
〔読書控〕2014/03/07(金) 23:14

塩野七生「十字軍物語 1・2・3」 新潮社 2011
1) 序「読書控」
新年からずっと私の個人サイトのシステムの整理やメンテナンスを行っている。
昨年のブログをサイトに移設する作業がメインだったが、サイトのサーバーを変えた副作用でCGIが使えるようになり、システム自体の組換えに熱中してしまっている状態。
ここ20年来書き溜めた書評データ記事のシステムも少々変更し、著者名索引と経時的読書リストを同じ欄で切り替えて表示するようにした。
これで毎回「ポップアップがブロックされました」等のシステム警告を見なくて済むようになった。
昨年までは1994年度から前年度までの読書リスト・書評を掲載していた。
ここ20年に私が読んだ本とその書評だぜ。何と20年だよ。
本を読むくらいならなんでもないのだが、その書評を一冊も欠かさずネット上に上げ続けたのだ。そして、ついに20年。
1200件を超える書評の垂れ流し、クソも溜まれば山となる。
山になっているだけで他に何のとりえもないのがいいね。
そのクソの山に埋もれて私はただ生きてきたというわけだ。
もっとも当初はインターネット等で公開するつもりもない、単なるカスみたいなメモだったのだが、(中には書名だけしかないのも(^^;ある)数年後に始めた個人サイトのコンテンツの柱にしてから文体が大幅に変わり、内容が長くなった。
演出が入り、レトリックで遊び、ついには書評に仮託し純粋に個人的な私憤・私情を潜ませ、生活するための武器にまでなっていった。
私には書くことで生きていた時が確かにあったのだ。
今回システムをいじったついでに昔のワープロ「一太郎」時代のメモも少し復元して追加しておいた(1992年、1993年度分 それ以前は手書きノート故復元不能)。
掲載を初めて10年くらいの時、『年間100冊を読み、10年で1000冊、後また1000冊くらい読んで死ぬんだろう』と書いたこともある。
なんのなんの、ここ数年は年間10冊程度(^^;
昨年末からこの塩野七生の新しいシリーズを読んでいて、やっと本日読了。
なんと一作品(3冊本)読了するのに3か月近くもかかっている始末。
当初、私の書評書庫は「読書月録」と題し、その月に読んだ5,6冊の書評を掲載していたのだが、月別になると何も掲載できない月ばかりで全くタイトルの意味をなしていない。
よって密かに一昨年よりタイトルを「読書控」とかなり控え目に訂正させていただいております。
今年バージョンからは読書月の標示は本文タイトルからは削除、その代り各書評を書いた日付をさり気なく入れておいた。
昔、サラリーマン時代にはその週に読んだ複数の本の書評を週末にまとめて書いていたんだなぁ、なんてことが日付から読み取れ、けなげに過酷な日常を生きていた安サラリーマンであった私がうざいながらも愛おしい。
2)前置きからそろそろ書評本体へ
今回追加した1992,3年のデータ中にも複数の塩野七生が入っていて、私にとって塩野の地中海歴史ものは常に読書の楽しみの中核に在り続けたことをあらためて確認した。
塩野が「ローマ人の物語」を年一冊刊行しはじめたのが1992年、以来この書にいたるまでほぼ20年間常に私は塩野の読者であり続けた。
いや、パソコンデータとしての書評以前に先ず「海の都の物語」3巻で塩野のイタリア歴史の物語の面白さに遭遇し、それ以来まったく寸分のズレもなく常に読書の楽しみを供給してくれていた。
残念ながらその書評は現在の技術では掲載できていない。
といっても「海の都」以外他の小品ではそこまでの付き合いとは思ってなかったのだが。
「ローマ人の物語」でカエサルが登場する時の著者のホレ込具合が、まったく現代風銀幕スターに恋する女的にあからさまにあられもなく、文句なく楽しかった。
歴史は人物にホレ込さえすればそのように生き生きと楽しく語ることができるのだ。
この時から塩野は私がもっとも愛好するエンターティンメントの書き手になった。
今回の十字軍物語にも著者がホレ込むに足る人物には事欠かなかったようで、相変わらず同質の読書する楽しみが持続していてくれていた。
更に今回、十字軍という西欧からは遠征の史実以外あまり語られなかった物語が、実際の中・近東の現地で見てきたように講釈され、意外な発見も多々あった。
作中で本人も言っているのだが、西欧中心の史書ではキリスト教側からの見方から脱却できず、たとえば教会から破門されたフリードリッヒ神聖ローマ皇帝(第6次十字軍)の評価は西欧では不当に低い。
サバけていて決断力もあり、知的にも時の法王の及びもつかない域にある男を描く著者の書き上げる像からすればいかに宗教的ドグマが目を曇らせるのかの対比に唖然となる。
ここで、著者の個人的なホレ込による像ではひいきの引き倒しで、同じことではないか?なんて悪しき知的相対論からの反論も出よう。
そんな解釈の正当性の議論は全く無意味である。
本は面白い方がいいに決まっている。それだけが唯一の回答だ。
真実はどうなのか?と問うその瞬間から不毛な客観論をめぐる知的相対論の堂々巡りに陥るのみである。(詳しくは「アラヤ式現象学入門」 hemiq 2013 を参照)
フリードリヒはアラビア語で外交交渉ができるくらい語学に堪能だったという。
アラビア語会話でもなく、ただ悪魔イスラム側と話し合うだけで拒絶反応を起こす法王との滑稽な対照は教訓に富む。
せっかく外交的に友好関係を築き、エルサレムを無血でキリスト教国側の領土としたフリードリヒを教会は破門にし、エルサレム自体から教会関係者を引き上げてしまう。
中世の教会とはそういうところだった。
そして未だに中世のまま現在に至っている。
ま、その普遍性は良しとしよう。この国の仏教者よりはね。
イスラム領であったパレスチナでは税金を納めればキリスト教徒も共存できていてのだが、中世キリスト教会は聖地の異教徒の排除、全的抹殺しか意味がないとした。
私は中世的感覚を現在の悪しき小学校ヒューマニズムから裁こうとは思わないのだが、同時代に生きていた合理の人やアラブの知恵と対比するとき、その優劣に個人的判断が入るのはやむを得ない。
で、イスラム側。
ソチラさんにもそちらさんの教条はある。
キリスト教徒を撃退し、アイユーブ朝の始祖となった一代の英雄ハラディンだが、出自がクルド人であることから現在でもイスラム圏では評価が高くないという。
そんなもんだろう。
ハラディンとリチャード獅子心王はライバルではあるが、互いの力量を認め合い、敵に塩を贈るというような渡り合い方をする。
ハラディンの弟でアイユーブ朝第二代スルタンのアラディールも知的でモノの分かった為政者であり何とか戦争の悲惨を防ごうと外交交渉に尽力する。
フリードリヒがアラビア語の書簡を読み、通訳を介さずにアラビア語で意見を述べるのでイスラム側は感激し友好的に話し合うに足りると判断する。
敵性言語であるというだけで、その学習と使用を国内で禁じ、戦後は逆に自分の名前さえアルファベットの名・姓順で書こうとするバカげた国を思わざるを得ない。
塩野の描く戦記も図入りでかなり面白いのだが、なんといっても現代を映す鏡としての中世の人の世が眺められるのが秀逸な所以。
特に十字軍史におけるカギになる人物としてアラディーンの重要性を発掘したと塩野は自負しているのだが、理由のないわけでもないと思う。
キリスト圏でもイスラム圏でもない、ここに日本人にしか書けない十字軍史がある。

〔読書控〕2014/04/22(火) 15:46

塩野七生「ローマ亡き後の地中海世界 上・下」 新潮社 2009
前後してしまったが「十字軍物語」よりもこちらの出版が先。
時代的には古代ローマの終焉から近代までを描いたこの書の守備範囲に「十字軍物語」が収まってしまう。そして「海の都の物語」とも重なって終焉していくような時系列である。
その所為でもあるが、本文中に「自分の過去の著作を参照していただきたい」という断り書きがやたらと多い。
「海の都」以外にも「ロードス島戦記」にしても「チェザーレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」とか。
いわば若い小説家は歴史上の特異点である重点一点に近接し切り取って想像のネタとし、老熟した書き手は全体を見渡し歴史の時間のながれそのものを創造のタネとしている風。
自分の過去の出版物を作中で宣伝するなんていう手もこの作家なら笑って納得してしまえる芸になってしまう。
読者にしても、まだ「読書控」すら書く習慣のなかった自分の読書歴のプレ・ヒストリーをちらと思い浮かべるような読書の重層構造に、何らかの人生的感慨まで透けて見えたりする。
作家は書き、読者は読んでかくも長くなっちゃった人生を生きてきた。
前回の「十字軍物語」で私はイスラム圏でもないキリスト圏でもない日本人にしか書けない「十字軍物語」と評したのだが、今回は著者によると沿岸部(イタリア・ギリシャ・西欧、あるいは近東アフリカ東岸)ではなく、地中海中に視点を置いて記述した、と地理的に著述の位置を述べている。
その眼の下を通過するサラセンの海賊、十字軍以降は実体は海賊に他ならないオスマン帝国の海軍とジェノバ・ベネツィア等の海洋国家の海軍との抗争の物語、いや歴史である。
大部な歴史物語をレジュめるつもりは毛頭ないが、だが、だから一口でやっちゃうなら「サラセン海賊物語」という様相になる。
地中海の海賊通史というような視点が今まであったろうか?
海賊にも二種類ある。
パイレート以外に公認の海軍に組み込まれた海賊もあるのだが、何れもイスラム側。
そしてレパントの海戦で海賊を提督に据えたオスマン海軍は敗れるのだが、それを破ったスペイン無敵艦隊を破るのがイギリス海軍で、こちらはキリスト圏では珍しく海賊提督も登場する国だったな。レパントの海戦からは地中海を外れ、この物語の範囲外になるのだが。
このような愉快な地中海通史が日本語で読めることは日本人の特権といってもいい。西欧諸国・アラブ諸国は近すぎて自分の立ち位置からの制約がどうしても見る目を限定してしまうだろう。
いわば日本史にはこの地中海史がほとんど何らの影響も与えていないことのメリットである。
丁度、この書が終わる16世紀頃からポルトガルあたりから物と人が日本史に接触してくるわけだ。
個々の楽しいエピソードにいちいち言及してもしかたがない。
ひとつの大きな印象だけを書いておく。
キリスト教圏西欧の「小学生的潔癖感」に対するイスラム圏の「オトナの優柔」というか(^^;
悪魔イスラムをこの世から排除するという宗教的潔癖感と人頭税さえ支払えばキリスト者でも生存できたイスラム社会。
貴族しか加入できなかったロードス(後ヤルタ)騎士団に対するに海賊の首領を海軍提督に据えるオスマン帝国。
まあ、西欧にもベネツィアというプラグマチズムを実践した(著者によればエコノミックアニマル)例外はあったのだが、中世という固定したイメージはキリスト教圏内での歴史上の区分であるということを思い知る。
また、中世キリスト教社会では教義の正当にこだわり、(偽装)改宗者を徹底的に暴き、そのファンクションが後の異端審問や魔女裁判となって近世まで引きつづいていく。
しかるにイスラム圏では「改宗した」と宣言さえすればイスラム教徒となれる。
更に言うならばトルコ最強の近衛兵であるイエニチェリ軍団は全て(いわば)キリスト教からの改宗者でもある(民族的には西欧人)。
アラブ・トルコのイスラム圏では身分・階級が流動的であり、民族すら社会に参画する上に致命的な問題ではなかったのだ。
何よりも実利計算が先行する近代的な合理理念の社会という感じすらある。
いや、もちろん中世的残虐のエピソードの数々はこの物語を読むうえでの大きな愉悦でもあるのだが(^^;
トルコ軍に包囲されたキプロス島を死守するキリスト教徒との戦い中、敗れた砦の兵士なら即殺したのだが、騎士は殺さず生きたまま皮だけ剥ぎ、丸太に括り付けて海水に漬けてじわじわ殺し、他の砦への見せしめに供すすとか、何とか。
大局の史実より、そんなエピソードの方が遥かによく覚えていたりする。
たまたま昨日、ひかりテレビで「ブレーブ・ハート」(メル・ギブソン)を見たので、西欧近世の残虐刑の例もついでにサービスして併記しておく。
スコットランドの愛国者ウォーレスはイングランド王の支配からの独立戦を指揮したが、終に破れ捕えられ拷問の末処刑される。
拷問で処刑吏が言わせたいのはイングランド王への慈悲(メルシー)を乞わせることだ。
縛った身体を綱で人力・馬力で曳かせ身体の骨を折る。
しかし囚人は慈悲を乞わない。
次に寝かせて腹部を切り拓き、内臓を摘出していく。
その間、執行吏は「慈悲を乞うか?」と尋ねるわけだ。
しかし、どうしても口を開かない。
そして終にメル・ギブソンが何かを言いたそうにする。
処刑の手を止め、見物の会衆にも反逆者が王に屈服する様子が聞こえるようにする。
そして人々は処刑囚が最後に叫ぶのを聞くわけだ。
「Freedom!」と。
ここまで自分の信念を貫けるのはやはりキリスト教圏の信仰からの伝統だと思える。
再度言せてもらうが「小学生的潔癖感」というヤツだ。
イスラム圏文化の人であるならそこまでして囚人が苦痛に耐えることはないだろう。
海賊のガレー船で船底に鎖で繋がれ人間エンジンとなっているのが、拉致されても改宗しなかった西欧キリスト教圏の奴隷達。
一方、西欧の海軍ガレー船には奴隷は一切使わずすべて雇用された兵員だった。
現代では時として自爆も辞さない過激テロに走るのがイスラム圏で、そこまで宗教的狂信はなく、実利が一切を支配しているのが西欧キリスト教圏という対比になっている。
西欧とイスラム圏では中世と現代で精神がいつの間にか逆転したようだ。

