影響もない、というもんだ。
ゲーデルのいかにも奇人学者風の伝記・逸話も豊富で、論の展開についていけなくとも退屈はしない講義である。ラッセル・ヴィットゲンシュタイン・ノイマン・チューリング等今世紀初頭の「知」は全てを明らかにするために、厳密に定義された完全言語を駆使することで
しかし、結果として論理では絶対に明らかにはできないということをその論理が証明してしまったのだ。完全であればあるほど矛盾する。そこに絶対矛盾としての神が立ち返ってくるのである。ん?何か矛盾してる?
春秋時代の覇者晋の文公以下5代の君主の寵を受け、宰相となって悠々と引退した軍事軍略の天才士会の伝記。
冒頭に、文公を無言で諌め、真意を悟った王の呼びかけにも答えずただ消えていた介子推との邂逅の描写がある。もちろんこれば介子推と士会との生き方の違いを際立たせる宮城谷の創作である。主を諌め、あらゆる世俗を拒絶して遂に姿をこの世に現さなかった介子推。そのむくれ方は尋常ではなく、ちょっと脚色過多の人生だと思える。士会は天才的英雄であるが、無理な自己演出はせず、時代に逆らわない世過ぎをする。しかし、その才と人物は次第に認められ、士としての頂点にまで押し上げられて長寿を全うするのである。居るんだね、そういう稀有な、幸運な英雄がたまには。
この作家が巧みに漢語めいた漢字の語感を文学的な武器として使っているのは本文だけか、とおもっていたらあとがきを読んで目を瞠った。
「だが、執筆中におもいがけぬ困難に遭遇した。罹病したのである。気力も体力も『たんけつ』しそうになり、休止もやむをえないと覚悟した。だが、きわどく『危たい』をまぬかれた。」IME2000なんぞが逆立ちしたって対応できないよ。このヨミを耳で聞いて漢字を思い浮かべられる人が果たしているんだろうか?ま、当方のようにワープロでカチャカチャでっち上げている日本語とはワケが違うのだ。
タイトルで示されているほどには鬱の肯定的側面を見せてくれはしていない。
感情の直接表現を無理に抑制するようなストレスを放置していると鬱になる。ストレスの原因となった感情の抑圧を自覚的に排除させることで心因性の鬱を取り除くことができる。また生物学的要因には抗鬱剤が高い成果を収めている。つまり、鬱は治療可能な病一般(?)である。「うつはいつ、誰にでも起きる」もので、特別な心配をせず自分や他人に隠そうとして抑圧してはいけない。とにかく治療を受けよというのが論旨。別に鬱であることを礼賛しているわけではない。
うつの症例・事例が豊富で、主としてその例を読むことでいろんな鬱のパタ−ンに接し、「あ、そうそう、コレあるよね」と自分や近縁者の鬱をしかと認識させる仕組みのようである。あまり面白いものではないが、アメリカの現代社会に生きている男女の職業人や家庭環境なんかの実例という興味で読みすすむことは出来る。鬱治療の実施例は、どちらかというと医者やケースワーカー向けのようにも思える。要するに鬱を勉強したい専門家には良い参考書だけど、タイトルに引かれて読み出しただけの私にはちょっと鬱とおしく、煩雑な内容だった。訳者の名前が原著者よりも大きく印字されているのもイヤ味な感じがする。何か文句を言いたくなるのは、当方の鬱の所為なのか?
ベトナム難民として来日し、苦学の末医学部を終え医師として活躍している著者の半生の記。気負いの無い素直な日本語で一読するのに2時間もかからなかった。タイトルの「それでも」が気になって読みすすんだが、期待していた(^^;日本批判はなかった。それどころか、人々の善意で夢であった医師になれた日本という国への感謝の念があふれている。実に率直で素直な人間性が読み取れ、当方も毒気を少々抜かれて「ぼくもがんばらなくっちゃ」とガラにもないセリフをはきそうになった。善意で生きてどこが悪い?自己満足でボランティアをしてどこが悪い?いや、その。そうですよねぇ。(^^;そのように認識できていれば周囲に押し付けることもないわけで。
この人は医師免許を取得する前後に日本国籍を申告して認められるが、その際ベトナム名をいかにも日本人らしい漢字名に改めた。日本国籍を取得した理由は述べてあるが、この改名措置の理由は不明である。もし、当局がこういった改名を国籍取得の条件にしているのなら明らかに行き過ぎだと思う。嘗てその人が育ってきた文化を全て否定しなければ帰化させないというのは狭量でナンセンスな話だ。いくら日本人になったとして、人種としての身体的特徴まで日本人に合わせられないのは自明なことだ。カタカナ表記の日本人が居ても別にかまわないではないか?
