あまり詳しくはないのだが、加賀の小説は楽しんできた方だ。しかしこれは最初から違っていた。文体が違う。どうしたんだろう?言ってみればかなり荒削りな、生のセリフのような直截的文体である。どちらかというと知的な抑制のある文章であったはずだが。
こんなハズじゃない、なんかシチめんどくさいことになってるんじゃないか。
とか怪訝な思いを押し殺し読み進むと、これが昭和30年代を描いた全体小説であると知れてくる。第一部は各登場人物が自分の言葉で事情を語るという文体の実験だったのだ。圧倒的な生の語り手の存在を実感してしまう頃には、文体からの違和感より、生の時代のドキュメンタリ風臨場感に封じこめられてしまっているのである。
圧倒的な全体小説の世界。私のような微細な読者でもかろうじて知っていたメーデー事件、東大ポポロ事件等のキーワードから、立体的に時代が復元され追体験させられてしまう(第一部)。
錯綜とした姻戚の人間関係は先の時代の世代との係累も呼び寄せ、東大から政治・実業・医者・弁護士、そして特に女性は音楽演奏家、のどれかに関わっていく典型的な日本のある階層の昭和30年の回想。どうやらこれはブデンブローグ家や楡家風の加賀家の大河小説であるらしい。
と思っていると第二部では突然、まごうことなき加賀とおぼしき主人公の一人称による回想が始まる。東大を出、医者になり医局に所属し、精神科医として歩み始めた生々しいドキュメントである。
これは私が患者として、あるいは友人の医師からほの聞いただけだった大学医学部・医局というある職業階層の内部を克明に語った回想で、教授達も実名で登場する。これが東大医学部そのもの、というわけで、私の東大阪町工場派遣社員人生からすると対極にある典型的な表の部分の日本が語られているわけだ。・・・というわけで、今読者としての私は東大を出て、松沢病院に臨床研修に来ている・・というわけだ(第二部中ごろ読書中)。私より1,2世代上の加賀でなら可能な虚実を語る圧倒的なリアリズム。医局の実名の教授・自分の性体験=多分すべて本当の回想だろう。
第三部は70年代の全共闘運動に翻弄される大学の姿が描かれる時代。長らくあの全共闘・引き続いての連合赤軍事件をまともに取り上げた文学がないことが気になっていた。これはその回答にはなり得ないが、大学内部から見た証言として生々しい。加賀の言によれば、旧体制の全否定を唱え、多大な犠牲を要求した運動だったのだが、過ぎ去ってみれば何も変わらず返って体制を強固にしただけ。まったく無意味でそれこそナンセンスという他は無い。
嘗ての全共闘諸君は今、どのように反論するのか?それとも若気の至りと笑いで自分を許すのか?
と、私に再考させるくらいの生々しさで時代を再現してくれた。
読みながら私も生きてきたその時代のことを考えた。
やがて最終章になり物語は一応最終ページで終わるのだが、このような小説に本当の終わりはない。加賀は生きている限り次の時代を描くはずだし、加賀が終われば誰かが書き次がねばならない。昭和正史。
そのような圧倒的存在感を持つ創作。
間つなぎに適当な長さの読み物として選んだのだが、うまく当たってくれた。九州福岡藩の支藩秋月の、小藩故に凌がねばならない難しい藩政を基軸にした、ちょっと他にはない題材の時代小説だった。主人公はあくまで爽快な小説的ヒーローだが、難しい政治をのりきるのに汚れ役を引き受けるというひねりが物語に陰影を与えている。軽く読めるエンターテインメントだが、それなりの感興が残る秀作。
非科学的な迷信・風習・思い込みが社会的に不利益や不平等を引き起こすことへの警鐘がテーマのコラム集。時期的にオウム事件の余韻で編まれた本だろう。題名への深い考察を展開するのでなく、軽い筆致の一話完結新聞連載コラム。オカルト雑学風でもある。野口英世の創られた偉人伝や、血液型(ABO)による性格分類のアブナさ等、こちらも思わず鵜呑みにしていた指摘もあって、正気で生きるのはいかに難しい社会であると今更のように思わされるわけだ。宗教やジンクス等の「主観的」解釈部分をアタマから否定するようなことはせず、「客観的」解釈だと主観で判じてしまう非合理に至るまでは笑顔で見ている風の立場はしたたかである。軽く揶揄する調子なのであくまで暗澹とする部分が強い私には深い共感までは起きないのだが、筆者の基本的姿勢は最もいいバランスで世を処してらっしゃる方であると見える。
徳川幕府初期の老中松平伊豆守信綱の伝記。将軍家光つきの小姓から順調に幕閣に出世していく秀才官僚で、失脚することもなく、上の寵愛・下の敬愛を失うことも無い、ひたすら明るい時代小説だった。徳川創業期の空気を吸ってきた同僚・上役諸氏もまともに大儀に忠実で、絡み合った権謀術数しか見えてこない現代の為政者と比すればまことにすがすがしい。初期のこの官僚達の仕事が徳川300年(Pax Tokugawana)を準備したのだ。あるいは日本政府創業期の明治の官僚・政治家であればそういう風でもあったのかもしれない。あまりに順風慢帆ぶりが続くと、失脚する伏線と思ってしまうのが、すれた小賢しい私のような読者の悪しき性。しかし、そんなことはないのだ。善意が無条件で信じられる時代もあったということで(苦笑)。
あまり本筋とは関係ないが、生まれたときから将軍を約束され、将軍で死んだ、当然多少わがままな王者の家光の辞世の歌が紹介されていたのが妙に印象に残る。
かなしまじ悦びもせじとにかくに終には覚むる夢の世の中
何不自由ない王者として生まれ・死んだ者でもこのような諦観を持つものか。いぶかったり、妙に安心したり。
素直に楽しく読み進められる健康優良小説。
動物の死 小原秀雄
植物の死 平野和彌
細胞の死 堀誠
人間の死 松田重三
宇宙の死 小尾信彌
の5編のエッセイから全体のタイトルを構成している企画らしい。当然自分・人間の死を考えるというテーマに演繹していきたいところだが、そのような強い収斂はなく気楽な話題が並んでいた感じ。「動物の死」→人間がいかに異例な老年を過ごしているか。
「植物の死」→死が生を直接支えている植物という生命体の認識。「細胞の死」→アポトーシス、癌という永遠に行き続けようとする生命の矛盾、死ぬのは個体で遺伝子は行き続けるということ。
「人間の死」→このエッセイが一番常識的で得るところもなし。「宇宙葬」にあこがれている著者の意識は戒名に何らの意味もなし、墓なんて真っ平、「合理的でない」として退ける因習から何ら離れては居ない矛盾がある。
「宇宙の死」→宇宙の始まりから星の誕生、その死滅の数種のプロセス、そして宇宙の終焉を概観するコンパクトで客観的なガイド。コンパクトなだけに、そこに詰っているスケールの膨大さがより実感される。膨大な宇宙のスケールとほんのかすかな人間の痕跡。
この書全体がこの一行で終わっているのがいい。
そして、永遠の暗黒な空間と、時間だけが残される。
ふう、やっと終わったよ。正に小説の王道、堂々の大河小説。しかし、古典的なブデンブローグや楡家とはかなり違った小説的手法が用いられ、全体小説と自伝小説というジャンルも含んでいる。手法的には複数の文体を駆使し、また複数の語り手の時間軸が交差するような小説の実験でもある。
それに、あろうことか私は知らずして続編である「雲の都」を先に読んでしまっているので、読者のアタマの中では更なる「未来」の時間まで交差してしまうのである。うむむ、複雑。この複雑で神の目のような単一な視点からでは決して語ることのできないものが実際の時間であるとしたら、これこそが究極の小説ではないのか、との思いもする。
