[読書控 2015 index]

〔読書控〕2015/01/07(水) 15:30

月本洋「日本人の脳に主語はいらない」 講談社選書メチエ 2008


角田忠信の日本語対西欧語使用者による右脳・左脳の処理の違い論を発展させ、基礎的な言語認識と言語そのものの本質を徹底的に分析し、胸のすくような明快な解答(仮説)に導く日本語論。
 
日本語の主語に関して「象は鼻が長い」以来、言語学・文法学上の考察は多いが、脳科学から言語の本質に迫るようなアプローチはこの世代にして初めて可能になったものだ。
略歴によればこの方は工学博士で人工知能・データマイニング専攻とある。
あとがきで(ポリネシア語について)「ご関心のある方がいればいっしょに研究してもらえれば幸いである」とあっけらかんと門戸を開いているところはいかにも新しい分野の研究者の態度だな。
 
タイトルはあまりに安直だが、骨子は日本語(とポリネシア語)は母音中心の音声言語システムでは、角田の唱えるように「虫の声」を左脳(言語中枢)で処理するように、言語発声時に母音が左脳で処理され、音声が言語処理される時間的遅延はない。
対して、その他の言語では母音が右脳で処理され、言語中枢に伝わる時間的な遅延が生じ、この間の空白に無意味な人称代名詞等の挿入を必要とする。
 
また、日本語では言語発想と発話情況とは対話者との共通の場(言語空間)の共有が前提であり、『すでに認知的な「私があるので』「月が出ている」のは誰が、発言の目的も場の雰囲気で理解してしまえる。
 
『日本人が、「わたくし」「俺」「自分」「手前」「あっし」「あたし」のように、おおくの自己を表す言葉をもっているのは、様々な人間関係の認知が音声となっても表出されてしまっているからである。』
 
しかし、論理記号としての言語である西欧語ではニュートラルな論理だけが伝達され、「誰が」「どういう目的で」「何を」「私は月が明るく見え、その美しさをあなたに伝えようとしている」というような状況説明を絶えず補う必要がある。
 
このような言語の脳内での処理を最新の脳科学の実験で検証しつつ、一歩一歩論を立てて進めて行く構成。なかなか新鮮な刺激を与えてくれる本である。
 
結論的にはタイトルのような現象の論証の提出というようなことになるのだが、前提を固めて行く基礎部分が私の最近の哲学的テーマと近接していて、裏から明るい照明を当ててくれているような思いもある。
 
前回の読書で遭遇した「クレタ人はウソをいう」というような設問が、どうして西欧人には絶対的なパラドクスになるのか、という感覚も、私が瞬時にそのパラドクスから抜け出せるのも日本語脳構造という照明でも明らかになるのだ。
 
基礎部分の論証で印象的なのは、どんなに抽象的な言語表現でも言語は「身体体験」として理解される」という分析だった。
「大学に入る」のは大学を容器ととらえた容器のメタファーによる言語化作用であり、「雨に降られる」のは擬人化メタファーである。
「雨に降られる」というのは、しかし、日本語的な表現で西欧語ではドイツ語の人称代名詞の格変化がわずかに同等の表現ができるはずだ。(これは私のサービス)
世界は言語によってしか認識することができず、言語は身体感覚を通じてしか表現できない。

 
ここで月本は私には二重に面白い比喩を出す。
『地面を這う虫は世界を二次元の面としてしか認識できないが、人間は三次元の空間として世界を認識する。
しかし、もっと高次な4次元以上の感覚を持つ知性体ならまた別の複雑な次元での存在として世界を認識するだろう。』
要するに世界という外の(あるいはすべての存在の)認識は自分の身体に全的に依存したものとしか存在していないのだ、と。
ここには現象学のエポケーの前提が見えるし、唯識阿頼耶識の萌芽もある。
しかし、月本にして外在する客観体としての世界という存在根拠への根本的方法的懐疑へは繋がらない。
つまり、悪しき論理相対主義のワナからは脱却できていないのだ。
まあ、存在論哲学書ではないので私の側からの補足ということだが。
 
