タイトルから史上の人物を配したフィクションだろうと思ってたが、ロシア人ジャーナリスト・政治家の旧ソビエトの旧悪の糾弾の書である。無条件降伏後シベリアに抑留された兵士・その他が多数いて、悲惨な強制労働生活を強いられていたことは知っていた。しかし、当時これがスターリンの国際的犯罪であることを明確に指摘できていた人はいなかったのではないか?戦争に負け、鬱屈した日本人達と滑り込んで勝を拾ったソビエトのラーゲリの恐怖政治に魂を抜かれてしまったロシア人達の間では。戦争も終わっているのにスターリンは日本人を捕虜として抑留し、シベリアの開発の労働力として使役したのだ。そしてソルジェニツィーンが暴いたような非人間的な収容所の生活。
著者はタシケント市長等を歴任しそれなりにソビエト体制を生き延びてきたようだが、本文に吐露されている旧体制の嫌悪と糾弾の口調は時として文体を破壊するまでに至っている。『受難のプリンス、我らを許したまえ!』風の読みにくい感情過多の文体も混ざってしまっている。著者も自身に深い傷を負い怨念が心に宿ったままなのか。
戦時の総理近衛文麿の長男、文隆は砲兵中尉としてシベリアに勤務中終戦捕虜となる。そしてその係累の故ソビエト側からプロパガンタに使おうと働きかけられ、拒否し終に収容所生活のまま獄死(1956)してしまう。日本の貴族の筆頭公爵(文麿自殺により自動的に爵位相続)がラーゲリ生活で朽ち果てていく。ここに穢れのない貴族的なものが政治や戦争や悪徳という世俗にまみれ陵辱されていく構図をいたたまれない思いで見ている目がある。おそらく著者も何らかの暴力的に陵辱された悲しみの源があったのだろう。公爵近衛文隆の抑留記録を丹念に掘り起こし奇怪なソビエトの暴力的政治政策を暴いた奇書。
ああ、もうこのテのSFエンターティンメントに乗って飛翔する力がない。漫画なら漫画の枠組みがあって、ページを開いたときにその前提とする世界にこちらから入り込まないとついて行けないことになる。漫画は読むときには真剣に没入しないと意味がないのだ。別に内容がマンガといってるわけではないが、とにかく没入するエネルギーがない。A.C.クラークのような作風だと、論理的に構築された世界が出現するのでエネルギーがなくともそれなりのリアリティを抱くんだけどなぁ。没入できなければすべてがなんだか類型的な物語である。未だにオウエンの1984風の近未来全体主義悪夢素材もつかわれ、演出の違いの趣向を見るだけである。うーん、僕は本格SFが読みたいのだ。
ドレフュス事件の裁判に最初に登場する筆跡鑑定人にまず着目する。パリ万国博とジュールベルヌの時代。科学がすばらしい未来を約束し、そして科学という名でさまざまな偏見と民族のエゴが正当化されようとした水面下の動き。フロイトはかろうじてオカルトから科学に分岐する。目くるめく犯罪と陰謀と正義と栄光が交錯する19世紀末。ドレフュス事件をひとつの定点観測地点とし、立体的に当時の社会の総体を描き出そうとしている。著者はまっとうな仏文の先生だが、どういうわけか大正時代に刊行された世界犯罪学全集というようなマニアックな書物からの引用まである。ドレフュス事件についてアルザス人という視点から見たものがないかというのが当方の関心だったのだが、この本は大きくユダヤ人問題から踏み出し、19世紀末の時代の精神を活写する思いがけない厚みを提示しようとするのである。これはだからかなりもうけものの読書だった。
タバコ産業・ホームレス等素朴な社会正義感からの観察をそのままエンターティンメントに仕立てたグリシャムが今回対比してみせたのは、巨大産業創始者のどうしょうもない遺産相続人達とただ一人ジャングルで清貧の布教活動に一生をささげる現代の奇跡の人の生き方である。例によって気の利いた場面転換やお手の物のハゲタカのように利益を吸い取りに群がる弁護士達の生態を狂言回しにしながら、したたかなプロの筆致で読者に絶えず刺激を与えつつ進行していくが、中心のイメージがくっきりと読者を捕らえてはなさないのだ。世界的規模の資産の相続人に指定された清貧の宣教師。このイメージがあれば、もう絶対最後まで読者はついていくよ。誰だって大金持ちになりたい。自分がなれないのならせめて大金持ちになった人の人生の変転を知りたい。これは最初にこのイメージを胚胎した時点ですでに勝利が決定していた小説である。
週間朝日連載コラムの集成。赤瀬川源平の「老人力」に強烈なライバル意識を持ち、ひそかにそちらのあきれるインパクトの強さに「不良中年」の開き直りもタジタジという場面もあるが、まあ、「オヤジ」でどこが悪い!てな調子の戯文が多い。たしかこの人の文は破格の詩人・俳人加藤郁也(?)に寄せる跋文を読んだのが最初だったと思う。俳句の季語あわせ、もっというなら枕草紙的何々つくしでマス目を稼ぐ風でもあるが、かつての純文学担当編集者としてのひそやかな含蓄もちらりと見えて、サマにはなっている。まあ、つまり自分の美意識価値観を貫こうや、というエールとおもっておこう。この人の小説を読むと自殺に傾く初老性厭世観も仄見えたりするのだが、そんなものは誰も読まない純文芸誌だけに閉じ込めておいて、広く一般に見せるのは見事な中年オヤジ開き直り。言葉のイメージを並べてそのミスマッチを利用して戯文にしたてるという比較的安易な部類の書き手として最近ちょっとは稼いでるようである。
主人公の名が妙に生々しく変わり、前面に実在の、あるいは自殺した実在のモデルが透けて見える私小説もどきになっている。どういう作風の展開なんだろうか?長江=大江、吾良=十郎という風に、まるで実話週刊誌がもっともらしいゴシップを掲載し、申し訳程度に名前をはぐらかしてあるという趣向なのだ。それはそれで「個人生活の話」が多い日本の小説という風なエクスキューズもあったりもするのだが。それほど義兄伊丹十三の自殺は重くて深い事件であって、小説的脚色を施す余地もない、というか、大江の私生活そのものが小説的企みに満ちて、今、初老の開き直りとともに、あるいは「賞」というステップを確保したしたたかな小説家の・今だから言える・という作家の自作への自己解説か?数々の自作と著名な友人達・家族達とが織り成す、まるで大江の小説のような大江の実生活。青年期からずっと自殺への狂気と隣り合って来た風に思える本人ではなく、友人であり師匠でもあった伊丹の死は、確かに大江の描く想像力の世界と同質で同様のシカケに満ちた実在ということを認識させる。文体はもうとっくに読者に周知され、長年にわたって慣れさせられ、大江風モノローグが流れてくるとパブロフの犬ばりにたちまち四国の谷間の狂騒に入りこむ完成したコトバが、今では現実と想像という危うい線に読者を一気に連れ込む。しかし、モデルが透けてみえることで、これはもう小説ではない。ふと、読者の現実もどこかで一部大江の小説世界に侵食されていくようでもある。
引き続き長江古義人の物語。前作よりもさらに実名もどき登場人物が増え、実際の大江のクロノロジーと小説が相互に補完し侵食しあう構図になっている。小説家というものはここまで小説としての日常を生きているもんだろうか?万延元年のフットボールで大きく自己の想像力のルーツを意識し自分の小説世界を構築してきた大江が「賞」と伊丹の自殺、あるいは最後に語ることを意識し、再び大きく小説の仕掛け自体を転換しようとしている。この作では小説的クライマックスをかたちつくるイベントが一揆や村落の伝説芝居ではなく、60年安保のデモの「老いた日本の会」メンバーによる再現というのが、いかにもパロディくさくて笑ってしまい、小説的に終わりを急いだ稚拙な感を払拭できない。前作で読者に告げた自己の身に数回に渡っておきたテロによる被害や谷間で実際に起きたとされる米兵殺害事件の真相が小説的現実として文体化される。大江の芥川賞受賞作が「飼育」だったなぁ。しかし、長年にわたって曲りなりにも読者であった私は、このような形で大江の小説世界が大きく現実に向かって回帰するのをみたくはなかったのだ。