読んだのが文庫版なので、小説の技法については菅野昭正による詳しい解説がついていて、この小説の小説的魅力について充分に語っている。私がごときが小説の技法について付け加えることはない。昭和史の、あきれ驚く程の多様なそれぞれの個人の視点による克明な再現。このような世界を「創作」する、できるということは小説家として最高の悦楽ではないか。書きたいことはただひとつ、自分の見てきた世界について、それしかない。
海軍軍医であった時田利平の語る日本海海戦の懐旧譚には軍記モノの胸踊る高揚があり、同時に一兵卒の脇晋介や予防拘禁される菊池融の語る戦争の人間としての悲惨を見せる日本のやりきれなさもある。加賀の見た昭和史は当然加賀自身の自伝を含み、その同時代の社会各層を巧みに創作し、バーチャルな全体を見通せる仕組みになっている。まあ、しいて言えば中心人物の父が、社会的にはより一般的なサラリーマンだが、この父のモノローグだけがないのが不思議。多分、加賀自身が一番興味が持てなかった階層なのかも知れんなぁ。
小説としての自伝部分以外に作家が生のまま登場することはないのだが、関東大震災時の朝鮮人虐殺、第二次世界大戦時の軍や警察という暴力装置、それに続編の全学連運動への憤りは行間から透けて見えてくる。しかし、そのような私的憤りを小説的に安直に昇華することなく、全体の一部として小説的に機能させる筆致は悠然としてしたたか。ひたすら大河小説の読者であることを堪能した。ひたすら満腹である。
「演奏家と聴き手のために」という副題がついている。教師が生徒に向かって書いているピアノ演奏法の本は多いが、これはピアニストが「ピアノを演奏すること」、「ピアノを演奏するということ」更には「ピアノというモノ・コト」について書いたユニークなエッセイ。私は知らなかったが、この人はアメリカの現役のピアニストで、先生筋をとおしてベートーベンやリストに連なっている正統的な巨匠演奏家である。大学でフランス文学の博士号を得ているように、文章が明晰で読ませる。何よりもピアノを弾くという「悦び」の由来を、演奏家の立場からいろいろ考察しているのが新鮮で興味深い。ピアノを弾く、という肉体的な快感を述べていて、音楽教授風の神がかり的芸術至上主義者ではない。この人の作品の分析も作曲家がピアノで曲を作るときの肉体的な息使いまで楽譜の中に読み込むような、くっきりとした明晰さに支えられている。時々まじる巨匠達や同僚ピアニスト達の「楽屋話」も楽しいし、ピアニストの実像を見せてくれる。
例えば、ベートーベン「ハンマークラヴィーア」の冒頭の左手跳躍をとりあげ(譜例付)、片手で弾く「耳で聴いても、見た目にも壮大で大胆な跳躍」は「勇気と興奮とが聴覚的・視覚的に伝わってくる」としている。ここでは演奏するということは作曲家の「音楽」を純粋に抽出することではなく、舞台の上の肉体のパーフォーマンスであるという側面を如実に表現しているのである。
で、この部分を演奏する著者に向かって、ある同僚ピアニストが「両手で演奏なんかしたら、すぐ退場してやるからな」とプレッシャーをかける話が挿入され、この業界の内部の事情も結構楽しいのだ。
録音技術が演奏から一回限りの肉体のパーフォーマンスと言う側面を捨てさせ、繰り返し再生されるに足るもの、つまり立派な曲の理想的な演奏をモデルにさせてしまった。そして音楽の重要な一側面だった髪ふりみだしての超絶技巧を格落ちさせてしまった、という。
実は今、シューマンに魅入られて「幻想曲」を練習しているのだが、第二楽章の最後のえげつないコーダでもう2ヶ月も詰っているのだ。この箇所について「演奏を見ないかぎりその効果はほんとうに伝わらない・・・(録音だけ聞いて)これがわかるのはたぶん同業のプロだけだろう。・・そして少々いじわるな気持ちで、こういう小気味よい仕上がりになるまでにどれくらいスプライス(切り貼り編集)が必要だったろうと思いめぐらすのである。」むははは、である。私なんぞが一生完全に弾けるワケないとは分かっていても、それでも練習にのめりこんでしまうのは、芸術的吸引力なんかではないよなぁ。ピアノを弾くという楽しみ。肉体の歓びですな。
著者はピアニストだが、ピアノ音楽や音楽史に対して学者としての見識も高く、平均律を実現したピアノが、それまでの調性音楽の重層的な豊かさや複雑さを駆逐した「悪人」である、というような冷たい分析も行い、これからの音楽史の向かっていく方向をちょいと不安げに示唆もする。
「ピアノと言う楽器は十八世紀後半の調性の階層構造が確立されるのに加担し、1830年から二十世紀初頭の数十年にかけて、正統的・古典的調性をクロマティック和声によって破壊した勢力の一旦を担った英雄であり悪漢であり、それ自身が時代遅れになったのかもしれない。」
ここで私達、いや私自身が思っているほど、ピアノは音楽史のチャンピオンでもなかったのだし、その支配していた時代もホンの短い間だった、ということを深く認識。同時に最近私が確信している「人間が進化のチャンピオン(進化の収束点)じゃない」というテーゼを思い出したりする。
ピアノに拠って支えられてきた音楽の時代はもう終わっていると著者は見、しかし、楽器(ピアノ)を演奏したいという焼け付くような情熱があるかぎり、聴衆はついてくる、という。結びはこうだ:「ピアノ音楽の未来への鍵を握るのは、ピアノを聴くと同時にピアノを弾くという身体的歓びなのである。」
まあ、私がピアノを弾くというのは確実に芸術としての音楽的欲求ではない。完全にスポーツ的歓びですねぇ。しかし、こういう肉体的な楽しみを忘れれば芸術はエネルギーを失うのではないか、と思うのである。
この人の名は知らなかったのだが、大変な才人で巨匠的演奏家でありながら、ニューヨーク州立大でフランス文学を講ずる教授でもある。そしてオリンピックのスキースラロームの金メダリスト・・ってことはないが、まあ、そんな天才を想像したりさせてくれる。
多芸な方の頭脳の明晰さよ。
旧ユーゴスラビア内戦の血なまぐさい民族抗争が背景の2つの難事件を御手洗潔が天才的な頭脳の冴えで推論し、すっきり解明する。
しかもこの名探偵はアームチェアどころではなく、スエーデンのウプサラ大学に在籍中で、ワトソン役が電話で伝える間接情報だけで、いともカンタンに、メンドくさそうに電話口で真相を暴いてしまうのだ。こんなカンタンな課題ならわざわざ自分を呼び出す必要もあるまいというように。
うう、なんちゅう天才への誇張じゃ。もう後は事件を聞く前から犯人をピタリと言い当てる予定調和の神の領域しか作家の使える手はないぞ。
あまりにも複雑な事件の前振りの割りに推論的に割り出せる真相がひととおりなので、読者としては果たしてそんなカンタンに特異な条件を組み込んで結論してもいいんかいな?と思ってしまう部分は残る。特に2作目の「クロアチア人の手」のトリックはハイテクマンガっぽくて、本格密室もののルールを無視している気がするぞ。
旧ユーゴスラビアの民族抗争を動機的背景に持ってきたのは、異様な現実がある、ということを読者に周知させ、サスペンスを盛り上げる効果を出している。当方が2001年内戦終了直後のサラエボでみた銃創でぼこぼこになった建物を思い出す。「本来は人を殺す手段である銃が、物の形を壊すために使われている」という観察のリアリティは本当だ。そんな背景が書き込まれている広がりがあるため、もひとつ納得のいかない推理実現の安直さを差っぴいても読ませられてしまう。
