期せずして前作「風は山河より」と同様、たまたま第一冊を読んでいるときに入院となった。しかし、長期療養中の読書として恰好の長さがあり、頭痛で読めない期間も含め、二週間の読書の楽しみを保障してくれた。
徳川創設期よりの譜代大久保家の人々の物語で「三河物語」を筆致する彦左衛門忠教を中心にすえた記述。この時代以前の話は前作、菅沼家の三代記に傍系として語られているという密かな連りがある。しかし、小説としての構造やまとまりは前作の方がはるかによかった。ひとつには三代記と一代記の違いもある。時代が関が原をまたぎ、より広範な地域や人を扱っているという制約もある。信長・秀吉・家康の圧倒的権力者の前にどうすることもできない臣従する家系の苦悩も濃いのが、重苦しい印象を与え続けている。
この作家の中国古代史ものの澄み切った簡素で高雅な漢語の文章はすでになく、比較として日本語の苦渋が作風を多少不透明にしている。長年の読者のとまどいの苦渋も多少あり。人の進退の美しさを書く作家であったが、自分に身近な三河の風土を書くということで、個人的思い入れの質の違いが文章を削ぎ削ることを許さなかったのだろう。
次回作はどうか?気になる時期の作家である。
商業的に行われる遺伝子操作の糾弾がテーマのエンターティンメント小説。「ジュラシックパーク」や「タイムライン」に比べ、細切れのエピソードが連なり非常に読みつらい。性急に現在の遺伝子操作による危機を報じているようで小説的な想像力のふくらみやクライマックスの盛り上がりが感じられない。最後まで読むほどの作ではないと思ったが、それでもなんとか最後まで読み、巻末の訳者の解説にいきあたった。DNAの二重螺旋構造や遺伝子の相互影響下の形態発露等を小説の構造に応用した作法ではないか、との見解。だとしたら、作家、策におぼれる、と評しておこう。
前回の読書「NEXT」と同じく小説としての求心力のない作品だったが、もっぱらクライトンの地球温暖化論議への態度表明として読んだ。基本線は私と同じで、科学的に確実とはいえない問題であるのに、政治的・経済的な思惑が先行した主張であること・つまりは社会テロ(情報操作)確認要)の恐怖が先ず・・
巻末に小説としては異例な作者による環境諸問題への意思表示箇条書きがあり、小説よりもそちらが有益だった。それにしても雑な小説である。
在住する大和郡山の縁で島左近の名は親しいが、戦国の豪傑らしく、逸話が2,3あるだけで史実として確かなことはわずかである。作者は史書に点在する左近の名を掘り起こし、大胆な仮説(対馬の宗家の分家出身)も立て生涯の小説化を企てている。柳生連也斎の母方の祖父というのは史実としている。関が原に至る戦国史にからめての創作で、島左近ならこうだったろうという空想を史実に即して物語化した。あらずもがなのロマンスは余計な小説家のサービスだ。肝心の兵法家としての修練や実際の活動には作者の想像も及ばず、とにかくいつの間にか大和郡山の筒井家で「高名」になり一万石の禄を食むまでになっているのは唐突で不思議である。この一万に対して四万石を秀吉からもらったばかりの石田三成が一万5千でどうか、といったのがこの人の有名な逸話である。名前が売れ、名前を買うのである。侍とはそういった商品だったのだ。そして島左近の名は後世に残ることになる。
フランス・イタリア・スペインの中世史を素材にした短編集。いわば史実への随想をコント風に演じただけの小説で、それでいい、といえばそれでもいいのだろうが、どうでもいい、といえばどうでもいい小説ばかりである。有名人の名前を列挙し、その事跡の興味だけで読者を釣る趣向で、別に深い中世の空気を感じさせるわけではない。それどころか、こいつらは全部中世人を演じている近代の精神が丸見えで、程よく脚色した幕間のコント以上のものではない。この人は小説家としてはあまりにも常識的で、趣味の西洋歴史夜話風から逸脱する天分が感じられない。スペイン史をよく勉強している人なので頭は下がるのだが、しかし小説として面白くないのでどうしょうもない。
