通俗人生論モノは敬遠してきたのだが、タイトルが秀逸なので手に取った。
「まえがき」で『「がんばろう!日本」のスローガンは完全な騙しです。』と、その偽善性を真正面から論断していた。私もそう思うのだが、まだ「善人」の振りをしていなきゃコワいので、そこまで言ってません。いや、どこかで言ってしまったような気もするが。
「世間に迎合せず思うままに生きよ」という骨子。
サマセット・モームの小説と歎異抄を牽き、われわれに抜きがたく染み付いている俗物性を捨てよ、との仰せ。
いたく同意するのだが、今更そう言われてももうどうしようもない地点に来てしまっている。
そのようにキッパリと世俗を捨てられないのが凡夫の由縁で、キッパリとこの世の垢を捨てられる人なら、このような本はモトから読まないのだ。私のように自分の俗物性を疎ましく思いながらも、断ち切れないしがらみに絡み取られている中途半端な者がこのタイトルにそそのかされるのだろう。
著者の言はどこか突き抜けている部分があり、最後まで面白く読まさせていただきました。「人生に目的を設定してはいけない」というのだが、さりとて先鋭的アナーキズムや暗黒のニヒリズムに鋭角的に跳ね返えることはなく、全面的自己否定を試みても尚且つバイタリティには影響しない、左様に強靭な方なんだろう。
もともと我々の人生に目的なんてものは無い、と言われて絶望もせず、じゃぁ適当に勝手に何してもいいんだ、という楽天性があれば苦労しないワケで。
勤労神話に捕らわれず適当にサボって生きよ、と説くに対し「生活保護を受けている人は社会に迷惑をかけているのだから・・」との反論が出る。あっと、この本は著者がインタビューに応えるという軽いノリ形式で書かれているのだ。
で、その反論に対し著者は即座に「その考え方がイカンのだ!」と躊躇なく俗人的倫理感に一撃を喰らわす。
サボって困るのは政府や世間であってサボってる自分ではない。そんな風に社会正義を体現しようとして見せることが俗物の由縁で、アンタこそが厭うべき俗世間なんだよ、と喝破するのである。ここまで突き抜けてくれれば、なかなか快い。
悪人正機説の著者流の解釈も、私のものより一歩突き抜けている。
「善人は自分が善と思っている限り自尊を捨てにくい」というのが私流だが、著者は自分が善人と思うこと、それ自体が偽善に他ならぬとする。
よく考えてみれば私流も論理的には同じなのだが、まず最初に「善」という概念自体が偽善だと言い切る簡明さは、充分突き抜けていて歯切れよく快い。
そうだな、ぐだぐだ論理を説明しいじくる必要はない。「善」という概念を抱いた瞬間に偽善が始まるのである。
善とは偽善のことである。簡単なことだ。
所詮我々は人間に過ぎない。神ならぬ、仏ならぬただの人間が善であるわけがないじゃないか。
だから自分が善であると思った瞬間に偽善に陥るのだ。
いやぁ、簡明にして豪快な弁舌。畏れ入りました。
え、私? もちろん、善人をずっとやっていくつもりですよ。
前回の読書でこのご老人に興味を抱き、本業の著作を一度拝読したくなり、奈良県立情報館で著者名索引をあたってみた。数冊の著がヒット。しかしロケーションが小説の棚ではなく、『ふるさと文庫(郷土資料)』に分類保管されていたりするのだ。
十津川峡谷殺人事件.
奈良いにしえ殺人事件 : 長編旅情ミステリー.
女人高野万華鏡殺人事件.
木谷さんは大変多作で、各著書の巻末に著書目録があるのだが、100を超える小説が出版されている。いずれもミステリー、それもほとんどのタイトルが「何とか殺人事件」。
だから、100の殺人事件にとにかくタイトルを付けなければならないのだが、このときハタと思いつくのがご当地ソングならぬご当地名殺人事件。このあたり木谷さん、なかなかの策士。
よくみれば、ほとんどの小説のタイトルがこの伝で、ご当地モノになっている。
「長編旅情ミステリー」とかね。
というわけで、奈良県でも数作を県の文化予算で購入するということになるわけだ。
では、その殺人事件が「十津川峡谷」で行われなければならなかったのか?
というと本筋には何の関係もなく、別に「白浜殺人事件」であっても「別府殺人事件」であっても支障はない。
しかしながら、導入としての各地の取材はそれなりに行き届いていて、一応最初の方の3ページくらいは観光的印象が配置してあった。ウソではない。実際に木谷さんが昔取材して歩いた素材をうまく再利用してあると感心するべきだろう。まあ、県費で購入するほどのモノかどうかはとにかくとして(^^;
都合6名が殺されてしまうのだが、実際に十津川ではだれも死んではいない。事件の動機になったクルマが十津川で発見されたというだけだった。で、べつに発見場所が事件のカギであるということもない。
まあ、普段私が読む類の本ではないのだが、最初の数ページに普段私がバイクで走っている道路名が出てくるので、何となく期待しながら、ついにはあきらめ、それでも最後まで読ませていただきました。
なんていうか、チャンネルを合わせていると偶然知っているところが出てきたので、つい最後まで見てしまったテレビ量産ミステリードラマ、ですかね。
それはそれで、事件の骨格があり、人間関係があり、警察や裏社会の事情があり、別にヘンでは無い。
主人公が混血の警視だが、別にストーリーがそれによって影響を受けることもない。
水準的なストーリーと、土地と主人公のキャラクターを適当に組み合わせ、一冊のミステリに仕上げるプロのワザ、とくと見せていただきましたよ。
もっとも、合成するプロットのつなぎ目も見えないくらいに仕上がった名人の作とまでは言うわけにはいかないのだが。
最近あまり小説を読まなくなった。
前回の木谷作品は小説を読むのではなく、どんな作風なのか調べるのが目的だった。
で、今度は久しぶりに今の小説を読んでみようと思い、表紙と装丁だけを見て適当に読書用に2冊確保した。
一冊目がこれ。
ギリシャ神話をモチーフにしたタイトルと装丁で古典的格調も感じさせた。
しかし、とうてい読了できるような代物ではなかった。
読了してないなら書かなきゃいいのだが、いつ面白くなるのだろうと半分近く読んだ時間がもったいない、二度とこういうタイトルと装丁の読め読め詐欺にひっかからないよう、これを記録しておく。
美容整形をモチーフにした単なるテレビのワイドショー的逸話だけの作品で、私には小説的な楽しみも文学的刺激も何も感じられなかった。
凡庸で何の趣味もない文体で凡庸な着想を文字にしただけのものだ。
私には読み続けるだけの興味が一向に湧いてこなかった。
ただし、こういう作品が大手出版社の文芸部門で出版されているということは、この手のうすっぺらい話を好んで読む世代もあるということなんだろうか?
ま、私には何の関係もない人達の世界だな。
「今の小説を読んでみる」個人企画第二弾は小池真理子。
前回の唯川某がまったく話にならなかったので、この作品は比較的まっとうに文学していて、読むに足る小説だったといっていい。
推敲された文体とねちっこい心理描写。そして小説的な虚構の構成力。
ただし、この作品もお話しの大要が見えた時点の中間部に到達した時点で投了することにした。
文章自体は読めるので最後まで行ってもよかったのだが、テーマが女性の感性に過ぎ、まったく今の私には感応するところのものがない。
もう恋愛や性の情感に反応する部分が私には殆どないのである。
もうあと一年で私は日本国標準呼称の高齢者ということになるらしい。
最近私が小説を読まなくなったのはそういうことでもあるのだろう。
女流恋愛小説はもう歯が立たないので、今度はちゃんばら小説に致しました。 あまり聞かない作者だったのでタイトルからB級時代小説を期待していたのだが、これはまごうことなきA級歴史小説。エンターティンメント性よりじっくりと争乱の時代の武芸者の生き方を描き、決して浮つかない筆致でじっくり楽しませて頂きました。
一昨日久しぶりで柳生まで行ったのだが、柳生石舟斎宗厳に新陰流を伝えたのが上泉秀綱(信綱)である。塚原卜伝とは松本備前守尚勝の元で同門。柳生や塚原卜伝、それに卜伝に皆伝を与えられた足利義輝の小説類は読んだのだが、新陰流の祖上泉秀綱の小説は始めてである。
作者は胸のすくような剣豪の活躍を語るのではなく、資料から逸脱することなく時代と人物を再現し、戦いを極力避け、人を活かすことを極意とした刀法に開眼する思想の遍歴を書き込んでいる。
この名人の刀捌きが実際の物理として無理なく描写され、あまりにホントくさいので思わず作者の経緯を確認してしまった。剣道5段だそう。なるほど。
実際に撓で打ち込み、型を極めようと無心に修練する体験がなければ書けない描写と見える。
名人芸という域に達する身体の動きはその精神とも密接に重なって一体になっている。このような境地は、身体運動を究極にまで突き詰めたことのある者には自明なことだ。
ピアノの運指に苦労しながら、しきりにこの心技一体の境地のことを思い浮かべた。たぶん、いつか指を動かす意識もなく心のままに音楽が流れている時がくるのだろう。とか。ま、私にそのおそれはないが、少なくとも究極の運動能力というイメージはつかめる気がした。
日本の刀法の最高峰が、戦わぬこと、人を活かすことという思想の実現であるというジレンマは出来すぎでウソ臭く、翻ってやはりホントのことに思えてくる。結局は相手に勝つ、とかより早く・強くとかの比較で優劣を競うことに終わりはない。闘わずして勝つというジレンマの奇跡を実現してこそ絶対の刀法となるのだ。小泉秀綱が公案として与え柳生宗厳が完成した「無刀取り」こそ、そのシンボルといえるだろう。
著者はドイツ・ナチズムに関する著作も多い精神科医。
後書きによると「夜と闇」のフランクルその人にも面談したことがあるという。どのようなモチベーションによって就業し著作しているのか。私には非常にくっきりとした人物像が浮かんでくる。
フランクルの「夜と霧」、更に言えばアラン・レネの「夜と霧」にSTDSを与えられた、というような青春は私の世代には共通のものだろう。あっと、私の世代の「メランコリー気質」を持つものと修正しておこうか。
精神分析学や異常心理学は2重の意味で客観的な学問とは言えない。
ひとつはもちろん数学や物理学のような独立した明確なオブジェクトが存在せず、はなはだ観察対象境界が曖昧なこと。
これは異常と正常がたやすく歴史や文化の文脈で逆転することの事例が最初に示されている。
もうひとつはどうやら自分自身の価値判断がクライテリアに大きく影響することであり、どうやら自分自身も多かれ少なかれ「異常」ではないのかという問いかけに絶えず晒されること。
いや、私に言わせれば自分の「異常性」の自覚がまずあり、その由縁・由来を究めずにはいられない気質が研究者にはつきまとうこと。つまり、このような分野の研究者であるということ自体、すでに「メランコリー」型の気質を有することになり、研究の客体が密かに自分自身であるということにもなりかねない。
ソコまで著者は言ってるのではないが、私には実に明確なことだ。
このようなダイナミックな「異常・正常」の捉え方を提唱し、従来の心理学・精神科学でいう「異常」は「正常」からの欠損という「病気」であるという立場を批判する。
特に「正常」とされるものが「過剰」になるとき「異常」となるケースの事例分析が実は著者の真骨頂のようだ。
ひとつは「健康帝国ナチス」。
ナチスのホロコーストの主人公達は決してサディスティックで「異常」な殺人鬼だったのではない。国家的健康運動へのひたすら効率的で熱心な真面目な事務官僚であったわけだ。そしてこの真面目さが過剰になったとき、狂気と見まがうばかりの異常となる。真面目でメランコリーな官僚気質。
現代日本の「異常」な状況は現実にも私の日常に異端者の悲哀を与えてくれているわけだが、この国民的な異常な健康への強迫観念を「健康帝国日本」と命名し、一章を割くことで全盛期ドイツの「異常」になぞらえてくれている。
この現代日本の異常さを、私は漠然と「単一民族・団体主義」というよう教条で「異端」への恐れという真理的帰結と考えていたのだが、著者はここでかなりうがった見解を提出している。
これはどうも「ハレ(祓れ)ケガレ(穢れ)」という中世以来の日本文化史の基調から捉えるべきものだと指摘する。
そうか、ユーレカ!