多少は面白い内容かも?と期待していたのだが、はっきりいってこの程度の著者達ではハナシにならない。活字を読ませるより、ギャグねらいのしゃべりが得意そうな「軽薄ぶり」。NHKアナウンサーの「おりこうぶり」もイヤだが、こういう「軽薄ぶり」もクソ面白くもない。本当はもうすこし衒学的オタク的錬金術的な語りもできそうな著者達かとも思ったのだが。それぞれの幼い読者に媚びた、くすぐりだけの本だった。ああ、損した。ばかばかし。ぶつぶつ。
C級小説家の二人が中欧各地にまつわる怪奇物語スターを語るという企画。狼男・フランケンシュタイン・ドラキュラが3大スターである。各スターのモデルの薀蓄が少々。まあ、それだけで読んだのだが。
巻末に著者二人の短編を収録。赤城の作品はまったく惨めな、ゴミみたいなC級通俗ステレオタイプ小説。まだ田中作品の方がちょっとはマシ。少なくともちゃんと落としどころは落としているが、しかし今通っている藤井整形外科の待合室のヒマつぶしにかろうじて使えるくらいのレベルでしかない。
まあ、読むつもりも無かった著者二人をまとめて葬れたので、少しは役に立った本だった。一つ前に読んだ島田荘司の生きのいい小説と無意識に比較してしまうので、10年前の本を評される著者達には多少気の毒ではあるが。
荒廃した近未来の日本で、救いのない暴力と金のやりとりに明け暮れるだけのオトナと少年達。ウソくさい正義感にあふれた主人公なんかが登場しないだけマシだが、あまり小説的昇華感・つまりは読後の余韻のない悪夢のみの小説。また、社会的SFとしての状況設定は読ませるが、ストーリの展開が陳腐で無理やり終わってしまった。だからあまりホメたくはないのだが、惨憺たる日本の財政状況を素材にし、これだけの演繹的帰結を想定できる作者の能力は認めないわけにはいかない。
昨年よりのばかばかしい子供手当て創出やギリシャ危機の次はいよいよ日本だよ、とささやかれている中でのタイムリーな作かと思っていたら、なんと既に2001年に出版されていた小説だった。過去最大の累積赤字国債の利子を支払うだけで既に税収の全てを費やしてしまい、国家は金融ゲームで一瞬にして巨大なアブク銭を稼ぐゲーマーを最上級エリートとして優遇し、依存するしかない時計仕掛けの俺んち日本。この冴えた現実認識能力を小説的昇華にまで徹底的に書き倒して欲しかった。特に人物像の陳腐さが悲しい。タイトルにもなっている「ゴミマリア」がまったくのゴミキャラなのがうっとうしい。暴力学園モノの形式を止めて、正当社会パニックモノとして欲しかった。小松左京氏ならそうするよ。
『ただ、確かに、救いようのない時代ですね。』(後記)
・・・確かに。
快適なテンポでサスペンスとアクションが進行して行く、読み始めて安心の古典的SFエンターティンメント。
最近のハリウッド映画のヒット作の要素をリッチに取り込んだ劇画的小説。
オーウェルの「ビッグ・ブラザー」(1984)型の世界観が示され、スターウォーズ風の特殊能力を受け継ぐ師弟、あるいは家系の末裔が活躍する。
もちろん、ビジュアルな美しさの観点から飛び道具ではなく、剣で戦うのである。
だいたい、ジェダイの騎士にしても、あれだけの特殊能力と科学力があって何で今更ライトセーバーで剣戟やらねばならんのか?
ヴィジュアル効果ですねぇ。
それに戦闘の美意識の原型が中世の騎士物語のイメージを核にしているからか。
別の次元世界にテレポートする能力のある「トラヴェラー」と、それを守護する家系の「ハーレクィン」。
・・ま、あまり考えたネーミングではないな。
フランス語で言うところのアルルカン、道化のイメージだが、英語の語感はもうすこしハンサムなのかいな?
主人公のハーレクインが女性で、美女が剣を振るうイメージは絵になる、というかマンガになる。
なかなかカッコいいんだね。これが。
トラヴェラーにイニシエーションを与える導師役が「パスファインダー」。
なんか、ウィンドウズのオペレーティングシステムにあるような名前だ。
あまり、ネーミングのセンスは良くないな(笑)。
しかし、筋立てはテンポのいいサスペンス感を持続させ、なかなか楽しい。
両陣営はスターウォーズのようには善悪がくっきりとは対比せず、敵方の論理は整合しているが、
我らのハーレクィンは少々冷酷で、なんだか自分勝手なアナクロ的思いいれだけで平気で人を殺す。
この物語はトリロジーになり、これは最初のエピソードになるようだ。
次回作では、トラヴェラーに恋愛感情を抱くハーレクィンなんて伏線の細工は止めといて、
善と悪が混沌と交じり合うような世界観を見せて欲しい。ま、ダメだろうなぁ。
クラークの合作モノでこの作品が遺作となった。小説の骨子がクラーク、細部がF.ポールの筆になるらしい。細部の方は読んでいて楽しい小説に仕上がっている。フェルミの定理を若き数学徒が証明する経緯が小説の筋運びエンジンになっているのは新鮮だ。しかし、海賊に捕まるようなイベントは全体に何の伏線にもなっていないのは不思議な気がする。もしかしてスリランカの現状描写のつもりなのかもしれないが。
さて、クラークの原案骨子についてだが。前回のクラーク評で「私はクラークを越えた」と書いたが、今回も最終的にこのSFの巨人が20世紀枠を超えられなかった、と結論する以外にはないようだ。高次の宇宙生命体が核を紛争解決に使用する地球人種を「滅菌」しようと介入しにくるのだが・・・。この知的生命体の一本調子のヒェラルキー構造が厳然としてクラークの頭にあるかぎり、もう私にはこのSFは単なるエンターティンメントのタネでしかない。つまり思考実験として知的に刺激されるというSF本との一番幸福な経験が再現されることもうないのだ。前にも書いたが、せっかくのスリランカ(クラークはスリランカに帰化したらしい)人の天才数学者が主人公なのに、そして父親が仏教寺院の主宰者という想定でもあるのに、厳然としてクリスチャンの西欧人の発想の枠から出るところはない。この主人公は別にアメリカに留学したわけでもないのに、発想が全くのアメリカ型ヒューマニズムのステレオタイプ。せめて、娘を教会の日曜学校に入れるな!・・・とか、まったくイライラするほどの世界の価値観の単純化が行われている。アメリカ型ヒューマニズムではイラクだって安定しませんよ。それを全宇宙に適用させるなんて、なんという傲慢なヒトであるか、と今の私は21世紀の側から20世紀のクラークさんを冷ややかに眺めやる。
大丈夫です。この宇宙には人類の他には、他の種族を管理し、あるいは教育しようなんておせっかいな「知性」を持っている生命なんてございません。畏れながら先生、その発想は、クリスチァニズムという垂直のヒェラルキーと、高次なものへと収斂しようという一方的進化論から自由になることができない西欧の傲慢でございますよ。
Hanna Diamond 2007 Fleeing Hitler - France 1940
当初ドイツ軍の侵攻によってパリを捨てた市民達は一種のピクニック気分でいた、という証言がある。
正にDrole de guerre(ヘンな戦争)である。