大学医学部教授で法人類学者が書き下ろす、猟奇連続殺人犯捜査のサスペンス。法医学サスペンスとでもいうか。まあ、肩書きを抜きにしてもうまく書けている警察モノだ。専門の骨の鑑定や猟奇殺人現場の血なまぐさいリアリティにこのタイトルは有効で、実際の犯罪でもそうなんだという裏付けを与える効果はある。以前付き合っていた女性医学博士のHに聞いた法医学講座のえげつない現場写真の話なんかを思い出す。女性医師というのは血を見ると興奮する性癖があるんじゃないか、となんとなく思ってしまう。残虐な犯罪を舌なめずりをしながら描写している女性医師。う、こわいよう。
文学をテレビ世代のエンターティンメントにしてしまう才気はあるが、どうももうひとつしっくりこない印象が当方には残っている高橋源ちゃんの力作。日本文学を切り開いてきた明治の文豪達の姿ををコント風にちゃかしながら、その文学の実際をあわよくば際立たせ考察しようという、いかにもらしい大作である。さすがに鴎外、漱石という巨人を茶化すには畏れおおいのか、娘に頼まれた「たまごっち」の入手を知人に頼む程度のオチャラケで遊んでいるが、文学と生活の狭間に苦悩する啄木がエンコー女子高生趣味が講じてブルセラショップの店長となり、赤裸々な自然主義を実践しようとして未だに美文的カッコをつける癖から脱却していいない花袋がアダルトビデオ監督に就任しそれぞれの文学の実践と現実への対処を際立たせるというようなカリカチュアは、ははーん、そーゆーことだったんだ、という解りやすい解釈をしていただいていてたいへんお勉強になります。
以前の作品では、なにかしっくりこなかったコトバ遊び文学遊びが今回ようやく手法として有効に機能できるテーマを掘り当てたという感がある。
↑ここまでが前半の評。以降後半↓
ところが、「明治文学史を素材にした小説遊び」風の印象しかなかった前半を通過するといささか様子が変わっていく。ここではタカハシ君が明治の文豪にたち交じり親しく心情をインタビューしたりする。単なるくすぐりを超えて、明治文学への入れ込みが嵩じ、本人が入り込んでしまうまでにいたる。最終章におかれた明治文士達の死亡記事のリレーは見事だった。昭和21年の三重県、吹雪の中で人知れずコト切れる伊良子清白医師の退場ですべてが終わり、同日第東亜文学者大会の新聞記事の引用が明治をたちきってしまう。1988パリのウィーンの終焉展を思わせる劇的な幕切れの演出である。昭和平成の文士であるタカハシ君にしてみれば、明治の文士達がおおまじめに文学に託す心情や思い入れは、現在の文学にはとても感じられない文学の青春であり、高名無名を問わず明治文士達の生き方は深く同感するところであったのだ。明治文士達へのオマージュは広く青春へのオマージュの響きがし、当方もタカハシ君の小説では初めて感動の域にまで連れていってもらった気がする。この作家の評価がしにくくて中途半端な印象を抱いていた当方としてもこれでなにやらホッといたしました。めでたしめでたし。
故あって、私は日本人一般よりも韓国事情には詳しいと自負する部分もあったのだが、とんでもないことだった。この原本は1990年の発行でバブル前期の日本と現在の経済産業国家になる前夜の韓国の対比という時代的文脈を考慮する必要があるが、それにしても、当方がソウルの薄暗い「喫茶店」に案内され、寄ってこようとする女性達を連れのMが制していた光景の裏にある文脈の奥行きを大きく見落としていた。思うにMには、韓国人としてこの著者が伝えようとした事象を、「恥ずべき後進性」として当方には隠蔽しておくという心理がずっと働いていたのではないか。
著者のリポートは、ひとつの社会のいわば素直な紹介である。しかし、日本語で韓国を語る韓国人にのしかかる内的・外的抵抗の存在は推し量るに充分である。あるいは、著者の日本文化への肯定的同化が必要以上に解りやすくプロトタイプ化してしまっている部分もあるのかもしれない。文化というひとつの大きな仕組みは、その中にどっぷりと入り込んでしまっては何も見えない。対比するための文化もまた必要だろう。しかし、この対比が比較的やさしそうな2つの国を、この著者のような日常の視点で述べたものがいかに少なかったのか。この本がベストセラーであった所以である。
日本語・韓国語の教師という目からか、日本語と韓国語の比較が面白かった。日本語のもつ受身の多用が複雑な人間関係のニュアンスや、心理に影響し、延いては日本という事象自体を説明するキーワードとなっている。そういえば、今の会社でこうむるストレスの主因は、およそ日本語的でない周囲の人達の行動・主張であると思い至る。私はアグレッシブでもハングリーでもない。ごく普通の日本語常用者です。うむ、この辺がかなり日常のストレスを説明しているような気がするなぁ。
東郷平八郎が連合艦隊司令官として日露戦争で英雄となるが、伊東祐亨(ゆうこう)は初代司令官で日清戦争時の威海衛海戦で清国の北洋水師(艦隊)を打ち破る。このとき敵司令官との武人の情けに満ちたやり取りと処置は当時の新聞に大々的に報道され、恰好の戦勝気分の盛り上げを与えた。伊東は薩摩藩の小姓役のとき、島津久光の供をし生麦村事件に遭遇している。以下、神戸の幕府の海軍所で勝海舟の薫陶をうけたり、反対に江戸湾で幕府海軍と交戦したりして日本史のきらびやかなイベントに薩摩藩士としてからみながら明治を迎える。この旧勤皇藩の中下級藩士たちが明治政府の要人になっていくが、伊藤は政治ではなく軍人として明治政府を支えた群像の一人である。海軍元帥第一号の称号を得、伯爵に叙せられ従一位の官位を得、72歳の生涯を閉じる。江戸→明治の一大転換期を常に舞台正面から演じ切った人生である。ただ、あまりに順風満帆風なので小説的には単調の感は否めない。著者の筆は時代考証、特に当時の海軍事情や海戦術で冴える。薩摩弁のセリフは時として読みづらいが、安定した筆致で危なげなく江戸末期から明治後期まで描写が連なっていく。新聞小説にふさわしい素材とスタイルといえる。
(わたらい・よしいち:法政大学イギリス文化論)
主にイングランドやスコットランドでの魔女裁判の記録を丹念に紹介し、その単純には分析できない重層的な経緯を語る。マリーのいうキリスト教に駆逐された古代の宗教の地下での記憶であったり、まったく政治的な事由による意図的冤罪であったり、被疑者、又は検察者自身のヒステリーであったり、もちろん本物の呪術や産婆に対する超心理的な影響の発露でもあったりする。多様な文献に現れる夫々のコンテクスト。やや資料網羅的で通勤読書としては新書版のくせにやたら通読時間がかかり、その割にはよく覚えていない。読む時期を誤った。
中世学者・記号論学者・小説家、現代の文学的カリスマのパロディー・カリカチュア集。よく考えてみれば例の「薔薇の名前」だってシャーロックホームズのパロディーで中世の遍歴学僧振りの戯文だったし、「フーコの振り子」も何とはなしに衒学的パロディーの趣はあった。ただ、これらは知的くすぐりの文学であって、哄笑を目的にしたものではなかった。で、これはもっとストレートに笑い飛ばそうというパロディー。古今の文献から集めてきた其れらしき文体を、馴れた手法でどこかの軸を入れ替えパロディに仕上げる。クーナウの「文体の練習」は生真面目な文学的試みでもあるが、エーコのこれはまったく文学的お遊びというものである。
もちろんユダヤ人はヨーロッパ諸国の歴史に絶えず見え隠れしているのだが、ヒットラーによるホロコーストに集約されたドイツの事情は劇的である。異質な者への差別と迫害は歴史の常として、終に歴史の中に散り去る事のなかったユダヤ人へのその時代のかかわり方はこうして新書版で鳥瞰すると、劇的な終焉を2000年かかって準備していたように見える。十字軍が資金稼ぎとしてまず襲ったのがユダヤ人集落であった。ドイツでは中世フランクフルトのユダヤ人ゲットーの描写が印象的だ。土地が制限されていたので数階建ての建築が道を覆い昼なお薄暗い怪しげなゲットーに、市民は恐れながらも金を借りに訪れるのである。ワイマール時代にほぼユダヤ人の市民権が確立し、同時に東方の貧しいユダヤ人が入り込む。医者の40パーセント、弁護士の60パーセントがユダヤ人に占められていたという統計がある。金持ちで、都市型知識人のユダヤ人に対する敵意と貧しい東方系ユダヤ人に対する軽蔑。ドイツは第一次世界大戦後の国威高揚策としてユダヤ人の絶滅を叫ぶヒットラーを選ぶ。ドイツでは戦後、ホロコーストを語ることは永らくタブーであった。そしてドイツ政府が公式にホロコーストを犯した悪として謝罪するのは、ベルリンの壁が崩壊した1990年のことである。ドイツにおけるユダヤ人の歴史が新書版的に要領よくまとまっているといえる。