『他の動物は自分のことをちゃんとわかっていなくて、人間だけが自分のことをちゃんとわかっている、のではない。人間の自己理解は他の動物の自己理解よりも少し進んでいるていろに過ぎない。他の動物がじぶんのことをよくわかっていないように、人間も自分のことをよくわかっていない。』
通常は論理相対主義は個人対個人の見解の相違(独我論)という並列的並行的相対主義なのだが、ここでは大小、あるいは垂直な論理相対主義があると言えるだろう。
ここで「強い人間原理」という思考法の有効性や、現象学が指摘する外なる「客観」に囚われてしまうワナを想起してほしいのだ。
 
存在しているというのは脳がそのように認識しているということだ。
その認識の根拠は存在からは何の意味もない。
存在とは認識作用のことに他ならず。
認識作用が存在たらしめている。
つまりは阿頼耶識がすべてを私に存在させているんだね。
 
どうも最近、読む本をことごとく現象学的存在論にひきつけて理解してしまおうとする我田引水的傾向が顕著なようだ。
 
文章はなかなかいい線いっている書き手で、ときどき私をニタリとさせてくれるセリフも散らしてある。
 
『カント理論と超能力とは整合的なのである。(こう書くとカント研究者から怒られそうで怖いが。)』

『言ってみれば、I(私)とは、犬が吠えるみたいなものである。
I love you.
わん love うわん (一応 I,you を「わん」「うわん」で区別した)
「バウリンガル」といった機械をつければ犬の吠え声を分析できるらしいが・・』
 
科学論だからといって冗談を書いてはいけないという理由はない。
しかし、本当だと思って疑わない読者が圧倒的に多いんでしょうなぁ。


〔読書控〕2015/01/24(土) 19:50

高木由臣「有性生殖論 「性」と「死」はなぜ生まれたか」 NHKBOOKS 2013

ゾウリムシの接合や増殖を一生かけて研究し、地を這うような地道な観察から次第に明らかになってくる生命の進化システムへの新しい考察の提言。
観察し、考察し、仮説を立て、実証し、また真摯に批判を受け止め、修正し、やがてまったく新しい視点を科学(と哲学)に提言する。
このような研究者を私は碩学という、とちらりと横目に山中伸也氏を見る(笑)。

この本の最後の方に実に微妙な山中教授とその業績への著者の紹介がある。

ところがiPS細胞には、どこにも有性生殖とのかかわりが見出せない。
有性生殖で行われていることが4っの転写因子の導入で完全に置き換えられたということである。・・・しかし有性生殖で行われるべき必須の課程である一倍体化が伴っていないこと一つをとっても、その解釈はとても信じられない。とすれば、これはあくまでも有性生殖の真似ごとではないかということになる。
・・・
有性生殖の真似ごとではあっても、iPS細胞が臨床応用に大きな福音をもたらすだろうことは疑いない。ただ臨床応用では、治療すべき対象が改善されたかどうかでしか効果を見ないので、見えない部分で様々な未知なことがおこっていても、それには気が付かないか、無視されるだろう。
いずれ寿命延長や不老不死を夢見る人、自分のコピーをつくってほしいというような人も出てくるに違いない。
この技術に対する国を挙げてのお祭り騒ぎは、有性生殖を軽く見る人たちをそだてることになるのではと懸念される。
・・iPS細胞技術は・・・画期的な成果であり、ノーベル賞の受賞は当然といえよう。しかも幸いなことにこの技術に潜在する問題点をいちばんよく知っておられるのが、抑制の利いた謙虚な人柄の受賞者本人であったということが実に喜ばしい。


