正月休みに読もうと思い、年末から読み始めたが、結局2週間も付き合うことになってしまった。長編も多い司馬遼太郎の著作のなかでも質量ともに記念碑的な作品である。
伊予出身の秋山古好(最終階級陸軍大将)・真之(同海軍中将)兄弟の半生を通じ、日清戦争、日露戦争という近代史上のイベントを描いた物語であるが、明治維新から出発し、手本とした西欧型の国家を作り上げるという事業を、日露戦争戦勝というクライマックスで迎えた日本を主人公にした全体小説という構造になっているといってもいい。特に前半部における第三の主人公として配されている秋山真之の親友の正岡子規の青春をたどるという側線も、明治という国家的な気分を描く大きなポイントになっている。日本の歴史を通じ「このくにのかたち」を考察してきた司馬遼太郎にとって、この明治期の日本はある意味で、一方の完成したカタチと見ているのではないか、と思わせる。要所に配置された、この期に輩出する綺羅星のような政治家・軍人・文人の魅惑的な個性の素描もさることながら、例えばロシア・バルチック艦隊を最初に発見し、八重ガ島本島の郵便局に15時間小船を漕いで通報しにいく沖縄の一漁民の逸話も実名入りのジャーナリスティックな取材記事風に入っていたりする。ついでながら、その英雄的行為をした庶民たちが、行為が報酬や名誉目的ではなく、「義務」という意識で行われ、かつ、「これは国家機密である」と地方官吏に言われたことを頑なに遵守し、日露戦争終結後29年間も自分たちがバルチック艦隊を発見通報したということを、その妻にさえも口外せずにいた、という事実を感動的に述べている。司馬の鳥瞰するところでは、清国、ロシアという専制主義国家の庶民にくらべ、自分がその一員である国家意識が健全なカタチで明治期の日本人ひとりひとりにあり、その差が戦勝という結果となった部分も確かにあるのである。秋山兄弟を筆頭とする主導的軍人も、一方では侍文化を踏襲し、もう一方で西欧型の合理的な教育を受けた精神が、組織・国家の為にほとんど無私といってもいいような努力を払い、それが自己の存在価値と同定できるような精神構造をもっていた稀有の時代であるとでもいいたいような筆致である。また、戦争史上でも日露戦争は貴族・侍意識が残っていた最後の会戦であり、興味深い戦中の挿話が紹介されている。203高地の攻防では、双方の戦死者の回収のため停戦日が定期的に設けられていて、あるとき日本軍の将官が同じように回収作業の指揮をしているロシア軍の将官を見つけて会釈すると、相手は手持ちのお菓子を贈ってきたという話や、日本海会戦では沈没者を救助している艦船へは、戦闘中も一弾も発砲しなかったという記載もある。この作品の圧巻は、陸軍の旅順攻略戦や日本海会戦の克明な資料への取材のがうかがえる仔細で膨大な戦闘の経過の記録で、まざまざと戦争の実際を再現してみせる。この舞台装置は重層的で、当時の国際情勢、ロシア側の宮廷や軍の実情、戦略や戦術の考察から、指揮官や一兵卒にいたるまでの各スケールに渡っている。個人名を同定した従軍記者なみのジャーナリスティックな文章は司馬遼太郎の独断場とも言えるだろう。戦争という極限状態の事実の再現という意味では、この作品は単なる文学的価値(単なるとは、どういう意味かは不問にして)を超えた普遍的な意義を持っていると思える。そして、この時代の戦争が、大量殺戮の時代に入った近代戦とはいえ、まだ人間的な要素を多分に残していたということが、書き手と読み手の精神を陰惨なものに陥らせないで、何か感動的な高揚を持続させている大きな要素である。小国日本は、国際社会に認知されようと必死で国際法を遵守し、捕虜の待遇にも気を配っていたのだ。陰惨な犠牲者の描写の次に、次のようなロシア側の捕虜の証言が紹介されている。「日本の水兵たちはニコニコしながら対応してくれ、全員にタバコ一袋がくばられ、食事はコンビーフと白パンだった。復讐されることを覚悟していたロシア兵たちはこういう待遇をうけるということをたれ一人予想していなかったという。」
この時代の日本の指導者は総じて国家の運営を義務意識とその実直で合理的な遂行に心していたのだ。それは、暗に陽に、その後の日本のたどって行った方向、自分の保身と美辞麗句の尊大な民族的精神主義への傾斜への嫌悪を表明しているのである。
ところで、この時点より百年近くも経過した私の現在も、あいかわらず日露戦争以降日本が陥った悪しき精神主義の影響が色濃く残っているのを実感し、うんざりする日常である。うむ。この辺を仔細すれば即、私の糧食が断たれてしまうので、名指しで事実を語ることはできない。この歳で新入社員をやっている私の立場を察して欲しい。多分、司馬遼太郎、あるいはもっと一般に何らかの人なり時代なりを情熱をもって描いている者の文章は、表の意味の何倍かの分量の、現に自分が遭遇している世界への無言の批判が裏側から支えていると読み取る必要があるのである。
優柔不断術とは日本が世界に先駆けて実践している地球規模の人類保全のための玄妙な思考と行動の体系である。この精妙な理論の真髄は古代日本が地上500キロメーターに打ち上げた上位決定機構が地上の個人すべての最終決断を代行するシステムにある。そして通常、この機構は決断を代行するが、決して決断内容を転送してくることはない。すべての決断を棚上げして永遠に地球の上空にとどまり、重大な決断をひきのばしたまま、永遠の時間の中でうやむやにしてくれるのである。というような先見的な宇宙論にまつわる芥川賞の大作家赤瀬川がかかわる日常の諸現象について、微細でどうでもいいような問題を真摯に考究する求道の書。この書では、若き日に世に名をあげた偽千円事件の顛末を、もう時効でどうでもいいじゃないか、とばかり赤裸々な真実を告白しているのも老人的な節度のなさで小気味よい。最近の新一万円札デザインにともなう偽札事件にかんがみてタイムリーな読書であった。この偽千円事件も、想起できる世代は少なかろう。それにしても元気だね、この老人は。
7編の切れ味するどい短編集。ハイジャックやボスニア戦争の残虐刑の執行のような生々しい素材を、食欲をそそるスパイスを効かせた一品揃いである。最初の一文から読者の興味をそらさない包丁さばきは見事で、これぞ短編というような仕上げである。別にとりわけ主義主張はないが、饒舌な長編が多い英語圏の作品の中でひときわの光彩を放っているといえよう。(うーん、しかし、時間がないとはいえ、なんちゅう気恥ずかしい紋切り型の書評になっちゃったことか。)
一般向け科学啓蒙エッセイのジャンルでは老舗のシリーズ、世界各国語で出版されている。同シリーズでは初期の「フラミンゴの微笑」のフランス語版"Le sourire du flamant rose - Reflexions sur l'histoire naturelle" Stephen Jay Gould, Editions du Seuil 1988)が当方の手元にある。アメリカ自然科学博物館発行の機関紙上で1974年からずーっと連載されている一般向けのエッセイをまとめた単行本の第7集目ということになる。内容は著者の専門の古生物学分野での話題で、絶滅した貝類や奇妙な形に進化した動物の話題といった興味をそそる一般啓蒙書である。「フラミンゴの微笑」でも、不思議な生物の挿画入りで読者の好奇心を掻き立てる造本だったが、この巻では鮮やかな緑色で、映画「ジュラシックパーク」から引っ越してきたばかりというダイナソーが表紙を飾り楽しげな雰囲気を盛り上げる。事実、「ジュラシックパーク」の評もエッセイに入っている。ただし、かなり辛口の評である。ここで面白いのは古生物に関する専門家としての時代考証的な評価ではなくて、原作の哲学が映画化に際して大衆向けに改変されていることへの批判が主である。著者によれば、ハリウッド映画には「フランケンシュタイン」物以来の「自然を改変すべからず」という安直な製作上のモラルがあり、今回のジュラシックパーク映画化にも連綿とそのステレオタイプが続いているとのことである。このエッセイが象徴しているように、実際の古生物の話題よりも、ダーウィン、フィッシャー、ラマルクといった学者や、あるいはベートーベンのパトロンだったラズモフスキーのような人物の話題が多くなっている。どう考えてみてもネタ切れ状態で、何とかして強引にエッセイを博物学的にしようと四苦八苦している印象をぬぐえないのが事実である。たしかに、筆の立つ学者ではあるけど、すこし文学趣味が鼻につきすぎるとも思える。思いもかけない切り口からエッセイをはじめるというスタイルも、レトリックがあからさまに見えすぎて面白くはない。エッセイの最後を古典からの引用句でまとめるのもちょっと臭すぎるきらいがある。もっとも、当方が古生物・進化論に興味を絞って読もうとするのが狭量で、著者と同じようにエリザベス朝の高踏詩のもじりを楽しむというくらいの文学的遊びに徹すればいいのかもしれない。でもなぁ、そこまでゆくとちょっとしんどいよ。ただし、ナチスによる優生学解釈の欺瞞や、大学者(フィッシャー)の定評のある書物に根拠なく掲載されている無意識の時代の差別意識等を真正面からの批判を取り上げるという、真摯な逸脱もあるので「面白おかしい生物学のお話」だけを目当てにしている当方のような読者は、多少エリを正させられるという面もあるのだけれど。
付け加える。著者も人間が頂点であるような直線的な方向性をを内包する、古典的な「進化」という概念を揶揄したりする。固体の数からいえばこの地球を支配しているものはヴィールスや単細胞生物に他ならないのである。そして、何億年経っていようと彼らは別に「進化」して人間に至ろうとするわけではない。単細胞のままで安定した生涯をすごすことを選択しているといえる。と、言われてみれば、いつの間にか当方にも具にもつかない「進化」意識があったのに逆に気がつく。そうだねぇ。もし、出来るなら私といたしましては、これから「単細胞」へと進化していきたい。複雑なものがいつもより良いとは限らないのだ。たとえば、ある国が経済的成長を拒否し、低所得だが自給自足ができるくらいの少人数で運営していこうと決めてもいいではないか。「後進国」の呼称は差別的だとして廃止し「発展途上国」となったが、何も差別意識は何も変わっていない。相変わらず人々は複雑化・高生産化、つまり物質的豊穣に向かうものだ、との意識がこの呼称を生む。金しかないのか?国や人の成熟を量るものさしは?
一応推理小説仕立てであるが、密室のトリックに私はとんと興味がない。この小説の魅力は、なんとも懐かしい「暗い青春」の雰囲気である。昔、当方がまだ若かった頃は巷に文学青年があふれていたような気がする。で、そいつらは青白い顔をして屋根裏部屋で、あられもない妄想にふけり、昼間の勤勉な勤労者であることを密かに拒否し、そのことが自分が文学的、あるいは芸術的な人生の真摯な実践者であると思うのだ。
今から思うと、これは「健康な暗さ」であった気がする。思春期に生き悩むのは当然のことではないか?自分の遺伝子や育った環境によって形成されてきた志向・性格が初めて強固な社会と摩擦し始める時期である。このような「暗い青春」は大人になるための必然的な通過儀礼という見方をしてもいいのだ。反対に、画一化された吉本興業製のギャグを連発しながら、ほとんど同質の精神構造を持った「仲間社会」にすんなり溶け込んでいくような若い世代を見ていると、彼らの絶えざる冗談の応酬が「不健康な明るさ」に見えてしかたがない。一人で沈思することはなく、絶えず「自分は仲間である」という信号を発しながら集団の中に紛れ込もうとしているのだ。
この小説の場合は自分の創作力の源泉を追求し、世俗的には成功しているとは言えない、画家仲間のお話である。自己顕示欲や嫉妬というような創造者の持つ必然的な属性と、世俗の社会との折り合いをなんとかつけつつ、このような性格の者たちは永遠に終わることのない通過儀礼の渦中で生き悩むのだ。とにかく、最近、このような懐かしい「暗い青春」ものに当ったことがない。昭和30年代にはやった「破滅型」の文学者の私小説風の雰囲気を想起させてくれるのだ。個人的にはその気分を懐かしみつつ読んだ。
どうやら、この物語の舞台は東京ではなく、新潟であるらしい。どうりで、というと失礼かもしれない。今の東京ではもう、このような青春は見つからないと思うよ。
イタリアの静かな田舎の夏の光景が実にさわやかである。物語としてはさして劇的なドラマが進行するわけではない。ずっと昔から続いてきた、典型的なイタリアの農村に、アメリカにわたった村の若者が18年ぶりで帰ってきたことによって引き起こされた、ちょっとした波乱が軽い筆致で語られていく。村の小さな教会の神父が、すべての村人の出生から結婚、葬礼をすべて司り父親のような役割を果たしているような、典型的なイタリアの風景が、すんなりと読者の抱くイメージと重なっていく。小さな波乱が、昔のちょっとしたいまわしい記憶も明るみにだすのだが、そうした小さな不協和音自体も村の歴史に違和感なく組み込まれていくような、イタリアの永遠に続く夏の光景。ユーモアとペーソスが適度にまじりあった文体も、何の抵抗もなくすらすら読めてしまう。
なつかしいイタリアの光景にひたりながら読み終えるのだが、はて、いったいこの小説は何だったのか、と考えてしまう。別に大きなテーマがあるわけでもなく、もとよりそのような肩肘を張って構えるような作品でもない。われわれのイメージに違和感なく入ってきて、しばらく、どうでもいいような話を語って去っていくような本である。いってみれば、毎週1時間完結のたわいもない人情話を繰り返す松竹新喜劇・吉本日曜劇場の類の印象でもある。作者はアメリカの大学演劇科教授。うむ。なるほど。「小説」と思えば何らかの劇的な展開を期待してしまうが、2時間完結のよくできた劇場用戯曲と思えばなんとなく納得する。どうりでイタリアの夏の光景が、あまりにも典型的すぎると思ったよ。アレはイタリアの田舎という言葉が引き起こす、われわれ外国人の共通のイメージなんだなぁ。
日常のすぐ後ろに見え隠れする狂気が現在という時点を象徴している。いや、狂気はいつの時代にもあった。現在で顕著なのは狂気の一般化、大衆化である。ちょっと小説の構造が雑な中編3篇。構造が雑というのは、テーマが読者に認知されたとたんに、小説的な展開が終わり、破綻するか性急な終結になってしまう感じがするからである。短編なら、するどい切れ味、長編なら豊穣な展開、というような作法があるとして、中篇小説というのはどういう技術が必要なのか?すくなくともこの3篇の作品は中途半端な長さというだけの印象しか与えない。ぬいぐるみコレクションの「オタク」大人の話、「引き籠り」殺人事件、ゲームと現実の境界がなくなってしまう少年の話。何か、典型的と形容する他はないような現代風精神の病のコレクションである。
実をいうと当方も、宝くじが当たれば引き籠って死ぬまで自室でゲームをして暮らしたいと切に望んでいる、初老性欝を飼っている。ただ、赤貧洗うが如しヒトなので、イヤイヤ身体に鞭打って早朝から会社という、違和感しか感じない見知らぬ人々の間に、神経をずたずたにされにいくしかない身上なのである。とにかく、正気ではもう生きられない(と、これは実は既に昭和30年代に大江健三郎が叫んだせりふなのだが、)。当方の場合は週一回やってくる休日にショパンのバラードに沈潜することと、このような雑文の中に、密かに毒をたらしこむことで、かろうじて狂気とのバランスを保っているだけなのだ。
冒頭で「現代の狂気」と、思わず気取った見出しからはじめてしまったが、この当方の書評も同じく、テーマが出たとたんに中途半端に終わるのである。