本物の学者が書いた、とても余技とは思えないノーベル賞学者サスペンス。(?)学会を牛耳るスーパースター学者達のノーベル賞を挟んだ駆け引きや、弟子という家僕とその反乱、または奴隷からの自立。ノーベル賞受賞の第一報から晴れがましいスエーデン国王主催の晩餐会への、学者なら誰でも夢に描くときめく栄光の描写。まあ、独創的理論の胚胎とその追試の疑惑という門外漢には見当もつかない世界でのサスペンスである。とにかく死体がどうのこうのではなく、明確な犯罪が行われているわけでもないが、しかしまぎれもなく、次はどう展開するのか、とページを繰らせるサスペンスになっているのだ。それに文章自体がよく推敲された本物の作家である。畏れ入る。この人自身も「ノーベル賞級」の学者らしいが、ノーベル賞受賞者ではない。その人がノーベル賞を欲しがる学者の話を書くこと自体微妙なくすぐりを感じる。もう一度、畏れ入って楽しくページを閉じる。
ギリシャ神話のヘーローとアンドロスを下敷きにした2つの物語が本の両側から進行してゆき、中央でふたつの結末が溶け込むという趣向で、造本もそのようになっている。
ベオグラード出身の作家。題材や小説の歴史的背景はギリシャやトルコ文明との近さを感じさせる。ウィーンとトルコの狭間で生きてきた民族である。詩的でふくよかな文体が神話を下敷きにした寓意や暗喩を内包し、豊かな文学的な冒険が続く。しかし、間の悪いことに、急に生活が急変したぼくにはこの作者の想像力の飛翔を楽しむ余裕がなかった。細部の文体の印象は強いが、この小説全体がどこに向かっているのか読み取れなかったのだ。だからせっかくの凝った趣向が意味を持つこともなかった。I'm so sorry for this reading.
著者は国際運輸会社に永く勤めた実務英語の使用者である。考えてみれば別宮貞徳教授の誤訳モノなんかは英語学的あるいは文学的な側面の話で、不誠実な誤訳には困ってしまうが、別に実生活上にまで問題が出るわけではない。商業英語という世界がある。この本で扱っているような実際に取引の場で使用されている英語の誤解は本当に困る。特に文法的には正しいし、辞書にも載っているけれど、でも間違っているというのは学校だけで英語を教わった者にとっては当然犯してしまう誤りである。語感や通常の用法というのは実際にそれが使われている世界のコンテキストの中でしか体感できない。しかし、それでも仕事とあれば英語を書かねばならない。
一例を上げると、I doubt that A. I suspect that A. がどちらも「Aを疑う」という日本語と対応するハズだが、doubtの疑い方は「Aではないと疑う」だし、suspectは「Aであると疑う」ということになる。うむ。これは語感の問題だな。言われてみればそう思うが、実際に書いてしまったら多分「む、これでいいハズ」とばかり提出して後日何かの機会に思い出し悶々と眠れない夜を迎えることになる。
海運業界雑誌のコラム記事だったようで、おやじサラリーマン風通俗文体でまとめている。港の倉庫の黒ずんだレンガ造りの事務所に詰めて通関関係書類の英語ドキュメントに目を走らせている光景、ひとつの職業分野の現場の風のようなものがどこか感じられたりするのがこの本の余得でもある。
前回読んだ「沙の回廊」の子会の次の世代の晋の属国鄭の宰相となる子産の物語。執筆順は逆だが、読書順としてはこれが正しい。宮城谷作品の最初のころの「重耳」が晋が覇者として創業する頃の時代を扱っていたので中国春秋時代のこの辺りの情勢がかなり明るくなってきた思いがする。作者がいうには、この辺りから君主ではなく宰相の時代になっていくということである。
子産の語感は独特なものがあると作者はいう。おそらくこのような古代の人々の語感に深く共振する精神が現代の日本語にくっきりとした輪郭を刻むような表現をもたらす。嘗ては漢文が日本語の書き言葉を作っていったはずだが、今また宮城谷のような作家の日本語の表現に出会うと、なにか引き締められるようなものがあるのを感じる。
