加賀藩三代藩主前田利常・四代光高・五代綱紀の伝記をそれぞれ一巻づつ書き分けた長編歴史小説。藩祖前田利家の時代なら賑やかで、信長・秀吉関連の他にも甥の前田慶次郎・家老の本田政重等読み耽った伝記小説も多いのだが。関ヶ原の戦乱も収拾し、徳川将軍の治世が安定すると、もう時代小説の醍醐味である合戦軍記の時代は終わってしまい、大した材料もないので、小説類が極端に少なくなってしまう。この作家は保科正之や松平伊豆守というような合戦の主人公ではない、安定期の官僚大名小説を書くという専門分野で業界のニッチを埋めている。波乱の無い時代での官僚・政治家としての大名の生涯をゆったりと描く作法が持ち味のようだ。比較的大部な大河小説風なので、今年の正月休み(私の休みではなくて、図書館休館期間というイミ)のコタツ本にしようと読み始めた。
三代藩主になる利常の母(側室)の家から物語の全体が開始されるのだが、勇ましくも何とも無い武家の奥向きの側室の作法だとか、嗣子の養育システムだとか、そんなに興味もわかない薀蓄が物語前半の主たる進行エンジンなのでページの進まないこと甚だしい。まあ、いいわ。時間もあるしぃ、とつきあっていると、ついに一月中には読了できず、さほど面白くもないのでもうやめとこうかな、と思ったもんだ。武家の婚礼や閨房の作法とか興味なくもないのだが、べつに知らなかったとしても一向に構わない事項である。それでもゆっくり読んでいると江戸初期という時代の輪郭がおぼろげに見えてくる気にはなる。
今年のNHK大河ドラマの江姫は気の強そうな性格だが、この小説にはその子の三代将軍家光が描かれているが、暴君的にキツい性格だったようである。ドラマの上野樹里の勝気な演技を思い出して何やら笑ってしまう。一方で家光の異母弟・保科正之は聡明温厚で作者に言わせれば、日本史上最良の知性で統治した為政者であって、心酔しているらしい。この前田の三代記の執筆のモチベーションの一つに、五代前田綱紀の後見人が保科であることがあると書いているくらいだ。このおだやかな秀才保科も父は家光と同じ二代将軍家忠なのだから、いかに江姫のDNAの性質がキツいのか推して知るべしである。
前田家は関ヶ原から徳川に臣従した外様ではあるが、外様最高の100万石の領地は発足した当初の徳川政権にとってなんとも目障りな重さであったに違いない。この前田の三代記はいかに徳川氏を懐柔し、この大藩を維持していくか、という課題の成就を使命とした殿様達の物語と読める。当主達は不安定な創業期によくこの難しい課題をこなし、ついに江戸期を通じて加賀百万石を維持していく礎を磐石にするのである。刀によらない知力の戦記、そのような歴史小説がこの作家のメインテーマである。読み始めは面白くもなんともないが、読後感はすこぶる良好。
副題:シュレーバー症例から聞こえてくるもの
私は以前、宝塚市郊外の池のほとりに住んでいた。早朝間違えて覚醒してしまい、目を閉じたまま再び眠ろうとする意識に水鳥の朝の声が届いてきた。何度か繰り返される旋律を脳内で復唱していると、その意味がもうろうとした意識に注入されていく。旋律の裏にある意味?感情なのか意思なのか、とにかくそれは人間以外の世界の呼吸であるはずだ。そして少しずつ私自身も見知った世界からずれ始めていく。
確かに。純粋音楽は狂気を誘発する。物語も歌もなく、筋書きもない音の連関に何故か意味を聞いてしまうという狂気。この場合狂気とはこの世の秩序以外の基準へとズレていくという意味である。著者によればソナタ形式が音楽史に現れたとき、完全に無意味な音楽であるという評価が一般的だったという。それ以前の音楽は舞踊や詩の添え物であり、食卓のバックグランドミュージックにすぎなかったのだ。少なくとも純粋音楽(音楽史用語では絶対音楽)と言う概念はなかった。
私の持論ではバッハが感情の高揚を促すべく、音楽を盛り上げる巧妙な技法を開発した。テレマン(ターフェルムジーク)との違いは明らかだろう。で、ベートーベンが意思を音楽によって表現するということを行う。そして、著者によれば、ベートーベン以降更に高次な表現手段を与えようとしていた最大の人物がシューマンである。
副題にあるシュレーバーは、フロイトが克明に症例を研究した自覚的狂人である。この患者の意識は音楽と共に奇妙にねじれ、シューマンとの自己同一願望が著者によって指摘されている。で、シューマンの狂気というと、私は思わずニタリとしてしまう。←実は私もかなりのシュレーバーなのだ(^^;
狂気という視点で西洋音楽史を捉える書物、と岩波の宣伝文句にはあるが、ここでいう音楽史とはラモーの甥(ディドロ)、シューマン、マーラーとシェーンベルグのことだ。シェーンベルグのことで著者の知見が指摘するのは、音楽的には韻文より散文の方が高度な内容を表現できるということである。コトバによって表現し切れない内容を韻文は内包するというのが伝統的文学的な常識である。逆ですなぁ。シェーンベルグにとっては伝統的ハーモニーや律法は韻文にあたり、いや、アルバン・ベルグによると、主題を繰り返すという形式も陳腐な古典的韻文らしいのだが。このあたりの音楽的散文という意味を考えてみると、意味とは他者と共有することのない純粋個人的表現になってしまう。自分にしか意味のない意味。ま、それでは狂気という他はないのだが。
最近逝った義父は老人性の認知症で記憶の欠落や妄動があったが、狂気という域ではなかった。他者と共有する世界と完全に切れてはいなかった。付け加えるなら、あの人の自分独自の世界は、やはりこの世の要素だけから出来ていて、論理は異なるが全くユニークな感性が支配する異世界の秩序ではなかったのである。
同様にその難儀な性質に感染してしまっている、その配偶者(ハハオヤ)や子(ヨメ)も、どこか論理がおかしいのだが、強烈に現行世界の秩序に依存していて、異世界の秩序に踏み込む恐れはまったくない。いわばこの世の基本的狂気にシンクロナイズし、うまい具合に狂っているだけなのだ。
ところで、こいう世界で正気で居ることが、そもそも狂っているハズなのだが。
いや、この著者の文は確かで論は明晰、テーマは魅惑に満ちて何とも見事な書物である。しかし、私はかように我田引水的不出来な読者で、シューマンやマーラーの普通の音楽史では聴けない逸話に魅了され、肝心の音楽が内包する狂気の本質論を読み解くには至らなかった。
マーラーはアルマがグロピウスに走るという状況で狂気を自覚し、フロイトの診断を受けている。アルマといえば、その前段階で作曲の師でもあったツェムリンスキーを捨てマーラーに走っている。当時の先駆的女性だった。私はツェムリンスキーの交響曲を聞いたことがある。実に堂々とした管弦楽法・形式感で見事な曲だったが、狂気は全く無い。
←ところでこの辺になると私は狂気=天分ということとして言っているな。ははは。で、そのツェムリンスキーの妹が実はシェーンベルグのヨメなのだ。そのヨメが若い画家に走り、シェーンベルグは自殺を考え狂おしい発作に捉えられる。しかし、ヨメは結局夫に帰り画家の自殺という顛末で幕となる。実に当時のウィーンは目くらましく狂おしくも懐かしい。
もちろん、シューマンの狂気とクララ&ブラームスのクラシカルな恋の顛末も私の憧憬の源であり続ける。どうやら、恋の行く末を見た者が絶対音楽に自らの狂気を吐き出してきたのかも。
おっと、そういうワケでどうしても私は大時代的なアナクロニスティックな世界に魅了され、この碩学の論の本質を追う落ち着きに至らなかったのだ。もう少し歳とったら、またゆっくり読んでみよう。
宮城谷古代中国史モノでも最長の9巻。そしてその漢字。白川静の業績が本文中にも引用されている程の漢字の使い手である。白川によく言及している小説家として高橋和己も思い出すのだが、うん、確かに彼は固い漢字を並べるのが好きだったのだが、宮城谷の漢字の用法の自在さに比べる術も無い。たしかに日本語で常用される漢字、あるいは熟語ではないが、文の勢いで意味が分かってしまう。そしてそのような漢字の流れが文と物語を盛り上げる主要な要素になっているのである。文体と文字とが渾然一体となって物語を構成しているのだ。これはもう、ただ古代の中国に引きずりこまれる他はない。
ところで第一巻を読んでいて、その内包する堅固な世界観に取り込まれて楽しんでいたのだが、タイトルが「三國志」であることを長く忘れていた。はて?三國志ってこんな物語だったんだっけ?後半になってやっとチラリと曹操の名が引用され、あ、やっぱりそれでも三國志なのかもしれないと思い出す。この膨大で博識な興味に満ちた中国王朝の編年記である巻一は、実に曹操の祖父を描くことのみに費やされていたのだ。うう、何という息の長さか。よし、それでは当方も心して膨大な物語に付き合ってやるとするか。うう、何ていう豊穣な読書の楽しみが今から先に拡がっているのだろうか!