1980年代のSF本格派、つまり「スターワーズ」風未来叙事詩もののエピソード2にあたる作品。人間とイルカが運行している宇宙船の細部、それぞれの性格描写、特にイルカの個性や、奇妙に詩的でそれなりに実在感のあるイルカ語等の小技も楽しめるが、次第に明らかになってくる、この未来宇宙の構造がなかなか秀逸である。人類が謎の種族になっているあたりの興味のつなぎ方も巧妙だ。SF本来の思考実験的な面白さにも事欠かない。なかなかおいしいSF。ひとつ残念なのは、人類よりもはるかに強大な宇宙航行種族達が、相も変わらず中世的封建領主風のどうしょーもない独裁者達であることだ。A.クラークなら決してやらない矮小なステレオタイプ化である。V.ヴォクトの「宇宙船ビーグル号」に出てくるような人間のカリカチュアから脱却した、まったく異なる存在を見せて欲しかった。作品の後半の物語の加速を決起するイルカ同士のチェイス場面は圧巻だった。カーチェイスのパロディとはいえ、水中の死に物狂いの大型海獣の戦闘は今まで目にしたことのないイメージである。考えてみれば、イルカという動物には不思議な憧れを感じることがある。リュック・ベンソンの「Le grand blue」からの放射もある。深い深海で、ゆらゆらと死へと差し招く人魚のようなイルカ。古い映画の主題歌「イルカに乗った少年」。イルカに乗って深い海をさまようイメージは、子供の頃の夢にさかのぼる。そうか、深海は生と死が分岐する無明の領域であり、イルカは母なる案内者なのである。おっと、これはこの作品とは何のかかわりもない。しかし、この作中のイルカも独自の存在感があり、それぞれ個性的な名前で呼ばれている。「クライダイキー」とか「タッカタ=ジム」とか。いつしかその奇異な名称が、物語が進行していくにつれて本当にイルカの名にふさわしいと思えてくる。この人もぼくと同じように、イルカに乗って深海をさまよった少年の夢にひたっていた人なのだ。
自己増殖炉のプルトニュームをめぐるテロを題材としたサスペンス。作者は実際に原子力発電に関する研究者で、やたらと詳しい発電所システムの講義もある。最初、文体が平板な解説的要約口調だったので、うっ、しまった、間違えたか(^^;と思ったが、後半からは、堂々のハリウッド張りの国際スパイサスペンスが展開する。警察・ヤクザ組織・ロシア秘密警察・北朝鮮の工作船等が出没し、物量的にも結構満足しますよ。主人公の性格がいまいちぱっとしないが、警察庁の名物刑事(?)やロシアに亡命する学生運動家くずれの科学者等ががんばって物語を支えている。かなりのストーリーテーラーである。ただし、主要人物がすべてT大の同窓ネットワークというのが気に入らない。T大教授と科学技術省原子力発電担当者くらいはT大同窓でもよかろうが、副主人公の警察庁の捜査官、新聞記者、医者、KGBの工作員である美女、山谷の元革命闘士達がことごとくT大同窓というのはちょっとシンドイよ。ところで、この物語の主人公達の性格や行動を規定している背景は、70年代の学生運動とその挫折という設定だ。うん、これは当方と同世代だね。30年前には当方はT大の安田講堂のガラスが破れているのを見に行った、というだけのかかわりしかなかったが(^^;、今から見れば、この青春の挫折感は世代全体の共有感覚になっている感もある。いや、本当はアレは命をかけた青春の馬鹿騒ぎで、みんなどこか、とばっちりで怪我をしているのだ。ときどき、今でもかすかに、あのお祭り騒ぎのざわめきが立ち上り、しがない会社勤めの生活の裏から逆照明を当て、みすぼらしい今の姿をあざわらう。自分の今の姿は絶対に、あのときの自分には見られたくない。こういう時、かろうじて現在をもう一度再生させるイベントを探せば、自殺しかないと思うのだ。
グリシャムにしては最後のひねりが物足りない。それに前々作あたりには明白だった、ホームレスやタバコ訴訟のような社会的問題意識も希薄な作品である。ただ、サスペンスを積み重ねて、次々と読者の目を逸らせず物語を盛り上げていく手法は手馴れたものだ。そして、いつもながらアメリカという国を象徴している法曹社会の断面の活写。ま、それだけでも読む楽しみには十分、それだけ力量のある作家ということだ。
ところでこのアカデミー出版の「超訳」。登録商標だそうである。どこが「超」なのか一向にわからんのだ。確かに、ごつごつした訳ではない、しかし、この種の作品の翻訳で日本語に違和感を感じるようなケースは現在ではないといってよい。それどころか、長編にもかかわらず破綻のない白石朗氏訳の日本語にいつも舌を巻いていたくらいなのだ。しかし、この「超訳」には2点ほど引っかかる。ひとつは「メイアイ・ヘルプユー」と突然のかな書き英語が混じること。どういう意図があるのか判然としない。無意味。二つ目。「子供はいない彼である。」という構文。私の感覚では中年おばさん風のチト気恥ずかしい言い回しである。「ほのぼのとしてすごしている私です」とかね。まさか、その類の臭い表現まで完全に意識してターゲットの日本語感覚にぴたりと照準を当てたのが「超訳」というわけ?しかし、以前にもこの出版社の日本語の感覚を疑ったことがある。→ 今回も同じように、表紙の折り返しに乗っている作者の写真のキャプションに「ジョン・グリシャム氏」とある。あのね、その本の著者名の表示では、常識では敬称は抜くもんだよ。だから別に意識して日本語のレベルを定めているんじゃなくて、地のママじゃないの?ま、それぞれの言語レベルで出版すればいいわけだが、「超訳」とわざわざ気恥ずかしくも表紙に印刷するところなんざ、当方の感覚ではございませんね。言語だけではなく、今回のグリシャムの作品に、するどい社会批評の掘り下げが見られないのは、ひょっとしてこの「超訳」が内容まで中年オバサン向きに程よく骨抜きしているんじゃないの?とそぞろ疑心暗鬼にもなる私なのであった。
のちに加賀前田藩筆頭家老となって存続する本多家の祖政重の関が原前後までの伝記。人物の描写が多少絵に描いたように平板なのが気になったが、長編を遅滞なく読み進ませる構成や、登場するビッグネームの事績を史実と矛盾することなく絡ませる破綻のない創造力が作家としての力量を感じさせる作品である。しかし、なんといってもこの作品の魅力は主人公本多政重の異例な経歴を掘り起こしたことだろう。関が原周辺の人物群像はすでに多くの作家によって語られてきたが、この人の経歴の多彩さには恐れ入った。徳川家康の懐刀本多正信の次男であるが、関が原では大阪方の宇喜田秀家の家臣として参戦し、敗残する。ちなみに、この大阪方の惨めな落ち武者の逃避行の描写は華やかな武辺譚の中で、異彩を放っていて大いに読者の空想を刺激する部分があった。しかし、牢人となった政重にはすぐに買い手がつく。それも2万石、5万石というスケールである。結局前田家に5万石という大名格の給料でリクルートされるのである。
一国一城の主である戦国大名たちよりも、このようないわば雇われサラリーマン武将の方に興味を抱いてしまうのは、自分の境遇に比して親近感を抱くからか。3万石の石田三成が1万五千石も出して雇った島左近や、上杉家の家老のくせに主家よりも高名な直江兼続(この人は一時米沢30万石の給料があった)等。創業者社長の代が終わると、息子がその地位を引き継ぐが、得てして2代目は君臨することが仕事となってしまい、実際に政を司るのは番頭格の家老の采配である。戦国時代であればこの番頭が下克上を果たすのだが、関が原以降はご法度になった。どうしょうもない上司に仕えるしかないサラリーマンの悲哀はこのときあたりから日本史規模でわれわれの習い性となったのである。でもないが、確かに、君臨するのと統治するのでは役割が違うと思う。ただ君臨するだけというのも大事な仕事である。堤家の義明氏は君臨するだけでなく、統治しようとして道をあやまったのだ。清二兄のようにただ名前だけ会長職に就いて、詩でも書いて過ごせばよかったのに。うっと、大きく話がそれてしまった。
とにかく、この人物の経歴は面白く、読後気になって少し調べてしまった。結局この人は6人の主君に仕えているのである。徳川家康・大谷吉継・宇喜田秀家・福島正則・前田利長・上杉景勝(直江兼続の婿養子として)。最後はまた前田家にもどり、結局最後は7万石の高給取りとして68歳の生涯をまっとうするのである。うむ、なんちゅう破格の給料もらってるのか。加賀100万石のような超一流企業の番頭さんなら、並みの一部上場社長さんよりも高給なのである。ちなみに、現在でも金沢には「本多の森」というのがあり、この番頭さんの広大な屋敷跡が存続しているそうである。作品そのものも楽しく読めたが、この人物を掘り起こして小説化した功績は大きい。隆慶一郎の前田慶次郎(一夢庵風流記)に匹敵する業績である。
ミステリーのようなタイトルだが、なんとかロマン風の女性小説の形式を踏襲している風に思える。基本的には洪水にあったフィレンツェの図書館や修道院の書物をボランティアとして修復しに行く29歳の女性の一人称で語られる物語。テーマは一向にはっきりしてこないが、フィレンツェまでの列車内のエピソードや、古書の修復作業の手順の職人仕事の実際等、興味深く読み進むうちに、人生の転機を迎えている主人公の心理の移ろいを語るという大きな主題が各エピソードを統合している小説空間に誘い込まれるシカケである。偶然発見する18世紀の奇書を密かに持ち出して売却する一連のイベントが始まり、修復作業の責任者の初老の博士との恋愛劇も進行しだし、旅行者として訪れた場所との関係性が高まっていく過程は、小説本来の擬似体験の喜びを読者に与える。読む楽しみを十分満喫できる作品である。一種の紀行文としての楽みもあるのかもしれない。
イベントの大事な要素である54歳の博士との恋愛は、常識に反し主人公側の執着はなみなみならないのに、女性側の失恋に終るのである。こういう失恋劇のほの苦い雰囲気もどこか女性小説の作法を踏襲してらっしゃる気もするのであるが、29歳の女性を夢中にさせることの難しさを知っている、同世代の当方としてはちょっと話がうますぎるんではないの?と本筋とは関係のない感慨を抱いたりする。読後訳者による解説で、この作家が大学教授の男性であることを知らされる。ははは、女性小説ではなくて、初老男性用ナントカロマンであったのかもしれないな、と、つかの間の疑似体験を終えて、ほの苦い現実を知らされることになったりもしたのである。
現代日本に満ちている無意味でうるさい拡声器のアナウンスやテープ音に、真っ向から戦いを挑んだドンキホーテ的(当人の言)体当たりの記録である。当方も音に関するうらみつらみと痛みを共有することはこの人の立場と同じである。実際に、この無意味な拡声器音と対峙してみると、その不条理な構造にぶち当たり、どうしても逆上してしまう以外にない状況に陥ってしまう、そういう経験も幾分かは共有している。特に、交通機関の車内放送等に異議を唱えようとすると、抗議した方を「悪者」として切捨ててしまう善意のマジョリティの存在に必ず行き着くのだ。ここからが先が当方には出来ないところだけど、この人の場合自分が少数派であることを自覚しつつ、それでも異議を唱えることを実践し、戦ってらっしゃるのだ。実は、この人の江ノ島海水浴場の拡声器騒音への抗議活動の顛末は、以前拡声器騒音を考える会の機関紙「AMENITY」で読んだことがある。このときはあまりの勇ましい喧嘩腰に、これは当方にはついていけないな、と思ったものだった。今回、まとまってこの人の主張を読んでみると、それなりに直線的な抗議が実を結ぶケースもあるようなので、私のように影でぶつくさいうだけなら、返って著者にどやされそうで恐ろしい。多分著者なら「あなたのような態度がこの風潮を助長している」と叱るに違いない。しかし、中島さん、大学教授のあなたと、しがない高年再就職のサラリーマンの私とでは生活基盤からくる戦略が違っているんですよ。現に今の職場ではラジオがつけっぱなしになっている。で、これは誰かの趣味をみんなに押し付けているものと思っていたら、ラジオをつけて仕事をするというのがこの職場の習慣だったのだ。で、新入社員の私メとすれば、なるべく善意の皆さんを敵に回さず、自分の方を合わせるように情けない妥協をしてしまう以外にない、と自己防衛に入るのです。「誰でもラジオは聞きたい」と、信じて疑わない人たちなんですから。愚にもつかない流行歌・コマーシャルソングを一日中聴かされている、この惨めさは立派な人権の迫害にあたるんですが、なにしろ加害者に自覚がないので、糾弾する側が排除される以外に出口はないという、お決まりの構造になる。自分が糾弾されるストレスよりも自分が傷ついたままの状態の方がまだ耐えられるというか。これが、いかんのですねぇ。哲学の教授が本職の著者は、個人の意見発表を許容しない現代日本の風潮が、この拡声器騒音を垂れ流しを助長している元凶である、というところにまで論を進めているんだから。しかし、私見では、この騒音の不快感は配慮のあるなしで閾値が変わるし、物理的に数値化することができないのが、論理的に解決しようとするときの障害になっていて、すっきりと論理の土俵に乗らない部分があるのがかなり面妖なことになっている。つまりは、心理的側面の影響も大きいのだ。だから、自分がマイノリティであるとい自覚した時点で、出来るかぎりマジョリティとはコンタクトをとらないという自衛をする以外にないのが、マイノリティのマジョリティであろう。この問題にはまた違った切り口もあるようにも思う。日本の社会・文化に帰着させるよりも、マイノリティの権利擁護という問題の立て方の方が実際的であるという気がするのだ。
ナチスムの狂気にはワーグナーのゲルマン神話への陶酔、ヘルダーリンの若々しいドイツへの希望、ゲーテにも見られる意思と科学との結合等々、文学、音楽、美術を包含する芸術至上主義的な志向が基本的な理念に含まれていることに奇妙なこだわりを覚える。というのは、どこかわれわれの心の内側にも密かにそのような狂気を育んでいる場所があるからだろう。元来、我々の心の奥底にある甘美な死への憧れのようなものは、見たくはないが、見ないわけにはいかない場所というものであるのかもしれない。内面の狂気を囲っているだけでは狂気ではない。それを公にし、あまつさえ政治のような社会的な場所に顕在させようという抑制のなさを狂気という。
この物語は狂気と美、性と死、倒錯した性愛が交錯した、「おどろおどろしくも美しい」光景を紡ぎ出そうとする。作者の内なる創造の泉は、この物語のような時と場所を仮設すれば物語れる系統であるようだ。カメロット伝説に通じる廃城、地下のもうひとつ別の王国である塩坑、地上にないカストラートの声を創りだそうとするマッドサイエンティスト、倒錯したアンドロギュノスへの愛。ナチス時代のオーバーザルツブルグを舞台に、魅力的な素材を煮込んだ、いささかごった煮風の味付けで、それなりの風味には仕上がっている。ただし、少々食べ始めがしつこいのと、いかにも風な味付けがわざとらしいのが難点である。ナチスの特殊施設レーベンスボルン内の描写が少々しつこく、登場人物の一人のドイツ人の小説の翻訳として出版するという趣向がわざとらしい。まあ、そのような遊びが、いかにもこれは「おはなし」ですよ、という対面をつくり、内面の狂気を公にしなければならない作家の照れであると見てもよいのだけれど。物語自体は当方には少々しつこかったけれど、虚構の物語に具体的な場所を設定するリアリザシオン能力にかなりの力量を感じる。巻末の独・仏・英・ポにまたがる参考文献は、取材ソースの出自が判明しそれなりに良心的な試みであるが、せっかくの博覧もスペルミスがあったりして興ざめする。結局、日本語訳にたよった取材とわかってしまうのだ。どこがスペルミスであるのかは、当方に直接ご参照ください。当方も一応プロの校正者ですので。早川書房御中。
第一部:確率統計的に自分が特別な存在であるわけはない、という近代的大衆意識の持ち主であるイエス自身による福音書。しかし、印象は希薄である。確たる個性にまで昇華されていない人物像でしかない。
第2部:ローマ的理性で厳格な法による統治を行うピラトによる福音書。この作品の主題がここで明らかになる。人々が口にするイエスの復活というは、ローマ的合理精神からすれば認めることはできない。それがトリックであり、策謀であることをあらゆる角度から推理し、証明しようと試みる。そして数々の真実を仮説し、実証しようとするのだが、最後のところでことごとく否定されてしまう。ひとびとのように「ユダヤの狂気」に身を任せ、簡単に奇跡を認めてしまうことは、ローマ人としての教養が許さない。この理性の男が仮説するそれぞれの解釈が推理小説風サスペンスを盛り上げる。最後にイエスは十字架上では仮死していただけなのだという合理的論拠も、自分の愛する妻その人が実は十字架からイエスをおろした女達の一人であったと告白され、たしかにイエスは死んでいたことが裏づけられ万事窮すとなる。さて、最後にピラトはどう自分の近代的合理主義精神とこの奇蹟との折り合いをつけるのか?