オーウェルの「カタローニア賛歌」で、自分が射程距離の外に居ると、味方の建物への敵の砲撃を見ていて、心の中では次にはどうか砲弾が建物を粉砕するように、という「期待」をつい抱いてしまう、という場面があった。戦争のドキュメントには重苦しく悲惨であるだけではなく、エアポケットのような奇妙な明るさや無責任な心の軽味が散在することを忘れる訳にはいかない。
ついでに思い出した。中井英夫全集の散文で大戦中、参謀本部に勤務していた中井は、軍の高級幹部達が昼休みに女子職員と一緒にバレーボールに興じている現在のサラリーマン風の情景描写をしていた。参謀本部への厳しい印象を肩すかしされてしまった記憶。
ヴィシーの「ペタン傀儡政府」にはコラボ(coraborator)のイメージが付きまとうが、発足当初はこの難民の安住を確保するためドイツとの停戦を模索し、救国的立場から苦しい交渉をしたのだった。その後レジスタンスの英雄としてのドゴール将軍のプロパガンタ(ドゴール神話)がいきわたるにつれ、フランスは「大脱出」の証言を黙殺し、好んでレジスタンスを語り始める。実はドゴールはとっととイギリスに逃亡した卑怯者、というマイナス評価が当時の気分だったようなのだ。ふむふむ。確かに内容は示唆に富む。
---
このような現代史のニュアンスを微妙に補完する資料を探し出し、翻訳出版してくれるのはありがたいのであるのだが。訳文がありがたくない。デキの悪い高校生の英文和訳の解答を読んでいるようなレベルである。だから功罪相半ばする本といわざるを得ない。
適当に抜書き引用するので、その奇妙さを味わっていただきたい:
---(以下、本文より引用)---
そしてその機会ができ次第そうしたかった。
難民受け入れ地の対応は非常に多様で、それは後の出来事への反応に重要な関係がある。
難民たちはかなり相反する思いをした。
すでに軍隊が使っていなかった学校の敷地は・・
その時期の個人的証言を求めようとする人は誰もが、大脱出についてよりも、むしろドイツ軍占領がフランスにおける第二次世
界大戦の記憶を支配していると、すぐはっきりと分かる。
作家たちは、大脱出の体験について比較的ほとんど書かず、むしろ占領下の困窮生活に焦点を合わせ、それに対応できるように戦略を編み出せる方を好んで書いた。
その理由の一部は明らかに現れるかもしれない。
新聞Le Matinは猛威をふるった。
---(引用終了)---
意味がとれないことはない。しかし、なんという粗い日本語だろうか!主語と述語の話法的な関係や、修飾語の選択等が微妙に日本語とはズレている。この人は気持ち悪くはないのだろうか?原語直訳のまま、日本語以前の状態で放置されているのである。英語は理解しているのかもしれないが(それもアヤしくなるのだけど)日本語が理解できていない。朝日新聞の校正者は何をしているのか?リストラされてしまって、もうそんな部門は存在しいないのか?
---ここまで書いて、訳者後書きを見ると、このような謝辞がある:
「忍耐強く詳細にわたり訳文を点検してくれた朝日新聞出版の土居悦子氏、校閲担当の野村敏光氏(円水社)、山岡澄子氏・・・」
この方たちのお名前もここで、きっちり引用させていただき、職業的な責任の所在を明確にしておきたい。
とにかく、何度「ええ加減にせんか!」とページをバタンと閉じ、本をたたきつけて終わりにしたかったことか。しかし、内容は興味深く、イライラしながらも、やはり最後まで目を通そうか・・と譲歩してしまうのである。文字どおり「かなり相反する思いをした。」のだ。まあ、密かに近頃滅多に遭遇しない、このdroleな訳文をも少し楽しんでやれ、と思ったこともちょいとはあるが(^^;
『そしていまお互いに老年の私らには遠からず、これであなたにとっての危機もおしまいですとすまし顔でいいに来る最終的なのが控えているのですが・・・』
長江古義人さんもそろそろまとめに入る。
挫折する革命なり一揆なりの指導者の父の水死の顛末を最後の小説として構想する。それは自分の人生の黎明期に遭遇した事件であるが、その曖昧な光景の記憶の意味を、父の遺品の資料と照合することで確定しようとする作業である。自分の家系と、それを組み込んだ四国の谷の伝承に踏み込み、コトバで再構成し自分と世界の活性を図ってきた作家としての集大成になるハズだった。
しかし、例に拠ってこの作家の独特の屈折で、あっけなくその計画が挫折する。磯野家と並ぶ国民的有名家族、長江家のおなじみの面々のドタバタホームドラマで進行していくその顛末。毎回、それなりのオチがあり、さすが「賞」の小説家である。
もとより長江=大江の二重性が、現実と創作との境目をどんどん曖昧にしていき、読者の現実も実は四国の谷の神話と地続きであるような仮想現実風ないつものつくりになるのだが、今回は長江作品を素材にした演劇を上演するというイベントが語らる。演じる役と生身の演者の現実とが交差し、観客も巻き込んだネジくれた仮想現実を表出するのが演劇の本質である。そのようなネジくれた多様な世界が交錯するあやうい一点がわれわれの生きている現実というヤツである、と、いかにもしたり顔のレジュメを私も付け加えそうになる。
今回のオチをバラすと、自分は父の後継者ではなかったのだ、という苦渋を自分で笑い飛ばす、いつもの大江の口調だが、文学的なエネルギーがそろそろ低下気味。長江さんちの内部事情に疎い世代にはもうウケないだろう。そこはしたたかに、本文中で自分の作風では、若い世代に売れないという批判もちゃっかり混ぜていたりする。小説的には、この批判を言うためにだけ名前付きで登場させているキャラクタも出す。何かちょいとバカバカしいのだが、そういう自分への茶化し方も大江ワールド風か。
私も10台から大江の、例えば「遍在する自殺の機会に見張られながら生きてゆかざるをえない“われらの時代”」なんてコトバを引用しながら、ここまでやって来たのだ。この大江の諧謔と共に当方もここまで付いてきた自分を笑ってやろう。
前回に読んだ濃密な恋の物語りの印象が強く、いわくありそうなタイトルと装丁(芥陽子)にそそられ、誘われた。しかし、どうしょうもない駄作だった。どうやら寓話で現代をくすぐろうとしているらしいのだが、全く小手先だけの貧困な着想と深みのまったくない意味もない寓意。寓話であるのなら、寓話でしか語れない奥底の真実があるハズだ。しかしこれはネタに困った時の単なるおふざけの寓話。ハナシにならない。取ってつけたような、おもしろくも何ともない歴史上の人物の鳥瞰を挿入して、これを前世と称する。なんという安直な小説作法か。新聞連載小説なので、どのみち読者は読み捨てるだろうという薄利多売商法に転じたか。ああ、情けないぞ。私の読書人生はあとわずか。こんな本で2週間過ごしてしまったのだ。最初の10ページで見切るべきだった。最後にはこの作者らしい余情のクライマックスがあるのだと信じてた私が浅はかだった。才を枯らした作家を最後まで見切れなかった、この2週間の私の魂の絶望と失速を埋め合わせるアフターケアの義務が、文を売った作家にはあるはずだ。次回は絶対裏切るなよ。
副題『「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』の割りには穏やかな研究者達とのやりとりで、論戦というほどにはなっていないのだが。雑誌連載の対談で、最先端の人間についての情報を聞くのは非常に面白し、ちょっとした受け答えに養老先生が自分の薀蓄を語る場面もあり、これも面白い。