焚書坑儒・独裁者の悪名高い秦始皇帝の伝記。作者の姿勢はするどい政治意識を持った哲人皇帝を描くことである。春秋戦国の500年間を経て終に統一中国を実現する劇的な戦果はほとんど前面に出ることなく、純粋な政治人間である皇帝の政治思想の形成を克明に描くことに物語の大半が費やされる。蔡沢・尉綾子・韓非子達との対話。法による支配という思想の形成。官僚の不正を極力防止しようとして厳格な法による支配を目指したこの皇帝が後代悪者とされるのは、この理念が現在も今だ実現されず、言うなれば二千数百年時代よりも先んじていたからだと作者は看破する。坑儒の坑も生き埋めで殺したのではなくて、牢に隔離した程度と解釈するのが正当というのである。中国古典を論じるに足る素地は充分とうかがわせるが、ただ「すべりこみセーフ」というような安直な表現が読者の感興をそぐ部分がある。
明治初期にお雇い外国人として招聘され士官学校で土木工学を講じたストラスブール出身のルイ・クレットマン中尉の日本滞在(1876-1878明治9-11)と、その遺品をふとした偶然で整理し始め、やがてライフワークとなるに至るその孫の情熱との2極を結んだ伝記。祖父は歴史上ではマイナーなただのフランス士官だが、尊敬できる西洋と従順な生徒である日本との数少ない蜜月時のエピソードとして興味深い。花見で仲良くなった娘に家に招待され、帰ってきた父親も驚くが、やがて一家をあげて歓談する、というような鷹揚な時代模様がある。現在の80歳の孫がこの祖父の事跡を掘り起こしていくが、この部分は作者の一人称が入るドキュメンタリーになっている。この2極の物語は適当に章で分けられ、通読するのにそう違和感はない。どちらも日本への純粋な好奇心というものに焦点があり、我々日本の読者には興味がつきない読み物になっている。作者は元は翻訳者だったようだけど、一冊の書物を構成するに足るだけの実力はある。
そうか、ナチスドイツは壮大な言語によるプロパガンダ運動だったのか。カリスマ・ヒトラーのつむぐ言語の綾にこめられた古代の預言者の響きに、やがてドイツ全体が信仰をかたち作っていったのだ。著者はナチスの広い意味での言語活動のそれぞれの局面を鮮やかに切り取り提示してくれる。実に印象的な切り口である。1)ヒトラー演説の分析では、巧みに取り入れられた聖書の言葉が次第に現在の預言者ヒトラーを際立たせていく。2)映像の言語。ナチスの宣伝映画「意思の勝利」(レニ・リーフェンシュタール)の映像の効果を克明に再現し、ワーグナーの楽劇のような荘厳で神聖な画面に圧倒される思いがする。ナチス運動とは始めからある種の現実離れした劇場で上演されていた巧みな演出による舞台なのだった。3)教育の言語。教科書にみられる全体主義への教条にあふれた時代にもかかわらず、自ら大学教授から田舎の小学校の教師に志願し、実に人間的な教育を実践したライヒバインの思想と生涯の感動的な紹介。4)強力な言語統制下でもすたれる事のなかったナチスジョーク。5)悪夢、夢の記述。ナチスに抵抗し刑場に曳かれていく前夜に見たゾフィー・ショールの夢等。夢にまで反映する現実の悪夢と自己の理想への確信。
このように多面的な表現を「言語」としてくくり、ナチスとそれに抵抗した人々の表現をくっきりとした切り口で紹介した印象的な新書である。ナチスの本質がこのような切り口でようやく明らかになるという感があるし、同時にどのような時代にでも、時流に流されることなく自分の表現を貫いた人々がいる、という事実を伝えるということがこの著者の本当のテーマであったのかという思いも喚起される。
ヘッセを読んだのは40年前ではないか?高校生が最初に出会う文学として読み、そして青春の思いと人生についての思索というその年代の問題意識をくすぐられ、ある種の熱意にまで高められ、その後の広い文学世界へのカタパルトとしての役割を果たしてくれた。そして、奇妙なことにそれ以来ヘッセを読んだことがないのだった。ヘッセ、太宰治が青春というものの通過儀礼であり、一過性の熱病のようなものであったという思いが残る。その意味で今、このタイトルの晩年のヘッセのエッセイと詩のアンソロジーにひきつけられたのは興味深い。永遠の青春の教師であったヘッセは初老性うつ病に取りつかれた私に何を教えてくれるんだろうか?
老いることの肯定と、若さを模倣することの醜さ。まあ、そうだろう。老賢者ヘッセとしてはそのようなモラルと自然信仰に満ちた助言にはなるだろう。いや、しかし、この老ノーベル賞作家に寄せられる若者の「人生どう生きるべきか?」に答えようとする意識のエッセイは深い懐疑の念を垣間見せる。「愛するものよ、生きることには確かに意義がある。弾丸の助けを借りるなど問題外だ」とも「たしかに生きることには何の意義はない、やはり弾丸を頭に撃ち込んだ方が良い。」とも答えることができるのだ。しかし、ヘルマン・ヘッセに人生の選択を委ねようとする若者が「頭に弾丸を撃ち込め」との答えを期待していたのだろうか?たぶん、この老賢者は若者の欲する答えを返信したのだろう、それとも膨大な書信の山の下に放り込み、多少のやましさを感じながら意識から追い払ったのか。このエッセイ集の中で時折、ふと自らの作家として、人々の教師たる立場を忘れ、怪しげな燃え上がる炎に身を投じたいという願望を見ようとするのは、実はぼく自身が読み取りたかったぼく自身の願望であったに違いない。さて、ヘッセはぼくにはどう答えてくれたのだったか。
奇想天外呪術合戦風のおどろおどろしいエロチックオカルト風を期待していたが、ハナシは楽屋落ちネタ、原稿料稼ぎネタ、満載の今風テレビ芸でうすめにうすめられてホンの少しだけ。確かに講釈師もマクラにあたりさわりのない近況ネタを振るかもしれないが、ハナシが佳境にはいれば、その方向のアドリブに集約されていくハズだ。獏氏の講釈はまったくマクラの悪乗りだけである。それはそれで、軽くてさらりと読み捨てられるので消費小説としての才かもしれない。しかしなぁ。肝心のハナシがのらないんじゃ、こりゃハナシにならんぞい。
この作家は高名な「ナルニア」の作者と解説で判明。しかし、未読なので今回の評には関係はない。ファンタジーSFという分類に入る作品である。あるいは、はるかにイギリスの海洋冒険小説等の流れを踏襲している感もある。と書いたが、実は本当に想起しているのはジュール・ベルヌの「15少年」等の系統である。SFとしはSの部分が弱いので当方の読書牽引力に不利かと思われたが、文章自体に吸引力がありFの部分での読書で楽しめた。
Sからの批判を先に書いておく。知性のある異生物モノではヴァン・ヴォクトーの宇宙船ビューグル号に出現する、こちらの脳髄を直接刺激してくれる思考実験がSFの魅力であったし、あるいはクラークの高次の存在への探求は哲学の域にまで思考実験を広げてくれる。この意味で、ルイスの異生物の存在そのものへの想像力は、彼自身が嫌悪するスペースオペラ風仮想行列的「人工」生物に他ならない。どんなに外見をデフォルメしても、依然として中身の構造は人間である。特にばかばかしいのは、この異星生物の言語がラテン文法に従っていることだ。作者がもし日本語等の知識があれば、もう少しマシな想像力を刺激する異星言語を想像できたはずだ。したがっての意味では多分これは、マラカンドラという惑星の話ではなくて、例えば北米インディアンやアボリジニーの集落を訪れた言語学者の見聞という枠組みと何らかわりはない。そして主題も案外、本質的にはこのような素朴な信仰世界への憧れの告白というのがこの作品の本質であるのかもしれない。
しかし、この異世界の描写は美しい。我々が憧れる、くっきりとした楽園のイメージが生理的な快感まで誘うくらいの筆力がある。ここで作者はキリスト教神話を包含するSF的な高次の神話的枠組みを語ろうとするのだが、クラークのような明晰さはない。むしろファンタジーの枠内での神話的雰囲気の創造が主眼と見える。この作品は3部作の1ということで、後の作品ではこの神話がもう少しくっきりとした思考実験になっていくのかもしれない。地球人アンタゴニストが悪者のステレオタイプになっていて、この部分が著しくファンタジー性を損ねてしまう。