タイトルはブラックユーモアの謂いか。日常生活をちょっとくすぐってみる風の短編集。毒というほど強くはない。「ホームアローンじいさん」:老人が家族が外出する機会を捕えて念願の孫の部屋に隠してあったアダルトビデオを見ようとする。しかし、操作がややこしくて失敗が重なり、おりしも忍び込んできた空き巣とどたばた場面になる。怪我の功名的に空き巣を捕えて家族の前で面目をほどこすが、そのとき正にアダルトビデオを仕掛けてあったビデオが動き出す。・・・うん。これはなかなか他人の隠してあるビデオをこっそり見るという心理的臨場感もあり、最後の切り方もいかにも短編のオチにふさわしい。ちょっとしたアイデアで要領よく短編に仕上げるタイプの作家。それ以上でも以下でもない。
アラビアの聖なる飲み物であったコーヒーは西欧世界にカフェ文化をもたらし、やがてそこから革命が生まれ、植民地・プランテーション・黒人奴隷といった諸種の史的イベントを繰り出していく。正にブラックマジックですね。コーヒーをテーマとしたいわばミニマリズムの歴史記述でかなり本格的な突っ込みもあるが、駄洒落も出てくる西欧史こぼれ話と読めばよい。
例えばフランス革命期にフランス領ハイチでコーヒーや砂糖のプランテーションで働く黒人労働者の暴動が発生し、暴徒は革命軍へと組織され奴隷の廃止をうたった憲法を制定して独立するのである。本国ではナポレオンが革命を鎮圧するが、ハイチは遂にナポレオンに屈しなかった。指導者トゥーサン・ルヴェルチュールはアフリカ起源のヴードゥー教の司祭であったらしい。現在のハイチの家庭にあるヴードゥー教の祭壇にはコーヒーが捧げられるという。コーヒーハウスが最初に出来たのはロンドンであるが、やがてイギリスでは紅茶を出すティールームが主流になる。何故かというと、「イギリスのコーヒーを飲めば分かる」そうである。コーヒーの世界価格を維持しょうとコーヒーの輸出立国ブラジルは世界恐慌の年から数年に渡りコーヒー豆を政府が買い上げ廃棄する政策を取る。そして一部の豆は石炭の代わりに汽車の釜にくべられた。そういう写真が載っている。・・
なにかと忙しく読書どころではない時期に、それでも軽い新書版の本なので携帯し10分刻みくらいで読んでいった。おかげで、朝6時に飲むコーヒーがやたらとうまかった。
見たことも無いのに何か懐かしいいつもの画風の装丁のエッセイ集。といっても、もう昔のようにひとつの主題をおもしろく展開した「絵本」ではなく、モンテニュー式の断片の集積である。もう文学的あるいは読み物としての読者サービスをしなくとも本が売れる大家になったんだなぁ。安野サンは。「旅の絵本」からもう何年になるのか。数学・幾何まわりの話題が多い。さらりと読み飛ばそうとするが、ちょっと計算をしてみようと色気を示せばそれなりに時間を取る読書となる。まあ、遊びだから次の駅に着いて乗り込んでくる若い女性に目を奪われたとたんに計算は放棄することになる。当方は今月から1時間40分の長距離通勤を初めてしまった所である。そういう腰が据わらない読書にうってつけの本といえば失礼か。
巻末にユルスナールがこの作品の成立過程をにつづっていた覚書の訳がある。「40歳までは決して書いてはいけない作品がある」「19世紀の考古学者が外側からしたことを内側からする」ユルスナールは皇帝が読んだと思われる本を読むことからはじめる。歴史小説ではない。歴史的なイベントを再構成してドラマに仕立てることではない。「あらゆる神の束縛からのがれ、キリスト教の影響を受けるには早すぎる時代。人間が崇高な存在であった歴史上稀有な時代」(フローベル=>ユルスナール)の死に行く哲人皇帝の独白。頑強な肉体と強靭な精神力で皇帝として君臨していたハドリアヌスが、老齢の諦観とほのかな自足をもって自分の生涯を回想する。だれでも一度は帝王になって、その最高権力者としての日々を味わってみたいと思う。人間生活の頂点に君臨する者の生活はどうなんだろう。しかし、世界帝国ローマの皇帝はあくまで人間であった。生きながら神格化されているとはいえ、自分を第三者の目でみることができるインテリジェンスが、過去に自ら行った戦争や激怒の発作を淡々とした口調で記していく。歴史を再構成していく作業ではなく、人間の内部を再構成するということか。古代の帝王の日常を再構成するにはどのような想像力が必要なのか。もちろん別にそれが「真実」でなくともかまわない。文学というものは想像力の遊びである。深夜残業通勤2時間の現代を古代ローマの帝王があざ笑っている。