以前、環境問題への態度が私の感じ方に近いと思えたので、この人のものの見方に着目するようになったのだが、今回の対談集のやりとりの中の少なからずの自己開示から、この人がどう世の中と接しているのかという立場が少しうかがえる。
現実の解釈は100人の人がいれば100通りあっていい。日本人は、その他にもう一つ、唯一客観的な真実があると信じているようですが、そんなものはないと私は常々言っています。」
--真実は只ひとつ、という立場は西欧風のモノテイズムに顕著なんだが。日本人も、しかし、現在では西欧風の思考様式になっているとは私も思うが。
西欧人が自分を基準にして右、左で空間を見ていく傾向か強いというのは、彼らが自然とどうかかわってきたかに関係しているんじゃないかな。・・・そういう文化だから、西欧人の空間把握の仕方は自己中心的なのかなと思ったんです。日本の水田耕作は、例えば、棚田のように周囲の自然林から連続的に移行するようなところがありますが、荒れ地は、勝手に自分が作るわけですから。」
--このあたりの自然との対峙の仕方が、現在の環境問題を引きずり回している。私は「蹌踉の水濁らば我が足を洗う」と受け流す。
田沼靖一が語るアポビオーシスという概念は示唆に富む。
”個体内で再生するための細胞死はアポトーシスであるが、再生目的ではなく、個体の生を終了させるような細胞死がある(アポビオーシス)。心臓細胞や神経系の細胞は再生しない。これは個人のアイデンチティそのものを担う細胞とも言える。遺伝子はドーキンスが言うように徹底的に利己的なのではなく、自らを終了させ「後進に道を譲る」風のプログラムも持っている”と。いや、ドーキンスが言っているのは、自分が既に次世代に引き継がれているので、速やかに乗り物を廃棄するような戦略のハズ。ま、いずれにしてもアポビオーシスが人間に組み込まれた自然なら、現在の老人延命治療への強烈な反論になる。
先日、食物摂取ができなくなった人に直接胃に栄養を送る「胃ろう手術」の賛否を問うNHK番組を見た。植物状態の老人に、点滴等では長期の生存は困難なのだが、胃ろうを行えばとにかく肉体は存続する。しかし、そのような延命が何の意味を持つのか?というテーマだったが、多分、善意の塊のような医師は「少しでも生の可能性があるのならどういう手段でも延命させるべき」と説いていた。なんという教条主義。利己的な善意といってやろう。病に打ち勝つのは医学の勝利かもしれないが、老・死は病ではない。人間に組み込まれた生の根源要素である。生命の尊厳とは、この老と死を全うさせることなのだ。肉体が生命だ、と取り違えている医者が多い。
養老(!)先生が自分を開示する部分:「私は社会に適応できない人間でした。人との付き合いがまったく苦手でしたから。・・私も、会社に言って営業ができるような人間だとは夢にも思いませんでした。・・・」
そうでしょう、そうでしょう。と、思わずアスペルガー症候群もどきの私は何事かを理解した気になる。まあ、同病相憐れむ、というヤツかも。自分がマイノリティであるという意識があれば、大勢が声高に主張する勇ましい意見には懐疑的になる。違った場に立つ少数者は常にいるのだ。自分が少数者であると自覚すれば、少なくとも自己が絶対であるという傲慢に陥ることはない。養老サンも大学を退官してから多く発言するようになった。なんとか生き延び現役を退いた少数者が、満を持し、言うのである。よく聞いてもらいたいね。
原題"Man the Hunted"は"Man the Hunter(狩るヒト)"のもじりだが、この日本語タイトルの方が直截的でインパクトが強い。これはヒトが食べられるということがあってはならない、という心情に逆行するからだろう。そして、その心情が先入観になり、原人類の生活を再現する科学的公正さを曇らせていた、と著者は主張する。
西欧的価値観からは進化系統上の最上位に位置する人類が、下位の劣った生物に捕食され、びくびくしながら暮らしていたと考えたくない。この思い込みが、勇敢に、時には野蛮に獲物を狩るヒトのイメージを原人類に与えてしまう。頭蓋に"人工的な"二つの穴が穿たれたアウストラロピテクスの化石が発見された時の解釈は、道具を使って殺戮をするマッチョな原人達のイメージだった。しかし、後にこの穴が剣歯トラの牙に由来することが確認された。確かに道具を使って狩をする時代もある。それはたかだか40万年前くらいからで、原人類300万年の大半は多くの動物のエサでしか過ぎなかったのである。
何よりもこの人類至上主義への痛快なパラダイムシフトがこの本への興味の中心だった。しかし実を言うと、ヒトを食事メニューに載せている古代・現代の動物達の食べっぷりの克明な描写がこの本の記述の大半を占めていて、実に圧巻であった。うむ、なるほど。こんなに食べられていちゃあ、何が進化のチャンピオンだい、というものだ。現在だって毎年ヒトは食べられている。アラスカでクマに会い、死んだフリをしている地質学者が、片腕ずつ食われていく手記の紹介もある。実にナマナマしい。両腕が食べられたところで助かったのだが、「痛みにいちいち反応するよりも、怖さで身がすくんで動けなかった」という述懐が印象的。どんな痛みの最中でも、客観的な観察は可能なのだ。もしくは、肉体の痛みは全て精神でコントロールできるという気にもさせられる。
どうして初期人類が直立歩行を始めたかというメカニズムのすきりした推論も提示されている。草原での見晴らし、両手で子供抱いての移動、道具使用、会話の発達、これらはすべて結果であって原因ではない。類人猿類はすべて直立歩行可能である(前適応)。人類が選んだ生活環境が直立歩行生活に適していたので直立歩行で生活しているだけだ。この結果として大きな大脳を支えられることになる。まあ、樹上生活可能な長い手より大きな大脳の方が「上の」能力だなんて、私は毛頭思ってませんからね。
生物はそれぞれの環境に合わせてそれぞれの生き方をしているだけだ。もとより上も下もなく、後発が先発よりも良いということでもない。進化も退化も価値判断が含まれるコトバである。単に「変化」とすればいいんじゃなか。
京都大学山極寿一の解説に「しかし、私は別のシナリオもあると思っている。」とある。別に正解はひとつ、と思わなくてもいい。それはその通りだ。
この本は私の大論考、ライフワークの「人類はどこまで傲慢になれるのか?」に参考文献として引用しておこう。
原題"BRIGHT-SIDED"、つまり楽観者だが、邦訳のタイトルが気に入り思わず手にとってしまった。楽観的人生観、プラス志向、前向きなチャレンジ精神、まあ、何でもいいがこういう態度をまとめてポジティブ・シンキングと呼ぶ。まあ、楽観的であってどこが悪い?とアメリカはいうハズだが、このような本が出版されるほど、現代アメリカは楽観視することが出来ない状況にあるのだろう。
著者は医療・企業・教会(メガチャーチ)・経済各分野でのポジティブ・シンキングの病的蔓延を批判する。歴史的には元来、アメリカは厳格なカルヴィン主義が建国理念だった。この「凍りつくように冷たい」ピューリタリズムがこの200年で逆転したのだ。20世紀はアメリカの世紀でもあった。
