エッセイスト・イラスト画家辻まこと(1913−1975)の小説風評伝。
辻潤・伊藤野枝の実子である。いきおい、戦前の思想家、社会主義者の豊富なスケッチが時代考証とともに活写されていて奇妙に高揚した時代の雰囲気が懐かしい。例えばダダイスト辻潤の自己演出による佯狂ぶりは自ら餓死するという地点にまで達し、大杉栄に走る伊藤野枝は例の甘粕大尉に二人して惨殺されるのである。何か戦争とういう圧力の下で捩れ、奇妙に膨れ上がった高揚が支配する時代だった気がする。
女性達も流行の自由という概念から自由になれず、奔放な女性を自ら演じることもあったのではないか。父の半ば自虐的な女性への惑溺に反発しながらも、辻まこともまた時代の子として世相とからみながら戦前・戦後を生きていく。・・・
というような平板なレジュメをしてしまったが、当方、辻まことの作品を知らないので、作者の思い入れ自体は共有できない。密かに昭和三十年台にあった厚ぼったい登山ブーム、歌声喫茶の雰囲気を思い出し、新田次郎や串田孫一の作品を想起するだけである。主人公が交遊する矢内原伊作という名もなつかしい。2,3週間前にスイスのバーゼル美術館に行き、中には入らなかったのだが、20年前の記憶が蘇り、館内にジャコメッティの部屋があったのを思い出した。嘗ての訪問時、針金細工のようなジャコメッティの人物塑像を記憶に刻ませたのは矢内原伊作「ジャコメッティと私」という著作だった。
辻まことという人物を通じ戦前・戦後の時代の雰囲気を追想することでページを繰って行った。作者に主人公への思い入れがあり、それが読者にほのかな共感を与え続けている。強烈な個性の時代のビッグネームではない、市井の、いわばその時代限定の小芸術家を掘り起こしていった著者の姿勢に好感。
近未来SF風純文学仕様自己再生ドラマ。←ちょっとした反発による茶化しがあるか(^^;
月面の荒々しい原初の光を目撃し、衝撃を受け地球に帰還しても自分を見失ったままホームレスの群れに投じた宇宙飛行士の自己再生がテーマ。ホームレス、自己再生、あるいは「宇宙からの帰還」(立花隆)や中国人の出稼ぎ看護婦等のこの時代のキーワードがちりばめられている。確かに、ホームレスで象徴される社会的アイデンティティの喪失と、一方の原初の自然に触れることによる宇宙飛行士の自我の崩壊の組み合わせは、その位置エネルギーだけで自動小説装置として機能する。前半はこの記憶喪失の宇宙飛行士のミステリーが読者を動かし、後半では社会的各層の協力者達の自己再生への努力がドラマの推進力になっている。だが、純文学風のSFの多少くだくだしい内面描写はSFミステリの疾走するスピード感を殺し、TVドラマ風に類型的な官僚・ホームレスの哲学者的老人・純粋な善意しかない中国人看護婦等の造形は人間描写としてかなり平板な印象を与えてしまう。面白くないこともないが、あまり面白いとは言えない小説になってしまった。
私には文芸新人賞を取った著者のみずみずしい自伝的処女作の読後のイメージが40年を経ても持続していて、あまりに小説しすぎているこの作には、その分からい評価になってしまうのだ。
京都国際マンガミュージアムの見学に行った。特別展「路地裏のロードショー 紙芝居の百年」を見学し、水木シゲルの「鬼太郎」が実は戦前からあった紙芝居の題材であることを知った。更に「悲劇コケカキイキイ」(杉浦貞氏蔵)の「原画」の展示のおどろおどろしい、正に不気味な原っぱの怪談が印象に残った。
ただし、本書はどちらかというとこの「不気味なもの」たちの精神分析学的または神話学的な分析を旨としたアカデミックなものだ。だから、私の検索意図とは少し食い違っていた。有名なグリム兄弟がKinder und Haus Marchenを収集したのは実は自分達の快適なサロンの中だったというような裏ハナシがあり、ドイツ語Hausの両義性(親密なもの→おどろおどろしいもの)となる言語心理学的な考察。
クリスチアニズムが聖なるものと血なまぐさい悲劇とのアンビバレントな複合をもたらした。云々。