なかなか学者同士業界での礼儀もあり、若輩ながらあれよと言う間に国民的ヒーローになっちゃった方への遠慮もあり、なかなかデリケートな線を落としどころとしているのだが、私の眼には著者の苛立ちは明らかだ。
『山中氏なんてのは深い思索も哲学的な世界観も何もない、ただの技術屋に過ぎないんだぜ。技術だけで、あるいは商売っ気にかられて生命システムをあれこれいじってしまうと今に大変なことになる。そうなってもわしゃしらんぞ!』と言ってるのが私にはよく聞こえる。

私にそう思わせるのは研究者としての著者の態度が全く違うからかも知れない。

この本は学問的知見の啓蒙書であるが、著者の研究者としての個人的な研究経緯を語り、やがて生命の進化そのものに関する深い考察に導いていくような構造にもなっている。

山中氏にはビジネスマンのような研究効率主義しか私には感じられない。
本当の学者とは自分の研究の向こう側に待ち受けているものを常に考察しつづけていく人のことだろう。少なくとも原爆以降の時代の学者ならね。

ゾウリムシの接合の様子の記載:
10分ほどたつと、ぴったりとくっついた腹面融合と呼ばれる接合部分が対になる。見ていて、いかにも「有性」の現象であることを実感する。」

このような感想は論文的には無意味だが、私はこういう論理以外の感性、生身の人間としての感覚の方がより大事な学問的エンジンであると思うのだ。
私が思ったところで何の意味も世界には与えないのは承知だがね。

上の引用は当然「セックス」を連想させるのだが、実はこのレベルの「性」は「男女」ではない。接合できる種・接合しない種というグループがあるということで、「性」は二つだけではない。
「繊毛虫の仲間には何十という性(接合型)を有する種もいる」らしい。

このあたりで「性」とは何か?ということを自問せざるを得なくなる。
我々はあまりに自分自身の恣意的な世界観を普遍であると信じてしまう傾向がある。

繊毛虫細胞の大核や小核の数や形のバラエティに触れ「彼らがそのような形にこだわっているのは、その種の生息環境を含めた生活し全体の中で選択したことであり、われわれにとっては未知の選択基準があるということなのであろう。」と書く。

我々は殆ど何も知らないのだ。

著者は「原初有性生殖」という課程が進化の途上であったと提唱し、「性」の起源をこの仮説から考察する。
生命は染色体の一倍体と二倍体との生活サイクルを繰り返すようになり、・・・とまあ、詳しく解説されているが私は別に深く検証するつもりもその意味もないのは自明。

そのようなところからやがてタイトルにあるような「性」と「死」の意味に入っていく。常識をはるかに超えた知見が提唱されている。

「性」の意味とは遺伝的多様性を保証することではなく、突然変異の有効性を検証するシステムである。
生命は進化し「死」という能力を手に入れた、と。

まあ、言えば私なんぞも個人としての「老」と「死」への嫌悪を有性多細胞生物としての冷静な自覚で制御し受容しているのだが、しかし「老い」と「死」を手放しで自分へ褒章する気にはまだならない。
多分、私には一個の生物として未だ完結することがなかった「性」への未遂感が残っていて、自分の次世代に自分の命を引き継いで行くという自然な感覚が希薄なためだろう・・とか(笑)。

性の起源としては「突然変異の有効性を素早く検証するための交配相手として、自分の分身を一時的に他者であるかのようにしつらえる仕組みだったのではないか」と述べている。
「性」は突然変異の有効性を検証するシステムと仮説すれば、論理的には「異性」を相手にする必要がなく「同性」の方が効率がいい。
事実、細胞数の少ない生物では同系交配(近親交配)が支配的らしい。
遺伝的多様性は「遺伝子の多様性」ではなく「表現型の多様性」が本来の意味である。
当然だが、いくら遺伝子が違っていてもそれを発揮できなければ多様性に意味はない。