最初に読んだ「夏雲あがれ」は時代「青春」小説的でさわやかな作風だった印象があるが、ここでは猟奇的でもあるおどろおどろしくも劇画チックな語り口で面食らってしまった。ちと4冊も付き合うのは大儀か、と思ったが前作と同様、時代考証の細かさがあり、興味をつなぎとめられた。もちろん、当方は日本中世史についてなぁんにも知らないのだが、いかにも「そだろ、そだろ」という風な風景や生活の描写がくっきりとリアルに、まるで見てきたように語られ、単なるご都合主義エンターテインメントのアホくさい軽さから免れている。しかし、読み出すとこの戦国下克上の国盗り講談は波乱万丈で結構面白い。史実を外さず、結構自由に歴史の裏をエンターティンメント風にこしらえていく想像力の快感も感じられる。資料を読むという基礎を感じさせ、しっかりと最後まで読者の興味を逸らさない。こうなると4巻本という長さで読めるのは快感である。
いやぁ、面白かったよ。
後で斉藤道三の国盗り事跡をWiki pediaで調べると、20数個もある「逸話」がすべて小説に取り込まれていた。上手な作家である。
当方としては斉藤道三や足利義輝のような血もしたたる史実ではなくて、まったく虚構の「夏雲あがれ」の時代の雰囲気がいいなと思うのだが。
前作「時の眼」は期待を裏切られ、ドタバタタイムトラベルものでクラークという名が悲しかった。今回はまずまずで、ひとまず安心。その、上級存在(ファースト・ボーン)の意図は不明ながら、太陽のエネルギー暴発で地球がパニックになる状況は、先ず当方がぜひとも見たいと念じている(笑)「地球最後の日」的混乱カタストロフのひとつのあり方を示していて、それなりに満足したぞ。それと人類の防衛策である「太陽の盾」の構想の雄大さがいかにもクラークのSFだった。まあ、これで完結編らしい第三作への期待を多少は持ってもいい気分になった。次回読書への楽しみ。そういうのっって、最近少なくなったよ。
キリスト教ヨーロッパの暗黒部を象徴する魔女裁判を理解する方法はいろいろある。小うるさいキリスト教権威に無意識に反発する土俗の欲望が魔女を生むのか、アンダーグラウンドで生き延びている素朴な土俗宗教へのキリスト教からの悪意ある見方(マレーの説)なのか。まあ、いろいろである。著者の指摘しているのはかなりの部分が「政治的」意図がある裁判劇でもあり、また異端審問僧の無意識のあられもない欲望が投影された安っぽいドラマでもあったりする。さように複雑な経緯がある魔女裁判の実例を多く紹介し、いろいろな事例の本質をいろんな文脈から理解しようという、あくまで学者的に公正な立場の書。あくまで一般向けの新書なのだが、すこし学者的に不親切と思わせる記述もある。フランス語が恣意的なカタカナ読みで書かれていて、専門の私にも原語のつづりが同定できない。何らの説明もなく「取換えっ子」という英語・英史上のタームを使っている等。
これは大江健三郎の小説に出ていた「change ling」だったと何とか思いだしたのだが。そのような生の説明不足な記述が散見され、どのようなレベルの読者を想定しているのか曖昧になっている。
結論に比較的近い部分を引用する:『わたしたちが文化(象徴体系)と呼んでいるものは、環境・世界との間に根源的な不適応性を持つ人間が、その不備を補うために、自分と世界・環境とのあいだにはりめぐらした幻想のネットワークのことである。人間は、動物のような本能によって世界・環境から守られていない。人間は、世界から身を守るために、世界のさまざまな現象を意味付け、秩序化しないではいられない。』