それだね。「異端」への恐れと捉えるとなんだか抽象的で社会全体を鳥瞰して見ているだけのような気になるのだが、「ケガレを忌み嫌う」という具体的な心情は等身大の、それこそウチのハハオヤの姿が具体的に浮かんでくる。
健康オプセッションは病気というケガレを極端に恐れる生身の心情なんだなぁ。
その線で死を忌み、ただ長寿だけが目的のような人生観にも帰結する。
事実、著者もそのような「バカバカしく健康な」日本の厚生行政への批判、というか揶揄を書いてる。
「メタボ対策」のような本来的に個人の行動規範に属するものを国が数値まで出して規定すること、それが正常な国家の政策であると思う心情はちょいとヘン「異常」ではないのか?
それにメタボ対策は本当に国家の利益になるのか?その確たる科学的経済的根拠ははっきりしていないようなのだ。
こういう事情は、ナチスドイツのホロコースト問題に長年取り組んできた著者にとっては何事か重なる部分があるのだろう。
この人の論に私はまったく違和を感じなかった。
だからこの著者は私同様日常的には、ヨメ・ハハオヤの類からさぞ排撃されてるんだろうなぁ。(笑)
(イスタンブール・アタチュルク空港にて)
どうも小説を読むのも面倒になってきた。
特に短編ではないかぎり、発端からぐいぐい物語に引き込まれるような作は少ない。
だから事件なりイベントなりが発生するまでの序や前書きは、後で面白くなることを信じて我慢して読んでいた。どんなにつらい人生でも最後に一涼の風が吹き、ほのかな安らぎの瞬間が一度でもあれば救えるというものだ。
しかし、この我慢する忍耐の時間がもうそもそも我慢できなくなってきた。
また、かなり我慢し、しかしこの忍耐は最後に救われるのだと信じていたのに、最後まで救われなかったという経験がいやほど増えたこともある。
幕の内弁当で、おいしそうに見えているフライを楽しみに、何の味もしない添え物を我慢してやっと食べ終え、最後に残った黄金色のごちそうを・遂に・という渾身の期待を込めて口に入れたのに、それが不味かったとしたら。それ、一体何のための人生だ?
もう私にはそんな我慢の人生を悠長に続ける余裕がない。
じゃぁ、軽いエッセイにでもしょうかな。
ということで最初から最後まで適当に軽い味のスナック菓子のような本を選んでみる。
英語が商売の方なので、語源や各国語に関する薀蓄が少しばかり入っていて多少は栄養もありそうなのだが、パクパク食してしまえば後は別に何も残らない。
いや、一人おもしろがり風の口調や気になった言葉は詮索しなければ気が済まないというような気質は私にも共通し、かなり楽しめる内容だったと思うのだが。
読後数日経った今、さて何だったっけと振り返ろうとしても何も思い出せない。
毒はもちろんなかったし、さて、薬になったところもあったんだろうか?
確かに食べたのだが、もう一品一品何が出ていたのか定かではない。
楽しく読んでいたはずだったのだが。
いや、読書なんて実はそれで十分。
もういい加減に捨てちまおうや、少しでも勉強しとかなきゃ、という馬鹿げた子供っぽいオプセッションは。
実在するとはどういうことなのか?
この世界とは一体何なのか?
そんなことはどうでもいいのだが、教えてくれるなら知りたくないこともない。
しかし、世界はどうでもいいんだが、この私・自分とは一体何なのか?という実存的懐疑に捕らわれてしまうと自分の実存の文脈としてのこの世の正体も無視できない。
「量子力学の哲学」というときの哲学とは方法論としての世界観をいうとしておこう。
この世の物質はすべて原子で構成されているのだが、その原子が何で構成されているのか、というところから先が問題で、科学理論とはそれぞれの主観的世界観に他ならないというような地点に行ってしまう。
唯一無二の神学的科学が君臨しているわけではないのだ。
原子には重さ・質量がある。感覚的には重さがあればモノなんだろうと思う。
昨年、ヒッグス粒子の存在が実験的に確認されたようだが、対称性の破れから質量が生ずるなんて言われても、感覚的にはまったく理解できない。
量子力学で取り扱うミクロな世界では物質とははなはだ曖昧な概念に過ぎず、先ず「物には重さがある」というような日常感覚的な理解を捨てねば捕えることはできない。
この書では「非局所性」という概念を具体例で示し、我々の日常感覚があくまで我々に見えている世界だけのことであるのを先ず示し、その後摩訶不思議な量子の実体を考えていく。
通常なら見えている世界での事象だけを相手にしていればいいのだが、いかんせん、私は真実とは何かとかが気になると夜もおちおち眠れない性格である。
で、物理の先生の説明を心して聞くということにもなる。
本書は原子以下のレベルの「物質」の振舞について、大学の若い気鋭の先生の講義風に硬軟とりまぜた口調でかなり刺激的な科学を突きつけ、常識的な日常思考には結構なゆさぶりをかけてくれる。
『多世界解釈に対する標準的な解釈支持者からよくなされる指摘として「射影公理が必要ないと言っても、観測問題を説明できていないのだから、結局は射影公理を使っているのと同じことになるやんけ」というものがある。』
と、口調上のくすぐりは入るのだが、こういう厳密な論理の検証にはかなりの記号論理学風の数式が必要で、口調にだまされてさらりと納得してしまうわけには行かない。
しかし、こちらはミクロ世界に対する鳥瞰を得ればいいわけで、いちいちの論理の検証は専門家の論評に任せる他はない。
まあ、結論として世界の解釈は多様でありそれぞれの解釈の中ではそのようなものとして世界は存在する、のである。
あ、これはあくまで私の結論で、絶対他言しないこと。
いわば、三次元世界に生きている我々は近似的に高次元の世界を思い描くしかないのであり、決して真実そのものを掴むことは定義上あり得ないのだ。
しかし、これ以上考えられない理想的な論理訓練として量子力学をきっちり抑えることはボケ防止に有効だと思える。この本は買いだね。
「粒子と波の二重性」を文学的実存主義としてイメージしてみる。
私は実際に66.5キロ(4.8現在)の肉体を社会的に自分として使用しているのだが、この肉体は実は借り物で、各細胞は数日毎にごっそり入れ替わっている。
昨夜の粕汁に入っていた塩サバだった細胞の構成要素を今消化中で、この中の蛋白質を今度は私の肉体用にせっせと改造しているところだ。
私という生物的な形は、当初は他の物だったのだが、何等かの刺激で私という現象が始まり、予定によれば後10年でまたまったく痕跡もなく消え去り、別のものになっていく。
池に石をほうり込んで得られる波紋がたまたま私の顔になってしまったような具合で、ほうり込んだ石の刺激が収まれば、私の顔も次第に消えていく。
しかし、私の顔は顔の形を保持し、維持しようとして次々に伝播し拡大していく。
まるで私に感染していくように自立独立的に拡散するのだが、外部からはあたかも私がそう意志しているがごとく見える。そしてそのように私もつい思ってしまう。
だから、私の実体は物ではなく、私という事である。
たまたま今生じている私という現象が私という物を生じさせている。
しかし、私という現象は私という物に生じているのである。
これが粒子と波の二重性である。
量子力学とはそのような思考実験を通して世界を記述する方法論である。
え?全然違う?