長いセンテンスで克明に微細な感覚の彩の部分まで言い込もうとする文体。いやあ、久方ぶりの文学ですねぇ。一人称の主人公は東大行ったクセに何だかドロップアウトしてしまって、夜の世界の裏あたりで半分グレつつ暮らしている。しかし、女や好奇の念は年齢相応にあるのでこの世の仕掛ける悪意の美の罠にはまっていく。昭和初期の小説家のような破滅型芸術家小説風。現代的ハードボイルド風の味付けもある。だからなかなか文学的道具立てがきちっとしていて読ませる。しかし、もうひとつ主人公の核心が確信できない。こういう人はいったいどこに向いて生きているんだろうか。芥川「地獄変」、三島「金閣寺」風の規格外芸術家か。とりわけタイトルになっている「巴」のアイデアがまるでとってつけたようなこさえものにしか見えない。こういう小説は胚胎し書き始めることより、着地させることが難しい。小説として提示するには結論や結末が必要だが、この辺が腑に落ちない。先にあげた2作では第三者として主人公を提示し、人ゴトとして完結させているのだ。
和辻哲郎「古寺巡礼」(1919)から木崎さと子の平成元年の文章にちょっと古めのアンソロジー。各仏像について同様なアンソロジーが同じ出版社から出ているようだ。この巻は千手観音。もちろん三十三間堂のものから始まり、実際に千手がある葛井寺・東招提寺に至る京都・奈良ものについての新聞記事程度の文章が20篇ほど収められている。
個々の文についての感想は控える。が、たとえば小川後楽「京の佛たち」では三十三間堂の1001体を指し「純粋に信仰心から生み出されたものというよりも、...何か企業的な生産ペースに乗って製作されたものではないかと・・・・そうした、いってみれば企業意識まるだしのような仏像に接することも少なくはない。」と書いていることは、いいにくいことを実に率直に提示していると見えた。多分和辻哲郎の標記の書あたりから、いっぱしの知識人であれば古寺・古佛の美に対して感応することが当然という雰囲気が生じたのであないか。それまでは単にお寺と仏は単に現世利益の対象だから崇められてきたはずなのに。私なんぞ西欧近代美術のような実に感応しやすい「美」があるのに、色あせて禁欲的(^^)な仏さんがそれほどの感動を与えるとはとても思えない。確かに傑作中の傑作、法隆寺の百済観音像を見るときには一種の音楽的なリズムを感じ、独特の感興を抱くが、とても感動というダイナミックな感覚の域ではない。商売柄多くの仏さんを見る機会は多いが、あまたの名文家が賞賛する程のこととは実はあまり思えない。これは信心が足りないのだろう。
しかし、個々の仏像に対してのアンソロジーを読み比べてみると、賞賛する人それぞれの見方があり、どうやら西欧近代画のような単純で均一な「美」の基準があるわけではないらしいことが見えてくる。いや、それどころか実際の物理的存在としての仏像を通じ、その歴史的経緯いわく由来薀蓄の総体を語っている文章も多い。だから純粋に「美術作品」として仏像を見ている人は案外少ないようだ。つまりは仏像の美とは美術の美ではなく、何か文化や歴史、それ以前の思い入れの総体の美であるのかもしれない。観音に実際に千の手をくっつけた佛師は、果たして自分の美意識だけで製作していたのか。むしろ物理的軽業風手工の世界を腕を発揮しようとしていたのではないか。それはそれで物理的に破綻しないためには全体を統一する力学的バランス感覚は必要だ。結果として絶妙なバランスが美と感じられることはあるだろう。また各手には約束事として定められた持物があり、自由な芸術的創作なんてものではない。職人のぎりぎりの工芸力だったはずだ。
つまり、後世のわれわれが思うほど彼らは「芸術家」的ではなかったのに違いない。
しかし、その様式的技術的制約の中で仏師が作製した仏像が信仰の対象として年月を経ていく。古びていき、けばけばしい彩色が剥げ落ち、新しい漆のてかりが本堂の暗闇に同化していく。そのかわり無数の人々の崇める意識が埃とともに仏像の周囲に立ち込めていく。そして工芸的に作られたという意識も証拠も年月とともに埋もれていき、まるで宇宙の最初からそこに在り調和していたというような気配が覆ってしまう。
つまり私達が見ているものは仏像というハードではなく、歴史や文化上の仏像というソフトの方を見ているのだ。
フェノロサが見た秘仏救世観音は、確かに近代西欧彫刻に匹敵するくらいの古代の技術力はあったにしても実はその神秘的なエキゾチシズムが主たる高揚だったし、私が昨日4月15日に見たのは特別公開時期という機会を得た野次馬の好奇だったのかも。
仏像はあくまで仏像としての文化的文脈の中で見るべきだ。純粋な美術品として見てしまう愚を犯してはいけない。仏像には値札がついているのが見え、商品として展示している京都の寺は多い。
西欧でキリストの像を見るのに教会の扉を入り、いきなり拝観料600円といわれたことはない。いや、タイのお寺だって拝観料なんてとらない。ということは、京都・奈良のお寺はすでに信仰の場としては死んでしまっていると言えるのではなかろうか?