大部の小説である。初期の宮城谷の文章より散文の気が勝っているように感じるのは、この膨大な文章の量故かもしれない。また、いちいち各場面に心魂を込めた表現を巧風(くふう:こういう漢字をマネて使ってみたかった)していると物語が停滞しまくってどうしょうもないのかも。
そしいよいよ第九巻に到達。これでやっと読了かと、最後のページを確認。
・・しかし「三国志 完」の文字はなかった。
「(第9巻了)」と。うっ、これはまだ未完だったのか。
もしかして図書館の怠慢で・・・
2ヶ月に渡り毎日少しずつ読んでいった。しかし、何としても膨大な登場人物たちである。
本当はメモでも作りながらでないと、係累が頭に入らず物語の奥行きを見逃すことになる。
関連のある武将の再登場では、作者も少し気を利かし、「この名は以前・・・として一度登場しているが」とかのコメントを入れてくれているので何とか漢字の形に見覚えの覚えたりするのだが。
まあ、小説を読む楽しみのある一定の部分を味わい損ねたのは間違いない。
それでも、毎日少しずつ読み進むかけがえのない贅沢、といっておこう。
中国史というのはとりもなおさず武将や為政者の伝記の集成である。それが司馬遷「史記」や「春秋」のような正史のスタイルだったのだ。後代の人は史書に現れる古人の振る舞いを規範にし、身を処した。膨大な登場人物がそれぞれ要所要所に古人の名を引用するので、人名の量的複雑さが倍加することにもなるのだが。
規範として引用されるのは必ずしも成功者ではなく、信義を貫いた人や行為が美しい人物であることが多い。やがて、読者が頭の中で統計処理をしていくと、人がどのような生き方を賞賛したのかの答が見えてくる。
端的に言って、死に方が美しい人物がこの時代の人のあこがれる生き方だったようなのだ。
結局、宮城谷が膨大な小説として描こうとしているのは、自分の信義や理念のために死を恐れない生き方の美しさではないか、と思える。現実的な利を捨て、潔く死んでいく者の圧倒的な美しさ。その高揚感。
このような美意識に浸っていられるのが遠い時代の物語に沈潜する喜びの本質である。
曹操の魏が中心に語られているのだが、鼎立した三国のそれぞれの建国の英雄の性格がやはりくっきりとして印象が鮮やかだ。
曹操は絵に描いたような才・徳・勇完備の英雄なのだが、やはりどうしても面白いのが劉備の性格描写ということになる。微妙な誉めかたをしている。この人は曹操に反発し、徹底的に英雄的にはなろうとはしなかった。その徹底の極みに何か人を越えた者に成った、というような。
次に蜀は諸葛亮(孔明)の時代になるのだが、このあまりに有名な軍師は戦略家としては徹底した教条主義で天分がない、というような描写をされて登場する。この人は天才は官僚としてのものだったようだ。
このような性格付けを付された英雄の登場が子供のころに覚えた三国志の世界を攪拌する。
で、とにかく手に入る最後の第9巻までようやくたどり着いたのだ。
しかし「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の件は未だ語られていないのである。
ふう。
テレビのブックレヴューで見て、なかなか真面目そうな青年風だったので一冊読んでみた。しかし、若書きの作品だった故か、文章が類型的で特に独自性を感じられなかった。時々の場面展開の前にちょいとした文体の試みは読み取れるものの、文学してますよという作為とも受け取れてあまり感心せず。ストーリーも今時の私小説的で特に私の問題意識に抵触するような気配もなく、サラリと終わってしまう。ただテレビの連続ドラマをだらだら見ているように、すらすら読めてしまうことだけが取り得の消費用小説と言わせていただく。若書きの一冊で評価するのは悪いが、どのみち私にはどうでもいい類の小説の書き手であろうと判ず。以降却下。はい、ごめんなさい。
国立歴史民俗博物館で2001年に行われた企画展示「異界万華鏡ーあの世・妖怪・占いー」の展示テーマを本にして出版したもの。
専門家による各分野の学問的な鳥瞰や紹介と京極夏彦X小松和彦との「妖怪」学についての対談を収録してある。民俗文化的には豊かな分野なのだが、学問的には非常にマイナーな扱いになっていて、このような企画を通じ、学問として広く認知・定着させようという啓蒙的意図があるようだ。ま、しかし一見した印象では、ナマの素材の面白さはあるけれど、学問として分析し統計として提示されてしまえば別に面白くも何ともない。これはやはり小説の素材として、フィクチブな分野でこの文化的伝統を保護・継承すべきだろう。なんていうのは単なる修辞で、実際、学問的でないフィールドでは大変な盛況である。今更保護継承すべきというようなもんでもないよな。特に水木しげるは過去のどんな絵師よりも豊穣な妖怪文化を作り上げたというべきだろう。ただし、学問的には水木は要注意、豊富な民俗学的に正統な伝統の中にさりげなく自分の創作をまぜてあるので、危険とのことだ(小松和彦)。京極夏彦の「妖怪とは不思議な事象のことで、現代のモノとしての解釈は最近になって成立したもの」という指摘は注目していい。
小論でじっくり味あわせて頂いたのは池上良正「死人に口あり −民俗宗教における死者との対話ー」。津軽のイタコ、その他各地の死者の口寄せの調査から得た知見は包括的で、ちょいとアヤシげな巫者(巫女・巫男)の実際を偏見のない、さらに言えばある種の肯定とも受け取れる暖かさで紹介している。その過程で我々は死者、死後の世界をどのようなものとしてとらえているのかが具体的に浮かび上がってくるようだ。最後に「著者の個人的な見解として」と学者的良心が伺える但し書きから始まる、死者に対する文化としての位相への見解は見事な総括だった。1)死者は生きている人たちを癒すことができる。2)死者に対する「つつしみ」の態度を失ってはならない。この中で直接死者と対話するのではなく「イタコ」を介することも「つつしみ」の表れと受け取る解釈が述べられる。3)死者の声をこの世を支配する道具にしてはならない。ここで第二次世界大戦中に最もイタコが繁盛したことと、死者の中には「当時の官憲や特高警察が聞いたら驚愕するような(反戦的な)対話もあったと報告している。死者の声を聞きたいという謙虚な願いが、特定の個人や特定の団体の利益を満たす道具として流用されがちな風潮に異議をとなえ、死者たちの声に静かに耳を傾けることができる感性を養え、と結語しているのである。見事な結びに感銘を受けた。
雑誌連載エッセイ集。あまりホメたことではないな、と分かっているのだが、町田については多少色眼鏡で見てしまう。この人の経歴が少々ズサンで、どうしても「本格文学者」ではなく、「本格小説家」としてはうさんくさく、「本格文筆家」にはおこがましく、あ、他人のことを「おこがましい」なんていうのもおこがましいが、ま、ともかく、そういう勝手な留保がある。これは間違いなく色眼鏡だな。
先ず、この人は大学出ではない。大学出でない芥川賞作家なんて、例えば、中上健二とか、何となくナマナマしくもしんどい作家を思い浮かべ、エンターティンメント系本格小説が好きな当方とは肌合が違い、よせやい、そんなの遠慮したいやい、と思ってしまう。それに本業か副業か、分からないのだが、必ず「パンク歌手」というよく分からん職業にも従事してらっしゃるということで、これも妙に落ち着きが悪い。まだ「パンツ歌手」だと、ステージでパンツイッチョでマイクを握っているという風にイメージし易いのだが、どうみてもパンツではなくパンク。どうイメージすればいいのやら。
決定的なのが、私が在学していた高校の後輩に当たるというヤツだ。アソコの学校出身だなんて、お里が知れるというものだ。結局、私と同じようなズサンな経歴で、こういうのって絶対「本格的」何者でもありえない、これは私を見ればあきらかだ。だいたい、大阪出身で大阪弁を常用していたような言語生活者に「本格的日本語」が操作できるわけがないじゃないか。などなど、とかとか。
で、この前TVの「ブックレビュー」を見ていたら、町田の小説が合評されていて、「この人はまぎれもなく天才ですね」とコメントしている評者もいたりするのだ。あちゃ?ほんまかいな?