あ、すんません。
今度最初から論理式を素っ飛ばさず、もう一度ゆっくり拝読させていただきますので。
一遍上人(1239-1289)の伝記。手堅い作風で小説的な面白さはない。
一遍は武家の出で人を殺傷し、身分や性欲に捕らわれる自を出家し、清貧と遊行に浄化させる。出家しても寺を持たず、時衆と称する念仏踊り一団を率いて行脚し、野に屍をさらすことを願う。
富や権威の世界を捨て、ただ仏の道に生きようとする一遍を描くのだが、作家は出家遊行の後も自分の性欲の昇華に心をくだく一遍の像も付け加える。
たまたま昨夜、録画していたアッシジの聖フランチェスカ(1182-1226)の伝記映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」(1978)を見たところだ。
映画自体はかなり古いので、きれいごとをきれいに描いているという感じなのだが、富裕に生まれ、放蕩をつくした後、一切の世俗を捨て、清貧の求道者を率い、権威に反感を持たれつつも次第に世に受け入れられていく様は一遍と類似し、まるで兄弟のごときである。
この二人の生きた中世という社会の人の魂の普遍を思わざるを得ない。
戦争を通じ支配階級の権威が高まり、社会の富の配分が極端に偏向した時代。
一切の世俗(富・権威)を捨て清貧によって魂を浄化し、心の平安を得るという教義は徹底的にしいたげられた下層・被差別階層に熱狂的な支持者を得ることだろう。
中世という時代の精神はそのようなファナチックなまでの狂信的な聖人を生むに易い。
しかし、このような聖者が富を捨てよと叫び信仰され崇められて幾百年、未だ我々の世界は相変わららず物欲に支配され、しかもますます肥大していくのみのようだ。
生が貧しければ魂を求め、豊であれば魂も売る。
善であり、時として悪でもある。
このダブルスタンダードこそが人の正体と思わざるを得ない。
富貴に生まれ、それでも改心し、持てる富を捨て去るところがあのお二人のミソなのである。
その生き方を善しとするが、実際に共感し清貧の魂に帰依するのはもともとあまり持ってなかった貧民が大半、とというところが我々の生身の世界であるらしい。
今、連日カユザック前財政相の「偽善ぶり」がフランスのニュースネタでにぎわっている。
社会党のカユザック氏は脱税を追及する側なのだが、政治家になった当初からスイスの銀行口座に隠し資産を隠し持ち、ずっと本人が脱税していたのだ。
しかし、私に言わせればこの人は偽善者ではあり得ないな。
偽善者はここぞとばかり有名政治家をたたくジャーナリストや視聴者庶民の方だろう。
カユザックは自分の「悪」を知っているのだが、後者は自分の「悪」を意識することはない。
他人へのクライテリアは自分には適用しない。
このダブルスタンダードが自己防衛機能というもので、我々は聖人にも仏にもならず相変わらず人をやっていて、それで未だに世界は存続してるのだ。
フランチェスカや一遍は時代のファナチックな感覚で自らの信ずるところに生きることができたと思う。
いや、現代の感覚からすれば、彼らも時代の求めるところを敏感に察知し、富とは違う形の欲を実現したのだ、と解釈できないこともないのだが。
しかし、そんなモチベーション分析はどうでもいい。
自分の思考と生き方を一致させ、激しい魂の希求に肉体の安逸を捨て去るだけのエネルギーがあったのは確かである。
富や権威を捨てることは実を言えば簡単なことなのだ。
そんなレベルなら私だって既に実践し、貧であるが困ではないし、ヨメにも尊敬されないのだが、そんなことは別に気にもならない。
しかし、ここで性欲の処理という生理的な問題がとり残っちゃってしまう。
性欲が悪ければ情愛としてもいい。
あ、いっときますが現在では華麗ともいえる加齢効果で、若い肉体を見てもある種のほろ苦さを感じるだけくらいに枯れてマスので。ご心配なく(^^;
しかし現役時分の自分を振り返ると、そんな他人事のような軽い問題ではなかった。
いわば、世俗の富も権威欲もすべて原をたどればその欲求から派生しているらしくさえある根源的問題だった。
悲しいくらい不遇な人生だったんだよ。
映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」にはこの問題に言及する場面があった。
フランチェスカの托鉢兄弟団に加入しようとしてもできない若者に、すべての人間が性欲を捨てれば人類は滅びるだろうとし、俗世に生きよとこの聖人が諭すシーン。
佐江の一遍では、遊行の托鉢集団に元女房の尼(超一坊)が常に同行し、出家同志として性交する場面も挿入されている。
もともとインド起源の仏教には性のタブーは含まれていなかったのではないか。
佐江も空海が持ち帰った理趣経に言及し、性交感覚こそ無私の悟りの境地に通ずるという示唆を入れている。
絵にかいた清貧のフランチェスカと一遍は、後者が念仏踊りという性的な要素を含めた出家の形を持っていることが既に違っている。
フランチェスカは、世を捨ても性は捨てることがない一遍を偽善(ダブルスタンダード)とするのだろうか?
著者はIQだとか記憶力だとか、具体的な能力の発現例を遺伝によるものと環境による変化によるものに分類し、それぞれ何パーセントの影響を被っているのかというようなデータを蓄積研究している。
そういうものを行動遺伝学というらしい。
面白い本だったが、以下は私による内容のトランスクリプションで、著者の発言ではないのでご注意。
すべての能力は遺伝によるのであり、どんな教育を受けどんな努力をしてもこの差異を解消することはできない。
つまり人は生まれつき不平等なのである。
これが「不都合な真実」であるというタイトルの意味。
能力の遺伝をあからさまに取り上げると、ナチズムのような優生主義者と名指しされてしまうそうだ。
にも関わらず、ひそかに自分の能力は遺伝子によって規定されていて、その枠を超えることはできない、と誰でも知っているのだが。
「人は平等である」と主張し、運命は努力次第で変えられるとする一見平等論者の論には救いがたい矛盾がある。
つまり、遺伝子によって人の能力が規定されているのなら、ハンディを負った人は救われない。
だから能力は遺伝ではなく、環境(教育や後天的努力)次第で変わる(開発、向上、発揮できる)のだ。
だから能力の劣るのは本人の努力が足りないので、生まれつきではない、と。
・・んなことはない。
どんなに努力しても無い才能は無い。
努力して開花するのなら、それはもとよりそのような能力が遺伝的に備わっていたのである。
この平等論者の論調には能力が劣るものは差別されるのだ、という前提が紛れ込んでいるのが見えてしまう。
比較的単一な遺伝子の作用(欠損等)で発現する病気も特定されているのだが、病気であるからといって直ちに遺伝子治療を行う傾向への懸念も表明してある。
医者の目からすれば病気は治療するものだろう。
しかし、本当にそれは矯正しなければいけないものだろうか。
たしかにその時の社会では一見不利であるのかもしれないのだが。
遺伝病に罹患する確率は減少した。
しかし、その遺伝的措置の影響で本人は死んでしまった。
という名医・ハンミュンデンの鉄ひげ博士が横行しているのではないだろうか?
また、国籍や文化による差異より個人の差異の方が大きいというデータも参照できる。
先日も京都での歓談の折に、どなたかが「フランス人は英語を喋ってくれない」という日本産の旅行者神話を語っていた。未だにこういう人がいるんだねえ。
では、あなたの英語が米国でなら十分通じたんでしょうかね?