〔読書控〕2014/04/24(木) 09:39

斉藤慶典「フッサール 起源への哲学」 講談社選書メチエ240 2002
「世界」とは何か?
ここではもちろん、国家の集合体全体のことではない。
物理的に「宇宙」の全体であり、時間的に「過去」「現在」「未来」のすべてであり、そのように考えている私も、あるいはまだ私が考えていないことのすべて、その私も含んだすべて。すなわちすべての存在と非在を含む一切という意味である。
「創像力」が「想像」できる一切のもの。
そして一切の想像力が終に想像できない、どうしても越えられない境界の外にあってそれを感知させるような気配。
そのような絶対的な起源に対峙する究極の哲学の場所に案内してくれるフッサールの解説書。
だが、自己の思念も併記し、時として批判も含む哲学書。
ではこの「一切」(これは私の「世界」の定義)とは何か?
その本質とは何か?
それは何処から来ているのか?
この世界を物理的にくっきりと定義された固形物と考える地点からは既に遠く離れてしまい、既成の概念をいくらいじくってももはやこの問いに答える術はない。
フッサールは既に現代の我々が少なからず良識であると疑っていない科学的世界観が「生の世界」を隠ぺいしてしまったという。
『ガリレオが地動説を唱え、数学で世界が説明できることを「発見」したのだが、この「発見」は同時に「数字の文字」で書かれていないものを「真理の王国」から追放することを意味した。
・・・ガリレオは首尾よく私たちの世界を「理念の衣」ですみずみまで覆い隠すことに成功したのである。すなわち、「隠ぺいの天才」である。』
斉藤は自の日本語でフッサールの「現象」を要領よく語っているのだが、しかし『それ』とか『<いま・ここで・現に>』とか、すでに既成の言語では明示しがたい地点に立ち入り、それでも言語化しようという苦闘がそのまま示されているかの様相を示している。
結局、言語で伝えられる以外の、あるいは以前の概念と言わざるを得ない事態と言う以外にない。
それでも、禅の公案や瞑想・直観という非言語手段に拠らず、あくまで言語化という手段で伝え語る以外にないと自分の立場を堅持するのが哲学者ということだろう。
本質的に詩人の私なら宗教的直観で十分というところだが。
斉藤によるフサールの解説をさらに私が解説することもない。
しかし、この既成の言語がうまく取り扱えない領域の観念を言語化しようとするとき、思いがけないパラドクサルな言語表現が飛び出す。
『「虚構としての現実・あるいは意味」
「記号」とは、原理的に何ものかが不在であることをもって、その不在である当のものが現前するという機構に他ならない。
全ては不在を孕んだ意味として現前する。
こうした存在と現象との比肩を可能にしたものこそ、自己同一なものの成立だったと言ってもよい。これを逆から言えば、いかなる自己同一的なものの成立もない単なる「存在」が想定可能であれば、そのとき、そしてそのときにのみ、現象には背後がある(現象しない何ものかがある)ことになろう。だが、それは想定不可能なのである。すべての自己同一的なもの(何ものか)を消失したとき、そこには文字通り何も残らないのである。「何も残らないこと」がなお残っている、と私たちはつい言いたくなる。しかし、それが「空虚な無」や「漆黒の闇」のようなものとしてとらえられているのであれば、いうまでもなくそれはすでにそのようなものとして現象してしまっている。「何も残らないこと」もまた有「意味」な表現である。すなわち、それは「何ものか」であらざるをえない。そしてそのとき、「空虚な無」の中で幻を見ている誰かが、「漆黒の闇」の中で目覚めている何者かが、「何もない」ことを理解している「私」が、いるのである。』
・・・思わず長い引用をしてしまったが、文学的存在論愛好者にはヨダレのでるようなおいしい文章ではないか。
おもわず文学してしまい、哲学的には破綻している部分かも。
かっこ付きではあるが「私」をこういう風に出してはいけないだろねぇ>斉藤君。
まあ、この後に「現象すること」は「現象するもの」と「現象を見てとるもの」を必然的に含むという文が続き、この「私」を補正しているのだが。
もちっと後:
『創造力という「不在における現前」の能力が根づくその場所においてはじめて、「私」という自己同一なものが自らに対して現象することが可能となったからである。・・この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである。』
とかソチラの方に伸びていく。
『「現象するもの」と「現象を見てとるもの」としての私はぴたりと重なる合うことのない或る「隔たり」が、或る「厚み」が挟まっているのであり、・・世界は完全に透明となることはない。世界には陰影(見えない部分)があるのである。そしてその陰影のいわば出所をなしているのが、私自身の内にあって私の自己同一性を構成しているあの「隔たり」、現象をみてとるもの」としての私と「現象するもの」としての私の間のあの「厚み」なのである。』
私ならここで「矛盾する、故我存り」と、テリトゥリアヌス‐デカルト‐埴谷雄高を一発でつなぐ文学的奇策を弄するところ。
ついでだから、著作権意匠登録を急いでやっておこう(^^;
矛盾する 故我存り SUM QUIA PARADOXIS hemiq 2014
「人考える、故に我あり」と宇宙が言う。(P.バレリー "tel quel")
私は大昔にフランス語でこのバレリーのアフォリズムを読み、以来今もこういう問いから逃れられない。
で、私が考えを止めた時、この宇宙は消滅するのか?
もちろん、答えはイエス・ノーの両義となってしまう。
主観的にはイエス、客観的にはノーというのが現代の相場でいう良識だろう。
斉藤はもう少し(どころか膨大な)用語の定義、厳密化経てこのような問いに答えようとする。
『「私」が消滅してしまったら(普通それは私が「死んでしまったら」と表現されるだろう)いったい世界はどうなるのか、と。』
どうですか? 回答、知りたいでしょう?
『・・・大省略・・・答えは明らかであろう。「私」は、この問いに対して何かをいうことができないのである。』
え? 膨大な定義、厳密化を経ても結局同じ地点にいるだけじゃないの?
と思うかも知れない。
実はそうなのだ。
フッサールは人生のすべてを費やしてただ考え、そしてすべての曖昧な概念を排除し、結局常に同じ疑問に立ち向かっているのである。
「私」とは何か?
「世界」とは何か? と。
本書のエピローグで斉藤は哲学とは何か、哲学者とは誰のことかを実に素朴に表明している。
『あえて言えば、この問いには答えがないこと、したがってそれは解体されねばならないこと、ただこのことを示すことにのみ、哲学者の一生は費やされたのである。・・・
一生かけて付き合って、しかもそれは答えのない問いだなんて、途方もない「無駄」ではないか。そんなものに付き合うエネルギーがあるのなら、もっと有益なことにそれを振り向けるべきではないのか。世界にはいくらえも、あなたのそうした有益な行いを必要としている人たちがいるのだ。
正論である。
だが、その正論が通じない一握りの人たちがいるのだ。通じるも通じないも、その無益な「問い」の方が彼/彼女を捕まえて放さないのである。その「問い」に否応なしに向き合うことえしか生きていけない人たちが本当に存在するのだ。ということは、この「問い」に向かい合うことの中から、彼ら/彼女らは生きる養分を得ているのである。』
更にこの途方もない「無駄」が「現象する」ことに本来的に孕まれている「余剰」と同じではないのか、とも言う。
『世界は現象することも、しないこともできたのではなかったか。・・・』
ほかならぬこの私という「無駄」を通して、かろうじて世界は現象しているのだ。
と、世界の、一切の果てにまで行きつき、そして結局又同じ問いと対峙しているのだ。
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振り返ってみるとどうしてこう急にフッサールづいてしまったのか自分でも不思議だが、まあ、2011年のフライブルグ滞在が契機になっているのは分かるのだが。
フッサールの超越論的自我がインド哲学のいうアーラヤ識と同じ概念であるということを着想し、以降その有効性を検証していきたい思いが持続している。
ハイデガーの存在論を禅という切り口で近接しようという発想をフライブルグの大島俶子氏より教唆されたこととどこかで相似形を形成しているのかもしれない。

〔読書控〕2014/05/09(金) 13:01

山本雅男「ヨーロッパ「近代」の終焉」 講談社現代新書 1992
歴史書のようなタイトルを掲げ、とりあえずヨーロッパ近代とはどういう時代だったかを先ず検証しているのだが、次第に現代の我々を取り巻くヨーロッパ「近代」という呪縛の本質に踏み込んでいく。
ヨーロッパ人を頂点としたヒエラルキー構造、「進化」という一方向のみの時間観、合理主義(数学化、記号化)という切れ味するどい刃の裏側、さらに民主主義という近代の妄想にまで快く洗い出してくれる。
え?これって私が現に考えている世界観の出発点と同じじゃないか?
と読んでいくうちに奇妙なデジャビューに陥ってしまう。
さてね、さては再読だったかな(^^; (←まだ確認しないで、このまま続ける。)
再読ということなら、そして、この書の初出は私の「最近」ではあり得ない昔なので、次のような感慨を抱く:
読書は実体験する日常雑事よりもっと強い体験と言える。
著者や書物自体は忘れていくのだが、その骨子は確実に私の中に流れ込み、今では私本来の世界観の源にもなってしまっている。
軽く言えば私はこの本に大きな影響を受けちゃっている、ということだ。
初読なら、ほぼ私と同世代の著者に20年も前にこのようなクリアな近代批判を著わしている先見に深い同意と敬意を抱かせていただく。
以下、20年も前に著者が言いきっているおいしいセリフを少々見せようか。
『ヨーロッパ「近代」の合理主義精神に特徴的なのは、世界了解の普遍性に対する確信があまりに強いために、個別・特殊性への配慮が抜け落ちていることだ。事柄同士の同一性にばかり注目し、それらの差異性について盲目となっているのである。いや、盲目となっているだけではない。むしろ、そうした差異の根拠となっている個別性を偶有的なもの、つまりたまたま偶然的に備わった特性として積極的に排除する思考法が厳として守られているのである。』
ここからは直接、本書の末尾の小学校式民主主義への批判に繋がっていくのだが、私 hemiq の箴言としては:
平均した普通の人なんて何処にもいない。ただ個々の個人がいるだけだ。(hemiq 2008)と共鳴する。
また近代科学は視覚だけを異常に重用してきたとし、『むしろわれわれ人間の知のあり方が視覚に偏ってきたことによって、いかに他の接触機会を多く失ってきたかがいまや反省されているのである。』と指摘する。
更には『五感を総合するような、それらとは別の、世界との接触方法を自己吟味する段階に来ているとも言える。・・そうであってもなお、それは人間のとらえた世界であって、その一部をとらえていることに変わりはないのである。』
百聞は一見にしかず、分かっちゃいないのに理解した気になるには hemiq 2014
とでもしとこう。
『近代人間中心主義は、世界の中心に人間をおくとともに、理性的精神の客観性を信頼し、その表現であった科学的方法を駆使して、ひたすら自然的世界の人間化をめざしてきた。自然の人間化とは、自然的世界を人間にとって有用なものに改造・征服することであった。近代の人びとにとって自然はまさに征服の対象として存在したのだ。』
ここらでデカルトが精神と肉体という近代的二元論を持ち込み、主観と客観の二元論的対立図式も確立させる、という話になる。
で、『近代的理性は、それまで精神にくわえられてきた環境世界のさまざまな重圧、すなわち社会の因襲や伝統、習慣といったものから自由になるために、それらをことごとく断ち切ったのだった。合理主義とは自由の代名詞であり、不合理とは束縛は従属を意味した。それは、絶えず未来にむかって過去を切り捨てていく、近代的理性の宿命にほかならない。・・合理主義精神と方法的思考は、実に密接な関係にあるのだ。』
で、ですね。デカルトさんの「方法序説」を現代語で置き換えると「マニュアル化」というんだとか。わはは。
『ようするに、精神とは、近代主義が考えたほど確実なものなどではなく、じつに不確実、いい加減なものなのである。不確実だからこそ、「方法」という確かなものが必要だったのだ。』
なるほど、そうかもな(^^;
デカルトの方法の第一条、「明晰判明なるものだけを真として受け入れること」
から真偽の二者択一が重要な近代的原理となり、結果現代世界の(イギリス・アメリカのことだが)二大政党という政策決定法につなげる。そして日本の特殊性である保守一党独裁をデカルトまでは還元できていない精神性に演繹させるという芸当も見せている。
この辺りでアリストテレス論理学の「AはAに他ならず」という自同律がでてくるのだが、ここで埴谷雄高の表現を引いているのは同世代だね、山本君。
あれれ、しかし引用に誤植が。
”自由律の不快”(p.217)じゃぶち壊しだよ。「自同律の不快」じゃやないとぉ!
『それが矛盾だとして不可能にしているのは、言葉と実在がわかちがたく一意対応していると考えるからだ。』と論理的ではない表現ができる言葉の可能性を言う。
これはラッセル・ホワイトヘッドが言葉を捨て記号論理学を提唱したのとは全く逆の発想になる。そういう意味では記号論理学こそ、「近代」のなれの果てというところだろう。
この流れで、コンピュータ的二値思考からはみ出していくような事象・思考としてハイゼンベルグの不確定性論・量子力学、やファアジー理論に触れているのが20年前の時流を感じさせる。
最後にやや社会・歴史学的な地点に立ち帰り「少数意見の尊重」が『多数者の意思が、仮想でありながらその真理性を自負するかぎり、尊重されるべき少数者の意見など考慮されるはずはないからだ』と「民主主義の嗤い」を嗤って論を閉じている。
著者が 『多数者が横暴をしないと考えるのは、理性にたいする楽観的な信頼の現れである。他方、少数者が決定された意思について反逆的な暴走をしないと考えることも、楽観にほかならない』(←テロのことだよ)と言うときの「楽観」は私の用語では:小学校式善意 hemiq 2012 とか常に言っているヤツのことと同様である。
以上、
さてそれでは以前の読書控をすこし参照しておこう。
やっぱり再読だった。2002年初読(^^;
この
12年前の書評の方が簡潔すっきり、私憤も入りきっちり私のスタイル。
忘れたり、衰えたり、ぐだぐだとすっかり老いましたよ。>10年前のhemiqへ。

〔読書控〕2014/05/13(火) 00:40

赤澤威(編著)「ネアンデルタール人の正体」 朝日新聞社 2005
私は心情的にはネアンデルタール人シンパなのだが、もちろん多分に勝手な思い入れのなせる業である。
何となく無口で不器用なので、口八丁で利に敏い現人類に隅に追いやられて絶滅した、というようなイメージを持っている。
どうやら生来の人間嫌いらしい私としてはどうして彼らに肩入れしてしまうのだ。
大脳は現人類よりも大きかったので、現代人のようにくだらない損得計算に使用しなかったとしたら、一体何を考えて悠久の時を過ごしていたのかと思う。
確かに現人類はシンボル・言語を開発し、猛スピードでここ3万年を駆け抜けてきたのだが、彼らネアンデルタール人は20万年もの間じっと同じ姿勢で夢想していただけなんだ、と私は思いたかった。
この本は「彼らの悩みに迫る」というようなサブ・タイトルの付いたシンポジュームの記録らしい。もっとも10年前の出版で、私にとってとりわけの新しい情報があるわけではない。
死者を埋葬したのは確実だが、花を手向けたかどうかは学説が確定していない。
確かに一万年近くクロマニョン人(現人類ヨーロッパ祖系)と同じ地域にすんでいたのだが、混血した形跡はないらしい。しかしクロマニョン人が殺戮し絶滅させたということでもない。
小論集の形になっているこの本で一番核心を突いていたのが澤口俊之の「脳の違いが意味すること」と題する章だった。
まず、澤口は脳の大きさは身体に比例していることに注意を喚起する。
現代人1300グラム、ネアンデルタール人1400グラムだが、象の脳は4500グラム、鯨9000グラム。
だから体重/脳重比が大事だという。
たしかにネアンデルタール人の方が身体はがっしりとして大柄だったのだ。
単純に脳が大きいからって現人類より多く「モノを考えていた」ことにはならんのか。
そして言語とか、まあ、高等な思考に欠かせない前頭葉部分、「コンピュータでいうところのオペレーティングシステムに相当する」と澤口はいうのだが、その大きさも脳蓋の形で特定できるらしい。
結局のところ、「ネアンデルタール人は相対脳重が現代人より小さい。前頭葉の相対的な体積も現代人よりは40パーセントも小さい。おそらく脳内操作系と脳間操作系がわれわれよりもかなり未発達だっただろう。」という。
うむ、私が抱いていた哲人風ネアンデルタールのイメージがここにして少々ブチこわされてしまった感がある。高等な抽象論議にふけるあまり、損得勘定に疎く遂に絶滅していった・・というワケにはゆかず、ただの愚鈍だった、というところが妥当な線か。
私は別に古生物学者ではないので誤った知識による思い入れを糧に生きていても別に世界にご迷惑をかける心配はない。
それどころか主観的にはこの世界は私の夢想からできていると思ってさえいる。
だから私個人の利にならないような知識は勝手に切り捨てても一向にかまわない、のだが。
人類が月に行き、ウサギはいなかったと確認するような、ロクでもない無意味な科学的ニュートラリズムが、現人類絶滅のシナリオを着々と準備してくれている。
澤口が「脳間操作系」という言い方をしたが、言語、翻ってコミュニケーションとは要するに「他人の脳を操作する技術である」とあられもないほど明確な定義を先にぶっていた。いや、そこで思わず唸ってしまったのだがね。