そういえば、初期の小説を一冊読んだきりで切り捨てていたが、最近の長編力作を一冊くらいは読んでやてもいいカナ?なんて、おこがましくも思ったのだ。
図書館で探したが、力作長編諸説がなかったのでこのエッセイ集を、とりあえず。
読んでみると、まるで職業文筆家のように言語を操っていて、どちらかと言えばパンツ、じゃなかった、パンク?歌手のホウが副業みたいな感じだった。この人も今更パンクでもあるまい、という年齢になったのか。ソツなくエンターテインメント系雑文をこなすプロ仕様の作家の顔が板についてるじゃないか。このエッセイ集は類型的なオチに向かって毎回ちょいとした話題を提起する形を踏襲しているが、マンネリを逆手にとった関西系の芸風の伝統を守っているといえないことはない。時に当方がHP上でも少々こだわるっている「何々になりますねー」という店員諸氏ご用達のマニアル的応答を皮肉ってたりしているのは、私より若いのに、日本語の劣化を容認したくない、という意思も感じられ少々色眼鏡の度を軽減してもいいと思わせた。ただし、このエッセイでは言語に対する独自の切り込み方をしているというヤツはなく、適当に現在の状況をくすぐってオチに持ち込むパターンの商業的大量消費用文筆製品仕様なのだが。
作家・歌手であることの自虐を自覚的にウリにしているくらいの世間との距離感覚はしっかりと存在し、その意味では別に色眼鏡で見る必要はないようだ。ではね、以降普通の作家として見させていただきますノデ。
書籍の電子化あるいは電子書籍が紙の書籍を凌駕するような勢いを見せる時点で行われた、失われ行く書物ということをテーマにしたいわくありげな両者による対談。いわくありげといういうのは、この両者とも書物、とくに古書・彩色写本・インキュナビラ(・・・説明省略)の収集家で、つまり書物というオタカラを偏愛するフェチの巨頭なのだ。だから題名から連想する書籍文化に対するオマージュではなくて、訳者の手柄でもあるのだが、巧妙な書物礼賛へのレトリックと思っていい。時流に乗ったタイトルを付した企画に便乗し、自らの書物に対する思いいれを語りつくしてやれ、という老獪な対談者たちの意図が次第に明らかになる。訳者の「本書はこんなふうに、読者をありとあらゆる脇道に索引してゆく力を持っている」という言がこの本の意味を的確に要約している。碩学による古今東西の書物にまつわる雑学の数々。とくに古書収集家というちょいとスノッブな文化の一端を競って披露するこの老人達の高揚は、ま、インターネット上でレアアイテムを自慢しあうオタクの姿そのものでほほえましくもある。両者とも珍説愚説のいわゆるトンデモ本を偏愛し、そのようなバイアスから世界を見る趣味がある。そういう姿勢がこの老人達に陰を与え、一筋縄ではいかない確とした存在たらしめている、あるいはそのように見せる力量を与えているとでもいっておこうか。実を言えば、こういう中世写本のカビホコリの中から立ち上るオカルト文化が、未だにわれわれの西欧への興味をひきつけているということも事実である。虚飾に満ち、金持ちと僧院に独占された秘密のカルト。この中にはどうしても書物という虚飾の存在の媒介でしか伝わらないものがある。伝えることで次第に「真実」が形成されていくのである。シェクスピアの作が、本当はベーコンが書いたものだという説が流布され、そのことによって、シェークスピアの価値を高めていく。ジャン=クロード・カリエールはイラン文化を通じてインドのベーダにもくわしく、文字ではなく、口承によって真実を伝えてきた事情を説明してくれる。口伝によって真実は保証されるのだが、写本文化では写筆する度に虚誤が蓄積していくのは必然だ。これはコンピュータではどうしても扱いようがない、アナログのホコリとでも比喩しようか。この口伝やデジタルコピーではない、誤謬に満ちた膨大な虚の部分に支えられた文化。こいつが実は西欧の豊かさの本質だったのかもしれない。誤りのない真実なんてすでに誤っているのである。
「読書とは、咎められない悪癖である。」
では、心を改めて町田康を読ませていただきます。と、毒々しくも白赤い不気味な表装の禍々しくも分厚い「宿屋めぐり」を始めたのはいいが、なんじゃい、これは、と自問しつつ、いつ終わるとも知れぬ吉本的ドタバタ劇に近親憎悪的やりきれなさの苦難の読書であった。自在な関西弁、ってか、河内混在原始レベル大阪人の語り口が、ときおり後天的標準日本語風今日的口調にもうねりこみ、さすがの自在の使い手といいたいのだが、それにしては語りの焦点が定まらぬ。結局何を目指して進行するこのコトバの物量なのか、ただ翻弄されつつ、ただ読み流させられていく。そのくらいは持続させる語り口の瞬間的な芸はあるわけだが。そのうち「宿屋めぐり」がダンテの「地獄めぐり」の隠喩かと思わせ、極悪非道の人間性のカケラもない「主」があのお方の当てこすりで登場するにいたり、ほのかなシカケも見えてくるのだが、それにしては大げさで装飾過多な道行である。つまらん世界でつまらん人生をてんでに勝手な理屈をわいわい言いながら。その猥雑さ自体であるこの世界を、いつまでたっても文学的に昇華されることのなない小脳反射的アドリブ的言語の猥雑さで語り表現しているということらしいのだが。最後、600ページ目に「知らん、自分で考えろ」という主の言葉が結語としておかれていて、まあ、この座り心地の悪い世界のあり方の作者なりの捉え方のグダグダ的吐露がとろとろ落としどころかと思わせるのだが、それにしてもどうにも腑に落ちない文字表現のまま。リズムだけが永遠に繰りかえされ、主題の展開も、高揚も終結もない音楽。これがパンクというヤツか。このどうにもならん世界を「どうにもならん」と表現しても、どうにもならんでしょうが。このような冗語に満ちた600ページに私の貴重な時間を付き合わさせることで、私にどんなメリットがあったのか私には思いつきませんわ。私の人生も似たような雑漠としたもんだが、それくらいわざわざ本で読まされなくともわかっとるわい!こんなたわいもない物語を600ページに渡って商業誌に連載展開させる力ワザをそれでも文学的力量といってやってもいいのやら。町田康、未だ評価できず。
加藤秀俊さんも75歳である。季刊「人類学」の創刊号あたりで数回小論を読んだ覚えがある。その後40年、私の方はまったくその方向とは外れてしまい、まったく音信不通状態だった。ふと図書館の本棚で手にとると、もう人類学ではなく「隠居学」と。はひふ。まあいい。ここでささやかながら40年の無沙汰を少々復旧するとしようや。私はヒトサマよりもよほど早く隠居を決め込んでいるので、やっとどうにか追いつきましたんでぇ。ふはは。あ、いかん。何となく、次に急いで読んでいる町田康の口調がぁっ。えっと、内容はまあ、雑学の勧め的に軽く読める内容を、隠居というタイトルにふさわしい語り口調でつらつらと。それなりに楽しく読めるのだが、もちろん嘗ての「季刊人類学」風の鮮烈な知的刺激というワケにはいかない。お互い、もうトシですなぁ。で、私自身も自分なりの「老人学体系」を構築中なのだが、まあ、その方面では一応専門家、私がフランス語の専門家と自称するくらいにはスペシャリストなので、今更蒙を啓していただくほどのことじゃござんせん。で、いわしていただくなら、たとえば「マンネリズムのすすめ」「忘れる自由」、ま、タイトルから論旨は想像できる範囲ですね。赤瀬川源平風「老人力」の反語的礼賛と思って間違いない。今更言うことでもないのだが、加藤さんも大学の先生、立派な知識人。そういう方がまったく本心から「忘却できるということは責任から逃れること」といって喜んでいられるのか。いや、そうではないだろう。自らの老いと直面し、忌避し、呪謗し、悲嘆にくれ、格闘し、それでも勝てぬとあきらめての境地であるはずだ。下級労働者として知力よりも、やや体力に比重を負わされて生きてきた私でさえ、実を言えばそのような悲哀もちょっぴりないことはないのだから。鬱々。だから、「忘却力」とでも勇ましく言い切って笑い飛ばす以外にはないのである。もとより、自然と老いを受け止められるのなら、わざわざこのような文章をモノする必要もないはずだ。文章を書くということは、自らを決意することだ。書くということでこうでしかない自分を客体化し、あるいは相対化し一歩だけ距離をおく。つまりは自分から一歩だけ逃げ、同じ意味だが一歩だけ向上(Aufheben)することである。うむ。そろそろ「老人学」は卒業して、いよいよハイデガーを究めにフライブルグに行く時間である。
やっと得心できたよ。町田康は天才ですね、とNHKの「ブックレビュー」で誰かがいってたのだが。前回の「宿屋めぐり」では地獄めぐりのパロディ、もしくは、かの主に対する皮肉をテーマにしようという色気がじゃまして、コトバのレベルのコラージュがちよいと文学的に構えてしまって冗長で、ボケてしまい少々退屈だった。この作はテーマを等身大にしぼりきり、なにが言いたいのかぐっと明確になっている。つまり(1)あらゆるレベルの日本語のコラージュ。まさに即興的に湧き上がってくるイメージの言語化。もしくは言語を発したことによって湧いてくるイメージの言語による定着(2)コシュマリスク(悪夢的)で猥雑な擬似現実、もしくは現実の擬似の提示。(3)この世界のアナーキーなナンセンス化。ことばで笑い飛ばすことによってこの世界の秩序のうそ臭さの提示。え?(2)と同じ?そかな?