というわけで内容的には不満な作品だが、奇妙に細部が美しく、意外と読ませてしまうのだ。
日本軍進駐以前の英国統治下のシンガポール。中国人社会ではあるが、英人支配層、インド人警官、マレー人日本人が入り乱れてひしめく社会である。この混沌を舞台に、からゆきさんの孤児である主人公が持ち前の侠気で裏の社会での実力者となり頂点を極めていく逆教養小説。いつもながらの克明な取材があり、ハリマオ谷と同様実在のモデルを彷彿とさせるリアリティがある。ラッフルズホテル、中島自転車店や中国共産党オルグ等の取材がしっかりしているので、裏社会の洪門組織や英国人と中国人の混血の謎の美女等が暗躍する冒険小説部がくっきと引き立つ。佐々木の作品中には、現在日本のうんざりするような勤め人の日常をくっきりと切り開いてくれるような緊張した舞台がいつも用意されている。戦争であったり、遠い外国であったりするのだが、そのような、いくらか硬質の舞台に自分が立っている緊張感への憧れが現在の我々には癒しがたくあり、佐々木はそのようなサラリーマン社会の憧れをいつも体現させてくれる作家である。
前回の火星編はファンタジーSFとして読めたが、これはもうSFではありえない。金星はあくまでこの世界とは別の世界という舞台を提供するだけで、SF的な未知への憧れがかかれているのではない。端的にいうと旧約聖書の創世記の別バージョンになっている。前回の火星編で、驚くべき執着力で書かれていた未知の生物や不思議な風景は背景にかすみ、楽園追放がなかった創世記を描くという宗教的ファンタジーにテーマは絞り込まれる。信者であれば、引用される言葉に聖書SFというぺダンチックな楽しみがある本かもしれない。しかし当方にすれば、自閉された脳髄で展開される狂信的ユーフォリー物語で、ついていくにはこちらの教養ないしは心的エネルギーがでてこない。しかし、何と言う粘着力のある文章だろうか。物語の本質とは何の関係もないデティールの偏執狂的書き込みはシュールリアリズムの域に達している。このような肉感的なまでの情景描写が何の伏線にもなっていないのに、あくまで見てきたような仔細な感覚描写を続ける作者の驚くべき内的時間。現在のSFに馴れていれば、すべての光景は何らかの意味を付されている一種のプラグマチズム的手法と考えるのが読者の一般的姿勢だろう。しかし、作者はまるで本当に別世界に到達して報道を始めたカメラマンのように、見たことをすべて記録しようとしている。そして、教養のない当方でも、この偏執狂的エネルギーの奔出には奇妙な、いわば倒錯した魅力を感じてしまって、それが読み進む原動力となったのは事実である。この作は第二時大戦中に書かれたもののようだ。その意味では現在の筆法ではないのは自明である。当時のSFはアメリカのマンガ的なスペース・オペラであった。イギリスでこのような純粋思弁的な作品がSFの手法を借りて書かれていたということに思い至ると、先駆的作品としての新しさに感嘆する。案外、これがクラークの未知の高次の知性との邂逅物語に直接つながる道を用意したのだろう、という確信を抱いたりする。
ナポレオンが去った19世紀初頭のフランスにエジプト総督から政治工作として1頭のキリンが贈られた。キリンはマルセイユ知事の元で一冬を過ごし、フランスをゆっくり歩きながら縦断しパリにいたる。人懐っこくて温和なこのキリンは物見豊かなパリを熱狂させる。歴史的には大きなイベントではないこの1頭のキリンのゆっくりした歩みを語っていくうちに、当時の国際政治の舞台裏や王政復古時のパリの雰囲気が自ずから背景として立ち上って来、重層的に時代がくっきりと描かれることになる。歴史を描くことが主眼ではないが、ふと200年前のフランスの光景に思いを馳せさせる魅力がある本である。ある人物の生涯を描くことではなく、このようなひとつのイベントを掘り起こしてスポットライトを当て一冊の本を書くのはユニークだけど、有効な切り口だ。なによりも、南仏ののどかな田園地帯をゆっくりキリンが歩いていくイメージは心楽しい。このイメージを過去からしっかりと切り取ってきた著者の着眼の勝利である。
いつか通読してやれと思っていたが、失業中の今がその時期であると思い定めてちくま文庫版全20巻の1冊目にとりかかる。大正の通俗小説のトンデモナイ口調とご都合主義に多少引いてしまうが、それも時代の空気ということで諒解すると、後は実在・架空の人物が入り乱れての堂々たる大河小説である。この時代にしてはニヒルな主人公が想定されているのがなんともすごい。先ず最初に何の遺恨もない老巡礼を切り捨ててしまう場面から始まるのである。このような悪漢を主人公とする発想は一体どこから来たのだろうか?
イギリス前世紀末から今世紀初頭(ビクトリア時代と称している)の作家4名による児童文学のアンソロジー。まったく退屈な伝統的なお話のパターンだけを踏襲して作られた話もあるが、タイトルの作品のように完全に伝統説話のパロディを試みているのもある。特にドラゴン主題のものは、まっとうな古典的恐怖のドラゴンが登場することはなくすべてがパロディであった。気がよくてやたらと平和的なドラゴンが、伝説にしたがって勢い込んで戦いをいどんでくるセント・ジェームスとなんとか話をつけて八百長に持ち込む話とか、ゴキブリのように無数の大小のドラゴンがはびこる話とか。児童文学といっても、こういうパロディは、どことなく大人の遊び・イギリス的皮肉という感があり、「純」文学よりも、知的遊び風の推理小説や冒険小説が盛んだったイギリスの伝統を感じさせたりする。たまたま先月見た映画「サラマンダー」も伝統のドラゴンのイメージを強く意識した物語だった。確かにイギリス人の深層意識の下には伝統の火を噴くドラゴンが住んでいるらしいのだ。
全20巻をどういうスケジュールで読むか別に考えていないが、図書館での貸し出し期間の区切りでとりあえず部分的書評書感を書いておくことにする。
全体からするとまだ始まったばかりだが、主人公格の机竜之介がほとんど不在。どうやらこのニヒルな異例の主人公は着想だけが先行し、物語を堂々と推し進めていく想像力の源にまでは至っていない。しかし、このスーパースター不在状況が思いがけない小説世界を構築していく気配である。第一巻では新撰組・天誅組等幕末の時事イベントを取り入れようとしていたが、それが物語りとしての意味を持つ程には消化されてはいなかった。この巻では作者はそのような性急な社会性を盛り込むことを放棄し、伝統的な江戸の語りものとすることに回帰した風でもある。京都から江戸までの街道や宿場の道行文、江戸期の階級的アンタッチャブルの芸人間の山のお君・遊女・やくざの類からエリート官僚甲州支配駒井能登守に至る雑多な人物群とその習俗の活写。「山の娘」と称する出稼ぎ女性達の結社組織・「貧窮組」と名乗る奇妙な打ちこわし集団の発生等のミクロ史学的な語り。また、盲目の机竜之介をはじめ、現在の「身体障害者」的な認知から限りなく自由な片腕・片足・奇形の人物達が飛び廻る全体像も、何かしらの時代感覚への認識を揺さぶられる。障害は単なる雑多な人々の一属性に過ぎず、それ以上の本質的・決定的な差異でない、ということに現在のわれわれが気ずくのは容易ではない。推測だが、100年前の日本の社会で10人の市民が集まれば、そのうち数名は確実に身体のどこかを欠いているような状況ではなかったのかという思いが募ったりする。
主人公の不在という求心力の欠如が、江戸後期の社会を鳥瞰し、作者の生きた大正時代の感覚が投影された全体小説をつくりあげていったのだ。