その文化の一環が「魔女という幻想」を生むのだが、よく考えると科学そのものも同じ希求による、のは疑いない。キリスト教も魔女の饗宴も科学も実は全く同根の「原罪」に他ならない。と思ったとき、そういやぁ、何だかソイツ等のそろいもそろった狂信性が仄見えてくる気がした。
豚インフルエンザがメキシコに発生し、WHOがパンデミックレベルを云々というニュースが伝わり、よく注意していると通常の季節性インフルエンザと同様の範疇の毒性であることも伝わっていた。しかし、毎日ニュースで感染者数がカウントされるので、二週間以上にわたりマスクが買い占められてしまったのが日本の現状だった。このとき、実際は通常の季節性インフルエンザの死者数がどれほど多く、それとの比較を客観的に取り上げたニュースはほぼ皆無だった。交通事故にあう確率よりよほど低いリスクのために、大阪梅田ではほぼ全員がマスクをして歩いていたという。とにかく、ばかばかしくて苦りきっていた時に、この本のタイトルが目に付いた。
一読し、あまりに文章のスタイルが俗なので真面目に読む気はしなかったのだが。本人はスポーツ紙連載コラムの読者サービスのつもりらしいが、ご本人もそのくらいのレベルの感性と思える。しかし、サナダムシの「キヨミちゃん」を体内で飼育し、メタボ対策、その他の共生的効果を実証するという精神は、もちろん現在の日本人にはマネできないマネである。健康食品や抗菌グッズに群がる現在の日本人。医者よりテレビで見た情報を信じる人たち。健康志向がとにかくうすっぺらくて、実際に実証されているのかはどうでもよく、ただ「テレビで言っている」ことを唯一の論拠として健康生活に励む・何というのか・やはりファシズムのような風潮。著者の発した「健康のためには死んでも良い」という評に一票。ともかく、そのような環境生態系を無視した清潔病に対する警鐘は、ウチのヨメの健康ファシズムへの地下抵抗をつづけている私へ多少の理論武装を提供してくれた。そういった役に立つ記事は少なくて、後は各国の寄生虫事情等の新聞連載の軽い読み物で、流し読みすればいいというくらいの本。
この人が今年(2009年)春に新潮45に書いていた世界金融不況がらみの論が、なんとなく当方の見定めと合致するように思えた。(という前書きから始まるハズだったが、この書評は未完・・・多分、このために2年近くこの書評欄の更新をする気が失せたのか・・)
少し変わった趣向の時代物である。SF作家として記憶しているこの作者の作品としては異例な時代もの。江戸初期の八王子郷という非常にローカルな場所での土着の郷士達の抗争が背景になり、主人公の少年達の自己形成を描く。主人公達の技能は超人的でエンターティンメントとしての類型化をまぬがれないが、セリフを大胆に方言でいわせ、背景の時代と地域の生活様態がくっきりと記述され興味を引く。背景の仔細のリアリティにおされ、フィクションの方がどことなく頼りない思いがある。もう少し膨らませるか、あるいは同じ背景の連作とするか。
先ず著者の「二重言語国家・日本」という著作があり、その内容をふまえた日本史の講義禄(2001-2002)。「書」から日本史を語るという非常に独創的な視点を展開している講義。中国から輸入した漢字の意味と音に触発されて倭語が日本語になっていく、というような独創的でクリアな主張は梅原猛の「隠された十字架」同様のエキサイティングな読書になる。あまりに明確な分析と見えるのも梅原猛風のちょいとあぶない独断(笑)を思わせる(笑)。しかしこの人は書家で、自分の専門分野を極めた人なのだ。そういうミニマルな分野の専門家だから、逆に歴史のグローバルな局面の分析の正当性を保証する。一芸に秀でた者の方法論は他のどんな分野でも有効なのだ。