テーマは明確なので、細かいことは気にせず、安心して楽しもうこのナンセンス文学。この系統は大阪人の得意分野で、いわばボケと突っ込みの漫才的センスの発揮どころといっていい。登場人物が真面目に演技すれば、真面目なだけにかえっておかしいという正統的大阪漫才の伝統を踏襲。奇妙にデフォルメされた何とも不条理なこの世界の戯画なんだが、この人のスタイルは自在な日本語のレベルの混在そのものを自分の表現の主たる武器にしちゃってることだな。ギャグ満載の瞬間芸の圧倒的な連続。しゃべくり文学。もちろん、文字に書き写しているので、自動筆記では無いはずだが、かなりそーゆー即興文学に近い味わいがある。勝手な意識の流れが勝手にコトバを繰り出し、もう一度意識に勝手にフィードバックする。そのような自動筆記システムを作り上げてしまっているような書きぶりである。『・・という考えを竜虎、あたまの中で闘わせていると、突然、頭のなかに隆子という見知らぬ女性が現れて、すべてを台無しにしてしまおうかな、なんて呟いている。』見え透いた意識の流れの視覚化なんだが、でもま、よくぞここまで自由奔放にコトバを意識から放りだせるなぁ、とただ感心。私なんぞが心がけているような、対象を客体化し、論理的考察を加えるための言語化ではなく、言語によって論理もへったくれもあるかい、てなところにまで世界をぼろぼろに解体してしまうくらいのエネルギーがある。ここでエネルギー源となっているのはリズムだね。物語の結語として作家絢田両奴の文章が引用されている。意味を薄めきってぎりぎりの線でかろうじてコトバとしての体裁を持たせているだけという代物だが、すらすら読めてしまうのはリズムが支えているからなのだ。しゃべくり文学の真打。ああ、やっと町田康にレッテル張ることができた。ひとまず安心、安心(^^)/
題名につらされて読んだわけだが、このタイトルはこの哲学的エッセイ中の医療における自死や延命処置についての小さな考察の表題をとったもので、完全な騙しである。私の現在のライフワークであるタナトロジー関連本ではない。でもまあ、騙されついでに読んでいくと、今度は目下の問題意識である「存在論」を直撃されてしまうハメになる。新鮮な素材と素直な感性を感じさせる文章で冒頭から哲学の現在にいきなり連れ込まれてしまうのだ。結局何故「死なない」のかは全く解らなかったのだけど。
経歴を見ると著者は大阪大の学長も務めた京大系アカデミズムの真っ只中にいるような学者だが、このナイーブな文章は現在の哲学者の水準なんだろうか?だとすれば、西田幾多郎以来、難解な語彙を駆使した京大系哲学というイメージをそろそろ改めなければいけないかもな。
もっとも、私は20歳にして哲学を捨て町に出てから、一度もこの分野のまともな本を読んでいない。だから哲学の現在を言う資格はまったくない。しかし、近年分再びこの分野に回帰していく予感がある。
哲学が今私に回帰しようとしているのは、文学や宗教に感応できる感受性が衰えてしまい、かろうじて残っている知性のかけら(論理判断力かな?)だけでも支えていられる最後の良心というものかもしれない。
今、良心というコトバを突然だしてしまったのだが、日本の哲学は多分倫理的なアプローチが主流だと思う。
純粋な知や論理で構成された哲学体系への憧れではなく、個人の善く生きたいという倫理観に支えられた知の体系。だから、ギリシャ哲学やフランス合理主義ではなく、ドイツ観念論だったのだ。
と、私は簡単明瞭に分類してしまっているのだが、果たしてこういう安直なことでいいのかね?
まあ、この辺の検証はこれからおいおいやっていこうと思っている。
ハイデッガーをキーワードにしてフライブルグでひと夏過ごし、9月後半に帰ってきて初めて手にしたのがこの本だった。
フライブルグでもそうだったが、偶然と言っても、おそらく無意識の選択眼が自分の方向を決めているのだろうし、時代の潮流や社会圧というものも暗に働く。
ダーウィンが偶然生じた変化による適者生存ではなく、今西進化論が説くような「進化圧」による同時変異の方が私には近しい感覚だ。どうにもならなくなって哲学に回帰する時代。
まったく「妙に哲学的な時代」である。←ちなみにカッコは本文からの引用。
・・云々、という著者のわかり易い文章を私がわかりにくく要約した。
このようにやはりこれは現在の問題である存在論への有効なアプローチであると私は思う。
というのは腑に落ちるというのか、やはり同じ問題意識を共有している者の手ごたえがある。
以下、書評としてはこなれてはいないが少々気になる引用をする。 私をふむふむと頷かせたフレーズの数々、要約する必要もあるまい。
○「わたしはわたしのものだという自明性への違和」 「わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならない」
○自己の同一性というのは、現在のわたしが過去のわたしを同じじぶんとして所有することによってではなく、本当はだれかある他者の他者として、つまりだれかある他者の宛て先としてこのわたしは<わたし>としての同一性をあたえられるものなのだろう。他者との<交通>という言語で語りなおす必要が出てきている。
○自他のバリアを高く高くして、他者の侵入を拒み、そうして『自己」の純粋な内面に立てこもろうというのは、あるいは逆に、他者を強く感受しようとして自他の界面の感覚に渇くというのは(要約(^^;過度の他者依存)、じぶんというものが時間をつらぬいて持続しないという、そうした同一性の不成立、それを補完しようとしてひとが編みだしたぎりぎりの戦略だった。
○男性・女性の性役割分担にもとづく核家族という理念が逆に親密性を息苦しいものへと閉塞させはじめたのなら、たとえば共同家族といったより緩い生活形態を考えることも必要だ。<親密さ>の空間のありようを求めての現代社会の疼きが、これらの小説では傷つきやすい個人の感受性のなかに描き出されている。
○しなければならないという意識でくりかえす日々の仕事そのものが、まなざしが自己自身の存在へと折れ返るのを妨げるためにひとがやむなく考え付いた習い、つまりは気散らしにほかならない。(パスカル)
○「幸福論」が語られなくなったのはなぜか?
20世紀は<人間性>というものが再起不能なまでにダメージを受けた時代だということだろう。
「人間」の概念のみならず、「世界」の存続の可能性そのものが問題になりはじめたのである。
○幸福論が困難のなのは、社会のなかでじぶんの場所がうまく確定し得ないからかもしれない。歴史のなかでそれぞれの幸福を描く、そのための社会的な想像力が萎んでいるからかもしれない。
現在の幸福のイメージは私的なことに閉じこもり、「歴史に欠席」している。
○環境にやさしく、地球にやさしくという。他のいのちとの共生ともいう。
それはとてもたいせつなことだが、その言葉はひどく空々しく響く。それはひとつのいのちは他のいのちを殺すことでしか生きながらえられないという事実や、生老病死というひとの「苦労」をナガティブにばかりとらえて、真正面から受けとめず、それらをできれば見なくて済むような社会の仕組みを作ることばかり精をだして来たからだ。
時間のなかでの<わたし>の同一性が、「他者」の「他者」としての<わたし>のあり方の問題へと移行していく。ここから、家族や社会、教育論や都市論というような分野に考察は広がっていくのだが、しかし後半は多分以前に書いた論文の再録で少々議論がカタく、やや平板になっているように思えた。
最近の急速な日本語のふやけかたに閉口している。多分これはテレビの影響もかなりあると思う。政治家・タレントやコメンテーターの口調がマスメディアを通じて拡散していく。言語が時代とともに変化するのは自然な現象だが、自然な速度とは言いがたいほどの変化が最新のコミュニケーションツールで引き起こされている。問題なのは、そういう変化が言語自体の力を劣化させる方向への一方通行でしか生起していないことだ。だから私は極力自分の扱えるツールで日本語の劣化に警鐘を鳴らしてきたつもりだ。しかし多勢に無勢、いうだけ虚しいということもある。この新書を一読、やっと同じような日本語の劣化への抵抗を公にしている方がいると知り、幾分私の孤立感が軽減される思いである。
この書は主として敬語の用法という視点の、こういう日本語劣化の現状を報告、その文法的、あるいはことばのレベル上の分析を通じて校正し、本来の意味を伝えるための正しい用法の提言をしている。
例えば「貴重なご意見の一つとして今後の検討課題とさせていただきます。」という回答文の虚しさの理由をきっちり説明し、「深い溜息をつく」という心理は全く私のこの分野での憂鬱を言い尽くしてくれている。そのような回答になっていない回答が通用する世界に自分が組み込まれているということの、存在論的違和感だな。
こういう「させていただく」の用法の慇懃無礼さを克明に分析し、校正する労は、よくぞきっちり文章化してくれました級で、頭が下がるのだが、しかし、このような論理的分析をして説かねばならないこと自体、私なんぞはいらだってしまうのだ。