というのが私の推測なんだが、もっとジェネラルな視点で反論するのが穏当だろう。
いや、たまたまあなたの出会った方が英語を喋らない個人だったわけで、たまたまそこがフランスだっただけでしょう。
何人のフランス人とコンタクトしたのか知らないけれど、この方の個人で採集したデータがフランス人一般の傾向の指標となるくらいな有意数であったとはとうてい思えない。
私の経験では日本人一般よりフランス人一般が英語を喋らないとはとうてい思えないのだが。
一般化することはできないわけではないのだが、個々の体験が直ちに一般化の指標とはならないことは自明なことだ。
英語を喋ってくれないフランス人がいたのは個人の「差異」を言っているわけで、これを「フランス人は英語を喋ってくれない」と一般化してしまうときに「差別」が始まる。
先日、ハハオヤの家に行って冷蔵庫を開けるとおびただしい酒粕の備蓄があり、結構ゾッとさせられてしまった。
たぶん、「ためしてガッテン」あたりで発酵食品、酒粕等が体に良い、というようなことをやってたんだろう。
とにかくこの人は「体に良い」と聞けば、そればかり多量に買い込んできてしまう狂気(モノマニー)がある。
しかし、こういう傾向はかなり一般的らしくて、例の豚ウイルス流行時のマスクマンの多量の出現を目の当たりにした恐怖も思い出す。
実際にはバカバカしいくらいの空さわぎで、後に残ったのは地方自治体の倉庫に多量に残ってしまった緊急購入したワクチンだけ。
テレビで感染死の情報が放映されると、全ての人が死のリスクにさらされていると思ってしまうのか。
それは違うだろ。
誰かが感染死したとして、全てが死に絶えることはあり得ない。
それが我々が遺伝的に不平等である、という本当の意味だよ。
個人はそれぞれ違う。個人は決して「一般」ではない。
テレビは大衆一般を想定し、酒粕がいい、と放映するわけだ。
酒粕が「いい」対象者はきっちり消化できる人だけで、ハハオヤの身体・年齢的差異は対象外かもしれない。
番組の情報自体がかなり偏ったものであるのかもしれない。
あるいは季節限定かもしれなし、多量に食すると悪しき副作用があるのかもしれない。体には「いい」のだが、アタマには悪いのかもしれない。
あらゆる情報精度と解釈法の組み合わせがあるのだが、テレビは常に視聴者は単純極まりない「日本人一般」に向けの情報しか伝えない。
この個人の遺伝的差異に関してこの本では驚くような数字を挙げている。
人を遺伝的に規定しているのは約2万の遺伝子で、この数の遺伝子の発現系を各3種と想定しても「そのあゆる組み合わせは数千桁という巨数になり、この地球が生まれてから消滅するまでに存在するであろうすべての人間の数を軽く凌駕している。」
そしてある能力が単一の遺伝子の発現系ということはなく、複数の遺伝子の共同作用であり、さらに環境の影響も加算される。
つまりすべてが遺伝子に規定されているとしても、想定もできないような多様なバリエーションが発現してくる可能性があるのだ。
環境(家庭・社会や本人の努力)が能力を開発することはあるのだが、遺伝子が規定している以上にはならない。
そのような環境によってある能力が発露させられるという能力自体も遺伝的に規定されているわけだ。
しかし、ここで規定されていると書いたのだが、たしかにあらかじめ決まっているのだが、それはすでに客観的に解っているということではない。
遺伝子が規定しているとしても、どう規定しているのかは発現させてみないとわからんのだ。
いや、最後までどういう遺伝子の相互作用であるのかわからんのかもしれない。
「人間原理」的に言えば、規定されていたとしても、そんなことは何の規定にもなっていないわけだ。
まあ、せいぜい高い塾に子供をほうりこんで東大目指しなさい。
やってみなきゃ解らない。確率統計的な予測はできるんだがね。
両親ともアタマが悪いとして、それはただ東大遺伝子のスイッチがはいっていなかっただけなのかもしれない。
依然として、凡人の両親から天才が生まれる可能性は排除されていないのである。
しかし、そのような後天的環境が本人に与える影響は遺伝子の規定を超えられないのは確かである。
不都合な真実とテレビ的には言うのだろうが。
私にはこのような個人の差異は自明で、レタスを一枚一枚洗わずに食べても私は大丈夫だし、酒粕を多量に冷蔵庫に支給していただかなくとも、既にこの歳までたっぷり生きちゃってますよ。
もとよりアンタとは遺伝的にはまったく関係ありませんので。
ハイデガーの師匠筋フッサールを読まないわけにはいかない。
なんせ私はハイデガーの孫弟子なんだから。
しかしフッサールを読むということは簡単ではない。
まあいいや、「現象学」という具体的なブランドがあるので、フッサールが「現象とは何か」を研究し、ハイデガーがそれを存在にまで拡張したんだろう、といとも簡単に超理解しておいてやろう
とか思っていたのだ。
私は世界をそのように解釈した。
オッカムのカミソリ。世界はまったく単純なのである。
しかし、それでいいのだろうか?
ここにして気がつくと目の前に「超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』」という書があるではないか。
しめた、やはり世界はこのように私の恣意的な思念でできているのだ。
...
しかし、哲学はやはりそう単純な話ではない。
先ず、私に誤解があった。
このタイトルを「超解説!初めてのフッサール ― 現象学の理念」と見てしまったのだ。
フッサールが初めてでも、簡単にその現象学の理念が解ってしまうものと思った。
つまり現象学の理念はサブタイトルだと思った。
残念でした。
すんません。「現象学の理念」とはフッサールの主著名なのだ。
つまりフッサールのこの書の注釈は多々あるのだが、ここで著者は「現象学の理念」という書のまったく新しい解読を試みるぞ、ということなのだった。
読み進んでいくうち、これは現象学の超簡単な解説ではなく、ハイデガー以降の現代哲学(分析哲学、ポストモダン思想)がフッサールの批判から出発し、存在論哲学、実存主義に止揚していったとする現代哲学史の主潮が大きな誤解、つまり「現象学の理念」の誤読に基づくものである、と著者がはっきりと論断しているのを目撃する。
そして、ここにして現象学こそが論理相対主義に陥り不毛な形而上学論争に陥っている現代哲学の現状を打開する真に革新的なイデアであり、正しく「現象学の理念」を解読し、そこから出発し、「普遍的思想の可能性」としての「本質学」の展望を切り拓くことで「世界確信」への一般理論としての認識問題が解明できるのだ、と主張しているではないか。
つまり、フッサールに帰れ!と。
と、一言でこの超解読書を超読解してしまうのだが、それは私の側での大洪水(世界のリセット))衝動発露と同時期に一カ月以上もかけて毎日数行ずつ読んだ末に、大半を忘れてしまい、妙に確信的未来にむけて勇ましい「あとがき」を勝手に引用した全くの世界の恣意性によるものである。
「現象学の理念」を読んだこともない私がその解説書を読むというのも馬鹿げたことだが、世界はそのような不条理を笑い飛ばし余りあるほどの不条理な存在感で満ちている。
しかし、ここで著者の筆致から明らかなのは哲学は力であるという確信だ。
これは哲学が鬱を誘発する日本的、情的哲学理解に陥りがちな私のような知的懐疑論者に対し、茫洋とした目を初めて瞠目させるだけの契機があったことを記しておく。
イメージ 1
見ている世界はそれぞれ違う。
この知的相対主義の悪しきニヒリズムは「主観-客観」という論理パラダイムで世界を捕えてしまうことに原因がある、という。
著者によれば、このような論理相対主義はただ敵を論破することだけに有効な理念で、それ以上に発展させることはできない。
そしてすべての主観は単に恣意的で相対的で、客観的価値は世界に存在することはない、とする論理は既に自らの論理相対主義自体の定義からして破綻しているのだ。
フッサールは主観・客観図式で世界を捕えることの不毛から脱却し、我々の意識に内在する確信根拠のシステムに着目し、各主観がどのように確信に至るかのメカニズムを厳密に検証することで共確信、つまり「世界確信」に至る思考体系を目指したのである。
そういえば、振り返ると私にもすでにそのようなイメージが胚胎していたようだ。
世界は既に(客観的に)存在しているのではなくて、私が存在していると確信した瞬間にそのようなものとして存在し得るのである。
素粒子物理学者がモノがそのように構成されていると定義し、科学的に確信したその時点でモノはそのようなモノとして存在し始めるのだ。
・・それも単なる論理相対主義の亜流だろうって?
いや、違うな。
物理学者が実験で確認することで確信するように、これは世界を否定するための道具ではなく、世界を確信するための私のメトードなのである。
・・ま、いいけど。
今更ながら思うのだが、カントやフッサール、ハイデガーやそのほかの実存主義哲学者は世界をいかに肯定するかの方法を模索したのであって、けっして否定することを目的にしたのではない。
私のこの「国」では否定するだけのニヒリズムしかなく、方法的懐疑が確信を得るための方法論であることを忘れがちになる。
あるいは、それが元来クリスチァニスムという強烈な確信が支配している世界に胚胎した方法論であるからかもしれない。
この国ではもともと強烈に否定する対象が何もなかったのだ。
超高性能な武器を輸入し、さて使おうとしたが明確な目標が存在しない。
周囲の一切の世界を否定すること以外に。
ハイデガー研究の碩学の連載する本職外の軽いエッセイ集。
まあいえば真面目な昔風の哲学者で、軽いがあまり冗談もなく、話題そのものも真面目で地味。
ええと、たとえば以前から私も気になっていたのだが、Parchment「羊皮紙」 という単語。
木田元さんに今回ご教示いただいた。
実はPergamon「ペルガモン」から来ているらしい。
エジプトと対抗して大図書館を建設しようとしたペルガモン帝国だが、エジプトからのパピルスの輸入を止められ、苦肉の策で羊の皮を使うという方法を開発する。
だから、羊皮紙がPergamon→parchment となったらしい。
ははぁ。なるほど。
ちなみに、「柿」をPercimmonというが、これも30年前から語源が気になっているのだが。(←調べろ!)