結局、このピラトのジレンマは作者の躓きの石の告白であり、また現代のわれわれがイエスの事績を前に一度は葛藤する通過儀礼であるとも言える。いや、信仰できれば簡単なのだ。しかし、信仰に至るには跳ばねばならない。着地地点も定かでないのに跳ぶことは現代のわれわれには恐ろしくてできない。このイエスという人は、そのわれわれの葛藤をあざ笑うかのように、矛盾に満ちた行動をとり続ける。作者によれば、結局イエスは「事実か、虚構か」というさまざまな解釈が成り立つ可能性を意識的に残しておいたのだ。そしてそれは信仰を強制しないイエスのやさしさであるというのだ。あくまで自分で跳べというわけだ。なるほどなぁ。そうかもしれない。イエスの事例があいまいで矛盾に満ちているからこそ、自分で信仰と対峙しなければならなくなってしまうのだ。このような、悩めるピラト像を提出した作者の着想と創造は、仮説の具象化としての小説の醍醐味でもある。しかし、本当はこの書物は「作者よる福音書」であるというべきなのではないだろうか。
(再読: わざと前回の書評を読まずに書いた。 結果ほとんど前回と同じことを書いている。文章自体は昔の方が引き締まっている。最近腹が出てきた。イヤだな。)
新聞雑誌に掲載されたエッセイと詩人論集。清岡卓行がぼくの視覚に入ったのは「アカシアの大連」で芥川賞を受賞した1970年で、以来珠玉のような感性で書かれた散文の作家として敬愛してきた。昨年読んだ大作「マロニエの花が笑った」では、それまでの自伝的な比較的短い小説世界とは違って、大きな文化史の記述のなかに文学的な高揚を追っていくような大部の評伝だったので、この人の大学のフランス語の教員という側面を見た思いもした。しかし、エッセイを読むとこの人はなによりも先ず詩人であるということを再認識させられる。実をいうとこの人の詩人としての作品を読んだことがなかった。当方にも一時期現代詩文庫を買いためた時代もあり、萩原朔太郎、中原中也から天沢退二郎、吉富剛三くらいまで視界に入っていたが、ことばのトリックとしての詩という認識しかなく、ついに韻文では感動という心の高揚を覚えたことはなかった。つまり、その程度の感性だったのだろう。もちろん、私の生活自体がモロ散文化してしまったことも当然ある。あれやこれやで、憧れを残しつつ遠く白濁してしまった時空を超えて久しぶりに見る旧知の詩人たちの名前は、今はない懐かしい本たちの記憶も同時に立ち返らせてくれる。本屋の一角に誇らしげに毎月増殖していた灰色の現代詩文庫たち。
この発行元の思潮社創業時代の社屋の思い出を書いたエッセイも今回の本には入っていて、文学が広く熱気をもって語られた時代の雰囲気が再現し、過去回想の微温にくるまれる思いもした。日常生活の中の何気ない色彩を語る、この本のタイトルとなっていうようなエッセイ等を読むにつけ、この人が日常のちいさな美に感応し、その喜びを表現しようとする、いわば「幸せ系」の詩人であるな、と思うのだ。もちろん、その喜びは「朝の悲しみ」のような厳しい痛みを通じた末に結晶してくる文学的昇華なのだけど。しかし、この人が大学で先生をする前に永くセ・リーグに勤務し、「猛打賞」というものを発案企画したというようなことは知らなかった。東大仏文・大学教授・詩人・小説家という絵に描いたような文学者のイメージよりは、「猛打賞」発案者という世俗のサラリーマン時代もある方が人間的なふくらみが違うというものだ。詩人としての清岡卓行さんには面識がなくて僭越ではあるけれど、その高さにおいての差はどうすることもできないが、当方のわずかな感性をざわめかせる憧れのかたちは同質であると一方的には思えるのである。
アルゼンチンの若手作家。16世紀イタリアを舞台にした饒舌体の艶笑小説である。権謀術数うずまく人間臭いイタリアの中・近世、聖職者、学者、娼婦、貴族等が繰り広げる、たわいもない俗事の数々。達者な語り口だけど、たいして面白くもない。遊びとしての文学という範疇でくくれるだろう。ただ、この中近世ヨーロッパ史の一光景を、イタリア風の艶笑小説に仕立てた手腕の持ち主がアルゼンチンの作家のものであるということが幾分興味を引かれる。このようにまったく自分の国の周知の歴史の一こまであるかのように、遠いヨーロッパ史の断面に取材した物語を書くことで、中南米の作家は自分達の文化的アイデンティティを引き付け、同化していくのかもしれない。
中篇小説4編収録。いずれも明治初頭に業績をあげた人物の評伝である。鹿鳴館を設計したお雇外国人コンドル、東京府知事由比公正、同じく大久保一翁、それに陸軍軍医総監森林太郎。都市計画の専門家である著者の目が発掘した先人たちの業績と生涯の鳥瞰に、色彩豊かな小説的脚色がなされている。著者の先人たち対する敬愛の念が基調となっているので素直に読んでいける筆致である。全編にわたり、小説的脚色の部分が「女性に対する純愛」とでも要約できるものであるのは、多少ステレオタイプと思わせないこともない。しかし、こういう脚色によって近代日本の黎明期に生きた人々の生活が生が生きと再現されるのは、小説の力というべきだろう。決して自らの守備範囲を踏み外さない実直な筆致で好感のある作家である。
サスペンスである。物語がどこに向かって進行していくのか、主人公は一体誰なのか、中間を過ぎても一向に読者の腑には落ちてこない。物語よりも先ず、小説自体がサスペンスである。こまるよなぁ、これは。少なくとも半分くらい読んだ時点で、誰がほんとの主人公かくらいは、はっきりしてもらわんと。ワトソン君が誰だかは分かってるんだけど、いったい誰がスーパーヒーローなのか、はっきりしてもらわんと小説的世界に感情移入しにくいよ。それやこれやで、どこか進行がもたもたしている感じが残る小説である。最後になって明らかになる一連の事件の解も、あっと驚くどんでん返しという程あざやかではない。新興宗教がらみの題材であるが、タイトルで暗示されるような存在論が繰り広げられるわけでもない。ハデに大風呂敷をひろげて大向こうをうならせるというような姿勢でなく、日常のふとした心理の揺らぎを小説にしていく作風は、好ましいことは好ましいんだけどね。やっぱ、テーマはもう少し派手なほうが。
でも、この人独自の持ち味はある。ふとした感覚の描写が妙に生々しく印象に残ることがある。例えば、大事な試験中に集中できない人の話で、耳の奥に遠くからの声が聞こえてくるというような述懐がある。あ、これこれ。当方にも似たような記憶がある。試験用紙を見つめていると、いつか頭が空回りを始める。すると妙に間延びした老人めいた声が聞こえてくるのだ。人間というのはなぁ、なんたら、かんたらでぇ、人生、万事塞翁が馬。というような下らんことをエンドレスでぐだぐだいってるようなのだ。しかし、この声が聞こえてくると意識はもう集中どころではない。聞くまいと思うと余計に声は意識に割り込んでくるのだ。うむむ。この辺の心理はどことなく作者のものでもあると思う。ふと気がつくと、ぼけーっと意識が遠くにさまよっているような、いつもの教室の光景。どうあがいても東大生にはなれない部類の生徒だよね。テレビ局の就職試験できっちり面接対応の準備をしてきている東大生に圧倒される挿話があり、「これは実話である」とあとがきでことわってあった。
犬神人、散所御家人(「山椒大夫」の!)、清目、河原人、乞食非人、遊女、辻子君、傀儡、白拍子、等々日本史の裏側に見え隠れする被差別階級を扱った論考集。網野が強調するのはこれらの人々は元から差別の対象であったわけではなく、鎌倉時代以前では天皇家・貴族との結びつきが強い聖性をもった「職人」階級であったということである。「職人」とは農業を営み定住生活を送る階層ではなく、自らの技能だけを持って非定住の渡世を送る階級。つまり、この穢れを清める技術者たちは世俗の秩序の中の階級には属さず、天皇直属の別体系の秩序に属していたのだ。しかし、応仁の乱をはさみ、天皇家の権威が低下するとともにこれらの人々は「神性階級」の裏づけを失い、急激に階級外の差別対象となっていく。この論集では扱っていないが、江戸時代の警察実務が非人身分の者達によって遂行されていた事実と対称している。
また、中世前期までは女性の社会的身分は現在考えられるよりよほど自立的であり、自由であった、と網野はいう。女性が財産の管理を行い、自ら離婚し、旅をする。また、識字率も非常に高く、女性の自由という観点からいうと世界史的にも特異な現象であるらしい。平安時代の官女は歌を詠み、かなり奔放な性生活を営んでいて、これが遊女の原型となる。また、白拍子、傀儡のような渡り歩く女性達もいて、世間とは別の秩序に属し、奔放に性を行使していた。聖と性。女性は比較的自由に旅をし、その間は世俗の秩序からは治外法権的な秩序に属しているとみなされていたのだ。これも、密かに西欧中世の魔女のサバトを想起させる。網野はこのように、近代以前の非人や女性の地位がまったく封建的秩序の中で人格を認められていなかった、という現在の常識を再考させるような事例を掘り起こしていく。ただ、封建的歴史観への反動が強く、「ひいきの引き倒し」のような美化意識が多少はあるような気配も感じる。
中世前期の「もうひとつ別の秩序」のアイデアは魅惑的だ。山かや修験者のような物理的に町や村と関わっていない集団では、また別の社会があるということは自然である。しかし、この非人や遊女は、現実の生活社会との接点をもち、この点を対称軸として裏の秩序体系をもっているのである。聖=遊女については、ギリシャ時代の神殿の巫女=売春が想起される。近世に入り、この階層が完全に聖性を失い被差別階級となっても、遊女や博徒のような裏稼業、裏社会はいつの時代にも存在していたのだ。それは、時として強固な階級社会にうがたれた密かな風穴として機能していたのかもしれない。
決まりきった秩序の生活者である安サラリーマンが、ふと中世前期の「芸能」集団と遭遇し、まったく違った「結界」裏世界に入り込んで豊穣な性的アバンチュール込みの別の人生を送る、などというようなあられもない空想をさそうのである。
黒曜堂は神田神保町の汚い雑居ビルにある名詞印刷屋である。雇われ店長一人で開けている店なのでまっとうな会社相手ではなく、一見さんや近所の少し怪しげな会社が相手である。印刷機は鉛の活字を使う骨董品で、この辺りの職人仕事の道具の描写は確かなミクロコスモスが存在する手ごたえを与える。この小さいけれどそれなりに堅固な仕事場に、毎日のごとく違った名前の名詞を印刷させにくる女が登場し、それなりに堅固だった日常が次第にあやふやで相対的なものに変容していく。この女は名前を変える度に本人も変わっているように見える。あるいは演技をしているのか、本当に別人なのか、ただ客の指定どおりの名前を刷ればいいのだが、名前を与えることで、いやおうなくこの不確かな実態にのみこまれていくような、虚構の中にくみこまれていく。
この「実」としての小さな印刷屋の仕事場と「虚」としての名前(名刺)の交錯する角度がなかなか微妙で、三半規管が軽い変調をきたしているかのように虚実が絶妙にバランスするのである。名前を名乗るということ、他人になりすますということ、別人になるということ、というような名前に関する虚構性が、町の名刺屋という日常の場所で結晶化し物質化しているのだ。この作家の企みが小説の中で増殖し、町の名刺屋を通じてわれわれの日常のすぐ傍らに一種カフカ的な世界が連なっているのを実感させる。活字を通して意識を攪拌してくれる、つまりは読書による擬似体験を通じて、もうひとつ別の日常があるという記憶を植えつけるこのとできる小説である。
主人公のせりふ回しが、いかにも付の現代の若者風でまったくのステレオタイプなのが少々退屈。しかし、この男が最後の方に行くとヴィットゲンシュタインの読者であることになってる。そんなこたァねーだろ、といいたくもなるのだが。
戦時下のベルリンでベルリン有数のナイトクラブ「コーカサス」は、SSの高級将校達も愛用しているのだが、オーナーはスペイン人になりすましたセフィルダム(中東・スペイン系ユダヤ人)だった。物語は、ユダヤ人という素性を知られ、ベルリン崩壊間際の空襲下の屋根裏部屋に身を潜めて、いつ発見されるかという極限状態の恐怖にさらされている現在と、ふとしたきっかけでベルリンのナイトクラブを入手し成功させた過去の回想とが平行して語られていく。華やかな事業の成功物語や、いやおうなく地下活動組織に組み込まれ、結局パルチザンに合流しボスニアで軍用列車を襲撃するというような冒険譚が、恐怖や空腹に苦しむ現在という灰色の背景上にくっきりと映像化されている。
ナチス時代のベルリンのユダヤ人という素材を扱っているのだが、重く悲惨で救いのない時代という歴史的ステレオタイプからすれば、この物語が語るのははるかに豊かで生き生きとした一人のユダヤ人の生活である。SSの高級将校との付き合いや、ドイツ人の抵抗運動家、現在の屋根裏生活を支援してくれる元雇い人等、当時のさまざまな立場の人間が登場する。回想の中のセフィルダム系のユダヤ人の歴史や生活、ヨーロッパのユダヤ系事業者達のネットワークの話や、一人のユダヤ人少年がベルリンの興行界で成功する話、また、アンネの日記風の隠伏生活の記録はそのままで良質のドキュメンタリー映画のように歴史上の一点を活写し、非常に興味深い内容である。著者は映画の脚本が本業ということだが、物語がある一定のリズムを持続させ、大小のサスペンスに富んだ構成になっているのは、映画的手法であるといえるのかもしれない。最大のサスペンスはバルカンのパルチザンに合流し、サラエボ郊外のナチスの軍事基地での昼食会に招待される機会を利用して軍事列車破壊計画の情報を探りにいく冒険である。ここでは、この小説の書かれている現在がうっすらと透けて見えているかのように、深刻な現実の市民戦争が意識され、ナチスと提携するクロアチアのウスタシャのセルビア人虐殺のようなバルカンの歴史的事情が語られている。
私は2002年に国連監視下のサラエボを訪れ、夜行長距離バスでクロアチアとの国境を越え、リュブリーヤナを経てトリエステに抜け、旧東ベルリンから帰国したことがある。サラエボ市内の内戦の銃弾跡や、砲撃で焼け焦げたままになっている旧国会ビル等が生々しく「現代の、現実のものとしての戦争」を感じさせ、思わず身震いさせられた。もちろん、これは単なる旅行者の無責任な見聞にすぎないが、腑抜けたような安サラリーマン生活を続ける当方にとっての日常とはかけ離れた、別の次元の光景として記憶に刻み込まれている。
誰にでも、ひとつは語るべき物語はある。あるユダヤ人の歴史を小説という形で再現している著者にとって、これらは語っておかなければならない物語であったのだろう。それは別にユダヤ人の迫害の事実というような教条ではなく、歴史上のある特異点に遭遇し、その中で独自の時を過ごしたという記憶である。誰にでも語るべき物語があるとすれば、自分の体験の中で多量の感覚が通過していった時の記憶であろう。そしてそれが、歴史上の特異点と交錯していたとすれば、その物語にはある時期の世界が凝縮して結晶していることにもなるだろう。
一定のリズムのある文体で展開し、いろんな情報も示唆される内容豊富なエンターティンメント小説である。
(イスマイル・カダレ「草原の神々の黄昏」フランス語訳版)
昔フランスで学生をしていた頃に買った本である。最近、往復4時間弱の通勤時間があるので、昔買った本をとりだして通勤電車内で読む気になった。読了してから、いつどこで買ったのか考えても一向に思い出せない。多分当時住んでいた町の本屋で適当に見繕って買ったものと思われる。しかし、この著者の名に見覚えはない。誰かに薦められたのか?それも記憶にない。アルバニア人の作家。アルバニア文学、といっても一向に思い当たるフシがない。10年ほど前にイタリアに不法上陸してきたアルバニア難民のニュースを見たことがある。そのとき、アルバニアという国に対する何の情報も持っていないことに気がついた。また、25年前にイタリアのリミニ海岸で、向こうはどこ?と同行していたイタリア人に訊くと「アルバニアだよ」との答えがあった。ふーん、という以外になかった。・・・
この作品はモスクワのゴーリキ・インスティチュートに留学した著者の学生時代の自伝である。アルバニア文学については何の予備知識もないが、かなり叙情的なスタイルである。前半は夏休みの避暑地、後半はモスクワの学生寮での生活が舞台になっている。この留学生という身分がよくわからんが、かなりのエリートのようである。夏休みに黒海沿岸の避暑地にある国家施設である文学者の家に逗留でき、モスクワでもソビエト作家会議に出席するような身分らしい。しかし、なぜか夜間の描写が多い。どこかくすんだ北の町の暗さが伝わってくる。1950年代のソビエトである。モスクワのゴーリキ・インスティチュートの寄宿舎で、各国の留学生と馬鹿騒ぎもするが、どこか空疎な気分もある。ロシア語、アルバニア語の言葉の響きにこだわる描写が目に付く。フランス語訳だが、随所にロシア語、その他の生の単語が提示される。縦糸として避暑地で知り合った恋人との経緯が語られているのだが、どこか齟齬があり結局は孤独な生活が暗示されて終わる。陰影に富んだ心理描写で、ちょっと暗い目の青春が回想されている。途中一箇所だけ、恋人に古いバルカンに伝わる伝説を語る場面があり、そこだけがアルバニアという出自が示されている唯一の箇所である。民族色豊かな文学というわけではない。青春の彷徨を扱った、いってみればあくまで古典的で普遍的な文学である。少し荒れたゴーリキ・インスティチュートの学生生活を送る中で、例のパステルナークのノーベル賞受賞事件に遭遇する。偶然入り込んだ空き部屋の中で、ドクトル・ジバゴの一節を手にする。翌日から、ラジオは反パステルナークのヒステリックなキャンペーンを終日流し始める。数日キャンペーンが流れ、ソビエト作家同盟がパステルナークのノーベル賞受賞は西側社会の陰謀であるとの声明を出し、最後にパステルナークが受賞を辞退するという形で決着がつく。ゴーリキ・インスティチュートでもこの事件で大騒ぎになるが、全体として著者の態度は傍観者然として冷ややかである。どこかニヒリズムを背負った自我、これもいわば普遍的な青春像というべきであろう。
パステルナークの「ドクトル・ジバゴ」はデビッド・リーンの映画が評判になり、高校生だった当方も、そのいかにも大時代的な恋物語に夢中になったクチである。革命もゲリラ戦も結局は道ならぬ恋を劇的に演出する背景に過ぎない、感情過多の不倫小説の映画化である。ちなみに、後に日本語訳の小説の方も読んだが、映画の人気にあやかった抄訳でしかなかった。確か、詩の部分がまったく訳出されていなかったと思う。パステルナークにノーベル賞を与えるということに対し、ソビエトロシアが西側の政治的陰謀であると糾弾するのも根拠のないことではないと私自身は思ったりした。