書家としての見識から資料の書の史的な価値を細かく示唆してくれる。そのような目で書を見ること、というスリリングな体験をすることができた。
実をいうと私は大変な悪筆で「書」こそ私にもっとも遠かった芸術分野だったのだ。
この書で「書」というものの底知れぬ奥深さを教唆された。単なるエステティックなバリエーションだけではなく、文化や歴史そのものとしての「書」。時代の精神が反映しているというだけではなく、正に時代の精神を形成していった要素とも言ってもいい。こういう発想を教示されたからには、これから書を見ることから始めざるを得ないのである。と決意せしめるほどの刺激的な講義だった。
長年愛読していたが、十巻を超えるようになると図書館に並んでいるこの物語シリーズの最新巻を読んでたのかどうかすぐ忘れるのだが。今回は最終回、さすがに西ローマ帝国の滅亡のハナシまでくるとこれで最後という感慨があり、忘れようもない。
この最終巻にも作者好みの、いかにも軍人らしい(=男らしい)天才軍略家スティリコの活躍があり、こういう人物の描写に作者の筆が嬉々として弾むのを見る楽しみにもことかかなかったのだが。
最後はあっけなかった。いつ滅亡したのかもわからないまま西ローマ帝国はなくなってしまった。もちろん、作者にはビザンチン帝国になった東ローマは既にローマではなかったのだ。具体的にはオドアケルに最後の皇帝が退位させられた後「誰も皇帝になる者がなかった」というのだ。1200年も続いたローマ帝国の終焉の、この肩透かし(スカ)は栄枯盛衰をそのままなぞっているようで、返って見事という他はない。
この段を、日中の耐え難い暑気が去って、涼しげな夕方の風が渡ってきた白川ダムの遊歩道のキャンピングチェアーに寝そべって読んでいた。対岸を見れば、山腹が最後の夕日に照らされ、明るい緑がそこだけ異様に輝いていた。このような落日の光景を見ていると「人生の終わりの残照」という形容が浮かんで来る。そう、私の人生も夕刻にさしかかり、山と湖に囲まれて読書に熱中する、思いもかけない残照の時に恵まれたようなのだ。
そして、国家もいつか死滅する、ということをこの時考え続けたのだった。
わが国では宝くじに当選した人は匿名を希望する。そうでないと属する世間がやっかみ、またはせびりに来たりする心配がある。しかし、アメリカでは堂々と新聞に当選者の写真が載り、喜びの声が報じられる。この序に記されている例は「世間」と「社会」の相違を鮮やかに示す、するどい一撃をくらった。
個人の集合が作る「社会」は西欧の概念で、これをそのまま日本にあてはめることはできない。わが国の場合、個人は「世間」が既定し、「世間」を離れて個人はない。この意味では「隠者」はわが国では稀な個人の自覚を持った者である。初対面では相手がどういう肩書き・職業、つまりどういう世間に属している人かをさぐらねば、話が開始されない。また、自分に落ち度がなくても「世間をさわがした」として謝罪することや、「世間に顔向けができない」という自殺は西欧的社会から解釈不能である。・・等々、なるほど社会と世間は違うものと既定しなければ日本では何かを見失ってしまうものと思える。学者があくまで日本の社会しか考察せず、「世間」を研究対象としない不備をいい、この書で日本史を通じ出現する「世間」というコトバの意味を分析する。本来仏教用語として入ってきた「世間」(よのなか・せけん)はその意味を変遷させながら次第に実体をわが国に定着させていく。万葉集・平安文学・江戸・明治と現在から参照できる「世間」の例を次々と提示して分析する手並みは、この篤学の手馴れた方法論である。