それはそれで面白いのだが、あまりまっとうすぎて読書にそれ以上の熱はない。
ひとつには文章にあまりにも衒いがなく、実直すぎるということもある。
「ピアノを弾くニーチェ」というエッセイは既に私はどこかでソラで引用している。
ニーチェは精神を患い、イエナで母親に付き添われて晩年を過ごしていた。
母親はどこに行くにも心を病んだニーチェが付きまとってくるので、外出もままならなかった。
しかし、ピアノのふたを開けて和音を弾くと、ニーチェはそちらに気を取られ、二時間も三時間も和音の変奏を試 みるのが常だった。
その音が聞こえているうちに母親は外出する、という。
実は私が引用するにあたって、多少の脚色を施している。
木田碩学の原文はあまりにまともで、しかも多少意味的にアヤシイところもある。
この人は私のように世界を恣意的に折り曲げ勝手な世界に住むことはない。
あくまで原文に即し、忠実に哲学者の意図を再現し、推察するというような透徹した客観性(←フッサールがこの世から除外しようと試みたヤツね)の、いかにも哲学者の文章である。(←冗談でっせ)
なんともそそるタイトルで思わず手に取ってしまった。
しかし、タイトルほどギリギリの限界的知性が不条理の叫びを不合理にも不自由している感性でもなく、軽く現代哲学、あるいは先端科学を鳥瞰する漫談調の読み物になっていた。
読者のレベルの想定がぐっと今様なのが、フライブルグでハイデガーを修めた古典的権威主義アカデミズムを知的見栄の根拠としている私には不満。
こちらが著者よりもっと古い世代に属しているのでしゃあないか。
形式や文体に違和感とバカバカしさはあるものの、なかなか要領よくまとめた哲学談義。現代では総括しにくい広汎な分野に広がってしまった知識を人間の感性とは何なのかという哲学的な問題意識で整理し、あるいは拡散し、各分野の関連論点を適宜圧縮し簡単に提示してくれているので便利といえば便利。
ただ要領よく並べすぎて、読後あまり本質的な問題意識が残らないような軽さになってしまう。
やはり、気になる論点は実際の原著を読まねばわかったことにはならんだろう。
例えば、ハルトマンは意識という根源的悪を宇宙から抹殺するため、究極的にはこの宇宙全体を抹消する以外にないというアブナイ地点に行ってしまった、と紹介されているが、この哲学者の真意はこれではわからない。
気になってちょいとインターネットでググってみたが、そんなことはどこにも出ていない。
だから、この書で紹介されている説が自分の読書守備範囲になければうのみにはできないような簡略化である。
しかし、今までの自分の乱読範囲の整理とすれば各議論を人間の感性の由来というような縦糸で結びつける体系化の方法を示唆してくれる便利な本だった。
サルトル・カミュの論争まで見せてくれるという、意外な収穫まであった。
やはり、私はカミュだな。←何のこっちゃ。
最終的に人間とはどういう存在か、を描くことになるのだが、遺伝子の乗り物としての人、と自己目的的に遺伝的制約を超えた自由を模索する人とのダイナミックな葛藤が我々という存在の本質である、というようなところになる。
以下、私の雑感。
ドーキンスの利己的遺伝子というとらえ方は無視できない指標だが、この言い方では遺伝子の方に存在する意思があるようなイメージを抱いてしまう。
よく考えてみれば、遺伝子自体も交配によって半滅していき、数世代後には元の遺伝子のアイデンティティ(?)のかけらも残ってはいない存在になるはずだ。
だとすれば、依然として「では、何のために存続しようとし続けるのか?」という疑問に答えたことにはならない。
いわば、遺伝子自体も「何らかの原存在」が乗っている乗り物なのだ、と私は言っておく。
あとがきで「なぜ理性的であるはずの人間が、このような愚かな集団行動を取るのだろうか?」という論議がなされているようだ。
(とすると、この書は実際に行われたその種の学際的シンポジュームの一方からの報告である、とも読めるのだが。)
茂みがあって、そこがガサガサと揺れたとする。
原因は風かもしれないしライオンかもしれない。
風なら逃げず、ライオンがいるから逃げるというのは妥当な行為である。
間違いが生じるのは、ライオンなのに逃げない場合と風なのに逃げてしまう場合だが、前者の間違いを犯した原始人はライオンに食べられて自然淘汰されるため、生き残るのは後者の間違いを犯すタイプの原始人になる。したがって人類が「幽霊の正体を見たり枯れ尾花」のような間違いを犯しやすいのも、当然の帰結だということになるだろう・・・、という議論が紹介されている。
こういうのは科学的でも何でもありはしない。
そもそもライオンなのに逃げない、リスクを好むような性質があるから人類は直立した。
もっといえば、ライオンと遊ぼうとして幼形成熟型のサルは直立し人類になったのだ。
しかし、本当は進化(変移)はそのような単純なシナリオではなく、多面的で不条理な局面に相対し、合目的的ではなく、不合理で多彩な個体が存在することによって人類(あるいはあらゆる伴性生殖生物)は存続してきた。
この「多様性」という意味が理解できない論者は自分の鬱への存在的懐疑から逃れられないのだ。(ちょいとはしょり過ぎたが。)
結局、このような科学や哲学的知見をいくら蓄積しても、説明する方法が増えるだけで、何事にも近づくことはない。説明しようとすればその時点で真実は分離し、相対宇宙にとじこめられてしまうのである。
フッサールの方法論の真意を今一度吟味してはどうか?
終末期医療専門の医師の報告だが、特筆したいのは人間の認知メカニズムの考察から医学を大きく超え、哲学・存在論の域にまで踏み込み説得力のある論を展開していることだ。
実はこの書は前回読んだ本で木田元がべたホメしていたので手に取ったのだが、それだけのことはある。さすがである。
老人医療からの切り口で存在論まで踏み込むというのは思いが及ばなかったのだが、哲学者個人のミクロコスモス内を精査するより、記憶能力が衰えた老人達の豊富な臨床例を総合することの方がより具体的なわれわれの世界の構造を提示してくれるようだ。
老人が朦朧とした「現実」に相対したとき、どのように世界を解釈し、どのように自分を定義するのか、つまりどういう世界を生きるのか? 豊富な臨床例を通じて、次第に我々の認識力のメカニズムの実体像が明らかになっていく。
そして、それは遂にこのような地点に至るのだ:
『・・・アーラヤ識は深層意識の最下層にあって、自己と自己以外のすべての存在、つまり「世界を仮構」しています。主体(自己)が在り、客体(対象)が在るという認識の基本構造は、「心理的な仮構・仮想にすぎない」わけです。アーラヤ識は深層意識で働くので、主体(自己)の認識がそれにより仮構されたものだという事実には気づかない。つまり、すべての生物はその仮構する世界(つまり環境世界)こそが現実の世界だと思っているということです。』
『アーラヤ識は「情報集積体」とも意訳されますが、その情報は、まず「生命情報伝達」と「生命維持」の働きにかかわるものです。』
ここでは正に主体と客体という二項対立がフッサールとはまた別の解法で、しかも見事に回避されているのである。
多重人格の分析例からは人格とは一定の刺激記憶とその反応の記憶の集積にすぎないことが明らかにされ、痴呆老人が自分で構成した世界に住むことを選び取るメカニズムを最少苦痛の法則というオッカムのカミソリで切り取っている。
では、例によって私が親切にも全編をごく安直に纏めて言い切ろう:
つまり、世界はそれぞれの生命が最も理解しやすい形に仮構された上、それぞれの生命に対して「環境している」のだ。
客体としての統一した世界なんてのはもとより科学者・哲学者の夢に過ぎず、我々はただ、世界というものが存在しているのだ、という夢をただ果てしなく見続けさせられているだけだ。
私という主体は、何かしら意識を発生させている現象の根源でうごめく怪しげな生命そのものが私に見せている夢にすぎない。
え?そんなこと言った覚えはない?
でも、そう聞こえたんですよ。すんません。
木田元はこの書を推薦する根拠に、むしろそんな存在論的考察ではなく以下の著者の観察・分析例を主として挙げていた。
社会・文化的な環境の違いにより同じ記憶に障害のある(認知症)の老人でも、米国では自我の崩壊となり、さまざまな病的あるいは暴力的な症例が多発しているのに、沖縄の老人にはそのような社会的に異常とされる例は皆無で、ただの老人として一生の最終期を過ごす。
個人の自立を旨とする社会では老人は社会的に人間ではなくなり、老化=病(欠陥)とされてしまうことになるのだが、老人も共同体の中でそれなりに繋がった生活を営める社会では老化してもただ老人となるだけで人としての一生をつつがなく終えることができる。
その他「ひきこもり」というようなコンテンポラリーな現象の秀逸な分析もある。
またびきだが、この文章を引用しておきたい。
『「自分vs.世界」、自分がいて、その自分が入っていけない「うまくいっている」世界がある。道ゆく人も、親も、昔の友人も、すべてが「世界」の住人。「世界」に仕込まれた諸々のルールが身に入っていて、うまくやっていける人々と、そういうルールの一つ一つに身がきしみ、なぜか「耐えられない」と感じてしまう自分のような人間と。眼に見えない「こうすべきである」ルールに体が拒絶反応を示さない人々への、羨望と、激怒と、軽蔑と。自分の中以外の場所から、ニンゲンの声が聞こえてくる気がどうしてもしない。どこにもアクセスできるポイントがない』(上山和樹「ひきこもりだった僕から」)
私が「ウソくさい、違和感だらけのこの世界」というとき、どうも私という主体を仮構したアーラヤ識はいいかげんな仕事をし、仮構した私がひょいと自分の仮構性という舞台裏をチラ見できてしまっちゃうような。
いくら夢の中だとしても、「これはもしかして夢か?」と思ったとき、どことも知れぬ中途半端な原存在世界の真っただ中に覚醒せざるを得ないだろう。
もうひとつ著者の引用に心から同意するケースがあった。
「ひきこもり」の上山氏が「弱すぎて負けてしまった正義」と書いているそうだ。
そこには他者につながろうとする倫理意識の存在がうかがえる。
おそらく「外に引きこもる」癖のある私も、多くの引きこもり諸君も、深層意識には生命共同体への融合の深い欲求が働いているのに違いない。社会正義と自分に向かう倫理感と呼んでもいい。
しかし、おそらく悪しき自立の文化に慣れ、適応した周囲の社会のルールにはその根源的欲求とは相容れない全く別のルール、「見知らぬ異貌の神」(「17歳詩集」hemiq.)しか見えない状況になっているのだ。
違和感だらけのなじめない世界、と。
まだ引用しとかねばならない部分が残っている。
私が気に入っていた「死ぬにはもってこいの日」という句である。
私はアドレナリンをたっぷり分泌し、矢でも鉄砲でも持ってこい!というようなインディアンの戦いに臨むときの決意と解釈していたのだが、どうも違うようだ。
『今日は死ぬのにもってこいの日だ。
いきているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。
すべての声が、わたしの中で合唱している。
すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。
あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去って行った。
今日は死ぬにはもってこいの日だ。』 (老プエィブロインディアンの詩)
死は個の消滅ではない。
仮構として存在させられていた個が遂に世界と和解し、合一し融合し、出発してきた地点に再び還っていく。
死によって私という仮構が完了し、存在という原罪が永遠の中で許される。
これを涅槃という。
未だによくわからんダーウィンの進化論という私の脳内現状が需要し、進化論のもやもやを扱った本はいつも楽しく読んでいる。
前半は良く分かる進化論の歴史。
ポイント1) 用不用説で獲得・消滅した形質は遺伝していく、と言ったのはラマルク。
ポイント2) ダーウィンはですね、それを逆手にとり、突然変異で個体の遺伝子に変異が起こり、そいつが有利な変化だとソイツの子供が増えて結果種全体がその子孫ばかりになってしまう。これを「進化」という。
ポイント3) 対するに今西錦司は環境の変化に応じ、種全体が進化圧を受け全体が変化していく。
つまり突然変異のような偶然の確率ではなく、方向性を持った遺伝子の変異が一斉に生じる。
このような現象と見られる実例はあり、そのような進化もアリ風だが、どういうメカニズムで種全体が極めて短時間で「進化」するのかは明らかではない。
しかし、今西は「生物は進化すべき時に進化する」と嘯いたという。これはいいなぁ。
最終章で結論のように中原・佐川「ウィルス進化論」の主張がある。
ウィルスが遺伝子を運ぶ。
つまり他の遺伝子を別の個体の遺伝子に付け加えることがある。(←これは実証されている)
この現象を一般化し、進化はウィルス感染に拠って引き起こされるとする。
これによってダーウィンのちょいと無責任な確率任せの進化ではなく、今西のきわめて短時間に種全体が進化するメカニズムが説明できるという。
こういううがった意見を拝聴できるのが進化論の世界の面白いところ。
私もつい一つ前の記事で、ネコ族が明示的にヒトに餌を貢がせる心理圧をかけられるように進化しつつあり、そのようなネコ族に簡単にコントロールされてしまうヒト族も出てきた(退化)と書いたところだ。
私自身としては「進化」という概念が非常に良くないと以前から主張している。
ただ単に生物は環境に適合して生きて行こうという自己目的的生存モチベーションがあるだけで、別にエボリューションしなければならんわけではない。
多分西欧人は抜きがたいグレコ・クリスチャニズムの西欧エゴセントリスムから脱却できず、神の次に人間(西欧人)があり、その下に日本人・サル・犬ネコと続くというドグマを捨てることはない。
いや、最近日本人の上にイルカが来ているようだが。
階段を上昇していく進化のイメージ。
神に拠る創造をダーウィンさんは否定したのだが、依然として神(最高者)を頂点に「進化していく」というどうしょうもない固定観念が進化論のベースに存在するのだ。
じゃあ、なぜバクテリアは未だにバクテリアをやっているのか?