でも、しかし、多感な高校生の私メにこの映画は多大な影響を与えたのは事実で、ちなみに、以降の当方の人生では、どうしても道ならぬ恋に行き悩んでしまう性癖がついて回ることとなるのであるが。
それはともかく、このアルバニアの作家の自伝的青春像は民族作家という枠ではなく、普遍的な青春の惑いを描いた真摯な文学である。そのような普遍的なテーマが、政治が優先される当時のソビエト体制の中という、奇妙に歪曲された背景で語られているのだ。文学と政治というテーマも普遍的なものだけど、このテーマ自体もパステルナーク事件に対する一種の傍観者的で冷ややかな態度で描かれていて、奇妙な曲がり方をしているのである。鋭い感受性と独自のほの暗さに奇妙な味わいのある小説である。
またまた、個人的なことを言えば、学生時代に買っていた小説をフランス語訳で読むということ自体が、当方のそんなに明るくもなかった青春を呼び出して来、ある種の多義的な感慨を抱いたということもある。
読後、気取って書評をフランス語で書くべきかと思ったが、よく考えてみると原文はアルバニア語なのでフランス語で書く理由はない。それよりも、ひょっとして日本でこの作家を紹介する最初の文になるのではないか、あるいは、そもそもアルバニア文学を日本で最初に紹介するのが、この私の文になるのではないかという可能性に思い至った。少し興奮して、先ずインターネットで情報を得ようと「イスマイル・カダレ」を検索する。
何のことはない、日本で最初に紹介どころか、数年前にアルバニアからやってきたカダレ氏が福岡市で講演会なんぞを行っているのであった。ちなみに、この本の日本語訳も既にありました。恐れ入りました。(桑原透訳「草原の神々の黄昏」筑摩書房: 多分フランス語訳からの重訳でしょう。)
末期に入ったローマ帝国の最後のビッグネーム皇帝、ディオクレティアヌスとコンチタンティヌスの時代に入る。ディオクレティアヌスも傑出した政治家であり、かたや大帝と呼ばれることにもなるコンスタンティヌスではあるが、嘗てのローマ人の栄光を語った熱っぽさは著者の口調から心なしか薄れていく。個人の主観的と感情をもろに出した独自の評伝のスタイルからは、人間の精神性の豊かな発露を目撃する賛嘆の念が次第に薄れていき、重苦しく教条主義的な中世社会へとローマが変貌していくことへの惜別感がモロに現れるということになる。
313ミラノ勅令、325二ケーアの宗教会議でキリスト教世界の到来を保障し、その後の西欧の形を決定するコンスタンティヌス大帝は、著者の目からは人間的魅力のないただの政治人間でしかない。そして、ローマを捨て、ボスポラス海峡にのぞむ東方に要塞都市を建設し首都とする。ここにしてわれわれはついにコンスタンチノープルに至るのである。
うむ、なるほど。やはり、この都市名が出てくると「中世」という色合いが強くなる。すでにビザンチン帝国だもんなぁ。そしてここがイスタンブールとなっていく経過は一挙に、つい先ごろまであったオスマン帝国まで照らし出し、私の意識としては急に裏通りの潰れたタバコ屋サンくらいの近さになってしまう。
それにしても、と私も著者と一緒になって思うのだが、ダイナミックな人間の精神が活動したギリシャ・ローマ時代を通り抜けた西欧が選択したのは中世キリスト教世界であり、これを暗黒とまではいわないものの、プラトンやカエサルというような人間の精神の活動が直につたわってくるような古代がいきつく先が、中世の冬であるのは腑に落ちない。無理やり歴史が頭を押さえつけられ、捻じ曲げられてしまったというような根拠もない妄想にも陥る。キリスト教者でないわれわれが軽々しくいうことでもないが、以降人間は絶対者の存在の前にすっかり萎縮してしまった印象をぬぐえないのだ。(もちろん、このような中世感が皮相で一方的なステレオタイプでしかないのは、最近の研究からもなんとなくうかがえるのだが、と急いで付け加えておく。)
西欧の人々がアレクサンダーやシャルマーニュと同列の大帝という尊称に対し、著者の筆致は揶揄するような印象がある。カエサルのことを、まるで実際に惚れた男のように熱っぽく語った口調はもうどこにもない。何よりもローマの歴史をここまで見てくると、この大帝がコンスタンチノープルに遷都し、地理的にローマを捨てたばかりではなく、ローマという稀有な時代そのものを終焉させたと見る他はない。ユルスナールにいわせれば、ローマは「あらゆる神の束縛からのがれ、キリスト教の影響を受けるには早すぎる時代。人間が崇高な存在であった歴史上稀有な時代」であったのだから。かくて、このシリーズも概ねコーダを迎えるというような雰囲気になってきたようだ。
日本の地層から稀有な恐竜の化石が発見され、この地点から幾重にも積み重なった物語が展開する。現代の古生物学の潮流や、意外になまなましい学問の現場の勢力抗争というようなリアルな世界の鏡像があり、恐竜の化石が発掘される土地に竜神信仰が行われているというスリリングな符合があり、現在の世界を裏で操作しているキリスト教原理主義とイスラム原理主義の確執のようなちょっと危ないフィクションが覆いかぶさって、全体としてひとつのイベントに収縮し物語のクライマックスに至るという、なかなか意欲的な構造の小説である。しかし、それぞれの細部の情報は興味深くおもしろく読めるのだが、小説的な求心力が、それぞれの素材の迫力に分裂・分散してしまい、物語を統合するクライマックスの盛り上がりに欠ける印象が残る。おそらく、この著者の興味の中心は物語ではなくて、個々の素材そのものにあるのではないか、とも思わせるのだ。これだけの事実の重みのある素材を組み合わせるのだから、強烈な物語性がないと小説としては破綻してしまう。無理に作ったクライマックスではない、フィクションとしての楽しみが十分満喫できるような結末、あるいは強烈な個性をもった主人公、というような小説的な魅力が必要だ。小説としては少し散漫な印象だったという他はないが、本としては十分に面白ろかった。
何の変哲もないある青年のちょっとした人生の方向転換を描いた作品。物語としては面白くとも何ともないが、達意の文章の自然な語り口に乗せられて一気に最後まで読まされてしまう作品。この青年のおじにあたる小説家の目で語られていく私小説的な世界には、共通の知人の話題ででもあるかのように、自然に読者を引きずりこむ確かさがある。青年の目と小説家の目とで語られる地の文に当意即妙な会話文が織り込まれ、そのバランスが非常にいい。会話文も巧妙で、実際の会話にあるように質問の答えが微妙に角度を変えて跳ね返ってきたりする。実に巧妙な文章力である。当方自身はこのような限りなく私小説風の作品にはあまり興味はないのだが、一気に読まされてしまうのは仕方がない。
アポトーシスは多細胞生物の各細胞に組み込まれた遺伝子プログラムが発動し、自壊していく現象である。本書前半は、この比較的新しい概念の生物学上の事例と解説がまとめられてあり、次第にその巧妙にしくまれた遺伝子の企みが明らかにされていく。ここで著者が援用しているのはもちろんドーキンスの主張だが、アポトーシスという種全体への奉仕のための「自己犠牲」が装置されていることは、われわれの自我がやはり手段にすぎないということを認識せざるを得ないことになる。ひとわたり生物学的考察が終わると、著者は次第に「死」とは何かという形而上の問題に踏み込んでいく気配である。単細胞生物では100%の自己の複製が増幅していくので「死」は起こらない。多様性あるいは冗長性を持たせることで種の存続を図るストラテジーを採用した多細胞生物が「性」という仕組みを導入し、「死」はこのとき必然的にシステムの中に組み込まれたのである、と著者はいう。そうか、性は死を前提として生じたものなんだ、とこれも納得せざるを得ない。
アポトーシスは元来冗長・不要、あるいは不利益になったものを間引く仕組みであるので、老いや社会不適応者に対する社会からの措置の暗喩となるのは必然である。しかし、そのような皮相なレベルでの類似性よりも、死を必然として営まれてきた「人間」という現象を考えるとき、存在論的な矛盾に思い至ることになる。われわれの「自我」は「死」を前提とした「性」の営みによって多様化、もしくは個別化された「私」に生じる自動運転装置だとして、アポトーシス原理から言えば、現役を退いたところでこの「生」の主宰者である自我は「喜んで」死んでいってしかるべきなのに、われわれはどうして「死」を恐れるのだろうか?もちろん、オートマトンとしての自己保存の原則は刷り込まれているだろう。しかし、役目を果たした「個」は速やか且つ安らかな「死」が救済するのが当然ではないか?どうしてわれわれには「死」を受け入れるのに困惑するんだろうか?
それとも、そういった「死」への言われもない恐怖自体が「個」の営みをこの上ない活性状態に保つ戦略なのか?だとすると、自我意識を持った人間という現象の、致命的な矛盾に満ちたその存在の「悲しみ」に不意にとらわれていくのである。
シェルダンは久しぶりだ。ひところ大阪府中央立図書館の蔵書のペーパーバックを借り出して、英語の勉強もかねて流行小説を試してみた時期があった。結局読みやすさからいえばシェルダンが一番で、数冊を借読した。英語の難易度もさることながら、話のスタイルも短いエピソードを短いセンテンスで積み重ねていく非常に読みやすい作りになっている。今回、本屋で洋書のバーゲンをしていたので買って、ひさしぶりにシェルダンを読んだ。相変わらずの”ノンストップ”ノベルである。あまりの安直なご都合主義的ストーリにばかばかしいとは思いつつ、やはり最後まで一気に読まされてしまうのは、この書き手が読みやすさを究極まで推し進める技術を持った作家であるというべきか。読みやすいストーリーと読みやすい文章のスタイル。この作品も500ページ近い長編だけど、最後までストーリーにたるみはなく、リーダーズ・ハイ的生理な快感まで引き起こす読みごこちである。それに、語学の勉強という大義名分もあるので、こんないい加減なストーリーに付き合っているというやましさも幾分緩和されるのである。内容は他愛もないものだが、この話の骨子をなしているニューヨークのコングロメリットの母体である南アフリカのダイヤモンド鉱山会社の創業期の話では、南アフリカの歴史的ゴールドラッシュ時代に関する多少の示唆を得た。まあ、ご都合主義の作家ではあるが、歴史や地理的な一流の取材力がうかがえる背景が支えていることも作品のひとつの魅力であるといえるだろう。
2001年8月ウィーン市内のドナウ川で33歳の指揮者と19歳の留学生が入水心中する。地元の新聞記事はあいまいで、この大時代的なお膳立ては忘れがたい不思議な吸引力を引き起こす。フリーのノンフィクション作家として独立した著者はこの真相を取材することに使命感を抱く。いくつかの困難な関門を通り抜けると、思いもかけず死んだ少女が自分の知人の娘であったことを知ることになる。東京・南仏・ルーマニア・ウィーンに赴き、関係した人々との邂逅を通じて筆者の中に一人の多感な少女の姿が造形されていく。ルーマニアの留学生として冬の東欧に渡った少女は指揮者と称する心を病んだ青年と出会い、早くも半年後には青年の不遇の運命への決着を共にすることになるのである。しかし、この要約に含まれる甘い大時代がかったロマンチシズムは、私の側の脚色である。現実は救いようもなく残酷としか言いようがない。筆者が少女の軌跡と内面を考察していくのは、当然である。例えば少女の両親から見れば、どうしょうもない誇大妄想気味で、軽度な精神分裂的症状を示す青年が、執拗にまとわりつく悪魔の化身のようにも見えることだろう。しかし、この青年に悪意はない。また、この少女も最後までこの青年の虚言を信じていたわけではなかろう。著者の結論は、それでも自分の愛をつらぬくため最後の決着を選んだということになる。真相はわからない。しかし、この作品を読み進むにつれ、現実に生まれ、自分の生を主催している人々の中には、どうしても救うことの出来ない種類の運命を担った人もいるという重い感慨を抱いてしまう。
考えてみれば私は2001年の冬にウィーンに飛び、ドナウ川の辺のクーアハオスで時間をすごした後、サラエボに向けて出発した。内戦の傷跡も生々しい冬のサラエボの光景と、筆者が描く寒々としたルーマニア・クルージュ・ナポカの風景がオーバーラップするのは偶然ではない。時代の荒廃が東欧を覆っていたのである。そして、私が日々の生活の挫折感にさいなまれ、もう帰ってこないつもりで渡欧したとき、私は33歳だったのだ。ヨーロッパの大学の学生食堂には、しっかりとした生活の拠点もなくヨーロッパをさまよい歩く、本当は自分の実力が到底プロレベルには達していないことをうすうす自覚しつつ、夢から覚めるのを拒否し続ける音楽家や、あるいは学者・作家志望の青年が必ずいて、貧しい食事をとっていた。夢から覚めないためにはとにかくヨーロッパで生き続ける必要がある。そして留学生仲間や現地の日本人コミュニティとは一線を引きつつ、それでも細々とした生活上の便宜のための関係性を保ちながら生きてくのである。
著者はこの33歳自称指揮者の青年には比較的ニュートラルな扱いをしているといえる。両親をはじめ、少女の周囲の人々は何とかこの不幸の源泉のような青年から少女を引き離そうとするのだが、19歳の感性は終に自己犠牲的な高揚に身を任せてしまったかのようだ。青年には自分から死を選べるわけはないのだから。しかし、生きていても大成する見込みのないという心底での自覚はあったのだろう。夢を追い続けるなら死ぬ以外にない人もいる。この青年にとって、日本に帰り、騒音に満ちた労働者の町で下級労働者として余生を生きていくことは、死よりも恥ずべき自分に対する屈辱だったのに違いない。ちょうど38歳の私が決断したように。
多分再読。読んだかどうか思い出せないくらいの希薄さだが、ふと手を伸ばしてしまう誘惑があるタイトルである。実は私生活で久方ぶりの修羅場が現出し、おいそれと日常化できない心的危機状態にある。そんな中でも読めてしまうのがこの著者のノリである。うーん。しかし、まともに書評するような気分でもない。いや、たとえ明日の糧食がなくとも書くことをやめてはイカン、と自らを叱咤するのではあるけれど。
うーん。何を書く?北畠親房の伝記(「日本一の頑固親父」)。とにかく、自説を曲げず、というか自説以外に正しいものはなく、これでもか、というごとく正論を発信して止まない老人の(といっても40台だが)エネルギーにどう対処していいのか、もてあましている、正論などどうでもいい武将の表情がとぼけた対比で、ヒットしてましたよ。
「種子島であったこと」。これは、鉄砲伝来という日本史上最初の西欧文化とのコンタクト時に、すでに日本人の唖然せざるを得ない文化としてのコピー技術が発露されていた、という報告で、なかなかするどい指摘ではありますよ。
あとは適度なくすぐりネタで特記するほどでもない。ああ、すんません。やっぱり、まったくの私事ですが、胸がいたむ。
ノンフィクション、といっても著者名が複数になっているように、適当な脚色が加えられていて、シェルダン先生もびっくりの痛快天才詐欺師物語になっている。多少脚色過多の文章で語られるのは思いもかけない華麗な詐欺師の手口と生活である。もっともこれは10台の犯行であって、詐欺の動機は金よりも素朴ななりすましの快感にあったように思われる。ふとしたことからパンナムのパイロットの制服を手に入れ、空港や町で着用し、気分に浸っていると、本物のパイロットも声をかけてくるようになり、次第にその世界に通じていってしまう。そこ特権に満ちた華麗な世界であり、制服の前に誰も疑おうとはしない。この制服の信用を利用して、銀行のカウンターで不渡り手形詐欺を行うのだけど、誰も疑おうとはしないのだ。この天才詐欺師は金というより、この特権の魔力のとりことなるのである。そして、驚くべきことに同じような準備を経て、小児科医や大学教授、法曹となり、実際に病院で勤務し、評判のいいアルバイト医師としてすごしたり、大学の夏季講座の講師をしたり、司法長官の臨時スタッフになったりする。脚色が邪魔をしてどこまでが実際の心理であるか判然としないが、すくなくともこれらの職業は高校も満足に出ていない若者にとっては、目もくらむような特権に満ちた世界であったと思える。
最初はちょっとした小心な試みだったはずだ。たとえば、志賀直哉の「小僧の神様」をふと思い出す。その小説では、憧れに満ちた世界に覚悟を決めて現実に接触したとき、あまりにも場違いな自分のありさまに狼狽する小心な小僧が描かれて、身につまされ、同じく小心な私は常にその身の置き所のないような心理を反芻するのが常だったのだ。この詐欺師の半生の伝記の冒頭に置かれている挿話は、いつものごとくパイロット仲間として他社の便の操縦席のジャンプシートに同乗させてもらっているとき、ふと機長が思いつきで「操縦してくれ」とこの詐欺師に依頼する場面である。「いつかは化けの皮がはがれる」という脅迫心理は、場違いな世界に入り込んでしまった小僧にとって存在の不安を常に呼び起こす原意識である。当方のまったく私的な生活上での原意識が、もやもやとこの心理のうえに立ち上る。今まで同じ特権を享受していた仲間として談笑していた場が、こいつは仲間ではない、と発覚した瞬間に信じがたい変容を遂げる。くったくのない笑顔が凍りつき、冷たく、ときには残忍な目つきに変容するのである。仲間意識は裏返せば、あいつは敵だ、敵は排除せよ、という命題とおなじものなのだから。
この詐欺師の告白体小説は楽しい読み物だったが、生涯何度目かの(しかし、もう慣れっこになっているのだが)心理的危機状態にある当方が拾い上げた心理は、まったく詐欺師として世渡りしている自分というイメージである。しかも情けないことに、私はこの詐欺を楽しんでいるのではなく、生活のためにいやいや演じているわけである。私は人畜無害、無味無臭の仲間ですよ。「金本はよく打ちますね」とか「天一のラーメンはちょっとしつこい」とか、くそ面白くもない会話に熱中しているがごとき演技を生活のために続けているのである。しかし、いつかはばれてしまう。そのとき、今まで仲間であった彼らは、よくも善意のわれわれを今までだましてくれていたなとばかり・・。うむ。ばからしい。せめて華麗な詐欺師として生きていたいぞ。
ヨーロッパへの憧れはドイツという国への憧れだった。Meine Sehensuch nach Europa ist nach Deutch. グリム童話のヘンデルとグレーテルの魔女が住む深い森、ゲーテが描くファウスト伝説、シューマンが身を投じたライン川。 ドイツという国が親しく懐かしいのは、ドイツの奥底に潜む魔が、表面の堅実強固なプロテスタントの生活に得体の知れない影を落としているからだろう。私の心の中にも共振しうごめくものがある。のがれられない懐かしさは、あるいは本能に根ざす混沌の夜の記憶からだろうか?