著者のリポートするメガチャーチの盛況や、モチベーショナル・コーチを招いて社員教育を行う企業の存在が狂信的で非常にアブない精神的退廃を感じさせる。ヒトラーやスターリンのマインドコントロールは上からの強制だったのだが、アメリカでは国民大衆が自発的にコレ、やっちゃってるのだ。ウチのヨメの話だが、淀屋橋の上で大きな声で自己紹介をさせているどこかの会社の新人教育を会社の窓から見たといっていた。バカバカしいけど、それはそれで企業には役に立つ人物になっていくのだろう。何事も積極的に、とか?ん、でソレのどこが悪いの。つまりですね。「われわれは言葉のうえで『ポジティブである』と『よい』とを同じ意味で使うようになった。」あ、確かに確かに、確たる根拠もなく「ポジティブ」=「良いこと」と思ってしまってますね。しかし、「集団の団結を保とうとすれば、現実や常識を見過ごさなければならない場合もある。そして、多数意見に逆らったり、悪い知らせを伝えたりするのに躊躇しがちになる」。まあ、ネガティブな態度は嫌われてしまいますね。「入手した知恵をできるだけ選り分け、保持する価値のあるものを決定する責任を負うことになる。」
著者はこのポジティブ・シンキングが現実を直視すること(「防衛的悲観主義」とも)を妨げているという。そしてその帰結が昨年のリーマンショックだったとするのである。「望めよ、されば与えられん」とするポジティブ・シンキングの病に冒され、本来なら住宅を購入することが出来ない層がサブプライムローンを神の声として選択したのだ。2008年タイム誌は「サブプライムローン禍の責任は神にあるのかもしれない」というタイトルの記事を載せたそうだ。むやみに前向きな見通しを持つ一般人が、気軽にカード払いをし、金利がどんどん上昇するセカンドモーゲージ(第二抵当)ローンを利用してしまう。アメリカは病んでいるのかもしれない。しかし、果たしてこれはアメリカだけなのか。「憧れの年金生活」に入ってしまうと、われわれの世界は本質的に不条理なものであるということを忘れそうになる。で、つい大失敗をやってしまうのだ。しかし、これは本の書評とは何の関係もないが。
アナンシは神といっても、キリストさんところのような近代的でパイパワーなヤツではなくて、西インド諸島のドロくさい神サンである。人を裁くとか、まして人に教訓をタレるとかいうのではなく、単にいたずら好きで、好き勝手に営業しているクモの神。しかしクモであるだけに、物語を紡ぐことができ、世界中の物語に出現できるのだ。こういう神を父に持ってしまって困っている男が主人公。まあ、こんな調子でこの物語が紡がれていくのである。この父は神だからちょっと変わったヒト(?)なので周囲からは浮き上がってしまっているのだが、しかし、結局は神サマとして昔からずっとやっていけているワケで、人間界でバカをやっていても何となく最後には世界全体を修復していくようなことにもなる。これが正にトリック・スターというヤツなんでしょうなぁ。
しかし、よく考えてみるとキリストさんとこだって、本当はバカをやっているトリック・スターに過ぎないんだと、本質的に仏教徒の私なんかは見てしまう。あのお方は世界をかき混ぜるが別に人間が思うような善悪の基準に従ってやっているわけじゃない。そういう神を父に持ったキリストさんこそ災難で、このよくわからん父と世界との調整に苦労し、何とか十字架というシンボルで整合性を保証するという苦肉の策にでたワケだ。いやいや、別にそんなことを作者が言っているのではないが、今、自分のしでかす阿呆さと世間の整合性をとるのに苦労している私にはそう見えるというハナシである。
さて、主人公は最後に歌で神の血脈たる自分と世界との整合性を図るのであるが、歌で失敗した私は物語で調整するしかない。物語が続く間は私は世間から逃れ、別枠の世界で生きていられるのだ。本来ならば、私の本性もトリック・スターという役割でこの世に生まれてきたハズと考えざるを得ないのだが、こんなワヤで中途半端な歌い口では、世界に何の痕跡も残さず自滅するばかり。
私の父よ
私の後に道はなく、私の前にはクソの山 (27歳詩集:伊藤章)
今回も殆ど書評にはなってないが、まあ、このような調子の語り口で物語は続くと思ってくだされ。
最後にこの作者が得意になって多用するちょっとマネのできない形容句の例を引用紹介しておく。
『その顔には、奇跡によってパンと魚を与えてやろうとしたら、わたしはパンと魚にはアレルギーがあるかもしれないので、チキンサラダをいただけないでしょうか、といわれたイエス・キリストのような表情が浮かんでいた。』
翻訳文も調子よく、内容に見合った文体にしあがっている。
副題:悪魔の角笛からジャズの花形へ
サキソフォン愛好家のジャーナリストがモノにした実にユニークなこの楽器についての本。サキソフォンの歴史や奏法の変遷、クラシックとジャズという二大マーケットでの評価や位置等、客観的な記述もあるが、何といっても中心は各地の演奏家へのインタビューが占めている。といっても、演奏家達の発言内容をそのまま掲載しているのではなく、内容を適当に再構成しアメリカジャズ通史風にも読むことができるようになっている。まあ、通史というより「こぼれ話」という方がもっといいか。著者にとってこの楽器との出会いは、かなり衝撃的な体験だったらしく、宗教的啓示のようにその後の人生まで左右するような影響を与える。いや、そんな上品なものではなく、悪魔に魅入られるという表現の方が近いようだ。で、インタビューの冒頭に先ず訊ねる質問が、「サキソフォンとどのように最初に出会ったのか?」。驚くべきことに殆どの演奏家達が異口同音に著者と同様最初の瞬間からこの楽器に魅入られてしまう顛末を語っているのである。
実は私自身もかなりの楽器好きで、ハーモニカ・縦笛レベルから始まり、ギターやヴァイオリン、トランペットやフルートも一時所持していたが、最終的には鍵盤楽器に取り込まれ、そこから未だに開放されていない。著者達が語る「楽器との出会い」体験の不思議な魂の興奮に触発されて、嘗ての楽器への燃えるような憧れが記憶の底から回帰してくる。ほの暗いオーケストラボックスの中で、時々きらきらと鈍い輝きを放っている不思議な形をした楽器達。この世に突如出現したこの異世界への憧れ。そのようなものが多分子供の私を音楽の方へと連れ込んでいった。楽器が吹ける、弾ける、ということは何という快感なのか。うむ、どういうわけか、親父が買って枕元においていてくれたハーモニカだったのか、私の音楽的原点は。
しかし、サキソフォンは今までいじったことがなかった。昨年ひょんなことからアルト・サックスをパリまで運搬することを頼まれ、一緒に飛行機で旅したことがあった。しかし、厳しい搬送規則を幾重にも言い渡されビビってしまい、ちょいとイタズラしてやろ、との良からぬ下心もあったのだが、大事な箱入りのまま、未遂に終わったのであった(^^;
サキソフォンはどうやら悪魔の角笛であるらしい。オーボエやフルートなんかの品行方正な正統クラシック楽器ではなく、怪しげな出自が禍してか、クラシック界では異端として排斥された過去がある。この楽器の音がかなり生理的なトコロを直撃する、つまりは扇情的すぎるということらしい。ここで、どこからか聞こえてくるサム・ティラーの「ハーレム・ノクターン」(^^;。まあ、クラシック界で聞こえてくるのは、おとなしい生娘のふりした「アルルの女」か「展覧会の絵」の一節くらいでしょうな。しかし、アメリカに渡り大ブレークを果たし、ジャズにはなくてはならない楽器になっていく。なんといってもクラシック楽器にはない演奏の容易さ(音出し、運指法)と無敵の表現力の所以でしょう。吹奏楽器は息使いや指使いという身体の生理そのものが音に同化してしまう。特にサクソフォン奏者は楽器を自分の分身のように抱くのである。このような純生理的表現力に匹敵する楽器は人間の声以外にはない。サクソフォンは誕生してから170年を経た今でも、新たな奏法や音色が開発中だそうなのだ。演奏中に神がかり状態になってしまうサックス・プレイヤのドキュメントもあり、現代でも悪魔の角笛ぶりは健在である。