森鴎外、夏目漱石の生涯の内のある一こまに焦点を当てた、どこかエッセイ風の味がある小伝記と同じく明治の建築家妻木頼黄の、これはほぼ完全な生涯を鳥瞰した伝記。同時代人の三者に共通して描かれているのは夫々の留学時代の生活である。特にドイツの森鴎外はくわしい。タイトルに示されるような女性との青春物語もある。著者の専門は建築だということだ。しかし、安定した文体を持つ小説家でもある。たぶんそのあたりが軍医総監であり文筆家としても高名であった鴎外に親近感をもつ所以だと推測する。そして、さすがというか、この本の作品中では建築家妻木頼黄の伝記が出色だった。いずれにしても明治の秀才達が海外に留学し、新鮮な喜びを持って西欧の知識を学ぶ光景はすがすがしい。もちろん、明治が成熟し彼らが大家になっていくうち、いつしか苦味は増していく。だからますます留学時代が輝きを増すというものだ。
永年対ソ貿易実務に携わってきた著者がその豊富な材料をちりばめてものしたサスペンス小説。多少筋運びがかったるいと思うが、細部のロシアにおける日本の貿易商社の日常がうかがえて厭きることはない。まあ、これからこの方面に進出しようとしている商社マンには必読かな。
お笑いくすぐりエッチ小説。ホラーSFレスビアンお笑い小説家でバイセクシアルな女性が主人公で同時に作者という遊びに遊んだ小説でシリーズものでもあるらしい。別に書評を書くような内容ではないが、女装マニアがあるとして、こういう女性作者になりきって文章を書いていくのはもっと楽しいことだと思う。ぼくもヒマになったら遊んでみよう。
ちょっと気を引く風景の水彩画をあしらった造本とどことなく女性文学的な雰囲気が全くの管理社会に一日中組み込まれてしまった毎日から見れば別世界への誘いのように見えたのだ。しかし、まあ、ここまで軟弱な内容だとは。言ってみればこれは中年女性の日常にふと陽がかげるように訪れる気まぐれな恋愛の心理劇集である。確かに恋愛感情はふいにおとづれ、心にある種の気まぐれなざわめきを引き起こす。オムニバス映画のように、大して代わり映えしない似たような日常の一風景のスケッチ集というか。何を読んでも「しかしなぁ、それがどうした?」という思しか残らないのだ。見方によっては言葉で表現できるか出来ないかの境目くらいの感覚をほのめかしたデリケートな文学であるといえるのかもしれない。私にはそうはもう見えない。少なくとも私には無価値な本である。大の大人が時間をかけて翻訳し造本し出版する程のものだとはとても思えない。
作者は理系のサラリーマンらしい。和算の先駆者関孝和の事跡を調べ、地道に生涯を再構成していく作業を余暇に行っている、森鴎外以来の正統な勤め人の姿である。この数学者の生涯は別に合戦をするわけではないので派手ではない。おそらく商業的には成功しない伝記小説だろう。そこに余技としての小説、商業的な成功を考えなくともいい作者の姿勢が見える気がする。特に文体や内容に小説的なメリハリがあるわけではない。ただ江戸初期の数学者という普通には歴史に顔をださない人物を廻り、知られざる事実が見えてくるのが面白い。作者の設定では関孝和はキリシタン遺児で、その才能を見込んだ時の大目付井上政重の引きで甲府藩士の関家の養子となる。だから、この人物は実はイタリア人宣教師の血筋であるかもしれない。また、大目付井上はキリシタン改め奉行を兼任し、幕府のキリシタン弾圧政策を遂行する元締めである。邸宅内にキリシタン屋敷を設け、表向きは牢であるが、その実は宣教師達の才能を活かし西欧事情・学問等を聴取する機関として、狂信的な宣教師達を隔離し保護するように運営していたということである。どこまでが作者のフィクションか判然としないが、踏絵に象徴される激しい狂信的なキリシタン弾圧は末端の小役人の業であり、上層部ではもっと現実的で良識のある運営がされていたというのはうなずける話だ。権力者の顔色を見ておもねり、狂信的な行為を行うのはいつだって下っ端の小役人や近所の市民達である。第二次大戦下ので狂信的なユダヤ人弾圧を行ったのはオーストリアであり、バルト三国やオランダだった。軍国日本の狂信的軍部の総元締めのような位置にあった大本営内では、昼休みになると女子職員と共にバレーボールに興じていたというような話や、朝鮮人である洪中将の存在等を思い出す。いつだって権威をカサに来て私憤をはらすヤツがいる。いや、私憤もないのに自己防衛のために権力におもねり、極端な弱者いじめをするヤツがいる。