あくまで明晰な精神を持っていた古代ローマ人から見て、ゲルマン人は森に住み、半裸で戦いの雄たけびをあげている野蛮人であったのだ。
著者はこのキリスト教化=文明化される以前にあった古代ゲルマンの原精神というようなものが、次々と噴出していく現象をドイツ史に追っていく。グリムによって記述されているハーメルンの笛吹き男の考察も、少年達の集団幻想下の異世界への本能的な帰属行為としての側面を指摘している。この悲劇が起きたのはゲルマンの夏至祭に起源を持つ日であった。魔女の集会であるサバト、ワルプルギスの夜もthe night of mid summerの話である。こういったゲルマン風集団的狂気という現象は20世紀では、ヒトラーによるゲルマン神話の再生への熱狂に行き着く。
まったく強く、恣意的なドイツ史である。読んでいるうちに自分の内なる森への憧れは、こういう異貌の神々からの呼びかけであったのか、と思い至ることともなる。
私が専門に学んだのはフランス語だったのだが、しかし、音楽と文学におけるドイツ的な精神への親近感は消えることがなかった。聖なる狂気、と標語化してしまうことは、著者の意図とは関係のないことだろう。しかし、紛れもなく私の心の奥底にはゲルマン的な、明晰な知性では制御が及ばない原始の呼びかけに感応してしまう部分があることを再認識するのである。と、これもまったく恣意的な読書評になってしまったが、しかし、このような心的な共鳴が著者のドイツ史の考察への内的モチベーションになっているのは間違いない。
ピアノを買おうとしている人へのガイドとして、国産輸入ピアノのブランドの詳しい紹介あり、ピアノの修理を趣味とする人(?)のための調律・調音・修理のガイドあり。ピアノ奏法に関する話題はない。ピアノを買おうと思っている人にヤマハからスタンウエイに至る(60万円から1500万円に亘る値段表つき)このガイドは詳しすぎ、大きく目的をはずしているだろう。誰を読者に想定しているのかよくわからん本である。強いて言えばピアノに永遠の憧れを持っていて、カタログを飽かずながめているような大人か、ま、つまり私である。しかし私は調律は自分でするが、調音作業まではしていない。著者のいうように、ピアノの調音が大人の趣味として定着するのではないか、とは思わないが、すこしは挑発される部分もある。圧巻は国産・輸入のピアノ評。各地の販売店を歩き自分の耳で確かめたデータばかりで、労作にはちがいない。まるで各地の名物レストラン食べ歩きといった趣があり、おいしそうだった。うむ、一度はスタンウェイのフルコンサートグランドを弾いてみたいぞ。
印象的だったは、著者がめずらしいピアノブランドを探して各地の楽器店を訪問するのだが、応対してくれる店員・営業社員・調律専門家はいずれもピアノの魅力に惹かれてその商売に入ったような雰囲気があり、商売気ぬきで珍しいピアノにまつわる話をしてくれるのである。それどころか、ある販売店では中古のシュタイングレーバーピアノを保有していたが、自分の好みのピアノを求めて全国を捜し歩いたという愛好家が来て、気に入られて買い取られてしまい「あれだけは売りたくなかった」と悔しがっていた、というような話まである。職業ということをいろいろと考えさせられてしまった。うむ。いったい私はなんていうおろかな世過ぎをしているだろうか?どうしてそんなに好きでもない仕事をし、なんらの共通点もない同僚達と生活時間の大半を過ごしているのだろうか?ちなみに著者の肩書きはピアノ研究家だそうである。ふむ。そういう手もあるのか。
今ではすっかりテレビでおなじみの養老先生の処女作にあたる一般向け出版物。なかなか気取った、というか心得たスタイルの文章である。たしかに芸の域には達していると思うが、時として演出過剰な文体とも見えることがある。いや、象牙の塔内隔絶環境無味乾燥風のイメージのある解剖学教授(当時)の一般向けの日本語としては、破格に面白い文章で、今日のベストセラーの著者を予見させるに充分である。
この本では専門の解剖学・形態学という非常にマイナーな学問の、医学・生物学上の位置が説明され、そのマイナーさ自体の所以でもある地味な研究から浮かび上がってくる独自の科学観が、説得力充分な明晰な文章で展開されている。著者によれば、論理の糸をたてにつないで、進化論が独立分離し、論理を横につないで生理学が分派し、結局論理では説明できない、ただ観察するという立場しかない分類不能の領域が形態学として残っている、という。ここで著者の明言がある。「真理はひとつ」という主張が科学の大きな誤謬で、真理は少なくとも4つくらいはあるものだ。例えば、ある生物の形態が観察されるとして、こうである確とした理由を探すという立場は、「真理はひとつ」という迷信が支えている。理由や目的はあるのかも知れない、しかし、ないのかもしれない、ただこういう形状が観察される、ということだけが形態学上から言えるのだ、とする。真理は少なくとも4つある、というのは卓見だと思う。真理がひとつでないなら、真とするに足りる何者もない、となってしまい、混沌たるカオス状態に陥ってしまう。いや、そうじゃない。真理は存在しないのではなくて、4つあるだけなのだ。うん。そうすれば4つあるにしても秩序はあることになり、めでたしめでたしとなる。いやぁ、さすがの芸ですね、養老先生。
若い医師が書き下ろした細菌病理サスペンス。細菌病理サスペンスとは今付けた造語だが、ひとつのジャンルにしてもいいと思うくらい、原因不明の殺人が未知の病原体に起因するという骨子の小説は多い。決してフィクションではなく、実際に起こりうることであるという現代の常識がリアリティを裏付けるので、誰もこういう小説をもはやSFとはいわない。さすが現役の感染症専攻の医師が説き起こすブリオン遺伝子起因のアナフラキシーショック死は納得せざるを得ない。また、新薬開発に莫大な投資をし、個人の遺伝子データを隠匿するような製薬資本や、東南アジアの熱帯雨林の環境保護活動にまつわる各関係団体や個人の利害関係というような、生きのいい生の素材を絡めて一個の長編サスペンスに仕上げているのは、新人とは思えない構成力である。しかし、メダルの裏側もあり、せっかく悪魔的な猟奇殺人風のおどろおどろしい世界が展開しそうな出だしだったが、あくまで科学的合理主義風にきれいに謎ときがおこなわれてしまうので、小説としての興奮度はもうひとつとの感がある。また、多彩な登場人物の造形がそれほどくっきりとした個性には至っていないので、固有名詞で人物が登場する度に多少うんざりする思いがある。例えば、最初の方で名前付で登場する刑事は結局物語展開には何の加速力も付与せず、ただ消えていくのである。もう少し全体を一点のクライマクスに盛り上げていくような小説的しかけが欲しいところである。これはもしかして、物語への科学的リアリティの付与ということの代償なのかも知れないが。
第2次大戦のドイツ陥落前夜だが、チャネル諸島(英仏海峡)に要塞を築き、船舶への攻撃をやめないドイツ占領軍の情報を得るため、地元出身のイギリス特殊部隊大佐が潜入する。主人公のこの大佐の人物像が一風変わっていて、超人的な活躍をするヒーローではあるけれど、風采のあがらない小男で、兵士というより詩人として有名な人物である。潜入したドイツ軍支配地にも貴族的な芸術家肌の少佐が駐留し、大佐のかつての恋人と相思相愛になっている。そして主人公の父親の画家を尊敬しているのである。この恋人は島の領主の娘であり、現在はドイツ駐留下の地方領主としてドイツ軍に庇護されているという立場である。また、別ルートで潜入したアメリカ軍の別働隊の秀才少佐も上流社会出身の美点に恵まれた秀麗な人物で、島出身のアイルランド系大佐にとってはどことなく苦手意識がある。こういう風に一風変わった人物を配したスパイ小説で、クライマックスは折からの暴風雨で沖合いで難船しているドイツ船を、嘗ては島の救命艇の熟練者であった捕虜のこのイギリス軍大佐、と同じくアメリカ軍少佐、それにドイツ軍少佐という主人公群が協力して救助に向かうという緊迫しつつも、また感動的といってもいい場面になる。
かなりのくだけた英語で、決して読みやすくはない。できるだけ冗長を配したという趣のある口調は、緊迫した場面の描写には畳み掛けるような効果を産み出す。全体にこの人物の少し屈曲した性格や、ドイツ軍占領下の故郷をスパイとして再訪するというような心情の描写が単なるスパイ小説には収まらないくらいの奥行きを与えていて、読む楽しみに魅力を添えている。
英・米・独の捕虜・軍人が自分の命を賭してまで難破したドイツ軍船を救いにいく場面で、おかしなことを想定してみて妙に気になった。もし、難破したのが日本船だったらどうだったのだろうか?この英軍大佐と独軍少佐は交戦相手であるという現在の状況以外に、主人公の父親の画風を尊敬しているという別チャネルがあり、相互理解可能な同じ文化圏に属していることが複線になっている。では、相互理解不能な文化圏、例えば日本船が難破していたとしたら?主人公達、ひいては著者の美意識はやはり西欧文化圏内の排他的な要素があると感じてしまうのは、かなりの歯ごたえのある英語を食わされてしまった当方のひがみだけではないと思うぞ。
いつまで生き悩めばいいんだろうか?この世との折り合いの悪さがいつまでもつきまとう。これはいつか「治る」ものではなくて、やはり自分のこの世界での位置がそのように定められているのだ、としか思えない。最近、アスペルガー症候群という自閉症を示す症例が気になっている。対人関係を処理していく感覚が、一般的な社会通念内の反応よりも先天的にかなり乖離している性癖と理解した。病気ではないので治療の対象にはならないし、その必要もない。ただ、一般的な社会生活を行うとすれば、対人関係の維持に無理が生じてしまう。その人にあった社会への組み入れ方があるはずだ。社会の中にうまく自分の位置を保持していけるような、ひとりひとりの模索が必要だろう。私は本を読むこと、ピアノを弾くことでかろうじて馴染みのないこの世との折り合いを付けてきたつもりだ。しかし、心的な電圧が低下しているときには本を読むことさえ負担になることがある。新しい情報が意識を活性化するのではなくて、自分の陥っている無力を際立たせてしまうことだってある。ついていけない、と思ってしまうのだ。
著者高橋英夫について予備知識はなかった。独文系の評論家であるが、それほど永く私はドイツ文学から遠ざかっていたのだ。「ドイツを読む愉しみ」という表題を見たとき、かつて私の心の中にあった青春性といった高揚の記憶が呼び覚まされる思いがした。
バッハ、モーツアルト、ベートーベン、シューベルトの音楽。ヘルダーリン、ゲーテ、トーマスマン、リルケやホフマンシュタールの著作。そして、森鴎外以来の碩学や文人達。著者のあとがきが的確に語っている。「はっきり自認していることだが、この本は現実のドイツという国とはほとんどかかわりがない。・・・それは日本人が自分の思い入れ、思い込みに染めて、さながら夢や幻のように見出したものであった、と図らずも漏らす結果になっていそうである。」
無骨でバンカラな明治の学生達がドイツに憧れた時代があった。東京ネイティブな山の手出身の若者はフランス文学を愛好し、この無骨な田舎者とは一線を画していたのかもしれないが、外国文学の主流は独文であった時代があった。おそらく日本全体が若く、ドイツ文学にみなぎる青春性と私が名ずける感性に感応していたのだと思われる。この世代の感じた高揚は以来連綿と絶えることがなく、各世代に受け継がれていったと思われる。戦争が終わり、国家としてのドイツに対する評価が低落すると思われた時も、著者高橋も証言するが、「大学の独文専攻者が英・仏文学に比べて減ることはなかった」。例えばこの論集で扱われている碩学で、私にも直接影響を与えた著者は訳者としての大山定一(リルケ「マルテの手記」)、手塚富雄(ニーチェ「ツァラトウストラはかく語りき」)であるが、さらに広くその全著作を通じて私を刺激し続けた小説家、最終的にはその専攻から仏文系の範疇に入ってしまう堀田善衛、辻邦生達もドイツ文学から出発したのは確かである。今、辻邦生と書いていて反射的に北杜夫の名がうかびあがる。ドクトルマンボー航海記で、初めてヨーロッパに遊ぶ著者が「パリのT」こと辻邦生がパリでトーマスマンの「トニオ・クレーゲル」を音楽の手法であるライトモティーフ的創造法という観点から分析するということだけをずっとし続けていた、というような記述があったりする。このような時代の雰囲気が高校生の私にも感染していくのである。実をいうと私はヘルダーリンやホフマンスタールは読んだことはない。それどころか、「ブデンブローグス」もまだ読んでないのである。しかし、20台始めの私には「ドイツに行った」夢を見、その高揚が目覚めてからもしばらく持続するということが頻繁にあった。そしてそのドイツは必ずリューベックだったのだ。その後、30台でフランスに移り住むということがあり、鉄道で北欧に行くということもあった。途上、ハンブルグでちらりとリューベックを回ることを考えもしたが、回遊というルートにならなかったのでそのときは見合わせたのだった。結局初めてリューベックに到達したのはもはや50台になっていた2001年の冬のことだった。とある街角で同行者に写真を撮ってもらい「これでもう死んでもいい」と思わず口に出したりした。リューベックに降り立つという夢は、確実に憧れの源泉として持続していた。それが私のドイツ文学への思い入れの象徴だったのだ。
この本を読みながら、しばし自分の過去が立ち返る経験をする。ドイツ音楽と文学への憧れを持ち続け、人生の伴侶としてきた世代が語る言葉は思いもかけない心の平安をもたらしてくれた。これはこの本の評価とは直接関係のないことだが、このような日本におけるドイツ文化に感化され、その思いを伝えてきた先人への尊敬の念を当方も共感できることを喜びたい。
最初の方にまとめられているドイツ音楽をめぐる論では、小林秀雄「モーツアルト」から始まる日本のドイツ音楽評論にシフトした音楽論が展開され、その中の著者の日本語の表現に瞠目する。音楽論のようなものは私も試みたことがあるが、言葉と音楽は互いに違った領分の精神活動であり、音楽に喚起される情感を言葉に置き換えるのは無益な試みと結論せざるを得ない。ただ、言葉の組み立て方で擬似的に音楽の表現を想起されるのは可能であるのかもしれない。こういう圧倒的に困難な状況に向けて、的確な文体や形容詞の選択眼を示されると、一種の爽快感にまで至ることがある。この著者の作品は初めて読むのだが、この練り上げられた表現力に先ず敬服した。いわば、アマチュアとプロの差をまざまざと見せ付けられた思いである。この印象は後半の主たる論を構成しているドイツ文学の先人達への評論について持続し、内容もさることながら自在に展開する論点を支える的確な日本語の表現の快いリズムは最後まで途切れることはない。ドイツ文学の徒として、私は入門も果たさないまま門前で追い返されたような文字どおりの門外漢であるが、著者の日本語を感受する感覚くらいは残っているのかもしれない。
いずれの評論もドイツ文学の巨人達や日本の先人達を語るのが主たる論点だが、巧妙に著者自身が入り込み、結局すべての文章は著者の内なる憧れの源泉を吐露しているのだという感すらある。文章をものするとは結局自分を語るということに他ならない。まあ、私のこの論のように無骨かつあからさまに語るのがアマチュアであり、著者のように洗練された闊達なスタイルで問わず語りに読ませてしまうのがプロの文章だ、ということになるのだろう。
読書は困難な時代を乗り切る力にもなるのだ。
ちょっと見では中国趣味の妖怪譚という見かけだが、なかなかどうして独異な境地が展開していて魅惑されました。うそ八百のでまかせ物語ではあるけれど、評論するのではなくて、まことしやかに語ってくれる嘘八百にただ興じていたいという気にさせられる。得体の知れない亜細亜の見知らぬ町や、深い森の中で怪異に遭遇するのだが、グロテスクなホラーではなくて、どことなく親しみを感じさせるような妖怪たちである。ボルネオの森の中で出会った凝視する目玉が、アムステルダムのコンセルトヘボウオーケストラのフルート奏者のものであったりする。説話にはつきものの定型の語り口や毎回同じ狂言回しが登場し、奇妙な東洋と西欧の混交が独自の物語のスタイルになっている。すでに完成され安定した作風である。物語全体にさわやかな後味を残すのは、この怪異譚には漂白への憧れが感じられるからだろう。深い亜細亜の森の中には、またひとつ別の世界への通路が開いている。怪異を求めるのも、この世の外にまで漂白をつづけていたいという憧れがなせる業と読み取れるのである。
20世紀初頭のパリ。パナマ運河の利権をめぐる大規模な汚職に関連して殺人事件がおきる。パリに滞在しいるアメリカ人の歴史学者が事件に巻き込まれ、真相を解明しようと大活躍するのである。著者が大学の歴史教授で、20世紀初頭のパリの雰囲気が巧みな時代考証で再現されている。パリ万博が開催され、真空伝送管事務所が開設され指紋捜査が警察で採用される、というような時代の雰囲気が小道具に使用され、レセップスやクレマンソーというような人物を脇役に使った豪華な舞台である。しかし、またも個人的な事由による精神の低迷期にあり、この政治背景を利用した巧みな擬似推理小説の雰囲気を楽しむことはできなかった。純粋に読書の愉しみを行使するには私の心は貧しすぎるのだ。実際にも大時代なのだが、いかにも大時代的な、そしてその大時代であること自体がテーマと思えるこの物語の虚構を遊ぶ余裕がまったくなかった。決して跳べない悲しい日常である。わずかに20世紀初頭のパリ案内という目で読み始め、いつの間にかこのかなりの長編を盛り上がりも知らないままそのまま読了してしまったのだ。読書を楽しむ余裕のある時に読みたかった。痛恨の一冊。
ヒロエムス・ボッシュの「快楽の園」を扱った、見事でいわくありげな装丁である。宮本輝は純粋無垢な、どうしょうもない恋愛小説も書くわけで、密かにそういったあられもない物語に埋没したくてこの本を手にとって読み始めた。だがこの物語は、月並みな表現だが、心に染みた。読み進んでいくうち、この作者が私と同い年であり、大阪北の小汚い運河を見ながら少年期を過ごしていることを思い出した。もちろん、私はこの物語の主人公ではない。しかし、この物語中の人々は大阪の昭和30年代によくいた、私にも親しい人たちである。まあ、物語中の「焼肉屋の勲」は結局焼肉屋になったが、私の知ってた焼肉屋の「金沢」君は工業高校に行った。戦後という雰囲気があった昭和30年代の金貸し、売春婦、乞食の親子というような貧しい光景が現代の、比較的豊かで明るい日常の裏から透けて見える。いくら豊かになったからといって、あの小汚い運河沿いの貧しい我々の原風景が消え去ることはない。それは永い間心の奥底でただ沈んでいるだけなのだが、人生が終わりに近づくと突然表層に浮かび上がることもある。そして我々の堅固な日常を攪拌し、貧しい原風景にまで還元させてしまうのだ。困ったことに、私の低迷する心に宿っている悲しみも「エビエのスミタ・メリヤス」や「城北運河」に反応してしまう。親子や恋人との別離、異族として生きている自分、町のせめぎあう町の善意と悪意。思えば私もそれなりの波乱に翻弄されてきた、それなりに平凡な庶民の一人である。この物語の雰囲気に深く感応してしまう。
私の大阪の原風景は高村薫描くところの小便臭い大阪のミナミの下町であるが、宮本輝の大正区や城北運河の光景にも影の領域から悲哀に満ちた光景が立ち上る。前者の即物的で重苦しくも現実的な描写ではなく、この作家の描く原風景には子供の時代へのかすかなノスタルジーのフィルターがかかり、ほのかな叙情性を感じられるのが持ち味である。