平安初期に活躍した陰陽司の講談話の偽作である。著者は現代風講談であるとし、マクラに毎回個人時事ネタを入れ、楽屋落ち的悪ふざけでくすぐりまくるという何ともしまりのない作風である。しかも少年阿倍晴明の最初の呪術合戦のみしかなく、あまりの作風の安直さに続編の依頼がなかったものと見える。まあ、この作者の芸はわかってたので別にそれが悪いというわけではない。しかし、こういうハチャメチャつくしは今ではもう古い芸になってしまい、作者が躁状態で自分で哄笑するたびに青白くシラける。同じ作者によるもうひとつ別系統の晴明ものがあるようなので、そちらの方がまだマシな風か。
特に悪役葦屋道満(←いかにもワルそうな名だ)と九尾の狐がエログロく交わる秘術の段はもう何度この手の三文娯楽小説でお目にかかったか。あれ、まだこんなことやってる。うぇえ。
2001-2006の短編集。いつもの筒井節があったり、ちょっと文学してみたり。筒井の作品で妙に印象に残っているのは、相変わらずのドタバタで終わる短編だが、ひとつの生理的感覚が常にハナシを前にすすめるエンジンになっている、そういう風な短編だった。ひとつの奇妙な感覚を発想し、それを文字で定着させるための実験的短編作法。発想はいろいろだが、手法は似てくる。個人が勝手に発想する観念を無理に現実社会の中に出現させ、そのミスマッチのエネルギーをドタバタ大団円にまで持っていってエンターティンメントする。SFするには宇宙船は不要だ。人間の内部を探せばいくらでも奇妙なモノは見つかる。この短編集で気がつくのは、ドタバタ大団円を意識的にカットしている作が多いことだ。あるミスマッチが出現し、その不協和音がルールとして見えてくる。後は読者の方でドタバタ大団円を嘗てに想像すればいい、という作法。
西洋古典大衆文学を読む楽しみそのものがテーマになっている「耽読者の家」。別に小説的発展があるわけではない。明治に流行した西欧翻訳小説を読み漁るというだけの話である。何もシカケはない。返ってその何もなさ自体がちょっとシュールな感覚を生む。
筒井康隆が紹介するどこかちょっとヘンな世界。
1冊5000円平均で小説一本読むのに1万5千か。
図書館で借読できなければ、本当に買ってまで読む人っているの?いや、値段のことではなく、本当にユゴーなんていまさら読む人いるん?
というのはもちろん、映画・マンガ・芝居でストーリはおなじみ。文学史でユゴー先生の名は一番に教えられるのだが。
この活字のつまりようはどうだ。
ジャンバルジャンが銀の食器を盗む最初のエピソードが始まるまでに実に50ページ、延々とどこかの司教さんの生い立ち・経歴・生活が語られる。
この司教さんがジャンバルジャンをかばい、それが躓きの石となるワケだが、それにしても長い・・・。
これが、いや、古典なんですねぇ。
なんとも悠長な時代というか、饒舌にのめりこむ世界というか。
とても15分に一回CMが入る現在のTV時間感覚ではない。
しかし、我慢して読む。急ぐ必要はない。
やっと宿敵ベジャール警部が登場し、デビッド・ジャンセンの「逃亡者」の原型がここにあったか、と気がついたりする。
第一巻読むのに一回延長4週間。
第二巻で養女コゼットを思い慕うマリユスが登場し、やっと役者が全部そろう。
全部そろったところで、偶然再会したコジェットの極悪非道の育ての親テナルディがジャンバルジャンを嵌めておびき出し、マリユスが影から眺め、そこにベジャール警部がやってくるというあまりに安直なご都合主義的場面になる。
しかし、あまりに地の文が長いので読者としては「どうでもいい!物語よ、とにかく前に進め!」とばかり、その田舎芝居も肯定してしまう。
第二巻にまたも4週間。
ああ、やっと革命さわぎが始まる第三巻に行ける!
そして本日、奈良県立図書情報館に行き第2巻を返却し、第3巻を書棚に探した。
無い・・・。
ひょっとして貸し出し中か?
いや、それはない。第3巻だけ借りる人もなかろう。
館内蔵書資料を検索し確認する。
ヴィクトル・ユゴー文学館第4巻 レ・ミゼラブル(3)の記載がない!
職員に掛け合う。
「まだ購入してないのか・・いや、2000年の発行ですね・・元から無かったのか・・」
おいおい! そりゃないだろ!
2ヶ月近くもかかって第一巻、第二巻と読み進んできたんだぞ。
図書館でそんなキタないことしてもいいのか!
物語の最後の巻だけ購入してないなんて!
嗚呼無情。
というワケか。
古典をじっくり読むには、やはりまだチト早いと?