著者は精神科医である。自らの容貌に対する劣等コンプレックスを出発点とし、美男・美女という顔面の美醜、容貌のもつ意味等を古今の文献や現在の風俗の豊富な事例を紹介し考察する。医者の習性として、多少いかがわしい興味もないではなく収集されている法医学教室参考写真集的資料も満載、オタク的に楽しい。精神異常者の表情やホラー漫画のおどろおどろしい顔の表現や容貌コンプレックスがらみの精神病理事例、猟奇殺人ものの抜書き等々。顔面の美醜ということに焦点を絞った意外と珍しいエッセイだけど、次第に多少アブナイ趣味の領域に入っていく。むふふ、というほど「性」には踏み込まないのではあるが。美容整形ブームがある。著者は顔というものの造作を非可逆的に変造してしまう唯物性に危惧を覚えるほどには良識的であるんだけど、その割には自分の顔を手術で変形させ続ける芸術的パーフォーマンスという見世物を紹介したりしてかなりオタク的ではある。美容整形も売春も自らの身体の一部だけを切り離して商品/切り売り可能なものとしてしまうところにいかがわしさがある、という主張は妥当な線かもしれない。文章は手馴れたもので医者の余技ではない。
今年も「ローマ人の物語」を読む時期がやってきた。図書館が変わってもイタリア史の書棚で新作が購入されていないかチェックするのが習慣になっている。読書の楽しみが確実に得られる書物が分かっているのなら、ガキがかしましい市立図書館でうろうろする必要はない。お、あった、あった、と今回はほくほくとして図書館を出るのだ。
さて、前回は第十回記念特別編ということでローマ帝国のインフラに焦点をあてた、いかにもこの人らしいプラクティカルなテーマの巻だったので、今回の主人公は9巻「賢帝の世紀」の最後の後継者マルクス・アウレリウスとその後ということになる。剣豪将軍風の哲学者皇帝というあだ名と後世の大唯物論者哲学者マルクスの名を持ったこの皇帝に「ん?」と思った高校時代から実に40年後にやっとこの人のまともな伝記を読む。うむ。この人はやっぱりまじめに(ストイックに)皇帝業を遂行した人であるらしい。自身はディオゲネス風の世俗とはかかわりのない質素な人生を営みたかったのに、親と親しかったハドリアヌス帝の意向で皇帝候補生となり、治世・軍事という世俗の稼業に従事し、満たされぬ思いを「自省禄」で吐露する。同じく皇帝でノーベル文学賞級の著述をしたカエサルの「ガリア戦記」と比しても、この皇帝の資質と時代の違いは気の毒であるというほかはない。カエサルのような女たらしのエピキュリアンならば政治も楽しい自己表現なんだけど、このマルクス・アウレリウスという人のイメージは、仕方なくまじめに皇帝業をやっていて、ただ趣味の哲学に打ち込む時間だけが喜びの現代サラリーマンの一典型になる。カエサルになれない当方としては、どうしてもこの人にほのかな連帯感をいだいたりするなぁ。で、この人の息子コモドゥス(後皇帝)の出来がよくない。親が偉大だと息子はダメという、よく見る光景にも思わず同情の念にかられるのである。ここで著者の時事ネタが入り、映画「グラデュエーター」の話になる。これは哲学者皇帝マルクス・アウレリウスのひねくれた息子コモドゥスと、密かに親父に息子でなく君に皇帝をして欲しいと内示された属州出身の将軍マクシムスの話だった。この親子の後の長期政権の実務者セベリウス帝の息子カラカラ帝も、親父の親友で義父である人を殺すわ、共同統治者の弟ゲタを母親の面前で刺殺するわのかなりのワルだったようで、この辺が強大なローマ帝国の覇者と言えども現世の苦悩から無縁とはいかないもんだよな、と、いかにもストア派風の感慨も出てくる。その他、例のごとく、上記のような2000年前の西欧史上の人物を、近所の社長サンの家の息子の出来が悪くてまた大学すべったらしい、というような生々しくも身近な話として語るこのシリーズの特色は健在。未開のゲルマン族の地ウィーンで死んだアウレリウス、北方の蛮族(カレドニアン)征伐中、寒く厳しいロンドンで死んだセベリウス。われわれの視線に華やかに入ってきた西欧、パリ・ロンドンがどうしょうもない未開の地であった時代に、ローマ帝国は太陽の輝く超先進国であったのだ。その中では紛れもなく現在のわれわれと直接苦悩や憧れを共有する人々の世界があった。まるでわれわれの剣豪将軍風の身近で生き生きとした人間の劇へと表現し、異質なものよりも現代人と寸分たがわない等質性を描いて示してくれた著者の文章の平明な親近感と、持続する人間の歴史への興味に嘆。
聖書の記述が神の言葉であるとすれば、この世を創造してからのすべてのイベントは聖書に記述されているはずである。当初、歴史学者はギリシャ訳70人聖書とヘブライ語聖書との記述の違いを解明るだけで普遍歴史が明らかになるとしていたのだ。しかし、ヘロドトスが伝えるエジプト史、さらには中国史の存在が明らかになるに従い、聖書の記述との整合性をどうするかが大きな懸案となる。天地創造から終末に至る、たった6000年にどのようにしてすべてを収めるのか?この聖書歴史観の変遷を鳥瞰した興味深い新書。天体の運行を科学的に説明したアイザック・ニュートンでさえ聖書の記述に事実をあわせようとする立場だったのだ。まあ、考えてみれば今でも宗教的理由から進化論を学校で教えない州がどこかの国にあるくらいだから驚くには値しないのかもしれない。聖書が西欧社会に与えている影響を再認識し、更に碩学達がいかにこの不可能なパズルを完成しようとしたのかという方法論を興味深深と眺めるのが正しい読者の態度であると思うが、最近どうも読書の根気がなくなり、細部の論理を理解検証するにまでは至れなかった。嘗ての西欧碩学に負けない考証に浸る著者には申し訳ないことだけど。
例のBC(Before Christ)というマイナス方向に数えていく概念は、今のわれわれからすれば当たり前なので、深く考えていなかったが、実はかなり革新的なやり方であると認識できた。歴史を記述していくときの目盛りは当然創世記を基点とするだろう。何も聖書の世界だけではなく、普通考えればすべての歴史記述は出発点から数えていくはずだ。ところが出発点を設けたとたんに、この最初の方の混沌はすべてが有限の目盛りの中に封じこめられてしまう。BCの発明は未来方向とおなじように、過去方向にも無限に拡大できる可能性を与える。AD(Anno domini)の考え方はキリスト者として自然で、比較的早くからこの物差しは用いられてきた。しかしBCは逆説的に聖書の記述の影響から逃れて初めて成立する概念である。うむ。まったくそうなのだ。ADがあれば自然にBCも出てくる、と思ってると大間違い、実はBCはやっと17世紀にペタヴィウスによって創始された年号だそう。ま、世界不思議発見、というところか。
サラリーマン週刊誌のいろんな連載漫画入りエッセイでおなじみ、軽く揶揄する嫌味のないタッチの房之介氏は、なんと夏目漱石の孫だったのか。というわけで、このエッセイ集の巻頭には漱石という大看板の下で、「看板が大きいだけだよ、ウチは」と、腑抜けた顔で客に応対している屋台の親父のカリカチュアがある。こういう自己を茶化す軽いノリは、まあ、ハヤリでもあるし、大してエラくないと自覚しているぼく達大多数には抵抗なくウケるのである。日常の何気ないテーマを軽妙な文章で語り、気の利いたイラスト・漫画を添えてあって、通勤車内で軽く読むにふさわしいノリと造本である。夏目漱石のことよりも、母方の祖父の「何とか寺」という庵名を持つ明治大正の変人の素描がなかなかたのしい。なんだか、昔は身の回りに変人・奇人がわんさかいたのじゃないか、という気がする。なんとなく最近は奇人がすくないと感じるのは、われわれ自身が変人・奇人を面白がる気分にならないのが原因ではないだろうか?斯くいう私自身も高校時代は「・・校の3大奇人」に数えられたモンだけど、以来この方、誰もそんな大時代的な尊称をつけようというような気分にはないないと見えて、当方にそのような形で一目置くという奇特な人もいなくなった。世が世であれば、当方も鬱にもならずに社会の末席を汚すこともできたろうに、残念である。
時代物中篇集。それにしてもマイナーなテーマばかりである。長篠の戦いでヘマをして死んでいく馬回り役の若者の話、鈴鹿山に巣くう、はぐれ山賊という下賎の生活、鎌倉時代の娼婦もどきの女の話。ぼく達が時代劇に求めるヒローがまったく不在のまま、細かい下層生活者の物語が進行していく。しかしどこにも到達せず、このアンチヒロー達はまたかなたに消えていく。禁欲的この上ない小説である。特に最後の鎌倉遊女の話になると、前半の伏線と見えたエピソードが何の帰結もなく捨てられていく。ちょっと!小説ならもう少しサービスしないといかんのじゃない?
