原題:How German Is It
この正月に10日かけて断続的にこの小説を読み、夜はNHKのBSがやっている小津安二郎の映画を仕方なしに見た。ほかに大した番組もなかったから。たとえば「麦秋」(1951)。鎌倉の勤務医一家の平和な光景。婚期の過ぎた妹の嫁ぎ先で一家でもめたりするが、要するに典型的な良識ある庶民の生活を描写し、お隣のご家庭を覗き見るホームドラマに他ならない。いや、戦後の風俗、あるいは日本の家庭の平均よりも少しだけよさそうな典型例というような社会学的レフェレンスという意味では興味は持続するが、映画としてはカスみたなものだ。あえて言わしていただくが、私はこんな映画は見るに値しないと思っている。これは実にはっきりしていて、小津の描く日本は私の体験してきた日本ではない。もちろん、カメラの視線の低さや、座っている人物の背後の撮るアングルというような独特のスタイルはあって、それを美しいと感じる人もいるのは理解できる。しかし、私には共感を感じることのできない、他所の世界のお話である。
アビッシュの小説を読みながら、当然のごとく小津の映画と対比してしまう。小説は「ドイツ」の典型的な町と住民、中でもすこしスノッブではあるが、でも単なるローカル名士にすぎない旧貴族の家系の小説家の日常を描き、女性関係が多少ダイナミックに語られるだけで、とりわけ「小説的展開」をいうほどの事件もない。それどころか、執拗に小津ばりの単なる庶民の日常のコラージュが、主として当事者のモノローグとして積み重ねられていくだけである。しかし、小津ばりの「型にはまった」性格描写があり、邦訳のタイトルにしめされるような独特の語り口があって、結構細部が飽きさせないのである。このドイツのドイツたる所以であるところのもの(How German Is It)が実に巧妙にそれらしく造詣されていて、いかにもいかにも風の、自分のイメージと重なる快感があったりする。フライブルグのハイデッガーを連想させる哲学者名に由来した新興の高級住宅地ができ、、昔からあった周辺の田舎町から労働者がレストランのウエイターやバスの運転手として通ってくるが、そこのスノッブな住人との心理的な階級格差があったり、新興住宅地の前身が強制収用所であったということの歴史の飲み込み方が、それぞれ違った風であったり。小津の描く「典型的な庶民」に共感できない私が、どうしてこの小説の典型的な「ドイツ」とある種の感応関係にあるのか不思議だった。もちろん、作家の文体がかなりの刺激であったのは間違いない。神の目から見た全体小説ではなくて、小津ばりの視線の低い、丹念な日常のコラージュである。しかし、いかにもソレらしい庶民達の内面の声が幾重にも重なり、表層の人間関係と内面の心理関係の小ドラマがつみ重ねられていく。軽いユーモアも交え、いつまでも疑問形で繰り返される脅迫観念のような意識が割り込んできたりする、ミクロコスモス風内面の声で構成された文体は奇妙な魅力がある。
しかし、小津の「日本」に共感できない私がなぜこの小説の「ドイツ」に感応したのか?最後になって、典型的なドイツの小市民の日常を描いてきたはずの小説の流れが、不思議なかき混ぜられかたをする。理由も読者には知らされず、淡々とした一背景であったはずの橋の番人が、見回りに来た警官二人を射殺して逃亡する。これも背景であった地下のテロリストグループの存在が、ふっと日常にくっきりと影を落としたりする。そして、最後に主人公のモノローグが、この私のいう「典型的なドイツ」にとどめを刺す。
作者アビッシュが初めてドイツに行ったのはこの小説を書いてからという。そうだったんだ。このドイツは、ドイツたる所以のもの(How German Is It)というタイトルでイメージされた、ユダヤ系アメリカ人の虚構だったのだ。虚構であるからこそ、私のドイツとも重なったのである。しかしながら、小津風に着実に日常意識への回帰を行って安心できる世界を構築していきながら、最後にはどことも知れぬ奇妙な世界に読者を置き去りにしてしまうのである。ううむ。巧妙な文学的昇華がここにある。
小津の「麦秋」はあくびして見終えたのだけど、この小説は読後、確かな感銘が持続した。
造本上、表紙カバーに使われているシュールな写真(セシール・アビッシュ)は思わず小説の中へと誘い込まれる粘着力を持っているし、カバー裏見返しに掲載されている人を食った不敵な笑いを浮かべる作者のポートレートは、読み終えて奇妙な感慨に浸っている読者の放心を見据えているようでもある。あんたの日常だって案外そんなもんだろう、というように。
なんとも後味の悪いミステリーである。(第6回日本ミステリー文学大賞新人賞)ミステリーというよりも、一昔前に流行った類型的なやくざ映画の、がまんしてがまんして最後に爆発し敢然と一人で悪の巣窟に乗り込むというパターンの筋立てである。このやくざのの生業の児童買春の描写が生々しくて辟易するし、ちんぴら共の会話や予備軍の悪ガキなんかの習性も、よくかけていると言うべきなんだろうが、まったく憎たらしい。主人公は数回にわたり、このワルどもに半殺しにされる。ボコボコにやられる描写も克明で、あまりの酷さに、趣味のヒトともなると恍惚となるくらいのものである。悪者側のボス達の歪んだ人間像や、昔のセクト活動家崩れの拷問専門家も登場したり、これでもかの多彩な悪業の数々には感心するものの、あまりのエグさに心は晴れない。だから、ボコボコにやられ、恋人も殺され終に主人公は敢然と悪の巣窟に乗り込むのだ、が。ここまで我慢して読み続けてきたのは、この東映ヤクザ路線の常道、虐げられた主人公が一転して大暴れし、憎き悪共を完璧に叩きのめすカタルシスを期待してのことだったのだ、が。
またもとっつかまってボコボコにされるのだ。まあ、結局はかろうじて相打ち風になるのだけど。決して高倉健サンやスタローン風の大暴れをするわけではない。あくまでひ弱なインテリである。このヒトは大学卒という設定。細部の考証は確かでリアリティがあるし、文学的素養(?)もそこここにちりばめられていたりする。しかし、とにかく後味が悪い。安易に英雄を作り、本物の世界の汚濁を一挙に吹き飛ばしてしまうような底の浅いエンターティンメント化を避けたことは作者の腕なんだろうけど。もしかするとこの後味の悪さは、本の中に刻印されている現実自体の救いのない暗さから来ているのかもしれない。思うに、あまりにまじめに書きすぎているのではないか?これは失敗したエンターティンメントである。
共同通信バンコク支局長(1991)であった著者のタイ・ガイド。政治、時事、風俗、バンコク事情、エイズ、レストラン等の総合的な紹介。ジャーナリストとしての政治・時事に関する筆致と、主として個人的体験からなるバンコク案内とは少々アンバランスである。ただし、バブルを経過した現在のタイからは10年以上前の報告はいかにも古い。観光ガイドとしての情報量は個人の経験したバンコク事情のみで頼りない。今となっては役割を終えたドキュメントである。
「裸のサル」が世界的なベストセラーになってから30年経った。今では、人間は「堕ちた天使」何ぞではなくて、ほかの動物の延長線上にある「舞い上がったサル」に他ならないという主張が新説・奇説と見られることはなくなった。それどころか、人間は遺伝子の単なる使い捨ての入れ物に過ぎない、というようなドラスティックな主張まで受け入れられるうようになった。だから今、ほかの動物からの人間の漸進的な進化の様相を述べてもそれほど新味はない訳である。いわば、成熟した論点という分野になる。しかし、人間とはいったい何なのかという考察は常に興味深い。モリスは進化してきた動物としての、人間の興味深い諸相を述べていく。
それぞれ面白いのだが、白眉は人類水棲動物説の紹介だ。人類の際立った特徴である直立歩行、その他毛皮の不在、体脂肪の存在、複雑な鼻の構造等は、人類が一度水棲動物であった時期を経たと仮定すれば簡単に説明できるというわけだ。
先ほども昨年のフランス3の科学番組「人類のルーツを探る」(NHKBS)を見たが、「直立」は森から草原に出たときに「誰かがはじめた」という説明だった。理由は草原での遠くの見通しである。しかし、どうしてそのような不利な移動体制にすることにしたのか、理由薄弱という気がする。逆に他の草原の動物のように四足歩行に移行してスピード優先にしてもいいわけだ。このとき、水中歩行の段階があったと仮定すれば、骨格の構造が水中生活に適合するよう変化していき、やがて直立を促すまっすぐな背骨になっていった。草原の直立歩行はその後、という方がなだらかな移行で自然に思える。指の間の水かきの痕跡や、新生児が自然に水上に浮遊できることもうなずけますね。
ほかに人類の際立った特色として異常なセックス好きというのがある。性交時期、時間、ペニスの大きさ、乳房・尻の丸さ等、直接生殖と関係のない性的能力の発達。人間だけがペニスに骨が無いという現象はいろいろ考えさせられる。効率から言えば、あった方がはるかにいいのに?骨がなくなったことは、何か知らないが生殖目的以外の、怪しげな目的が眼目になったのではないか。うん、怪しいなぁ。
「利己的な遺伝子」の話になれば、最近はどうしても「老い」の意味にこだわってしまう。生殖能力が無くなってからもしばらく生存するのは、確かドーキンスも言ってたと記憶するが「祖父・祖母」の役割を果たすためであるという。しかし、それにしては「老い」が緩慢にくることの積極的な説明になっていない。「死」は確かにドラスティックに世代交代を促す手段だと思うが、「老い」の積極的な目的が理解できないのだ。生々しい自分の例を挙げてしまうが、身体の各部分の機能や形態がなにかしら「ずさん」になってきているのだ。頭髪はいい加減にしか生え代わってこないし、色も着け忘れてるものも多い。まるで「擦り切れた」と形容するしかないありさまである。鼻毛や眉毛には抑制もなく、一本だけ素っ頓狂に伸びてるヤツもいる。筋肉や皮膚の力やハリがなくなり、関節の神経ももうマヒしてるヤツもでてきている。現在の良識あるオトナとして、私は別に自分が死ぬことは理解しているし、社会的に無意味な人工的な延命措置に頼るつもりは毛頭ない。しかし、時期がくればあっさりと生存をやめるとして、それまでじわじわと「老い」を何十年も続けるメカニズムがまったく無意味に思うのだ。それとも遺伝子の初期の計画では「老い」は生殖期から世代交代に移行する、ごく短いトランジットだったのか?現在のように現役を退いてからも何十年も生存するとは、遺伝子自身でさえ「思って」なかった?
デズモンド・モリスはこの「舞い上がったサル」はまだまだこの調子で、何事かを「成し遂げていく」と書いて本書を終わっている。人道主義的楽観主義のヒトである。こっちは人類の行く末なんてどうでもいいワケで、ひたすらに個人的ペシミズムに沈みこむのみである。
物語半ばになって再読と気ずく。しかし、あまりよく覚えていない。まあ、良かろう、とそのまま最後まで読み通す。
あまり良く覚えていないというのは、たいした印象が残っていない証拠である。再読したが、やはりどこか成功した作品になりえていない印象だ。
パニック映画でよくあるオムニバス風の、それぞれの登場人物の事変に対応する個々の場面を積み上げていく書き方であるが、主人公が不在という印象になってしまう。個々の登場人物がそれなりに生活感をもって造形されているが、SF・エンターティンメントとしてはいちいち煩わしい。多分作者としては、このローカル密着型のリアリティを手法として意識して使っているのだが、熊本市民でない私としては、市井のこまごまとした情景は目にうるさいだけだった。もっとも、最後のカタストロフが訪れる場面で、具体的なNTT熊本支店や何とか橋が崩壊していく描写は、作者が筆力でひとつの具体的な町をめちゃくちゃにする快感を感じているような気がして楽しかったのは事実である。
さて、細部が煩わしい物語を我慢してゲームのルールが理解できるまで読みすすめば、あとはSFとしてのアイデアのみきわめが興味の中心になるのだが。
クラークの「地球幼年期の終わり」風の人類進化モノである。進化する子供達とそれを受け入れられない既存の人類との共同意識の戦い、というわけだ。このテーマは個人的には好きな部類だけど、なんとなく登場人物たちが小ぶりでテレビ刑事ドラマ的日常抗争風にぐちゃぐちゃとすすんでいくので、規模が大きい目の本格SFのテーマを担うには役不足である。好みでいえば、神と悪魔の葛藤のような抽象イメージで料理して欲しかった。肥後国銀行の課長クラスでは、ハードSF読者の夢想する擬似哲学風の雰囲気にはならないのだ。
さて、前回の印象は? −−−−>1998年の書評
福岡じゃないって、熊本だよ(^^;
印刷職人が無限に続く物語の本を作る物語。機械仕掛けの城を統括する公爵、職人の秘密の印刷機、自動人形、ユダヤ人の秘儀の活字、双子の兄弟。これは物語好きのおもちゃ箱かもしれない。奇妙に存在感を希薄にされた中国やトルコの歴史、スロバキアの貴族、ロンドンの貴婦人、各自が各様の物語を語り続け、本職人が物語りの間をさまようという趣向。なにか、おもしろそうでしょう?これは面白そうな雰囲気だけをつなぎ合わせた物語で、実をいうと物語は何も無いのだ。だから、この調子よく進んでいく語り口を楽しむだけの本で、実は何か大事な物語が隠れているなんぞと考えてはいけない。本当に何もないんだから。私といえば、物語の最初の語り口にぐいぐい引き込まれていったんだけど、次第に散漫になり、途中で取り残され、中断してしまいました。それではちょっと、タイに行ってきます。また、いつか。
旅行に行くのでホテル滞在用の文庫本を物色した。せっかく買ってもって行って面白くなくて読まなければ意味はない。ハズレのない選択をしようとすると司馬遼太郎はまったくもって無難である。司馬作品は殆ど読んだ気になっていたが、なかなか。多作な人である。
「北斗の人」は江戸末期の剣豪、千葉周作の伝記。素材も文句なく面白そうだし、集中力もなさそうな旅行中の読書としてはシチメンドくさくなくて、持って来いかと思った。
さすがに司馬の筆は、ただの剣豪小説にはしていない。この小説の主眼は、千葉という剣士が、古来の神がかり的な剣の修行を廃し、あくまで合理的な体系としての剣道として組み立てなおした改革者として捉えていることだろう。こうして千葉周作も明治の気運を準備した先駆者として描かれているのだ。もちろん、読者としてはその伝説的な武勇伝を楽しめばそれで良いのだけれど。
巻末の尾崎秀樹の解説が克明で、なかなか読み応えがあった。文庫本はいいなぁ。
まだ司馬が存命中の時点の出版だが、膨大な作品目録を見ていていろんな感慨を抱いた。司馬は浪速区塩草小学校の出だったのか、高校時代のあこがれのフキコちゃんの小学校だなぁ、とか(笑)まだまだ未読のタイトルも多い。旅行用に取っておけば、一生使えるというものだ(^^)/
旅行中に読もうと思って購入した文庫本である。やっぱり司馬遼太郎とクラークが安心して持っていける文庫になってしまう。安定した読書の楽しみ、啓蒙性と娯楽性のバランス。旅行用に絶対ハズしてはいけない本となると、司馬・クラークに手がのびてしまう。