ああ、そかそか。 ん、じゃ、とりあえず。
と結構イソイソして(^^;代わりにSFを借りて帰ったのだが。
非常に追跡がしにくい人物の伝記小説である。この作家はどうやら大手企業に勤める技術者らしい。そのような立場の人物でないとこの17世紀日本の数学者の業績を紹介する手間と資質を持つ作家は皆無だろう。私も自身もまったく江戸時代の「和算」についての知識がなく、ただ日本独自の代数学と思っていた。今回おぼろげながらオランダや中国からもたらされる西洋数学の理解に基づいた理論的発展であると教示された。また、数学的知識が暦や検地測量に生きる実学として為政者からも認知され、数種の学派が互いに難問を世に問い競うというような状況も存在したということだ。
しかし、伝記的記述はかなりフィクションにかたよっているような印象を受ける。このような史的事実がはっきりしない人物に対しては想像で補う部分が増えるのは止むを得ないが、どうも話が違うんではないか、という印象を受ける。おかげで適当なサスペンスもあり、適当な読み物になっているわけだが。
特に禁制のキリシタン宣教師や関自身のキリシタンとの関りにはどのくらいの信謬性があるのだろうか?このキリシタン殉教者達の事跡はあまりに大きなテーマなので、あまり深入りするのは危険だと思うが、かなりのこと言ってますね。技術者よりも作家として立場が勝っている人ですね。
サイエンス・カフェと称する連続講演の筆記録。あまり深い討論ではないが、研究者レベルが多いと思われる聴衆に異分野からの刺激を与えるような活発な雑談に満ちている。
今まで音声言語のトランスクリプションだと思っていた手話が独自の文法を備えた独立した言語であると教示された。これは意外と重要なことで、酒井が指摘しているように、喉の構造が複雑な音声を発することができないのでネアンデルタール人には言語が発達しなかったとする説には根拠がなくなることになる。
また、手話の「標準語」に固執するあまり、手話ニュースの手話は実際には理解不能の標準手話を放送しているという指摘も昨今のNHKの姿勢を思い出させる。
堀田が盛んに「忘れていくことが学習することだ」「(運動系の学習については)余計な出力が無くなった。その結果自転車に乗れるようになる」という逆説的な学習のイメージを提示しているのに少々刺激された。もっともあまり満場の賛同を得られていないような雰囲気だったが(^^)。このイメージは「進化して小さく・単純になる」という言葉に含めるように私の頭は作動した。
もちろん人間が進化のチャンピオンではないぞ、という暗示のあるタイトルに惹かれたのだ。『生命の本質が「はびこる」とこである以上、最多にして最も多様性を獲得した生物も地球の覇者といえるのではないか。』
この水平進化という語は耳慣れないが、視覚的にはピラミッド型の進化図式との対象をいう意図だろう。最近、私の関心は「別の進化法」に収斂してきている。この進化のイメージが現在の環境や食料問題の矮小な馬鹿騒ぎに対する本質的なアンチ・テーゼになるという確信があるのだ。だから、カイアシ類という極小の個体でバイオマスとしては地上最大の生命体の「戦略」は示唆に富む。
しかし、そういう我田引水的な了見を超え、この本は結構面白かった。生物学の啓蒙書だが、物理とちがい計算式ではなくて奇妙な生物の図がふんだんに出てくるので楽しい。なによりもこの先生の口調がなかなかツボを心得ているカンジで、飽きさせない。それに、同業者や後輩の業績を積極的に称揚し、紹介する姿勢や嘗て犯した研究上の誤りそのものも研究情報として開示する態度に好感が持てる。無心になって海中のプランクトンの研究に没頭しているような御仁には俗的功名心のようなモチベーションは研究には不要なのだ。まあ、とにかくいろんな生命としての戦略がある。特に印象的なのは矮雄を自分の体内に飼ってそだてている雌がいる種類や、魚のエラに寄生し、自分の頭をろくろっ首よろしく魚の血管内に伸ばしていき心臓近くの新鮮な血を摂取する種類等。よく考えれば寄生という生き方は、コストパーフォーマンスでいえば進化の真価といえるのかも。自分では働かず、他の勤労の成果を掠め取る。これを悪とするのは進化しきれない種族の傲慢である。このカイアシ類のような多様な進化の試みが成功するには多分、世代交代の早さと簡単な身体構造が必須だろう。
私は今未来の人類を考えるとき大きく分けて2つのシナリオを持っている。
ひとつは人類が嘗てのCO2に覆われた地上にはびこって酸素を放出した植物のように、地球全体の環境を代え、リセットして次に来る新しい生命サイクルを用意していくこと。まあ、別に用意しなくとも環境が変化すれば必ず新しく対応した生命が発生するようなのだ。この地球では。
もうひとつは人類が複雑化した機能の精度をあげるような直線的進化を捨て、次第に身体を縮小し細胞数を減らし、単純になっていき、平均寿命が3日くらいに短くなって、一日で次世代を生産できる体型になって、どのような環境にもすぐに対応できるようになることであうる。
温暖化で水没していく陸地が問題であれば、今からエラを生やす練習をでも毎日行えば、多分1000世代もあれば水中に回帰できるだろう。