人間が神によって創造されていた時代が終り、自分の運命は自分で決めなきゃならない時代になった。しかし、本当は自分の自由意志と思っているものは、実はわれわれの細胞の奥深くに鎮座している遺伝子がそのように命じているとあのドーキンス先生はおっしゃった。この本は、この系統に沿った推論で日本人の性向・ひいては日本文化や精神とされるものは古モンゴロイド特有のパラサイト・ATLの生存戦略によって作られてきたと提言するのである。
日本人の起源は南方系の古モンゴロイド=縄文人に、大陸北方より渡来してきた新モンゴロイド・弥生人が交じり合って形成されてきたが、日本人の精神性、男性社会に特有の義理・人情に支えられた行動様式は古モンゴロイド人種に特徴的に見られ、この人種にはレトロウイルスATLのキャリアが非常に多いのである。このウィルスは乱交を含んだゆるやかな一夫一婦性社会で最もよく感染経路が保証されることから、実はこのテの社会を形成する母体となっている、例の日本精神そのものがこのウイルスの主導で形成されたという大胆な推論を展開する。我々の行動の根源にリビドーがあるとフロイト先生はいうし、そもそも性システムそのものが、ウイルスその他のパラサイトとの果てしない生存競争に対応するために開発された手法であるとすれば、われわれの精神性そのものも、何らかのカタチでこのような生物学的環境に適合していこうというひとつの手段として発達してきたと考えるにやぶさかではありません。私は別に真実がどうたらこうたらには興味はなくて、言ってることがおもしろいかどうかがすべての理論の正当性を保証するとみなすヒトなので、この本の正当性にはまったく問題はない。
それにしてもこのATLというウィルスと人間が共生し作り上げていく社会というイメージには、はるかな夢を誘われてしまう。個人的には特に最近の自分の人生には大いなる失望を目の当たりにしているところなので、私個人だけが自分の人生の主催責任を取らされるのは是非ともさけたいところである。「個」としてはどうしょうもない私メの人生ですが、これもどこかの内なる神が宇宙的規模の戦略で配慮なさった結果のことなのでしょうから、そのような大局的な見地からは是認していただきましょう。私がごときちゃちな自由意志が関与する余地は自分の人生でさえもなさそうなので、なんちゃって。
堀越孝一「ヨーロッパの成立」、河原温「中世ヨーロッパの生活環境」その他甚野尚志、関哲行、近藤壽良の小論で構成される中世論集。
堀越はいつものちょっとヘンなべらんめえ調で中世の王家の成立と抗争の歴史を講釈する。「『モー』はマチルダの卑小辞と思うが、よくわからない。『マオー』とも呼ばれたという。だからか?まさか。」
しかしながら、他の論者はしごく普通の論文調で、どうやら堀越孝一調は一派とはならなかったようだ。「中世の秋」の記憶が、騒々しい現在からの逃避先として選ばせたとおもうのだが、堀越にかかると中世も結構騒々しいよな。後はドラゴンクェスト風の王様と騎士達の時代への憧れか。たしかに、ブルグンドのフィリップス・ル・ボンの金羊毛騎士団なんか正に王様の贅沢な騎士ごっこだよね。
中世の固定した封建制社会を近世が打ち破るという構図が、いかに誤ったイメージであるかを共著者達の小論が示していく。甚野尚志が「マイノリティーとしてのユダヤ人」で「異端審問裁判は当時にあっても最も客観的な制版制度のひとつであり、無差別にコンベルソを拘束し拷問を加えるとした異端裁判所のイメージは『神話』にすぎない。」と述べているのは教示的である。
その他、近藤壽良がブルゴーニュ家の年代記作者シャトランをとりあげた「『中世の秋』からルネサンスへ」は、フランドル地方も領有するブルゴーニュ侯国が育んだ、フランス王家とはまた違った文化をしめし、ディジョンの華やかな装飾屋根瓦を思いださせる。なんだか、「中世の秋」とくるとブルゴーニュ侯国を条件反射的に思い出してしまう。うっと、フランス王家は近世のイメージが強いからかな。
別にどうってこともない「英語学習経験者は語る」集。河合隼雄・筑紫哲也・明石康・有本裕子他各氏。このテの書物は以前にも何度となく読んだが、最近の傾向としては海外留学・あるいは旦那がネイティブというような状況の各界人が多くなったことが目に付く。あんまり私共の学習の参考にはなりません。
ようやく掘り当てた同時代作家の小説で時代感覚を共有することができた。連合赤軍浅間山荘事件やよど号ハイジャック事件等、ドストエフスキーならすぐにでも悪霊の4.5冊を書こうかという時代だったのに、誰も何も書かなかったのだ。狂騒の時代が過ぎると、アレはまったくばかばかしいお祭りで別になにも深い意味もなかったとでも?
今私達は人生のもう一方の端に近づいたことを意識し、今またもうひとつ別の時代に対処せざるを得なくなっている。ここに至り、かつてのベトナム反戦運動家はすんなり「転向」していたハズのサラリーマン人生からもう一度ドロップアウトしてしまったりする。
昔、大声で糾弾するだけしておいて、すんなり転向してサラリーマンに収まった彼等に2重・3重の反感を持ったものだ。しかし、今笹倉の語る彼らの50歳を読んでいると、反感よりも同世代の懐かしさを感じたりもする。何よりも、主人公はこの年齢にいたり、再び嘗ての得体の知れない内的衝動に突き動かされて今度は本当にベトナムに行く。今また例の団塊の世代が企業社会の中で体制の中での生き方を模索する季節になったのだ。
と、まあ、このくらい大げさな前置きをしておきたいくらい、久しぶりに小説を楽しめた。初老の転機に、青春の問題意識が回帰するというのはなかなか身につまされる設定ではないだろうか。それにこの小説、なかなか文体も会話の調子もよく、ベトナムやタイの町角の様子もそれなりに臨場感があって楽しく読める。特にタイ人のルアンちゃんのコトバ使いが生き生きとして、ぼくのよく知っている誰だかを思い出される。といって、特定の誰かをイメージしているのではないけれど。それだけ人物が具体的な属性を備えているということだ。初老の苦渋と回帰する青春性とが交錯し、なかなかいいバランスで最後まで行った。秀作。
エイズを筆頭とする最近のウィルス病のジャーナリスティクなクロノロジー。筆致はウィルスという強敵に対する警鐘という基本線の上に、未知の病原体を特定することに情熱を傾ける科学者達のちょっとしたドラマ仕立ての事件簿が読み物としての趣向になっている。それにしてもWHOが天然痘が世界から絶滅したと高らかに宣言した時、人々は科学による人類の究極の福祉の実現を信じたはずだった。しかし、生命というものの本質は人間が考えるほど単純ではない。エイズの出現が常に中世のペストを思わせるのは、何か人類のおごりへの警告のようなものを感じるからではなかろうか?この世からすべての細菌・ウィルスを根絶したときに本当に輝かしい人類の未来がくるのだろうか?もちろん、生命の連関はそのような単純な善悪の構図ではない。ウィルスと共生するビジョンは、「力・健康・若さ」以外の価値基準もあるのではないかとの思いを側面からつきつけているかのようである。
また、ウィルスがその本来の宿主と共生・共存し、その固体の生存を守るためテリトリーに侵入してきた宿主の外敵に感染し病死させるという例示はきわめて暗示的だ。最近のウィルス病の流行は古く安定していた生態系に進入してきた人類に対するウィルス共同体の防衛行為ではないだろうか?そうでなければ、宿主を破壊してしまって自分も滅びることは寄生物にとっての自己矛盾となってしまう。
本としては読みやすく、最近のウィルスとの攻防史を鳥瞰できるだろう。いかにもアメリカ人のジャーナリスト口調でドラマチックに語ろう・見せようとする文体が気になならいわけではないが。
そういえばここんところひさしく恋愛小説を読んでなかった気がする。今更恋愛小説なんてばかばかしいが、でも本当は恋愛小説が読みたかったのだ。自分のばかばかしいあきあきする日常を切り裂いてくれるのは小説の中でしかない。ローマの英雄になって晴れがましい凱旋式を挙行するか、それとも目もくらむ恋愛に燃え尽きて自爆するか。この世ならぬ恋の物語がもしかしたら今日突発するのではないか、という密やかな炎のゆらめきだけが初老性鬱の自閉からぼくを外部に歩き出させるエネルギーをかろうじて搾り出す。この物語は、紛れもなくそのようなあられもない願望の向こうに仄見えるかたちのひとつだ。つまり、紛れもない純恋愛小説である。実はこのような恋愛小説が読みたかった。満足しました。久しぶりにヴァーチュアルなカタストロフを味わえた。恋愛小説はいいなぁ。
老人になることが非常に難しくなった時世である。あまりに「若さ」だけが良いものとして強調されるので、老人になることに積極的な意味がまったく見えなくなってしまったのだ。このような時代に必要なのは「正しい老人のしかた」マニュアルである。「老人力」で積極的に老人の勝るとも劣らないパワーを開発中の赤瀬川老と、そこまでは開き直っていないが、年齢の割りにはかなり若い東海林さだお老との「老い」を楽しむ対話。まあ、お互いに、自分達の老い故のモーロー度を確認しあい、老いたことを冷やかし笑いとばそうとしているのだが、「同病相哀れむ」の風もなくはない。まあ、このように先輩達が模範老醜演技をみせてくれるので、後続のわれわれとしては自分の未来の見通しがつきやすい。先達の努力に感謝。
進化論をテーマに具体的な話題をとりあげ、紹介するとともに何かしら一枚、蒙昧の皮を引ん剥いてくれる著者の科学啓蒙エッセイ集の一冊。実を言うと20年くらい前に「赤フラミンゴの笑い」をフランス語版で読んだが、ずっとこの著者の名を忘れていた。最近図書館でこの科学エッセイシリーズが早川書店の刊で並んでいるのを発見、早速借読。
一般啓蒙書だが、それほど読みやすいというわけではない。ひとつにはなかなかのレトリックに富んだ文体の持ち主だが、日本語に訳すとどうも理が勝っているような硬めの口調に聞こえ勝ちである。ちなみに翻訳は平易な話口調で統一しようとしているが、どことなく翻訳調が残っていてごつごつした観がある。特に翻訳説明用カッコの使用が目障り。『しかし地球の内部では、地中の(人体内の血管に相当する)水路に沿って上昇し、高い山の上で泉となって湧き出なければならない(そして川となって再び海に戻る)。』一体このカッコが読者によってどう解釈されることを期待しているんだろうか?原文ではそう書いていないけど、こういう意味ですよ。とでも?