〔読書控〕2014/05/15(木) 15:38

松尾剛次「葬式仏教の誕生 中世の仏教革命」 平凡社新書 2011
「葬式仏教」とは現在の職業仏教僧、仏教法人への揶揄である。
元来、釈迦は祖先の供養というようなことは説かなかった。
また親鸞も「閉眼せば、賀茂川にいれて魚にあたうべし」といい、父母を供養することを否定していた。
親鸞のひ孫覚如は「改邪抄」を著述し、「親鸞の弟子たるもの、葬儀を一大事とすべきにあらず」と説いた。
これは既に親鸞の門弟の中にも葬式を本領とするような邪義を立てるものがいたことを証していもする。
鎌倉時代までは庶民の死体は川に流し、捨てて野ざらしにすることが多かった。
日本のような高温多湿地域で家の中で死体を保管するのは現実的ではないので、神道がそうであるように、一切の穢れを嫌う風土になっていたと考えていいだろう。
イスラムが豚食をタブーとするのも、布教当時の衛生状況を反映しているのと呼応する。
法然以前の仏僧は国家公務員であり、天皇機構の祭儀執行職員であるからには身の穢れを避けなければならなかった。
仏僧が「死穢」に関わることはなかったのである。
しかし、死者を悼み弔う感情はネアンデルタール人でも持っていた。
庶民であっても肉親の死に際して何等かの葬祭を行いたいという希求があり、次第に遁世僧(私営仏僧)が葬送に従事するようになっていく。
それまでも往生した高僧に穢れはない、というような現実的な解釈を行い、公の仏僧が葬儀を執り行っても死穢のタブーに抵触しないというような便法はあった。
「専修念仏」をいう法然が出、庶民でもただ念仏すれば往生できると説く。
「往生人に穢れなし」ということなら、念仏者が往生すれば死穢を免れることになる。
庶民であっても念仏者であれば死穢をまぬかれ、葬儀もとり行える状況になったのだ。
現在では葬式仏教とそしられるほど目に余る仏僧の葬式業者化ではあるが、筆者は鎌倉時代では勇気ある仏教者の努力が遂に仏僧が葬儀を執り行うことを可能にした経緯を明らかにする。
また、石墓の建造が五六億七千万年後の弥勒による救済を待つという弥勒信仰がもたらしたものであることを説く。
親鸞が妻帯と言うタブーを破り、僧職を世襲できた浄土真宗の僧が信者との家族的な結びつきを強固にし、急速に檀家制度を確立していったと著者は言う。
現在教義上から最も葬儀が簡素で済むのは浄土真宗と思えるのだが、その浄土真宗の普及が葬儀の一般化、ひいては現在の形骸仏事に繋がる要因だとはね。
江戸時代には徳川政府の切支丹禁制政策から檀家制度が義務化され、戸籍はすべて寺院の管理化に置かれた。
そしてすべての庶民が葬儀を執り行う、あるいは執り行える、あるいは執り行わざるを得ないハメになっていく。
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連れあいの逝去にともない、葬式がどうのこうの、墓がどうのこうの、という義母の繰り言に悩まされたのだが、本人も、周辺の我々も葬儀や念仏の意義、墓の意味するものが何なのかまったく知らないのだ。
親族の法事に参集するのは社会生活上義務化されてしまっているが、仏事をとり行う僧は会衆に経を解説することもなく、供養の意味を説くこともない。
しかし、本来的にそれは出来ないものだ。
仏教の教義に葬儀や先祖崇拝は全く含まれていないのである。
仏僧が読む経と「死者の供養」とは全く何の関係もない。
僧が先祖の供養を説くのは信仰上の矛盾である。
故、僧は葬礼仏事でただ意味もなく経を読む。
僧も会衆もその信仰の本来の意味も解らず、ただそのように執行されねばならないという社会圧に縛られ法事を続けている。
義母の故郷の滋賀県では未だに50回忌法要も行っているらしい。
「何で何十回忌もやるの?」
「さあ。お寺がゆうてくるから。」
正に葬式仏教である。
葬儀や祖霊崇拝に関わる仏事を執り行うことの意味を問うことは立派な現在のタブーになってしまっている。
お釈迦さんも法然さんも親鸞さんも魂の救済を念じ、宗教的な情熱でタブーを破り時代の改革を行った。
その理念が形骸化され、自分たちの努力の結果そのものが再び打ち破らねばならないタブー化させてしまっている現在の不肖の弟子達を恥ているのではないか。
いや自分たちが行った改革を悔やんでいるのかも。
相手が日本人なので、専修念仏・他力本願と簡単な方便をおこなっちゃったが、チト甘かった。
もうすこし自分の頭で考えねばならない知的な修練が必要な教義にしとくべきだったよ。
これが因果応報というもんかいなぁ、とかね。

〔読書控〕2014/05/20(火) 14:38

森炎「死刑と正義」 講談社現代新書 2012
元裁判官現弁護士である著者が裁判員制度施行後改めて日本の死刑制度を考察する書。
死刑制度に関する主として西欧古今の哲学・社会思想・法学等の広範な文献を駆使し、可能な限り異なった考え方を紹介している。
例えばルソー「社会契約論」からは個人は死刑を含む法体系を備えた社会に生きることを契約しているのであり、違反事項があれば死刑が契約により発効するとし、ドストエフスキーは死刑囚とすることは(殺人よりも)人間に対する最も恐るべき犯罪であるという。
このほかアリストテレスからデリダやブレナン(アメリカ連邦判事)に至る豊富な引用があり、死刑に対するあらゆる立場の考え方が網羅されているような説得力を持つ。
実際の判例の引用も豊富で、著者の分類する死刑空間(死刑に至る法的判断のパターン)例に沿って詳しい殺人例とその判決が参照できる。
例えば死刑空間1は金銭的・性的な目的を達するための粗暴な暴力としての殺人、死刑空間2は反社会的性向から発する無差別殺人等となっている。
そのような雑多で多様な殺人者に対する死刑の意味合いを仔細に分類し分析して論考する。
著者が先ず強調するのは無期懲役と死刑の間には実際上の「終身刑」が日本には存在するということだ。
人を殺した者は終身刑で完全に社会と隔離すればその害を他に及ぼすことはもうない。
死刑を課さない州もある合衆国では終身刑囚が3000人も収容している刑務所があり、読書やスポーツ、通信教育での通学が可能で、それはそれで別の社会生活という形になっている。つまり殺人者であっても一般市民社会への参加を除いた基本的人権が認められている。
永遠に市民社会との隔離を保証する終身刑で実際は十分なのに、裁判員制度で死刑が選択される場合が多いことは、裁判所側の裁判員に対する法刑制を十分説明できていないのではないかとの警告がある。
『いや、単に(説明しない職業裁判官に)責任があるというだけではない。それは犯罪的であるとさえ言える。市民を欺いて死刑判決に加担させたことになるのだから。』
実際に恩赦や仮出獄があり得る無期懲役では不十分であるとすると死刑しか選択肢がなくなると多くの裁判員は考えているのではないだろうか。
裁判員制度以前の裁判では殆どが機械的に被害者の数で死刑判断の定量化を行っていた。これに対する批判もあり、裁判員制度が施行されたのだ。
そして「一般市民感情」が導入されたことにより確実に死刑判決が増えている。
裁判員裁判で死刑とされ、控訴審で無期に減刑される事例も出つつある。
問題は殺人者が生きているという事態が社会のモラルのバランスを損ねると感じるかどうかということになる。
死刑によって市民社会の価値が回復するのか。
殺人という暴力は死刑という暴力で回復するか。
尊属殺人や特定の人間関係という閉じた空間での殺人は一般的な他人の社会感覚を害するわけではなく死刑を課する意味はない。廃止されたが、旧刑法上で尊属殺人がより重く裁定されていたことは法学的にはまったく無意味、非論理である。
『ところが、裁判員裁判では、親族間殺人についてもすでに死刑判決が出された。2010年宮崎で・・』
無差別殺人者のケースワークでは、そのような極端な行為に走る前提としての社会の側の責任を考えるとき、殺人者を死刑にしただけですべてが解決としていいのか、と説く。
ここまでの引用ではいかにも死刑反対論者のようだが、著者の立場はもっと微妙であくまで透徹している印象がある。
『ここでの分かれ目は、暴力なき正義を選ぶか、力なき正義は正義ではない、と果敢に推断するかにある。正義の目的のために暴力を用いることを自明とみなすかどうかである。その先は、私がいうべきことではない。
ただ言えることは・・死刑の決断をするには、いくつかのハードルをこえなければならないということである。それは、いくつもの苦しい価値判断を得た末におこなわれる最終決断でなければならない。』
著者は死刑反対論者でも賛成論者でもない。
ただ現行日本刑法では死刑が課せられ、そして裁判員という一市民がそれを決定しているという現実がある。
著者も私と共に裁判員裁判という安直な責任回避は法の側の怠慢であるという感覚を共有していると見る。
『われわれは決断することができるだけである。が、ただ決断するだけではなく、決断し切ることはできる。状況を直視し、ぎりぎりのところまで曖昧さを排除して覚醒して決断することにより、いわば、決断を決断し切ることはできる。本書が目的としたのは、そのための条件を整えることである。』
裁く側の一般市民の立場は克明に論じられていると言える。
しかし裁かれる側の市民感情が考察されることはない。

〔読書控〕2014/05/22(木) 16:50

米山公啓「高齢者うつ病 ― 定年後に潜む落とし穴」 ちくま新書 2013
高齢者うつ病同好相憐会の私としては見過ごせないタイトルだが、内容はいたって医師的に正直でありすぎ、カスみたいな読後感になってしまった。
大学病院等の総合病院では得てしてトロい高齢者の症例をじっくり扱える環境になく、親身に話を聞ける開業医が必要、とかの大病院批判もあるのだが、もう一歩の踏み込みはない。
年齢による身体機能の低下、認知能力の低下、仕事の喪失、経済力の低下、独居等がうつ病を促進する。
はい、そうでしょう。
心筋梗塞やパーキンソン病、薬剤の副作用等うつを併発する可能性がある。
はいはい。
認知症とうつ病は鑑別が難しい。
さようで。
高齢者には的確なうつ病治療はを受けることは難しい。
でしょうね。
真面目な医師だが、新書版の本を書くとすればもう少しインパクトのある論考が欲しいところ。
というか、あまりに一般化されすぎて、私個人のうつ症状とは別に何らの関係もない方向に逸れて行ったような印象。

〔読書控〕2014/05/29(木) 15:35

安田理深「唯識論講義(上)」本多弘之編 春秋社 2012
これは書評ではない。
というか、まだ通読半ばで、下巻にも目を通せていないのだが、もう返却期限切れである。
図書館の蔵書だが延長も、出向いての再借入もできないことになっている。
存在論という地平で、昨年あたりよりフッサールの現象学の方法とインド哲学・仏教にいうアラヤ識(阿頼耶識)の概念との類似性が気になっていた。
フッサールについては参考書はふんだんにあり、実際には絶対そこまでやることはないだろうが、何なら原著でも読もうと思えばできるのだ。
しかし、阿頼耶識という発想を詳しく知りたいと思っても、現象学ほど手軽にはいかない。
図書館や本屋にある仏教書の大半は倫理や人生論、悪くすれば仏教とは何の関係もない葬祭マニュアルの類ばかり。
寺院に行って仏僧にインド哲学の世界観を聞くというような気はまったくならないような現在のお寺さんの現状もある。
考えてみれば生活圏に寺院が乱立し、仏事が日常に溢れているにも関わらずフッサールのドイツ語の方が遥かにアクセスしやすい、という状況は全くおかしい。
オウムがあれほどの狂信的な信徒を得たという時代もあったにも関わらずだ。
勿論、仏教哲学の専門書なら阿頼耶識を中心概念とした世界観を説くものもあるのだろう。
ドイツ語より難解で、まったく理解されることを拒否した古色蒼然とした日本語で書かれている書物ならあるのだが、私のような門外漢にはというてい理解不能である。
---
うんざりするような通俗的タイトルの中、かろうじて私に法を説いてくれそうな書物を大手の書店で見つけた。
安田理深「唯識論講義 上下」。
30年前に没している学僧が世親「唯識二十論・唯識三十頌」を解説する講義碌だが、アウグスチヌスやカント、ハイデガーやフッサール等の引用もあり、私にも理解できそうな日本語で書かれている。
なによりもチラ読みしたところ、私が捕わっている存在論の根底部分辺りにむずむずする反応がある。
しかし、2巻あわせて12000円也。
講義という性格上、手元に置いてじっくり検証したいのだが、とてもじゃないがそれだけの投資をがサッサとできるほど私は自分を信用していない。
Perlのラクダ本もハイデガー「Sein und Zeit」も勉強しようとしてx万円出して買った本は読む切った試しがない。
先ずは図書館で閲覧してからだね。
しかし、貸出票のある地元の図書館で検索しても蔵書していない。
それどころか奈良県下の公共図書館のネットワークでもヒットしなかった。
試しに昔通っていた大阪府立中央図書館の蔵書を検索したら蔵書していた。
しかし、もう私は大阪府民でもなく勤務先もない。
そこで地元図書館に問い合わせる。
県外図書館蔵書でも取り寄せて貸出できるとのこと。
という経緯で奈良県立図書情報館を通じて取り寄せてもらったわけだ。
しかし、館内蔵書ではなく制限事項がある。
1)図書館館の送料は貸出者が支払う。実際の金額は実際に送付されてくるまで解らない。
2)貸出期限は、送付に要する日数や実際に借り出す日付にはかかわらず相手図書館の規定による。また貸出延長はできない。
ま、しかたがないでしょう。
この間大阪府図や県図との曝書期間もからみ、条件確認で数回各図書館に連絡を取った。
最終的に県図に出頭し、もちろん上下2巻なんてとうてい貸出期限中に読了できるとは思えないので上巻だけの県外図書館蔵書の手配申込みをした。
1週間ほどして送料1391円を切手で用意し、引き取りに来いというメール連絡。
送料高いじゃないか。それにしてもどうして切手で?
と思いつつ引き取りにいった。
私が申し込んだ府図の蔵書ではなく、福井県立図書館の蔵書印だった。
それはないでしょう。
私は窓口で大阪府図に蔵書があることを確認してもらってから申し込んだのだ。
どこの県の蔵書でもいいと言った覚えはない。
また、各図書館によって貸出期間が違うハズで、私は大阪府図に電話し曝書中の貸出期間について確認した。
もし貸出可能図書館が北海道や九州だとして、更に曝書や休館日の関係で送料はかかるし、すぐに返却しなければならないような蔵書なら一体、県外図書館からの貸出斡旋とはどういう意図の公共サービスになるのか。
もしかしたら、大阪府図が貸し出し中で「親切にも」他県の蔵書を検索し手続きしてくれた、ということなのかもしれない。
しかし、それが「善意」というようなものなら要らぬ親切余計なお世話だい。
そういうわけで結局1391円で1週間強の貸出期間。
ながい前書きだが、それしか今は書けない。
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果たしてこの本が本当に私に読まれたいのかどうかを検討しようと、上巻を急ぎ走り読みすることになる。
ソクラテスの「無知の知」の釈、ハイデガーの時間の問題、デカルトの方法、ノエマ・ノエシスというような哲学概念を用い唯識学の用語をわかりやすく注釈してるようだ。
当方としては、多彩な西欧哲学への言及のおかげで唯識概念の位置が目測でき、深みにかろうじて足先が地面に触れているような安心感につながっている。
どうやら方向としては唯識論で間違いはない。
西欧哲学の論考のように、論理を積み重ねていくような説法ではなく、言葉の定義を別の用語で置き換えているだけという感もあるのだが、これは私に仏教学の知識が皆無ゆえなのかもしれない。
菩提や般若というような言葉自体は翻訳し解説されるものではなく、サンスクリット当初から連綿と響く音声=言葉=意味統合体であるようだ。
しかしながら、もちろん
『「二取」今日の言葉で言えば主観と客観です。主観と客観というものは有るものではない。・・・』
というように講じていただければ安心するというものだ。
この安田師のような学識目線もあったというのに、どうして日本の仏教者が私のようなど素人の悩める求道者に対し語る言葉を持とうとしないのか?とこの辺りでも毒づきたくもなる。
講義碌という性格上口調の流れが論旨を補い、論理的筋道よりも話の流れの勢いが論を進めているという感もある。
私は決して西欧的推論法しか受け付けないような小学生ではない。
言葉の流れに本当らしい響きが感知できればそれで別にいいわけだ。
『私たちが護法の説というものを考えるのは、やはり唯識という主張が、思想的に興味を引くからなのです。・・・世親や瑜伽派の取った「意識」の問題です。「意識」という問題に立って、存在や価値をあきらかにしたことは否定できない事実です。』
『だから主観/客観ではない。主観/客観は言葉ですから、それ自身は立てたものです。・・そのように考えてしまって、私たちは「唯識というのは主観のことなのか」というように「識」を主観と考える癖がついている。「識」というものは主観ではありません。
・・
「能取(ノエシス)」「所取(ノエマ)」という構造を持ったものが「識」なのではないでしょうか。
・・主観/客観という認識論の範疇で唯識を考えるのは間違いです。 認識があるから意識が成り立つのではない。意識というものを前提として認識が成り立つのです。』
『「空」ということは、存在が「空」であるという意味ではありません。存在の固執が「空」だというのです。』
私の問題意識と唯識論が重なるものなのか、論を細かく検証していく余裕はないのだが、安田理深の口調からは、この講義を成している問題意識は私のものと確かに共有するところがあるいう確信は得た。
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また、存在論とは別の次元だが、阿頼耶識というような根源的存在論を創出、というか発見というか、まあ悟った仏たるものが、またどうして現生における利益(りやく)を実践せねばならないのか、または実践することが覚醒することなのか、哲学と宗教のこの関わり具合が私にはもひとつ腑に落ちない。
ニーチェ版ゾロアスターが一人覚醒しても物憂く、山を下りて人に説に行く下りを思い出してしまう。
何故だい?竹林の七賢のように世に煩わされず独り宇宙と対話してればいいじゃないか?と。
もちろん、これは科学としての哲学というような私の認識のなせる業と言うしかないのかもしれない。
科学は論理を積み重ね仮説を検証し真理とて定義するわけだが、そんなものをいくら重ねてもどこにも到達せず無限ループに陥るだけだろうがね。
モノを分子に分解し、原子を想定し、原子核から素粒子、ニュートリノと細かく厳密にしていく毎に真実が遠のいていく。最終的にモノじゃなくて確率だ、波だとか。
つまり真実というのは科学上の仮説、便宜であって、「存在」を見ようとするときには何の関係もない尺度のようだ。
論理をいくら積み上げても私はどこにも到達しないのだろう。
止観ということか。
---
とうとう返却日になってしまった。
書評として書くことはないが、水面下でこの方向をもう少し探索してみたい。