「ゾウの時間ネズミの時間」(中公新書)の著者。生物の内的時間はサイズによって変わる。時間とエネルギー代謝の関係をアインシュタイン張りの単純な関係式にまとめ、時間の経過が一定であるという前世紀の科学上の作業仮説が絶対認識になってしまった現在の時間感覚からくる齟齬を説く。説くばかりか歌ったりもする。フィートが個人に拠り変動する可変の単位であったが、メートル法が地球の大きさを基準とした度量衡の絶対を目論だところから時間が一定に経過するという誤認が始まるとする。数的な量の変化は一桁増えるとき、質的に違う変化と認識される。云々、という面白い議論が展開され、スタイルも個人的で楽しい。タイトルはエネルギーを消費して時間を買い、長命を得ている現代人の不自然さの批判である。この不自然さは生殖を基本原理とする他の生命体と比較すれば顕著で、たとえば産卵を終えると即死んでしまうサケや、ゆっくりとした植物状態で数年を幼虫としてすごし、成虫となって爆発的に生殖活動をし数日で死んでしまうカゲロウのような昆虫の生は本当にすっきりとこころよいぞよ。成虫になれば消化に関する器官が一切ない虫も面白いが、よく考えれば植物がそのような生を選択している。屋久杉が樹齢3000年という時間を持っていることを考え、その時間感覚を何とか想像してみる。動物とはまったく違った世界感を持っている。うむ。同化したいよ。
もちろん、私は長命だけが生きる目的とはもう感じていない。むしろ自分の役割を果たすこともない、不要物として速やかに消滅していきたいと思っている。ただし、痛いのや苦しいのはごめんである。なんだかわからんが、これを読んでいて「ゆっくり生きよう」と数回つぶやいたのである。
今年死去したクラークの未読の作品。多少は期待するのだが晩年のクラークの作品は2001の二番煎じや陳腐なバリエーションばかりで失望することが多い。バクスターとの共作の本書もどうやら同じ。往年のクラークに人生的規模の刺激を与えられたものにとって、こういう老醜を見るのはつらい。高次な知性体との邂逅テーマだが、知性体への宇宙論的興味より、引き起こされた人類史のハチャメチャぶりを描くことで読まそうとする。そんなのは筒井康隆にまかせておけばいいのだ。肝心の地球の歴史への介入意図や思考には何も触れていない。少なくとも知的興奮を誘うようなアイデアはどこにもない。
しかし、こういう感想はもしかして読者が2001のクラークのイメージに捉えれすぎている結果なのかもしれない。クラークという文字を見なければ、水準的なSFとして楽しめたのかも。アレクサンダーとジンギスカンの闘争に意思的に参戦した現代人の感覚の記述は示唆的だった。死を前提にした戦場の自由。死は恐怖ではなく、別のポジティブなイメージで、防御や苦痛にわずらわさせられることなく、すべての力を使用できる限りない自由。このイメージには納得できる部分がある。バイクでカーブを曲がろうとするとき、転倒することを考え、スピードを落とすのが常である。しかし、自分が無敵モードであると知っていればスピードを落とすことなくカーブを曲がりきることができるだろう。その自在な感覚はやはり現代人には味わう機会はないと思える。
もうひとつ、この歴史への介入の意図を考えようと試みる部分だったか、「進化を説明するのに神をもちだす必要はない」というような引用があった。最近よく生命の本質を考えることがあるが、生命の目的、あるいは進化の収束地点や無生物から生物になるときの「動機」を考察しようとすると大きな矛盾が生じる。生命は「自己保存」を積極的に行うという初期値、あるいは命令を最初に与えられているように見える。そのとき、人間としてはどうしても「誰が」「どういう意図で」その初期値を定めたのかを自問してしまう。
しかし、あるいは「無目的的」に「自動的に」「自然に」そうなっているのかもしれない。エントロピーの増大に意図的に反する行為には「意思」があるとおもってしまうのは私が人間であるからか。あるいは無神論者であるからか。
ヒュームの引用として「宇宙を組織する原理として、なぜ”精神”を探さなければならないのか、とニュームは問いました。・・ひょっとしたらわれわれが知覚する秩序は、ただ出現するのかもしれません。『われわれが先験的に知りうるあらゆるものにとって、精神とまったく同様に、物質はもともとそれ自体のなかに存在する秩序の源、あるいは根源をふくむのかもしれない』
ヒト・ゲノム解読のトリガーになったのは線虫のヤツの解読だったらしい。ショウジョウバエではなく、線虫。で、一体線虫って何?どうやら腔腸動物で、体長1ミリ以内、脳がなく、透明でそこいらにいる。カエルの目玉にまで住んでいるそうだ。「線虫は地球上で圧倒的多数を誇る動物(で・・)地球から無作為に五百万の動物をつかまえて、類人猿、ペンギン、魚類から数え切れない昆虫まで、みつけらる限りあらゆる動物標本をあつめるとすると、その大部分(四百万)が線虫になるだろう。」
私は最近人類の大きさ・重さ、つまり暑苦しさがイヤになり、限りなく微小な生物に憧れているのだが、こういう限りなく無為自然風そこいらにいるさりげなく存在するだけの動物になったつもりで世界を眺めるのが楽しみになった。ちなみに線虫には脳がないそうだ。うん、そんな面妖なもの、わしゃいらんよ。この本は線虫ゲノムを特定していった生化学者達の列伝であるが、そんなことほっといて私はひたすら線虫になっていたのである。訳文はときとして意味不明な部分がある。しかしまあまあ読める。元の科学ジャーナリストの文が闊達な故か。
それにしても、といつも思うのだが、科学者は分析し現象を理解しようとするのだが、この多様で豊穣な遺伝子達の試みが一体何を目指しているのかを解釈し理解しようとする疑問はないようだ。生命とは何か?生きるとはどういうことか?一体この豊穣な生命という試みを通じ、どこに行こうとしているのか?