最近NHKの海外ドキュメントシリーズでアスペルガー症候群の子供の為の教育施設のリポートを見た。この施設を設立し、運営しているのがこの著者である。この症例を知ったことは最近の私自身の現実生活への対応にかなりの影響をあたえている。一口に「症」と分類したとしても、症例は雑多ではっきりと同定することは困難であるし、その必要もないようである。私にも、著者達と共通する傾向があるのを自覚するが、かといってこの本で述べられているようにエキセントリックな子供であったとは自分では思えない。私の思い当たる「症例」を挙げれば:他人との付き合いが困難。友人がいない。会話に割り込んでしまう。他人とは違った論理や感覚を持ち、他人のいうことがどうしても自然には理解できない。より個別的には、プールで仲間と泳ぐよりもプールの底に沈んでいる感覚が好きである、という告白に私が毎週通っているスイミングスクールの休憩時の自分の行動が重なる。もっとも私は水面にただ浮かんでいる感覚も好きなんだけど。それから、「論理的に喋ることが自然であり、くだけた喋り方の方が努力して行う、いわばよそ行きの言葉遣いになる」という感覚にも近しいものを感じる。だから、親しい関係で使う「親称」的な喋り方は苦手である。で、大阪弁ってのは「親称」の用法しかないのも困惑してしまうのだ。子供に語りかけるのも同様に苦手である。しかし、自閉症というにはあまりによく喋るのも事実である。私の場合は外向的自閉症とでも言うべきか。
訳者のあとがきでは、訳者自身が同じような気質をもっていることも述べられている。このような困難を背負って生きている人も多いのだが、はっきりと自閉症の一種と分類されることもなく、「ただ世間との折り合いが悪い」と個人の内部に沈潜していくことでこれまでは対処していたのだ。こういった「症例」が整理され、このような気質をもった人格もあると明確な存在証明を行い、客観的に考えるという契機を与えたことが、こういった本の功績なのであろう。私の場合でいえば明確にアスペルガー症候群である、と断定できない範疇であるのかもしれない。しかし、この本で示されるような啓蒙活動を通じで理解されなければならないのは、人間の気質には正常(標準)から異常(端値)までそれぞれの分布があり、平均値を期待値とする社会へそれぞれの方法で対応する必要があるということだ。そして自分の特質を客観的に把握し、できることとできないことを明確にしておく必要はある。が、しかし、治療や矯正をする必要はない。標準ではない、ということは病気ではないのである。
おそらくこの症例を通じ、少数者の問題、特に私が永年「トニオクレーゲル問題」と呼んでいる外の世界とのチャネルを拒否しているわけではない、いわば外交的性格の自閉症者の生き方が整理される期待がある。
よく整理された自分の意見をずばりと言うが、イヤミがなくてテレビ受けがする人である。一度テレビの番組で見ただけだが、ちゃっかり名前が刷り込まれてしまっていた。「知恵くれ!」という人を食ったペンネームのおかげである。しかし、この本の奥付けからすると「くれともふさ」か「ごちえい」だそうである。もちろん、もちろんですよ。「くれ!ちえ」はゆとう読みで、正しい日本語ではありませんからね、はい。
言葉にこだわる雑誌連載のコラム集である。言葉に対するこだわりはなかなかうるさく、、誤った用法を用いる(おっと、冗語=redundancy、ごめんちゃい)記事に対しては記者を名指しで揶揄し痛快だが、適度に遊びも配する読者サービスもおこたりなく、快調に読み進められる。読み進む?ことができる?、読み進める?ことができる?っと、この同意強要返事黙殺勝手疑問系会話文は筆者によれば1999年時点で若い女性の口調らしいが、私はオバンくさい用法と思ってるのだけど。なんだか、この人の芸風は実は私にかなり近いと思うのである。おなじ世代だね。
言葉は論理である、との主張。いわゆる歴史的仮名遣いや、旧字体には厳然として保存されていた論理性が戦後の漢字改革によって骨抜きにされてしまったと嘆く。もっともである。しかし言葉が汎用性を持とうとすれば、単なる記号化が進んでいくのも仕方がないことかもしれない。S.I.hayakawaがいう言葉の抽象の階段が上がるという意味である。←何の補足にもなってないが(笑)とはいえ、しかし、言葉の正当用法にこだわることは必要である。絶えず標準化をするようにコントロールしなければ、言葉を統合している原理自体が崩壊してしまう。この意味で、言葉はあくまでロゴスの産物なのである。と、そんなことは今更いわれなくともわかってるが?なに、著者はそんなことはひとことも言ってないって?あ、それはどーも。ま、それよりも単に雑学的言語こぼれ話風に結構楽しい内容である。目がうろこになるような(・・)話も満載。例えば「ハーレクイン女王」の相手がコロンビーヌであるなんてのは、私のHPの「あとでわかったこと」のコラムで紹介したいようなネタだった。言葉にこだわる人はいつもおもしろいのだ。
突然黙示録に記された「携挙」が起こり、世界がパニック状態になる場面から始まる乱暴なSFである。突然、聖書の予言がこの今現在に実現するなんて考えてもみなかったよ。だって、もう永い間聖書は「暗示」であるという紳士協定があって現在と共存してきたはずで、唐突に実在化してもらっても困るんだけど。しかし、この想定が宇宙からの侵略と同じ未曾有のパニックを可能にするは事実で、政治的陰謀から一家族の家庭内の葛藤という大小の場面を統合させた全体小説風の大作を可能にした。SFとは元来Scienceが物語としてのリアリティを保障する形で語られるものだけど、これは聖書の予言がリアリティを保障する構造になっている。だからSupernatural Fictionとでも呼んでいいと思う。だがしかし、と私は思うのだ。現在において本物のクリスチアンが予言どおり「携挙」されても、この本で想定されているような世界的パニックには絶対に至らないだろう。強力なイスラム人口や広範な仏教人口は安泰だし、圧倒的多数の無信仰人口はそっくり残るのだ。結局、今本当に黙示録の予言が実現したとして、誰も気がつかなかった、ということもあり得るのではないか、と言うと、牧師でもある原案者から叱られるか(^^;
磔刑のキリストが「エリ・エリ・・」と叫んだ時点から既に神は不在であったのではないか、という疑念が時代の確信となっていき、教会が崩壊しつつある近未来。一人の牧師が最後の望みをかけて神を探しに行く、という設定から始まる才気あるSFである。まったく逆の設定の「レフトビハインド」と期せずして同時に読むという仕儀となり、かなりややこしい週だった。ははは。しかし、この小説は残念ながらまともに神の存在の議論には踏み込まず、あり得べき近未来のSF的な散策をするにとどまっている。各細部はマニア好みの道具立てがそろっていて、かなりの雰囲気がそれなりに楽しめる。結局この作品は、SF的雰囲気を楽しむことはできるのだが、新鮮な刺激をもたらしてくれる思考実験を展開するというSFの醍醐味というべき領域には到達していないのだ。まあ、「神は実在するのか」というような問題に安直に答えを出すという愚を避けた、ともとれ、物語を無理に閉じず、余韻を残したと評したいのはやまやまである。しかし、せっかくファースト・コンタクトの場面を導入しながら、その現象面を描写するだけで、人類の存在論的議論に踏み込まないのは、いかにも残念な思いが残る。本格SF風に始まり、スペースオペラ風に終わってしまったのだ。
アイスランドの氷原に墜落した小型機の謎を追って、水上飛行機のオーナーパイロットが活躍するいかにも夏向きの、涼しいストーリー。この著者のペーパーバックも2作目だが、冒険とコックピット志向といういかにも男の子専用エンターティンメントという作風。しかし、アイスランドの風景や飛行機の操縦の臨場感を除けば大して面白くもない、かなりステレオタイプなハナシだった。自分のヨットでアイスランドの奥地に逗留する老いた往年のアクション映画スターが登場し、これも極地観光映画的な装飾かと思わせたが、なかなか小説的な配置が施されていて、最後のクライマックスに持っていく。この辺の性格のひねり具合が、ま、持ち味ですかね。夏季限定作品。
「人格障害」は病気ではない。性格であり人格そのものである。その中心的な症例、あるいはパターンである境界性人格障害では、自分の内なる価値観が一定せず、不安定な感覚に支配され、対人関係も破綻してしまう。ただ、対人関係でゆれている時期には、返ってそれ以外の場面では高い精神的エネルギーを発揮することがあり、常人よりはるかに実りの多い活動を展開している人もいる。例として尾崎豊、太宰治、三島由紀夫を取り上げ、彼らの創作活動を「人格障害」の光の面という観点から論評する。長いが、この本の中心思潮を引用する。
「しかし、束の間ではあっても関係性が安定しているときには、人格障害の人は非常に魅力的です。それは絵や音楽に才能があったり、話がとても面白かったり、容貌が魅力的だったりするのですが、私自身が最も魅力的だと感じるのは、彼らの純粋さというかピュアな心、無垢な心なのです。彼・彼女らはある意味で自我が剥き出しであり、傍若無人というか、自分勝手な振る舞いをしているように見えます。しかし、彼らは決して世間ずれしません。これは普通に生活している私たちのような人間ではありえないことです。この純粋さこそが人格障害の人の最大の魅力であり、私が彼らに惹かれる理由です。」
本としては一般啓蒙書であるが、この主張以上に興味深い内容があるわけではない。思わず身につまされるように読み始めてしまうタイトルの勝利である。それにしても、つい手を出してしまう、この社会との折り合いの悪さよ。特に感銘し熱中したというわけではないが、それなりの興味で読んできた。ヨハネの黙示録が正に現代に起きるとしたSupernatural Fiction(前回の書評参照)である。聖書の記述と矛盾を生じさせず、しかも小説としての筋も通そうとするとかなりの力ワザにならざるを得ない。戦争が勃発し、空から雹や稲妻が打ちかかり、「携挙」で残った人口の更に3分の一が死滅しても、相変わらず定期旅客便は運行され、商業活動も行われているようなのは納得がいかないと思う。だが、黙示録によれば7年はこの状態でも人間社会が存続しなければならないのである。だから、ここで何とか修復し、この世を支えているのは神ではなくて作者の方なのだ。神はこれでもか、これでもか、と破壊の手を打つのに対し、作者がおおわらわで手当てして回っているというか。この大部な作品のプロットを、とにかく聖書の記述と矛盾が生じないように維持していくのは大変な作業なのだよ。破壊するのは簡単なんだけど。結局、作者(達)のこういう粘着力には、どこかで狂おしいような「信仰」が支えているのか、と思わざるを得なくなるのである。この悪意に満ちた世界の破壊は、作者によれば神の非信仰者に対する啓示なのだ。しかし、聖書の記述を解釈(インタープリート)していくのは、それなりの意味のある持続であるはずだが、小説の読者としてはどうしても解釈に対する非信仰者の根源的な疑問を払拭することができない。このような全能の神なら、どうして恐ろしい警告を自然界にもたらす必要があるのか?直接非信仰者の心に働きかけ平和穏便に信仰へと導くことも可能なはずだ。それは、人間というものが、神に反逆した面妖な自我というものをもつ存在であるので、「自分で」回帰することが必要ということなのか?しかし、その自我による決定そのものが許せない傲慢ではなかったのか?この辺りで他力本願にどっぷりつかった日本の読者としては、不条理そのものの神の相貌に対面せざるを得なくなる。本来全能であるはずの神が、どうしてギリシャ風の人間くさい嫉妬深い神々の行為に走る必要があるのだろうか?
こういった矛盾自体が聖書の魅力であると言えないこともないのではあるが。
ついこういうタイトルの本にトシがいもなく手を出してしまう。いかんなぁ。
「恐れは対象が明確である場合の悩みをさすのであり、不安は対象が明確になっていない場合の悩みをさすのである。」と、あくまで医学博士(精神科)らしい明確な定義からはじまる。しかし、医者を志したのは哲学、美学等の文系の学問を修めてからで、人間の心の暗闇に対する真摯な探求を続けていった人のようである。(1986没)そして、悩みの本質は「人間の悩みは不安や恐怖のように心理学的・生理学的な苦痛ではなく、倫理的・哲学的苦痛なのであり、自らの生き方をひたすらに省みながら生きる人間特有の現象だと考えられるのである。」つまり、悩むからヒトなのだ、というのである。
死ぬという現実に対して、生きたいと思うから悩む、これは理想を意識できるからこそ悩むのだ。悩むことを回避するのではなく、超克することでが悩むことの積極的な意味である、と著者は説く。悩みをコントロールできず、精神的疾患に陥っていく症例を提示する一方で、いささか古典的な「苦悩を通じて喜びに至る」という積極的な啓蒙が著者の取り組みの基本姿勢であるようだ。確かに、事例にも多く取り上げられているように、恋愛の局面でこの苦悩と喜びの関係は鮮明になる。恋愛を投資として捕らえ、失敗した恋愛を不良債権をつかまされたかのように言い立てる人を見るのは悲しいことだ。あるいは、あまりに深い悲しみは相手への恨みに転化する以外に処理の仕方もないということかもしれない。しかし、自分の生き方と違った局面と遭遇した時は真摯に悩むべきだと、ぼくも思う。相手に転化することなく、自己の内部で苦悩が超克できたとき、それはその不幸だった恋愛が実は喜びの源泉となる、という憧れをぼくは持っている。そして、ぼくが当事者となった事例に限って言えば、このような形でしか恋愛は成就することはできなかったのである。
リースマン「孤独な群集」からのことばを著者により引く。「中世の人々は”伝統指向”的で、宗教や封建主義の伝統に従っていさえすれば容易に生きることができたが、十九世紀の人々は”内部指向”的で、己の心の内を深く見つめながら生きてきたと説いている。そして現代先進国の人々は、”他人指向”的で、同時代の他者に絶えず注意を払いながら生きる」。私も他人との比較をしてしまうことが現代の不幸だと久しく喝破していたのだが、これを史的な視点から捉えるという発想はしていなかった。むしろ、釈迦は「所有」することの煩悩は他人の資産との比較に由来するとし、キリスト教内の原罪意識は「自意識の罪」、つまり他人との差異を意識することと解してきた。だから、古来より人間に普遍的な属性であると考えていたのだ。
著者は西欧と東洋、キリスト教と仏教のバックボーンにも明確な言及をしている。人間中心の西欧の価値観が現代に顕著な悩みをもたらし、対するに東洋的な宇宙にインテグレーションしてしまう自己という捉え方に著者は組するようだ。東西論がはやっていた時代であったかもしれない。この本は20年前の出版物である。
一見即物的で淡々と語り続けていく高踏的な恋の物語である。現実にはあり得ないけれど、それでも現実に隣接した領域ではかくもあろう、と半分本気になって繰り広げられる悲恋の顛末に乗せられていく。ああ、やはり、このような恋愛小説を読みたかったんだな。こちらの側の世界の泥沼のような愛憎の重力が嘘のように見える軽味がアップテンポな爽快感を生む。ところで、読みすすめていく過程で何事かを思い出していく感覚があった。ああ、この物語は以前に読んだ本の続編だったんだ。まったく忘れていたけれど、ふとしたきっかけでずいぶん以前に向こう側に消えていった、明け方の夢を思い出すように、かすかな記憶が立ち返る。この「忘れていた記憶」の立ち返る感覚もいい。皇位継承者の閉ざされた密室の、しかも国民的行事としての配偶者選定というようななかなかきわどい時事ネタもあり、こちら側の世界とつかず離れずの距離のとりかたが小憎い作風である。だから、この物語が蝶々婦人とピンカートンの私生児の家系という、まったくの絵空ごとを枕にしているのは、少々遊びに過ぎる。そのことだけが妙に架空へと突出してしまっているのだ。ともあれ、この世ならぬ恋に生きる男女の物語を語り続ける講釈のノリのよさと、高踏的な文体が魅力的な小説である。
幕末に活躍した幕府の蘭学医、江戸医学所頭取で、新政府になってからも初代陸軍軍医総監を歴任した松本良順の伝記。時代背景が大きく動いている中で、自分の信念に従って学問と実践を続けた人物。日本史の中で珍しく個人が突出した幕末・明治という時代のスター、ビッグネームの一人である。こういう人の伝記が面白くない訳はないのだが、吉村昭の文体は禁欲的といいたいほど素っ気無い。極力演出臭を抑え、読者の側の読み取る裁量に譲るというスタイルである。以前から感情過多には絶対にならないこの人の文章には好感があったのだけど、ここまで飾りのない文章になってしまうと小説を読むことの高揚までそがれてしまう印象もある。松本良順は虚飾のない誠実な人柄である。この人品骨格を描くためには何の文章的修飾も必要ない、ということか。初期の「フォン・シーボルトの娘」には華やぎがあったし、「高野長英」には切迫した緊張感があった。とすると、この小説家は描く人物に応じた文体を呼び出しているのかもしれない。「文は人なり」と。
死ぬことが受け入れ難いのは、まったく情報がないという点にある。後戻りもきかない未知な場所にどうして入っていけるのか?この領域のガイドブックが「死者の書」であった。少々無愛想な書名で、ことによってはどうしょうもない無味乾燥大学紀要風学者文の詰め込みかと思ったが、どうしてはるかに楽しい文章だった。思い出したが、竹下節子はヨーロッパ在住で少々怪しいメの神がかり少女研究家である、と、そこまでは言うと叱られるか。前書きでヨーロッパのカソリックの伝統が「死者にやさしい」ということを先ず述べる。死に行く者へのノウハウの蓄積が違うというのだ。西欧では死は必ず果たさなければならない義務である。その未知への不安を解消するためのプロの技術が発達してきた。日本では伝統的には死はごく自然に日常的に訪れていたのでわざわざ特別な心構えは必要でなかったのだが、近年この農耕生活的な伝統が断ち切られ、死に対する不安がいやおうもなく露骨に突出するようになっている。という説明で納得し、ヨーロッパの「死」への技術のかずかずを拝見させていただく気になるのである。
宗教は現世の生活の規律を定める一方、死後の世界を教え、死の乗り越え方を指導してきた。死後の世界を図式した最大の作品はダンテの神曲であろう。煉獄を開発した中世の死後の世界の体系的な案内書になっている。カソリックが先史時代のドルイドや土着宗教の死者への祭礼や死後の世界のイメージを公式にではなく密かに取り入れ、死ぬことの意味を教化してきた伝統は大きい。キリストが一度死んで復活した、ということが教理の根底になっているくらいであるから、死後の世界にたいする情報は豊富である。数多くの聖者がいて、呼べばアチラからこの地上にすぐ降りてきてくれるのである。この聖者は手分けしてカレンダー上のすべての日を担当し、したがってそれぞれ一人一人に守護聖人がついていて最後までマンツーマンでケアしてくれるのだ。なんだか、死ぬ時にはカソリックになっていたくなるような気にさせられてしまう。死をどう扱ってきたかという観点からのヨーロッパの宗教史が要領よく概説されている。後発のプロテスタントは、都市部の文盲率の低い地域が基盤で、会衆が自分で聖書を読むようになったので教会内を明るくする必要があり、ステンドグラスの発達がここでストップした、というような話題もあり、楽しく読みすすめられる。異例に大きく取り上げられている項目が3つあり、竹下の興味の中心がうかがえる。
1、バチカン当局が内容に問題なしと保障している、イタリアのリノ・サルドス・アルベルティーニが書いた、死んだ息子との通信を報告したベストセラー本の内容。
2、中世から発達した女子修道院での、特に修道院内で死んでいく姉妹に対する万全なケアの様子。家族としての修道院、その後ろに控えて見守る聖者と天使たちに取り囲まれて、笑顔で臨終の苦痛を乗り越えていく修道女達を描写する竹下の口調は憧れに満ちていたりする。