学者としてのこの人の論が空回りしないのは、漱石と同様日本における生身の自分の苦悩としての「個人」の問題を、自分の業に課しているからと思える。そしておそらくそれは個人の繋がりとしての男女関係が引き起こす周囲との軋轢だろうと、その方面には独特の嗅覚がある私個人は思うのであるのだが。(←複雑な苦笑)
平将門の乱を平安の異形者:僧兵、陰陽師、土蜘蛛等のアンダーグラウンド集団、それに異能者としての学者までからめてにぎやかに綴ったエンターティンメント。時代設定に新味があって、いささか乱暴な話だがそれなりに面白く読めた。史実から物語の構想を得ていることは両刃の刃で、すでに親しい名があり、読者の思いいれが借景になるという立体感を得られるが、史実から離れるわけにはいかないので決着のつけかたが、いささかご都合主義的でふくらみなく細ってしまう印象がある。「その子が後に阿部清明と名乗る」というような落とし込みが、「ほほう」と腑に落ちるのか、安手の「にぎやかし」と見えてしまうのか。まあ、楽しく読めて後に何も残らないのもいいではないか。
ナノテクノロジーと遺伝子操作(合成?)を組み合わせたテクノ・パニック。モノが小さいだけにジュラシックパークの迫力には及ばない。自己増殖し驚異的なスピードで「進化」する人工のナノ・マシーン群というイメージはいろいろ示唆に富むが、こいつらがどうして人間に取り付き、ゾンビ化して人を操作しようというのか理由が分らんし、SFとしての飛躍が大きすぎる。この後に書かれた「恐怖の存在」を先に読んでいたので、社会的な問題提起としても小ぶりで、一様な商業主義批判にとどまっている感がある。ストーリー展開はさすがのスピード感。
中央集権のフランスはブルゴーニュ公とフランス王という抗争はあるものの、単純な中世国家構造だった。ドイツは今でもハンブルグ・ベルリン・フランクフルト・ミュンヘンというように力点の多極構造があってその分、旅行者には面白いところだ。近世のビスマルクあたりからは何となく国家としてのドイツ成立の経緯は頭にあるが、それ以前は単純に王様がてんでに国を主宰していたというようなイメージしかなかったのだよ。だから「ドイツ」というまとまりはないものとなんとなく思っていた。しかし、ここに「神聖ローマ帝国」という枠組枠があったのだ。コレ、本来はローマ帝国の後継ということで全ヨーロッパの主催者であるハズなのだが、そうはいかず、実質は「ドイツ帝国」にほかならなかった。この前も一ヶ月もあけず、ドイツに旅行したばかりだが、そのような経緯にはウトかった。このちょっと得体のしれない神聖ローマ帝国に焦点をあてた史書・・と言いたいが、著者の軽妙な筆致で格好の「読み物」になっている。この先生は、なかなかの講釈師。口調、内容ともかなりの熱演で飽きさせない。それにしてもこの国家連合の名称・経緯はいかにも中世的で近代国家のイメージでは捉えきれない含蓄がある。
単純に近代国家ではない例として、聖界諸侯や自治都市の存在がある。神聖ローマ皇帝を選挙する選挙権がある諸侯が7選帝候。15世紀までではマインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア国王。また、後には自治都市がこのような選挙権を持っていく。そして皇帝には選帝候ではないハプスブルグ家が推戴されるに至って近代まで「ドイツ皇帝」位を引っ張る。そしてヒトラーが「第三帝国」を称謗するのもこの文脈からということになるのである。
うん、やっぱりジャンヌダルクだけが突出しているフランス中世史よりドイツの方が格段に面白いぞ。