それとも、これはただ自己増殖という訳のわからぬ命題が訳のわからぬまま自己目的化した、訳のわからぬ世界なのだろうか。それではそれでもいい。ただ宇宙のガンとしての生命である自分を全うするだけである。
イタリア留学経験を持つ著者がもう一度イタリア生活をした時のエッセイ集。軽妙なタッチの現地の事情や出会った人物のスケッチで読みやすい。実は肋骨を骨折していきめず、しばらくオークワのウォッシュレットに出かけるときの「ウン庫本」として活用させていただいた。たぶん、ウチのヨメがおいていった文庫本だろう。益も害もないが、別に飽きることもなく楽しく最後まで読んだ。
いきなりの第一章のタイトルがこうだ:
「レジ袋を使わない → ただのエゴ」
石油を大事に使おうと思ったら、エコバッグではなく、
せひレジ袋を使ってください。
とある。
いやあ、こういうの好きですね。
隣の西友ではこう張り出してあるのだ:
マイバッグではじめる
やさしいエコライフ
マイバッグ活動
レジ袋削減にこ協力ください。
もちろん私は多様な世界・多様な夢が好きなので、思わず740円出してしまった。
内容は仔細しないが、マイ割り箸は無意味だの、回収したペットボトルは殆ど再生されてない、だの、
ダイオキシンで健康障害を起こした人は一人もいない、だの。
まあ、面白いので買ってあげてください。
と不要な紙を購入しないタテマエの私が言うのも自己矛盾だけど(^^;
面白い、というのは例えばこういう先入観が私にもあったのを指摘されたことだ:
「地球が温暖化すれば、南極や北極の氷が溶けて海面が上昇する」というのはウソ。
あ、そうだっけ。
よく考えてみれば、氷というヤツは溶ければ体積が減るんだったよ。
だから、水より軽いので水面に浮いている部分がある。
その浮いている部分だけ見ているので、それが溶ければ水の量が増えるような気になる。
しかし、氷の本体は水面下にある。
そちらも溶けるので、計算上新しく出来た水の量は水面下に存在していた氷の体積と同じになる。
北極のように海面に浮いている氷は溶けても海面は常に一定。
ああ、それはその通りだった。
他にも南極や陸氷、さらには温度差による水自体の体積の変化という条件もある。
ことは非常に複雑で、試算方法もいろいろあるだろう。
温暖化そのものだけでも素人が直感的に分ってしまうほど単純なものではない。
しかし、氷山が崩壊する映像を流して単純に「海面上昇」の演出とするのは直感的に解りやすい。
でも、これは明らかに意図的な詐欺だからね。
「と学会」の会長さん。あ、以前に何か「と」関係のこの人の著作を読んだことがあったな。
なんせ高校生の時、私は膨大で深遠な学術書と信じベリコフスキー「衝突する宇宙」を買った人ですからね。
この本は武田邦彦著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」のウソを暴いてしまう本らしい。
「環ウソ」は武田サンが昨年書いた本だが、内容は私が買った今年の「偽善エコロジー」と同工異曲のようだ。
いやあ、「ウソでもいい、面白ければ」と私が書いたとたんに、「面白いけど、ウソですよ」と山本サンに教えられてしまった。
それでは、山本サンによる武田邦彦本の回収ペットボトルは廃棄すると儲かる論拠のウソを紹介する。
武田サンの論拠:
ペットボトルは自治体が金を支払って業者に処理を委託している (月刊廃棄物30(6)2004の数字)
しかし、実際は:
ペットボトルは業者が金を支払って自治体から買い取っている
(容器包装リサイクル協会:2006年以降の数字)
だから、「金を支払って買い取ったペットボトルを廃棄すると損になる」との大和郡山市クリーンセンター職員サンの論拠は正しいということになる。
しかし、山本サンによるウソ論破にしても、この数字に限って言えば確かに3年前(2005)までは確かに業者に金を支払って引き取ってもらっていたのである。
再生せず廃棄しても業者は儲けていた理屈にはなる。
実際は運搬費用とかもあるので、断定はできないと思うが。
まあ、ともかく「エコロジーの偽善」を暴く武田サン自身もかなり恣意的にデータ操作をしてるらしいのだ。
うむむ。
ウソかホントか解らんけど、面白い・・・
とにかく素人にもわからんが、お役所でもやっぱりわからんところがあるのではないか?