このあたりで、クラシックのオーケストラでこの楽器が使われにくい理由が私にも何となく納得できてしまう。つまり、オーケストラに必要な楽器は、楽譜をスキャンして一定の音色に変換する装置であればいいのだ。しかしサキソフォンという楽器の本領は、即興的で自由な奏者の自発的な表現力を発揮してこそナンボというヤツだ。逆に言うとアルルの女の単純な旋律を吹奏するだけなら別にサキソフォンでなくともいい、というもんだ。・・と、思ったが、やはりフルートやクラリネットでアレをやるとちょいと色気が足りない気もする。うん、とにかくどうしてもちょいと色気が出てしまう楽器である。色気というか、生理というか。吹く者のナマの息吹がそのまま音になり、善良であり悪辣である魂を直に音楽が吸い取ってしまうような。
長らくピアノに囚われていたのだが、こういう本を読むとまた子供の頃に夢中になった楽器への憧れをかきたてられるなぁ。
以下は余談。
著者のインタビュー相手は大半がジャズの名手達になるのだが、クラシック界の大御所にもインタビューをしにパリに行っている。このドゥラングル氏(Claude Delangle)、私が搬送した楽器の持ち主が現在パリ音楽院で師事している教授でもあるのだが、本の訳者がド・ランクルと標記していた。あ、例のド・ランクルか。現在私はタナトロジー(死亡学)が専門だが、以前はデモノロジー(悪魔学)に沈潜していた。この分野では必滞の文献「悪霊カタログ」"Tableau de l'inconstance des mauvais anges et demons"を著したフランス中世でえげつない魔女狩りをやった悪名高き異端審問官ド・ランクル(Pierre de lancle)ですね。現在では、その末裔が悪魔の角笛を吹き、ハーメルンの笛吹きばりに若者を異界に連れ去っているわけだ。なるほどね。
この人は書いて遊ぶという現代の偽作者、もしくは戯作者たる小説家の本流をいっているのだが、今回はまた古色蒼然たる、ノヴァーリス風と言っとこうか、ロマン派的小説である。まあ、お題がシューマンであるからしてロマン派風になるのは当然の帰結か。芸術を極めるために非日常に突出していってしまうという芥川が好みそうな芸術家小説とも(・・「地獄変」等を言っているのだ)。現代の小説家としてのシカケとしては、終章で二転・三転する推理小説風の謎解きがあるのだが、これも芥川的古典的な手法の踏襲と言える(「羅生門」等のことだ)。そういうわけで、小説の作法として面白く読めるのだが、本当を言うとトリックが甘く、伏線があいまいで、推理小説として読むとばかばかしい。あくまで、小説作法を楽しむ作品である。ロマン派の雄、シューマンの芸術と狂気に肉薄しようとするピアニストの奇行。私もアマチュアピアニストとしてシューマンには一家言あるのだが、その私が思わず譜面を確認するほどのもっともらしいシューマンの作品の評釈が綴られている。今回は実をいうと、小説作法よりこのシューマン解が興味の中心だった。とりわけ、不器用なシューマンの書法(=実際の音符)が、表面(この世界)に少しだけ見えている露頭鉱脈のようなものにすぎず、シューマンの中では楽譜(音)以前の状態で完璧な音楽が聞こえている、というようなロマン派的芸術観が、ソレらしくていい。この主人公のピアニストもやがてこの世の秩序から乖離して行くのであるが、シューマンから異界の響きを聞きとってしまう者には、この世界こそがなじみのない「異界」であるという感覚は自明のものである。たとえば、「ある日、突然見知らぬ神の前に引き出され、犯したこともない罪を弾劾される」とか(「17歳詩集」伊藤章)。人は精神を病み自閉するというのだろうが、当事者の感覚はまったく違う。異形の神のわけのわからぬ秩序から開放され、自分が本来いた懐かしく親しい世界へと回帰していくのである。外に自閉する、と言わせてくれ。とか、何とか、またしても書評から大きくブレていくのであるが、そのようなシューマン的精神の病の気がある者にとっては、居心地のいいおなじみの世界のハナシである。同病相憐れむ(^^;。もう一度いうが、そのようなシンパシーがなければ、今回の作は作為が目立った性急で荒削りな推理小説でしかないだろう。まあ、それでもここまで本物らしくピアニストを演じる小説家の筆の遊びを楽しむのは可能だが。
ほぼ二ヶ月かかって上下2巻を読んだ。なんと贅沢な読書時間。ノーベル賞級の上質な文体をゆっくり味わった・・といいたいのはやまやまだが。その実、一向に集中力が高じてこないタダのだらだら読書だった。
当然物語が進展していき、クライマックスに向かって上昇するというような小説風の加速度はないし、旅行案内というような実用的な記述でももちろんない。イスラムとは何か?をイスラムの徒に聞きに行く真摯な旅行記である。当方がイスラムについての特別な興味があるわけでもないかったので、別にいつ止めてもいいような粘着性のない読書時間だったのだ。しかし、いつ中断し、また読み続けてもふわりと話に乗っていけるのは語り口・文体のすぐれた安定感がなせる業というところ。淡々としたした語り口の中に、ほんのりと控えめなユーモアとともにさりげなく混じる批判精神。表面的な感情暴発を誘発することなく、一定の速度で語り次ぎ、読者の内側にするすると届く完璧にコントロールされた文体というものがここにある。
ホメイニ師を首班としたイランのイスラムによる革命が成った1980年頃の紀行である。ナイポールは先ずイランに行き、革命直後のイスラム政体を見に行く。その後、他のイスラム国家であるパキスタン、マレーシア、インドネシアを歴訪し、再びイランを訪問してこの長い紀行を終わっている。そのようにして「イスラムとは何か?」という主題の周りを一周している具合である。イラン革命の実体を伝えるというような、鼻息の荒い気負ったジャーナリスティックな記述はどこにもない。各国で人を介して訪問するのはイスラム教徒の組織の長、高名な論客なのだが、しかしそういう組織から派遣される通訳の学生との会話ににじむ若者の理想主義と現実とのちょっとした齟齬や逡巡の方が作家の興味を惹く。ナイポールも若者に対して、軽くその理想主義を揶揄したりして、会話を楽しんでいる様子もある。この作家は国籍こそイギリス人だが、トリニダードトバコで育ったインド系の作家である。キリスト教徒として異質な文化に直角に切り込むのではなく、自己の遠いオリジンを探っているようなシンパシーも感じられる。
性急な結論はこの紀行にはない。イスラム国といっても良くも悪くも人間の世界である。イスラムとは何か?という問いに直接答えてくれはしないのだが、イスラムの指導者や通訳の学生達と交わす会話の描写には等身大の人間のエピソードが描かれているのである。さすれば、やはりこの紀行の読者の興味はイスラムという、未曾有の国家・法・宗教三位一体そのものではなく、その中に生きている生身の人間を描くというこの紀行の本当のテーマに目が行く。