懸念はもしかしたら既に読んだのではないか、という懸念だが、うーん、やっぱり以前に読んでたなぁ。しかし、内容を忘れていてよかった。以前は辛らつなことを書いてあるが、しかし、おいしい本ですよ。やっぱり(^^)
前回書評クラークのテーマは人類の未来、あるいは進化である。そして常に人類より高次の存在の暗示がある。スターウォーズのような荒唐無稽・自由奔放系スペースオペラも、実は大好きなんだけど、やっぱりクラークの出来るだけあり得べき未来への予測、それも発展的な方向への期待に満ちた科学技術への信頼が、読者の未来への想像力を刺激する。まあ、実に安心して読める作家ですね。事実、SF作家の中では作中の予言の実現性がNo.1だそうである。通信衛星のアイデアは実はクラークが書いた小説がオリジナルだそうだ。
「2001スペースオデッセイ」の完結編に位置する作であるが、別の物語と思ってもいい。いや、当然「2001」はあれで完結しているのだ。だから、実を言えばその続編は評価しないのである。さらに言えば象徴的なキューブリックの映画を見てからクラークの本版を読んだら、そこまで書いてもらわなくても分かるのに、というような印象もあった。
要するに、クラークは明晰な人なのだ。しかし、ぼくはキューブリックのアイマイな暗示により惹かれるのである。だから以前にこき下ろした(笑)結末のストーリに関しては何も言わない。ただ今回は細部にちりばめられた「あり得べき未来」へのアイデア万華鏡を主に楽しんだ。「1000万階の高層アパートからの眺め」という発想だけで3分は高揚できるじゃないか。
一個人のすべての肉体と精神の情報を1ベタバイトのメモリに収めるという記述がある。当然、それはまったくのクローンであり、クローンから見れば自分が本人なワケだ。本人なんだけど電子媒体だから瞬時に転送できるし、時間の制約もある程度は回避できる。
しかし、たぶん最近話題の致死遺伝子の情報も入ってるので、やっぱり生物学的に死ぬワケかな?とか、想像は膨らむ。
実は旅行に出る前に、意識して遺言CDを作成しておいた。もし死んだらご親族一同様に便利なように、旅行死亡保険金の分配先の他、個人資産の現状だとか、今まで書いて電子化できてるもののすべてや、デジタル写真・記録の類。過去の写真を全部スキャンするとCD1枚には収まらないけど、文書(Text,PDF)だけなら、CD1枚630Mで余裕で入ってしまう。つまり、私というモノの総体の痕跡は大体このCD1枚に収まってしまうのである。で、将来はお墓というものを確保する物理的余裕はなくなり、こういうCDがご先祖様の数だけファイルされていて、命日にはこういうご先祖様のCDを再生して写真を見たり、日記をよんだりするようになるだろう。
私の場合、親族、友人用にこのCDを数枚コピーして残しておけば、もうそれで安心、心置きなくあちらに行けるのである。私の一生なんてCD1枚、原価50円くらいが妥当な体積だと納得し、一人悦にいっていたのである。
『わたしは、・・・歴代13人のダライ・ラマたちの化身と考えられている。そしてまた、バラモンの少年にさかのぼること74世代の観音菩薩と信じられている。こんなことを本当に信じているのかとよく尋ねられるが、答えるのは容易ではない。』
仏教の中でも特に神秘的で、呪術に近いようなイメージを持っているチベット仏教の最高指導者で、亡命チベット政府の首班でもあるダライ・ラマ14世のきわめて率直で真摯な自伝である。引用した部分を目にしたとき、このような客観的で明晰な述懐が出来る精神に感嘆する。ローマ法王に「あなたは神を本当に信じているんですか?」と問う人はいないだろう。しかし、ダライ・ラマには同様のことを人は問うらしい。そしてそのことを当然とみなしているような、公正な精神が見て取れる。
ダライ・ラマは時計修理や発電機構造等を調べるのが趣味らしい。そして亡命政府の首班として、主として西欧世界の知識人達と対話してきた人物である。この自伝も英語で書かれている。完全に西欧人の目でチベット仏教を見ることが出来る客観的な精神の持ち主のようだ。まったく神がかり的な飛躍に走ることなく、「生まれ変わり」の実際や、「お告げ師」のトランス状態から伝達される「答え」の事例を描写している。宗教の最高権威であり、政府の首班であるとともに、最高のスポークスマンでもある。1989年にノーベル平和賞を授与されていることは、西欧の人々にとってもダライ・ラマの言論や活動は完全に理解できるし、同意されうるという証でもある。時としてユーモアさえも感じられる屈託のない文体で、チベット仏教、ダライ・ラマとしての生活、中国に対する独立運動の実際を語っている。この世界に向けて語ることも大きなダライ・ラマとしての職務であるとの自覚が伺える。
チベット仏教に対する強い憧れがこの本を読ませるのだが、読んでいるうちに現代の問題としての中国のチベット併合と搾取という現実に目を見開かせられる。文化革命の膠着した価値観による愚行の時代は過ぎたとしても、チベット人の殺害と歴史的・宗教的文化の破壊を通じ中国は未だにチベットを併合し続けている。現代に至るまで解消されていないこの政治の欺瞞を、この明晰で強靭な精神は、言論で糾弾し続けているのである。
References:この人は「人類補完機構」と総称される未来史の構想があり、その各時代のエピソードを書き次ぐ形で作品を生産していた人のようである。ちなみに本職はジョン・ホプキンス大学の教授で、典型的な日曜ライターであったようだ。一昔前のお遊びとしてのSFの雰囲気が満ちていて、ヒマつぶしには格好のシリーズかもしれない。しかし、何度もいうように、ぼくはハードSFが大好で、こういう作風では食い足りないのである。ちょっとしたアイデアから短編を作っていくという、楽しみのための作品に好感は感じるが、感嘆・感動はしない。この一冊は、この作者の作品集の中でもかなり拾遺的に編纂されたもののようで、雑多な作風が混じり多様・多才とは言えるかもしれないが、求心力が乏しい。たとえばランボーの「酔いどれ船」を下敷きにした作品があり、SFな洒落だけのアイデアで書かれている短編である。面白い?と聞かれて、まあ、面白なくはないが・・・と、答えるしかない作品だよなぁ。あと一冊、別の作品集を読んで最終的な評価をしてみよう。
曝書期間中の図書館から借りて6冊積んであったが、一度手をつけてしまえばもうとまらない。どこから読んでも同じような金太郎飴大河小説で、まったくワンパターンのご都合主義的エピソードの集積でしかないのだが、どうしても読み止めることができない。かなりのやばい習慣性がある。時代背景や人物群のいり込み方は複雑で、巻頭の<主要登場人物>や巻末の系図を参照したりもするのだが、やっぱりどこの弟子で、どこで登場したかもわからん副主人公も多い。しかし、そんなことにこだわっていては先に進まない。とにかく、この小説は、強引に先に進む一直線で豪快な、そのご都合主義的ストーリーの物量エネルギーに浸ることが快感なのである。
はちゃめちゃ豪快な金庸小説の中で、強いて言えば、この作は全体小説的色彩が強く、訳者によれば当初は8人の主人公を配する構想だったともいう。実際には4人くらいの国籍・民族・宗教の違う主人公が独立したり共同したりで超人ぶりを発揮するのだが、いずれも出生の秘密、それも父と子という絆が、強く物語を前進させるキーにもなっている。後は国や組織への「忠」、師や仲間への「義」、それに男女の「情」も複雑に絡み、そのような人間の結びつきの様々な形自体を描くことが各ストーリの骨組みを形成している。8巻を通じて、にくたらしい極悪非道の大悪人をやっていた敵役が、自分が善玉主人公の親であったと知るや、急にへなへなと改悛してめでたしめでたし、となるパターンは以降、遠く帝国No.2のダス・ベーダーにまで引き継がれることとなる由緒正しき古典的大団円なのである。
それに、この小説では男女の愛憎の深さもかなりのストーリ上の磁場になっている。男は「情」と「考」「忠」「義」の板ばさみで悩み苦しむのだが、女はもっぱら強烈な「情」で男を悩ますのみの存在。うむ。これって、金庸先生、気をつけてくださいよ。女性を敵にまわすと怖いでっせ(^^;
A Short Histrory of the Jewish People by Raymond P.Scheidlin 1998
古代イスラエル人王国から現代のイスラエル情勢まで読みやすくまとめた通史。もう少し大部な通史も読んだが、一冊の本として通読できることは、このテーマの太い縦の線を一気に見渡せることが出来るという意味がある。やはり、ユダヤ人の歴史は、他のいかなる民族・国家にはありえない途方もないタイムスケールで「存続」し続けている出来事なのだ。起源前12世紀頃には明確に歴史に登場してきたこのグループ(あえて、民族とはいわない)のことを、「・・それぞれ様々な課題をかかえているのは事実であるが、いまほどユダヤ人の歴史にとって良き時代はないのである。」と著者が結んでいる現在から、まるで望遠鏡を逆さにして覗くような、まっすぐな歴史上の光景の連続の出発点として見るとき、茫洋とした人間に対する感慨が沸き起こる。
バビロン・古代エジプト・ローマ帝国・イスラム帝国・スペインのセファラディム・ヨーロッパ中世・オスマン帝国・パレスチナ・現在アメリカと、このグループのディアスポラは西欧・中東史におけるあらゆる時点で、出現し、存在しつづけるのだ。そして、絶えず「目立つマイノリティ」として重用され、憎しみの対象となり迫害もされる。歴史上イスラム圏からの迫害が絶えてなかったということは特筆すべきだが、現在のパレスチナ情勢ななんとも皮肉な帰結に見える。また、近代ヨーロッパにおいては徐々にユダヤ人の地位の向上があり、法的にはまったく普通の市民であり、ユダヤ系貴族も出現するような状況にあった。ナチスによるホロコーストは突然再発したとしか見えない中世の悪夢で、今更ながら人々の深層意識に潜む「魔」の存在に戦慄する。
著者の指摘で瞠目したのは、現在イスラエルの公用語としてのヘブライ語の復活だ。生きた言葉としてはとっくに死に絶えた言葉だったのである。ふたたび、ある言語が復活して日常語として機能することは他にない、と指摘されている。ディアスポラとして2重、3重の生活と言語体験を持つユダヤ人社会ならではの特質の発現といっていい。
References:満州事変を策動し、満州国建国の首謀者・石原莞爾の伝記。関東軍の実力参謀のイメージが強く、事実当時の国民的英雄だったが、阿部は法華宗の宗教的信念で平等な「5族協和」の実現を訴え、また、太平洋戦争後期において東条平八郎に代表される狂信的な国粋主義の陸軍中央に断固として対峙し、中国戦線の戦略的縮小・撤兵を主張して左遷された、首尾一貫した現実的理想主義者のプロフィールを克明に描いている。理想主義者といっても、現代的な意味での恒久平和主義ではなく、西欧文明の代表者アメリカとの最終決戦を勝ち抜く、という目的を実行するために着々と国力の充実を図る策を立案し、提唱する冷徹な現実主義者である。また、国民的英雄の参謀本部作戦部長として、石原が自己の信念を日本軍部内で貫徹するというシナリオを考えれば、現在の世界情勢はまた違っていたかもしれない。まあ、しかし、戦時日本が石原のような冷徹な現状分析を行いえるような心理的状況になかったのも確かなことだ。作者が最後に述懐するように、東京裁判でも狂信的陸軍に反対した経歴を評価され、満州事変の責を不問とされ、起訴されなかった石原が、岸俊介くらい生き延びて戦後の政治を担っていれば、確かに現在の日本は違っていたかもしれない、というくらいの「IF」は許される気もする。それほど、自己の信念に対して変節することなく、冷徹な現状判断ができる指導者が、現代日本政治史上では稀であったということか。
今、インターネット上でダウンロードしたエミュレーターとROMデータで「FFIV」(スクエア1991)を始めてしまった。FF4はちゃんと任天堂のカセットを所持してまっせ。念のため(^^)。発売当時、ゲームミュージックの本気加減にドギモを抜かれ、ひと夏熱中しましたね。考えてみれば、あの当時は会社で既に主流派から外されてしまい、万年係長の悲哀を味わい始める最初だったんだっけ。家に帰って一人深夜にのめりこむゲームの世界。化け物をやっつける毎に確実に経験値は上がり、レベルアップするときの快感。最初は30HPから出発してるのに、しばらくすると1500HPなんていうとんでもない権力を握れるようになる快感。確かに昼間の、どうしょうもない安サラリーマン生活を、その深夜の自閉的悦楽の高揚で耐えていた気がしますね。で、また、完全に勤め人としては引導を渡され、失業→低賃金派遣労働者稼業に成り下ってしまった今また、この深夜の悦楽にのめりこむのも故がないことではない。明日受験するTOIECも、もしかしたらこのゲーム感覚かもしれないね。
さて、「小説石原莞爾」は戦時中の参謀本部が主たる舞台になるので、階級の「・・少将・・・大佐」というのと、職制の「陸相、師団長、作戦部長」という2系列のヒエラルキーがふんだんに出てくる。満州事変当時の石原は「関東軍作戦主任参謀」で「中佐」、「高級参謀・大佐」の板垣征四郎と謀り、独断で武力行使をする。その指示を実行する本体の「関東軍司令官」は本庄繁「中将」である。小説の最初で沈着な石原中佐が、血気にはやる平参謀の片倉大尉に、あてつけを言われる場面があったり、2.26事変当日、軍事参議官真崎大将以下が、反乱軍の大尉・中尉らに早朝に呼びつけられる場面もある。最後の方には参謀副長で少将の石原が参謀本部長の東条英機中将に辞職をせよ、とあてつける場面もある。
小説の内容とは関係ないが、このような階級と職制の序列の呼称が出てくると、そのたびに実際の力関係を呼称から推し量ろうとする、いささか興味本位な目つきになってしまう。本当のことを言えばぼくは軍隊や貴族の序列に思いを馳せるのがすきなのだ。
どこの軍隊でも将官から上は、純然たる管理職や名誉職で、実務は副官の左官クラスがこなし、従って実際には大佐あたりが一番実力者なのかもしれない。そういえば、リビアの元首は未だにカダフィー「大佐」としか報道されてないが、今でも軍内では大佐で、将軍が来ると立って敬礼したりしてるんだろうか?だいたい、アレってリビア政府の職制名はないの?とか思う。
江戸幕府でも、老中職は10万石以下の大名が就任していたようで、非常な高給取りの100万石近い大名に通達するとき、どんな権力的快感があったのか?とか。
権力欲は誰にでもあり、ヒエラルキー序列がレッテルとして明示される階級名を見ると、その権威をどうしても想像したくなる。自分が階級の序列から大きく外れてしまったぼくでさえ、深夜のゲームで上級制覇に睡眠不足の血眼になるんだから、現実に序列の中で生きている方達の上昇欲、もしくは下級見下しの快感はどんなものだろう?
しかし、ぼくは中間はイヤだね。いくら「下」がいるといっても、「下」への優越感を感じれば感じるだけ「上」に頭が上がらなくなる。中間なら、いっそ階級外のアンタッチャブルである方がいい。なんてなことを言いいつつ、とうとう大学にも行かず、会社社会からも追い出され、権力欲は深夜のゲームで自閉的に達しようとする。どうです?ぼくって無害この上ない人間だとは思いません?