それでも政策としては「資源の有効利用」を推進する必要がある。だからとにかく資源回収のシステムは作らねば・・・
無駄だからやめよ、とか、
無駄でもいい、そのココロが大事、とか・・
いろんな考え方があって当然だ。
中には意図的にウソついて利益誘導している人もいるだろう。
そういうのは排除せんといかんのだが。
多様な世界・多様な夢
ひとつだけが正しい、という人の背後からは悪魔の哄笑が。
面白い指摘があるので引用させていただく。
ひとくちに温暖化懐疑論といっても、4つの段階に分けられる。
・懐疑論レベル1
「地球は温暖化に向かっているというのは本当か?」
・懐疑論レベル2
「温暖化が本当だとして、その原因は人間が排出しているCO2なのか?」
・懐疑論レベル3
「地球温暖化によって発生する被害は深刻なものなのか?」
・懐疑論レベル4
「地球温暖化を食い止める努力をすべきだろうか?」
この4つの疑問は本来、別々のもののはずだ。なのに、なぜかごっちゃにしてしまう人が多い。
ちなみに著者、山本サンが自分で客観的に出した回答は以下のとおり:
レベル1への回答 「確実にイエス」
レベル2への回答 「かなりの確立でイエス。ただし、まだ疑問は残る」
レベル3への回答 「よく分らない」
レベル4への回答 「あなたの考え方しだい」
本文では上記に対していろいろ論拠が挙げられているのだが、客観的な各レベルの懐疑論への評価とは別に、個人生活上ではCO2削減に協力しているということだ。
本当はどうだかよくわからない、でももし本当だったらコワイのでトリあえず、というところか。
そうだよねぇ。
専門の学者でも100%の確実性でもって言い切れないのに、100%の人が同じ認識を持ってるとはとても思えない。
自分が正しいと思うことを主張するのは正しい。
自分が正しいと思うから、他人が間違っていると主張するのは、あんまり正しくない。
ん?ちょっと論理がヘンか?
論理がヘンでも「正しい」と思うことはできるし、論理が正しくとも心情的に納得できないこともある。
バイオ燃料は「資源としての石油の消費量を抑える」試みではあるが、CO2排出という面だけでいうと、少しも「環境にやさし」くはない。
かえって心理的・経済的には害になっていると私は思っている。
しかし、ウチの県の広報(8月)にも「環境にやさしいとされるバイオエタノール」と書いてある。
元来別物の「C02削減」「資源の保護」「ものを粗末にしないこと」「ごみを分別すること」なんやかんやが
渾然一体となって全体で「環境にやさしい」んとちがう?としている人も多いのでは?
一体ペットボトル、本当に回収に協力するのってどういう効果があるの?
本当に生ゴミで出して焼却させたらいかんわけ?
ひよっとして、ただ「もったいない」という精神運動だけなんでしょか?
だとしたら、生ゴミで出してしまっても「倫理的」罪悪感に悶々としなくてもいいわけだ。
なんか、お役所が決めたことに反対したりしてしまうと、善良な市民のフリをしているだけだ
というのがバレてしまうのがコワイ。
地球外知性体とのファーストコンタクトを扱った「本格」SFだが、著者の本質は冒険小説家で知的思考実験には踏み込まない。その意味でSFとしては退屈だった。細部の技術・学術・軍事・情報分野のリアリティがしっかりしていて、映画のような視覚的な面白さがあり最後までつきあう。エンターティンメント小説を構成するハードは確かだが、ソフト(哲学・叙情・憧憬・人間関係)が無骨なので感動する物語にはならない。多分、読者はそういうソフト面で感動するのである。文章に不要なクセがある。
強烈な昭和前半の商家へのノスタルジーを背景に三姉妹の性的成熟のエピソードを綴っていく。純エンターティンメント志向の私には苦手な分野だが、しかしこの作家は実にウマい。タマに感動風の高揚まで味わえてしまう。少女達の運命に必然的に絡んでいく男の時代のヒーロー達。前回読んだ「粛々館目録」ではこましゃくれた幼女の性に思わずのめりこんでしまったが、今回は処女から性的成熟に向かう少女達の不思議な心理がアヤしく読者の意識をつかみに来る。少女達の生理への憧れを異次元への文学的興奮とする精神の昇華活動はこのオジさんの作家としての魂のあり方をこちらに見せ付ける。もう70を超えているのだから。
昭和前半と戦争勃発期へのクロノジーは小説的に出来すぎ、つまりあまりにも典型的で時代考証の細部に遊び、これでもかのノスタルジーの喚起が多少うるさい。しかし、これは歴史書ではない。あくまで創作である。エンターティンメントのフィルターをかけた、フィクティブなバーチャルリアリティなのである。創作の細部の小説的巧妙さに感嘆すべきだろう。
ブッシュ(子)政権の外交交渉の中心であるコンドリード・ライスのジャーナリスティックなプロフィル。南部の黒人差別の中心地で黒人をやっていたライス父は牧師として黒人の地位向上を確固とした、まさにアメリカ的善意のオプチミスティック意思で実現していく。黒人が認められるには人の2倍、女性が認められるには更に2倍、都合他人の4倍の努力をすることをライスは自明のことのように実現し、そうして成ってしまった。
黒人差別はいかにもアメリカ的な事象だが、実力のある黒人女性の登用も同様にアメリカ的である。ライスは若干38歳にして名門スタンフォード大学の副学長に就任した。才能と努力。それ以上の情報はない本。