〔読書控〕2014/05/30(金) 13:33

桂紹隆(編)「唯識と瑜伽行」 シリーズ大乗仏教(7) 春秋社 2012
比較的新しい唯識論の参考書として目を通す。
このシリーズは仏教学上の小論集で唯識論そのものを説いているわけではない。
私には全く無縁な学門範囲で、もちろん書評ができるような代物ではない。
しかし、まったく無縁なのでサンスクリットや中国での唯識論の歴史、修行僧としての瑜伽師の求道の方法、何もかもが情報として新鮮、チラ読み程度の内容捕捉しかできないのだが、最後まで読ませていただきました。
先ず、前回の安田理深「唯識論講座」で孕んでしまった疑問、覚醒し真理を得仏となったのに、どうして衆上利益を念じ下山する必要があるのか、というヤツ。
一切の存在は単に阿頼耶識に生じる現象に過ぎないというのに、大乗の精神はどうして現世、人の世に返ろうとするのか。そのような利益を念じることが仏への道とは矛盾に満ちたシステムではないか?
このような論理的矛盾は仏教的には矛盾してはいないのか。
実はそこが大乗なのだ。
『菩薩は、自分の仏性を成熟させるために、また他の人々の三乗の教法を成熟させるために、正しく実践する者となる。最高の真実を知る物となるためにこそ、大乗を学ぶのであり、将来、自分が般涅槃するためではない。』
『輪廻を恐れず、涅槃を求めることもなく、自他の仏法の成熟に努めるという菩薩観は、明らかに他者の救済を念頭に置いた大乗仏教的なものと言える。』高橋晃一「初期瑜伽行派の思想」〉
『「一切法唯識」に心が定まったのちには、その心さえ捨てて、無心状態になると転依が起こり、仏になる。・・「唯識のみが存在する」と主張しながら、その主張さえも捨て去ることを修行道の目的としたところに、彼らの思想の真骨頂があると言える。』(桂紹隆)
「転依」って矛盾じゃなくて、実は Aufheben なのだとか?
唯識に先立つ中観(竜樹系)では一切空を徹底し、釈迦の法・あるいは真と悟ること空と観ずるに至るわけだが、法が空であるのならどうして伝えることや、伝える必要があるのか。
あるいは伝える者は未だわかっちゃいないので自問し説くことで深化しようとしているのか。
涅槃に至り不動になった仏が何故その気配を現世に伝える必要があるのか?
一切皆空という法には根源的な矛盾がある。
絶えざる自己否定を無限に繰り返し尚且つ存在し続ける無。
埴谷雄高が未完の「死霊」の最終の場面に想定していた、釈迦が洞窟の中の大雄(ジャイナ教始祖)を訪ねるイメージが想起される。
ジャイナ教は完全な無殺生主義を説き、動植物を食べることも、呼吸し空中に浮遊する微生物を殺すこともしない。
このため弟子はすべて死滅してしまうのだが、ただ大雄だけは洞窟で食わず呼吸もせずただ存在しているのである。
埴谷はカラマーゾフの大審問官の前に現れるキリストの場面のイメージも重ねているのだが、論理ではない相へと向かう根源的な救いの方向を暗示させる。
矛盾とは私という表層の虚妄に属する識が発しているだけで、正しい観によりこれをAufheben出来ればこの三界から一歩離脱できていく、のかな(^^;
この論集の著者達は、ハンブルグ大やトロント大で学位を取得しているような新進気鋭というような世代で仏教学という「抹香くさい」イメージからは程遠い。
もとより、瑜伽行唯識思想の研究にはハンブルグ大のランベルト・シュミットハウゼン教授の業績が聳え立っているのだそうである。
なかにはルーマニア生まれでそのハンブルグ大のDr.Ph.で、しかも私にも難しいような日本語を駆使して論をものする得体のしれない1959年産もいて瞠目してしまう。
『従来、仏教学者の間では、観念論的な解釈を採る傾向が顕著であったが、最近では、瑜伽行唯識派の思想は、むしろ近現代哲学の現象学の立場に近いとする研究者が増えている。・・・私自身は、従来の解釈がより妥当と考え、それに沿った形で考察を進めることとする。」(デレアヌ フロリン「瑜伽行の実践」)
え?それって業界では常識的な発想で、決して私の先見ではないのか。
・・がっくり(^^;
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これはこの本とはまったく関係がないが、偶然インターネット上で発信されている論にもこの辺りに関する興味深い論考が収集できた。
失礼ながらこの欄で併記しておく。
菅野盾樹(阪大名誉教授 記号論理学・哲学)氏のブログ(現在思想のために)である。
記号系の再帰的構成としての阿頼耶識
フーコー・ブッダ・グッドマン (9) 2010
http://d.hatena.ne.jp/namdoog/20100521
『やや寄り道になるが、是非とも指摘しておきたい点がある。こうした言説にふれた人は、
20世紀の現象学派の学説を想いだすのではないだろうか。よく知られているように、フッサールは意識の他の存在者にない特徴を<あるものについての意識>という構造に見出して、これを「志向性」と呼んだ。さらにこの志向性を記述するために、ノエシス/ノエマという対概念を導入した。・・・』
とすると、何も仏教学者ではなくともきっちりフッサールを学んだ方なら阿頼耶識から現象学を想起するのは当然というものらしいのかい?
・・・ま、いいや。
哲学とも仏教とも学とは全く無縁な場所で現象学-阿頼耶識の類似性に着目しちゃった私の目の確かさを誇りつつ、その縁というものでもうしばらく唯識論に付き合わせていただこうか。

〔読書控〕2014/06/17(火) 14:01

竹村牧男「唯識の研究」1992 春秋社
最初に、この書も読了していないのだが、とのエクスキューズから始めたい。
「『唯識三十頌』を読む」と副題された世親の経本の解説と研究書。
「阿頼耶識について」の章まで素読したが、それ以上進んでも私には無意味なのでここで投了とさせていただく。
『実は阿頼耶識も阿頼耶識自身の種子から生じるのであり、かつ業種子はこれに対し縁となる。阿頼耶識自身の種子は無記であり、自ら生起する勢力をもたない。これを現行せしめるのが縁となる業種子である。こうして、異熟果としての阿頼耶識がある。これを真異熟と呼び、この異熟果から生じる第六意識等における業果を、異熟生と呼んで区別する。』
当初は漢字の像喚起力に助けられ、厳密な論理構造まで捕捉出来なくともうっすりとおぼろ気なイメージを描いて進んでいけば次第に通ずるものと、しばらく付き合わせていただいた。
しかし目の前のテキストを閉じ、実際にこの書評の素材を収集するため自分の言葉で記そうとしても何も想起できていない。やはりそれではイカンだろ。
『唯識三十頌』の解説としての性格上、解説が経から演繹的に意味に降りてくる構造になるのだが、核としての唯識思想自体が私には具体的に見えていないので、すべてはおぼろ気なまま、言葉による言葉の再定義として無為に連なっていくだけになる。
以前目を通した安田理深「唯識論講義」の方なら説法の具体的な口調の勢いが具体的な意味の形成を支えてくれるような部分があり、読み進むエンジンになったのだか。
ということで本文の素読はこの辺りでカット、単なる自分のための記録として書名を記しておくのみだが、巻頭の「唯識とは何か」と題する概論に注目すべき視点があった。
「古代人の世界観がその時代特有のパラダイムであったのと同程度に、物の本体は数理的に分析計算できる何ものかであるとのわれわれが疑いを容れない一つの考えも時代特有の相対的なものであるのにちがいない。」
とし、デカルトから出発した客観視という西欧哲学の流れの中からも実在の本質を鋭く思索した系統を紹介している。
それね、フッサールさんの仏頂面がでてくるぞ、と例によって当方はニヤリとするのだが、ソチラにはいかずイギリス経験論に流れていく。
ロックは我々が認識する感覚は主観の側で、客観その物の姿ではないと(神によって保障された)絶対の実在を否定する。
バークリィは「有るとは、知覚されることである」と喝破し、すべてを主観の恣意と言い切る。
そしてヒュームの思想をやや詳しく紹介し、『私は、このヒュームの哲学は唯識と非常に共通した点があると思う。』としている。
『結局、ヒュームは、この現象世界の実質を担うものを複数の知覚の集合の相続のみに求め、客観であれ主観であれ、実体の存在は微塵も認めない立場に立ったのである。
我々が自己同一的な一定不変・不断の存在を考えてしまうのは想像力のなせるわざとする。』
このような徹底した懐疑論がカントにも波及し、大きな近代の存在論の端緒を切った。
著者によればデカルトが近代西洋思想の枠組みを設定するのだが、ほどなくして主−客二元論への疑念やその超克が常に説かれてきたことが見られるという。
つまり、客観的・合理的真実というものが主観の外側に存在しているなんて、すこしでも考えればたやすく破綻するようなあやうい仮説であったわけだ。
私も今は20世紀のいわゆる物質文明・科学主義的世界観が単なる時代固有のパラダイムにすぎないことを遅ればせながら実感しているところだ。
近代合理主義に始まる科学的世界観は、異様に時代にアタってしまい、それしかないという風潮しか我々には見えていなかっただけなのだろう。
古代から人はもっと自由な実在を考え、常に存在の本質を見ようとしていたのだ。
なんで西欧クリスチャニズム・合理主義というのが異常にアタっちゃたのかねえ?
古代インドでは既に目に見える世界からはるかに遠く実在の本質を探求していたのである。
もしかして、人は自由に生きられさえすれば本来的には誰もがスゴい哲学者であるのかも。
今私は時代の虚妄性にやっと気づき、近代のパラダイムから逃れ自由な古代人の思索の足元にほんの少しだけ近接したか、というところか。
近代がうっすらと考え始めた存在論哲学を、既に3千年近く前の人々が精緻なシステム化していたその膨大な経説を前に、改めて「人類の進化」という直線的なイメージの薄っぺらさを思わざるを得ない。
最近の私の用語で言えば、民主主義とか何とかで学校教育制度を作ってしまったので、通常ならオトナになるハズなのに、がんじがらめに皆小学生レベルに教育され切ってしまった、というところ。

〔読書控〕2014/06/26(木) 12:28

池田清彦「オスは生きているムダなのか」角川選書 2010
あ、やっぱりそうだったのか!と思わず手に取ってしまうタイトルの完勝。
中身もタイトルのノリが持続し、そのまますらすらと読まされてしまう軽い文体で、生物達の種保存システムの奇想天外な実態が紹介されている。
いつだって性に関する話は興味深いのだが、社会的なジェンダー問題、性差別、フェミニズム等々にはまったく抵触しないあっけらかんとした生物学上の性がテーマ。
といっても読者はヨソの生物サマのセックス事情をたまたま人間サマである我が身に引き比べて読んでしまうのは致し方がない。
オスは生きているムダなのか、とくれば思わず自分のことか、と受け取ってしまうことだろう。
私なんぞは自分が生きているムダであることを真剣に考え過ぎ、とうとう存在論哲学やあらずもがなの宗教にまで突っ走ってしまうのだが、生物学的に言うと別に自分の異様さに悩むことはない。異様性にこそ私の存在価値はある。
ただ、あっけらかんと私はムダだったんだと、納得すればそれでいい。
私は人類の多様性を担保する試みのひとつだったのだが、多くの試行試作品と同様、活用されるべき状況には一向に遭遇しないまま私の役目は終わっちゃってしまっただけだ。
台湾ザルと日本ザルが交配して、遺伝子汚染であると問題になったそうだ。
池田は『それは人間の勝手な理屈で、サルにとってみれば遺伝的多様性を増した方が手の存続のためにはいいはずなのだ。』とする。
そうだよね。
あふれる正義感で地球を救わねばとか、どうしてほっとけないのかねぇ。
「自然環境を守れ」とかいう標語はたいてい、良く見ると「自分に都合のいい自然環境を守れ」というモロエゴむき出しの主張であることが多い。
もちろん人間の生存に都合のいい生活環境を整えるのは種の活動としては当然なんだが、人間がイヤらしいのは「これは自分のためではなく、地球のためである」という論理のすり替えをヌケヌケとやってしまい、小学校式正義感を容赦なく発動してしまうところにある。
と、この辺りまで書いていて、次第に池田清彦という名前を思い出してくる。
前回も書いている内に思い出していた。>
池田清彦「進化論を書き換える」2011
独自の論を唱え、ちょいとアカデミズム側からは批判もあるようだが、私にはこの人の自分の言葉で語っている口調を信頼する。
だって面白いじゃないか。
客観的真実なんてのをすぐ想定してしまうのが近・現代の病というものだ。
要するに自分が信頼できると思えればそれが自分の真実で、別に君のとすり合わせよう、アワよくば平均して妥当なところで手を打って多数決で、と小学校の学級会式に真実を決める必要なんてない。
面白くなきゃ真実じゃない hemiq 2014
『動物はそういう意味ではすさまじい。個体の命は重要ではないのだ。命は地球よりも重いなどとバカなことを言っているのは人間だけだ。動物はもっと合理的にできていて、不要になった個体はすみやかに死ぬようにできいる。
生物の起源から考えると、むしろ「死なない」ことが普通なのだ。』
『2n(倍数染色体)の細胞が「死ぬ」のは「能力」なのだ。何か特殊なことをすることによって「死」を発明した。それにより細胞の選択の幅、能力を飛躍的に伸ばすことができた。』
性と死は二個一。死ぬ能力があるから我々は生きている。
植物の細胞は理論的には不死なのだが、いつまでたっても死ねないのもしんどいと思うよ。
『メスは子どもをつくるのにオスはいらない。いざとなったら単為生殖で子どもをつくればいい。オスとメスが分化すると、当然メスは重要だが、オスは余剰で無駄といえる。無駄なやは何をしてもいい、いつ死んでもいいのだ。
オスは生きている無駄だと私は思う。』
死ねるということで、生物的な外枠を規定されている個体が少しだけ規定の生き方から自由に逸脱できてしまう可能性が逆説的に見えてくる。
また、オスは無駄なので、だからこそ自由に生きて死ねるのだとも。
本来的にはオスは種多様性を保証するためだけの存在だ。
だから好き勝手に生き、ダメになったらさっさと死ぬのが本来の話。
そういう意味で、生殖細胞由来のメスが本能的に生き続けたいと思うのは自然だが、人間のオジンが「できるだけ長生きしたい」なんていうのは種の論理の大変な逸脱だよな。
それが人間という種の特異性だろうが、私はこういうことを指して進化したとはいわせない。せいぜいガラセー(ガラパゴス化した生物)くらいか。
フェミニスト的には女性性は社会の抑圧が作ったものだ、と言いそうだが、生物学的には男性は胎内で既にホルモンの作用によって男性性が付与されて生まれついてしまっている。ホルモンが作用しなれば胎児は女性。
教育や社会圧が女性性を強制する側面もなくはないと思うが、男性性は生まれる前から付与されているのだ。
男女の平等、ひいては人は皆平等という理念は「法的に区別をしない」ということであって、すべてが平等ということではないのは自明だ。
平等なのは権利と義務だけであり、その他すべての能力・感覚は夫々違っている、絶対に皆一緒なんかじゃないからね、と是非小学校で教えてほしい。
『男の人は能力的にバラつきが大きい。すごく優秀な男から、できない男までいて、偏差が大きい。女の人はどちらかというとコンパクトにまとまっていて平均的である。どの能力でも大体そういう傾向にある。』
男に出来損ないが多いのは生物学的には当然なんだが、「人は皆平等」と小学校で教えるので悩んでしまうのだ。
最近、こういう風につい「小学校」を当てつけに多用してしまうのがクセになった(^^; あまり面白くないな。反省。
楽しく読んでいたのだが、最後に少し異見を述べておく。
人類の脳の大きさの進化というようなトピックが最後の方にある。
ここでも現人類の脳よりネアンデルタール人のものの方が大きいことに触れ『大きい脳で何をしていたのか、不思議である。』
『脳容量は知能とは直接関係がないのであろう。』とある。
いや、単純に脳の大きさを比較するんではなく、脳の対身体比が問題なんですね。
人間のネオテニー(幼形成熟)が脳の大きさや知能の高さに由来したのは定説としているのだが、この直後に無毛を脳増大、あるいは言語習得能力のバイプロダクト(副産物)だろう、という記述もある。
これはソチラよりもネオテニーの直接の証拠と考えるのが妥当でしょう。