グールドは現役の学者であり、自ずから一般啓蒙書科学ライターとは一線を画している。興味深いテーマを紹介するのが眼目ではなく、そこからわれわれがおちいりがちな、また科学史が陥ってきた危険な考え方に対する自戒の目を開くようにするというテーマがはっきり出ている。一番大きな陥りやすい危険は「進化は直線的になされてきた。時が経つにしたがって単純なものから複雑なものに進化する。」という単純進化観である。これは、さらに人類は進化のチャンピオンであり、なかんずくヨーロッパ人種が頂点に立つというような無意味な差別史観をはぐくみ、あるいは逆にその優越感からくる誤った歴史に対する期待である。
例えばクロマニョン人の洞穴壁画の技法の発達をテーマにしたエッセイでは、単純な素描から洗練された表現へと発達してきたと見なしたがる先入観があるので、正しい時代認知が出来なかったいきさつを述べる。実際は洞穴壁画を描く頃のクロマニョン人の大脳発達レベルはまったく現在人と同じと、しいて言えば(最初から)現代人と同じ感動を持って絵を描いたと見なければ正しい認識が出来ないという例をいい、ダーウィンは環境に適応した「進化」が生ずるといっただけで、「進歩」するといったのではないと釘を刺す。ああ、そうなんだ。とここで、当方の厚い蒙昧が一皮剥ける。だから人類からアメーバに進化することだって環境によればあり得るんだ、と思い至るのである。
この方面の我々の頭脳に深く入り込んだ差別史観の例からいえば、著者自身が書いている自分の体験の告白が教示的だ。アフリカでマリ人の農婦とじっくり話し合う機会を得、『アメリカ人のアイビーリーグの教授と・・マラウイの教育のない農婦という組み合わせほど境遇の異なる2人はいないだろう。しかし彼女の笑い、表情、ジェスチャー、希望、恐怖、夢、情熱は、私のそれといささかも違わない。人類が一つであるという主張は純粋に知性と科学のレベルでは理解できる。しかしこの知識がほんとうの体験によって肉付けされないうちは、心の底からしることはできないだろう。』
著者のエッセイは科学史から演繹する人間の思索方の考察ということもできる。
職業と猫と、家庭を持っている男との生活を描いた軽いタッチの小説。主人公は独身のドーキンスに近い立場の女性進化論学者という設定で、かなり生身の著者に近い模様。まあ、このキャリアは、単なる女性の職業というだけの小説的肉付けだけど、優生論にひっかけての差別問題がテーマの一つとして展開されていることはいる。他に、不倫関係だとか、キャリア女性への職業差別であるとかのテーマもあるが、別に大問題を社会に問いかけるという姿勢ではなくて、全体に小説の肉付けくらいの意味しかない。まあ、気楽によめるホームドラマ風小説の枠内での話。「助教授ルリ子」がどんな生活をしてるのか、ちょっと興味本位で覗いてみた、という以上のものではない。少しの才気と、一般受けのする軽い文体だけだね。
小説中で、単なる「パソコン」でいいところを「Machintosh」と常に書いているところが大いに気に食わない。そういえば、昔、そのようなMac信者がいたなぁ。彼らは明らかに「Mac」はパソコンではなくて、「Mac」というものだと信じていた。で、なんとなく特権意識を伴った「Mac文化」の伝道者風の自意識があったようだ。10年前にさる業界ではびこっていた、Mac信仰と戦って四面楚歌になった経験のある私には、未だにこのテのMac教徒が生存しているのは時代錯誤としか思えない。著者の、この盲目的思い入れを考えると、その程度の感覚で生きてらっしゃる人の世界の話に思え、この小説の評価も当然低いのである。うむ。ぼくんちのはVAIOだもんね。
戦国末期の趙、宰相・藺相如と将軍廉頗との信頼関係を刎頚の交わりという。ちなみに、藺相如が名を上げたのは秦に強奪されようとした璧を、命をはって秦王とわたりあって使命を完うした故事からで、「完璧」の謂われはここにある。と、まあ忘れないうちに得た雑学知識を記しておく。著者も中国史・文学に深い愛着を持っている風で、小説中に自分が訪れた土地の思い出なんかを挟んでいるが、それはそれで講釈師の余興で楽しい。著者の思い入れは、軍事天才の故事ではなく、戦国の雄達が一国の命運を決するキーが「信義」であったり「正論」であったりする、古代の文・言葉・論の力であるようだ。これはきどって美学といってもいい。実力者の戦国四公子は3000を超える食客を遇し、食客達はある日、この恩義に報いるため唯一言の正論を上奏し、又は生死を差し出す任務を志願したり、ときには死を持って主を諌めたりする。とにかく、言葉・論・義・恩といった今ではふにゃりと「へ」でもない存在になったものが、古代の中国では国を動かしたのである。読者もその辺の、アナクロではあるが、すっきりと気持ちのいい時代に生きる快さを著者とともに共有するのである。
イラク亡命者や現地で取材したインタビューで構成されたドキュメント。フセイン大統領の独裁ぶりが顕著であるが、しかし、このテの人間が支配する国はあまたあるのだ。たまたま報道されたイラクの内政について、私達外国人が何を騒ぐことがあるのか。アメリカがイカンといったからではないか。独裁国家はイヤだけど、だからといって武力で抹殺してしまうだけの根拠がない。このようなインタビューを積み重ねたところで、何が明らかになるのだろうか?おっと、あぶない。あなたもしかして、CIAの方じゃないでしょうね。
シニカルなブラックユーモア・風刺小説集。しかし、どことなく小説的に割り切れないのは、本来なら短編でエッセンスだけを抽出すればいいアイデアを克明な細部で肉付けして中篇にしたててあることか。破滅へ進んでいく予感はある。それにしては細部が手が込んでいる。これはもう一つどんでん返しがあるな、と思っていると、しかしそのまま素直に予測した結末になだれ込むのだ。例えば、思慮のない大統領夫人の押したボタンで世界が核で破滅する物語。筒井康隆だったらわずか1ページで終えてしまうだろう。そしたら笑える。しかし、この長さでは笑いも硬直する。もう一ひねりあるか、と思うのだが、素直に世界は破滅してしまうのだ。かくて奇妙な味が残る。
巻末の解説(若島正)が面白い。「要するに、こうした作品群は書いてはいけない小説であり、読んで笑ってはいけない小説である。それでは、読んで笑ってはいけないのなら・・・なんとも居心地が悪くなって、読まなければよかったと思い、読んだことを忘れるしかおそらく手はないだろう。」ちょっと!そこまで言う程の小説作法における問題作でもないよ。
敗戦直後に戦前にすんでいたベルリンに戻っていく話は、ジョージ・クレアの自伝小説(「ベルリン・廃墟の日々」でも読んだ。狂気のナチスの支配が終わり、一種の底抜けの開放感があったように思う。天変地異や戦争といった社会を暴力的に変革させる出来事の過ぎ去った後のわずなかな空白は、精神の稀有な空白の機会でもある。全てがゼロに還元され、価値感も社会階層もすべてのステータスが一たんリセットされるのだ。少なくとも日本の戦後闇市には開放感とどん底から這い上がるエネルギーがあったと思っている。
しかし、この小説のベルリンは重苦しい。戦前から引きずっている人間関係、すでに見えてきているソビエトとの冷戦の前兆。この小説の元ベルリン特派員のアメリカ人従軍記者の目からは痛ましく荒廃したベルリンの姿が生々しい。物語の記帳はサスペンスだが、ぼくはこのようにカタストロフ一過のドキュメントとして読んだ。著者の実体験がそのまま投影されていると思えるベルリンの光景はリアルである。さ迷うドイツ人難民の姿、ソビエト兵相手の闇市場、ナチスの影と娼婦、アメリカ軍人になり、ユダヤ人としてがちがちのナチス狩りを行う元地方検事。
ひとつの証言がある。『アメリカ政府は日本に原爆を投下したと報道した。忘れられたもう一つの戦争がある。』ベルリンの従軍記者からみた太平洋戦争はその程度であったのか。
サスペンスの方は別にたいしたストーリではない。ナチスやアメリカ・ソビエトのドイツの科学者の引き抜き合戦という戦後秘話のような側面をプロットに組み立てられた物語である。推理小説としてだけ読むと多分ついていけないと思うよ。
各種雑誌に発表した小品集。著名人や日常出あった人間についての文を集めている。
もう司馬遼太郎の死後だったが、小阪の福田(司馬遼太郎)邸を見に行ったことがある。たしかに大阪の人で、この小品集の中にも「大阪」が基調になっているエッセイが数本あるが、なにかしら大阪人というイメージを当方としては抱きにくい。織田作とか、藤島恒夫風の大阪を言ってるのではなく、例えば高橋和己や開高健、小田実なんかに確かに感じる大阪人のにおいのことである。確かに大阪の作家には何か共通の自己主張がある。声がでかいことかも知れない。そして、高橋や開高、小田は作家となるにしたがって首都圏に移り住むのだが、どこに行っても大阪人というイメージは拭い去れない。ところが、彼らよりはるかに大阪人風でない司馬が、小阪なんぞという南河内の「ど」大阪に住んでいるのが、何か冗談のようで奇妙におかしい。基本的に司馬は、自己主張する作家タイプではなく、観察することを旨とするジャーナリストであるからか。自分のことを書くのではなく、他の人間のことを書く人である。だから、何か大阪くさくない、のかも知れない。