タイトルからは、昨今の珍奇な言い回しのコレクションのような印象を受ける。しかし、、本文ではむしろ、その言い回しの言語史的な解明と位置づけをする、という言語学的、文法学的分析が主眼で、これが結構面白い。で、終には「珍奇」でもなんでもなく、1000年に渡る日本語の収束傾向の帰結であり、「日本語の乱れ」というよりは、乱れを合理的に修復するような傾向を示していると言われて、納得してしまう。
たとえば「暑い+です」。私的には心理的抵抗があるが、しかし「暑うございます」とは自分ではいえない。「昨日は暑いでした」は「暑かったです」といえるとして、「今日は暑いです」はなんとなくイヤだなぁ、と思う。しかし、良い代替案も思い浮かばない。
結局、「です・ます」調自体がまだ発展途上の新参者だから、こなれた感じがしないのだ、と納得する以外にない。
著者による圧倒的なテーブルがある。
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名詞 形容詞 動詞
古い言い方 スーツです 高うございます 行きます
新しい言い方 スーツです 高いです 行きます
将来の言い方 スーツです 高いです 行くです
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うーむ。「行くです」と言われてしまえば「高いです」くらい、どうってことはない。
私メも「気になるいいまわし」というコラムを時々書くが、私が気になるは「言葉使い」そのものではなくて、その言い方の裏にある発話者の態度である。ぼかし言葉を使って無意識のウチに責任回避をしてしまう態度がけしからんと思うわけだ。
語感なんてのは個人の感性に拠るところが多いのは当然だ。だから、いくら言葉が気にくわなくとも、少なくとも話者の態度が真摯であるなら、私は「良いです。」・・しかし、イヤだなぁ。
副題:イスラム世界の「やわらかい専制」
「やわらかい専制」は、あまりにも堅固な階級社会である中世西欧史から見ての形容で、強い西欧中心主義史観に対して、このような統治の型もあった、という事例を紹介するという姿勢の本である。まあ、いささか贔屓のひきたおしのような点もないではない。ことほどさように、西欧史のドグマはアカデミックな世界では強いのだと思っておこう。
後に奴隷出身宰相が輩出出するように、オスマンの奴隷制は西欧の奴隷制度と違って絶対的な被差別身分ではないという例や、異教徒の子弟を主体としたイェニチェリ軍団が、忠誠無比な集団であり、時にはスルタンを廃するような圧力をかけることもある、と言う事例が興味深いところである。
前々回読本のレイモンド・シェインドリン「物語ユダヤ人の歴史」での着目点である、イスラム帝国支配下のユダヤ人(セファラディム)が、キリスト世界がスペインを回復すると、オスマン帝国に逃れていった記述と呼応する内容もある。
パレスチナやバルカンはオスマン時代にイスラム化していき、マイノリティであるユダヤ人等も、共存していたのである。元来イスラムでは改宗を強要することはなかった。多様性を認められる寛容さがあったのである。このことを思うとき、現在のパレスチナはあまりにも悲しい。2000年を経て終に自分の国家を持った民族の苦難と栄光を、現実は確実に貶めているのだ。
平易で興味深いオスマン通史である。この「やわらかい専制」がブルボン王朝並の「絶対専制」とはならない理由を、著者は、政治上の統治者スルタンとしてだけではなく、イスラムのカリフでもあるオスマン帝王の2重性にあるとする。つまり、カリフにはイスラムの正義を行使する責任がある。キリスト教世界では精神の王・法王と世俗権力の王が分離したが、イスラム世界ではそうではなかった。イスラム法の体現者であるから、王たり得た。まあ、少なくとも建前の上ではそうなのだ。
しかし、これは何もオスマン帝国時代の話だけではない。現在でも盛んにイスラムの正義を実現しようとしている国家があり、世俗の力をもったグループがある。私的に仏教徒である当方には多少暑苦しいが、確かにイスラムだけが現在でも国家に革命を起こさせるだけのエネルギーをもった宗教であることは自明だ。それは、何よりもこの宗教が法でもあり、生活規範でもある実際的な教義を持っている所以だろう、と私は思う。
プリンストンの宇宙物理学教授がユーモアたっぷりに語る、相対性理論の解の探求物語。E=mc(2)は昔から目にしていたが、実際にこの式に負の時間を代入して視覚的にその結果、どのような効果が現れるのか図示して見せてくれた本は初めてだ。著者は自ら「右脳」によって理解する部類に属するという。まあ、論理よりも直感的に事物を把握することが得意だという意味だろう。エッシャーのシンボリックな絵が随所に引用されている。著者に解説されて見ると、確かにエッシャーの不思議な空間は現代宇宙論の、ある種の摩訶不思議なイメージを体現しているようにも見えるのだ。うむ、しかし私には極端な抽象の産物である数式と、複雑怪奇な宇宙構造との関連がとんと掴めていない。右脳はあまり活発でなく、どうやら左も、ちと弱いのである。アインシュタインは光の性質を直感し、それを相対性理論として体系ずけて説明した。後、処々の実験・観察・補足的考察により、その理論はかなり広い範囲で(ブラックホール内部やビッグバン直後を除き)この宇宙がしたがっている原則に合っていると認知された。逆に、相対性理論が矛盾なく成立するような物理現象ならば、ひとつの宇宙として存在する可能性はある。その中で、もっとも単純ですっきりした構造を持つ宇宙ならば、限りなく現実に近く存在するといえるのだ。
しかし、アインシュタインが宇宙を、従って森羅万象の存在ということを考えていた時には、まだ相対性理論が無かった。観察者・高速で通過する列車等をイメージし、その視覚的装置を頭の中で動かしてみることで、この宇宙の根底の力学の着想を得たのである。どうやら、宇宙物理学者達というのは、とてつもない右脳を持っている種族のようだ。
さて、この本では相対性理論から矛盾なく導き出せる宇宙論の数々を、平易で、ユニークな図で視覚的に見せてくれ、著者が提唱するひも宇宙論までを紹介する。その過程で、どうやら宇宙もねじり歪み、時間をさかのぼってしまうドタバタ劇も起こるのだ。←結局、ぼくは何もわかってないのだ。しかし、自分がわかってないということは知ってるのだ。だから、ぼくは宇宙よりもエライのである。しかし、まあ、プリンストンの教授である著者も、数式で厳密に説明したワケでもないから、本当に理解してもらおうとは思ってないんだろう。ただ、右脳的直感で現在物理学の宇宙論のサワリを体感してもらおう、という趣向だと思う。いや、確かに筆の力だけでビッグバンからワーム・ホール、ひも宇宙まで鳥瞰させていただきました。私はそれだけで満足です。後は勘弁、簡便に。
ところが、最後の章は突然統計的未来予測の話になる。実はここが著者が近年力を入れている分野らしいのだ。コペルニクス原理と呼ぶ万能の統計的根拠とは?要するに「ふつー」に考えるといういうことである。私の余命を予測しようとするとき、「今の私」はあらゆる意味で「特別な」時間にいるのではない、と前提する。生まれた直後でもないし、死ぬ寸前でもない。今まで50年生きてきたとすれば、それは私の全人生の時間の端を除いた95%の期間のうちのいつかである。もし、95%の最後の期間であれば後2.5%だけは確実に生きている。もし95%のうちの最初の期間であれば後97.5%は生きるだろう。かくて、コペルニクス原理による未来予測では、私は後、1.28年から1950年の間に死ぬということは95パーセント真実である。ありや?まだ10世紀近くも生きなければならんのかい?煩わしい。ま、後1年から1000年の間に「あんたは確実に死ぬぞ」と言われても、「当然じゃん」というようなものだけど、この「当然」を理論的として数式化するのが難しい。返って、こんなことが統計的な根拠となるということに気がつくことが、大事だよ、と著者はいっているようだ。もしかして、相対性理論よりも、この「当然」理論の方がはるかに着想しにくいものかもしれない。だからこれを称してコペルニクス原理というのだ。まあ、今日のところはこのくらいにしとこう。
Jean-Christoph Ruffin "L'ABYSSIN"
18世紀、オスマン帝国支配下のカイロに流れてきた自称医師が、複雑な政治的・宗教的な時流のコンテキストに偶然引っかかり、ルイ14世の使節としてアビシニア皇帝に面会する。首尾よく皇帝の知遇を得、今度はパリのルイ14世に拝謁するというような紀行の物語が縦糸。アビシニア。どこかで聞いたことがある響きである。今日のエチオピアで、アフリカ北部のイスラム圏に囲まれたキリスト教国である。しかし、コプト教の流れを汲む教義もあって、どこにでもはびこっているイエスズ会の宣教師の入国を拒み続けている。まさに、禁断のベールに包まれた秘境である。カイロはオスマン帝国支配下ではあるが、フランスの領事が駐在し、ヨーロッパ系住民を取り仕切っていたようだ。この舞台装置には全体にアラビア風のエキゾチシズムの照明があたり、なかなかぞくぞくするようなお膳立てである。著者は例の「国境なき医師団」の副団長を3年ほど務めていた、というから、多分に現地の土地感を持っていると思われる。小説の主人公が医師なのも、著者の冒険心の直接の投影と見ることが出来る。これは、18世紀の異国における恋と冒険の物語で、軽くてちょっと冗長気味の語り口と、アラビア的明るさ(ってどんなん?)に満ちた文体が、最後まで破綻なく流れていく。処女作とは思えない語り口である。結局、著者も冒険好きな若者だったんだろう。そして、それが冒険物語を語るという楽しみに昇華していった。すでに古典のおもむきあり。しかし、後半はあまりのクラシックさに少々だれてしまう印象もある。「物語」的すぎて「小説」らしさに欠けるというか。まあ、舞台装置だけでも結構面白いので、別に無理して「小説」しなくても良いというものだけど。
デンバー、ニューヨークを舞台にした悪漢教養小説(?)、ま、つまり一人の青年が、その道の師匠を得て一人前の詐欺師に育っていくビュルディングスロマンである。国籍不明の詐欺師(実は日本人)の世界を達観した世の処し方が、ちょっとしたダンディズムと自由人であるという意識に支えられてある種の魅力ある人物像になっている。そのほかの登場人物はB級アクション映画風のステレオタイプで、セリフもいかにも風の臭みがあり、あまり主人公との共感・自己同一感を抱けなかった。さすがに筋運びや場面転換は、ほぼ快適なスピードで流れていき、結末まで興味をそらさず追っていける出来。現地の取材を生かした生々しいハードボイルドシーンやシドニー・シャルダン風の華麗な詐欺の手口の数々、というような小技を組み建ていった構成である。船戸与一はもう少し歴史や時事に密着した重い目の物語の書き手と思っていたが、これはB級エンターティンメントとしての標準的な作品とでも評しておこう。
Gun with occasional Music ...実に魅惑的なタイトルですね。説明的だけど、文体のリズムがすでに物語を踊っている。こんなタイトルを見せられると読まないわけにはいかない。
近未来ハードボイルド、つまりSF推理小説であるが、多分早川ではSFの方に分類するだろう。実はぼくもそうなのだ。ハードボイルドとしては標準的で月並みな設定。貧乏私立探偵が商売そっちのけで多分に個人的な興味で事件を解明しようとし、それを阻止する一派と派手な格闘もやりますよ、というような。ただ、主人公達の撒き散らすジョークや会話の応酬がなかなか凝っていて、「気の利いた」セリフを吐くということが、人間として認められる最低要件であるようなアメリカの社会文化とうものを思わせる。近未来物SFとしては、なかなか多彩な発明物の数々を見せてくれ、文句なく楽しい。中でもピザの配達員のイヌや、養女の愛玩用小学生ネコのような「進化型生物」がふんだんに登場し、幻想的かつ悪夢的未来を感じさせる。そのうちのカンガルーのギャングとは大立ち回りを演じ、チンパンジー探偵は渋い脇役を務め、それぞれメインのプロットにもかかわる役目を果たしている。小手先だけの単なるSF的飾りではなくて、確固とした存在感のある近未来の世界を創出するのに成功しているといえる。もっとも、舞台として語られる「世界」を一渡り一瞥すると、後は事件のハードボイルド推理的展開になり、いささか悪夢的に混乱する。翻訳小説の常として、唯でさえ脇役達の名前を覚えにくいのに、こうやたらと「進化動物」まで固有名詞で登場するので、こちらの頭が悪夢的混乱をきたすのである。はい、私は犯人の心理を解明し特定化する推理部分はうるさいので適当に読み流させていただき、全体の擬似悪夢的近未来像の雰囲気のほうだけ楽しみました。ま、奇妙にデフォルメされた世界だけど、それなりに存在感を持つているので、どことなく超現実主義的味わいがありましたね。
調査船ビーグル号がガラパゴス島に到着し、小集団が上陸して調査キャンプをするが、そこで奇怪な連続殺人事件が起きる。若きチャールズ・ダーウィンは持ち前の明晰な推論と物怖じしない行動力でその謎を解明していく。よく出来た小説である。歴史的事実を下敷きにした推理小説なので、真実性を損なわないように虚構をはめ込む必要があるが、単にダーウィンの名を借りたというだけではなく、のちの進化論者の発想自体も強引に物語に取り込んで事件のファクターにしてしまっている。虚実とりまぜて、まことしやかに語るのは物語作者の真骨頂といえるだろう。登場人物像もくっきり、それなりに描かれていて、イギリス貴族の船長、皮肉屋のインテリ士官、狂信的な宣教師、西欧社会に連れ込まれてアイデンティティを失ったフェゴインディアン、というような人物達が夫々らしきセリフを吐き、それぞれの文化的背景に従った行動を取って事件に絡むのである。ワトソン役の画家まで配したこの作家の遊び心は、なかなかの趣味人といえる。細かく言えば本格推理小説とするには、やはり強引なダーウィンの理論への結びつけなんかが恣意的に過ぎ、無理もあるが、全体に漂うアームチェアデティクティブ的遊びの雰囲気でうまく折り合いをつけている。主人公チャールズ君が物怖じしない素直な青年で、巨大なイグアナに囲まれてエサにサボテンを与えながら、アゴをなぜてやっているような姿が童話的さわやかな軽味を全編に与えている。
この作家には他にも「贋作『坊ちゃん』殺人事件」だのというタイトルがあり、こんな「見てきた様なウソ」を楽しむ作風を得意としてるようだ。まあ、書くのが好きなヒトなんだろうなぁ。
リーガルサスペンス分野での大型新人登場である。この作はロースクール在学中に発表した作品という。快調なテンポで場面が転換し、生きのいい会話で文章が流れていく。あっと言わせるストーリーのどでん返しもあり、痛快読書。最高裁の判決の仕組みを熟知し、インサイダー取引で巨額の利を得る知能犯との一喜一憂の知恵比べが読ませる。姿を見せず、圧倒的なインテリジャンスで迫る犯人に一杯食わせるシカケは爽快だったが、最後にこのマッドドクター風の悪人がピストルを持ち出して粗暴な暴力に訴える場面が来てしまったので減点とする。別に映画的にアクション場面を作らなくともいいんだよ。思うに敵役の悪人が魅力的なほど話は面白い。ショッカーにジャック・ニコルソンを配し、主人公よりも数倍存在感の悪人を出現させたバットマンのプロデューサーはエラいと思う。とにかく悪がとんでもない大物であればあるほど、主人公の最後の勝利が奇跡となり、思いがけないカタルシスがくるのである。この作でも相手は最後まで超人的な知性で勝負して欲しかった。残念である。
一応第三人称で語られる主人公を配し、かろうじて小説の体をなしているが、恐らく作者の自伝に限りなく近いドキュメントと思われる。ここ数年来つづいている日本経済の低迷に、まともに翻弄されている中小の企業の経営者達の資金繰りの苦悩が背景に描かれている。1998年当時、そのような零細経営者の友人同士が3人で集団自殺したニュースを聞き時代の悲惨を思ったことを思い出した。今は多少安定してきた、というか、落ちるところまで落ちきったというか、淘汰されるものは既に淘汰された状態のように見える。これは他人事ではなくてこの私メも、9ヶ月の失業を経、この年齢にして低賃金派遣仕事でサラリーマン階層社会の最底辺でこき使われるという羽目になってしまっている。とにかく、この日本経済の破綻が如実に露見しているのが、私の年齢層、「団塊の世代」(堺屋太一)の同僚諸氏なのである。
嘗てはアメリカで会社を経営していたこともある主人公が、個人負債を返却するためのローンの返済に台湾に出かけ、海外のATMで資金を借り入れる場面からこの他人事ではない物語が始まる。もちろん、この資金を返すあてはないが、期日が来ればまた、別のクレジット会社のATMから借り入れて返済する。つまりは、利子の加算を覚悟すれば一見無限に借り入れ返済を繰り返し、無限に支払い期日を引き伸ばせるように見える。しかし、現実にはもちろんそんなに甘くはないのだが。このような、ある意味では身につまされるような、今の個人破綻負債社会の実体験が、この小説の文体や構成の拙劣さを越えて、生々しい迫力で読者を最後まで引きずっていく。小説的には、このような経済の苦しみの時代を食い物にする会社乗っ取り屋のような悪徳業者の存在が悪として示され、それに抵抗してなんとか経営を立て直そうとする主人公達の人間関係に支えられた経営再建努力を描くという小説的な構図がある。しかし、物語を読む楽しみや爽快感はまったくない。まったく生々しい血の吹き出るような中小企業の経営者達の苦悩や、借金返済に苦しむ主人公のケーススタディを提示するドキュメントとしてしか読めないのである。小説としては拙劣、文体は素人ではあるが、読むことには時代の証言として異存はない。