〔読書控〕2014/07/18(金) 08:34

ルイ・アルチュセール「哲学について」今村仁司訳 筑摩書房 1995(初版)
ハイデガー、フッサール、唯識論・・と来て何故今頃アルチュセールか?
この話は長くなるので別項に回す。
それでなくとも、この記事はかなり長いのに(^^;
とにかく私はアルチュセールとは何の関連も知的な関心もなかった。
この高名なマルクス主義者、往年のフランス共産党指導者の思想の全容をチラリとでも押さえておこうと、この本を選択したのなら大きく外れてしまっている。
むしろ時代の昂揚と挫折を未だに引きずり、私とは別の意味で逸脱した人生を歩んだ、もう一つ別の団塊の世代が晩年のアルチュセールの思索の総括を見据え、自らも一体アレは何だったのかと立ち止まって振り返らざるを得ない本ということになるだろう。
「もう一つ別の団塊の世代」、もちろん68年世代(Soixante-huitard)ということだ。
私はいわば「また別の団塊の世代」で、「アラブから見た十字軍」(アミン マアルーフ)のように全くの逆陣営でもなく、「遅れてきた青年」(大江健三郎)のようにファーズがずれているわけでもなく、奇妙な形でアルチュセールの名は未だに私の中に宙づりになってただ漂っていた。
・・・ので。
晩年のアルチュセール(1990没)へのインタビューと、手紙と講演の草稿が「哲学」を大きなくくりとして集められている。
手紙の内容からも躁鬱症に苦しむ往年の闘士の姿がほの見えるのだが、そのような事情には私は何の思い入れもない。ただ、伝記上は配偶者を絞殺し、精神鑑定後、心神喪失による免訴となった時期であり、多大な苦悩と無縁であった訳はないと覗い知るだけだ。
アルチュセールの述懐はこう始まる。
マルクス主義に哲学はない、マルクスは哲学については沈黙を守った、そして当時の私たちは『想像上のマルクス主義哲学』を構築しようとした。
結論的に言えば、デモクリトスやエピクロスの偶然の唯物論がそのマルクス主義のありうべき哲学である。
(ここで訳者の今村は、マルクスにはすでにエピクロスの偶然的唯物論を評価した論文があり、アルチュセールが故意に無視しているのは奇妙なことだ、とあとがきで注釈をつけている。)
マルクス主義哲学は実在する。しかしそれはもはや哲学ではない。
「哲学がない」とはどういうことか?
伝統的に哲学は観念論的真実を枠組みする。
これに対し唯物論が対置されるのだが、観念論は唯物論を、唯物論は観念論を既に互いに含んでいる。
双方は同様にプラトンのいうイデアの中で、立場の違いを論争しているだけなのだ。実在、あるいは真理の実在という枠組みの中で。
マルクスはヘーゲルを哲学として採用したのだが、それは仮託にすぎない。
歴史から法則性を抽出し、未来に演繹するのは誤りである。
と晩年のアルチュセールはここで明言する。
↑あっ! おいおい?
私の生涯で唯一全共闘諸氏と生接触したのは1969年七月の神田解放区内明治大学学生会館4階だった。
「また別の団塊の世代」である私は単に東京に家出し学生会館で暮らしていただけだが、3階を占拠していたのは紛れもなく神田カルチェラタン闘争の闘士たちだった。
そのうち彼らの一人が4階に上がって来、三階で集会やってるんで来ませんか?と招待を受けた。
集会の内容はすべて忘れた。
鮮明に記憶に残っているのは一人の女性闘士のセリフだけ。
彼女は吸っていたタバコを地面にたたき付け「それは、歴史を学んでないから!」と吐き捨てるように言った。
当時、過去の歴史は階級闘争史であり、歴史を「弁証法的唯物論」によって解釈すれば未来は必然的に明示されていると彼らは考えていたのだ。
アルチュセールはそのような起源と目的を持ち込む哲学を非とし、偶然の唯物論がマルクス主義の「哲学」であるべきだとする。
「この唯物論は主体(神であれプロレタリアートであれ)の唯物論ではなくて、目的(終わり)をもたない発展を導く主体なき課程の唯物論なのです。」
世界は偶然の偏向によって生じた。逆に言えば世界または現実性、必然性または意味の起源は偶然の逸脱にあるという。
ここからハイデガーに通ずるとアルチュセールはいうのだが、むしろフッサールの現象学的態度と見ればいいように思える。
この起源から目的、あるいは目的意識が必然的に向かわせる起源への線的な歴史観は”History"であり、お話(history)のように語るためのものである。
ドイツ語でいう ”Geschichte"は現在形の歴史を意味し、不確定の、予測できない、まだ終わっていない、したがって「偶然的な」未来に開かれているとする。
歴史を解釈するという誤謬を排し、ただ記述するに徹する態度を言っているようだ。
Die Welt ist alles was der Fall ist. (ヴィットゲンシュタイン)
世界とは、ただこのように現象しているということである(フッサールの曽孫弟子Hemiq 訳)
哲学というものは、観念論的傾向と唯物論的傾向という敵対する二つの傾向の、多少とも完成された実現である。(←あまりいい訳ではないよ>今村さん)
少し前に、哲学とは「論争」である、と言っていたが、つまりですね、哲学とは手段であってカントのいうような目的ではあり得ない、ということだろう。
起源の問題は目的の問いから提起される問いである、と先ほどの歴史感の姿勢を哲学に置き換える作業がある。
「目的(世界の意味、世界の歴史の意味、世界と歴史の究極目的)は、自分で自分を先取りしつつ、起源の問いのうえに、そのなかに投影される。」
(どうしてこういう美文調になってしまうのかよくわからん。視覚的なイメージをコトバにすると唯物的ではなく、やはり観念的になっちゃうのか(^^;)
「起源の哲学、それらは、宗教と道徳の主題である。」
「倫理としての哲学」と私が言っているヤツだ。
アルチュセールが「偶然の唯物論」というとき、この偶然とはゴチック文字で記されるような「真理」を説かないことか。
そして真理ではなく実践ということがここからクローズアップされてくる。
「唯物論哲学は理論に対する実践の優位を肯定する。
実践とは実在条件につねに従う変換課程である、
その課程は真理を生産するのではなくて、それ自身の実際条件の場のなかで、複数の「真理」あるいは真理なもの、つまり結果や知識を生産する。
実践が担い手をもつにしても、それは、狙いや企ての超越論的あるは存在論的起源としての主体は持たないし、その課程の真理としての目的も持たない。
それは主体も目的ももたない過程なのだ。」
的確な引用をしたつもりだ。私が解説するまでもなかろう。
しかし、「実践は・・・真理の代理物ではない。反対に実践は哲学を揺るがすものであり、哲学とは別のものであって、そこから出発してこそ哲学をゆるがせるばかりか、哲学の本質を見抜くことができるようになる。」
「実践のおかげで哲学は、自分が外部をもつことを認めることができる。」
外部、つまり限界、つまり全知全能ではない、ということ。
イデオロギー
「イデオロギーを構成する諸観念は暴力的に、乱暴に、人々の「自由な意識」に押し迫り、これらの観念が真実であると諸個人が「自由に」承認するのを余儀なくされるような仕方で彼らによびかける。」
「人間は本性上、イデオロギー的存在である」。
「子供は、あらかじめ作られたこのイメージを、彼が社会的主体として実在する唯一の可能性として引き受けるのです。」
「プラトンのなかに、彼の観念論の基礎が理想のための闘争であり、原子論者、ソフィスト等々といった、彼の観念論を認めない連中との戦いであることがはっきりと見て取れる。
哲学とは実践であり、世界の外部に位置づけられた道徳的・社会的・政治的理想のための闘争であるということが、ここではっきりと見えている。」
「安定的なもの、主体、下方にある安定的で永続的なものを承認する自然発生的なイデオロギーは、当然にも、科学的実践や哲学のなかに流れ込んでいった。あるいはむしろ、そのイデオロギーは哲学から科学的実践へと移動したのです。」
結局人間は社会との関わりの中でしか人間をやってけない。
イデオロギーが人間をさせているのだ。
実践の哲学
「哲学が諸科学から自己を区別しながら哲学として生産されること。
哲学そのものがこの世に実在すべく挑発されるには、少なくとも一つの科学が実在していなければならない。
現存の諸科学から自分自身の純粋な言説のモデルを借用する哲学が、哲学の内部で諸科学との関係を完全に転倒させ、現実の諸科学とそれらの対象から厳密に一線を画し、哲学こそが科学なのだと宣言する。
哲学は自分が至高の科学であると主客を転倒させ、つまり諸科学に対する支配権を打ち立てる。」
何故か。
「哲学がその内的な歴史的確信の中で、あらゆる真理、あらゆる実践、あらゆる人間的観念についての大文字の真理を述べる、かけがえのない課題を達成すべきだと考えているから。」
「マルクス主義哲学は実在する、にもかかわらずそれは、この意味での哲学として生産されなかった。」
そして実践の突出。
「実践の突出とは哲学として生産された哲学の告発である。
哲学は外部を持たないという主張に抗して、哲学は外部をもつと、いやむしろ、哲学はこの外部によって、またこの外部のためにのみ存在する。
実践は揺るぎない哲学のための真理の代理ではない。反対に、それは哲学をゆるがすものである、哲学とはべつものなのだ。」
実践は哲学の背中を奇襲する。
訳者今村仁司によるアルチュセールの自己批判論旨
60年代のアルチュセールはマルクスの哲学が「資本論」のなかに潜在しているとみなし、それを「理論的実践の理論」と定義した。これは、明らかにマルクスの哲学そのものではなくて、マルクスの著作をよむために外部から持ち込まれた「読解の理論」であり、「想像上のマルクス主義」である。何が問題であるかと言えば独創的なアルチュセールのディスクール理論(議論のための理論 (c)hemiq)をマルクスのものだと言ったことに、取り違えがあったのである。これを「自己批判」するとなれば・・マルクスの哲学ではなくて「非哲学としての哲学的実践」という逆説的形態である。 (今村のあとがき)
私のあとがき
この実践というコトバ独語Praxisの訳か仏語Pratiqueの訳かでニュアンスは違う。もちろんアルチュセールは仏語で書いているのだが、邦訳ではすべてのニュアンスは無視される。
日本語で実践といえば直ちに「政治行動」、よくて「イデオロギー、あるいは真理の行使」という語感になってしまう。
内なる価値観で自らを限定し、外部を封じた閉空間とするな、もっと言えば単に「頭で考えるな」という意に解した方がいいのではないか。
ともあれ、大乗唯識論をチラ覗いたとき、実存は空なりと喝破する透徹した認識主体が何故世に説き、衆生救済を願うのか、ありていに言えば、どうしてそこで哲学が宗教をやっちゃうのか私には理解できなかった。
一方で、世界を救うまでは自らの涅槃を拒否するという菩薩の「願」の厳しい美しさも印象に残った。
この「願」を「実践」で読み替えてみるのは可能だろう。
どうやらそこに何かしら通ずる態度がある。
絶えざる自己検証、もっと言えば絶えざる自己否定、さらに言えば自己矛盾を絶えずアップデートすることでかろうじて自らを主体していくこと。
別にアルチュセールはこれで解った、とかの話ではない。
「もう一つ別の団塊の世代」諸氏が晩年に至った今、アルチュセールのように60年代の自らの思索の検証を実践する、今が最後の機会である、と私は思う。
This article is specially dedicated to K.Inoue.

〔読書控〕2014/08/01(金) 11:56

松井孝典「生命はどこから来たのか? アストロバイオロオジー入門」 文春新書 2013
カールセーガンの20世紀風陽気な天体生物学ではなく、もう少しアップデートされた内容で生命の起源に関する各説を鳥瞰する内容。
地球物理学から原始生命の発生へと著者の学問的探求は進み、今は生命宇宙起源説(パンスペルミア説)に肩入れしいているようだが、地球のオリジナルという見方も捨ててはいない。
現在では地球起源の生命汚染が実際に進んでいる現状で、火星探査船から発見された有機物が地球に還流し、宇宙生命体と誤認されるというようなこともあるらしい。
私にすれば生命が地球起源であろうが、宇宙起源であろうが本質的な意味の違いはない。
著者の幅広い見識からの信頼感のある生命の起源への個々のアプローチが紹介されているのだが、そのあたりは私の生命科学の常識を多少アップデートしてくれたというだけに留まる。
本当に私が意味的に重要だと考えるのは生命というエネルギー自己保存系がどのようにして発生したか、更に言うなら「何故」発生したか、ということだ。
ここに決定的などうしても越えられない宇宙の究極の秘密がある。
何故、どのようなメカニズム、理由で物質が自己保存という目的意識を持つのか、これが得心できない限り私は自分自身の存在を自己完結させることができず、知の不幸を抱いたまま無間地獄に落ちていくのみである。
次に大事なのは「生きる意志」をもった生命が終には自己を認識するまでに至る知のメカニズムの発生だが、これは進化論に関わる議論になり、本書の範囲から少し遠くなる。
とはいえ、著者の進化論に関する報告の中では「ウイルス進化説」に少なからぬ期待がかけられていると見える。
トランスジェネレーションで種の変性が進行するということが進化論の大前提だったが、ウィルスが遺伝子を直接他の生物に伝達するならば進化のイメージは完全に覆る。
突然変異というトリガーも考察されてきたが、ウイルスを介する並行進化ならウィルス自体が何らかの法則、いわば生物的目的意識によって選択的に媒介するとも言えるので偶発的な突然変異とは全く話が違うのだ。
ウイルスは生命体の定義からは外れる存在だが、生命らしきふるまいをする。
自己増殖はしないのだが、自分の遺伝子を他の生命体の細胞に作らせるようなことをする。
そのような振る舞いからはコモノート(最初の「生命体イブ」)であるわけはなく、寄生的に後発したものだろう(ただしこれは私の見解)。
著者が着目しているのはウィルスの「科学進化」。
定義上生命そのものではないが、ウィルスが自己完結系を形成している単位は細胞より構造の簡単な(あるいは人工的な!)カプシドと呼ばれる正20面体であり、ウィルスの増殖法は細胞分裂ではなく、タンパク質の科学的合成ともいうべき手法である。
この科学進化を考察することが生命の起源に迫る重要な示唆になる、と著者は直観する。しかし、このような問題意識からの研究例はなく、『私自身が取り組みたい』という。
このような知的問題意識が自分の学的エンジンであると告白できる学者であれば、論文コピペ問題なんかが発生しようがないのだがね。
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まあ、生命は条件さえ整えば何処でも発生すると考えよう。
私にとってそれは大きな問題ではない。
カールセーガン達が宇宙生命学を通じて研究したのは微生物や蟻のような「下等な生命体」ではない。ボイジャーのゴールデンレコードを解読してくれるような知的生命体だったのは明らかだ。
生命は自然発生的に至る所に溢れているかも知れないが、知的生命、更に言えばフェルミのパラドックス「彼らはどこにいるんだ?」で考察の対象になっているのはそんなありふれた生命ではないはずだ。
地球外文明を形成していると呼べるだけの知的生命体であることは明らか。
もし宇宙で「つまらん」微生物が発見されたとしても、まったく私たちの現実に作用することはない。天体生物学では知的生命であることが前提だった。
私はむしろ、いやしくも生命が発生していれば必ず知的生命に進化するのだ、という救いのない偏屈な人間原理、進化論上のセントラルドグマの存在を常に指摘し続けていたい。
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おっとここで「人間原理」。
これは現象学的に意味のある問題を含んでいるので少し整理しておこう。
先ず、オリジナルで(1)「弱い人間原理」がある。
今我々人間がいて宇宙を観測している。
論理的には宇宙は我々に観測できる形、大きさ、年齢、進化の法則で成り立っていなければならない。
人間の存在が宇宙の物理的定数を規定している。
これを進めると(2)「強い人間原理」になる。
知的生命体が存在し得ない宇宙は観測できない。
宇宙は我々(知的生命体)が存在できるような構造でなければならない。
人間(観測する知的生命体)が存在しない宇宙は観測できない。
そんなもの(思弁的宇宙)が存在すると仮定したところで、我々の宇宙には何の影響も及ぼさない。(逆に影響を与えられるなら観測できる宇宙。)
そんなところだが、この辺りの切り口はどことなく大乗唯識論と似ている。
我々が認識するので存在が存在となる。
もちろんフッサールのいうノエシス・ノエマの関係がそこに成立しているわけだ。
そのような哲学的宇宙論と人間原理が区別されねばならないのは「観測可」となった時点で宇宙が一様に不変性を持ち一義的に存在してしまうことだろう。
「いやしくも観測され得たのだから存在している。」
しかし、ホーキングさんよ、それはあくまであなたの観測なので、私には観測できていない。
従って、そんなモンは私には存在していない。
やはり「人間原理」は論理的に見えても、その実は20世紀的科学の子にしか過ぎず、大きな誤謬を含んでいると私は見る。
それは自分が存在しているということを疑う余地のない暗黙の前提とする無意識の(3)「偏屈な人間原理」の故だろう。