実在する人物かどうかは知らないが、幕末明治を生き、それなりに時代と係わった男の伝記小説。仙台藩から昌平講に留学し、士分を捨て、ふとしたきっかけで咸臨丸でサンフランシスコに行き、明治に日本郵船の船長となる。咸臨丸での航海に小説としてのクライマックスがあり、そこに至る経緯が連綿と語られる。江戸末期の一儒者・学生の日常がいやに詳しい。人と共に時代のイベントや江戸の生活が復元され、どちらかというと人より世が主人公として描かれているようだ。「よくもまあ」という位の考証があり、たしかに興味深いのだが、その分縦糸の方が間延びしてしまうきらいもある。多分、ちょいとイソガしい人は途中で本を閉じてしまうだろう。・・というのは何かこの本、再読の気配があるからだ(苦笑)。物語の後半に咸臨丸でのサンフランシスコ行きというイベントがあり、ここからの物語は、同じく日本郵船の船長になった孫に子が語るという趣向になる。かなり鳥瞰的で簡潔な筆致になって、返って人の生き方を紡ぎこんだ時代の変遷の大きなうねりを感じさせる。このとき、前半で親しんだ主人公の運命が蒸留され、やっと文学的な感興を醸し出す。物語の主題が2分している感がある。前半の史的考証への饒舌カットすることが文学的には必要。
期せずして上記↑と同じ時代背景の物語を読んだ。新撰組の中堅隊士・島田魁を主人公とした小説。別に佐幕思想に共振したわけでもなく、行きがかり上誘われて旗揚げ前の新撰組に加入するのだが、とにかく動乱の明治維新の主役の一、新撰組である。池田屋・近江屋事件に関り、函館五稜郭まで転戦し、かろうじて生き残るという小説的経緯をたどる。そして明治に余生を送るのだが、このくだりの淡々とした回想風の筆致でエピローグとする構成が上↑と同じ趣向だった。もっとも、この作品は文学的意図はなく、かなりシビアな新撰組の顛末記に近い。次第に横暴な近藤のワンマン体制になっていく組織にしばられ、退職することもできないサラリーマンの悲哀を描くことがテーマになっている感がある。不本意ながら業務命令上で殺人を行うというような重苦しさがあり、この幕末の動乱はこの人には地獄である。それだけに明治の余生の静かな筆致が救いとなる。この部分は別の作品だったようだが、この構成は小説的には必然だろう。新撰組の内部の事跡に非常に詳しい。ただし、細部を作り過ぎると小説は重くなり、読むのもしんどい。殺戮の狂風に目が据わり「血酔いする」という表現の生々しさ。「アドネナリンが大量放出され、交感神経が異常活性した」ではターミネーターだもんな。
前書きでスピルバーグの「スターウォーズ」について触れているのがおもしろい。
もちろん、クラークは映画「2001 スペースオデッセイ」の原作(共作)者なので、いわば商売ガタキである。
「楽しんで見ているが、あくまでアレはファンタジーで、本来的なSFである自分のとは違うとのこと。
実際の科学に立脚した思考実験である本格SFの旗手という自負ですね。
また、この作品の執筆時(1996)に逝ったカール・セーガンへのオマージュもあり、
作中、破滅する地球を捨て、人類が宇宙船で移民する最終目的地を「セーガンII」としている。
カール・セーガンはコーネル大学の宇宙論の教授で異星生物間のコミュニケーションを研究していた。
パイオニアやボイジャーに積み込まれた人類の自己紹介板の発案者兼製作者である。
当時のテレビによく登場しアメリカの宇宙開発の黄金時代の世論を支えていた人気の科学啓蒙家だった。
セーガンが「この時代に生まれて幸福だ」とどこかに書いていたのが印象的だった。
このセーガンの宇宙人向け銘板にはピタゴラスの定理の模式図等が表示されている。
いやしくも知性があるならピタゴラスの定理くらいはどこの宇宙人でも小学校で習っているだろう、というわけだ。
余談だが、この銘板には最初、人間の男女の裸の図も描かれる予定だったのだが、当時の世論の反対に会い、性器部分は隠されてしまった。なんとねぇ。