高村薫の書く大阪下町の暑苦しい路地の光景はぼくにとっても「原風景」だ。少年期のすべての感受性を「西成」で形成してしまったぼくは、高村がのめりこむように書きつらねる小便くさい路地や油くさい町工場の雰囲気に感応してしまうのだ。この本は高村が新聞等に書いたエッセイ集である。大阪にまつわる話やその他。あまり才気のある文章ではない。生真面目に、とにかくテーマを決めて新聞に載せるエッセイをきっちり書こうとしている感じがする。子供と教育に関する発言も多い。最近の、放し飼い状態で育ってきたガキどもに憤慨するが、しかしそれは自分達の責任であると生真面目に最後に書いて自戒とするオチをつける。才気ほとばしる女流作家ではなくて、真面目で不器用な性格が見える。ときどきぼくは高村が自分の分身であったかのような気がするときもある。
テレビでおなじみ木村尚三郎先生名前で編まれた教え子達の西洋史エッセイ集。一応西欧中世史のマイナーな人物やイベントをテーマに、短いが故にくっきりとした各自の研究のさわりが結集している感じで結構楽しい本である。2名だけ紹介する。
高山博「中世シチリアのノルマン王と官僚、貴族たち」。まあ、これはこの前「神秘の中世王国」を読んだので2番煎じだけど、地味な中世史の中でひときわ不思議なきらめきを放っている分野である。イスラムやユダヤ、ギリシャやアフリカが渾然と重なり不思議な色合いを持っている。高山は実に面白いテーマを発見した人だ。
相澤隆「ニクラスハウゼンの笛吹き/ハンス・ベームと中世後期の宗教的民衆運動」町の大道芸人でもあった笛吹きハンスが改悛し楽器を焼き捨て説教を始める。人々はこの若者のカリスマ性に熱狂し巡礼となって従い、ついにヴュルツベルクで都市参事会がハンスを逮捕、民衆は司教城塞前に集まり不穏な騒ぎとなるが、やがて騎馬兵に蹴散らされて巡礼団は解体し故郷の村に帰っていく。ハンスは人々の見守る中で焚刑に処せられ最後まで聖母マリアに捧げる歌をうたいつづけて窒息死する。・・・もちろんこれは中世末期にドイツ周辺で湧き上がるプロテスタンティズムの嵐を暗示するイベントだが、この人々を巡礼へと誘い込む笛吹きハンスは、どことなくグリム童話のハーメルンの笛吹きを思い起こさせる。相澤はそこまでは書いていないが、タイトルはそれを暗示させるのに充分である。熱狂した民衆は魔法の笛の音に魂を奪われた無垢な子供と読めるし、騒乱を恐れる既成の司教勢力は影響力のある新参者に対して快く思わない大人達が暗示しているようだ。そして・・結局は全ドイツが笛の音に誘われてプロテスタントの波にどっぷりと漬かっていく。そうだったのか、民話はやはり歴史的真実を伝えていたんだなぁ。
いずれも当方よりも若いこの二人の学者は充分そんな歴史の中にふみこんで魂を彷徨わせる楽しみ方を見つけて生きてきたんだろうなぁ。とわが身を比べ悶々。
一人の老死刑囚の死刑執行を若い弁護士があらゆる法的手立てを尽くして救おうと試みる。老人の過去を探っていけばアメリカの恥部とも言える黒人の私刑絞殺というような事実にも直面し、実際に老人自身も死刑を覚悟している。それでも死刑は残虐で阻止しなければならない。と、何ともシリアスなところをグリシャムが本に書く。たばこ会社の訴訟を扱った小説なら華やかな法廷の駆け引きと勝訴という小説的クライマックスがある。しかし、ここでは老死刑囚はガス室に向かい死刑は執行されるのだ。グリシャムだから最後まで読者を引っ張っていくことが出来る。そうでなければあまりに重くてしんどい話である。老死刑囚が面白がって語る冗談にアメリカを見る。以下は当方が適当にアレンジした。死刑囚と死刑執行人の会話:「初めてだろ?まあ、気楽にやれよ。最後のタバコでも吸うかい?」「遠慮しとくよ。タバコは健康に悪いから。州知事の恩赦はないのかい?」「ないね」「じゃ、ヤツに言ってやれ。次の選挙にはオレの票をアテにするなよ、ってね」