巻頭に広瀬武夫の簡単な評伝がある。日露戦争時の軍人で、後の軍国日本で英雄扱いされる人だが、司馬はその喧伝された「軍神広瀬」には触れず、その内面の典雅な文学的気質と斯とした精神を伝える。有名人であるが故に曲解された人物像、その中にある敬愛すべき精神をしったときに司馬の抱いた敬愛の念と、それを伝えたいというジャーナリストの魂が見えてくる。『広瀬は単に存在したのではなく、濃厚に江戸期を背負っていた。江戸期士族階級は、二百七十年のあいだ、ただひたすらに本を読み、しかもその読書の目的は、人間がいかに生死すれば美しいかという一点にしぼられていた。こういうふしぎな数百年を持ったのは、人類の文化史上、稀有のことといわねばならない。』(「『文学』としての登場」)このあたりに、司馬の史伝作家としての創作の内なる源泉があるにちがいない。
著者の人物評伝はつづき、それはそれぞれ有名無名の敬愛すべき個性を伝えてくれるのであるけれど、例外的にただ一つの作品が「どうしょうもない」ある特定の若者を描いた文章で、この古今東西の人物像に通じた著者が始めてぶち当たる、理解不能の世代に苦りきった顔が浮かび、異色である。(「若い訪問客」)あまりの無責任な言動に、さすがの司馬先生も、「私が彼を殴らなかったら、私のほうが人非人かもしれない」とまで思うのである。「かれが切り戸から出て行った音とともに、どうにもならない不愉快さが、かれのおきみやげのように私の体の中に残った。いまもそれがつづいている。始末のわるいことに、この感情が、かれへの不愉快さというものでは無さそうだということである。」
読んでいてこちらまでつらくなる小品だった。しかし、これが現在社会そのものへの不快であるのは確かで、だから私達も歴史上の偉人達の時代にあこがれるのだ。
『人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということを、うすうす気づいていることである。・・・このため、釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見出した。本来無意味の人生においてこれ以外に意味を見出せないというのが、仏教のように思える』(「富士と客僧」)このような、本来的に現世のことを一歩下がった地点から見るという客観的態度が、なにか司馬遼太郎から大阪人性を奪い、そして、無意味な人生の中にも確とした精神を示して消えていった、歴史上の個に対して、限りない愛惜の念を感じるのかもしれない。
スラブ語が専門の言語学者でエッセイの筆が立つ得がたい先生である。この人の「チェコ語入門」も持ってるし。とにかく比較的マイナーな言語に愛着を抱くタイプであるようで、しきりに絶滅していく言語の研究者となれと挑発するエッセイも多い。それと前に一度読んだプラハ言語グループ、あるいはチェコ言語学の先人(マシュトツ、コメンスキー)の啓蒙的紹介。当方としては学問的に言語学と格闘するつもりも、素地も毛頭ないが、なんとなく言語学は面白いと思う。本当は一つの言語の構造を理解するというのは非常に面倒くさく地道な作業なんだろうけど、そんな面倒な手間をかけずに、世界の言語のサワリだけでもなんとか知りたい。まあ、コトバというものが単なる手段ではなく、人間そのものと限りなく等価である、たいへん高価な遊び道具であるかのようには思っているわけだ。このようなワケのわからん言語ファンの当方にも分かる程度の一般啓蒙書を書けるのがこの人芸である。
印欧語比較言語学から始まった言語学が、そろそろラテン文法の呪縛から抜け出す機運にあるようで、プラハ言語サークルの主催者マテジウスのFSP(functional sentence perspective)語順統語法?が熱っぽく語られたりしている。
確かに中国語では語形変化や品詞なんてないよなぁ。最近、どこかの学校で英文法を教わる機会があって「ロイヤル英文法」(旺文社)を購入しもしたけど、ドイツ語やフランス語と違って文法書を参照しても、整然とした法則性は見えない。ただ言語の現実を記述しているだけで、文法書とは英語の雑然とした用例のコレクション集でしかないと思うのだ。現に英語とはヨーロッパにおける中国語だということは森鴎外サマもとっくの昔に看破していたではないか。←コレ、うそ。
2年前にボスニア・ヘルツェゴビナに旅行するためにセルビア・クロアチァ語を勉強したことがある。(「エクスプレス セルビア・クロアチア語」中島由美著)実際には、結局喫茶店でメニューの「紅茶」だけが読めるようになっただけだが(これはほぼ世界共通語か)、新しい言語を始めるときには、常にかなりワクワクするものがある。どういったらいいのか、やっぱり海外旅行と同様な未知のものに対する憧れなのか。千野先生も多分にそのようなワクワク感に付き合って言語や本を探求してきたのではなかったろうか。しかし、英語ではこの種のワクワク感を持ちようもない、ただのツールに成り下がっている。ぼくの中では言語としての楽しみがどうしても発動しないのだ。いかんねぇ。しかしTOEIC860点はとっとかんとなぁ。素浪人はつらいね。
筒井順慶の家老嶋(島)左近を主人公にした時代小説。怪しげな妖術をつかう忍者、土俗結社の怪異なリーダー等荒唐無稽な敵を打ち破り、宿敵松永弾正の信貴山城を落とすまでの一席。冒険譚の内容は取るに足りない、類型的でいい加減な武勇伝だけど、戦国時代の一ローカルに焦点をあてた時代考証がオタク風で手抜きがなく、大和郡山市民としてはご当地づくしの数々に、楽しく興味が持続しました。しかし、肝心の嶋左近の人物像がはっきりせず、歴史上高名な人物を主人公としてしまったため、敵のようにバテレンの呪法や土蜘蛛一族の秘術を使うわけにもいかず、まだ石田三成にも会ってないのに途中で命を落とさせるわけにも行かず、はなはだ印象がうすいキャラクターとなってしまった。反対に松永弾正の悪役ぶりは、主人公のバットマンを食ってしまうジャック・ニコルソンのショッカー風の存在感があって魅力的だった。はっきりいって、この人のエンターティンメント作家としての想像力は類型的でひとつも面白くない。それより、この真面目な時代考証や地方史調査のの地道さをいかし、かなりオタク的なローカル限定本格時代小説を目指してはどうか?大和郡山市図書館他、2,3は必ず購入すると思うが。
「ジュラシックパーク」は胸躍るスペクタクルだったが、SFとしてはごく単純な発想だった。この作品は進化の一パターンを扱っていて、なつかしい古典、ヴォクトーの「宇宙船ビーグル号」のような正統的SFの思考実験の楽しみが味わえる。
わずか4つほどの行動原理を組み込まれただけの単純なナノマシーンが群としての自意識をもっているかのような複雑な進化を展開し、作り出した人間を超えようとする。この発想はぼくにもあった。中央コントロール型(統一人格型)の進化は人間で終わり、後は平行処理的な、あるいは共同幻想的な集団としての進化しかないであろう。たとえば原子力を扱っているのはひとつの個人の能力ではなく、何千年来の集団としての知識・知識に基づいた人間群としての能力である。
しかし、さすがにクライトンは別に神や哲学というような純SFに一顧も与えず、ひたすらこの奇妙な「生物」をダイナソー並のスペクタクルスターに仕上げようとする。いや、ちゃちなハエの群れを想起させるこのナノマシーン達は、最初からジュラシックパークのスペクタクルを勝負するようなマネはせず、科学技術の悪夢ホラー路線でくる。この「生物」と人間との共生のイメージは私としては、悪いもんじゃないと思う。しかし、当然のごとくこのような人間の変質は西欧クリスチァニスムバックボーンからは許すことはできない。なんせ、あの魅力的な遺伝子操作ダイナソー達でさえ、やはり科学技術の悪夢として抹殺されちゃったんだから。まあ、当然この「共生人間」は最後にはコテンパンにやられて「めでたしめでたし」となってしまう。そういったサスペンスに仕上げなければ映画にもなれないのでしかたないが、しかし、私としては別に人間が機械と共生してもいいじゃん、と思ってしまう。人間至上主義で、すべての異質・変質・変性を拒否するよりも、クラークのようなもっと別の型への昇華という未知の未来があった方が楽しいと思う。
(参考記述)群状生物のイメージ→藤永保「ことばはどこで育つか」の感想のマクラ