〔読書控〕2014/08/15(金) 11:29

川畑秀明「脳は美をどう感じるか - アートの脳科学」 ちくま新書 2012
「美」とは何か。
美術作品が喚起する生理的な反応を脳科学的に分析し、創作や鑑賞という人間の行為の目的を探ることがテーマ。
つまりは生物学を基礎とする新しい美学・美術論の試み、と著者は自負する。
先ず古典的な芸術論の引用から始まる。
『空想によって欲動を満足させようとするものであり、この方法の頂点にあるのが、芸術作品の享受である。芸術作品を創作できない人でも、芸術家の手助けによって、作品を享受できるのである。』
もちろん、お判りのようにフロイトさんですね。
少なくとも美術の目的は脳の機能の延長にある、というのが全体の基調。
鳥瞰的に新しい分野の研究が紹介され、各々の研究課題は面白い。
この分野でも最新のMRI技術のおかげで美に反応する脳の部位が特定でき、いろいろ細かい芸術鑑賞という感覚の分析が可能になってきているようだ。
なかには明らかに結論を前提とした恣意的な実験と見える研究もあり、最近のSTAP細胞騒ぎをちらりと思い出す。
文章自体はしかしあまり面白くはなく、いかにも大学教養課程の講座風。
少しばかり注目すべき論点を挙げておく。
『脳は、絶えず変化しながら押し寄せる膨大な量の情報のなかから安定した情報を抽出し、それを知識として獲得する。重要でない情報は、全て差し引いて犠牲にする。』
これを私が適当にアレンジすれば「我々が見る現実とは脳が恣意的に空想したものである。」となる。
ヒト以外の動物でもこのような抽出認識のパターンはあるようで、動物実験例も多く報告されている。
「ハトは色彩情報をなくしたモノクロの絵画でも、輪郭をぼかしたものでも同じ絵であると認識できる。しかし絵の上下をさかさまにすると区別できない。
訓練によってゴッホとシャガールを区別することも、絵の上手い下手を見分けることができる」
もちろん上手い下手というのは人間側が判別した基準で、ハトの美意識ではない。
上手い絵の特徴、下手な絵の特徴を抽出認識させ、次に見せられる絵をどちらかに分類させると、人間側の評価と同じ分類になるという。
ハトもヒトも共通して見分けている手がかりは一体何なのか?
ヒトもとチンパンジーも筆記具を持たせると描画しようとする。
しかし、ヒトの幼児は「ない」ことを認識すると、技術的には未熟でも、その「ない」ものを補おうとする。
が、チンーパンジーの場合にはそもそも補おうとすることが出来ない。
チンパンジーは画用紙の画面の枠について理解しているし、色の好みもある。手の力の強弱をコントロールして線を描くことができる。
それでも「ない」ものを補うことができない。
=>想像力!ということになるはずだ。
想像力が人たらしめているのである。
芸術の発生についてはこのような視点がある。
原始人類の石器には実用性よりはるかに精巧で美しいものが製作されている。
なぜそこまで?
「雌をめぐる雄同士のアピール合戦のある社会が、創造性を爆発させたとも考えられる。人類の進化の歴史のなかで、美が他者へのアピールのシグナルとなり、それを見逃さないセンサーの能力までもが発達したのではないか、というのが私の考えだ。」
自己顕示と他者の顕示を受容する能力が芸術の起源とすれば、どうしても芸術家でしかないことは私の宿命だろう(^^;
ポロックやモンドリアンの抽象画を脳科学的に分析すると、それなりに理にかなった創造になっているという。
ポロックの描線はフラクタル構造になっている。
フラクタルの複雑さはマンデルブロー係数で数値化できるが、人にとって快を感じるのは単純すぎず、複雑すぎずという中間的な度合となるようだ。
ポロックのフラクタルは中間値よりも少しだけ複雑の度合いが多いという。
少しだけ常人よりも位相が異なる私はやはり芸術家でしかないのか(^^;
外術家は脳神経学的な分析が出現する以前にそのような法則性を直観的につかんでいたのだ。
「美的価値=秩序÷複雑さ」バーコフ
「美的価値=秩序×複雑さ」アイゼンンク
解説はないが、バーコフの公式なら複雑さが増すほど美的価値は下がる。
後者はどちらも大きければ最大になる。あまりアテにならない数式だが、秩序と複雑さが同程度なら美的価値が最大になる。
何を秩序とし、どうなれば複雑と感じるのか個人や文化背景で大きく違ってくるわけだ。
この夏は久しぶりにベルリンフィル・デジタルコンサートホールの会員になっているのだが、ラトルは必ずといっていいくらい現代音楽を前座で取り上げている。
先ほど2012年のルトスコフスキ「オーボエ、ハープ弦楽合奏のための二重協奏曲」を視聴した。
ベルリン定期のデジタル会員の私なら終曲は後期ロマン派の流れにあるショスタコビッチのカリカチュアと聞こえ完全に秩序内の響きだが、日本のオーケストラ定期会員なら耳慣れない複雑な響きに聞こえるはずだ。
落ち着きのない私の性格はより複雑な刺激に反応し、落ち着いた老境に入っている方が多い私の周辺ではより秩序性のある音楽を好む傾向があるだろう。
何度も書いたが、NHK災害復興支援ソング「花が咲く」が未だに相も変わらず好んで演奏されているという現象は私にとって一種の拷問、あるいは踏絵(^^;に近い。
この100パーセント予測可能、複雑さゼロの旋律の繰り返しの地獄の単調さよ。
少なくとも音楽的な刺激はもう全く感じられないのになぜ未だに好んで演奏されるのか?我々が共通して住んでいると信じている世界の見え方は斯くも違っている。
「生まれてくる者のために花は咲く」
これを暗喩としての含みを感じるのか、バカバカしいほどシェマチックな直喩と感じるか?
『画家は、そのあいまいさの解決を見る側にゆだねている。
文学でも、特にミステリーでは、作品に張り巡らされているさまざまな伏線が、読み進めているうちに紐解かれてきて、終盤にはひとつにつながるときの快感を私たちは何度も味わっている。』
この予定調和の快感が芸術鑑賞の脳に与えられる報償と解釈できる。
複雑さとは自力で解決する困難さと等しい。
一様に解釈されてしまった世界にはもう報償としての生きる快感は感じられない。
少し角度は違うのだが、直喩等として言語化してしまうことで落ちてしまう情報があることが分かっている。
言葉で表現する弊害である「言語隠蔽効果」の説明によると:
「顔の記憶実験で先ず顔の画像をいくつか覚えてもらう。
その後、覚えた顔について特徴を記述する。眉毛が太かった等。
そして覚えた顔がどれだったかを当てさせると、言葉にした場合、顕著に記憶成績が低くなってしまう。」
歌舞伎役者は世襲で小さい頃から身体で覚えこむ。マニュアルを口伝するのではない。つまりこの言語隠蔽効果はきたさない。
「しかし、熟練した歌舞伎役者は実際には言葉にしようとすればできる」と繋げているので少々面白い事態が見えてくる。
実際にある域に達しているもの同士であれば言葉は豊かな内容を伝えることもできる。
しかし中修者にとって言葉に翻訳される時の弊害は大きい。技を言葉にできるのは熟練した者にだけゆるされた特権なのだ。」
このあたり、素人を指導するプロの音楽家は考慮しているいるのだろうか?
説明すれば解るというものではない。
自分で理解することのできない素人が言葉だけプロのマネをしているような・・・あ、もう言いません(^^;
「フラッシュ・ラグ効果」と称する現象があり、脳は運動している対象の画像を処理するために、運動する対象の見えに遅れが生じないように「つじつま合わせ」をしているらしい。
つまり、我々が認知している「今」は正確には脳が予測した「今」ということになる。
それでも時間の連続性を疑うことがないほどには予測は正確だったのか。
脳の機能が衰え、この予測が外れてしまうという事態になると、世界はまた始原のカオスに戻っていくという訳だろう。
自分の脳髄が作り出した世界に我々は生きているのである。

〔読書控〕2014/09/10(水) 17:13

新田次郎・藤原正彦「孤愁 DAUDADE」 文芸春秋 2012
明治大正期に日本に赴任し、当時の日本を母国に紹介し、終には徳島で客死するポルトガル人、ヴェンセラオ・デ・モラエス(1834-1929)の伝記小説。
昔、萩ノ茶屋商店街の古書籍商津田書店で「定本モラエス全集」をみたことがある。
しかしこれはウソかもしれん。はて、どこかの図書館だったか?
しかし、その実このモラエス氏の素性は良く知らなかったのだが。
新田次郎の未完の遺作を子息の藤原正彦が書き継いで完成したという珍しい合作。
藤原は(継ぎ目が見えてしまうが、とにかく)「父が全力で書き、そのバトンを受けた私が全力で書く」ということだったとあとがきにある。
一読してそのようなつなぎ目は感じられないが、あえて言うなら情緒的な記述が前半に多く、後半は史実的な記述が多くなっているような印象はある。
しかし、そんなことは別にどうだっていい。
もとより新田は美文家でもなく、レトリックを駆使するような文体でもない。
山岳小説や史実を伝えるドキュメント風の簡潔な文体の作家である。
読書中にNHK BSで富士山頂測候所の建設者をモデルにした「芙蓉の人」のドラマをやっていたりする。
「父と同じ資料はすべて目を通した」者にとっては文体なら比較的模倣しやすいだろう。
藤原の担当する部分がモラエスが日本に精神的にも回帰する部分になるので、ベストセラー「国家の品格」とチラチラ重なってしまうような部分が目につく。
しかし、今の日本のことではない。古き良き日本の話。
昔、この国にはそのようなものがあったらしい。
アインシュタインやフォイアマンが日本の田舎を訪れ、西欧にはない美と精神を感じた、その時代のこと。
日常にいきわたる美意識とモラル。
経済に換算し得ない豊かな田舎の生活。
あるいは既に20世紀に入った西欧の経済主導型生活感が回帰しようとする古く美しい価値観。
タイトルになっている「孤愁」からは日本に根を下ろしてから、生涯を閉じるまでのアンチ・クライマックスを半ば予期していたのだが、案外最後まで日本主義を貫き通した生涯だったようだ。
この人やこの小説に関して私が言及するすることはあまりないので、本とは関係なく想起されることを記しておく。
私が書評日記を付ける以前、勤め先の会社に従業員が寄贈した本が置かれているちょっとした本棚があった。誰かが読み、捨てる代わりにそのまま置き去りにしたような代物だが、社員福祉の名目で、いかにも小企業の総務担当者が思いつきそうな設備だ。
社員食堂の片隅にあって当たり障りのない雑誌や文庫本が並んでいた。
そこに数冊の新田次郎の文庫本があったのだった。
新田次郎本のタイトルに通俗小説の雰囲気があり、純文学志向だった当時の私は当初は見向きもしなかったのだが、一度試しに取り出して読んだ。
何を読んだのかは判然としなかったが、新田の山岳小説の面白さに目覚め残りのタイトルをすべて読み漁るという具合になってしまった。
昭和30年台、ダークダックスが「雪山賛歌」を唄い、歌声喫茶では「遥かな友に」が愛唱されていた。
いや、私には共有する時代意識はないのだが、ただその当時の雰囲気を思い出すことはできる。新田次郎の山岳小説はたぶんそのような若者に愛好された人気作家だった。
しかし、この間映画「八甲田山」や「剣岳」は見たものの、私がネット上で継続的に書評を連載する時期には既に故人であり、今更読み返すタイトルもなかった。
故、新田次郎は著者名としては今回が初めての当欄への登場になった。
私の中では新田次郎は昭和30年台の青春という時代の雰囲気と独立排他的に結びついている。
子息の藤原正彦については2004年に「若き数学者のアメリカ」の書評を書いている。
「国家の品格」は未読だが、なんとなく内容が分かってしまっているので読むことはないだろう(^^;
なお、妻・母の藤原ていを子供の頃よく放映されていたNHK「私の秘密」で見ていた「藤原あき」と長い間混同していたのだが、今回ネット上で検索し、別人だと判明。
もしかしたら、誰か他人にこの誤情報をかたってしまったかもしれん(^^;
別に私が混同したまま墓場まで持ち込もうと、世界には何の関係もないのだが、ま、一応この欄で記しておいて後日、認知症程度の自己判定基準とでもしておくか。

〔読書控〕2014/09/10(水) 17:13

帚木蓬生「聖灰の暗号」上・下 新潮社 2007
久しぶりの読み応えのある長編小説。
なんだか安手の推理小説風の装丁とタイトルだったが、中身をチラ読みすると細部の考証やシカケがホンモノらしくて思わず唸り、テーマの重さに深く同意。
異端としてローマ教会に迫害され死滅させられたカタリ派弾圧の真実を記録した文書を日本人学者が発掘、カトリック秘密組織が密かに暗躍し闇に葬ろうとする。
この辺り、ひところ流行した「ダビンチ・コード」風の法王庁内部告発モノブームの亜流を思わせてしまうのだが。
カタリ派弾圧という歴史的事実からは精神の自由を敵として徹底的に壊滅させようとする世俗社会の実像、さらには本当の宗教とは何か?という深くて重いテーマ自体が読ませ、古文書発掘をめぐる謎解きや、ハードボイルド風アクション刑事モノの筋立ては返って余計な装飾だと思わせる。
著者のさりげない前書きでは30年に渡る構想期間があったとのこと。
中世カタリ派の拠点、オクシタン語地方の綿密な取材や多くの文献読みがなければ書けない内容である。
主人公が問題の古文書を発表する最初の学会場面があり、演出として前座の他のテーマの発表内容の要約がある。
その一つに「一遍とサン・フランチェスカ」という講演が想定されていて、ここで私は思わずひと唸りしまったのだ。
このストラスブール大のミッシェル講師が発表する一遍とフランチェスカの共通性については、私も既に着目していたのだ。
ああ、今は無き私の炎上ブログ・・・
佐江衆一「わが屍は野に捨てよ 一遍遊行」 新潮社 2002 より
たまたま昨夜、録画していたアッシジの聖フランチェスカ(1182-1226)の伝記映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」(1978)を見たところだ。
映画自体はかなり古いので、きれいごとをきれいに描いているという感じなのだが、富裕に生まれ、放蕩をつくした後、一切の世俗を捨て、清貧の求道者を率い、権威に反感を持たれつつも次第に世に受け入れられていく様は一遍と類似し、まるで兄弟のごときである。
この二人の生きた中世という社会の人の魂の普遍を思わざるを得ない。
戦争を通じ支配階級の権威が高まり、社会の富の配分が極端に偏向した時代。
一切の世俗(富・権威)を捨て清貧によって魂を浄化し、心の平安を得るという教義は徹底的にしいたげられた下層・被差別階層に熱狂的な支持者を得ることだろう。
中世という時代の精神はそのようなファナチックなまでの狂信的な聖人を生むに易い。
hemiq〔読書控〕2013/04/18(木) 13:53
この挿話は小説本体としてはさりげない演出小道具にしかすぎないのだが、この中世の世俗権威への批判は大きくこの小説のテーマに連なっていて見事。
後半には第二回目の学会発表の場があり、またしても前座の講演内容のレジュメがサービスされ、「マリ共和国キリスト教布教史における土着宗教の取り込み」という報告があり、この内容もかなり興味深げでそそられた。
さりげない小道具のなんとおいしそうなことか。
弾圧する世俗権威のローマ教会と真の信仰を貫こうとするカタリ派の異端諮問記録という古文書の内容の長い引用は、小説的に言えば全体のリズムを削いでしまうのだが、人間の精神の自由とは何かという内容自体の真迫性が作品の真のテーマがこの文書の内容にあることが分かってくる。
正義の味方という権威を背負い、人間の精神をいとも簡単に火刑に処し、悦にいっている相も変わぬこの世(世俗)のばかばかしさ。
この古文書でカタリ派の伝道師が豊富なまでに聖書を引用し、正しい信仰とはなにかを説く弁舌は鋭く見事。この著者の姿勢、自己は何者であるのかをしっかりと伝えている。
小説前半は日本人歴史学者の留学研究生活を活写し、海外で研究生活をしたことのないものには書けないちょっとした記述も多く、著者の経歴の一端をうかがわせる。
WikiPediaでは東大仏文を出、しばらくして九大医学部に入学し最終的には医者・作家となっている。なかなか思わせぶりな経歴ではないか。