要するに、言語に対する感受性が違うのである。言語は決して文法や意味論的に正しいから正しいのではなく、自らの審美感や倫理感、音感や世界観が総合された感受性で正しいと感じるものである。この意味で、例示されているような日本語を当然として使用されている方の言を私は決して信じることはない。それは私とは違った価値観で生活されているのは明白だからだ。しかし、どうもそちらさんの絶対多数はゆるぎないようだ。この日本語の劣化現象の現実を思うときの絶対的無力感。ああ、憂鬱。できれば私の感性自体の方が劣化し同化して、どうかして透明に薄めて消し去ってしまいたいくらいだ。しかし思想・信条なら保身のため意識して転向することもできなくはないが、言語感覚はそれができないのである。論理操作ではなく感覚そのものだからだ。
うう、現在日本語の問題になると止まらんぞ。急いで書評に戻す。
しかし、その私でさえ、以下の使い分けができるかというと??だ。
「明日の午後三時ごろ伺います。」
「明日の午後三時ころ参ります。」
だから、正に私の判断基準は文法ではなく感覚ということになり、だから一人よがりということになってしまうのである。
著者の観察はもちろん敬語の用法だけにはとどまらず、現今のふがいない日本語の現状にも及んでいる。
何も聞いていないスポーツインタビューアーや何も謝罪になっていない社長の謝辞等。
敬語というものは周囲に対する状況の把握が出来ないと使えないという指摘もある。これはつまり、マニュアル化された敬語はすでに敬語ではないという警鐘である。
ああ、私も今思い出したのでついでに不快な例をあげておく。
テレフォンサービス嬢の対応でいちいち同じ文尾をつけるヤツがあった。
「お名前を頂戴してしてもいいですか?」
「画面をクリックしていただいてもいいですか?」
「そこに何が表示されているのか、おっしゃっていただいてもいいですか?」
何と言うマニュアル化されたバカバカしい日本語なんだろう。
口調までマニュアルに書かれていないと現在の日本人は日本語を操作できなくなっているのか。
ということで現在日本語の敬語の用法、勉強になったし、良くぞ書いてくれました。
ただ、著者の例で気になるのは「話し言葉」と「書き言葉」の区別があまり意識されていないことだ。
わたくしの意見では、不特定多数を対象とした掲示等の書き言葉では敬語の使用自体不要と考える。
この区別は実に大切で、例えば毎日目にするコナミの掲示の例ではまったく意識されていず、いたずらに文章を長くし、視認性を損ねている。
「おそれいりますが、ご使用になられましたら元の場所にご返却をお願い致します。」
話し言葉なら「おそれいりますが」でというように自分の発言に注意を向ける意味はあるが、書き言葉ではまったく意味が無く冗長なだけである。「使用後は元の場所に返却ください。」という丁寧語のみで充分である。どうしてこうもいちいち掲示書きにまで敬語をぶら下げようとするのか、その感性が「普通」というのなら私の毎日の憂鬱は解消することはない。
別の例:「おそれいりますが、この通路はスタッフ専用となっております。ご通行はご遠慮くださいませ。」
このぶよぶよした生理的に気味の悪い日本語の下に、簡潔にしてきっぱり爽やかな英語が併記されているのである。 「STAFF ONLY」と。
もう一つ思いだした。全く簡明にして例外的な掲示文もあった。
「速度おとせ」「暴走やめよ」・・・国道166号で見かける掲示。
見事な文体と時代考証の技術が発揮され、あたかも現実であるような物語空間を構築している前半が、あたかもウソであるような狂気の現実を描く後半になだれ込んでいく、少し残念な小説である。私の趣味からいくと前半の全く完璧な一兵士の饒舌だが確実なリアリティのある戦記文がずっと続き、その文体で戦争や日本という狂気を描いて欲しかったのだ。とりわけ後半に登場する意味不明のネズミ集合体の死者達のコラールや、2000年代の都会のインターネットカフェで暮らす最底辺のフリーター君のモノローグがうるさくてかなわんよ。特にソイツ等があまりに類型化されすぎていて、せっかくの小説表現の深みを、表面的なパロディで卑小化してしまっている印象が残る。小説の手法として意識してギリシャ悲劇のコラールや現代若者軽薄体をコラージュしているのだが、前半に顕著だった戦記文の「現実としての狂気」のしっかりとした造詣的手ごたえからすれば、いかにも「狂気の現実」を描く安直な小説技法と言うべきで、物語から物語性を奪っている。戦争責任や日本の国粋主義的、または現在の経済主導主義的(←コレがネズミ集合体)への糾弾があまりにあからさまに見えてしまい、物語の余韻を消し去ってしまう。この作家の実力を私は高く買っている(本は買ってませんが(^^;)ので、こういう小説作法は残念でならない。いや、純粋なパロディだったら、それも私は好きなんだが、作家としての手持ちの文体作法技術の数々を混在させすぎているのではないか。だから物語の帰結に力がなく、何となくうやむやにして終了してしまう印象になってしまうのだ。様々な虚実の狭間が見え隠れするという小説の趣向なので、あまり本格的に盛り上げてしまっても、時代と日本の狂気を描くのにウソくさくなるのでしゃーない部分もあるのだが。まあ、ウソのような現実をまるで現実のようなウソで描いた作品ということにしておこう。
で、狂気の現実・現実としての狂気という風な表現よりも「自同律の不快」だよね。前者はどこか自分は確実で世界が狂っているというニュアンスがあるが、本当は自分が一番不確実なんだから。更にいうなら「狂気」といってしまうと「正常」という目安(クリテール)がありそうな気がするが、「自同律の不快」にはクリテール自体への根源的な懐疑が内包されているということだよなぁ、と一人しみじみとする。なんぞと、まったく私の文章も明確な指標を欠いているのだが、作中に一回だけ「自同律の不快」と言う文言が使用されてたので。(^^;
あ、私より若い作家ではこの人が一番実力があると私は推してるからね。
哲学には古代ギリシャや近代フランスのように純粋に論理による「知」の体系の構築を目指すものと、宗教やドイツ哲学で顕著なように倫理的な側面を追求系統があるというイメージを持っている。しかし最近、自分の老化の自覚や現代世界の状況から心理的、あるいは感覚的な心の状態を考えるツールとしての哲学を意識するようになった。知的でもなく、倫理的でもない、「面白ければウソでもいい」というような純粋に恣意的な世界観を標榜する私が何故今更先哲の言を求めようとするのか、老いも極まれりというところか?世界も自分も全く私には関係のない異世界の異貌の神が創ったもので、もとからその不条理に抗弁するつもりもないのだが、それにしては自己=無を悟ったというような無懸掛感が一向にない。嘔吐のようなどろりとした不快感。本質的な世界の不条理を知的に論証したところでゼロを無限の優位数で乗算してもやはりゼロであるように、やはり不条理であると結論する以外にない。いいかげんヤケになりゼロを優位数で割るというような不可能なことを実行し、自分そのものが虚体となって不条理のカオスに組み込まれる地点にまで。このカオスに相対し自分が何であるのかそれでも知りたいと思うものなのか?その無力感が、あくまで知的であれと間違えて時代に教育されてしまった自分自身の社会的制約を打ち砕くことのできない悲しさとして意識される。「後悔と自責」とは、あくまで世界が絶対の不条理ではなく何らかの因果関係が成立するのだと、どこか信じたい自分への狂気を発しないための究極のセキュリティシステムなんだよ。と、そのようなことはどこにも著者は言っていないのだが。
『身がこなごなに砕けるほどの禍を蒙った人々は、「どこかおかしい」という問いをけっして消さない。「なんでこんなことが?」という重い問いを抱えて生きつづけ、それを墓場までもっていくのだろうと思います。哲学とは、まさにこうした問いを真正面からとらえてそれに答えようとするものです。』と中島は書く。
だから、哲学とは回答ではなく、答えようとする姿勢を持ち続けることだと。
これが私の原罪で、決して救われることの無い無間地獄に住民登録をしてしまっているのである。
異貌の神が創ったことは解っているのだが、しかし自分の知もしくは我を捨て、この不条理に回心してしまうことができないのだ。
「知を愛する」ではなく「我を捨てられない」ことが哲学の本当の哀しさである。
中島は古今の文学や先哲の例を牽き、後悔や自責が生起するメカニズムを論理的に突き止めようとする。自由意志や運命、偶然を論理的に検証し、それがどいういうメカニズムで定義されているのかを明らかにする。また、ダーウィンの進化論も一つの恣意的な世界の解釈で、「適者生存」は生存しているから適者とされるので単なるトートロジー(同意回帰的定義)に過ぎないと論断したりする。
この辺で私も常に直面する問題が回帰してくる。哲学は全ての概念を論断していくのだが、結局その論からは初期値として得ようとしていた回答が導き出されることは決してないのである。
ヨメがまた東北にボランティアに出発した。そのことがどういう意味があるのかと、私は論議しようとするのだが、ヨメにとっては論理的分析など何の意味もないのだ。私が内なる世界のほころびを繕おうとしている間に、ヨメは外なる世界のほころびを自分で繕いに行ってしまう。知とはそのような個人の恣意にすぎないのだが、しかし私はそのような個人的で知的な悪しき時代の子であることから脱却でき得ることは終にない。
生命はなぜ生まれたのか、知りたいよ。なぜこんなものが必要だったのか?まったく無意味な不条理中でどうして増大するエントロピーに抵抗して不可解な努力をしているように見えるこの哀しい現象が現に存在しているのか?