ジャンヌ・ダルク研究者というのは、郷土史家というのと同様、本業をめでたく退職してこつこつと資料漁りから始めるという人が多いような気がする。つまりは、専門家でなくとも、つまりは、歴史一般というようなその道の定石というようなものが無くとも、それなりに独自のアプローチが可能な分野のようだ。それに、ジャンヌ・ダルクはとても「歴史一般」というような現象ではないし。著者は元NHK勤務の映像関係者らしい。ジャンヌ・ダルクに対する思い入れは並外れたものがあり、それこそ自費で資料を集める非専門研究者だけが記述できる熱気のようなものがある。非専門研究者というヘンな日本語を使ってしまったが、「素人」というような失礼な呼称はもちろん著者には当てはまらないのである。
全体は大きく3部に別れ、第一部はジャンヌの史実を著者の目で追っていく中心部分。ジャンヌに対する姿勢は客観的でニュートラルといえよう。やたらと神がかり的・ドラマ的に構成することなく、歴史的な背景をきちっと抑え、かつジャンヌの生涯の各見せ場にもちゃんとポーズをとって、ソツがない。これは著者の私家版「ジャンヌ・ダルク」映画である。なめらかな叙述でこの稀有な運命の奇跡を我々も追体験するのだが、シャルル7世との会見の場、異端裁判(後世のような魔女裁判ではない、とは著者の注)の場等々、我々もこの西欧中世講談に引き入れられていく。そういえば、講談師よろしく、ふと主観的セリフもアドリブではいり、活動弁士風というか、なかなかなめらかで楽しめる語り口である。「講談師、見てきたようなウソをいい」どころか、実際にこの人は現地を丹念に歩いて取材してきているのである。
第二部はジャンヌ登場に至るまでの、100年戦争当時のフランス・イギリス史の詳しい解説になる。この当時の各国の王室相関図はなかなかややこしい。しかし、著者の解説はツボを押さえて快調である。また、現在の国家間の戦争ではなくて、中世領主の閨閥・軍事を絡ませての領土争いはどことなく中世的であってのんびりしている。「そして、市民にしてみれば、自分らの頭越しの政権交代劇は毎日のように起きているのだから、(略)誰に向かってもテキトーに手を振って暮らさにゃアホらしくてやりきれんわい、というしだいである。」と、著者の口調にも身振りがはいる。実は私メも中世史はどことなく好きなんですよ。そこには、確実に現代の心性とは違う人たちが暮らしていた。つまりは、違う世界が存在してたんだから。だから、ジャンヌ・ダルクも登場できたのだ。
第三部は突然、現在までに公開されたジャンヌ・ダルク映画の資料的な紹介になる。本当はこの部分が本のメインになる予定だったようだ。しかし、私メのような門外漢にはこの資料の価値はよくわからん。それに、記憶に残る唯一のジャンヌ映画のリュック・ベンソン作品(2000年公開)は、この本の出版の後だし。ダスティン・ホフマン演じる近代合理主義意識の悪魔と全肯定の神が中世の意識を明らかにする演出は見事だと思った。しかし、映画だけではなく、オネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」も取り上げられていたのはさすが。このオラトリオは異端裁判のセリフ回し(ポール・クローデル)が面白く、音楽との兼ね合いのテンポ感がすばらしく一時熱中したことがある。フランス語を勉強する人には一度聞いて欲しい作品である。とにかくフランス語のリズムがかっこよく音楽に生かされている作品だ。
というわけで、隠れジャンヌフアンである当方にもいろいろ楽しめた、少々異色のジャンヌ本の一冊だった。
驚くべき物語であり、作者である。26歳の医学生がこのような完璧な小説を書いたのだから。胸を躍らせる物語があり、サスペンスがあり、時代の雰囲気と未知の土地への憧れがある。また、みずみずしい感性がしたたる文章に当たるのも久しぶりだ。このように思わず絶賛してしまうほどの完璧な小説。見事な文体と終局に向かって加速していく構成の的確さ。これぞ小説といいたい出来である。とにかく、あまり見事なのでもう内容には触れない。私が3ヶ月前に旅行したタイと、今弾いているバッハの平均律、それに自分でするウチのピアノ用の調律ハンマーのことを考える。まあ、コッポラの「地獄の黙示録」も呼び出しはするが。とにかく、今はぼくのピアノはバッハの平均律の周期に入っている。実を言えば、グレングールドもびっくりのスタッカートで、ことさらピアノの音を強調する奏法にしたところ新しい展開が見えたのだ。そうでもしないと、実際はピアノの一段鍵盤では表現に無理が生ずる箇所もある。しかしながら、作者も指摘するように、この音楽のひとつの宇宙全体が「平均律」という調律法の名前を持っている、ということが、ピアノとは不可分の関係があるのだ。平均律が考案されなければピアノもなかったのは紛れも無いことだ。私は自分の楽器は自分で調律する。調律するという関係を持たねば、ピアノは機械に過ぎない。オルガンの場合なら奏者は息を吹き込むという生理的連関を持つが、この近代合理主義のチャンピオンであるピアノという機械は、キーボードを押すだけである。調律するという行為を通じて、初めてピアノはアナログ的な生物感覚と同調し、有機体となるのである。ピアニストは調律するという世話を通じ初めて、自分の子供としての楽器を認知するのである。まったく、この本とは直接の関係はないが、このようなことさえ呼び出す豊かな多層の小説世界をこの本は持っている。
しかし、邦題「調律師の恋」はいただけない。このタイトルが呼び出すのはナントカ・ロマンシリーズのような陳腐な恋物語だけである。原題"The Piano Tuner"、「恋」をつけるのは、目にうるさい日本の過剰サービスというものだ。じゃま。まったく、見識のない出版社じゃ。
「解る」とはどういう頭脳の働きをいうのだろうか?漫画的な表現だと、ふきだしの中に電灯が点ったりする。著者が抽象的な概念を図示し、座標を設定して空間的なイメージを当てはめて説明するのを見ていると、多分解るという作用には対象概念が視覚化されて直感的に補足できるという操作が含まれていると思えてくる。対象概念の実態がはっきりと認識できていれば、要点を抽象し、図示することで総括することもできるようなのだ。この本は一風変わった認識論入門であり、著者の思想的・あるいは政治的立場の表明にもなっている。思想や政治を語るとき、ややもすると人工的に生成された専門用語の林の中で実態とはかけ離れた議論になり、堂々巡りをすることもある。図示という形の固定したラベルを貼り付けておくのは、議論を整理する上でかなりの有効性があるのかもしれない。もちろん、著者もいうように図は抽象で、実態そのものではないわけだが。
この著者の立場を言えば、まあ、一時はマスメディアにも頻繁に登場していたので、問題発言も多かったような記憶もあるが、本書を通読する限りでは極めて中道的で無難な提言者である。ただ、著者の中道性は、折衷主義というわけではなく、実際に有効であったから歴史となり得、伝統として存続してきたのだ、という一種のプラグマチズム的な合理性に裏ずけられている。このような確固とした自分の判断基準が確率しているので、強く頑固である。「朝までテレビ」で、他者の発言に憮然とした表情をいつも示していたのを思い出す。もし、著者の立場が中道派と言えるのなら、中道少数派とでもいいたい適度な孤立感がある。なかなかかっこいいおじさんである。
日本人が集団主義的、西欧人が個人主義的であるという2値での比較は一般に行われているが、著者が先ず日本人は西欧人にも増して個人主義的であると喝破し、4値の座標を導入してこれらの概念を整理して見せてくれる時、確かにその西部モデルの方が実態をよりよく抽象していると思える。実際、会社の前の公園に散らかっているゴミを見る度に、日本人ってのは私的な場において限りなく個人主義的だと思うし、同様の地域の公的な場所の維持に関して、西欧人は限りなく集団主義的だとは思うのだ。
西部が見せる、4値の方形や円形の座標はおのずから中心点の存在を示唆するし、自分はなるべく重心点近くにいたいとおもうのは自然な美意識というものだろう。かくて、読者もなんなく、端(エクストレミスト)ではなくて中道がいいなと誘導され、西部の思惑にはまっていくのである。
巧妙なタイトリングが既に読者を重層的なイメージの迷宮に誘い込む。このタイトル自身は小説中の恐ろしい奇病の名称でもあるが、小説世界全体の名称でもあり、私達読者の古典的アラビアへのイメージのパロディでもある。
たしかに小説は中近世のカイロに入城するところから始まるのだが、その雑多な人々が織り成す猥雑な世界の中でいつしか現実のアラビアは、架空の物語のアラビアへと繋がっていき、気がつくと既に他人の見ている夢や架空の物語りの中に閉じ込められた世界に連れ込まれているのである。無限に物語ることが生きることであるシェラザードのように、ここでは物語ること(想像/思考/空想/夢想)がとりも直さず生きていることだという語り手と聞き手の世界が提示される。読者は小説の中に入り込み、その重層的迷宮世界にとりこまれ、気がつけば語り手が語り終えるまで自力では出てこれない状況になってしまう。このカイロのシタデルはカフカの「城」でもあるわけだ。饒舌で、猥雑で、無限に続く夢の連鎖。こういう世界を「アラベスク」という。奇書。
超ベストセラー「ハリーポッター」に嫉妬をもやし、内容をくそみそにパロディった本である。こういう心境は良くわかる。当方も一応原作を読んでみたが、勧善懲悪型のステレオタイプ物語の枠内で小賢しく収まっていた。魔法使いなんだから、本当は得体の知れない夜の悪意の体現者であった方が確実におもしろく、また、性的な奔放さも無きゃせっかくの魔法の持ち腐れであるとは思ってたよ。そういうわけで、ひとつ悪辣非道な悪ガキ版ハリー・ポッターを書いてやれと、物したのがこの本である。その趣旨は大いに買うが、しかし、この手のパロディにありがちな、我田引水気味の悪ふざけにすぎない、そんな程度のくすぐりしかないのも事実。もとより、イギリスは他のヨーロッパ諸国に比べれば、ま、トランシルバニアあたりを例外として、珍しく幽霊譚の多い国だが、でも結局そのイギリスあたりの魔物にしたところで、日本古来のおどろおどろしい物の怪に比べれば、「へ」みたいなもんだ。醜怪であったり、残虐であったりはするが、みんなこの世の事象の底にうごめく怪異にすぎない。どこか、異次元からやってきて存在論的な不安を呼び出す日本の妖怪どもの比ではない。まあ、悪ノリの冗談に「むはは」と笑ってもらえれば、この本の著者としては本望ってもんだろう。
おなじみの売れっ子3人によるシンポジウム・講演の記録。このテーマには河合隼雄が少々異色である感もあるが、なかなかどうして詩人・小説家に遜色のない面白い知見を述べている。たとえば、日本語の非人称的発想。「この家は落ち着く」という日本語で、決して主語の「私は」の省略とは見ず、家・私を超越した無限定でジェネラルな意識が問題になっていると見る。ここで、あわてて主語を探しにかかるのは、我々の悪しき西洋文法意識のなせる業で、結局日本語では大事なことは主語なしで語られる、と河合が言うのは何か日本語の本質を言い当てているように思える。
大江の小説の文体は、欧文の生成規則を踏まえて推敲を重ねた、極めて分析的で意識的なものであるのも、谷川の日本語が音や響きに依存した即興的で直感的なものであるのも、予測どおりで、別に目新しい論点はない。とはいえ、谷川の日本のTVコマーシャルが極めて詩的(イメージ重視)であり、欧米のものは極めて説明的である、というような指摘や示唆が随所に溢れていて、聴衆に退屈させるようなことはないのはさすがである、と言っておく。
雑誌連載の短いコラム集。ピアニストではあるが筆の立つ人で、この方面でもいくらか賞をもらっている。このコラム集は新聞連載ということで、ミニマムなエッセイばかりなのだが、この制約の中でも「序」と「落ち」を必ずつけているのは見事なプロ仕様である。少し意地悪く評させていただけば、いささかこの「プロ仕様」にこだわりすぎて、時として「気の利いた序」から「面白おかしい落ち」に至る文章作法の作為が見えすぎることもある。そんなに、面白い文章に無理にしようとしなくともいいのに。あまりに職人的な造形よりも、多少素人っぽい意外性があるほうが、よほど楽しいと思うよ。とはいえ、若くして世界を相手のピアニストとなったこの人のネタはいつも興味深い。ニューヨークでのホロビッツの復活コンサートのチケットを手に入れるべく、凍てつくカーネギーホール横で徹夜で並んでいるとホロビッツの奥さんがやってきて、熱いコーヒーをふるまってくれた、というような話。冷戦時代に、いきなりチャイコフスキーコンクールに優勝して英雄となったバン・クライバーンのその後の生涯の姿勢を、英雄という役割を常に果たすように要請されていて、一種のノーブレスオブリッジを果たしていたのであると喝破する話、等。バン・クライバーンといわれれば、当方も思い出すが、ピアノを弾く時の頭のアクションが極端で、自動人形風に見えて、滑稽だったなぁ。まあ、こういうエッセイも貴重だが、当方としては「ピアニストという蛮族がいる」で踏み込んだ、日本の女流ピアニストの草分けの久野久子の伝記のような、この人でなければ書けない力作を期待するものである。(うっと、この結びは以前にも書いた覚えがある。トシ喰ってくると以前のネタを食いつぶして生きていくのか。悲しいなぁ。)
いかにも河出好みの「純文学」的作風である。と、これは少々あきれ気味に私は言っているのである。何も劇的なことは生起せず、主人公の屈曲した心理が日常生活の描写から立ち上ってくるというような。こういう小説の賞味期限はバブル前にすべて切れていたとおもってたが。2編の中篇で構成されているが、夫々の作の主人公の職業描写は自然主義的な(?)考証が行き届いていて比較的しっかりと造形されている。主人公の心象風景には興味が持てなかったが、実際の職業観察の成果だと思える、日々の業務描写は具体的で、テレビのドキュメンタリー番組のように「知る」という好奇心を満足させてくれる。実際面白くとも何ともないストーリーを最後まで読ませるのは、こういう他人の職業人としての日常への興味だった。
コンスタンティノープルは魅惑に満ちた都市である。中世にはビザンティン帝国の首都として西欧世界の一方の文化の頂点を成すが、近世にはオスマン帝国下の重要なイスラム都市となる。東西の文明が交錯し、ヨーロッパとアジアの歴史と地理が両側から透けて見えてくる。そして私達の位置からは更に遠く、ヨーロッパを通して蜃気楼のようにその玄妙な過去の栄光がゆらめいて立ち上ってくるのである。遠いもの、未知なものに対する憧れが歴史家や探検家を突き動かすのだとしたら、イスタンブールは今でも尽きることのないインスピレーションの光芒を放散している。ぼくもいつかはガラータ地区よりボスフォラス海峡ごしにイスタンブールを眺めているだろう。
橋口は歴史学者ではあるけれど、この本は中性史の研究成果を問うものではない。コンスタンティノープルという響きの中に遠いものへの憧れを聞き取る読者のために、中世キリスト教世界のの一方の雄であったコンスタンティノープルを案内するもので、全体の筆致からは楽しみのために書き下した本という弾みが見える。正にこの本は現在のイスタンブールにに到着し、いよいよそのきらめく歴史の痕跡を訪れようという高揚感に満ちた書き出しからはじまるのである。ふと「学者」らしからぬ美文調が聞こえてくるのも読んでいてほほえましい。
ぼくは最初にヨーロッパを通してアジアが見えると書いたが、実をいうと個人的にはオスマンのイスタンブールの方が近しい思いがある。1980年代にアミン・マールフが「アラブからみた十字軍」を書いて以来、イスラム側からの歴史に踏み込む流れが顕著であり、当方もどちらかというとオスマン側の歴史の方が読んだ書物の目方が多い。だからビザンティン帝国の方がどことも知れぬ歴史の埃の中に永らくうずもれていた、というのが本当のところである。(^^;
コンスタンチノープルの住民は雑多なバルカン状の混交を示すが、やはり正当な古代ギリシャの後継者という意識はあったろう。橋口の語るところにも、アイデンテティは東・オリエントという感覚があり、たとえば居留地があるジェノバ人なんかは外国人という意識になるようだ。そういう意味で、この本が紹介する十字軍は「ビザンチン人からみた十字軍」という視点も提供しているといえる。
いろんな教会史のエピソードが紹介されていくが、全体を通じて世俗の欲のせめぎあいと霊的なものに深く依存する現世忌避の極端な両面性を持つ中世人の群像が浮き彫りになっていく。そうか、歴史への興味というのは実は違った心性をもつ人間への興味であったんだな、という思いを抱く。現在都市の人間関係ストレスに胃壁を侵食されている私(あるんだぞ!)は、中世人の心性がかもし出す一種のクールなさわやさにあこがれるのである。
若手研究者のフィールドノートを出発点とした人類の発生の生きのいい試案である。
類人猿共通の祖先から分かれた人類は、アフリカの大地溝帯東部に取り残され、次第に草原化する環境に独自の性システムを開発して適応していった。強力な天敵のいない熱帯雨林で適応しているチンパンジー型多夫多妻風乱婚状態に比べ、雌が自分の発情期をうまく偽装するといった手管を駆使するボノボの社会では母系の結びつきが強い。この2種の類人猿の社会の観察から、ヒトが発生する500万年前の状況を演繹する構図はそれなりに説得力がある。ヒトの雌は完全に発情期を隠してしまうことによって、特定のオスと恒久的にエッチすることが可能になった。これは、オスが自分の子供を認知するのを助け、外でエサを漁ってきた夫が、女房・子供が待つ家に外で漁ってきたエサを携えて帰って来るという行動様式を成立させた。つまり、オスも育児に参加させる型になったのだ。餌場に集団で移動する熱帯雨林型の類人猿社会ではありえなかった、職場→家庭という長距離を食物を抱えて移動することが直立歩行を促した、と。うむ。なかなか面白い切り口だ。しかし、待てよ?その場合だと直立歩行をするのはオスだけでいいんではないか?長距離通勤するオスだけが歩き回り、家では歩行の必要の無いメスが相変わらずチンパンジー風にしゃがみこんでるという風になるのでは?