宇宙人に対してさえ、自分ちのプロテスタント的道徳を押し付ける、このアメリカ的良心のあり方ねぇ。
20世紀は宇宙開発の時代でもあった。
人類は科学技術を発達させ、宇宙に進出し、より高次な知性になっていく。
そして、いつか全宇宙知性体クラブ(PUIC)の会員と認められ、もしかしたら
この宇宙を主催する会長にも推挙され「神」と呼ばれるようになる可能性だってあるかも。
ま、セーガンはそこまでは言わなかったが、宇宙進出の過程で遭遇する他の知性体との邂逅を人類の次の段階への「進化」の大きなイベントとして夢想していたことがうかがえる。
クラーク=キューブリックの「2001 スペースオデッセイ」では、モノリスを地球によこし、人類をプッシュし進化圧をかける、思わせぶりな「高次な知性体」が暗示されている。
「人類の次の段階への進化」というのがクラークのメイン・テーマだった。
この本では、同じく前書きに、やはり異星知的生命体は存在しない・見つからないだろうという見解が一般的になってきている情勢も紹介している。
だから、リアルな本格SFとしては、もうあんな思わせぶりな高次の知性を出すわけにはいかんのだ。
しかし、ここではいかにも作家的なアダプテーションを提案していて、さすがの大御所ぶりだった。
今回邂逅する相手は宇宙人ではない。
1000年前に移植し、コンタクトをたった殖民星の人々が高次の知性体として邂逅するのは、陽子エネルギー航法を開発し、100万の冬眠人工を載せ滅亡寸前の地球から直接やってきた人類
なのである。ははぁ。なるほどね。
これは同じ人類とはいえ、やはりセーガン的な異なる文化背景を持つ知性体との邂逅というテーマをしっかりと踏まえている。
知的生命間の「善意」のコミュニケーションのスリリングな開始(First Contact)。
このワクワクするイマジネーションがセーガン=クラークの創造エンジンだったのだ。
しかし、この作品を今、読んでみると、さすがのクラークにも陳腐な20世紀人の傲慢さが見えてしまう。
この作品にも、21世紀の私からすれば、とても公正とは思えない「知」に対する偏見が見える。
英語が普遍の共通言語、創造主たる唯一神の信仰(の記憶)があり、高度なテクノロジーを駆使する論理的思考ができ、科学技術を発達させている。
そしてより豊かな生活に向かう善意の意欲がある。
これはまったく知的な欧米人の平均的な姿から一歩も出ていない。
もとよりクラークはスリランカに住み仏教にも親しんだと言っていたはずだ。
しかし仏教思想の影響や、儒教的な静的秩序が支配する世界観の痕跡は全くない。
クラークにして、20世紀的西欧文化の優位という盲目的偏見から自由にはなれなかったのだ。
より複雑で高次なものへと向かう進化論、物質的豊かさを求めて拡大していく市場原理、そのような一方的な経済帝国主義を肯定する人類至上主義。
もちろん、クラークは科学的発展で得られる物質的豊かさのみを欲望の対象としているのではない。、
2001で暗示したように物質や時間の限界を超えた高次の存在に向かうイメージはある。
これは進化の階段上の上方の存在を強く暗示する。
その究極のイメージとして万能の創造主がある。
このような「上に向かう進化圧」こそ、20世紀の行動原理だった。
それは欧米における一神教クリスチァニズム的収束だ、と言っておこう。
単細胞生物から人間、そして神へと続く垂直のヒエラルキーが透けて見えている。
「宇宙のどこかに我々よりももっと進化した知的生物がいるハズだ」という一見謙虚に見える命題に隠されているのは、実は「人類が地球の生物のチャンピオンである」という独りよがりな勝者の驕りに他ならない。
本当に地上では人類が勝ったん?