〔読書控〕2014/10/10(金) 14:39

マックス・シェーラー「宇宙における人間の地位」訳:亀井裕・山本達 白水社 2012
せっかくの木田元の解説でシェラーの紹介があるのだが、タイトルには強く興味を魅かれるのだが、どうしても読み続けることが出来なかった。
久しぶりの悪訳哲学書。
『われわれは、生理学的であれ心理学的であれ、すべての因果的説明から独立にまたそれに先立って、生物の行動がそれを取りまく周囲の構成諸要素の変動に際して示す統一と変容を確認しうるのであり、それとともに、全体的で目標試行的な性格を有するかぎりにおいてすでに意味に満ちている法則的諸関係を獲得しうるのである。』p.23
これはなんだろうか?
何か意味を伝えようとしている日本語なのか。
ドイツ語の関係詞構造そのままの構文が自然な日本語になるはずはない。
またドイツ語の指示詞を「それ」と機械的に置き換えても読者には何も伝わらない。
もし、ドイツ語の文の意味を訳者(達)が理解しているのなら、自然で標準的な日本語に置き換えられるはずだ。少なくとも「訳者あとがき」はまったく普通の日本語でかかれているんだから。
やはり原文の意味が明確に理解できず、構文や単語をそのまま機械的に日本語に置き換えただけで「翻訳した」ことにしたものだ、と考える他はない。
私にはもうあまり時間がない。
このような訳文に付き合わされ、読むに値しないと決定するまでの数時間がいかにも不毛で不憫である。

〔読書控〕2014/10/21(火) 23:45

エリック・マルティ「ルイ・アルチュセール 訴訟なき主体」 椎名亮輔訳 現代思潮新社 2001
今回も本文を引用しなければ書きだせない。
『気違いの言うこと、狂気は、意味を持つことを止める単なる病的な意味合いから離れる。病気によって重層的決定を受けたものであることをやめ、単なる狂人の言説であることをやめる。そして、主体の主体による真実となると同時に、実は自分自身以外の者となってしまった主体の廃棄ともなる。その時、倒錯譫妄状態のカーニヴァル的楽しさと絶え間ない苦悶の悲劇的陰鬱さが混ざり合う転倒が、偉大で病的な解体の中で成就するのだ。そこには至るところに散逸があり、詐称と真実とがガラス板の両側のようにくっついてしまい、哲学の死を映し出す鏡となる。解釈の言説としての哲学の死。なぜなら狂人はもはや解釈しないし、すべての解釈システムを乱しめちゃめちゃにしてしまうからだ。そして同時に真実の言説としての哲学の死でもある。なぜなら、狂気は段階の配置が無限にそして絶え間なく矛盾するような間違ったメカニズムによる真実を生み出すからだ。』
文章の見かけの難解さからは上(前回書評、ブログの位置関係では下)の低レベルな翻訳文と同様に見えるかもしれない。しかし、これはその難解さの中身が全く違う。
前回は訳者が原文を理解できていず言葉の選択のレベルがちぐはぐで、ドイツ語の構造そのままを移し替えた意味不明の日本語をでっちあげてしまっていた。
つまり日本語からは原著者の声も何も全く聞こえてこない。
今回の翻訳文は全く異なる次元の難解さである。
原著者のフランス語は哲学論文ではなく、文学として書かれている作品だ。
概念(イメージ)を表現しようとするとき、論理で説明するのではなく、文学的レトリックを駆使し、言葉のイメージの力で意味を滲み出すような構造の文章なのだ。
更に、原文がそのような文学作品であり、フランス語の文章のイメージを訳者は巧みに日本語に移植しようとしているように見える。
日本語の読者には言葉の調子、語彙の選択、文章のリズム、暗喩の配置を通じ、ひとつの明確なイメージが伝わってくる。例えそれが定型化され、明らかに目に見える既存の概念ではないにしても。
これは論理的創作ではなく紛れもなく文学である。
既成の単語や定型文では伝えられない独自のイメージを媒介する、意味を伝えるための工夫された言葉、そして苦労して選択し、再構成した日本語訳文。
意味を成そうとはしない難解な前者と意味を伝えようとして難解になる後者との大きな相違。
文学としては刺激的な書物だが、しかしながら、今の私には少しばかり読み辛い本でもある。
アルチュセールという特異でもあり、著名でもある人物の、特に殺人と精神病にまみれた独異な自伝「未来は長く続く」の分析と意味解釈を試みている作品。
サブタイトル「訴訟なき主体」は殺人を犯した意識が狂っているとして、実際に刑事罰をすり抜けたアルチュセールの実際には無い主体、あるいは無いと法的には見なされている主体のことを指している。
おぼろげながら、以前読んだアルチュセールの別の自伝風の論集「哲学について 」からの推論もあるのだが、この書全体は60年世代の失敗したマルクス主義と、カリスマ哲学者であった、失われた自分(アルチュセール、そして同時代の精神を共有した者達)へのオマージュであるような印象を持った。
今、私が心豊かで、静かな日常に生きていれば純粋な文学、あるいは知的刺激に満ちた言葉の組み合わせの面白さを楽しめただろうが。
しかしながら、私自身も一体何をどう言っていいのかよくわからん世界からよくわからん糾弾を受けていて、この「狂った」哲学者の主体が一体どこにあるのかを文学的レトリックに満ちたこの作品から読みつくし、読み取ろうという心境ではない。
現役を退き自由に過去回想にも浸りきる時間を得、それでも頭が読書に耐えるなら、もう一度哲学に近づき、再び世界について考えてみたい。
そのように思っていたのだが、今は私の存在を糾弾したくてうずうずしている、うすっぺらい正義の味方がこれでもかと蔓延する、架空の、しかし妙に生々しい世界が私を捕えてしまっている。
かような日々で、もう2か月前からこの本を開き、未だ読み終えていない。
ただ私はアルチュセールの哲学的立場を知りたかっただけなのだ。
独異な人間の広大な心の暗黒部分をそこまで追うつもりはさらさらなくて。
されば、ここでひとまず本書のページを閉じることにする。
追記)訳者・椎名亮輔をネットで検索してみた。
さもありなん、というような才人だった。
フランスの大学で講師をしながらピアニストとしても活躍し、パリで賞をもらったりしていた時の訳書らしい。
近著では2011年に吉田秀和賞を受けている。
フランス語と日本語のセンス、そしてピアニズム。
追記補)書評とは本質的に全く関係ないが、ネット検索を続けていくと椎名亮輔と大学のゼミ仲間だったという御仁のブログにヒット。少し拾い読みしたが面白かった。
「松岡正剛」というアーカイブがあり、例の「千夜千冊」の珍妙な日本語の数々をクソメタに貶していて爽快。
カニバリズムとカーニバルが同語と書く松岡を、cannibal、carnivalと原語を挙げそのおめでたい思い違いをカラ笑い。実は私にもそんな思い込みが(^^;
私は松岡を「プロの読書人」としか評価できていないのだが、要するに私レベルの雑獏とした、ただの喋り人のイメージにコロリと変わってしまった。
この御仁、小谷野敦といい、文芸評論家(比較文学論)とかで既に52冊の著書があるようだ。
実に正統的な意見発信ブログ。これを読めば著書を買う必要はないか(笑)。

〔読書控〕2014/11/04(火) 12:15

花里孝幸「自然はそんなにヤワじゃない 誤解だらけの生態系」慎重選書 2009
安直な環境保護論に対する生物学者からの反論。
タイトルから期待した通りの内容で、私の持論を微生物学の観点から捕捉してくれる。
私に言わせれば地球温暖化論や人為的環境破壊論は西欧型の人間中心主義の傲慢が言わしめる驕りにすぎない。
今、人間中心主義と大雑把にマトメてしまったが、クリスチアニズムが用意したピラミッド型の神を頂点としたヒエラルキーのイメージが、18世紀から20世紀に至る合理主義、科学・経済主導主義を通じ、人間が世界を主催するという形に修正された世界観である、と一口に言っておこう。
人間がいうところの環境を破壊しようと保護しようと、そんなことは世界にとって何の関係もない。
自然を人間世界の外にある環境だと考え、それを支配しコントロールできると考えてしまうのは、あまりにもクリスチアニズム以来の一元的世界観に慣れ親しんでしまった西欧的世界観の大きな誤謬と言う以外にない。
しかし、今は本書の内容に即した環境と生態系の考察に留めておこう。
人間が自然の生態系に何等かの作用をもたらしたのは事実だろう。
しかしどのような生物も何等かの作用を自らを含む生態系に及ぼしている。
その作用を採点しプラス、マイナスの評価を与えられるとすれば、先ず「誰に対する評価」であるのかを言わなければ意味はない。
ここで、「誰に」という観点が常に「自然に対して」とか「地球にとって」とか言う定義おできない概念にぼかしてしまい、隠された悪意を隠ぺいしてしまう傲慢さが私には耐えがたい。
著者はミジンコの研究者。
「生物多様性」と言うとき人は目に見える、あるいは好ましく思える生物についてしか考慮せず、ミジンコ以下の微生物がカウントされていないとする。
殺虫剤が投入されたある水中の生態系で、ドミネート種の大型生物は駆除されてしまうが、その上位捕食者がいなくなった下位の小生物が繁殖し、生物種と個体数はより増大するという例を示す。
結局、人間が環境破壊と言うとき、その環境とは「人間にとって都合のいい」環境という限定がなされているのは自明だ。
人間も生物である限り自分にとって都合のいい環境を作っていくのは当然だが、一生物である自分を忘れ「自然環境一般」あるいは「地球全体」の為と、突然神のごとき宇宙の主催者になってしまうこの偽善意識の傲慢さは、とまでは著者は言っていないのだが。
私に言わせれば人類一般の為や未来の為という実体のない概念を導入し、隠蔽しようとしているのは「自分の利益の為」に過ぎない。
その私利益追及の隠れ蓑をそのまま実際の概念とみなし、判断停止をしているのにも関わらず、絶対的な正義の味方をやっている安直な隣人たちのバカバカしさ。
このハナシになると私の口は止らないので、後は著者が示した留意すべき視点を抜書きしておく。
ライオンはサバンナの生態系の頂点に君臨している。
しかし、ライオンが絶対王者、不動のチャンピオンであるということではない。
捕食者として大型化し少数化していて絶対数が少いライオンを捕食するような効率の悪い上位捕捉者は現段階では登場できない、のが実体。
生物の生存戦略には2通りがあり、比較的安定した環境では大型化・複雑化するのが有利で個体数としては少数。
変化の激しい環境では単純な形態で小型化し、多数の次世代を素早く生産できる生物が有利。
人間は比較的安定した草原や森林に適応してきた生物で、安定した環境を好む。
微生物は不安定で絶えず変化する環境で有利。
環境に大きな変化がある方が微生物の多様化にプラスに作用する。
人間にとっての環境破壊は、生物多様化をうながす好機になる。
現在の人間の人口は異常、現在日本の人口増政策は生態学的に言えば間違えている。
人口を抑え、個人の堆積を抑制し、寿命を短くするのが正答。
・・そうだよねぇ。 しかし、人間はひよっとして自然の生態学の裏をかいて、とてつもない解答を目指しているのかもしれないのかも。(→オチへの伏線^^)
人類に起因しない環境破壊も多々存在する。
古代地球での、光合成をする植物の出現による大気中の酸素の充満。
以前存在した嫌気性生物群が殆ど壊滅する程のドラスティックな環境破壊だったわけだが、この破壊のおかげで現在の酸素を摂取するパターンの生物が産まれた。
白亜期には圧倒的な巨大化で恐竜類が他の生物を捕食し、生態系の頂点に君臨していたのだが、大隕石の地表への衝突によって巨大爬虫類が絶滅する。
思いもかけない環境破壊で瞬時にドミネート種が壊滅してしまうのだが、この絶対王者が環境破壊で敗退したおかげで、ニッチの隙間で細々と生きていたケチな哺乳類が以降繁栄することになる。
だから人類自体は地球規模の環境破壊のおかげで出現したことになる。
上記と並べると現行人類の環境破壊なんてマイナーでかわいいモンだが、光合成植物の出現による大気組成の変化に要する時間に比し、その変化速度だけを取ってみるといい線いくのかもしれない。
著者はやんわりと、かなり大人的に「環境破壊」「生物多様性」というコトバのいい加減さを揶揄しているだけで、はやり「人類の為の」環境破壊を危惧するという常識人的立場を外しているわけではない。
しかし、私的には積極的に人類による環境破壊を活用したいという観点も可能とこの本を読みながら思いついた。
フェルミのパラドック「彼らは一体どこにいるのか?」という問いに対し、私は地球以外の宇宙に「知的」生命は存在しないという解を主張している。
なんとなれば「宇宙に知的生命が存在するハズ」というのは根拠のない西欧的の人間中心主義の演繹物であって、そのような問い自体が人間の傲慢さの所以だからだ。
ここで急いで付け加えておくが、人間が進化のチャンピオンであり、卑しくも生命が発生するなら最後は人間に行きつくハズという発想が一方的で傲慢だと私は指摘しているだけで、別に科学的な根拠を言っているのではない。
ま、しかしどう考えても生命が人間型、いわゆる知的生命(自意識を持つということだ)に行きつく必然性はなく、生命自体が発生するような必然性もない。
しかし、環境破壊=環境の大変動が生物の多様化を生むという視点から言えば、人類にもう少し頑張ってもらって地球自体を破壊するくらいのところまではやって欲しい、と思う。
フェルミのパラドックスの無理のない別解の可能性を思いついちゃったのだ。
地球は人類のおかげで壊滅的打撃を受ける。
核兵器、大気の致命的汚染、何でもいいが、とにかく全地球生命が危機に陥る。
しかし、どっこい生命はそんなにヤワじゃない。
大気中に飛び散った微小生命は素早く宇宙の真空状態に適応し、どこまでも飛散して行くだろう。
そして、宇宙にこのユニークな地球産の生命という存在形態が拡散し蔓延していく。
彼らはまだどこにも居ない。
しかし、やがて彼らは地球消滅後にやってくることになる。
宇宙生命の原初のビッグバンは、人類による地球の破壊がもたらすものだから。

〔読書控〕2014/11/05(水) 15:35

笹本稜平「天空への回廊」光文社 2002
トシ取るとテストステロンやアドレナリンの分泌能力が低下し、交感神経も滅多に興奮しない。スパイものも嫌いじゃないのにどうも面白くない。
興奮しないことにはエンターティンメントの意味はない。
この小説は山岳冒険に国際政治上の陰謀を絡め、興奮させてくれそうな要素が満載、登山技術や戦略兵器の細部ももっともらしく、面白くないワケはない。
しかし、何というか物語を読み進む加速力がついてこない。
世界トップレベルのクライマーを日本人とすること、友人のアルピニストが戦略兵器の専門家であること、その妹が恋人であること、その他、エンターティンメント上の飾りごともウソくさくて興を削ぐ。
本来ならそのような偶然は、エンターティンメントのお約束事で興味を盛り上げる定石であるハズなんだが。
ちゃんとゴマ化さず細部を書いているので、決して手抜きではないとおもうのだが、物語の半ばまで行っても読書スピードを加速してくれる興奮はやってこない。
真面目に創作しているのは分かるので悪印象はない。
だから、やはり自分の年齢の所為*にする以外にはない。
残念ながらこの辺りで投了することにする。すんません。
それを覚えていないとはねぇ。
まあ、「もしかして・・・?」という気がかすかにしたので検索してみたわけだが。
私の老人力も2重に亢進していたワケである。
先ずはめでたい、と悔し紛れに書いておこう。