ローレンツの古典。一度は読んだかもしれない。野生の鳥や犬達と共生することによって見えてくる本能と知性。ハイイロガンの「養父」になることで生物学的には「刷り込み」の理論を完成するのだが、ローレンツの本当の意図は単に自分を親と慕って懸命についてくるヒナを保護するという父性本能に抗えなかったというのが本当のところだろう。人間社会でだけ暮らしているとこのような動物達との共生生活が夢の中のような吸引力を持つ。なにか盲目的信頼というような絆だけで成り立っている世界が本来であり、ただ私達の社会だけが病み狂った相互関係の利害で神経がずたずたになってしまった場所なのだ、と思う。あまり動物社会のことを人間社会への教訓として引き合いに出すのは誉めたことではないが、最終章の「モラルと武器」の話を演繹せずにはいられない。強力な武器を持つ肉食獣や猛禽類は共倒れを防ぐために、同種の動物に対しては実際に戦わないで序列を決め、地位を認めあう儀式で済ます。負けを認めたものに対しては「本能が」それ以上の攻撃を抑止させるのである。しかし、決定的な武器を持たないハトは徹底的に相手を殺戮し肉を引きちぎってまで力を誇示する。コンラートは人間をこのようにいう。「自分の体とは無関係に発達した武器を持つ動物が、たった一ついる。したがってこの動物が生まれつきもっている種特有の行動様式はこの武器の使い方をまるで知らない。武器相応に強力な抑制力は用意されていないのだ。」
いや、そのような簡単な比ゆではない。第2次大戦下のナチスの例でいうなら、ドイツ本国よりもオーストリアやバルト諸国で、日本軍の例でいえば参謀本部や高級将校よりも下士官や兵士の達の間で、かりそめに与えられた自分達の権力を徹底的に行使し抑制のない暴力に突っ走るのだ。人間は、自分が最強の武器を与えられたときでも、自分が弱いという強迫観念から逃れられないのである。
「記憶してください。私はこんなふうにして書いてきたのです。」という最後に置かれたエッセイのタイトルの付け方はいかにも大江らしい。なによりも「持続する魂」の作家だ。「沖縄ノート」。ああ、そうだった、雑誌「世界」に連載してたんだったなぁ。30年前。「万延元年のフットボール」で確かに僕はこの作家が自分の鉱脈を掘り当て文体と書きすすんでいくテーマを掴んだ印象を持った。そして今でも、そのぶつくさと饒舌ではあるが奇妙に内省的な文体で自殺達との対話を持続している。「偏在する自殺の機会に囲まれている。これがわれらの時代だ!」と叫んだ20台の頃から。死んだ伊丹十三と武満徹と果てしない対話。生きている時には殆ど引用されることは無かった埴谷雄高も、向こうに行けば大江の小説にくっきとした形でオマージュが捧げられていた。そしてこのエッセイ集でもこの持続する、内側の淵を降りていく精神のあり方は変わっていない。内側にこもることで、まるでこの人は外側とつながり「賞」までもらってしまったようだ。そして、本当にキザな冒頭に引用した件のタイトルのような書き方でも、この人が言うなら自然と収まってしまうという風に。
日本語が自由な英人生化学者が書き下ろす軽い科学英語単語のエッセイ。コレを読んで本当に科学英語が自由に分かるわけでもないが、なかなか馴れた口ぶり達者な書きぶりで楽しく読める。ぼくも単語はどちらかというと好物なのでついつい読んでしまう。環境問題、遺伝子工学関係、それにpoliticaly correct関係(何ていうの、日本語で?)の話題に出てくる単語なんかが補充できる。英国では商品にcruelty free (動物虐待しない)という製品ラベルを付けている必要があるんだそうだ。日本の某電機メーカーも自社製品のラベルに「cruelty free : 従業員を虐待していない」というラベルを堂々とつけて英国輸出をして欲しいモンだ。
フィンランドは人口500万の小さな国である。20年前に訪れたことがある。世界かヨーロッパの陸上選手権がヘルシンキで開催されていた。地元の知人マリアとヘルシンキ駅で待ち合わせて、車で郊外のスポーツ公園内のユースホテルまで送ってもらった。森と湖、シベリウスの国。牧歌的なイメージが憧れを誘う。しかし、ここ10年で元はといえばフィンランドの林業製紙会社のノキアが携帯電話で世界制覇をしてしまったのだ。これだけでも耳目を引くのに充分だけど、ノキアが携帯電話に特化する前には深刻な経営難に陥っていたという事情もあるので本当に劇的な再生を果たしたのだ。ノキアの経営陣への取材を通してこの奇跡がどのようにして可能になったのかを明らかにしようとする本。一口にいうとトップの決断の勝利ということになる。また、ノキアの文化ともいえるような社風がある。ノキアの従業員の定着率は大変高いそうだ。経営陣は経営難を乗り切るのに安易なレイオフはしなかった。ノキアというブランドはフィンランドの誇りでもある。