人間が進化のゴールというのなら、45億年経った現在ではすべての生物は全部ヒトになっているハズではないか?
しかし実際はバクテリアの方では「オレが一番だぜ」と嘯き、バクテリア性を今も研ぎ澄ますのに余念がないのだ。
感染症に絶えずびくびくしているのは人間の方だろが。
だから私は別に今西進化論の進化圧も必要だとも思っていない。
中原・佐川のウィルス進化論が面白いのは、現在の遺伝子工学がやっているように、ある目的性をもってその種がウィルスを道具として「使用」するとも聞こえることだ。
なら面白いや。
・・・・
ということで少し「ウィルス進化論」をググってみた。
NATROMなる同業者(お医者さん)が厳しく中原(医者)・佐川説を批判していた。
読むのに面白く書いてあるのだが、ダーウィン進化論の解釈が根本的に出来ていないという。
中原・佐川さんも著作を重ねる度に徐々にトーンダウンしているとのこと。
『もちろん批判も多いが、それも含めて、ウィルス進化説について議論されることはおおいに歓迎したい。』というのが本書の結びである。
このNATROM氏の論述は真面目で真摯なもので、別に大向うのウケなど関係なく主張すべきは主張するというスタンスが見え、こちらの方が中原・佐川さんとかよりちょいと上かという印象。
この人のブログがあり、最近の記事をちら読むと、アレルギー疾患等の環境病は臨床環境医学自体が原因になっているのではないか?という。
いやぁ、思わずソチラを走り読みしてしまいましたね。
つまりですね、健康食品ばかり食べる人は既に心因性の病である、ということですね。
医者が病気を作り出し患者を増やしているのに他ならない。
すんません、走り読みの上、勝手にマトメてしまって(^^;
で、ネコに操られる人間は、同様にして医者に簡単に操られ患者になっていく。
この人は医者なので同業者の悪徳を見かねての告発だが、私はテレビを要とした現代商業主義一般と言いたい。
テレビの美容健康サプリメントの広告、なんでも簡単にガッテンしてしまう「ためしてガッテン」なんかが心因性の病気を作り出している元凶なのだ。
まあ、そんなのに罹患するのは金とヒマのある方ばかりなので私には関係ない。
でも、ウチのハハオヤとかおヨメちゃんがぁ(ーー;
「分別すればごみが減り、再生品も増え、環境にやさしいと信じる人は多い。だが現実は矛盾と弊害だらけである。・・・日本各地の呆れた実体を徹底レポート。・・」
と、カバー書きにある通りである。
各事例を通読すると、理念(美辞麗句・キャッチコピー)だけが先行し、有効性の検証がなされないまま表面だけのシステムを作り、そのまま放置されているという状況が見えてくる。
これは環境問題一般に共通する現状と言える。
ユニラテラルな小学生レベルの単純・素朴な社会正義感ではとても複雑な現実には対応できない。
もちろん私もキレイ・スッキリと考えたいのはやまやまだが、考える以前に付き合うのがばからしくなってしまう。
ことゴミ分別に関すれば地方自治体の問題だが、環境政策一般に演繹してみれば同様の構造が国策や国際政治にも存在するのが見えてくる。
ゴミ焼却場建設に反対する市民感情をいうのに「NIMB」という言葉があるらしい。
"Not In My Backyard”:ゴミ焼却場は必要、しかしウチの近所では作らせないぞ。
この心理構造はまったく同様に国際政治の問題に至るまで簡単に演繹できてしまう。
米軍基地は必要だがウチの県では住民が納得しない。
原子力発電は必要、しかしウチの地域に原発は要らない。
移民労働者は必要、しかし一緒に生活したくない。
「ゴミを分別し、環境を守る」という耳に快いキャッチコピーは理念理想であるからして政治家や地方自治トップが口走るにふさわしい。
しかし、担当地方公務員は下請け業者に発注することで政策実行の任を果たすだけで、業者レベルでは全く別の論理でもって業務を実施しているのである。
その時、当初の理念がどうであったかはまったく考慮されることはない。
ゴミの分別を実施し、その結果が実際はどういう効果があったのかを実際に公表している自治体はない。業者以降の分別ゴミの処理に関して自治体は関与しないのだ。
そこまで意地の悪い報告がなされているわけではないのだが、私にはその辺りの事情は分かっちゃってるのである。
以前ウチの市のゴミ分別に関して確認したことがあったのだが、そんなモンだった。
以前の話ではなく、最近の例をここに書いておく。
ウチの集合住宅では、月2回配布する住人全体分の市広報誌を自治会会長宅ではなく、管理人室ポストに投函するように担当職員と取り決めてある。
しかし、自治会会長の拙宅への誤配が改まらず、一度ならず担当職員に注意を喚起した。
私が一月不在になる8月前にもう一度職員に電話で念押し確認、あまつさえ私宅のポストに広報誌の投函への注意も書いておいた。
しかし、不在中の拙宅ポストに再度投函放置されていた。
帰国し、処理を託した副会長からその事実を告げられ、市担当者に面談して強く抗議した。
「業者にそう伝えたのですが」というのが担当者の回答だった。
下に順繰りに申し伝えるのが官僚的お仕事というものの本質である。
最終責任を負う覚悟があるなら、2度目に抗議を受けた後の三回目は誤配していないか自ら確認に行くべきだろう。
この担当者は官僚的には業者に(再度)伝えて自分の業務を終えている。
しかし「私宅への誤配を止めること」という仕事はなにも完了していないのだ。
ゴミ問題や環境問題も全く同じ構図が散見できる。
誰が当事者として問題を解決しようとしているのか全く見えてこない。
いわゆる環境問題になると、問題が何なのか全く理解もできていないのに問題解決策だけが先行している気配もある。
ゴミ対策を立案し、実行するまではよく広報され周知徹底がなされている。
しかし、実施後の成果やコストパーフォーマンス等のアナウンスは全くない。
このようなアタマだけ見せる政策は、多分実施することが行政の中身で、結果を検討するのは行政の役割ではないと割り切っているのだろう。
理念だけとなえ事なれりとするのが環境政策一般の通例であり、小学生並の正義感と私に揶揄される政治ごっこの実体である。
大阪市のヨメの実家に行くと、ただでさえ狭い食堂は分別ゴミ用のゴミ箱・袋が4種もテーブルの下に所せましと用意されていて、私はいつもどこにゴミを捨てればいいのかわからない。
ウチの市では「不燃ごみ」と「ペットボトル」以外は「生ごみ」なので、大阪市の分別を未だ理解できない。
紙かポリエチレンかビニールコーディング紙か塩化ビニールか、そんなものどうやって、またどういう理由で分別せにゃいかんのか、よくわからん。
で、そのように分別したことでどのような結果になったのか、また3分別の市と4分別とでは結果がどう違うのか、ウチの市でも大阪市でも公表していない。
本書に拠れば「分別すればするほど中間コストがかかる」ケースも多いという。
しかし、今更「環境のため」と信じ懸命に分別している善良な市民に「アレって無駄でした」と市当局が広報するワケはないのだ。
小学生レベルの環境ごっこに私は付き合う気は毛頭ないのだが、自治会長としてはゴミの分別ルールを周知徹底させ、良識ある社会人のフリをして暮している。
心にもない理念を平気で口にし私は立派な大人となりおおせ、後は一人で悶々と。
おなじみの合田雄一郎(警部)、福澤栄(青森一区自民党長老)の係累がらみで話は始まるのだが、この膨大な小説上・下の物語はとっくにそのような枠組みからはみ出し、人物とそのセリフを創作していく小説家の創造の愉悦だけが突出した非小説という他はないモノになっている。
上巻では合田の業界が扱う殺人の動機をめぐる法廷陳述から出発していき、これは法廷小説かい?と一旦思わせるのだが、下では全く別の業務上過失死をめぐる微妙な罪の立証の駆け引きが展開し、更には埴谷雄高ごのみの思弁小説といった趣になっている。
罪と罰は外側の社会からの分類法だが、その実、この2名の殺人者と被害者はいずれも社会で与えられている標準的人間の善悪の彼岸をとっくに超えてしまっている存在であるらしい。
事件・事故を司法の末端機関である合田が聞き込みをし、その非条理な行為の動機の合理的説明をする役割を担うという枠組みだが、社会的人格をとっくに逸脱した存在が司法の言語で捕えらるわけもなく、造形芸術・前衛演劇のターム、宗教や哲学の観念や認識システム上の語彙が小説にとめどもなく氾濫していく。
現代日本で行われている言語のすべてのサンプルを高村が吟味し、小説に塗り込んでいくような手法があり、コンテンポラリーに収集できうるあらゆるボキャブラリによる創作の現場に立ち会うと、表現者としての作者が舞台のすべてを上からコントロールしているという、つまりはバーチャルな神的行為から放出される一種デモーニッシュな創造の快感に照射されてしまう。