〔読書控〕2014/11/19(水) 11:33

青木薫「宇宙はなぜこのような宇宙なのか 人間原理と宇宙論」 講談社現代新書 2013
このタイトル、副題を見なくともピンと来る方はピンと来るだろう。
科学は今、どこにいるのか?
神学や哲学と分離し、一時はすべての生みの親よりも成長し、最終知識的を誇ったはずの科学もどうやらまた新たなパラダイムシフト渦中に突入しつつある。
モノの存在をミクロ的に追及し、我々の世界をマクロ的に考察していくと、どうやら今までの「科学的」方法論が適用できない、つまりは科学が科学できない領域にまで達してしまう。
「人間原理」は実験で証明されようもない仮説だが、否定することもできない有力な方法論として科学の側が提示しているものだ。
科学はこの地点で今までどおり科学であろうとするなら、非科学を自らに組み込む以外にはない。
人間原理登場登場以前の宇宙論の歴史を鳥瞰している部分で少し注意したい視点があった。
古典的な人間中心(地球中心)宇宙観は人間を特権的な存在と考えてしまう西欧クリスチアニズムの悪癖と思っていた。
コペルニクスが地動説を唱え、不動の大地という特権的なこの世界の地位を突然何のへんてつもない「普通」の場所に転回する。
神が自分に似せて人を創造した教会教理からすると、とんでもない逆転。
しかし、著者はコペルニクス前夜でも「宇宙の中心はそもそも良い場所ではなかった」というような世界観が一般的だった、と意外なコトを言う。
当時支配的だったのは「人間はうんこの中に住んでいる」(ヴォルテール)風の厭世的な世界観だったようだ。
うむ、私も教会=西欧一般と捕えてしまいがちだったが、少し違うかも。
教会は汚辱と苦痛に満ちた当時の人間の大きなネガションをエサにしてかろうじて食いつないでいた唯一の公認興行会社で、今のテレビ番組のようにウソくさいバーチャルな娯楽だったのかもしれない。
ゲーテにも人間が世界の中心であると考える傲慢はなく、単なる生物一般でしかない人間(自分)を、ありのままに客観的に記述観察記述できるということが逆に人間の自由の証しであると言う。
自分が取るに足りない存在であると認識できること。
それが考える葦である人の尊厳というものか。
物質(経済)主義、科学主義、進化論等に持続低音として聞こえてくる傲慢さは西欧クリスチアニズムのピラミッド型の世界観の伝統だと私は思っていたのだが、ひょっとすると「20世紀の傲慢」とする方が正しいのかもしれない。
さて、人間原理。
著者によれば「弱い人間原理」は既に科学的常識で「強い人間原理」もほぼ公認ちゅう様相らしい。
弱い人間原理はいわば「観測選択効果」ということだ。
宇宙は観測している私達に見えるような形でしか存在できない。
人間に察知できないものは考察する必要はないし、存在しないものを考察するのは科学ではない。
観察可能=存在可能性は観察者に異存する。
私(人間)が存在しているのだから、少なくとも人間が存在できるような形で宇宙は存在しているはずだ。
人考える、故我あり - と宇宙は言う。(P.ヴァリレー)
思わず、私のオハコがでてしまうのだが、実はもうこれが「強い人間原理」に繋がっている。
現象学や瑜伽唯識から見れば当然というようなハナシなんだがね。
ここではあくまで科学という切り口から離れないでおく。
現在、最先端の宇宙論ではひも(ストリング)宇宙論等の多宇宙、ユニバースに対するマルチバースがほぼ科学理論として認知されているらしい。
「この」宇宙の成立がビッグバンによって突然始まった、とするなら、その始り以前の状態では何等かのエネルギー、存在のゆらぎがなければならない。
なんらかの場に泡が生じるように「ポコポコ」と湧き出す宇宙のひとつに我々が存在している。「ポコポコ」はいいね>著者。
しかし、我々からは他の宇宙を見ることも察知することも絶対的にできない。
実験観察という古典的な化学方法論では真であるかどうかを確認することはできない領域である。
「真理」とは何か?
実験し、観察結果として検証しようもないものを科学はどのように検証し「真理」と保証するのか?
職業として科学者である著者はそれでも何等かの観測方法論が成立する可能性を捨てていない。
地動説、他銀河系の発見に次ぐ宇宙論の第三次パラダイムシフトと捕えている風である。
しかし、別にもう古典的な「科学的真理」にこだわる理由はないと思う。
仮説が検証できれば「真理」とする科学は古典的ドグマとなって博物館入りになる
。
今、無・あるいは全的有(エネルギー無限大)の場から「ポコポコ」と「絶対真理」が湧きだしている。
一つの絶対真理には、絶対真理であるからして排他的に他の真理は存在しない。
そのような多元真理の場に我々はそれぞれの自我を実行しているのである。

〔読書控〕2014/11/28(金) 11:26

竹田青嗣「現象学は<思考の原理>である」 ちくま新書 2004
え?現象学ってそんな簡易なこと(=原理)なのかい?
もともと講義なので平易な口調はわかるのだが、内容が類書とはまったく違っている。
簡明にして確信に満ちたフサールの現象学の解説。
今までのフッサール理解は入り口付近のごく初歩的な部分を素っ飛ばし、無用な混乱をきたし、いたずらに議論の為の議論に陥っている、との指摘が先ず置かれている。
私の場合、現象学関係の書物を散読し、唯識の阿頼耶識論を論理的な言語で記述したようなもんだ、というような漠然としたイメージを持っているだけで、実際に説明しろ、と言われても何も明晰に語れない思いがある。
第一、私の唯識論理解自体もWikipediaレベルの一般常識以上のものはない。
ただ、論理的に考えようとする時に付いて回る論理相対主義的潔癖性からのもどかしさ、つまり自分の主観が絶対であると絶対に言えない、逃れられないジレンマから脱却できる唯一の西欧産の思考法である、と直感できたので以来フッサールフアンをやってるのだ。
青田はバサバサと確信に満ち核心を説いていく:
「絶対的な真理」というものは存在しない。
われわれが「真理」とか「客観」と呼んでいるものは、万人が同じものとして認識=了解するもののことである。
人間の認識は、共通認識の成立しない領域を含んでおり、そのため、「絶対的な真理」、「絶対的な客観」は成立しない。
逆に、共通認識、共通了解の成立する領域が必ず存在し、そこでは科学、学問的知、精密な学といったものが成立する可能性が原理的に存在する。
客観(一般的真理)、常識を判断停止逆転(エポケー)する。
つまり「リンゴだから赤い」のではなく、「赤いものが見えるからリンゴである」と判断した。
どのような認識条件でリンゴと確信したのか?
その確信根拠が他者と共有できる条件は何か。
その確信根拠を明確にし、他者との共有できるルールを形にすることが哲学の意義である還元:意識体験の「共通構造」=「本質構造」を取り出す。
→ 確信成立の条件と構造を明らかにする。
主観的恣意的観念論ではなく、客観的真理の存在を仮定する「傲慢な合理主義」(hemiq)でもなく。
「内在」とはその確信条件。
「超越」とは内在によって確信に至ったもの(事物の世界)。
従って、「超越」は絶対的な確実性には達しない。要するにそれはひとつの確信にすぎない。
主観と客観という分類が入り込まない思考原理。
主観と客観で構成された思考を判断停止する。
いわば別にソレが主観であっても客観であってもどうでもいいのだ。
このあたりで私、hemiqとしては人間原理との類似構造を想起しないわけにはいかない。
多元宇宙論が科学としてほぼ認知されているが、我々の宇宙から外は絶対に観察できない。この時、他の宇宙の構造を考えても答えは絶対にわからない。
我々が考察し、真偽を判断できるのはあくまで我々に見えるこの宇宙での話、つまりはローカルルールであり、ローカル真理である。
そしてそのローカルルールの適応範囲を厳密に定義すること。
その地点以外から出発する思考は絶対に「絶対」に収束することはない。
竹田による世界観における信念対立のパターン。
1)どれかが正しい
2)どれも間違い カントモデル(神のみぞ知る)
3)正しい世界観はなく、強力な世界観だけがある ニーチェモデル:普遍性の観念がない。
また、阿頼耶識論との違いもこのあたりで明確になってくる。
唯識論では識即是空だが、別に「空」と断じなくともいいのだ。
「超越」は我々の「内在」が確信したもので、その意味では存在しているともいえる。
しかしながら、唯識の方でも「空」というのは「虚」という意味ではなく、「どうでもいい」という意味での「空」なのかもしれない、とふと思うのだが。
竹田が一刀両断風にデカルト以来の近代哲学を切っていくのは見ものである。
以下、すこし引用しておく。
『認識問題・主観と客観、真実の探求という大きな近代西欧の誤謬から脱却しない限り、すべての議論はスコラ哲学風の際限なき議論の為の議論に陥ってしまう。
ジャック・デリダの「脱構築」が示すように、ポストモダニズムの根底は反規範主義、反形而上学、つまり絶対的なものの否定→精神の自由。
しかし、絶対的なものと対峙する構造は主客の論理相対主義のワナからは逃れられない。脱構築の思想は、あらゆる制度や価値を相対化はするが、その先の展望を示すことができない。
ヨーロッパの思想の流れは大きな対立を調停する原理として提出されてきた。
カトリックとプロテスタント→近代哲学
近代社会思想と資本主義の弊害→マルクス
マルクス主義の限界→ポストモダニズム
ユルゲン・ハーバーマス「対話的理性」という概念が現象学に近い。
近代哲学のおおきな流れは言語の構造の解明だった。
ヴィットゲンシュタインン、デリダの「作家の死」=言語の形式論理的追いつめ。
言語は単に現実を反映するもの、「真理」や「客観」を表現するものではないということを明らかにしたが、その先がはっきりしていない。
言語の「信憑構造」と「一般構造」を見抜く。
「私はウソをついています」(クレタ人のパラドックスのHemiqバージョン)
解法として私(Hemiq)は昔から意味の次元の違いという概念持っていた。
現象学的には形式論理的なパラドックスは生じない。
話し手との信憑性の共有があるので。
実際にコミュニケーションの場では言語が記号的に一人で歩くことはなく、常にその発信者と受信者との「信憑構造」がある。
このような本質を見抜くことが現象学的なアプローチである。
この実存的企投に発する他者との世界了解の共有(分有)ということが、発語することの基本的「動機」であり、またそれが「現実言語」の「企投的意味」の本質。
夏に私(hemiq)がネットで発信した文言が勝手に解釈され、雑多な意味を恣意的につけられ、とうとう私のブログが炎上させられてしまった経緯がある。
一義的には言語の要素の換骨堕胎、恣意的解釈による悪意の誤解だが、現象学的には彼らの恣意的世界観(彼らの世界)がどこにあり、どのようにして絶対正義が定義されているのかが良く分かった。小学生的正義感の無責任極まりない発露。
しかし、「見ている世界が違う」というのは観念論的対立だが、実際に別の世界に生きているにしても私には明らかに観念的ではない、明白な身体的苦痛を与えた。
私は別の宇宙に住んでいるのに、住んでいると思っているのは私だけで、アイツ等は自分たちの宇宙のローカルルールで簡単明瞭に処理し、実際に違う宇宙に居る私がボコボコにされるのはどういうわけだ。
「信憑構造」「共有」「分有」という語意は正のコミュニケーションが成立するという前提があるように見えるのだが、悪意による負のコミュニケーションという要素を切り捨てるわけにはいかないだろう。
『客観主義的には、世界とは物質としての実在世界(=自然世界)であり、客観的世界です。しかし、現象学的には、「世界」は、ある「主体」(=意識ある生き物)に生きられている固有の意味と価値の領域性であり、必ず「欲望=身体」としての「主体」の相関者としてあらわれる「世界」です』
ある種のダニは光の視覚と嗅覚、そして温感だけをその器官として持っている。
皮膚の温度を知り、血の臭いを感知する。それだけがダニの「世界」。
『世界はそれ自体の構造において存在するのではなく、必ず生き物の「エロス的身体性」に相関して「構造化」されたものだ。』
人間的「身体」の感覚の体制は、われわれが一般に考えているほど生得的なものではなく、じつは文化的慣習の中で構成されるものだ。
本書からの引用と私の想念とがごっちゃになっちゃったが、それだけ生々しく興奮させてくれる解説だったということだ。
覚書レベルの未整理の状態で人目に晒すことになってしまうが、別に他者が本気で読むなんてコレぽっちも思っていないのでこのまま放っておく。
現象学・唯識論に「人間原理」を加えた大統一原理の構造がほの見えてきたぞ。

〔読書控〕2014/12/22(月) 09:42

童門冬二「河井継之助(完全版)」 東洋経済社 2008
幕末の長岡藩で財政再建に活躍した家老・河井継之助の伝記小説に同僚の儒者・小林虎三郎の述懐「米百俵」、更に河井の実際の史実「実録!軍事総監河井継之助と長岡藩の戦い」を加え「完全版」という体裁になっている。
この作家の文章や小説作法には別段目新しい何ものもなく、実直に史実を掘り起こしていった創作という印象。
小林虎三郎の「米百俵」は故人の述懐という手法だが、別に感興をさそうほどのものではない。むしろ、米百俵の史実は周知のものとして淡々と語り流している感。
実直な創作態度で悪い印象はないのだが、小説としての面白さはまったくなく、もう少しハデは演出を入れて欲しかったです、とはテレビ時代の読者としての私の率直な感想。

〔読書控〕2014/12/24(水) 09:42

イケダハヤト「なぜ僕は『炎上』を恐れないのか」光文社新書 2014
私の「炎上」もある程度の距離が出来てきたので、そろそろ本格的に分析し、整理し、考察し総括したいのだが、どのレベルで総括(落としマエ)を付けるのか試索中。
この地点でこのタイトルが目にはいったので一読した。
「炎上」に関しては、当事者として同意・同感する部分はあるが、著者の真意はプロのブロガーとしての「炎上のすすめ」にあるようで、私とは立場が違う。
「いいね」をたくさんもらって喜んでいるような「普通」のブログではなく、誰も賛同せず反感を抱かれるというのは先進性、独自性の証明であるわけで、「炎上」は当然の評価としてとらえればいい、云々。
ちなみに、プロのブロガーというのは例のアフェリエイト広告で収入を得ている職業的ブログ作成者。
「炎上」もプロにとってみれば話題性をかっさらえるわけだし、仕事上の軋轢風に自己鍛錬とも捕えることだってできる。
正しいと思うことを発信し、抵抗にあって炎上するというのは、立派な自己主張であるわけだ。
私のケースは冗談で発信しているものを、全くの誤読でリツィートされていってしまい、とんだ不条理な迷惑を受けたワケで、今更「冗談だった」では済まされないような妙にひねくれた叩かれ方をした。
本当に考察しなければならないのは、そのようなネット上のバーチャル病の本質なわけで、勇気を持って自説を展開するに何ら恐れることはない、というようなモンではない。
まあ、それでも叩かれ方の実際には経験者としての痛みを共有できる部分がある。
個人のリアル生活を暴露され、リアル上でいやがらせを受けるような精神状態に追い込まれてしまう。
「ネット上の炎上が恐ろしいのは、ひとりひとりの悪意は微量でも、それが集まって大きな憎悪として対象にぶつけられる点にあります。」
また当人には関係のない事件(落ち度)なのに、抑止力という名分でバッシングを繰り返しひとりの人生を潰してしまうほどの騒ぎ立てる不公正に言及しているのはさすが。
「自分には関係のないこと(落ち度)に関し、スルーすべきである。
自分と関係のない悪事にまで正義の刃をふるう「善人」たちは、自分たちで自分の社会を生きにくくしていると気がつかねばなりません。」
「無関係の人々が勝手な義憤を冠し、「死ね」「消えろ」などと、人が自殺するまで罵詈雑言を送りつけるのはやりすぎではないでしょうか。」
まあ、このような罵詈雑言「クズ」とか「気ちがい」とかはネット上では匿名氏による通常の語彙だが、浴びせられた当人にはたっぷり罵詈雑言のリアルな切れ味を見せる、ホント不公平この上ない。
ネットはささいな悪意を増幅し、巨大な怪物を作り上げてしまう装置というべきだな。
「罵詈雑言を投げかけてくるのは弱い人間で、弱いからこそ匿名空間であるネットという自分の身が安全なところから、あなたを攻撃するのです。」
後、アンナ・アレントがユダヤ人ホロコーストに関し「凡庸な悪」(誰でもが陥る悪)と評したことでバッシングを受けた史的事実に言及しているのはマル。
中島義道の著書の引用もマル。
『他人を傷つけて平然としている彼らは、人間としてクズであるというロジックを掲げて、そいつを共同体から葬り去ろうとするのだ。
そして彼らは必ず勝利する。
それに味を占めて、その後も、たえず監視の眼をゆるがせにせず、「あなたはだれそれを傷つけた!」・・・と居丈高に告発するのである。』
これもソコラにうようよいる小学校レベルの正義の味方ズラだね。
中島先生もよく標的にされる人物で昔から知ってるが、さすがすぐ近くにいる善意の隣人の怖さをよく知ってらっしゃる。
私の場合、「炎上」させた相手に反論するというようレベルで落としマエが付くことはないだろう。
現象学的思考の原理でさえ理解されようもない小学生ばかりである。
「炎上」に関してはこのような本もあり、それなりに対処法はある。
私の炎上体験としては、主観と客観の古典的哲学上の真摯な議論を、現象学ではなく、圧倒的な暴力によって質的に変質させてしまう新しい世界の到来というような切り口でネット社会論として総括するのはどうだろうか?