そして細胞中の遺伝子には・・まさにiPS細胞の話のようになるが、全ての能力が「最初から」詰まっているのである。じゃーん!
だから交配によって新しい遺伝的能力を得る必要はない。
ただその能力の表現形を少し変えればいいことで。

劣性遺伝子を二倍体が隠し持ち、世代間に裏で受け継がれ、そしていつかその表現系が有利になる環境になったとき優生遺伝子となって支配していく。

ここで著者は「性」やもろもろの遺伝的システムは能力を発揮させるためのものではなく、「抑制」するために進化してきたと捉える。

各細胞は勝手に増殖し、いろんな潜在的能力を自由気ままに発揮しようとする。
そのどうしょうもない細胞共を生命体としての自己が制御し抑制しているというのが生物の姿である。
ガン細胞は抑制ができなくなった細胞で、生命本来の能力である「不死」を勝手にやってしまっているのだ。
私の眉毛もそろそろ勝手に伸びて飛び出してゆくヤツが増えてきたのだが、「老化」とは能力が衰えることではなく「能力が制御できなくなる」ということなのだ。
少なくとも細胞レベルではそのような表現になる。

各細胞が勝手に能力を発揮していけば、そりゃあ全体としては衰弱するわな。
そして「死」という生命としての予定調和でリセットされる。
ただそこに自動運転用の自我意識がプログラムされているので個体の消滅を恐れる本能が自己防御にまわってしまう。
だから本来なら「老い」という課程がオートパイロットをそろそろやめなきゃなぁという定年の諦念を自覚させて収めるところだが、最近は妙に自分の「老い」を楽しめず、いつまでも老境に至らない輩が増殖しているので話がややこしくなる。
アシモフのロボット三原則をちらとおもいだしたりする。

複雑になってしまった多細胞生物としては同系生殖による表現型の「異常な」突出よりも異性との交接による「劣性遺伝子」の抑制の方が有利な戦略となったようだ。
性が自分の子孫を残そうという本能なら、できるだけ自分の遺伝子に近い同系(近親)生殖を好むハズだろう?
だが、やはり自分とは全く違う異性を好む、というのは自分の遺伝子のナマのヤバさに本能的に警戒しているんだろう。
荒ぶる自分の細胞達をなんとか収めてくれるだろう、できるだけ遠い遺伝子の異性を。

著者の考察では、遺伝子は進化のタネとしての突然変異子を表現形として表に出すことなく、遺伝子のアルセナルに貯めこみ世代間を引き継いでいく。いつかその表現形が必要になる時代に備えて、というわけだ。
進化のメカニズムは「門、綱、目、科、属、種」のどのレベルにおいても、搭乗時点ですでにそのグループ特有のほぼすべての能力を秘めている、というイメージが支持されつつある。」らしい。
だよね。
すべての生物がいづれは進化して人間に収束していくなら、どうして40億年前から営業やっているバクテリアが未だに地球上の最大最多の生物種で居続けているのか。
原核細胞は本来的に不死で、大腸菌なら20分に一回分裂増殖をする。エネルギー(餌)がじゅうぶんなら2日で144回増殖する。単純計算で体重を144乗すると既に地球の重量をこえてしまう。
地球が丸ごとバクテリアの餌のつまった丼だったとしても、それを二日で食べつくしてしまうのである」。これを「暴走系」と著者はいう。
しかし現実には原核生物はミクロな有機物を細胞幕から取り込むだけのきわめて貧しい食生活だった。
これに対し真核細胞の登場は他の細胞を「食う」という食物連鎖システム(生態系)を作り上げた。原核細胞の1000倍ものサイズの大型化した真核細胞(のゲノム)はすべての遺伝子を一斉に発現させる事態を抑制する作用なしに、この大型ゲノムは保てない。
したがって真核細胞は「抑制系」でなければならない。