この本でふれていることではないが、ぼくは他にもフィンランドの秘密を知っている。ぼくがパソコンにのめり込んでいた頃はDOS全盛時代だったが、初期のパソコン通信で評判のグラフィックデモを落とすとそれがフィンランドの学生グループの作であったり、世界のフリーソフトを集めたCDを買うとヘルシンキ大学のコレクションだったりした。大きな産業のないフィンランドのような国では学生は情報科に集まる。コンピュータソフトの世界では地理的な位置や小国ということは全く関係がなく、返って他に目立つ産業のない分だけ学生が集中する。そしてとてつもなく先鋭的なフリーソフトを開発していたのだ。つまりフィンランドではコンピュータのソフトの技術者が溢れていたとぼくは思っている。そして1990年台に急激に発展した携帯電話のノキアがこの学生達を吸収したのだ。
お家騒動の陰謀を阻止する若い藩士達の活躍を描く時代劇。青春小説風の爽やかさが基調になっていて嫌味のない長編に仕上がっている。時代考証の楽しみとでもいう江戸風俗へののめり込みめいた薀蓄もあって、厭きさせない。さわやかなのはいいが、しかし全体が現代風の軽さに支配され、江戸情緒を心理的に薄めるので両刃の刃ともなってしまう。造形的におもしろいトリックスター的人物も配置されたりするが、悪魔的なその性格が小説の魅力としてくきりと輪郭を刻む前にさっさと片付けられてしまう。悪くはないが、当方としては「本格」時代劇の方が通勤読書としてはありがたいんだけどなぁ。
フランスの若手鬼才が書き下ろす「イエスによる福音書」付きの「ピラトによる福音書」(L'Evangile selon Pilate)。イエスは自分の引き起こす奇跡を何とか近代的懐疑という良心で解釈し納得しようとする現代青年風解釈。ピラトはこれもユルスナールのいう世界史上で稀な神がまだ支配していなかった、唯一人間の合理精神が至高の政治思想であった時代のローマ帝国のユダヤ総督である。そしてイエスが復活したという報告を否定しようとあらゆる合理的解釈を施し、捜査の手を派遣する。そして逆にイエスの事跡に捉えられていく。現代においてもこの宗教の最大の魅力は解釈のあいまい性にあると思われる。まるで近代合理主義とユダヤ的狂気が共存し、常に矛盾した複数の解釈を許す余地を常に残している。ピラトはローマ的合理精神から死人が復活するという解釈を自分に許さず、納得できる解釈を探すのだが、遂にこの矛盾に満ちた人物のなんともあいまいな教義に次第に陥っていくのだ。なんともあいまいな、定義しようもない「愛」。それは「法」とは相容れない別種の論理体系である。作者はキリスト教の本質、しいては信仰の本質はこの曖昧さにあり、あくまで信仰とは合理的解釈を捨て、主体的に選択すること、つまり「跳ぶ」ことをいう、といっているようなのだ。
警察の裏をかこうとする猟奇殺人事件の犯人と、全身マヒのアームチェア探偵・ベテラン鑑識課員と美女警官のコンビが頭脳戦を展開。いろんな警察モノのパターンはあるが、まあ、それも良かろう。科学鑑識の薀蓄とマッドサイエンチスト系の猟奇犯が実行するグロテスクな殺人の微細な描写が売り。かなりの長編で、登場人物達もなかななかの役者揃いだったので、それが災いして忙しい車内読書としてはちと細部が煩わしかった。ヒマがあればコタツでゆっくり読めたら多分いい暇つぶしにはなったろう。
断筆宣言以降の筒井はあんまり読んでない。というか、読んでも過去に出尽くしたアイデアと筒井流の書く技術を使った職人芸だけの売文が多いので、一時接近した純文学的境地からまたドタバタ路線に帰っていった印象である。でもまあ、車内読書にはちょうどいい短編集というか。最初の「魚藍観音記」は井上ひさしばりの擬文を駆使したドタバタエロチックナンセンス。なかなかノリがよく楽しめました「おケラなぜなく、アンヨが寒い」なんていまどき誰が知るか。最後の「谷間の豪族」はカフカや阿部公房のやる、非条理逆桃源郷モノ(←ナニこれ?)つまりは、入ったら出て来れないアリ地獄世界のハナシですね。これも筒井の原体験のような地方の得体の知れない旧家の広大な豪邸のイメージが出てくる。