ま、いろいんな説があればいろんな情景が浮かんで楽しい。この前ドーキンスが紹介していた一時的水棲生活中に直立姿勢を得、体毛をなくしたという説が一番面白かったけれど。
この人の学への欲求が、人類の起源を考えるという求心力に支えられているのに好感を持つ。実はこの本の導入部が人類の発生の鳥瞰に当てられていて、そこで示唆されていたひとつの事実に当方は深い感慨を持つ。
ホモサピエンスの旧人類のネアンデルタール人の方がクロマニョン系新人類(現人類)よりも10%ほど大きな脳を持っていた、という事実である。この人たちはその脳を一向に実務には使用しなかったようで、脳は小さいが実用の才に恵まれた新人類に3万年前に完全に駆逐されてしまう。ここで、いったい旧人類さんたちはこの大きい脳を何に使っていたのか?どんな必要がこの大きな脳を発達させたのかが大いに気になってしまうのだ。以前、このネアンデルタール人が、死者に花をささげていたという事実を知り、深い感動を覚えたことがある。また、一方で、自分の勢力拡大のために同種族を殺害までするのはチンパンジーと人類だけである、と著者に告げられるとき、この消え去ったやさしい旧人のことを考えずにはいられないのである。ドリーム・タイムのような壮大な精神活動を保持しているアボリジニーがこの旧人類の直系ではないのか、とも思うが根拠はない。まあ、旧人類は姑息な現人類に殺戮されてしまったのではなく、同化されたのだと思いたい。
もうひとつ、紹介されている直立歩行初期の人類の足跡の化石の話が心に残る。足跡を分析すると、このアウストラロピテクス3固体は大中小の三種の足跡を残している。大中は同じ歩幅で殆ど接触して歩行してい、小は大の足跡をなぞっている。男女のカップルが腕を組んで歩き、子供が懸命についてくるという解釈が一番理にかなうのだそうである。この光景が360万年前のものであるとき、深い感慨に捕らえられずにはいられない。
1996のペルー日本大使館人質事件を下敷きにした一種のパニック小説。異常事態の中で絡み合う人間関係、特に人質とテロ犯人側の交流を描く。人質の中に世界的な名声を持つソプラノ歌手がいて、その歌声が人々に親和をもたらす。うむ。しかし、せっかく生々しい事実を素材にしたジャーナリスティックな緊迫した筆致を期待していたのだが、どちらかというと「心温まる」風のやわらかい筋だてである。通常なら接点のなかった恋物語2個と思いもかけないテロ少年の豊かな音楽の天才が発掘されて・・というような、言ってしまえば女性風といえば語弊があるかもしれないが、ありきたりでステレオタイプな想像力の産物でしかない。どんなに高名なソプラノ歌手の歌声でも、たちどころに千差万別の出身母体を持つ人々を魅了するというのはご都合主義に見えるし、日本企業の副社長がプロはだしのピアニストであったというのも、そんなバカなというものである。おもしろい素材を小説化したとは思うが、ハリウッド製パニック映画の脚本にするには、もうひとひねりもふたひねりも小説的シカケの工夫が必要だ。文体ももうすこしひきしめないとかったるい。音楽がテロ犯人をも親和させるという感動作にもならず、緊迫したパニック小説ともならず、中途半端な仕上がりで終わってしまった作品である。
困った小説である。朝廷史が表側だとすると古代史の裏側を丹念に掘り起こし、ちと怪しい雰囲気のエンターティンメント小説にはぴったりの素材で、おおいに興味をそそられる。しかし、これがちっとも面白くないのだ。この手の小説には珍しく、巻末に参考文献があがり、文中にも日本書紀その他の引用が多く、ふむふむと読者としては勉強になると思うのだが、その割りに小説的な飛翔がない。おどろおどろしい歴史の裏側の魑魅魍魎共を呼び出してくれればいいのに、どうも著者の学がじゃまをしてステレオタイプの筋立てにしかならない。だいたい「不動金縛りの術」くらいではちっともおどろかんよ。それに主人公の役小角がまったくまじめな青少年で終始し、何の魅力もない。講釈がじゃまをして小説が飛翔しないのだ。こんなことでは、成長した小角を扱う続編を読む気にはならないぞ。講釈の中では、参考文献にも「サンカ研究」なんぞがあがっているが、原日本人?と渡来系人種の確執に興味を引かれる。縄文・弥生の2文化系の遭遇や、ちょっと遠いところでは、ネアンデルタール系旧人類とクロマニョン系原人類の遭遇・駆逐の形が近頃気になっている。この小説では渡来系の朝廷に駆逐され、非征服民となった原日本人(先渡来民?)が山岳民族となり、中央とは違う「裏」のネットワークを形成していることを、役小角の出現の文脈としている。とにかく私は、新しい社会についていけず、滅びていく世代にはどうしても身びいきの肩入れをしてしまう、今日この頃なのである。
一人の人間は約60兆個の細胞で形成され、各細胞には2000個くらいのミトコンドリアが盛んに活動を続けている。そして多様な生物の細胞の中で「生息」するミトコンドリアの総数はどんな数になるのか?このミトコンドリアはDNAを持ち、細胞の中で共生するかつての細菌の適応の一形態である。とすれば、地球上で一番自分の遺伝子を増殖させるのに成功したのはこのミトコンドリアといえるのではないか?しかし、細胞内に取り込まれてしまい、自由に独立して増殖をすることができないのは、ATPエネルギーをしぼるためだけに奉仕させられている奴隷のようなものにも見える。著者は、ミトコンドリアのDNA分裂の仕組みを解明した第一線の研究者であるが、この驚くべきミクロの世界の生命の進化の事実に畏怖を抱き、限りない好奇心を抱いている生物好きの子供が素直に学者になったという感がある。自分の研究を説明するときの熱中や、同僚・後輩、あるいは海外の同業者達の業績を親しい口調で語るのを聞いていると、学者というのはなんていい商売なんだろうと思ってしまう。まあ、著者が熱中して語れば、どんどんと生の業界用語も飛び出し、読者としてはぽかんと口を開けて拝聴する以外にはないのではあるが。
このミトコンドリアの遺伝子を比較することで、生命の起源、人間の発生の系統樹をかなり正確に推測することができる。30億年前という尺度を何とか空間的に把握しようとして、カール・セーガンの「宇宙カレンダー」のように具体的に想像可能なスパンに置き換えたりして普段はさび付いている大脳皮質の部分を励起させるとき、わくわくするような興奮がまだかすかに伝播してくる。細かい遺伝子分裂の仕組みは飛ばしたとしても、その知的興奮を追いつづけていく幸福な学者が書く文章の隙間には、まぎれもない高揚感が感じられる。学問の楽しさを門外漢にもちらりと味あわせてくれる本である。
以前読んだ「日の名残り」の印象は古いイギリスへのノスタルジーの作家であった。これは著者のオリジンが日本人ということを考えると奇妙なことかもしれない。しかし、自己のアイデンティティを読書によって確立した者にとっては、遠くにあるものの方が返って近しいという逆転はあり得る。当事者ではなく、一歩退いたところから見る人の方が、物事の印象をより強くもつものだ。この本では「上海租界での少年時代」をすごした主人公が「ロンドンの社交界の花形探偵」となり、両親の失跡の謎を解明するために再び上海を訪れるという舞台立てがある。上海租界やロンドンの上流階級の生活は紛れも無くイギリスの黄金時代の象徴である。前作のような、落ち着いた淡々とした文体でのノスタルジーの探求とくらべても、あからさま過ぎるほどの大道具である。過ぎ去った時代対する、どのような究極のオマージュを見せてくれるのかと期待は高まる。前半は回想の上海とロンドンの花形探偵である現在が交錯し、期待どおりの展開を見せる。ふとしたきっかけから、時にはなんの脈絡もないのに突然子供時代のある光景が蘇ってくる、というような細やかな心理表現には、前作でぼくが作り上げた叙情性の作家のイメージどおり世界が構築されていく。過ぎ去ったものに対する愛惜が支配する幸福な文学の世界である。しかし、後半になり物語の核心が始まると、次第にこの安定した過去の、あるいは子供時代の世界が現実の不条理さを伴って再現されてくるのである。子供時代の親友、美しい理想主義者であった母親。その幸福な過去は決して復元されることはない。しかし、単なる苦い現実再認識の物語というわけでもない。ここには過ぎ去った古き良き時代へのノスタルジーというものが、狂気の現実世界へと渡っていく思議な一本の回廊が通じている。それは自分の内面を照らし出す認識の力ということか?いや、そのようなばかげた明晰さではありえない。やはり自己の内なる、外部の不条理と呼応するような狂気というものではないだろうか?
この作は明らかにあのノスタルジーの作家のものではない。鈍い重みを放つ独異な読後感を与える作品である。
週間朝日連載の各界の著名人がものする、人連載コラム「人、死に出会う」からの50選。素直に身近な人に死なれた体験を書いているもの、一ひねりして死と遊ぼうとするもの、夫々の職業に応じて見せ方は様々。大阪弁の神様がでてくる田辺聖子のエッセイが語り口内容ともユニークで一番面白かった。しかし、このような雑多な文章に対する書評をしてもしかたがないので、当方も51番目を書く。
10年間寝たきり生活の後母が死んだのは私の厄年だった。看病に疲れた父から国際電話で留学地のフランスから呼びつけられて、母の病院に行ったこともある。「やっと」母が逝き、葬儀の後の火葬場で突然母の声が聞こえてきた。「生きとって、なんも良かったことなかったなぁ」というもので、これが当時の私の心情の反映である。実に情けないことだ。しかし、この母の声は切々と生々しく、突然の嗚咽の発作に見舞われた。苦労の連続のあげく寝たきりになり、知性を退化させることで自分の尊厳を守るしかなかった存在を前に、この世の本質は不条理そのものである、と私は悟ったのだ。
一方、父の方は「あっけらかん」と死んだ。母の死後、近所の老人仲間のゲートボールの花形選手として活躍しはしていたようだが、それ以外にはタバコを吸い、テレビを見てただ単に死ぬまで生きていた。年末に兄から「父危篤」の報があり、夜中に自転車で生駒の坂を抜けて病院に着くと「さっき死んだよ」と兄がこともなげに報告してくれる。「あ、そうなん」とこちらもうなづく。まあ、病名はあったのだろうけど、一般に言う「老衰」である。父の死よりも、久しぶりに兄と会ったので、どちらも思わず苦笑いに似た、テレ隠しの笑い顔をしていたように思う。「(晩年の)笠智衆みたいな」と兄のいうとおり、白い眉毛が伸び、穏やかないい死に顔をしていた。もちろん口にはださないが、もしかしたら口に出したかもしれないが、「よかったね。」「よかったなぁ。じゃ、これで」とにこにこして別れた。帰り少し富雄川の土手で道に迷ってしまったのを覚えている。父の死は周囲の人々が満場一致で天然自然の現象とみなし、なによりも本人もこれに同意していたごとくである。母の死が不条理であったとするなら、父は条理に満ちてさわやかに死んでいった。周囲の人間に思いを残すような死に方をしてはいけない。父はやはりエラかった。
DNAの解読と比較、特に母系遺伝をするmtDNA(ミトコンドリアのDNA)の解析は、あらゆる生物を「計る」ものさしになる。またPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法を適用すれば、髪の毛一本のサンプルがあれば対象生物を殺さなくてもDNAサンプルを検出できる。絶滅寸前の動物や、とっくに絶滅した生物の化石からでもサンプルを抽出し、このものさしでDNAの同定ができるというものだ。著者は生物学の古くからの学徒であるが、この近年のDNA解析という万能のツールを手に入れ、嬉々としてあらゆる生物の素性の解析をし、思いもかけないその進化の筋道の話を連載99本で聞かせてくれるのだ。まるで、顕微鏡を買ってもらって、手当たり次第にプレパラートを作製し覗き込んでいる子供みたいに。
というわけでこの本はやさいい啓蒙書で、すべての記事に珍しい生物のイラストも付いていて文句無く楽しい。しかし、知的興奮を誘発するまでには至らないのは、解説があまりに一般啓蒙書的にまとまっていて、学問の興奮を伝える仔細には踏み込んでいないからだろう。だから、読書の順序としてはこの前の黒岩常祥「ミトコンドリアはどこからきたか」とは逆になった感がある。まあ、しかし、サックから取り出し、ぱらぱらと遠くの世界の不思議な魚の生態についての記事を読むのは、気が進まない職場に向かう通勤車内での一瞬の悦楽であることは間違いない。
10年以上も前の処女作を評するのは気がひけるが、著者は既に立派に作家として活動しても活動してるので、私がごときがケチをつけても痛くも痒くもなかろう。で、真っ先に大江健三郎の「死者の奢り」を思い出した。奇妙な仕事の学生バイトもの。抱き合わせに収録されている「迷い旅」は、カンボジア特派員もので、なんとなくひところの開高健のベトナムものを思い出す。何故か他の作家の有名作を思い出させる、一種の青臭さがあるのだ。つまり、この作者の頭の中に「小説」の原型があり、そのイメージに向かってきっちり文学しようとしている、との印象を持ってしまうのだ。なかなか独自の内的な喚起力をもった文体もあるのだが、それも含めてあまりに文学たらしめようという意識が見え透いてしまう。本職はジャーナリストなんだから、乾いてきびきびした文体はお手の物だと思うのだが、なぜかひところのなよなよとした文学青年風の文体で書こうとしている。その辺は「処女作」らしい文学的初々しさともいえるのではあるけれど。あ、すみません。やっぱりこの2作は「若気の至り」なんでしょうね?今度最近の作を読ませていただきますので。はい。
自殺した弟をめぐって警察・女友達・葬儀・遺言等の処理をしながら自分と弟の子供時代や家族のことを回想し、自分も不安定になりながら最後に弟とは違う決着にいたるモノローグ小説。音楽のことが基調にあり、大金持ちのスノッブな家系の(息詰まるような)退廃の気配や自閉症気味の一人称のモノローグと、雑多ではあるけれどそれなりにきっちりと情景を浮き出させる巧妙な会話文が確実にこの男の心理劇を継続させていく。そして最後の控えめな救済の光景。本を閉じて、小説で得られる最良の感動をしばらく反芻する。
このラストは映画「カッコウの巣の上で」で、音楽が一切使われていないモノクロームな画面が最後に控えめな音楽だけで静かに盛り上がる救済の劇を思い出させる。
架空の人生を読者に追体験させてくれる確かな小説の世界が構築されている。作者のほぼ処女作に近い作品とのことで、つい直前に読んだ辺見庸の処女作と比較してしまう。要するに作り事という作為を感じさせない、もうひとつ別の、しかし確実なリアリティのある世界をを読者の脳内に構築できるかどうか、その技術の問題である。そして読者が感応できるかどうかは、作者が架空の舞台上に描こうとしている物語の世界が読者の気質に通じるものでなければ反響することはないだろう。結局は作家は自分と同質の魂に向かって書くわけだし、読者は自分と同じ魂からのメッセージしか受け取れないということだ。こういう一作に稀に出会うために、読者はまた雑多な本を読み漁るのである。
ダーウィンの進化論は生物学上の転回点であったばかりではなく、広く社会思潮に大きな影響を与えた。特に「神」が自分に似せた形で人間を創ったのではなく、「下等」な生命形態から進化してきたという視点の革命性がそれまでのキリスト教世界に与えた衝撃は疑う余地のないことだ。しかし、「進化」という概念自体も新たなカミを創造しただけのような気もする。単純なものが次第に複雑なものに「進化」する。この上昇する矢印を「善」と見なすことが近代の西欧の倫理を支えていた感覚であったといってもいい。時間軸にしたがって文明は「進化」するのである。しかし、これは単に強いものが勝つという強者の論理に我々が支配されているということに他ならない。自分の生存を図るといくことだけが我々の存在理由だったのだろうか?そしていったい我々はこれからどこに行くのだろうか?ドーキンスが「利己的な遺伝子」というとき、人間はすべての主体性を剥奪され、単純なジャングルの論理を実現するための、哀れな乗り物に還元されてしまうような印象を持つ。
この本は、ダーウィンの進化論と創造論者の、ではなくて、このドーキンスの提示する現代のドグマをめぐる攻防の報告である。先ず最初に一人の生物学者の自殺が取り上げられる。当時かなり狂信的なキリスト教徒であったジョージ・プライスは、この生物学の示す「神の不在」と自分の信仰や信念との調停に失敗する。考えてみれば「自殺」は信仰上の罪でもあるが、「利己的な遺伝子」に対する拒否でもある。
著者によればドーキンス自身も、世間で理解されるような、どうしても性悪説を呼び出してしまう「利己的遺伝子」という単純な解釈には抵抗を示していたらしい。しかし、すでに「利己的」という倫理的な価値観を含む言葉が使われ、一人歩きをしてしまっているのは事実である。一方、このドーキンスの主張に対立するのがグールド「一派」である。実は図書館の生物学の一般啓蒙書欄に並んでいるグールドの「8匹の子豚」をはじめとする一連のエッセイを借りようとしてたのだが、その横においてあった一冊本のこの本を借りたという当方の事情がある。このドーキンス派とグールド派の主張を裁定するというのが本書の直接のテーマのである。ま、どちらかというと大向こうのウケ狙いに走りやすいドーキンスを揶揄はしているものの、やはりこの著者はドーキンス派の主張に組しているな、という印象を持つ。遺伝子はなるほど、我々の言葉でいう「利己的」な振る舞いをする。しかし、遺伝子が目的意識を持って利己的に振舞っているわけではない。それに、成功した遺伝子の戦略が必ずしも「複雑化」「高度化」であったというわけではない。単細胞の細菌であるほうが、より成功した遺伝子の戦略といえるのかもしれない。ここでは必ずしも「進化」という言葉が絶対的な価値を持っているのではない。
最新の遺伝子生物学と古典的な「生命とは何か」「生きる意味とはなにか」という基本的な哲学との接点を解釈するのに格好の書である。
ただ、訳文がどうもひっかかる気がする。日本語としてはこなれているのだが、著者の論点がもうひとつはっきりしない文脈が多いと感じてしまう。原文を読んでいないので確信はないが、このようなぼやけた印象を持つときは、訳者がもうひとつ原文の真意を理解していない時に生じがちな現象であると思う。それとも、哲学的分野に踏み込んだ時の、避け得ない翻訳という意味操作の困難がもたらす一般的な現象なんだろうか?