この抑制と言う機能に寿命・死が含まれているのである。
ヒトは老化し死ぬ能力を手にした生物である。

ここで山中iPS細胞の話になる。
iPS細胞に期待して、将来は不老不死の人間が可能かもしれないと期待するような誤解である。・・ヒトは、老衰死という幸せな死に方ができるように進化した動物である。部品のどこにもこれといった致命的な障害が見当たらなくても、100%例外なく、必ず、ヒトは死ぬのである。個体システムが保持できなくなるというのは、どこかの細胞や組織や器官の機能が劣化、衰弱するということと同じではない、ということである。


働き盛りの壮年たち、彼らの病気を治す行為と、老人の病気を治す行為とは意味が違う。・・いたずらに死を先送りするような延命医療は避けるべきだろう。」

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最近、長々と本文要旨をまたびき・引用したりしてずいぶん書評とはかけ離れた記述が多くなった。
私の書評も殆ど読者を意識せず、自分の為の覚書というような要素が強くなったためでもある。
私も最近はかなり自分の世界観が明確になってきたが、生涯通じてゾウリムシの研究という基礎作業に一生かけて考察されてきた知見と、結論的に重なりあうような思いがあってなかなか文章の取捨がしがたい。

私のブログも炎上消滅したことだし、これからは自分自身の為だけに書き続けるというようなスタンスになるのも仕方ない話だろう。

この著者には先に「寿命論」の出版があるが、そちらも是非目をとおしておきたい。


〔読書控〕2015/01/28(水) 00:06


平野真敏「幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語」 集英社新書ノンフィクション 2013


「物語」とあるが、偶然ヴィオラ・アルタという古楽器(でもない近代楽器か)と出会い、世界で二人しかいないこの楽器の演奏者となるに至る顛末をすなおな筆致で記述。
著者はソロで活躍するヴィオラ奏者であるが、素直な感性が読みやすい文章で綴られ久しぶりに楽しく読書できた。
小説が読めなくなって科学啓蒙書や哲学関係、いわばロゴス的好奇心の本ばかり続いてしまっていたのだが、この手のパトスを使うという手もあった。

私も楽器が好きだ。
吹奏楽部出身で、次第にクラシックオーケストラの様々な楽器に魅かれ、終にクラシック音楽愛好の道に入り込んだ。今は専らピアノ演奏技術の習得しかやってないが、縦笛・ハーモニカから始まってギター、トランペット、ヴァイオリン、フリュート、それにシンセサイザー等の電子楽器までひととおり齧っては楽しんできたのだった。
著者が偶然手にした、今では失われた楽器にとりつかれ、その出自や時代背景を掘り起していき、終にはヨーロッパで初演を行うに至る経緯は楽器好きには非常に興味深いわくわくするような物語である。

それにしてもいつも感じるのだが、音楽家というのは少年の時の感性や興奮が大人になっても少しも失われていくことがないような人種なんだなぁ。
音楽を通じて出会う人間関係の緒相も、余計な思惑もウラもない敬意と尊敬に満ちた掛値のない友情ばかりだったり。
音楽の技量は聞く耳さえあれば一目瞭然で、音楽を通じればその人柄がすべて分かってしまう。優れた音楽家同士だと凡人社会のような人間関係のこじれとは無縁なのかも。
と、そんなことまで思ってしまうような素直な筆致である。
この方は文章もなかなか手慣れたもの、「日本旅行作家協会会員」というような肩書も略歴にあり、なるほど、とか。

というわけで、さらりと読めてそれなり楽しく、少しは音楽史の裏側の話にも通じ、久しぶりに爽やかな読後感というヤツにありつけた。


〔読書控〕2015/02/27(金) 15:30

青澤隆明「現在のピアニスト30−アリアと変奏」 ちくま新書 2013

なんという高雅で格調高い文章か。
まるでウソのようなくっきりした文学的具体性で語られる、本来的に文章論理にはなじまないはずの音楽や感性。
完全抽象からの不可能な具象。
あまりに文章が硬質でととのい、美しすぎるのでこれは文学的演出過多な評論だろうと思った。
しかし語るに破綻なく、ときおり混じるピアニスト本人たちとの会話でも何事かを共通した上での意思疎通が成立しているようなのだ。とするとやはり音楽と文学に双方通じた才人ということなんだろう。
なんという才能。
中村紘子あたりなら確かに文章はかけるのだが、しかしそれは単に具体的現実を端的に表現するに足る文才というだけで、この人のような抽象をメタファーとして具象する能力ではない。