まあ、しかしそれは表現という創造を試みたことのない者には無縁な小説世界だろう。
あらゆる饒舌の中には、明らかに高村とはまったく隔絶した世代もサンプリングされていて、『これでもまだ生きているということに意味があるというなら、もう死んだほうがいいよ。』とかのネット世代語とでもいうべき語彙までも。芸域が広いねぇ。
しかし、これは高村の繰り出す小説的ジャブでしかなく、パンチは下巻の大半を通じて行われている古典的な、あるいは戯曲風というか、議論をたたみかけ、その勢いで行くところまで行くという観念小説とでもいうべき部分である。
オウムの教義の既存仏教教団(曹洞宗)からの徹底的な分析と批判がスリリングで手に汗にぎらせた後、いわば全体の結論のようにやってくる「存在と言語」とでも題すべきこの小説のクライマックス。
作中人物達の倦むことをしらない饒舌、これは紛れもなく埴谷雄高ばりの思弁小説である。
オヤジ小説家と揶揄され(ウソですが^^;)「晴子情歌」で女性になりきって見せたり、「新リア王」ではまったく小説家の実像とは無縁の戦後日本保守政治家の内部を圧倒的なリアリズムで再現して見せた力量は、今回は宗教や哲学という完全形而上の議論をもっとも形而下の司法の語彙、あるいは古典的推理小説のプロットとして使用するという埴谷雄高ぶりをまともにやっているのだ。
もっとも埴谷は推理小説仕立てで存在論を展開したのだが、高村は存在論仕立ての推理小説を仕上げたので、方向は逆。
『意味するものである<私>を拒絶する自由、ですか。意味するのをやめて意味不明の奇声を発するものとなる自由、ですか』
どうですか?このセリフの埴谷雄高ぶりは?
この一つ手前に武田泰淳「ひかりごけ」の引用があり、私は直ちに「全集・存在の探求」の世界に呼びこまれてしまうのだ。
ちなみに全集「現代文学の発見」(学芸書林)第7巻 存在の探求 上巻 の目次は次のようだった。
梶井基次郎 桜の木の下には 闇の絵巻
北條民雄 いのちの初夜
中島 敦 悟浄出世 悟浄歎異
稲垣足穂 彌勒
椎名麟三 深夜の酒宴
→埴谷雄高 死霊
→武田泰淳 ひかりごけ
椎名麟三 スタヴローギンの現代性
埴谷雄高 存在と非在とのっぺらぼう 夢について 可能性の作家 不可能性の作家
武田泰淳 滅亡について
(こんなものまで瞬時にコピペが。インタネットだね(^^)
なんとね。懐かしいね。
高村は私より年少の女性だが、まさか合田雄一郎をこんな地点にまでやって来させるとはね。
まさにオヤジキラーの面目躍如ちゅうか(^^;
私が小説を解説するのもナンなのだが、要は「存在の探求」である。
この古来からのテーマに我々常人は言語によって迫る以外にない。
このテーマを推理小説という形式で扱おうとしたのが埴谷雄高であるとしよう。
言語感覚より色彩造形感覚を内的言語として持つ殺人者(第一部)、てんかん発作によって究極の存在である無の感覚を体得してしまった元オウム修行者というような、いわばソチラに行ってしまっている人の意識内容をなんとか司法の言葉で解明しようとする推理小説に仕立て、結果として存在論をチラ見せているのが高村のこの作。
ちなみにヨーガやオウムの修行を通じての直観によってではなく、あくまで言語に張り付いて主観・客観の「存在からの逸脱」を経てアラヤ識にたどり着いたのがフッサールである。(←ここ、宇宙の根源にかかわる真言なので一切他言無用^^;)
いやぁ、やっぱり書評にならんなぁ。
この丁々発止とやりあう議論自体の運動エネルギーを小説的進行エンジンとして使用する、このスリリングでわくわくする観念の遊び。
これぞ、読みたかった小説・・と言いたいのだが、最終部分のいやに内省的な手紙文が余計ではないか?
いつものことだが、少々文学的に纏めようとし過ぎ。
私とすればあくまで初期推理小説群から連綿と続く黒いエネルギーを噴出し果てて欲しかった。
「世間」は阿部勤也の晩年のキーワード、現象学はもちろんフッサールの方法論。
両者がどう結びつくのかね、ワクワク。
その前に。
阿部が「世間論」を書いた時、私は例によってあらぬ深読みをし、まったく別の筋道を考えていた。
晩年の阿部のホソーン「緋文字」からの西欧保守社会の分析には、かなり狂おしい情感が溢れていて、私はその意味を個人的にキャッチしてしまったのだ。
「阿部先生、道ならぬ恋に踏み込んだな」と思い、その後の「世間論」はそのような個人のみずみずしい感性と相いれない保守社会への命がけの糾弾だと受け取っていた。
これはやはり阿部勤也「中世の旅人」の新鮮な情感が私の「ドイツ」のごく原初の部分に居座りつづけているからだ。
阿部は自分個人の情的性向を学者としての研究生活に昇華し得た稀有の、本物の学究である。
実を言うと、その時、道ならぬ恋に社会生活の危機を迎えていたのは阿部先生ではなく、私の方だったのだ。(^^;
阿部は中世ヨーロッパ社会は実は「社会」ではなく、現代日本同様の「世間」の構造であるとする。
西欧社会が現代のような個人対社会というシステム、もしくは個人の集合が社会であるようなシステムになったのは、強烈なキリスト教価値観からの意識革命の結果。
つまり、唯一神の前では、あらゆるルールやモラルは神と個人との契約で、それ以外の一切の共同体の習俗・価値観を西欧社会は一掃してしまったというのである。
神に「告解」するという全く個人単位の行動が個人という自意識をもたらした、ともいう。
元来世界中のどの集団にも普遍的に「世間」があり、「個人」という意識を社会の構成単位にした西欧近代が異例と見る。
残念なことに、日本と西欧以外の地域の考察がないのであくまで仮説に留まっている。
同じ極東でも日本と韓国では「個人」の意識にはかなりの差異があるように私は思う。
この「個人」対「社会」という意識システムは「主体」対「客体」という認識システムに対応する。というか拡張される。
デカルトが方法的思考実験をやり通し、この思考している「自分」というものが究極の意識単位として「存在する」ということを突きとめる。
そしてどの「主観(主体)」からも外に存在する「客観(客体)」に向き合うことで、論理的記述が開始し、科学的という主体ニュートラルな価値を普遍として導入し西欧社会の怒涛の進撃が始まった。20世紀末まではね。
ところで、待てよ、しかし、本当に各主観が外側に見ている「客体」は客観的に不変・普遍なのか?
もちろん違う。
日本文化の中の主観は太陽は赤いと見、欧米では黄色と見る。
それがリンゴだと主観が認識しても海馬の中の幻視でないと主観は客観的に判断できるのか?
そこに在ると見えるのは人間サイズが人間時間の中で言うだけで、本当は何処にあるのだか誰にもわからんとハイゼンベルグはいう。
つまり、主観も客観も単なる思考的便宜であって、絶対単位であるという保証はどこにもない。
すべては我々個々が個々である所以を生じせしめ、「考えている我」をその背後から見、「その我はアリだろう」と認識している世界=認識統一体の見ている夢なのだ。
私は夢の中の自分のクセして「自分は存在する」と認識し、しかもこの自分は誰かが見ている夢なんだ、とうすうすは気ずいていたりする。
このすべての夢を生じさせ、自分がいるという認識自体をも与えている夢の裏側に存在する気配。
私という存在がやはり夢に過ぎないとして、勝手に私の夢を見、勝手に私を生じさせながら永遠の惰眠を続けているソレの気配。
それを西では外に創造主といい、東では内にアラヤ識という。
結局、それって超越論的主観だよね、とフッサールはいうのである。
と、そんなことはどこにも書いてないし、フッサールが出てくる必然性もない。
最近私は、ただなんとなくフッサール♪。
「個人があり、その集合体が社会である」とする旧来の社会のイメージではなく、「個人と社会」を含む超越論的集合体が「世間」、そのイメージは現象学的思考を経れば容易に見えてくる、とただそれだけのことで登場するフッサール。
ここで「世間、それは外部ではなく自分ことだ」という佐藤は何度もテーゼ化するのだが、「自分」という概念からしてすでに個人を前提としていて少々論理矛盾的。
正しくは「世間には世間だけがあって、個人も社会もない」と言うべきだろう。
「世間」が「社会」という概念と大きく違うところ、それは「定義できない」ということだ。
大きさも形も構成要素も不定形である。
ここで特徴的なのが「内も外もない」、つまり私自身も実はどこぞの世間からの産物で、この意味で私は個人ではなく世間そのものなのである。
また、世間からみれば世間しかなく、他の世間は見えないのである。
要するに、世間は一義的に存在し、しかも一義的に定義できない不定形。
世間とは存在の地平をくまなく覆っている宇宙であり、したがって他の世間と並立することは論理的に起こり得ない。
「この世間の他に世間は存在しない」と言ったって、向こうからやってくればどうする?