ドレイクの方程式というのがあって、宇宙の中に生命・あるいは知的生命が存在する可能性を確立論的に推論する指標として考案された。全宇宙の中での恒星数やその惑星の存在確率や知的生命体に進化する割合、文明が存続する期間等のパラメータを掛け合わせ、目安の数字を得る。ちなみに考案者ドレイクによれば、というより今参照したWIKIPEDIAによれば全宇宙には「10」の我々とコンタクト可能な知的生命が存在するとなる。
これは方程式という論理に乗せ科学の体裁をとっているのだが、私に言わせればこの人の尊大さ(時代のおごり)の表明以外の何者でもない。どうだ、科学だ、文句あるか?という中世の錬金術師たちのいかさまマッドサイエンスに他ならない。
ここで私があまりにバカバカしいと思う最大の誤謬は、条件が整えば生命が発生し、時間が経過すれば知的生命体になる、という無条件な思い込みである。これは自分がそうなのだから他もそうに違いないという西欧型中華主義(チーズチャーハニズム)である。ドレイクの方程式を切り口にした私の鋭利な単純進化論への純粋理性批判は別項で展開するとして、さて本当に生命は自然発生するのだろうか?私の批判の最大のポイントは知的生命体というものが進化系列から必ず導き出されるという思い込みの根拠にあり、生命そのものの発生を疑問視しているわけではない。
先週、宇陀の山中の小川の畔で哲学的瞑想に迷走していたのだが、岩に堰かれたあるポイントに5センチくらいの白い泡が、まるで生物のようにうごめき、揺れているのを見た。流れ全体は移動していくのだが、泡はそのポイントにとどまり、いろいろに形を変えている。自然界のエントロピーに抵抗している部分があり、それが生きているように思えるのだ。多分泡に意思はない。しかし意思があるかのように見えてしまう。自分を保存し続け、アワよくば他の素材を取り込んでもっと大きくなろうとしているような。
もしかしたら、この泡を作っている粘性の物質が何かのきっかけできっちりと安定してしまい、水流のエネルギーに抵抗するだけではなく、そのエネルギーをもっと自分が安定するような形に到達する手段として利用しはじめたら?と考えたりした。
いい加減に書評にとりかかろう。
著者は若い熱水噴流圏微生物の研究者で、地球の生命の発生に関する生きのいい最先端の研究を面白おかしく新書に纏めている。
当初、「面白おかしく」というのを言葉のおふざけで済まそうとしているようで、悪ふざけに過ぎると違和感も持ったのだが、内容自体もかなりの出血サービスがみとめられ、それなら許す、というところ。静的に自分の業績を解説するスタイルに慣れているので、そこまで書くか!という意外性に数回ぶつかり思わず感動しかけた。あぶないあぶない。
「実は、この段落を書く前まで、私の中にあった生命の歴史は、40億年前の原始地球、原始海洋からでしかなかった。・・・しかし、太陽系惑星や衛星での生命誕生以前の「生命の繋がり」になど、一度も思いをはせたことがなかった。しかし、・・その感覚が私の中に落ちてきたぞ。・・私の人生において2回目の「解脱」が今ここで起きたので(一回目の『解脱』は・・)もはやアレだが、一応・・」
まあ、感動というのではないが、学者もここまでリアルタイム実況中継のような本を書くようになったんだなぁ、とか。
多少のサービス過剰的ユーモアもあるのだが、そのぶん自分の心情をストレートに出しやすい。生命の起源について世界のトップを走っているという自負や自分の研究についての自信が、軽薄体のユーモアで緩和されてそのアクやイヤミがあまりにおわない構造になっている。うむ、こいつは確かに頭イイのかもな。ひよっとして私の域に達して?すくなくとも、この「むははは。」だけはね。
さて、肝心の最古にして最初の生命体であるのだが。何か超高熱古細菌の類が太古の無酸素状態の海底の熱噴流で発生したらしい。いや、一過性の生命体らしきもの、たとえば私が観察した宇陀噴流の泡のようなものは無数に発生して消えていったのだが、この擬似生命体は自己たらしめているエネルギーが枯渇すると終わってしまう。しかし、たった一回だけ、エネルギーを自己生産するように見えるメカニズムが組みあがった瞬間があった。周囲のエネルギーが枯渇してもこのシステムはまだ存続できたのである。そして、そのたった一回の成功者の存在が連綿と我々の現生生物にまで繋がっているのである。(←違うって?まあ、私にはソレでいいのだ。)
ここで私は少しだけ自分の問題を整理することができた。私には生命の発生自体が問題だったのではなかったのだ。むしろもっともっと後の意識の発生が私の真の問題だな。自己を保存するための一つの手法としての「意思」あるいは意識。しかし、これは比較的簡単な問題だろう。運動神経としての小脳から、時間をも手段として利用できるようにする大脳までの発達はそんなに古い時代の話ではない。そのあたりを拡大していくとまた哲学に繋がってしまう恐れがあるのだが。西欧哲学の迷宮に踏み込むのはまだしばらく躊躇するところがある。むしろ、論理操作より情的なアプローチから「真相」に迫りたい思いが強いのだ。
この本、そういう意味では画期的なスタイルで最後まで行っちゃったなぁ。この人は論理判断ができるので学者なのだが、情的な判断基準もたっぷりあるようだ。こんな学者なら大筋で間違うことはあるまい。
日本語を英語に直すには単語を差し替えれば済むという発想しかない教師、日・英の単語が一対一に対応している前提でしか作られていない日英辞書、このような英語教育の現場に強烈な渇を喰らわせる警告の書。著者は先ずオノマトピア(擬声語)をとりあげ、日本語が言語として表現される内容・発想・意味自体が西欧諸語とは違うのだと例証する。例示される「りりしい若者」「たじたじとなる」というような表現の英訳を試みる過程で日本語のコミュニケーションの本質を明らかにする。データを分析してそのパラメーターを伝達するような西欧諸国(あるいは印欧諸語)の伝達法ではなく、意味空間全体を共有しようとするコミュニケーションシステムなのだ。必ず主語を立てなければならない西欧型発想ではない、主語がない「日本」とは一体どういう文化であるのか? 「スキです」は「I love you」ではないのだ。自分があなたを標的にしてLoveを伝達するということではない。この辺を古典的に言ってしまえば誰でもが誰かであり誰かも自分も同じようなモンだった「農耕社会の村落共同体の文化」ということを先ず押さえようということになる。
もう一つ本書の指摘を急いで付け加えておく。「発音を教えても、何故このことを英語の教師たちは教えないのか。あるいは解っていないのか。」という指摘があって、実は私もどこかで同じように日本の西欧語教育上の欠落部分を挙げた覚えがある。荒木は「複式呼吸」から教えないと英語にはならないとする。で、演劇部、そうでなければコーラス部に入って訓練しなさいというのだ。私は身体を共鳴させるベルカント式の発声法でないと西欧語には聞こえんぞとし、『このことをまともに指摘した西欧語教育者はまだいない』と私の理論の特許申請をしておいたのだが、荒木のこの著の発行年をみると何と私の記述よりもかなり早いようだ(^^;発音の前に発声自体が違うのだという論旨はほぼ同じであると考えてよいので、私の特許はどうも認められないかもしれんなぁ。ま、逆に言うと解るヒトはわかっているのである。しかし、未だ何も解ってない先生が西欧語の教育をし、文科省の教育方針を決定している現状に変りはない。
ま、私のことはいいのだが(未練たらたら)、この英語をはじめとする西欧諸語と日本語との本質的な違いということに論を戻す。
ハイデガーにおける存在論への躓きの石は英語Be動詞の第二文型の持つ意味への懐疑だった、と大島淑子氏の述懐をこの夏フライブルグ大学で聞いた。大島は禅を切り口としたハイデガー研究を展開している哲学者である。その時私はフランス語常用者ならその懐疑はないだろうというような議論をした。まあ、私の論点はあまりまともに相手にしていただけなかったのだが(^^;しかし、当初から西欧型の主語を立てないシステムの日本語常用者で、文学・哲学・倫理等西欧型文化研究者には、二重の自我の覚醒というような現象があるような気がしてきた。
ひとつめ。ラテン文法に規定された文型で自我を表現するときの外国語人格の取得。そこまでいかなくとも、西欧型論理で自説を表現し、世界を解釈する教育を施され、それまでの無意識的価値観を矯正されること。学校教育期間と社会的自我覚醒期間が重なるので、どうやら我々は先ず西欧型論理システムへに向かって自我の覚醒を行ってしまうようである。西欧型論理による価値体系の無意識の優位性への確信は私にもあった。その目で日本の社会を解釈し、非論理的東洋にどっぷり漬かりこんだ日本社会への反感が先ずやってくる。そして、ふたつめ。その西欧型価値感が支配する世界が崩壊する兆しを直感した時、内なる日本・あるいは「主語を必要としない世界」へと回帰する第二の自我の覚醒が来る。