3、明示的にはなかったヨーロッパにおける死者の書として刊行されたジャン・プリユールの「死者の書」の、克明すぎるのではないかというくらいの紹介。
ちゃんとしたガイドがあれば死を迎える心の準備が整い、未知を受け入れる苦痛が軽減されるというものだ。なんとなく地図を開けて旅行に思いをはせているように死を心待ちにしたくなるというものだ。もちろん、こういっちゃいかんのだが。
前回の「美しい魂」ではトクをした。初めて読む物語だと思ってたけど、いつか読んだ小説の続編だということを思い出した。初対面の人と話しているうちに、お互いに共通の知り合いがいたりして、図らずもその後日譚を聞く、という風だった。今回は意図して後日譚を聞きに行ったので、思わずトクをしたというわけにはいかない。物語的にも冬の季節になってしまい、気がつけばどういうわけかマイナス20度のエトロフ島にまで連れて行かれてしまっている。かなり強引で、あまり物語的必然を感じない舞台設定である。主人公も50歳を前に性的不能に陥り、めくるめく恋の陶酔は過ぎ去った春への回想の中にしかない。でもまあ、シューベルトの「冬の旅」ではないが、生涯の恋を回想するには凍てついた最果ての光景がふさわしいのかもしれない。確かに、日本の皇位継承者と張り合い、永遠に手のとどかないところに行ってしまった恋の、晴れがましいくも狂おしい決着の、消えることのない波動は、極寒の地を対極に置かないとつりあわないのかもしれない。確かに、手の届かない所に封印された恋のイメージは、凍てついた冬の光景の中でこそ、くっきりと浮かび上がる。トシをとった。もう何もやってはこない。後は灼熱する狂おしい恋の狂熱に身を焦がした過去へ向かって日常を踏み外し、あてもない冬の旅へとさまよい出るのか、とふと、トシがいもなく。
「気を引くだけの風変わりな表題に思えるかもしれない」しかし、云々と前書きにことわりがあるのだが、通読するとやはりこの表題は誤解を招く。第一、エバラさんの書き方だと、現代人の直接の祖先とは言わないまでも、過去においてホモサピエンスとの混血があったろうから、我々はネアンデルタール人の血を引いている、となる。それは違うでしょう。むしろ、ネアンデルタール人は、我々ホモサピエンスの悪癖である比較・競争原理という盲目的拡大主義によって3万年前に絶滅させられた・・と、までは言わないが、不毛の地に追い立てられた位なことはあったと思うのだ。とにかく、私は最近ネアンデルタール人に憧れているのだ。
それはともかく。エバラさんのネアンデルタール人は始めて「精神」というものを持った動物であり、それ故我々の祖先であるということらしい。そして、この話は単なるマクラで、本論は現代の人間とはどういう生物なのか、という人間論なのである。あ、その前に大急ぎで教わったことを書いておく。通称「ネアンデルの谷」は、実はノイマンさんという牧師の好んだ散策の地で、この人はペンネームを気取ってノイマンにあたるギリシャ語「ネアンデル」としたらしい。そういうわけでこの地をネアンデルタールと呼ぶようになったという。しかし、「Neu Mann」が「旧人」の名前となったのは皮肉なめぐり合わせというか。
本論は生物としての人間と、社会文化的存在である人間という人間定義の両陣営からの見方の統合を試み、より実態に即した人間論を目指しているようである。個々の論点に特に目新しいものはないが、最新の生物学からの情報や古今の哲学・文学者が描く人間像といった人間に関する多様な情報の、バランスのよい取捨選択眼があり、充分うなづける現代人像が描かれている。自分のコントロールできる範囲外の力を持ってしまった人間、社会という人口環境のなかで自己家畜化した現代人という、いわば良識的な総括となるのだが。それでも人間が、ごく簡単に良識のある「個」の部分を捨てさり、狂信的な集団帰属意識からの教条に盲従してしまう傾向にあるのは、全面的に周囲に頼らざるを得なかった長い子供時代を持っているからだ、というような指摘は独自であり示唆に富むものだ。
和田博文・真銅正宏・竹松良明・宮内淳子・和田桂子という関西系中堅研究者の共同執筆による日本語で表現されたパリのアンソロジーと編年史。「言語都市」とは地理的存在としての都市ではなく、言語で表現された都市という意味である。この概念の導入でパリという都市の独異性が際立った思いがある。そうだったのだ。「パリ」とはぼくにとっても地理的存在ではなく、先人達の累積する憧憬がことばで形作った幻想の場所の謂いであったのだ。そして、このような言葉によるパリが先ず成立し、そして実際の地理的パリは単なる本に挟まれたしおりのように、膨大な時空を越えた想念を索引するための指標にすぎないのだ。
これ以前には、清岡卓行が「マロニエの花が言った」で膨大な日本語による言語都市パリを描き、架空空間の密度は小説的に非常に高いものだった。小説家は先人達の個々のパリの時間に入り込み、その時間の流れをもう一度再現するのだが、この和田たちの仕事は、個々の先人達のパリを並列配置することで言語都市パリの時代時代による実像をとらえようとするものだ。より客観的な研究ということができるだろう。とはいえ、読者としての我々としては、言語都市パリの変遷を追うということよりも、その時々の人々の意識に映ったパリを、とりわけパリへの高揚を追体験する楽しみが勝つわけであるけれど。パリを素材にしたアンソロジーと最初に書いてしまったが、必ずしも作品の引用集という意味ではなく、記録を残した先人達のパリ生活自体の集成という意味である。明治初頭から1945年に至るさまざまな人々のパリをクロニカルに鳥瞰することで、日本人がパリに抱いてきた憧憬の変遷が鮮明に浮き出してくる。パリは何よりも芸術と文学の首都だった。圧倒的な文学者と美術家達。パリに行けば、空気中に芸術が蔓延し呼吸するだけでインスパイヤされるとでもいうような。インスパイヤするのはパリそのものではなく、我々が先人達の思いを継承し自分自身の中に作り上げてきたパリの共同幻想がその源であるわけだ。
この膨大なパリに接触した日本人の最後の証人小松清が、1940年ドイツ軍侵攻前夜のパリで『「人間の心の世界の崩れていく生き地獄」と化し、「彼らの誇っていたフランス的知性」などその片鱗も見られなかった』と証言する文(和田博文)で閉じているのが象徴的であり、印象的だ。2005年11月のパリは若者の暴動が大きな社会問題となっていた。パリなんてもうどこにもあるわけはないのだ。
原題:The dawn of human cultureという至極まじめなタイトルが、翻訳されるとわくわくするような知的サスペンス風となる。さあ、何がおきたんだろね?
5万年前にクロマニョン人(現生人類)がヨーロッパで勢いを増し、ほとんど一瞬のうちに先住のネアンデルタール人に取って代わった。
化石の人体の周りに花の咲く植物の種数種がともに発掘され、死者に花をささげたと解釈できる、という感慨深いネアンデルタール人の逸話が、著者によれば花の種を巣に運ぶ習性のあるナントカネズミがもたらした偶然の、恣意的であやまった解釈であるそうだ。そもそも、この逸話が感銘深い印象を与えるのが、他に例がないという特殊性に拠るからで、そのこと自体ネアンデルタール人が死者を弔うということがなかった証拠だ、とニベもなく否定してしまう。うむ。やはりそうかも知れない。それにネアンデルタール人の脳ミソの容量が現生人類よりも多かった、ということに関してもこの人の解釈は冷酷である。寒冷地方の筋骨たくましい体型から頭脳も大きかったのは比率上の問題で、現代でもイヌイットの頭脳は他の民族よりも大きい、と一刀両断してしまう。とばっちりで切られてしまったイヌイットはもっと怒ってもいいと思う。私なんぞは、現生人類のように金儲けのためにアタマを使ってたのではなく、ひたすら役にも立たない深遠な哲学的思索にふけっていたのだ、と夢いっぱいの解釈をしていたのだが。
まあ、見事に私の心やさしいネアンデルタール人像を否定されてしまったが、で、別にそれで私の日常が変わるわけではない。200万年前から5万年くらいにかけて、この世がどうであって、しかし事実はどうであった、という問題は別に、ま、どうでもいい。真実を知ったところで、この暮らしが楽になるわけでもない。「心やさしい」ネアンデルタール人の像を想起する時の、はるかなでかすかな連帯感を持っていたほうが楽しかったのに、とこの碩学の知的ニュートラリズムにほのかな逆うらみを抱いたりしそうである。
さて、本題。5万年前に人類にいったい何が起きたのだろうか?で、この人の回答は「さあ?」であった。気候の変化、農業の開始、人口の集中という外的変化となんらかの遺伝子的生物学的変化が相乗してコトバをマニュピュる能力が急速に発達し、それやこれやの相乗効果でそーなったんじゃ?というタイトルの勇ましさにくれべれば結構歯切れの悪い説明である。まあしかし、この羊頭狗肉の印象は著者の所為ではない。このタイトルは邦訳出版社がつけたんだから。
「看板が大きいだけだよ、ウチは・・」というセリフが入った漫画がこの人の変わらない境地だと思ってたが、そうでもないらしい。日本文学最強のブランドを祖父に持ってしまい、自分よりも看板が先に認識されてしまうという状況では、少しでも自尊心がある少年なら反発せざるを得ないではないか?それが、あの戯画のように自分を茶化すことができ、その表現が同時に見事にマンガ家としての自己表現になっているような境地に落ち着くまでには、やはり多少の紆余曲折もあったようだ。「世界・心の旅」というやらせ番組に悪乗りして漱石のロンドンの下宿を訪ねたとき、とっくに決着をつけたはずの祖父・漱石との関係が、思いもかけずもう一度生々しく意識に上ってくる。自分にとって漱石とは何だったのか?漱石の逝去年齢を過ぎた「不肖の孫」がもう一度、漱石の孫としての自分を考える、そういう本である。まあ、50歳になると自分の人生を少しはマトメたい気分になるもんだ。それは分かる。でも、エラい人を先祖に持つことはどういう気分?という野次馬的興味と、軽妙な筆致のくすぐり系の文章の読みやすさを別にすると、そう面白い本でもないな。よく考えると、なんとなく知ってるような気分になってる漱石だけど、本当はよく知らないんだよね、これが。「坊ちゃん」「猫」を別にすると「草枕」とか「明暗」とか「一応」読んだことになってるが、「草枕」の冒頭を別にするとなぁーんにも覚えていない。多分、退屈を我慢することが勉強であると信じていた高校時代の「岩波文庫つん読」だったろう。しかし、同じ「岩波文庫」でも芥川の方がよく覚えてるなあ。ということで、多少漱石さんには何となく借りがあるような気がしている。漱石?もちろん読んだよ、という顔をしながら、心の中ではやましさ故の良心の呵責に責めさいなまれていたりするのである。今回、この人のこのタイトルの本を手に取ったのも、元はといえば、本当に読まないと一生嘘をついて生きなければならない、というような漱石に対する負い目がなせる業であったのだ。うう。このやりきれない自尊と自責のせめぎあいの葛藤のひとつの解決への具体化の試みがこの本を読ませたとは、著者の想定の外であっただろう。というわけで、後世のわれわれはことごとく漱石の孫でもあるわけだ。
さて、漱石の身内からの証言からしてみると、漱石夏目金之助は病的で暴力的な夫・父親であったらしい。「だいたいが自意識が先にたって自縛自縛(原文のママ)におちいってしまうタイプの人間は、すべからく言動が不器用になる。・・・祖母には、まるで菩薩のようなふところの深い愛情があったかもしれない。少なくとも子供たちは『あの母だから漱石のような夫でも家がもったのだ』と語り、・・」と、これは漱石の有名な悪妻・鏡子夫人を語った部分。英文学を学び、西欧型の自意識をもちながら、明治日本の社会・家庭に生活した漱石は、神経を病みもするのだが、なんとなく私メのみじめな失敗に終わってしまう家庭生活への試みの先駆と見えないこともない。ただ、こっちは地位も金も名誉もない、ただの底辺労働者であるわけで、誰も偏屈を我慢してまで生活を共有してくれようとはしないんだよね、あたりまえだけど。
というわけで、漱石を読んではいないんだけど、漱石の孫の書いたものを読んだんだから、多少は漱石も読んだことに、なるわけないか。
弁護士経験者が書き下ろすリーガルサスペンス。被告が明らかに加害者であると分かっていても、刑事裁判では検察側はその有罪を立証する義務がある。だから、陪審員は被告が有罪かどうかではなく、検察側が完全に有罪と立証できたかどうかを判断しなければならない。主人公はこの立証責任を衝き、悪事の加害者を裁判で無罪にしてきた敏腕の弁護士である。しかし、この倫理と乖離した法の下の正義を行使する弁護士に、現実からのリアクションがやってくる。いかにも、実際の弁護士が職業上あたためていたようなプロットである。しかし、それを500ページの長編小説に仕上げるには、今度は小説家としてのとしての才覚が欠かせない。この点でグリシャムやトゥロウーは紛れもない作家で、たとえ派手な結末のひねりがなくとも、各場面の文章自体が軽快に読者を刺激し続ける。比較しては申し訳ないが、この作中で弁護士が活動するそれぞれの手順は興味深いとして、文章自体が面白いわけではない。実をいうと、意外な真犯人の正体がこの小説のサスペンスの骨子だけど、ひねくれた読者である当方は残念ながら物語半ばにして真犯人を割り出し、作者の仕掛けるサスペンスの舞台裏を見取ってしまった。だから、結末で明かされるクライマックスのひねりに向かって進行する小説の流れが凡庸な印象になってしまった。500ページの長編を支えるにしては底の浅い物語のシカケであるという他はない。しかし、法が果たして人を裁けるのか、というようなテーマを描くには、ある程度以上の長さは必要なんだろうけど。
在家から出家し臨済宗の寺で修行する僧の仮面の告白とでもいった小説である。閉鎖的な社会を枠組みにしているだけに、世俗社会より返って余計に増幅され、デフォルメされた内面の吐露が生々しい。かつて武田泰淳が「異形のもの」としての修行僧の内面を書いていたのを思い出す。しかし、この作家の描く世界はヤクザ、性、暴力が大きくえぐりこんでいて現在の「異形」であることを際立たせている。文章表現は豊かで、純粋に生理的な感覚も見事に文章化されているのに脱帽する。今まで鳴り続いていた車のクランクションが突然止まると、後耳鳴りのような余韻が残ったりする感覚が見事に視覚的な文章として定着されていた。ことばによる刺激には満ちているが、このような感性をカオスに向かって解き放つような小説世界を受け入れるエネルギーは私にはもう残っていない。バイクで駆け抜けていく若者を目で見送るように読了。
よくも悪くも体育会系の小説である。ヨットクルージングの爽快感や「仲間」との関係、あるいは親子の絆を確認することが、日々の生活の基盤であるような主人公が設定され、15年前に遭遇した海難事故の真相を明らかにしていくという話である。多少粗っぽい話の運びもクルージングの醍醐味に乗せられて読み飛ばしてしまうが、プロの小説家にあるまじき文体の趣味の無さまで帳消しになることはない。使い古された紋切り型の表現、「胸に秘めて」とか「補って余りある」とかが出てくるたびに、読者としては赤面するのだが、多分体育系感性の作者には気にならないのだろう。小説の結び方もかなり紋切り型で気恥ずかしい。しかし、体育会系的にすっきりとした人間性の持ち主(←多少の皮肉はありマス、はい)である主人公の理解を超えた行動様式を持つFemme fataleが実に生々しく造形されていて、それがこの小説の骨子になっている。どうしてこの程度の文体でここまで表現できるのかと、今までの当方の文科系的感性での生き方を真剣に反省したりする。(←多少のホンネもありマス。)繊細な表現力や感性を養ったところで、現実の社会で遭遇するある種の生身の女性の唖然とする他はないような存在感の前には小手先の技でしかないということを認識したりすることがある。文学が変革できるのは読者の内面であって、現実社会ではない、とでもいおうか。何が言いたいのかよくわからんと?まあ、よい。最近、いろいろあったとだけ、いっておく。
いきなり15年前に別れた件の女性が生んだ自分の娘が出現し、その娘との親子の絆を創出していく過程も小説の大きな機動力になっているのだが、たかが15年か、とつぶやいたりする。(←うむ、意味不明だなぁ。)
1972年2.28「連合赤軍あさま山荘事件」で逮捕されたとき著者は「少年A」と報道された19歳であった。事件から30年が経過し、服役し刑期満了で出獄した加藤の現在は環境活動家で「事件に関わった以上は取材に応じるのも私の責務だと思っている」という心境である。
高校生の性急な正義感からか、もっと言えば幼いヒロイズムからかもしれないが、当時の政治的熱気の中で京浜安保共闘結成に参加し、やがて連合赤軍に合同し革命兵士となり北関東の山岳アジトで武装蜂起の訓練に身を投じ「あさま山荘」に至る。その後の30年の経過も記されているが、戦慄すべきは山岳アジトでの仲間内での集団リンチである。
閉鎖された小社会の中の権力者が次第に独裁者のドグマに偏していき、下級階層者が保身本能からか、あるいは既に自発的に集団の論理に完全に自己を同一化させたか、凄惨なリンチを行う当事者となっていく描写は、痛々しくなまなましい。ドストエフスキーが描く世界の中でのような人間の脆弱さが、極限状態で極端なまでに発現してしまう。いや、30年を経た今もこの悪夢は生きながらえている。人間の本質なんて変わるものではない。おそらく、リンチを発案する人間は粗暴な少数者である。しかし、圧倒的多数者は自分がリンチされる恐怖から逃れるため、リンチする側に加担するするのである。こうして粗暴な少数者が常に権力を得る。今またそのような閉ざされた密室が発現するなら、必ず同様な集団リンチが発生するだろうということは確実だし、その暴力が日常化する中に連れ込まれた自分自身が、心の弱さからリンチに加わるのもおそらく確実である。この救い難い自己否定を目撃しないで済ます唯一の選択は自殺することである。だが、死なねばならない時にも死ねないような圧倒的な弱者である私は、明晰な自己意識を混濁させ、事前に狂ってしまっていることをただ願うのみである。狂わなければ、私は思考回路を逆転させ、裏返しの論理を組み上げ狂信的な加害者となっているだろう。
当事者である加藤は既に善意の一員として社会への復帰を果たしているが、テレビの前の野次馬にすぎなかった私は、未だにおぞましい人の姿をひきずり地獄をさまよっている。
なつかしさに思わず手にとって読み出す。「どくとるマンボウ航海記」は通貨持ち出し制限があり、海外旅行が特権階級のものであった時代に大ベストセラーになる。日本経済がが高度成長期に入り海外旅行ブームが到来したベースにはこの本の影響もかなりあったはずである。北杜夫はみずみずしい感性と形容される初期短編集と後の軽薄体日本語の基礎を準備した軽い自虐調の文体どくとるマンボウもので、われわれの青春の雛形を示した作家だった。つい最近も当方の内なるドイツ文学への憧れを準備した作家の一人として思い出していたところだった。
しかし、思わず「哀愁」のタイトルを2重の意味に考えざるを得ないような、悲しい現在をこの本は示してくれた。当方の現在に青春の晴れがましい高揚の痕跡がどこにもないのと同様、この本には読むべき内容も、はつらつとした文体も何もない。老人めいた過去の回想と、海外旅行ブームの先駆けとなった自慢話だけしかない。またく日本語になっていない文章すら2,3混じりこみ、青春の作家の老醜ぶりにあらためて世の無常を思う。あとがきでどくとるマンボウ北杜夫が「ウツ病でずっと寝込んでいた。」と書いているのを見、なんとなく同病相い哀れむ風に腑に落ちもする。が、よく考えてみると、いかにもどくとるマンボウ風のオチでもある。アンタはもともと精神科医なんじゃ?そういえば「ウツとつきあう」著書のある斉藤茂太さんもウツだったり?精神科医って自分では治療できないの?