不思議な位置にある小説である。読み始めてすぐ、週刊誌連載風のB級猟奇趣味小説だなと判定したのだが、それにしては妙に真面目なテーマが語られている。なんと、日本の小説にはなじまない「神は居るか」である。もともと我々日本人は基本的には無神論者なので、大真面目に「果たしてこの世を司る神は居るか?」と問われても「ん?」という反応しかないというものである。しかし、何故かこの小説家は大真面目にこのテーマを、小説の基本モチーフとしているのである。ううむ。だからといって存在論に踏み込んだ近代文学同人世代の哲学小説に張り合うわけでもない。この2者の分岐点は、ここではこのテーマを追求するのが目的ではなく、ただ猟奇事件の伏線として、いわば小説的手段としてこの問いを使っているだけだ、ということのようである。この一本調子の大衆小説風文体と、TVの覗き趣味事件報告番組風筋立ては見事なステレオタイプで、それなりに楽しく読めないこともない。しかし、神の不在を告発するという意気込み程には精神の深みが感じられることない。ただ、面白い位置にある小説である、という印象は残りはするんだけど。
緊迫した法廷での鮮やかな逆転劇風の物語を期待していたのだが、これは既にリーガル・サスペンスと分類される分野の小説ではなくなっていた。もちろん、ひとつの裁判が中央に置かれ、その経過が物語を進行させていく縦線になっている。しかし、最早裁判自体は単なる狂言回しの役割に過ぎない。すべてが法廷で争われるアメリカであれば、法廷モノが切り取って見せてくれる世界はこのエネルギッシュな新世界の図面がすべて含まれている遺伝子そのものといってもよい。つまり、社会の一断片であるにしても、そこから再生される世界はアメリカそのものの総体を再現することができるのだ。トゥローは、このような本来象徴的な法廷を、更に望遠鏡、あるいは万華鏡の接眼レンズのような覗き穴として意識的に利用し、重層的な全体小説風の物語を作り上げている。
法廷という舞台で演じる役割、それは判事、弁護士、被告や依頼人であるわけだが、その役割を演じる役者は相互に、離婚した母であり、かつての恋人、共に学生時代をすごした親友、さらには大きく人生を変更させられた原因を作った人物であったりする。更に重層性は時間軸や歴史社会にもおよび、法廷の現在と回想の学生時代、あるいはベトナム戦争に傾斜していく社会や反戦と革命に殉じようとする極左の地下組織のリーダー、黒人であることの逃れようもないハンディをエネルギーに転換するかのような弁護士、町のやくざ組織、収容所から逃れて移民してきたウィーンのユダヤ系の大学教授等、というような豊穣なアメリカ社会の重層性自体が語られていく。そして作者自身の青春やかかわった人々ともおそらくは重なっているのである。1990年代後半に「家族」がアメリカ社会のキーワードになった時期があった。この小説のテーマを3,4組の家族の葛藤を描いたもとと捉えることも可能である。こうした社会そのものを描く全体小説を、法廷というレンズの焦点を介在させることで、一貫したプロットが流れる一本の小説世界としている手法は見事である。モザイク状に配置されている各情景には、トゥロー得意の生き生きとした会話文でそれぞれの陰影が与えられ、くっきりと過去から際立って浮き上がってくる。
主人公達の現在でかたられる子供の世代、過去回想で語られる親の世代、アメリカの現在を成立させている移民と黒人の親達の物語もこの法廷の駆け引きの文脈に絡んでくるとき、この小説には「われらが父たちの掟」というタイトルが与えられていることに気がつくのだ。
サロイヤンはもちろんアルメニヤンのオリジンである。移民の子としてアメリカのど田舎に生まれ、あっけらかんとした筆致でおおらかに過ごした少年時代の数々の点景を書きつづった連作。タイトルにベスト版とあるからには多分抄訳なんだろうが、このくらいの軽さならいくら食べても腹にもたれないというものだ。50年前の作品だが、とぼけたユーモアの味は現代のアメリカの好みを先取りし、もっといえば、アメリカの好みを準備し、作り上げていったとも思える。たとえば、最近読んだスコット・トゥローの小説の中の会話文の基調になっているユーモアの質は、サロイヤンのとぼけ方と同質のものである。だから、この文体は文化自体を生んだのだ。
アルメニア人のような農業移民は、一族で渡来し、そのまま一族でコミュニティを作ってアメリカに土着したようだ。アルメニア語を話し、長老がすべてを決め、ときどきヘンなおじさんが一族から出ても、排除されずおおらかに共生しているような、アメリカの移民社会。このような田舎風コミュニティの記憶も、実は大部分のアメリカ人が共有するものなのかもしれない。
ところで、一見するとこの軽妙な語り口は天性のユーモアの才能の自然な発露と捉えてしまうが、よく読むと、どうしてしたたかな文学的計算が働いているのが見えてくるのだ。冗談はさりげなくいう方が効果がある。自分で笑ってしまっては失格だ。本人は真面目に言ってるのだが、どこかおかしい。その真面目な顔と、力説するナンセンスのミスマッチが笑いをさそうのである。このような効果を読者の頭の中で爆発させるためには、さりげない顔をしつつ、冷静に効果を計算しつくす必要がある。しかし、あまりやりすぎると作為が見え見えの、ただの漫談芸になる。あくまで自然な天然呆け風に抑制できるのが、この作者の持ち味というか。
副題:バイオサイエンスの基礎はいかに築かれたか
未だに私には進化論が確とした信仰にはなっていない。科学は、子供の頃に植えつけられた明快な唯一神であったのだけれど、大人になってみると、天性のペシミズムに世の不条理が呼応し、やたらと懐疑的になる時期があったのだ。流石に地動説を再び転回させようとは思わない。いや、それだって強烈な人間原理(ホーキング)、あるいは自分原理(ita)で覆せば、案外もろくも、もう一回180度なんてことになるかも知れない。まあ、これは、あの科学万能教育があまりにも明晰すぎるので、「うますぎる。騙されんぞ」という批判精神、又は貧乏根性が思わぬ反動を呼び込むのかもしれない。最初にダーウィン理論の批判書を読んだ時、進化論のあまりの脳天気さに遅まきながら呆れ、得心する思いで自分の幸福な幼年時代を葬ったのだ。高校の教室で「個体は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)という概念を教わり、羊水中で太古の宇宙スープの中を漂っている感覚の記憶がぼくの細胞中にしみこんでいて、ときたま度外れた夢想の方へとさまよいだしてしまう自分の正体を見たと思った。「個体発生は系統発生を繰り返す」・・か。なんて確信に満ちた言葉なんだろう。「真理」ってやつは、こうこなくっちゃね!というもんだ。最初に「光あれかし」と言葉を発すると、真の暗闇の中に一条の光がさしこんでくるように、言葉が存在そのものを呼び込むのである。ううむ。最初に「言葉ありき」だね。っと、そうではなくて、ヘッケルは別に斯くも偉大な真理を発言し実現させたのではなくて、単に自分の見たいものを見たと思ったのだ。その結果の言葉があまりにもハマリすぎているので自分でもこれが真実だと思い込んだんだろう。・・かくて、ヘッケルは私の記憶の中では近代の似非科学者と成り下がってしまった。たとえば、進化論の証拠として挙げられる馬の進化例。子犬くらいのものから、大型犬くらい、牛くらいになり最後に現在の首長の立派な馬になる一連の化石を教科書で見せられたりする。しかし、と私の読んだ批判書は言う。その一連の化石は別に親から子へと連綿と続いて来たかのように出土したわけではなく、世界各地でばらばらに採集されているものを、ただ大きさの順番に並べただけに過ぎないのだ。だから、時として時代的には「大」から「小」であったのかもしれない。いわば、その連関には何らの関係もない。それを次第に大きく「進化」してきたと思いたがるのが我々の大きな誤りだ、とかいってたのだ。そういう見方がある、というのは衝撃的だった。そしてそのシニカルな批判の調子は、実は私の好みに合ってたのだ。かくて、ヘッケルは幸福な科学万能精神に酔う前世紀のおめでたい学者サマではなくて、稀代のペテン師並の地位に転がり落ちてしまっていたのだ。
ううむ、永い前置きになった。この本は無論、進化論の批判書ではない。上記のような彷徨えるど素人に、確とした生物学・進化論・遺伝科学の知識を古代から、ギリシャ時代を経て現代に至る科学史を通じて鳥瞰する、まじめな啓蒙書である。アルタミラやラスコーの壁画に描かれた動物に表現される自然観やアリストテレスに発現する観察データから帰納していく科学精神。そしてなんとも奇妙な中世の神学支配の間にアラビア経由でギリシャの理性がやっと西欧に達する。ダーウィン以降は主に遺伝・発生学の分野の科学史になり、メンデルやモーガンの活動を通じ、実験→仮説→検証実験→理論化の方法論が確立していく様が述べられる。最後の話題は細胞分裂に伴う染色体の減数分裂の解明である。原著は1993年の出版だからヒトゲノムも、クローンテクニックも紹介されていない。思えばここ10年でもかなりドラスティックに動いてるんだね。この教授の科学史は、事実の羅列よりも、個々の学者の思考のプロセスを紹介しているところに特色がある。同業の先人に対する深い共感と尊敬がこの本を単なる科学史の概論書以上のものにしているし、読み物として読めるようになっている。人をすぐペテン師だと思ってしまう私なんぞより、よほど善意の人である。たとえばあのヘッケル先生のことを聞いてみよう。
『彼はいま述べたこの種の実例をたくさん知っていた。もし、反復発生の概念を自然がもつ冷酷無情な基本法則というよりも、むしろそうでもなければ説明しがたいなぞめいた発生学的現象を考えるのに役立つものだとして受け入れるなら、これは実践的な道具になる。しかしそのような見方を生かすためには、我々はヘッケルの「個体発生は系統発生を反復する」という提言に少々修正して、「とばかりとも言えない」とか、「ということも時にはある」とつけ加えなくてはならない。』
『ヘッケルは胚が祖先の成体型を反復すると信じていたと多くの人々は主張している。私はそうだとは考えていないが、それは彼のまとめる努力を尊敬しているからかも知れない。』『彼は我々が魚の段階を反復するときに、胸鰭や腹鰭を用いて羊水中を遊泳し、魚のような尾があり、鱗の生えた皮膚で包まれているなどと仄めかしたことはなかった。』
ヘッケルは別に狂信的なマッドサイエンチストではなく、真面目な学徒であったようだ。うむ。ヘッケルに関しては、そのくらいの修正をこの辺でしておくとするか。
思えば、私は教科書に書かれていることを「正しく」、最初から決まっていたように「確定」したものだと無意識的に思い込んでいた。だから、一旦批判精神が発露すると、とことんこき下ろすまでいってしまう。しかし、現実はそんなに「正しく」も「確定」もしていない。細胞分裂のメカニズムを探ることも、「教科書に載っている」程の単純な図のようには観察できないのは、少し考えればわかることだ。透明なミクロの世界で、いったいどうやって染色体の分裂する様子を観察できるというのだ?しかも、切り取って顕微鏡に乗せればもうそこで細胞としては死んでしまうのだから。この本で、実際に染色体を染色する処方だとか、細胞分裂の各段階を「観察」する気の遠くなるような手続きを読むと、果たして結果のエッセンスだけを単純明快に教える教科書で果たしてどんな教育ができるのか?とも思ってしまう。私の抜きがたいペシミズムは、この「教科書的」なうすっぺらい教育の副産物ではなかったか、と思う程度にまで私の精神は蝕まれているのだ。実際には「観察」することはできない。あくまで、インプットとアウトプットをつき合わせ、双方に矛盾しない「こうであろう」という仮説を何回も提示し、それを実証するように実験を繰り返し、最後に「おそらく、こうであろう」という95パーセントの確信ができた時点で、想像図としての細胞分裂の図を描くのである。教科書では綺麗さっぱりこの含蓄が消えてしまっている。細胞分裂を繰り返す過程で、卵は次第に神経を発現させ、目を作っていくのだが、発生初期に卵の半分を取り去っても最後には完全な幼生となるような現象は、考えてみれば不思議なことだ。各細胞には全体を見て、自分がどのような形態となるのがもっとも適切かを判断する精神が宿っているとも?