文例:
「内田光子のピアノ演奏の圧倒的な存在感は、知的な解釈の鋭さと強度の凝視の力によるところが大きい。作品の可能性を細部まで隈なく捕え、その全体を有機的な造形として生きる。音楽をめぐる思索は尽きることがないが、それでも音と音の関係性のなかに、その想念と構築的な生命を響かせることに関して、これほど厳しく自己の表現を刻印する音楽家は稀だ。」

それにしても、音楽の領域をそんな風にくっきりと言葉に移し、そこから漏れ落ちる部分はどこなんだろうか、とか気になってしまう。
それは悪しき客観主義からの感想で、シニフィエがどうであれ、言葉による表現だけで完結した読み応えのある評論文ということでいいのだが。


〔読書控〕2015/03/31(火) 16:13

黒井千次「老いのかたち」中公新書 2010

この新書は旅行中等の図書館で本を借りれないような時に何となくカバンに潜ませていた古くからの玄関脇放置本だった。
ま、トイレに近い緊急用「うんこ本」とも(^^;
別に最初から読む必要もなく、どこを開いて読んでもいいエッセイ集である。
今回、富士旅行帰路のJR車内であらかた読んでしまい、やっと読了処置で私の書評欄に加えることができ、玄関脇から書庫にめでたく移動できることになった。

達意の文章は日常のほんのわずかな感情の起伏を捕え、しっかりと伝達してしまう。
素直、自然に「ああ、そうそう」「それ、あるよね。」なんて無抵抗にうかうかと同意しちゃってしまうのが達意の文章の所以である。

私も自分のブログ等で最近の老人にまつわる問題その他についてよくあからさまにあげつらったりするのだが、本意はほぼ著者の感慨と共通する。
しかし抑制の利いたバランスのいい著者の文体はあくまで新聞連載してもどこからも顰蹙を買わない、目障りのいい仕上がりになっている。
私がごつごつと主旨をまとめるとどうしてもイヤミたらしくなってしまう。
従ってすなおに本文を引用しておくので、一読していただきたい。

   == 引用開始 (文末のかっこ内はタイトル)====

もし健康な老化というものがあるとしたら、それが一番のぞましいのではあるまいか。 (健康番組、もういいよ}

若い人は時間がなくて忙しいのかもしれないが、残された時間はこちらの方がもっと短いのにな、とも思った。(時間がないのは僕なのに)

(何気なく若いハハオヤが抱いていた赤子に愛想をすると、「ほら、Mクンのオジイチャンよ」と、紹介され、狼狽する。)
そうか、オレは年寄りだったのだ、とあらためて気づいたかのようだった。では気づく前の自分はどうだったのか。・・・
昔の人はもう少し素直に老い進んでいったような気がするが、昨今は老いのステップがぼやけ、自分が階段のどのあがりに立っているのかがはっきりしない。だから時には他人がそれを教えてくれるわけなのだろう。(他人に歳をおしえられ)
(他に「<オジイチャン>に動揺」と題するエッセーもあり。)

(扉が閉じ要る寸前の列車に)無理して乗ろうとするのは老いてゆく自分であり、よせよせ醜態を晒すぞ、と戒めるのは眺める自分であるのかもしれない。(老いる自分を眺める自分)