ハイデガーは東洋的宇宙観を理解したという。アリストテレスの論理学における排他律に世界のほころびを感知せざるを得ないのは、先ず内なる自我がこの論理によって世界を記述しようとし、その整合性に疑いを抱くという過程があるからだ。自分は誰であるのか?この問いは西欧型へと自我を覚醒させた者にしか萌芽しない。私の父は多分そのような疑問を持たず、すっきりとただ生きて死んだのである。しかし我々は「知」の罠に捕らわれ、存在論へと踏み込んでいく。もともと自分の内には文化としての日本が核として存在し、それは村落共同体の思考様式でもあり仏教や儒教でもある。第一の自我が東洋のどうしょうもない無知蒙昧を否定し、第二の自我が西欧のどうしようもない傲慢自尊を否定する。このような自らへのアイデンテティに関わる鬱を尻目に、戦争をも経てきたハズの父はのどかにあっけらかんと死んでいったのだ。しかし、かなり逸脱しているのでこの項中断。
今、テレビで国会中継をやっているのだが、質問者・答弁者の使用する日本語のウソくささは茶番という他は無い。両者とも文面を読み上げているだけなのだ。以前、フランスのテレビ中継でアチラの国会の議論を見た。(リオナルド・ジョスパンとシモーヌ・ベイユのやりとりだった!)レトリックを駆使し、「しかし、マダム・・・」とアドリブで実際に表情・手振りを交え訴えていたジョスパンの姿を思い出す。日本の国会の現状は文化的な意味空間の違いを無視意し西欧型論理が政策決定の唯一の手段と思い込んだあげくの単なるサルまねにしか過ぎないのは一目瞭然だ。元々、日本にはそのような純粋論理だけの議論を意思決定手法とする風土は無かったのだし、誰も本心は議論で解決できるとは思っていないのである。中途半端な模倣は政治だけではなく、経済や企業活動にも及び、あらゆる日常活動がこのような中途半端で自分でもよく解っていない大義名分、キレイゴト、あるいは露悪的自己意識を主張する方達に溢れてしまっている。多数決原理の民主主義こそ唯一の安全確実な手法であると私の世代は教育され、信じこまされていたのだ。まあ、そのやり口は戦前の国家神道体制と大差ないやね。一体ウチのテレビは何を見せてくれようというのか?NHKはそれでも金を取ってまで公共放送と言いたいのか?・・・以下省略。
本書はあくまで日本語をどのようにしたら英語に翻訳できるかという視点で纏めている。先ず日本語を翻訳可能な「中間日本語」に訳してから英訳することを提案している。
「中間日本語」は英語をそのまま翻訳したときの日本語で西欧人が日本語に翻訳したときに出来上がる形である。日本人には意味は解る。日本人が英語に翻訳する時、先ず「中間日本語」に訳してからでないと、英語にはならないのだ。この意味で、西欧人が英語を日本語にする方が日本人が日本語を英語に翻訳するよりはるかに簡単だという。ここで言えるのは、日本語で討議をしなければならないとき、まずこの「中間日本語」に訳してから議論を行わねば議論にはならないのは自明だ。西欧型のインスティチューション(制度)で運営しようというのなら、この意識を持っていないと単なるサルまねで終わってしまう他はない。ユニクロさんでもやってるが、本当に国会で何事かを議決しようというのなら日本の国会内論議は英語で行わないと制度の意味はない。
実際には国会での議論は形式で、地下で根回しが行われているという日本型の運営はご承知のごとく。
主語を立てない、自称詞・対象詞を明示しない、というコミュニケーションシステムであれば、西欧語の受身用法の感覚をそのまま日本語に適用することはできない。
「雨にふられる」は受身なのか?これは「自発」で、この用法から受動・尊敬・可能が派生していく。
だから、あまり厳密に受動・可能、そして尊敬を区別していない心理があるようだ。
「おいでになられる」・・ちなみに「おいで」は「出でる」で限りなく「自発」的である。
だから、だから日本語ではそんなところでもやもやと・・・ではなくて、正しく使用しないと劣化していくばかりだろう。
受動を好むのは解るのだが、意味をあいまいにし、誤魔化すために使用している例をあげる。
「その意義が問われることになります」とかいうNHK報道の紋切り型結語「おりこうぶり」である。
まったく「誰が」という主語を抜いてしまっている。なんとなく、全体の合意があるような雰囲気だが、報道であるならば「問う」のが野党なのか、視聴者なのか、アンタ個人なのか明示しないと公正ではない。紋切り型でしか結語できない自分の言語能力の貧困を塗布するに、まるで日本全体の合意がそのようである、というような体のいい結論風なまやかしの結語を入れてことなれり、としないで欲しい。受信料を支払ってまで聞くほどのものかい。
上記荒木博之「日本語が見えると英語も見える・新英語教育論」で中間日本語という概念が定義されているのを見てきたところだが、さっそくまるでその見本のような「翻訳」に当たってしまった。
この本のテーマは私のライフワークにも関わるので是非目を通しておきたいと思うのだが、この訳者の翻訳に邪魔され、終にあきらめざるを得なかったのである。
このようないい加減な日本語が「翻訳」として出版されていることに憤る。
訳者はプロのフランス語の教師、講読者としては通用するのかもしれないが、翻訳者と称しているのは詐欺に他ならない。
不明確な日本語を頭で補い、本の内容を何とか掴もうとしたのだが、どうしてもこの日本語に苛立ち、とうとう中断してしまう他ない、と決断せざるを得なかった。
荒木の言う欧文の構造と発想をそのまま日本語の単語に置き換えただけの「中間日本語」で放置してあるのは、いわば日本の翻訳文化の悪癖で、それでも内容が理解できれば良しとする他はないのだが、この訳者の用語の選択はとても日本語の常用者とは思えないレベルである。
「こうしたいくつかの実例が示すのは、死の厳密に生物学的な研究が、説明よりも正当化を求める教化的なすべての試みを避けることでしかできないことである。」
フランス原文の論理構造をそのまま日本語の単語に置き換えただけ。
日本語として意味が通るように再構築する努力をしていない。
「死が直視する勇気をもてない醜悪なもののように、たいてい恐れられるということは、たぶん、死にかかわるすべてについての科学の無知の理由のひとつだろう」
これでは日本語に訳したことにはなっていない。
文の構造はそのままにして単語を差し替えただけだが、その単語の選択もいい加減である。
「フランスの学者・・は、正確な同時代人(ともに1707年生まれ)だったリンネの・・」
「正確な同時代人」?日本語にはこういう用法はない。
exact contenporainの訳、誤訳ではない、と訳者は言うのだろうが、「あなたと正確な同い年です」とこの人は日頃言っているんだろうか?「正確に同時代人」でもおかしい。
「まさに同世代」とかでなければならない。
荒木に言わせればたぶん日本語であればオノマトピアで表現しているハズというだろう。「バッチリ同い年」と。
「それでも現実には図面はより複雑であり、老化のいくつもの面がこの現象の説明的枠組みを逸脱する。」
稚拙な訳語、もしくはいいかげんな言葉の選択。後半は「この現象だけでは説明できない老化のいろんな局面があるのだ」とでもしてもう一度読み直さねば意味が具体的にイメージされない。
「たとえば、人間のテロメアよりずっと長いラットのテロメアは、加齢とともにそんなに短くならないが、ラットの早い老化のペースを阻害することができない。」
「阻害」は悪化させることで、老化のペースを「遅らせる」というプラスの効果を意味すると理解すことを「阻害」している。
まあ、どのページを繰っても単語の組み合わせに違和感があり、イメージがぼけてしまい、意味をとることに疲れてしまう。もう私は読み進む気が失せてしまった。
しかし「ばかにするな、いいかげんにしろ!」と本を閉じ、投げ捨てれば済む問題ではないのだ。
本の内容はかなり参考になるハズなのだが、このような形でも一度翻訳出版されてしまうと、もうこの内容を日本語で読める可能性は無くなってしまう。翻訳者や出版社にはそのような可能性を潰してしまった責任もある。
原文を横に置いてこうした訳文を比べてみると、多分意味は理解できる水準なのだろう。
しかし、原文を参照できない読者には日本語としての意味空間が明確な形を持たず、文の内容のすっきりしたイメージが結べない。
翻訳文なら、こうした「中間日本語」で良しとする出版文化が日本にあったのだ。そして読者の方も一応の日本語になっていさえすれば日本語のレベルは問わず、ありがたく拝読するという時代もあったのだ。
外国語が理解できる人というのはそれほど希少であったし、逆に「翻訳口調」の日本語がある程度日本語の論理構造を強化した部分もあったとも言える。
「いろんな分野の科学者が死を研究することをなおざりにしてきたきたわけ」(私のリライト)
というような日本語としての意味空間が:
「死にかかわるすべてについての科学の無知の理由」(藤野訳)
というようなフランス語の構造そのままの「直訳」であっても一応日本語として成立させることができ、翻訳の大量生産が可能になったのだ。嘗てはその翻訳文化が高度経済成長日本を支えた時もあったのかもしれない。
しかし、このような質より量的翻訳を容認できる時代背景は今ない。20世紀は確実に終了したのである。
このような翻訳を出版する業者に対し、本気でひとつの提案をしておきたい。
訳者から提出される「中間日本語」は、担当者が原文を参照することなく日本語として全文を一旦リライトしなければならない。それでも意味が通じないときは誤訳として訳者にフィードバックするなりし、完全に日本語化してから出版するようにすべきである。
出版社には訳者(学者・先生)に対する遠慮があるのではないか?