実際には科学はそんなに「正しく」「確とした」ものではない。科学の先端では、大きくうねって再び太古の超自然的な世界観とつながっているのかもしれない。モーガンと同時期に調整発生とモザイク発生を研究したドリーシュは、『自分の発見が何を意味するのか考え込んでしまい、最後は実験科学を放棄して哲学に没頭するようになってしまった。』のである。
物語とあるが、これは小説ではない。エッセイ集かもしれないし、ひょっとすると画集なのかもしれない。ソビエトの侵攻やタリバンの圧制に蹂躙されてきたアフガニスタンの人々のふとした日常のスケッチである。うっと。そうだ、これはスケッチ集だな。といってしまうにはあまりにも苦しい日常の描写なんだけど。しかし、この著者の普通ではないアフガニスタンへの入れ込み方、入り込み方に敬意は感ずるものの、この形式にはどこか童話集のような非現実的な軽さも感じさせ、戦火の下の緊張感のある時事小説か、生々しいドキュメントかそんなものを期待していた私のような適当読者には中途半端な印象しか浮かんでこないのだ。しかし、今回はゆっくり著者のメッセージを感知する程の余裕が無かった。ユニークな本と著者であると記憶にとどめ、いつか次作にゆきあたるまで批評は保留とする。
なんとも盛りだくさんなトピックスを詰め込んだエンターティンメントである。ヒトゲノム地図に基づいた特定の民族や家系にのみ致死作用がある生物化学兵器の開発をめぐり、暗躍するスパイや国際政治の黒幕を相手に日本人科学者が大活躍、というハリウッド製スパイ映画に格好なプロットで、語り口もそのままシナリオに使えそうなテンポを維持していて小気味よい。快調なスピードを落とすことなく読み進んでいけ、スポーツ的なくらいの爽快な読書感を与えてくれる快著。当方も別のコンテキストで最近気になっていたトピックに「ネアンデルタール人と現生人類の共存期間」の解釈があるが、この小説にも著者による別解があり、「うまく」小説中の伏線に取り込まれていて、その調理のしかたに感心する。今、「うまく」と書いたが、あるいは「強引に」といってもいいかもしれない。そのような雑学的好奇心自体を小説の細部の舞台装置に使い、ハナシの臨場感を高め、娯楽性を加速しているしたたかさが小気味よい。エンターティンメントとしての科学は当方も大好きなのだ。この小説を支えているもうひとつの重要な舞台装置に、例の「ユダヤの世界支配」という現代の神話がある。しがない安サラリーマンである当方は、そのレベルの世間的常識の持ち主で、同時多発テロやイラク戦争とうような国際政治の生々しい事件があると必ず裏でささやかれるユダヤの陰謀説も、まあ面白おかしい記事を捏造する三文ジャーナリズムの眉唾記事とは思っている。しかし、この小説の「悪玉」が企てている世界支配の構想はなかなか魅力的で、もしかして「ユダヤの陰謀」風の怪情報もあながち根のないハナシではないのでは?と庶民的良識をふと揺さぶられるくらい、おいしい話にしあがっている。うむ、いや、ぼくも実をいうと、そのような裏の陰謀を密かに期待し、三文ジャーナリズムを読みたがる健全な庶民的好奇心があり、この小説で世界征服を企てる「悪の黒幕」のような存在にあこがれているのかもしれない。たとえばナチスの誇大妄想的事例を批判する良識の裏で、密かに心の中で自分のナチス的欲望を飼っていたりするわけだ。この小説の「悪の枢機」には奇妙な崇高さが付与されていて、神と悪魔が共存しているかのような人格を造形しているのは魅力的だ、と書けば褒めすぎか。とにかく、存在感がある悪役を造形できれば、その小説は大成功である。いや、たっぷり楽しめましたね。
禄高はわずか120石だが、格式は10石の大名クラスと見なされていた特異な家系の新田岩松家の幕末期の当主、満次郎俊純の伝記小説。といってもこの主人公を描くのに、著者が採用した方法も主人公同様一風変わった語り口を採用している。幕末期のビッグネームとは違い、多分資料の絶対数が少ないという事情があるからだと思うのだが、俊純個人の行状よりも幕末期の世情や地方名家の生活を紹介するような一般的な資料を掲載したりして、特に小説前半はなにやら歴史夜話とでもいった雰囲気がある。たとえば、この名家の主が博識な家宰からいろんな世情に関する帝王教育を受ける場面も延々と続くが、その実は小説家神坂次郎が語る幕末政治こぼれ話であったりする。しかし、この貴種の手になる実際に残っていて表紙等にあしらわれている猫図(新田猫絵というらしい)の飄々とした味わいのように、幕末という時代を悠然と、しかしそれなりに真摯に過ごしていったらしい主人公の性格をゆったりとした筆致で描き、ほのぼのとした印象を与える作である。幕末が明け、いろんな曲折を経て明治政府の大立者・井上馨の舅となり、明治の華族新田男爵として鹿鳴館に登場するに至る主人公の伝記は、華々しい明治維新のビッグネーム達の活躍の影になっていた地味な地方名家の幕末史にわれわれの目を向けさせてくれる、貴重な作といえる。
スケールの大きいエンターティンメント「ステンカラージンの遺産」の著者から自費出版で作製した本を贈呈していただいた。漢字にルビがふってある、年少の読者を想定した本である。正直に言って、まったく前作とはジャンルの違う本で少なからず面食らった。
あとがきによれば、この物語は著者の少年時代の実話にかなり近いということだ。終戦直後の村落の様子から物語が始まり、忘れていた子供時代の抜けるように青かった空の色や、悠然と流れる雲、夏の戸外の草いきれが蘇ってくる。下町の少年であった当方にもそれなりの共感が引き起こされるのは、作者自身の遠い少年時代へのノスタルジーが、われわれが共有する日本の農村の原風景と重なるからだろう。
物語は、作者の分身である少年が、村の異形の者である「こんこちのぶやん」と出会い、当初は子供らしい恐れや差別意識を持つが、次第に心の交流を築いていく過程を描いている。そこには大人の世界の、たとえば戦争というような少年には捉えきれない領域の事情もあるのだが、無理に小賢しく解釈しようとはせず、こだわることのない少年らしい直感に従って行動し、周囲の大人や仲間達にも影響を与えていくのである。現実は、戦争のもたらす悲惨さや異形の者に対するいわれのない差別というような泥沼のような「大問題」を否応無く含んでいる。われわれ大人はことの救いのなさにすくんでしまうのだが、物おじしない少年の感性が変えていくことができる現実もあるのかもしれない。確かに今は、われわれ大人のもたらした現実に子供達がうまく適応できず、奇妙にねじくれてしまっている時代である。大人でいることだってしんどいことだ。しかし、私も少年時代には世界が不思議なきらめきで輝くのを一度くらいは見たことがあったはずだ。そのような、こだわりのない素直な希望が感じられる物語である。
著者は歴史や政治をふまえたハードボイルドタッチの物語を物し、また実社会という修羅場で生きている実業家でもある。その著者が、商業ルート以外の場所でこのような年少の読者に向けた本を書いているのを知って、確かに面食らってしまった。しかし、ひょっとすると、否応無くおとなの世界で生きている著者は、このような現実には失われてしまった遠い昔の物語を書くことで、どこか"おとな"になりきれない心的な部分のバランスを回復しようとしたのかもしれない。
児童向けということで陥りがちな教訓臭を交えることなく、のびのびとした少年の世界が造形されているのだが、それでも少年が出会っていく現実に、うっすらと大人の世界の影が落ちている、というような微妙な表現のかねあいが、なかなか魅力的である。
いよいよローマも先が見え始め、この巻の末尾にはギボンの「ローマ帝国衰亡史」、そのほかの研究の紹介と分析が付く。もちろん読んだことはないが、ギボンの「衰亡史」は、もう何十年も見知った書名である。しかし、今始めてなぜ「衰亡史」なのか、が実感できた気がする。現代のわれわれから見ても驚嘆する合理的精神によって運営されていたローマ帝国が崩壊していくのである。ローマは一日にしてできた訳ではない。それなりの年月が古代の驚くべき世界帝国を作り上げ、そしてつつがなく維持運営されていたのだ。しかし、どんなものにも終りはある。思えばこの「ローマ人の物語」シリーズで、われわれは偉大なローマ帝国の1000年に付き合ってきたのだ。そして、ローマはその誕生よりもその終焉がより不思議でプロブレマチックであると、ここにして実感するのだ。
ローマが広大な帝国を主宰することができた普遍的で根幹を成す政策が、ローマの征服民へもローマ市民権を与えるという融和策であったのは自明であろう。この巻には民族的にはアラブ人であるローマ皇帝までもが出現する。しかし、皮肉なことにこの融和政策そのものがローマの崩壊を準備したことにもなるのだ。一度もローマに足を踏み入れたことのない皇帝達の出現に象徴されるように、融和策はローマが次第にローマでなくなっていくことを助長したのである。そして終にもっともローマ的でないキリスト教を国教とするに至る。と、これは多分次回のテーマになる事項のようだが。
日本人が中国史に親しんだのは「三国志演戯」等の大衆文学の普及に拠るところが多いと思う。塩野のこの労作シリーズは、ローマ版「三国志演戯」の役割を果たすのではないか、としきりと思わせる。
そろそろ終りが始まったローマ帝国であるが、巻末の年表を見ると300年代のイベント下欄に日本史のイベントが併記されている。この時期の日本はただひとこと「弥生時代」と示されているだけである。う〜ん。
江戸時代といえば士農工商の身分が固定した時代で、更に言えば穢多・非人という被差別階級を堅固な封建制のはけ口として為政者が作り出した時代と思っていた。しかし、本当にそうか?とこの差別問題研究者は言う。士農工商という言葉はまったく近年の学校教育が作り出した言葉で、江戸時代の実態とは大きくかけはなられたものであり、被差別階級も中世初期には既に形成されていて、権力はただそれを追認しただけであると言う。以下くわしい時代考証が展開されていき、タブーであるがゆえに返って実態に迫ろうとしなかったわれわれの「常識」に再考を迫る興味深い例示や指摘が続く。もちろん、そうなのだ。差別はただ権力が命じただけで発生するものではないし、また、被差別者が常に自分の不利な身分を歴史を通じて甘受していたわけではない。差別はあったし、今もある。しかし、差別に心から不条理を感じ、是正していこうという動きも常にあったのだ。歴史は決して一言の標語では捉えることのできないダイナミックな人間の活動の総体である。例えば、「エタ」身分の医業に秀でたものが居て、受益者の町民らがその者を「平民」身分にひきあげるよう嘆願書をだすということもあるという。歴史や社会を一言のラベルで分類しこと成れりとすると、いつの間にか実態とはかけ離れた概念が一人歩きしてしまう。これはひょっとすると教科書というフィクションだけを拠り所にし、ラベルの記憶量だけを能力試験としてきた学校教育の欠陥ではないか、とも思わせる。差別を悲しみ、是正しようとする意志がこのような研究のモチベーションであり、その姿勢はさわやかである。
発見したぞ!
すべての物理学を統合する最終真理が!
ではない!さつまいもは太めにスライスしてトースターで15分が正解だ!
それがどうした!
著者の口マネをした訳者あとがきのマネをした書評の切り口!
実態もないのにあれやこれやのカラさわぎ!
戦争も読書も所詮は退屈な人間の遊びだという見事な証明!
結局何も言ってないが、それでも何か言ってる見事なカラさわぎ!
近鉄JR京阪1時間45分の満員電車電車で通勤するアーサー王!
京橋のコクミンで93円のダーツチョコレートを買う湖のラーンスロット!
コツが解れば誰でも参加できる文学的カラさわぎ!
しかし、貴重なのは思いつくという先駆者利益の確保!
おっと、さつまいもが切れた!
気楽に読めるクラシック音楽界の帝王・大指揮者の列伝である。この音を出さない演奏家は、考えてみると不思議な存在である。近代オーケストラの複雑さや、オペラの総合的な舞台のコントロールに対応できなくなり指揮者が発明されたのだが、今のコンサートの指揮者のスタイルが定着するまでには紆余曲折があったのだろう。例えば野球の試合で、投手のすぐ後ろあたりで監督が身振り豊かにリアルタイムで指令をだしている姿とか、あるいはリサイタルの舞台で、バイオリン奏者の目の前で指揮者が「その音はもっと小さく」とか指示している姿だとかを思いうかべてしまう。なまじ音を出さないのに目だったところにいて派手に動いているのでイヤでもめだってしまう。こいつはいったい何者だろうと一度はだれでも考えるのではないだろうか?
ハンス・フォン・ビューローあたりから始まるこの指揮者列伝では、各々の指揮者にまつわる伝説の類が紹介され楽しい読み物であるが、同時に指揮者という職業が確立していく過程にも思いを馳せさせられる。しかし、専門の指揮者が単なる音頭とりではなくて、音楽全体をコントロールする専門家で、楽員を統括する立場にあるという認識は最初から存在していたようである。やはり歴史的には宮廷楽長の後継者として見なされたのではないか。
60歳くらいでやっと一人前になる指揮者の職業人としてのキャリアの長さが、とんでもない意識の連携を生じさせる。例えばカラヤンはCD録音まで行っていて、私の意識では同時代人である。カールベームもテレビで見た。また、ブルーノ・ワルターはレコードでなじんでいる。ベームはリヒャルトシュトラウスの友人だったり、ワルターになると、この人の師匠はグスタフ・マーラーであったりする。このような指揮者によって、直接19世紀とつながっているという感覚を抱くのだ。確かに、指揮者の技量は技術だけではない。この人は偉大な世紀と直接つながっているという思いが独自のオーラーを発生させるのである。
原著は多少ユーモアもあるメリハリのある文体のようである。しかし、この翻訳文にはちょっとひっかかった。今どき珍しい翻訳口調まるだし文が日本語としてのブラッシュアップもされずに放置されている箇所が目立つのである。それはそれで、一定のリズムというか、口調があってそれもひとつの文体といえないことも無いくらいには流れはするのだけれど。
『いかなるものも偶然に委ねられなかった。彼は当時のもっともすぐれた歌手でも1フレーズずつあたらしくやり直した。・・彼の言葉はどんな卓越した歌手にとってすら法だった』まさに堂々たる直訳体である。われわれも翻訳口調には慣れているので、このくらい原文が透けて見える翻訳にしていただくほうが、原著を読んでいるという気分にはなるものの、日本語の感覚としてはムズこそばゆい。この訳者の年代では「コレでよし」と思われているものと思うが、学校ではコレでよくとも出版物となると違いまっせ。ちょっとリライトすれば、ちゃんとした日本語になるのに残念である。
また、「プローベ」という生のドイツ語が山のように出てくる(Probe:「下稽古」)。日本語の文脈にカタカナのまま放置しているのはどういう判断からだろうか?ドイツ文学者で音楽評論家でもある訳者の勝手な我田引水的用法としか見えませんね。標準的クラシック音楽愛好家である私には、普通の日本語の文脈で使用できる用語ではないと思いますが。他にも手抜きをして生のままのカタカナで放置してあるコトバも多い。「コーレペティトア」「
で、先生、もし次に何か訳される時があったら当方にご一報くださいマセ。
見積見本:
本文訳例『いかなるものも偶然に委ねられなかった。彼は当時のもっともすぐれた歌手でも1フレーズずつあたらしくやり直した。・・彼の言葉はどんな卓越した歌手にとってすら法だった』
リライト『何事も偶然にまかしてしまうということはなかった。当時のどんなにすぐれた歌手であったとしても、一フレーズごとにあたらしくやり直させた。どんなに卓越した歌手だったとしても、彼の言葉は法と同じだったのだ。』
13代足利将軍義輝は、塚原ト伝、小泉伊勢守信綱に教えを受けた剣豪でもある。足利将軍家は既に名目上の統領であり、実権は管領家の細川氏や、そのまた家来の三好氏にあった。終には三好長慶が機内大半を支配し、この権力の実権もそのまた配下の松永弾正が握るという正に戦国・下克上の時代的文脈である。将軍義輝は形骸化した将軍家の当主の中にあって珍しく気概のあった将軍であったようで、将軍権威の復権を企てて新興勢力の織田信長と結ぶなどして、松永弾正等の勢力と対抗する。
結論からいえば、信長が担ぐのは義輝の弟足利義昭の代になってからであり、この将軍もまったくの傀儡で、信長に叱責されてうじうじし、最後には秀吉のおとぎ衆あたりにまで成り果ててしまうのである。しかし、これは後の話。信長の台頭してからの時代背景は比較的よく小説・ドラマの題材となるので周知であり、この世間知らずのぼんぼん風義昭将軍のイメージは親しいものだったが、その兄が神がかり的剣豪であったとは実は知らなかったのだ。そういえば、悪役の代名詞としての松永弾正の名があるが、そもそもその悪の誉れは不出世の剣豪将軍義輝を謀殺したことだったのだ。うむ、信長前夜が本当の下克上戦国時代だったんだなぁ。
小説的には、この信長前夜の混沌とした時代背景と史実としての将軍義輝という「実」を、かなり浮ついた、というか、美少女や魁偉な剣士等ちゃらちゃらした「虚」で結んでいく、それなりに痛快なエンターティンメントに仕上がっている。「剣豪」と銘打てば、中国武侠小説風の奇想天外な剣客活劇を期待してしまうが、事実、そのテの場面も適宜配置されているが、なかなかどうして「実」の部分の史的プロットもしっかりしていて、虚実の配置されているバランスが丁度いい。なかなかの実力派である。
主人公足利義輝は志半ばにして、悪弾正の姦計に合い、二条城を襲撃されて討ち果たされてしまう。このときの立ち振る舞いが当代第一の剣豪らしく見事であった、という史的文脈があり、小説的にもこの場面がクライマックスとなって、本格悲劇の味わいも出てくるというものだ。直截的で安直なタイトルに比し、はるかに楽しめる内容だった。
半陰陽者や去勢男性が構成するヒジュラという階層がインドにある。性的に無力であることが返って出産その他に超自然的な力を及ぼすとされ、シャーマンやジプシーのような独異な階層として社会に認知されている。このグループに属する人々の生活のレポートと、インタビューで構成されている本である。しかし、この中心部の記述はいささか退屈で、世界の民族社会の中の「第3の性」を概説した結尾の最終章の記述がその簡明性で本書を引き立たせいる印象である。とりわけ、オーマン、ハイチ、北アフリカ等の諸地域におけるこのような非男女的性の社会的な認知のされ方と、アメリカでの事例であるトラベスティタイト等のグループの認知、さらにはアイデンテティの違いが印象深い。つまり、アメリカ社会では性は2つしかなく、個人のアイデンティティからしても「間違って付与された性」という意識を持つしかない。しかし、多くの非キリスト教世界では「男でも女でもない」とう性が認知され、インドのヒジュラにおけるうように(男でも女でもなく)「自分はヒジュラである」というアイデンティティが可能であるとする。
翻訳者は個人的にも「第3の性」についての思いいれがあるようで、訳者あとがきでヒジュラ達の言葉遣いを「女性語」で統一するという経緯を述べているが、翻訳者の意気込み以前の問題である誤字や不明確な日本語が散見され、推敲が不十分であると思わざるを得ない。それに、当方は語尾を「だわ」とか「・・のよ」とする日本語女性言葉と称する文章語には実態はないと判断している。未だに翻訳文でこのような安直な女性指標を使っている神経にはいらだちを覚える。極論すれば、これは差別意識が成せる用法に他ならない。いい加減に女性のセリフでも「です。」「ます。」と普通に翻訳する意識を持って欲しいものだ。