本書が刊行されてから20年経ち、狂信的なイスラム原理主義者が再び世界史の表側に出没する時期に、この日本語訳が成立している。この間にナイポールがノーベル賞を得たこともあり、タイムリーな訳業というべきだが、深い読みに支えられた好感の持てる日本語である。書評として訳文を通して作家の文体のことを言うのは無理があるかもしれないが、この日本語の一定のリズムは原文の息遣いに間違いなく共振しているものと思える。
私と同じ年齢でNHKワシントン支局長という経歴の著者。だから、あまりホメたくはないのだが(^^;。残念だがエリートサラリーマンの余技ではなく、れっきとした作家の筆と言わねばならん(くそ)。ジャーナリストだけあって、昨年の金融危機までのティピックな経済事変の裏側にうごめく策謀を小説的仮説にしたてて見せてくれた。もっともあまりに小説的な色をつけすぎていることが返って作り物風に安っぽくなってしまった印象だ。たとえば、主人公格の3,4人がすべて出来すぎたスーパーマン的秀才なのでウソくさくなってしまう。自身も才人であるだけ、作者の自己顕示が少々煩わしくもある。小説では小道具にすぎない日本工芸やサラブレッド競売等のセレブリティ趣味等へのうんちくとか。昔からスパイ映画は、ある種のスノビズムをくすぐる小道具が多かったが手島サンはちょっと盛り込みすぎ。楽しく読めるが、本筋とは関係のないプロットに誤魔化されてしまうような印象が残る。まあ、そういう小道具はお遊びとして、ジャーナリストとして流石といわせるアウトプットもあることはある。スギハラは例の杉原千畝で、単なる信念の人ではなく、冷徹な軍の情報士官であったという面を描いていること、ドルの先物取引という新商品を開発する経緯、こういうネタを小説の素材として使いこなすのはこの著者の独壇場と言えるだろう。しかし、「スギハラ」をはじめ少々「日本」への我田引水が強すぎるのは決してプラスにはなっていない、といわせていただく。
ギリシャやローマ、中世の文献に現れる病としての狂気の記述を丹念に読み集めた「狂気大全」。著者は岩手医科大神経精神科学科の教授。現代の医学文献は殆ど扱われていないので、医学的な臨床参考書的実用性は全くない。西欧史上広義の狂気がどのように分類され、どう治療されようとしたのかを見ていくことによって、時代の文化的背景を浮かび上がらせようという試みと言いえる。しかし、本当のところは精神科医である著者が集めた文献のアンソロジーに解説を付したもので、いたって趣味性が濃い内容である。まあ、教授の楽しみってやつでしょうなぁ。
広義の狂気として飲酒酩酊・不眠・自殺・老い等もカタログ化されていて、いちいちそれぞれ身につまされたりするわけである。
「伝染する非理性」なんていう章のタイトルはヨメの実家の人間模様を想起させられ、別の半身の身につまされる。狂気は古来・現在を問わずそれほど身近なものなのだ。
狂気は伝染する。魔女の告白や戦時下の奇妙な高揚を想起するまでもなく、巧妙なリーダーに煽られたグループが共有してしまう単一な心理を思えばいい。
幻覚について述べた中世の医師の証言が印象的だ。自分では現実と同定せざるを得ない現象なのだが、この人は信頼する友人の言に従って「幻覚」であると理性に従い自己診断するのである。
理性で自らの狂気を否定する。知とは自分を相対化し客観する技術、もっといえば自分を否定する勇気のことである、と言っていいのだ。
狂気は標準からの偏差に他ならない。アナログ的に分布した大部分のマージナルな精神は社会圧に押され、標準内に収めてしまうような自己抑制を図る。自己抑圧装置が働かなくなった時、当初から大きく標準から外れている魂同様、狂気と分類されるのである。
もし、狂気が標準からの偏差であるとしたら、音楽を聴き、架空の物語に耽ることも狂気に他ならない。自分の周囲の標準世界からのしばしの逃避。このどうしようもない世界からできるだけ遠く離れた場所に魂を浮遊させ、標準から偏差自体を楽しもうというのだ。これは「ホビーとしての狂気」と呼べはいいのだ。
自分の占める偏差上の位置を正しく計測できる知があれば、逆に時代そのものの偏差が見えてくる。ここで知は自分と同様、ようやくその時代まで相対化し、客観するに至るのである。
さて、それでは今しばらく、この時代の狂気につきあっていてやるとするか。
生物や宇宙の構造を見ていき、これは偶然に出来たものかどうか?と問うのがパートI。個別の部分の紹介や分析は真面目に考察している風に見える。しかしこの分析を帰納・演繹させる着地点がふわふわとして明確ではない。それがどうしたん?と思っているとパートIが終わってしまった。ページを繰るといきなりこうだ。
『パートIでは、論理的にはっきりした方法によって、生命は設計されたのであり、また設計され続けているという結論を、論理的に導き出した。』ええっ?
別にそんなもの仮定しなければ証明できないような論理ではなかった。むしろそんなもの仮定したおかげて生じる矛盾をどう回避するかというのが主旨だったような。
私は実はトンデモ系は好きなのだが、この分野の醍醐味は大言壮語の爽快さを味わうことである。しかしこの帰結は唐突で狐につままれてしまう。いくらトンデモ系としても、とんでもない。
私はちょっと就いていけなかったので、残念ながらパートIIからの読書は中断させて頂く。
しかし、この妙な論理は実は訳者の恣意がかき回しているからのような気がする。日本語がどこかおかしいのだ。こういう時はたいてい訳者が原文を理解できていないと考えてよい。
で、この訳者がクセものなのは訳注がいちいちうるさいことからも伺える。固有名詞にはすべてカッコで訳注がつくのである。『ファアウスト(訳注:ゲーテの作品)、リモージュ(訳注:フランス)、偉大なアメリカ(訳注:多少の皮肉が入っている)』というように、実にばかばかしい翻訳文にしあがっている。訳注で略歴を読まされた後、本文で同じ説明がつづくという部分では笑ってしまうのだ。
このような訳文だと原著の主旨が仮にマトモでも、なんかアヤシイという印象になってしまう。
せっかく大言壮語の海に酔おうと思っていたのに、この日本語では溺れられない。どういう意味があってこの50年前の書物を訳しているのか不可解千万だね。
一度読んだな、と途中で気がついたが、私が最近つらつら思っている私のタナトロジーの主旨がタイトルどおりなので、そのまま再読。かつて読んだ中身はよく覚えていないのだが、著者の論旨にいちいち同感する。もしかしたら次のような仮説が成り立つかもしれない。かつて読んだこの本の内容が私の脳髄に奥まで沈潜していき、本を読んだ表層の記憶そのものは風化したのだが、論旨があたかも私のオリジナルであるかのように私の血肉化していたのだか。老いや病の体験から新しい見方をするようになった当方が、自分の内部のうすれた記憶から再び論旨だけを吊り上げてきてのだか、よく分からんが。しかし、自分の「考え」なんて殆どがこういう外装に拠っとるんだろうとは思うのだ。
変温動物→恒温動物(鳥類・哺乳類)→恒環境動物(人間)という著者のオリジナルな指摘は嘗て読んだとしたら覚えているハズなんだが、あたかも初にお目にかかったようにヒザをたたいたのだが。