20世紀は経済原理が支配し、拡大再生産を目指した時代だった。
絶えず物質的豊穣を追いかけ、販路を求めて世界に進出していった。
この同じ線上に宇宙開発があったのだ。
物欲という進化圧とそのエンジンとしての技術。
力・若さ・健康・快楽、それと知力。
まあ、そんな時代だっんだろう。
一本調子な豊かさへの追求。
現実には未だに「景気刺激策」しか発想できない、硬直した20世紀型の政治が支配している。
多分、単細胞生物に「進化」していこうよ、という私の人類の明るい未来ビジョンなんかは、とても「進化」とは呼んでくれまいなぁ。
オシャカサマならこの20世紀型の豊かさこそ正に「空」にほかならない、と苦笑してらっしゃることだろう。
私はクラークのSFが好きだった。
しかし、今、もはやクラーク風真面目なSFが楽しめなくなっていることに気がつく。
厳密な科学的論拠に基づいた(気にさせる)クラークの筆のリアリティ自体が裏目に出、単なるスターウォーズ風開き直りファンタジーSFよりも始末の悪い、困った善意の布教者に見えてしまう。
善意の布教者は本人が真面目なだけに、チト始末が悪い。
イヤだけど、私はもうクラークを超えちゃってしまったのだ。
アーサー・C・クラークは昨年90歳で亡くなった。
読んでいるハズだが、あれは英語でさっぱり分らず投げ出したんだっけ?とか思いつつ、何か見知ったような人物名だな、とか疑いつつ、しかし最後まで行った。確かに英語で読めるほどヤワな内容ではない。グリシャムよりは文学度が高い。ストーリが意外な展開をする後半に達するまでは、さほどサスペンス度は高くない。典型的な田舎町の裁判所・警察・検事・弁護士達の生態のドキュメントが興味をつなぐ。日本の法曹業界では考えられないビジネスが横行し、また田舎町で形成されていく人間関係の軋轢描写がなまなましい。そのような圧倒的なリアリティがしたたかな、といってもいいくらいの余裕のある筆致で描かれている。FBIの囮捜査のシカケがサスペンスとしてのこの小説のエンジンだが、本当はさまざまな職種にちりばめられた個性ある人間達のプロフィールを語ることが隠れたテーマであるようだ。最初から悪役・黒幕として登場するアンチ・ヒローは遂に最後まで逮捕されずに終わる。よく読むとこの悪役も単純に「悪者」のレッテルを貼られているわけではない。
地回りの警官が司法試験を受け、裁判官に任官され、終には首席裁判官に登りつめ、権力を私的に行使する。しかし、単純な悪人には還元されていず、人間としての重みを持って描かれている。対するに、社会正義の旗手・権化のような連邦検事がその悪を暴こうとするのだが、時として冷酷でイヤな人物とも見えてしまう。その他、貧しい少年時代をバネにしてその地位を得る黒人裁判官。黒人裁判官とくると清貧・努力・苦学、結果的に人徳者という単純な線を想起してしまうのだが、これも賄賂を受け取り私腹を肥やしている一味である。この人物もかなり魅力的な個性を持たせて描れている。
善人も悪人もいないのだ。ただ色んな人生があるだけだ。
更に言えば、それぞれがそれぞれこの世界にやってきて、たまたま顔を合わせ、それぞれのゲームにふけっている、それがアメリカの社会というものだ、というような読後観を持つ。単なるリーガル・サスペンスでは、こういう余韻は期待できない。
山岳小説の中篇3篇。まあ、いまどき山岳小説でもないと思うが、別にそうであってもかまわないけど、なんとなくもうそんな時代ではないような。しかし、読んでみると全うに山岳小説なのである。その昔、新田次郎さんの山岳小説を楽しんで読んだ記憶も蘇る。特にとりわけ新味はないものの、昔ながらのこのジャンルの安定した読み心地。ぬくぬくとした部屋に居ながら、厳冬の極限状態に挑む人達の、死との戯れを楽しめる。とりわけ言うことも無いが、物語が続く間は確実に冬山の奇妙な誘惑の影響下で過ごせるのである。
この著者らしいタイトルだが、内容はそんなにひねりの利いたものではなく、しごくまっとうな旅行記による世界史点景。高校で習った世界史が西洋史であったということを発見したことがこのエッセイの執筆動機であるらしい。この辺りの世界史の視点の錯覚のカラクリは私も既に体験済みなので、とてもタイトルのような感嘆には至らない。
トルコに行ってキリスト教の遺跡を見る驚きとか、エジプトでローマの遺跡をみるとか。簡単な2ページ程度に要約されたスポット旅行記はそれなりに読みやすいが、この著者にはもうすこし悪ふざけ、じゃないな、くすぐりを期待したかったのだが。