街角でふと見かけた古い店の濃緑色の重いドアを押し開ける。そうしてこのピアノへの特別な思いを共有している人達と、その特別なピアノ達との物語が始まる。誰だって自分の好きなものについてとめどもなく語り合いたい。相手は自分と同じように好きなのであるが、しかしまったく別の物語を持っているのだから。
私と同様アマチュアのピアニストである著者が、パリのアンティークピアノ再生業者とふと知り合いになる。この古いパリの職人気質の持ち主との邂逅が契機となり、ピアノが生活の中心にあるような人々との交わりをもたらし、著者自身との音楽そのものへのいわば第ニのイニシエーションとなっていく。興味深いピアノにまつわる各エピソードの合間に問わず語り風に挿入される著者自身の子供の時からのピアノへの思い出の中にも、かかわり方はまったく違うのだが、しかし何か私自身と共同する思いがある。そうなんだ、ピアノは私達にとって特別な楽器だったのだ。
読書に刺激を受け、読後2つのことをした。ひとつはピアノの調律。実は私は自分で自分のピアノの調律をするのである。それから、自分自身のピアノにまつわる物語を書きとめておいた。チェリストの西村志保は「チェロは恋人というより、自分の子供と同じなんです。恋人や夫なら別れることもできるけど、子供は一生面倒をみないと。」といっていた。私の場合実をいうと、休日は恋人とよりもピアノと過ごしたい人なのである。
若手のばりばりの研究者達によるヨーロッパ中世史のさわり集。最近の歴史研究の傾向で、具体的で小さな日常生活のトピックに絞った研究が多く、結果として中世生活案内とでも称せるような好読み物になっている。巻等の有光秀行「中世アイリッシュ海風雲録」はまったく系統だった研究もないような、スコットランドとアイルランドの間の海に浮かぶ諸島の変遷史の鳥瞰。ノルウェー王朝とイングランドの王朝双方に朝貢していたりする大陸ヨーロッパ中世とはまったく違う地域に案内され、新鮮でした。徳井淑子「衣服の色と模様が語る中世フランスの感性」は、ブルゴーニュ家のフィリップ善良王の服装や「涙模様」についての考察。この「涙模様」は、そういえば中世的な感性そのものであるかもしれない。今の目からは、なにやらグロテスクにうごめいているように見えるのはスペルマゾイドを連想してしまうからか(笑)
食に注目した池上俊一「フォーク誕生の秘密」では、ルイ16世あたりまでフランスの宮廷では手で食事をしていたらしい、とか。佐久間弘展「職人兄弟団」のドイツの徒弟組合の成立にことよせて、中世後期の人々は共同体の中で生きることが普通だった、というような述懐から、現在にも連綿とつづくヨーロッパの結社の伝統を感じたり、とか。前川久美子「写本絵画の物語叙述とコンテクスト」では、写本の挿絵サイクル(場面の時間的経過の表現)のクロニカルな変遷を分析することによって、12、13世紀には「現代人のものに近い時間意識が現れたことが暗示」されていると示唆しているのが印象的だ。逆に、ぼくはもちろん現代的な均一に流れる時間意識に拠らない、古代の人々の意識を自分の脳髄の中で再現しようとしてしまうのである。
スペースオペラの巨匠ハミルトンの短編集。実をいうと、キャプテンフューチャーシリーズは読んだことがない。私はスターウォーズ風活劇よりも2001スペースオデッセイのような思考実験もしくは実験的発想による刺激の方が好きなのだ。しかし、この巨匠の短編集はなかなか鋭い、皮肉なファンタジーが編まれていて十分楽しめた。それどころか、私自身に永年巣くっていた妄想や狂想に抵触するような状況が提示されていたして、忘れがたい作品もある。ひとつは生きたまま閉所に閉じ込められる恐怖(「帰ってきた男」)、もうひとつは、この世は罰として落とされて来た、なじみのない乱雑な世界であるという観念である。(「追放者」)例に上げた作品に限らず、皮肉なひねりが利いたいかにも短編小説らいしい作品がそろっている。また、風の形をした生命「風の子供」、自由に飛翔できる翼を持って生まれた少年「翼を持つ男」、あるいは、圧倒的に強大な生命力を持つ存在「太陽の炎」というような作品に描かれている魅惑的な存在形態への模索は、この作家に内在する、もうひとつ別の存在様式への憧れが透けて見えてくる。この辺の発想にも妙に親近感を覚える。当方の自己嫌悪と世俗の塵芥にまみれたこの「自分」から脱却したい、という密かな願望とどこかで通じているのだ。
パレスチナテロリストの暗躍する時代のレバノン駐在CIAの工作員とパレスチナ系エージェントやハタファのコラボレーターとの関わりを描いたスパイ小説。しかし、007の派手さはなく、この世界の特異な人間関係を描くことが主眼の地味な小説である。国際関係に暗躍するスパイの活劇を期待して開いた当方には読み進むのに忍耐を強いられたページが続いた。いつ鮮やかなドデン返しの派手な大活躍がはじまるんだろうか?ミュンヘンオリンピック会場でのテロ事件を初め、現実の国際ニュースの方がよほど劇的な時代背景だったのだ。しかし、現実のCIAの活動は、この小説で描かれているような地味な情報収集が主なのだろう。現地エージェントとの信頼関係を築こうとする主人公、チャンピオン・アメリカに憧れつつも、自分の信義に忠実であろうとする現地の協力者達。微妙な心理小説という側面が次第にテーマであると解ってくる。挿話として語られる、イスラエルの情報員がダマスクスに潜入し、協力者とコンタクトする場面が秀逸だった。ユダヤ人ということが発覚すれば、必ず課せられる拷問への恐れと遂行しなければならない「仕事」の板ばさみになって行動する時の神経の描写は見事で、どんな架空のスパイ小説よりも臨場感が感じられた出来だった。最後の翻訳者らしからぬ自己が全面にでている訳者あとがきでは、作者は中東に駐在していたジャーナリストで、この小説中の主人公達が実際のモデルに立脚していることを示唆される。これはスパイ小説ではなくて、ドキュメンタリーにかなり近い小説だったのだ。決して楽しい読み物ではないが、ある種の感慨が読後に持続する小説である。
読書中2004.11.11 PLO議長アラファト入院滞在中のパリで死去。
中国時代活劇恋愛小説というふれこみである。中国時代小説というジャンルでは圧倒的に史実の脚色ものが多かったのだが、舞台だけを借りて自前のストーリを展開するパターンは希少といえるだろう。日本の作家でないなら金庸の武侠小説を思い出すところだ。もの珍しさに期待して読み始めたが、しかし、悲しいかなこれがまったく面白くない。先ず、中国モノの楽しみである漢字表現の魅力が薄い。なるほど人物や地名等は漢字表記であるが、事象や心理を完結に表現した漢字の凝縮した美しさは見られない。この作者がどの部分をして中国時代小説の魅力と捉えているのか、どうやら当方とは相違しているらしい。宮城谷昌光の中国ものなら、先ずこの漢語表現の魅力が第一に来る。中国古典の言い回しを日本語の文脈で再構成する新鮮なコトバの冒険の楽しみがあったのだ。
一方、金庸小説風の奇想天外な荒唐無稽を楽しむには、筋立てがあまりにも常識的過ぎる。もちろん、金庸小説もワンパターンなんだけど、ど外れた奇想天外さについ載せられてしまう。
残念ながらこの作者の中国モノは舞台装置の借景だけで、古典の情緒に欠け、ストーリの奇抜さもない。司馬遼太郎の作に触発されてこの分野の執筆を始めた、と作者紹介にあるが、当方とは中国モノの楽しみ方がかなり違っていたようだ。
副題「神経科医が明かす脳の不思議な働き」。よくわかるタイトルだけど、原題の "Defending the cavewoman - And other tales of evolutionary Neurology" が暗示している進化論の含みがない。邦題は脳神経科の患者の奇想天外な症例の見世物的発想だけど、原題はむしろ、そういった症例を通じて明らかになる人間の進化への考察が主眼である。
ツルゲーネフやシュティフター、森鴎外の昔から筆の立つ医者は多かったし、今でもベストセラー著者の養老孟司氏を始め枚挙にいとまがない。この本の著者もおそれいった筆力の持ち主である。完全にエンターティンメントとしての文章をものにし、それでいて実際の患者の奇妙な症例を材料に先端の発達神経学の成果を直に読者に示してくれるという、実も花もある内容。短編小説なみの起承転結の妙が味わえる。
しかし、忘れないウチに著者の進化論上の提唱をメモしておこう。
先ず2足歩行がある、とする。結果、自由になった手で『道具をつくる』、ではなくて「子供を抱く」というのが、進化論上の著者の立場である。これが言語能力を育む。
また、2足歩行で扁平になった骨盤が、比較的小さい頭(脳)で生まれ、あとで10倍に育つ人間の子供の幼若化脳方式を促した。そして、この未成熟な脳が母親に抱かれて、以降の長い生育期を言語の習得に励むのである。言語能力自体は本来の脳にもとからビルトインされていた能力ではなく、「スパンドレル」(J.グールド用語)である。つまり、違う目的で作られていた機能の後天的な転用である。この後天的な脳の活用法のチャネルは12歳ころまで形成が可能である。だから、人類の進化の担い手は女性であった、というのが原題の由来というわけだ。ちなみに、2足歩行で両手が自由になったら道具の使用が必然的に始まるというのが誤りなのは、カンガルーが未だに何の道具も使用していないのが証拠であるとも、冗談交じりで言うのである。
本文に登場する患者達は主に後天的に形成された言語チャネルに異常をきたした症例が多く、モザイク状に機能が分担されている脳の奇妙な性格が浮かび上がってくる。失語症でも音楽による自己表現は出来る指揮者とか、左→右読みの英語を理解することが出来ない症状の英文学教授が、右→左タイプのヘブライ語を習得すると再び読書が可能になったというような症例が興味を掻き立てる。
もう一度著者の主張を繰り返す。2足歩行→言語習得。以上。
寒くなってくると、そろそろシーズンですね。忠臣蔵。最近では第九にかなり押されているけど、なんせ12月14日というのが私の公式誕生日なもんで。他に、この日は石川五右衛門が釜茹になった日だということをガキのころから教えられてきましたね。
さて、ほどよいひねりが身上の作家清水義範氏の忠臣蔵。まあ、この国民的物語はあらゆるバージョンが出尽くしていて、「女達の忠臣蔵」だとか「反忠臣蔵」だとか、もうネタはのこってないと思ってたら、そうかこの手があったのか!さすがですね、「アラブから見た十字軍」かぁ。「鬼からみた桃太郎帝国主義の侵略」とか、「好色7爺とニンフォマニア・シンデレラ」とか、あ、当方がすっかり清水義範してしまったが、しかしこの小説はパロディではありません。はい。
温厚な趣味人で、モノが分かった老人である吉良上野介が粗野でケチで短気な浅野内匠頭の逆恨みを買って負傷する。将軍綱吉は吉良を良しとし、沙汰なしとしたが、この間に庶民の間に一人歩きをしだした吉良悪人説を無視できず、一年後には吉良の側の非を認めてしまう。とんだ災難にかかずりあってしまった吉良上野介の立場を同情と共感をこめて物語る。今でも忠臣蔵では「義」によるあだ討ちという理解しがたい価値観が行われていて、それが正義ということになっている。まして時は元禄、生類憐れみの令等ですこぶる評判のよくなかった為政者への不満で、娯楽に飢えていた大衆はスケープゴートとしての一大あだ討ちイベントを必要としていたのだ。この辺のばかばかしいが、恐ろしい世論の暴力を清水は指摘する。読了するころにはすっかり粗野で傲慢な浅野像と、無責任な将軍や世論の指示をバックに、陰険な殺戮を慣行する47士の像が出来上がってしまうのだ。いや、まてよ。大石や47士も同様、無責任な世論の犠牲者であったのではないか? 彼等にも「討って大義を果たせ!」とのプレッシャーが毎日かけられていたのではなかったか?そうだとすれば、結局吉良も浅野旧臣も双方とも、どうしょうもない世評という圧倒的暴力装置の犠牲者だったのではないか? 忠臣蔵というものはかなりコワイ話なのである。
生物学の書棚にあったが、内容はどちらかというとHow toものに近い。というよりは、ドーキンスのいう利己的遺伝子、つまりは本能の誘惑をいかにして回避するか、という実用書である。先端の(最先端とはもう言えないだろなぁ)学問的成果を実生活に適用するというスタイルは、ありそうでなかったように思う。形而上・形而下双方の需要にこたえてくれる本を目指したのだろうけど、実をいえば、純科学啓蒙書ほどの知的興奮もなく、How toものの実利主義ほどの実用性もない。ただし、最後まで退屈はしなかったので、まあまあな出来ということになろう。
人類は数十万年かかって、効率よく生きるための遺伝的策略を遺伝子に積み込んできたが、ここ100年の生活環境の激変で遺伝子のドクトリンが効率よく機能しなくなった。例えば、食物を腹いっぱい食べたいという欲求は、狩猟生活をしていたが、冷蔵庫がなかった祖先の時代であればうまく生き延びるための知恵であった。しかし、現代ではこの遺伝子の命令をすなおに実行すれば肥満となり、あらゆる悪しき副効果を招く。この融通の利かない遺伝子をいかに欺くか、その方法がいろいろと紹介されている。パーティに行く前は、事前に食事をして行くこと。それが豪華な料理を過食しない方法である。云々。しかし、これだけのことを言うのに、遺伝子云々を持ち出すこともあるまい、という気はしますねぇ。
今から30年前のアメリカ研究留学、そして助教授のポストを得ての貴重な滞米記。すでにジャンボジェット機は飛んでいたとして、30年前のアメリカと現在とでは遠さが違う。そして外国で研究生活を送るということの、晴れがましく特権的なステイタスはまだ十分健在であっただろう。私がフランスで暮らしたのは20年前だったが、もちろん萩原朔太郎が憧れ、ユトリロが飲んだくれ、サルトルがカフェでボーボワールと談笑しているパリはもう無かった。しかし、かすかにヨーロッパの過去の栄光の晴れがましさの片鱗は嗅ぎ取ろうとすればなんとか残っていた気はする。
作者は20台後半でミシガン大学の研究者として渡米、その後コロラド大の助教授のポストを得、好奇心に満ちたアメリカ生活を活写している。当方はアメリカと称する文化に対してジャズ以外は興味のない人間であるけれど、ミシガンやコロラドという響きには不思議な郷愁を抱くことがある。それはそれで、膨大なアメリカ文化から来る情報にまみれて過ごしてきたのだから。ちなみに、当方が「アメリカ」に一番接近したのはマイクロソフトのフライトシュミレーターV4で飛んでいた数年だったろう。シアトルのボーイングフィールドや、シカゴ・オヘア空港周辺、サンフランシスコからアルカトラス島を越えてオークランドへ行ったり、5大湖周辺やナイヤガラを遊覧したり。それにニューヨークの貿易センタービルのツインタワーの間を抜けるフライトも定番だった。そういう意味では9・15の衝撃は当方にもあったのだ。
この若き数学者は楽天的で、慣習にとらわれず自己の感性のまま行動できるエネルギーの持ち主である。この人にはアメリカが合っている。最初、寒いミシガンの冬に痛めつけれられて欝めいた停滞に陥るが、次第に人との出会いを契機とし、アメリカ社会に入り込んでいく。この人のものおじしない、非権威主義の姿勢はアメリカ社会の最もよき部分と共鳴する様子である。さわやかな大学の青春とさわやかな部分のアメリカが生きのいい文章でつづられ、快適な読み物になっている。また、物量主義的論文がものをいうアメリカ風アカデミズムの実態も活写されていて興味深い。
記憶にもなまなましい実際の事件を素材にした巧妙なフィクション。日本製で、日本を舞台にした本格スパイ小説というのは記憶にない。CIAや007を擁するイギリス情報部等と比べれば日本のスパイ諸氏はあまりに無名というべきか。かのリヒャルト・ゾルゲさんもにしても、出自はあちらの方である。この小説では「K国」からの潜入スパイが活躍する。うん、「K国」のスパイならかなり派手に工作するだろう。要人の暗殺とか飛行機のハイジャックとか。前韓国大統領の金大中氏が日本から簡単に国境を越えて拉致するお手並みも見せ付けられた。この小説では、最近の拉致問題や警察庁長官狙撃事件の背景と、日本の政治や警察官僚組織の内部事情を組み合わせ、サービスたっぷりなエンターティンメントに仕上げている。なかなかのスピード感のある展開で、久しぶりに通勤読書の枠を超え家で読みふけった。
小説的には主人公格の女性刑事の造形がウソくさくて書き込みが足りない印象を受けるが、素材の生きがいいので細部のつめの甘さはかすんでしまう。そうか、オウム真理教事件とか拉致事件とか結構日本でもジャーナリスティックな事件は頻発しているのだ。全体をまとめて構想できる力量さえあれば、派手なノンストップアクションにアレンジできるだろう。この作者のお手並みはあざやかである。
いかにもイギリス的な知的遊戯というべきか。1930に発表されたこの小説は伝説的なSFの古典であるらしい。人類の未来を20億年にわたって構想するという、壮大な思念の書であるが、評価するのは難しい。ひとつは時代の制約がある。例えば人類が月に達するのは、今から何千万年も後のことだし、遺伝子という概念もなく進化を論ずることに科学的な根拠を探すのもむなしいことだ。これはシュペングラー「西欧の没落」のような純粋に歴史・社会学的な思考の産物といえよう。だから、社会が安定した一種の理想状態に入ったとすると、それが実に何百万年も続いたりする。これは現在の変革の時代を見ているわれわれにとっては、まったくの手抜き且つ想像力の貧困であると感じる以外にはない。また、人類は種として変化をしつつ20億年も存続するのだが、人類の進化の各フェーズが「現代」的状況になると停滞し、そして凋落する。病原菌によって絶滅したり、退廃・退行して「原始」状態にもどったりする。そのたびに狩猟社会から神権政治、帝国主義的状態、そしてどことなく民主主義的なイメージがある理想的な社会になるという類型を繰り返す。結局、何十億年先になろうと、想像力のパターンはこのわれわれの「現在」を超越することはないのだ。どうやら、ステープルドンの思考の中では、個人のエゴを超克した人類が、種としての目的意識を共有するという状態が究極の社会であり、それ以上の、あるいは以外の可能性はない、という社会的理想主義から脱却することはないのである。
もっとも、哲学者ステープルドンにとって、想像力を飛翔させ、意識を活性化させる文学的遊びはもとから創作の目的ではない。実際の人間の社会がどのようなカタチを取り得るかという社会的思考実験がテーマであるなら、まったくわれわれの類型とは違った存在を仮定した時点で、現実の社会への批判や問題意識との接点を失い、それ以上思考を続けていく意味がないとしたのではないか?ステープルドン本人は創成期のアメリカの荒唐無稽なSF作品と同一視されるのを嫌ったという。確かに、真摯な学者のような姿勢がこの長編を貫いているのは事実である。しかし、70年経った今われわれがこの作品から読み取ることが出来るのは、1930年という時代の精神に人類の未来はどのように想像されたのか、という興味であり、もしくはもっと単純に、自分の空想にのめりこむ膨大なミクロコスモスの狂気じみた活動への感嘆である。とりあえずは「奇書」と呼ぶことで、この作品への敬意を表しておくこととしておく。