美術修復を表の業としているイスラエル諜報機関の工作員のスパイ小説。シリーズものなので今回は別に美術修復業が物語りに関わっているわけではない。単なるアクセサリ。旧ナチのホロコーストがらみの犯罪を国際情勢や政治にも絡んで追及していく。アクションありの国際スパイ小説で、映画的な小道具にはことかかず、快調に読める。しかし、残念ながら私の痴呆期に重なってしまって細部の事情がくっきりアタマに入らない。わあわあいってるうちに終わってしまった。すくなくとも痴呆状態になっも楽しめる本ではない。
この作者初めての日本史材題もの。系図がヤヤこしく、じっくり読み込まねばアタマに入らない。たまたまの選択だったが、たまたまベッドの上でヒマな時間を過ごす「闘病生活」中だったので、読み応えのある図太い長編を楽しめた。
実を言うと、第一巻を読み始めたのは入院前だった。
この時は罹病中の痴呆状態だったので、全く固有名詞がアタマに入らなかったのである。この作者の中国史ものには親しんでいて、新作が出るのを楽しみにしていたのだが。
これはいかん。中国古典を彷彿とさせる簡潔で凝縮した表現が、日本中世のややこしい系図、ころころと変わる姓・名・官職名、おまけに通称でも引用されるという複雑さに埋もれてしまっている。
それでも第一巻の最後の方まで読み進んだとき、手術になった。
術後、もう一度最初から読み直した。ああ、そういうことだったのか。
痴呆状態では各場面は読めていたのだが、その人物の係累が全くわかっていなかった。
だから、小説全体のふくらみが全く読めていなかった。
恐ろしいほどの重層的構成を企画している小説である。
野田菅沼家の菅沼定充にいたる3代の生涯が物語られるが、同年の家康への松平(世良田)家の三代を俯瞰し、更に今川氏康への3代や北条、武田等の存亡にも照明がとどいている全体小説である。更に別の系列の小説として今川家を基軸とした物語の出版構想の企画も作家へのインタビューで触れられていた。ちなみに今本屋では野田菅沼家との係累もある大久保家(彦左衛門)を描く「三河物語」三巻が新刊発売中だ。
明らかに中国古代史物とは違う粘着度がある。いわば、語っても語りきれないというような思い入れが物語を仔細にし、畳み掛けるような時代の動きを立体化する。しかし、同時に中国史ものの引き締まった簡潔な叙述のリズムを奪っているのも指摘しておかねばならない。しかし、この作家が本当に書こうとしていたのはこの国のこの時代だったのだ、という意気込みが随所に見られる。あの膨大な中国物の連作は実は自分のグラウンドで跳躍するための助走だったと、この人はいうのである。そろそろライフワークにとりかかり、小説家としてのマトメに入ったというようなのだ。見事な小説家としての人生の企画である。それはこの人が描く見事な人物達の生き方が範を示しているとおりである。
ちょっと手に取るのを躊躇するような膨大な上下巻である。で、中身の方も膨大なモノローグに満ちていた。代議士の福澤栄とその実子、僧形の彰之。リアリティなんかクソ喰らえというばかりの饒舌は、これは読んでいくうちに明らかになるのだが、埴谷雄高へのオマージュ、とは言えないが、とにかく文中にも異例なことに名指しされている埴谷の「死霊」への強烈な追従である。そうか。高村は当方と同世代だったのか。埴谷が「死んでも誰かに乗り移って書き続ける」と言ったとき、それは自分なのだと密かな自負をしたことがあるに違いない世代の・・・
前作の「晴子情話」での私の評は、女性が書けないという世評への・その気になればできるんだい!という作家の開き直りか、というヤツだった。しかし、ここで再び「晴子」は単なる前口上、あるいは二人の饒舌を遠くから裏打ちする舞台装置に過ぎない位置に押しやられ、高村が描く「男の世界」の強烈な自己主張に圧倒される。きな臭いロッキード直後の政界の駆け引きを克明に回想する栄と、永平寺でただ座りつづけ、自分の内部を浄化しようと苦戦する、饒舌な禅僧の彰之。お互いに晴子の女性を通じてのみ繋がっている全く別の「男の世界」。しかし、これは常に自己へと沈潜する男性性という同一のものの、別の表現形ということを充分感じさせる。「死霊」の3兄弟のそれぞれの世界への沈潜のように。
...それにしても、何ともすさまじい創作への欲求である。禅の綱領に沿って語ろうとする半分は生臭い彰之の意識の流れのリアリティもさることながら、自民党青森県連の会長古参議員の栄が実名で語る1986年の政界の生臭さ。田中角栄の裁判や、竹下・阿部の総裁をめぐる駆け引きと地方政界の利権をめぐる政治資金疑惑。政治・検察・新聞、高村の描く「男の世界」の仕組みのなんていう精緻な再構成。仮想の人物をこのように現実の日本の政治史の中に放つという試みのシュールなリアリティ。ついに推理小説を超え、現実の世界そのものを小説として見てしまおうという試みか。
そのような意識に投影される現実の別の表現の文字面を楽しんでいくと、突然最後の小説としてのクライマックスに引き入れられ、圧倒的な饒舌のリズムが快く場面をもりあげる。
植谷にはなかった盛り上げ方。どうしてもシェークスピア風の芝居の台詞による高揚を思い浮かべないわけにはいかない。なるほど、それでこのタイトルなのか。高村の作家として到達した境地に感嘆。