いかにもアメリカ、どこを切ってもアメリカ、だいたいアメリカでなければ成立しない物語である。といって別にアメリカ文化紹介本ではなく、典型的なアメリカ中西部の田舎町での物語で、かなりいい線いってる小説だ。実をいうと2001年のわが初老失業ウツ受難元年の唯一の希望の星はメジャーリーグにいったイチローの活躍だった。それ以来、私はMLBのファンになってしまったのだ。ことあるごとにアカペラで国歌を歌わせる儀式をするアメリカ野球は、アメリカという国が垂れ流すものの中では最良の輸出品である。
そのMLBの傘下に3Aがあり、更に2Aがある。この辺までがいわゆるプロ野球チームのリーグで、さらにセミプロ級のリーグの網が各地方に存在し地方都市では自分達の球場にプロの試合を見に行くのはこのクラスであり、翌日の地方新聞には町のチームの花形選手の活躍が報じられる。しかし、このクラスのチームでも全米各地のプロの玉子たちを招聘し、なんとか自分達の町のチームを盛り立てようとする。日本の「社会人」野球ではなくて、あくまでセミプロの球団で、給料の足りない分は地元の有志の会社なりで午前中働いていたりするのである。まあ、この辺りのアメリカ野球の裾野の広さや、地方都市間の「コットンリーグ」の開幕の雰囲気、まだMLBから2Aにいたる純プロにはお呼びがかからない若者達を地方リーグに紹介するエージェントの存在、チャンスを求めて地方リーグでプレーしようとする若者達の心境、等々、野球というチャネルを通じ、アメリカという入れ物の外から見え難い奥行きの一部を覗かせてもらえる本である。おっと、これはドキュメンタリーじゃなくて小説で、なかなか楽しめるサスペンスもある。まあ、プロの作家の作ですね。
ちょっとアブないレスビアンのピアニストが主人公のコメディ。といっても、別に純喜劇調小説ではないのだが。死んだ恋人(女性)への純愛がメインテーマとして物語を前に進めていき、気がつけば血のつながりのない子供とゲイの男と3人で家庭を構えるという、奇想天外な大団円を迎えるのである。この主人公のモノローグの文体は若い女性風の軽味があって、それでもしっかりと微細な感覚にも達し、なかなか心地よい。プロのピアニストとしての生活描写がかなりソレっぽく、実に自然に物語に引き込まれてしまう。サントリーホール級のプロや、ホテルの結婚式伴奏クラスの流しの生活、コンサート前のプレッシャーの描写、引越し荷物のスタンウエイだけで防音室の解体組み立てを含めると引越し代金が100万を越してしまうというような、くっきりとしたリアリティの小技が利いていてかなりフィクショナルなレスビアンの純愛という鋭角的に突出するテーマを無理なく小説的時間に融和させている。突出するテーマといったが、モラルとか社会問題が提起されるというような作品ではなく、あくまでひとつの恋の形を物語る愉しみがつづく。しかし、後半になると小説的に多少ご都合主義的にも見えるような収め方をしているのは、テレビドラマ的すぎる気もする。この才気には適度な毒もありで、好感を持つ文体だけど、読み終わるとなんだかテレビの類型的なホームコメディをまた一本みた、というような印象になってしまうのは、ストーリーを作りすぎた所以だろう。でも、またもう一本見たいよな。
というわけで、なんとなく「うつ」基調が日常化してしまった。もう何も始まらず、失っていくのみ、というようなメランコリーにどっぷりと漬かってしまっている。北杜夫サンの老醜も見たくなかった。いつまでも青春のほてりが残っているから、いつまでも老成できない。いや、まだ始めていないのに老成する気にはなれない。しかし、この人間型をした入れ物はもうとっくに疲弊老朽化してしまっている。この落差に「うつ」気分がうつうつと立ち込める。
斉藤茂太さんもウツで、引越し中に急に動きが緩慢になり、うつが始まったという述懐は納得がいく。精神科医が「うつ」であっても形容矛盾ではないんだ。うつは気質だし、不健康な生活をしている結果ではない。自分のしていることが無意味に思えることはよくある。こんなにストレスが多いと、何のためにまだ生きようとしているのかわからなくなる。「うつ」は伝染する。「「うつ」と明るくつきあう本」を読んでいて、「うつ」について考えていると、「うつ」がぶり返してくる。幸い、私は自分が世界を主催しているのではないと自覚しているので、あるレベルまで生命維持意欲が落ち込むと自己責任回避装置が働き自己相対化ルーチンに飛ぶようプログラミングされている。こうなれば無敵モードになり、裸で町を歩いたって平気な心理バリアーの防御ネット内で保護されるのだ。
これって、実は躁鬱症だったりして。
最近のテレビでぐちゃぐちゃ喋っている「タレント」諸氏を評して「はなはだしい躁状態と見受けられる人が大部分である。」と精神科医斉藤茂太氏がいうのは、わが意を得たりという感がある。若い兄ちゃんに多いですよね、その「薄っぺらい躁状態と見える人が多い」っていうの。「社会が躁に対し寛容になっただけではなく、社会の雰囲気そのものが躁になってきたようだ。」こういうの、困るんですよね。余計にこっちの鬱が自分の中で際立ってきてしまう。
大丈夫だって、最後にはドパーミンが大量に放出されて鼻歌うたって死ねますよ、っと私は信じているのだ。どうしようもない状態になれば、このかろうじて標準体型を維持している自尊のレベルをさげよう。で、甘いものを多量に食ってブドウ糖値を上げ、脳細胞にセロトニンを放出させよう。太っちまって毎日ガハハと笑い飛ばせばいい。しかし、糖尿持ちだからなぁ。すぐ意識混濁するよなぁ。
他人の悲劇を聞くのは快い。特に表向きは平穏な家庭でも、裏に回れば云々、といった暴露的裏情報は買ってでも仕入れたい。そうして他人の悪夢を第三者として眺めているうちは自分の悪夢のことを忘れていられる。
この作品は芥川の「藪の中」の構図を徹底したサスペンスである。3世代同居の家庭と、その主婦の妹世帯という、ザラにある日常社会の典型的モデルがあり、突然事件が起こる。そこから犯人探しのサスペンスが始まる。読みすすむうち、登場する家族の全員がすべて隠し持った殺害動機があり、さらには自分が犯人であると故意に名乗り出たりする理由もある。何気ない日常生活の底に潜む憎悪と殺意。他人の心理の暗闇を覗くの愉悦はあるが、覗いている自分を含め、救いのない重苦しさも残る。ここに登場する限りなく自己中心的で不倫を重ね、嘘で他人を貶める悪女の造形が生々しい。まあ、いるんでしょうね。このタイプの女の人、つい近くに。
前回読んだ「サグラダ・ファミリア」のピアニストのお姉さんがいたく気に入ってしまったので、この長編を再読。実はあまり内容を覚えていなかった。再読して気がつくのは、テーマも登場人物もほとんど同じバリエーションであることだ。狂おしいばかりの純愛に身を破滅させるレスビアンの芸術家。主人公の精神的な親になる老女、限りなくやさしいホモの男性、やーさん風との抗争とかもある。物語としての密度はこの作の方が高いが、愛人に対する破滅型の芸術家である主人公の一途さは、あまりにも厳しく求道的だ。どのみち甘美な純愛物語として小説的に終わらせるなら、もう少し軽みがある方が読みやすい。「サグラダ・ファミリア」では、テレビのホームドラマ的すぎる、と書いてしまったが、本当はその辺りの幸福感が作者の小説世界の本来の目的地であるようだ。多分、本人はもう少し純愛よりの目標を定めて書き始めたと思うが。この作の、モロッコのうだる暑さと、得体の知れない人々がうごめく雑踏に閉じ込められ、もうどうにでもなれ、という破滅願望、マラケッシュまで行っての「心中」は充分魅力的なイメージではあるけれど。
'86から'96にかけて発表された短編集。アメリカでプロスポーツがらみで生きる日本人が主人公になっているシリーズ物の感がある。作者が言うように「10年の日米関係の変遷がおのずと浮かびあがる」構造になっている。・・・とここまで書けば、あらかたネタはつきてしまう。プロスポーツといっても、時期的にはイチローさんの前夜で、日本人がアメリカンドリームを実現するというすっきりとした世界ではない。メキシカンリーグの下積み経験からメジャーに這い上がろうとする若者を、ドラッグや裏金が支配するプロの実情が洗礼する話や、あまりに見事に悪役ぶりを発揮し、終にリング上で銃殺されてしまうプロレスラーの話というように、やや苦重いアメリカがある。後者で言えば、日本企業の輸出攻勢で反日感情が高まった時代が背景になっている。華々しいアメリカの成功が若者の夢をあおり、渡米した若者がユートピアどころではないアメリカの真実に少しずつ自らを順応させていき、やがて自分もアメリカそのものを構成している雑多な要素のひとつになる。それはそれで典型的なアメリカ物語である。あまり船戸の作品を読んでないのだが、どこか下積みの暗さ、重苦しい人間の生活の滓が基調になっている小説世界が多い印象だ。そんなのはもうたくさんで、私が小説で仮想体験したい世界ではない。異邦の地への抜群の取材力がある実力派エンタティンメントの書き手なんだから、どこか突き抜けたハイテンションな小説世界をいつかは実現してくれると期待はしているのだが。
関西の大学で教鞭をとる阪大系若い音楽学研究者達(岡田暁生、伊東信宏、近藤秀樹、大久保賢、小岩信治、大地宏子、筒井はる香)の小論集。ピアノを弾くという行為を巡り、非常に面白い議論で挑発してくる本である。超難曲を完璧に弾きこなすより、ミスタッチだらけのホロビッツの演奏の「危機一髪の緊張と快感」に、演奏するという行為の本質を洞察する岡田のコラムが象徴的だ。確かに。いや、ミスタッチ自体が自分の演奏スタイルであるアマチュアピアニストとして当方を擁護してくれた、という意味ではもちろんない。楽譜の解釈という静的な、あるいは受動的な自動機械としての「演奏」ではなく、奏者の肉体の動きとして演奏を論じることは音楽学の死角であったことに気がつく。ショパンを聞くより弾く方がはるかに楽しい。それは音のドラマである前に指や手、肉体のドラマだったのだ。音楽は先ず肉体の運動からくる快感ではなかったのか?確かに。
論者達の着想や、論理を組み立てる方法論は目新しく刺激に満ちているが、何よりも感心したのは、そろいもそろってなかなかの書き手であることだ。決して「音楽学」の学徒からは聞けないような気の利いた論理の立て方は書くことの快感さえ伝わってくる。また論者達の資質や文体も粒がそろっていて、まるで同一著者が最初から最後まで論じているという印象をもってしまう。音楽を聴き、ピアノを弾きながら検証し、そして論を進めていく。若い筆者達の闊達な議論を見ていると、日本でクラシック音楽をただ拝受していた時代がつい最近まで続いていたということを忘れそうになるのである。
なかなか人を食ったタイトルであると思わせる。自分は「小説家」なのか?とやや揶揄気味に自問する序があり、「本格小説が始まる前の長い長い話」と題された170ページにも亘る前書きがある。いうなればここまでが「私小説」で、以下その私小説の反対概念である、「本格小説」となる大胆な構成だ。いや、作者が物語りの前に登場し前口上を述べるのは「本格小説」ではよくある構図である。大胆なのはその前口上自体が「小説を書くこと」を巡る完全な私小説であることだ。ここで本来の本格小説では全能の語り手「作者」の代わりに狂言回しを務める人物を読者に紹介し、やがて作者は退場し、私の領域からこの人物を物語の領域に送り込むのである。
小説への、なかなか面白いパロディーじゃないか?それに、軽いユーモアのある今どき女性調の語り口も自然で、話を聞いているうちについ、読者の方もいつの間にか物語の方へと送りだされていたりするのだ。
さて、本格小説の方では「堀辰雄風軽井沢もの」とでもいうような、古風な趣もある恋物語が始まる。戦前からつづく名家の子女達の中に偶然紛れ込んだ、薄幸の子供が身分違いの恋に引きずられ数奇な運命の局面を切り開いていく、というように。アメリカ生活中に日本文学に取り付かれたらしい作者の、軽井沢の恋物語はおそらくは文学的原風景にあたるものかもしれない。非常に手の込んだ形で物語に送り込まれた読者は、家系図付の由緒正しい恋物語の濃密な時間にのめりこまされ、最後まで結果をみとどける以外になす術はなくなる。12歳で渡米した作者の回想は現実の時間であろう。しかし、重層する物語の核心は小説家の創造である。だが、どこからフィクションが始まっているのか、境目は判然としない。小説家が主張するように、もしかしてこれは全てが真実の話であるのかも知れない。しかし、全てがフィクションでもある可能性もある。そのときは作者の回想自体がフィクションでもある。そのようにして読者自身もフィクティブな方に流されていくのである。うむ、物語同様この書評もかなりフィクティブになりつつある。
今年は意識して純愛小説を読んできた。8時過ぎに仕事を切り上げ、通勤電車を4回乗り継いで10時過ぎに帰り着き、ただ食って寝るだけの超散文的日々にまみれ、いつの間にか私のまわりから個人的係累が希薄になり、ついに誰もいなくなった。心ときめかせる体験は、満員電車内でかろうじて確保する目の前30センチの空間に封じこめられた物語だけが供給源となった。しかし、と、私はそこで確信する。物語の中で、自分の軽井沢体験を明滅しさせ、この世ならぬ出会いに心奪われ、はるか源氏物語からの系譜を引く恋の狂気に身を任せ激しく生きていく絵空ごとの主人公達に自分を仮託している堀辰雄風の17歳の夏休みの感受性が本当の自分で、くたびれ果てて下層労働者の町に通っている50男の方が実体のない影なのだ、と。この地平で読者は小説家が架空した物語に入り込み、それを読者の側で実体化させ、その時空で密かに共犯関係を契り、こうでしかない自分達の今を内面から裏切るのである。見事に構造された物語は目の前の「今」よりも堅固な実体を産む。
と、結構楽しめる小説なんだけど、突然ナマの童話風文体が挿入されていて、手抜きかと疑ってしまう部分もある。幼い主人公達が運命の出会いをし無心に季節を過ごす場面である。作者は意識的に夢幻的な効果を出そうとしているのだが、単に一本調子になって返って物語りの緊密性を殺いでいるように思える。
ともあれ、重層的で、作者も顔を出し、日本とアメリカの戦後史も織り込まれ、充分住むに耐えるバーチャルな世界が構築されている。「本格小説」。なんと自信満々のタイトルではないか。