徹底的に無視、できなければ排除、村八分。
そのように世間を捕え、そこから演繹すると今まであまりよく見えなかった現象がくっきり見えてきたりする。
「個人不在」故、所属を名乗ることが自己紹介になり、所属、役職、職業が判明しないと人とみなされない。
以下はこの書では述べていないが、私が恣意的付け足したオマケ。
⇒バラク・オバマではなく、オバマ大統領と必ず職制を付けるマスコミ
⇒名前でなく「お父さん」とそのファンクションで相手を呼ぶ
⇒プライバシーという概念が成立しない
⇒明確な(一義的な)人称呼称がない(I,you)
⇒前提となる定義を必要とせず、雰囲気で会話が成立する
⇒会議は討論ではなく、合意する場である。
⇒新しい案は会議で出すのではなく、事前に根回しをしておく
⇒商品の価値そのものではなく、同じ世間に属することを営業担当者が広報して契約が成立する
⇒自己をぼかそうとすることばつかい
世間の範囲が不定形であること故絶えず自分で相手、周囲の世間度を探り、世間に合わせていかねばならない。
⇒意味のない挨拶や日常会話、ポトラッチ、ひきこもり、対人恐怖症
佐藤は初めてエジンバラに留学したとき、世界の認識が変わるという体験をする。
世間がない世界にはいり、みている月まで違って見え、月とはとても見えなかったという。
多分に後付分析体験昇華作用が見られるが、要するに自分の内なる世間が通じない世界で、これまで世間から明に暗に定義されていた意味が景色から失われたということらしい。
私の海外滞在体験では少し違う。
確かに私の周囲の世間は見えなくなり、「もう一つ別の人生」の時間になるのだが、内なる世間は相変わらず自分の人格として存在し、いわゆる日本人的反応は消えることはない。
外国で全く違う世代の中に居ても、私は私の世間を維持し、そして私の周囲を次第に世間化していく。ただ、相手が私の世間には全く反応しないだけで。
たぶん、あまり世間体験のない若い世代なら次第に日本的世間感が薄れていくのだろう。
しかし、私はこれでも日本人として立派に成人してしまっちゃっているのだ。
いや、そこまで立派でもないが(^^;
うっとうしいのは自分の内なる世間だよね。
絶えず空気を読み、相手に合わさねば、という強迫観念。
今まで「存在論的不安」あるいは「アスペルガー症候群的心的違和」と自分では分析してきたのだが、この「不定形の世間」という見方で説明されるとすっきり納得できる部分が多い。
私の個人的な経緯が自分の属する世間をかなり偏差多いものにしてしまったのだな、多分。
この本でかなりの「日本人的感覚」の特徴が世間をキーワードにして説明されていて、いちいちごもっともである。
私は先に指摘したように、他のアジア諸国における「世間」の実体がどうなのかが気になるのだが。
また、昨今のいわゆる「環境問題」の、この国の皮相な認識の蔓延にもこの「世間」的特徴が顕著であると思う。
これは自分の外部・客体としてだけの環境を言い、きれいに自分も環境であるという認識が抜けている。まさに現象学的批判の矢を射るのに格好の標的だ。
私は以前から「自分対環境」との見方を西欧クリスチャニズム式傲慢と言ってきたが、この不定形の世間は厳密に定義された西欧式論理の検討も経ず、表面的な小学生なみの倫理感だけが共通認識になり、それ以外の価値感をまったく排除してしまっている。
論理でもなく、科学でもなく、歴史でもなく、文化でさえなく。
ただ「世間」がそうだから、というだけで成り立っているのがこの国の「環境問題」だね。
理由を聞くと「どこでもそうやってるし」というのが85歳ハハオヤの回答の常である。
そうか、それが唯一絶対の一義的規範だったのだ、この国では。
世間に対し論理で挑んだのは無謀というものだったか。
これからは相手を世間と見定めて別の武装をしとかねば、論理ではなく。
そんなモンじゃ、ハハオヤ一人にさえ絶対勝てん。
「どこでも、って実際に誰が?」とか「私はそうじゃないでしょ!」と論理的反論を試みてもまったく無意味である。
何となれば世間とは個人の集合(社会)ではない。
特定の個人はまったく無視され、不定形の世間の中には入っていない。
そして、ここがミソだが、ハハオヤは「世間に自分をあわせている」と信じているが、実際は「世間を自分に合わせている」のだ。
「世間とは自分自身のこと」だよ。
環境問題だけではなく、周囲の日本式合唱団や町会の実体を「世間」というキーワードで分析すればいろいろすっきりしてうるものがありそうだ。
しかし、もう書評の枠を完全に逸脱してしまっている。
後は別項で。
(この項、未定)
若い研究者によるフッサールの思想世界への旅行案内書。
「未知との遭遇」なんて章タイトルがあり一種SF仕立て風でもある。
私は鉄腕アトムを読んで育った。
デカルト以来の客観的真理の存在を前提とする科学的世界観の子である。
しかし、文化的には東洋風直観的感性を持って生まれていて、簡単に論理を逸脱する特技もある。
直観的にはヘンだと思っていても、この科学的絶対真理の論理を捨てれば自分の存在を自分で否定するようなことにもなる。
私自身も対他者と同じく客観的分析の対称として論理化できると信じる倫理的公正さが私の存在論的良心だった。
私はイヤと言うほど世界にはびこっているちっぽけな他者の一人にすぎないのである。
しかし、一方ではこの世界についてのあらゆる情報は、私が受容し、自分自身で統括し再構成した私だけの世界、つまりは自分で作りだしている世界であるとも思っている。
ここに他者の一人である自分と、他者をも作り出している自分が存在する。
この客観的相対論と主観的観念論との絶対に越えられない深淵をエイヤと超えようとする試みが現象学なのである。
なかなか言語化しにくい論理以外の文法で語られる哲理をフッサールが苦労してドイツ語化した、「砂を噛むように味気ない」著作を、岡山はまったく個人的な語り口で追っていく。
若い哲学科の学生が難解なドイツ語に沈潜し、ただ読み込むこと十余年、やっと哲学科の講師になったが、お仕事は相変わらずドイツ語を読み込むこと。
まったくご苦労さまな人生ですね。>著者
フッサールは自分の思索をドイツ語によって進める以外にはなかった。
西欧諸語は主語を立て、表明する者を対象化し客観化することで意味を生成する。
つまりは科学的客観的相対論的立場で思考せねば言語化ができないのだ。
かように厳密な論理としての言語で言語的対象化以前の観念を述べるのは至難の業である。
一方、世界は別のとらえ方でも言語化できるわけだ。
L'homme pense, donc Je suis, dit l'Univers. (P.Valery "Tel quel")
(人思う、故に我あり、と宇宙は言う)
みごとなもんだ。
デカルトもびっくりの主観的直観的恣意的観念論。
しかし、これは論理ではなく直観の世界である。
言語の主語述語の論理的記述を逆手に取った詩人の想像力でありかつ世界の創造力。
わからんヤツは解らんでも仕方がない。
キミには詩才、イマジネーションがない、と突き放す他はない言語の極北の用法である。
というわけで、岡山は何とかフッサールの最終地点まで追跡を試み、「傍観者の十字路」という深淵にたどり着く。
それは、自分が他者であり、他者が自分であるような宇宙の構造、論理的には破綻しているのだが、破綻することで論理が整合する、ありのままの世界感である。
つまりはなるようになっている、ありのままの世界。
何だいそれ?
さあ、私、どちらにも行かず十字路に立っているだけの、単なる傍観者ですからね、というところだ。←もちろんウソだからね。
私は最近しきりにフッサールのいう、・・何だ?超越論的観念論?この深淵の底で宇宙を主催している根本原理が、インド仏教でいうアラヤ識と同じことじゃないかという感を抱くのだ。
私と他者との越えられない深淵は、私も他者もただこのアラヤ識が生成する夢想である。
色即是空、空即是色。すべての感覚もまたしかり。
どこがフッサールだい?
というようなモンだが、しかし著者の苦心して読みくだき解説する文言、つまりは著者が十余年かかってお仕事として格闘してきた景色を、古代インドの瞑想者が直観する像に仮託すれば、ごくわずかな時間で現象学の底まで覗ける気がしている。
で、それで充分理解できました。と、思ってますがね。
ただ、フッサールが論理を積み重ねることによって言語化し、対称化できないものの像をおぼろげながら描いて見せてくれるのは、やはり西欧言語による哲学のまごうことなき成果であると思う。
本来は深い瞑想によってしか到達できない、まったく排他的だが全的なミクロ=マクロコスモスの内部兼外部、つまり伝達不可能な全体だったのだから。
そんなもん、行者と詩人のような、日常性を超えてしまった者だけが垣間見るビジョンだろ。
あっと、この現象学的日常性回帰の世界観、絶えず日常を更新し、絶えず世界と自己を更新していく結節としての自我、というように私が端折ってしまったが、このダイナミックな脈絡統一体としての自意識というイメージは、即認知症患者の崩壊する世界像を逆想起させる。「我思う、故世界在り」だからね。
認知症への現象学的アプローチ、どう?魅力ある分野じゃないか?