都会の日常からは別の論理が支配している谷間に取りこめられる都会人主人公の、次第に同化され不条理に傾いていく心理。いやー、これを読んでいて奇妙に懐かしいのは、まあ、カフカや阿部公房の世界の再現ということもあるが、今の職場の非条理を思い出すからかもしれない。試用期間の今だからその空間に漂っている空気がなにやら怪しいと思う感受性が残っている。日程表とかアクション・アイテムだとか「ワタシタチハセカイノヒトビトニ」だとか、なんだとかかんだとか、いってみれば「タカガ、電機製品ジャナイカ?」いや、神聖なる労働にケチをつけるつもりはないんだけど、満足な睡眠もとらずにガンバッテらっしゃる姿はチト滑稽な。しかし、多分私もそうなる。確実にそうなる。いってみれば、このアヤしい世界に入ってしまったら一刻も早くクルッテシマウニカギルノダ。
ぼくが小学生のころ「勉強マンガ」というジャンルがあり、結構愛読していた記憶がある。清水の本質は見事に「勉強マンガ」ですね。「面白くてタメになる」ってやつ。素材そのものが教科書から借りてきたようなネタが多い。で、軽い文章ユーモアふりかけで口当たりのいいエンターティンメントとしての雑学に徹している。あまり面白くないネタも多いが、文章が軽いのでいくらでも食べられる。最後のヨルダン紀行ネタの「砂対水」が小説風でかろうじて小説家の部分にぶら下がっている。「ゾロアスター教、ジャイナ教」なんかがいかにも雑学の楽しみの王道ですね。他人をケムに巻ければ巻けるほど雑学は楽しいが、ゾロアスター教ジャイナ教というような現実離れした響きは格好のお題目だ。
現代中国作家の中篇小説集。都会に生きる農村的人間を軽いユーモアのある文体で描いたような作が多い印象で、今のぼくを刺激してくれるところもない退屈な小説集という印象だった。最後の「飛蝗」で目を瞠った。ド田舎の生活をグロテスクなまでに誇張されたユーモアとダリ風超現実主義的なくっきりとした事象を切り取る不思議な文体。文章は短く的確だが事象が現実ではない。クソ爺ぃやクソ婆ァが土俗的で残虐でユーモラスな掛け合いをするエネルギー。文学的迫力がある。おっ、こいつはすごいと思って解説を読むと作者の初期作品らしい。こういうエネルギーをもっている作家は円熟して欲しくないなぁ。訳者の日本語もかなりの境地のようだ。中国語の奔流をみごとな文体の日本語に再生している。用語的には親近性のある言語の翻訳者の特権かな、とも思う。とにかく感嘆するほかない日本語に仕上がっているのだ。
著者は嘗ての銀行家で、投機に失敗投獄され小説を書き始めたという経歴だ。リーガル・ロマンの法廷の駆け引きならぬ、銀行間の経済駆け引きの裏側に取材した金融経済エンターティンメント。巻末に訳者による国際金融用語集が掲載されている。スイス・バーゼルのBIS(国際決済銀行)定例懇親会から始まり、サルディニア島の金持ちリゾート、アラスカのサーモン釣りツアー等、昔なつかしい国際スパイ映画のような背景もあって快適なエンターティンメント性が一貫している長編。最後の「一番悪いヤツ」が何食わぬ顔で食事しているエンディングはなかなかの力量である。水準的エンターティンメントで少しは国際金融用語も覚えられる得な一冊。バーゼル・ミュールーズ空港から始まるのが、当方には妙に懐かしいかった。
うーむ。よくお世話になった金庸武侠小説の最新訳出長編。ここまで読んでくるとさすがにマンネリ気味ではあるが、ここまで軽く読める小説も少ないので、とにかく活字の尽きるまでつきあう。今回は殆ど現在のベトナム、チベットあたりが舞台となるようで、まあ、そのくらいを楽しみにつきあうとするか。
コンラート・ローレンスやドーキンスの本を面白く読んだら、ここまで別に面白おかしく語らなくとも事実は事実として面白いのだが、妙にこの竹内女史は性にこだわり、または読者が性にこだわるのを承知で挑発ぎみに性にこだわっている感じがあって、その辺の筆致が奇妙に面白い。PC、Politicaly correctの向こうを張ってBC、Bioligically correctというラベルでExcuseしておいて、売春、レイプ、浮気を積極的なSparm competitionを勝ち抜くしたたかな女性の戦略と説くという挑発をする。どこか上野千鶴子風の、性に対する挑発をすることで自分の内なる照れを逆転させようというような心理が感じられてかわゆいのである。