外国語が理解できることと、日本語が書けることとは全く別のことである。
しかし、母国語が正確に使用できない方が、外国語を本当に理解できるのだろうか?
とまあ、かなりの憤りを感じもするのだが、実を言うとこのような奇妙な翻訳文を楽しんでいる部分がないこともない。
悪文の意味を考え頭の中でリライトしていると、逆に日本語と西欧語との構造の違いが確認ができる。
オノマトピアを多用した生き生きとした翻訳文体を造るという、今までだれも試みたことのない分野への展開も考えたりもする。・・・どなたか私にリライト、発注してくれませんかね。格安で承りまっせ!
後日追記)
他にもこの訳者の奇妙な訳文に対してのコメントを掲載しているブログがあったのでトラックバックしておく。
http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20110802/p1
この方はこういう本を「お笑い本」というカテゴリーにしてらっしゃいます。
私は「進化」という概念自体が科学ではなくて信仰やイデオロギーのような恣意的でいいかげんな科学以外の説明だと思っている。私のこの断定も恣意的で個人的なもので、実際はどうだかあまりよく知らないのであるが。私は科学者ではないから科学的真実がどうであるのかはどうでもい。ただ、この進化論者達の主張は科学的客観ではなく、心的優越主導の西欧中心史観が言わせるもので、しかもそのことに一向に気がついていないということがニュートラルな科学的態度を大きく逸脱していると考える。そういう怪しげな見方しかできない方が大真面目で唱える理論はやはり間違っているんだろうなぁ、と私の直感は判断するのである。
これは地球温暖化論を唱える者の自己中心世界観とも共通する枠組みで、このような小児性が科学という分野に限らず社会一般にヒステリックな声をあげている現状が笑止で煩わしい。こちらも対抗上「バカタレ」と思わずガキのケンカを仕掛けたくなるのである。あぶないあぶない。科学者というヤツは自分がアタマがよく、正しい論理判断ができると信じているからなおさら始末が悪い。低学歴高年齢の私が何を言ってもこの社会ではまともに相手にはしてはいただけないのだろう。悶々欝欝。最先端の進化論は一体どのような見方が主導しているのか知らないのだが、少なくとも池田のこの今年発行の本を読む限り相変わらず突然変異によって獲得した形質が自然淘汰により選択され、より高次な種に収束していく、といった主張をネオダーウィニストは大真面目で科学といっているようだ。いいですか。進化論は有用な新しい技術を産んだことはなかった。それどころか。
池田は主にこういうネオダーウィニスムの誤謬を最新の事例を挙げ根拠がないことを示していく。返す刀でドーキンスの遺伝子万能進化論も批判する。DNAそのものが全ての形質を決定しているのではない。DNAの組み合わせや発動時期、場所等を含んだより広いシステムが生物の発生形質を決定するのである。「自然淘汰は結果であって原因ではない」。あ、っとそんないい加減なレジュメをしてはいかんな。詳しくは本論参照。いろいろ面白い事実が列挙され、形質が遺伝したり、世代で変化していくメカニズムの最新の知見が網羅されている。いちいち面白いのだが、まあ、専門的知識というヤツで、私なんかは本から目を上げた瞬間にもう内容をきれいに忘れている。それより顕著なのは池田が自分の言葉で語っていると言う事実だ。どこかで盲目的に摺り込まれた大いなる教条が言わせる紋切り型の美辞麗句ではない。私の真偽判定直感からすると、あ、本当のことを言っとるなぁ、とうなずけるレベルである。自然に説明を受け入れられる等身大の文体。我々世代のクセで、軽いユーモアとして混ぜる口語も混じる。進化論は私にとっても大事なライフワークの一環になる予定なので、この内容はいずれヒマな時メモでもとって整理しなきゃなぁ、と思うのだが、多分やらんのだよなぁ。
ところで、池田清彦という名に記憶があったのだが、後書きを読んで思い出した。『それは長い間、進化論が科学というよりもむしろ、教義や政治に近いものであったからであろう。最近、外来種問題についても、論理的な発言をすると、激昂する人が少なからずいて、辟易しながらも面白く観察している。外来種問題は科学の問題ではなくて典型的な政治問題だからである。人為的地球温暖化問題も似たようなものだが、長くなるのでその話はしない。』 ・・・既に冒頭で私が言っときましたぜ。
あ、思い出したよ。養老孟司サンと一緒に温暖化論者を揶揄してた人だったなぁ。(「環境問題のウソ」「ほんとうの環境問題」「正義で地球は救えない」等の著作アリ)
こういう言語で発言する人が小数ながらもいるので、私は前面に出ることなく、そうヒステリックにもならずまだこの社会に棲息できているのだろう。小数者の悲哀はあるけどね。
成熟拒否は何も若者に限らない。本来老成してもよいハズのジジ・ババまで盛んに自分はまだ「若い」と喧伝しまくる時代である。昼間のテレビの大半がTVショッピング番組で、その大半が老人向けの「まだまだ若いわい!」系サプリメントの広告が占めている。このような「成熟拒否」の理由として私は大量生産・拡大再生産という経済主導型の20世紀が、精神的な幸福を物質的な豊かさに置き換えるというパラダイムシフトを引き起こした所以であると今までも書いてきた。その私なんぞは本文を読まなくとも、このタイトルだけですべて内容が見えてしまうのだが、片田が指摘する現象や、その原因をちょいとレジュメしておこう。
打たれ弱い子供、過大な期待を負わせる親、モンスターペアレントやモンスターペイシャント、ひきこもりやゆきずりの殺人等のウラに見えるもの。子供の幻想が大人になるにしたがって失っていく「喪失体験」をまともにうけとめられない人が多い。挫折することがないように「ひきこもる」、あるいは「悪いのは他人である」として自己愛を保持し、結果どうしょうもないモンスター化していくのである。
経済的な減速が顕著な時勢なのに、夢を温存し、修正することもなく「あきらめない」ということを信条として生きている人も多い。「ネバーギブアップ」かな。確かにそのような積極性が美徳とみなされていたのである。「消費社会」がそのような自己愛と現実とのギャップを認めさせないメッセージを与え続けていた。生涯現役サプリメントだな。欲望をあきらめさせてくれない社会。常にスーパースターで大人になってもピーターパンであることをやめられなかったマイケルジャクソンの薬物中毒死や過度の整形手術依存を現代の病の典型例としてあげている。
究極的喪失体験である自分の「死」をどのように受け止め、受容していくかの、キューブラ・ロスの著作からの引用での例示がある。
自分の死を先ず(1)否認し、避けようもない事実となると(2)怒りの段階に変化する。そして何とかその事実と
(3)取引し、(4)抑うつされる。最後に(5)受容という段階に到達する。
(3)の取引相手は西欧では主に「神」になり、祈ることで取引をすることになる。
特に日本で日常としての「死」が巧妙に隠されてしまっている結果として、「死」という避けて通れない対象喪失を直視することができなくなってしまった。それ以外の対象喪失に対しても打たれ弱くなったのは当然である、とする。
概ね、私が日頃抱いている現状認識と大きなズレがなく、特に自分の死を考えないという風潮を日頃皮肉ってたりするので、実に小気味のいい分析である。
ここで面白いのは、実際にキューブラ・ロスは自分の死をドキュメントとして映像化させたらしいのだが、著者によるとキューブラ・ロス自身はどうも第2段階の「怒り」でとどまっていたというのだ。
著者自身も人には「ガキっぽい」と言われるし、そういう自覚もあると書く。かくいう私も毎日大きなガキをやっているわけだ。正に「一億総ガキ社会」、誰も時代からは逃れられないのだが、この時代とこうでしかない自分への嫌悪を持ち続けているのであれば、多分その地点で多少オトナになっているのだと思っている。
廃線を探索に行って消息を絶った鉄道趣味の男をめぐるミステリ風に進行する小説。
SF・ファンタジー、ミステリと純文学が交錯する作風で、各要素がうまく働けば最上のエンターティンメントになるのかもしれない。しかし、この作ではどの要素もあまり徹底していず、読後感は悪くはないのだがどこかが物足りない。SF・ファンタジーにすれば現実に帰りすぎ、ミステリにしては、半ばでネタが割れてしまって後半がもたついてしまう。純文学とすれば主人公達の背景があまりに類型的でばかばかしい。
現実の世界に居場所がない主人公の理由がその生い立ちであったり、両親の離婚であったりというので薄っぺらくなってしまう。
宮本輝の小説の主人公のような生きていくことそのものの寂しさが感じられるような奥行きが欲しいところ。
ま、若いから無理だろうな。
全体に好感がもてる文体・作風なのでこの作家、もう少しチェックしてみるか。