・・人が歳を取れなくなってしまったことは我々の必然ではあるのだが、それを喜んだりそれに困惑するのではなく、その事態を一つの可能性として捉え、そこから新しい年齢イメージの構築へと歩み出せぬものか、と老いの中で夢みている。(歳を取れなくなった時代)

寿命が尽きるまで元気に過ごすに越したことはないけれど、一方には老い遅れといった現象もあるのではないか・・・。
静かに間違いなく老いていくことを課題として老年を生きるなら、老い遅れには気を付けた方がいい・・・。(老い遅れに気を付けて)

しかし、日本の老いた男性がなぜ群れようとしないのか、は気にかかるとこだ・・・。
老いた日本人男性だけが孤立を深めている気配がある。(少年のように群れる中国の老人)

若さへの未練からそれと向き合って争うより、むしろ静かにそれを受け入れて付き合う方がより豊かな時間を保てるのではないか・・。(老齢故の疲労とは)

人が老いていくことを自然であると認め、その時間を共有してくれる人間が周囲にいてくれる時にのみ、老人は快い<老い心地>を満喫できるに違いない。(老い心地)

高齢者は今や、「後期」であったり、「特定」であったりと様々な呼び名に応えて生きていかねばならない時代になったようである。・・・
このままでいくと、今度自分はどのような種類の高齢者にされるかわかったものではない。出来ることならオレは「普通高齢者」がイチバンいいのだがな、と思ったが・・・。(普通高齢者がイチバン)

オバアサンたちは三人、5人と群れて何やら話をしているのに、数少ないオジイサン達は点のように孤立して、車椅子に座り黙って天井を見上げたり、窓の方に顔を向けたりしているのだった。良く言えば毅然として孤高を持し、誇り高く時をすごしているかに見えたけれど、悪く言えば誰も相手にしてくれない場所で、ただ自分一人威張っているようにも見えた。(オバアサンの主役化)

     ====== 引用終了 =====

新聞の連載コラムとして執筆時は著者73歳から78歳だそう。
私の現在とはとは約10年の開きがある。
殆どの述懐は今の私にも深く同意でき、さすが上手く言い当ててくれているというような思いで時として「同老相憐れむ」風の仲間意識さえいだいてしまう。
しかし、全エッセイをもう一度再読してみたところ、今の私とは決定的に違っている老いの側面があるのに気が付く。
老いた男性の性との葛藤というか、調整と言うか、自虐というか、そういった生物としてのオス性の生々しさや哀しさ、その辺りの記述は一切見られない。
新聞連載という発表媒体への配慮があるのかもしれないのだが、この著者であればそれとなく暗示するような筆力はあるはずだ。
私が時として陥る初老性鬱はたぶんにこの「老人と性」の生理的矛盾に絡んでいると思えるのだが、70台の黒井千次さんの文にソレは一切ない。

もしかすると、それが著者と私の10歳の差なのかも。
であれば後10年。
もし後10年生き続ければ時として凶暴にもなる私のオス性がやっと薄れ、中性の「ただの老人」になりおおせられるのかも、との仄かな希望を抱いたりする。


〔読書控〕2015/04/03(金) 11:04

エドワード・O・ウィルソン「人類はどこから来て、どこへ行くのか」訳:斉藤隆央 解説:巌佐庸 化学同人 2013

ゴーギャンの終焉の地に書きつけられていたタヒチ風楽園図
  D'ou Venons Nous
  Que Sommes Nous
  Ou Allons Nous
 「我々は何処から来て、我々は何もので、我々はどこに行くのか」
が表紙にあしらわれ、思わせぶりなタイトルになってしまっている。
内容は原著のタイトル "The Social Conquest of Earth" が明示しているようにもう一つの進化論である。
我々は生物として古典進化論の示すごとく進化してきた。
我々は社会を形成し、個ではなくグループ(社会)という単位で進化していく(のだろう)。
というような全体のプロジェクトコンセプトをゴーギャンのタイトルに仮託してある。

進化論の新しい演繹として「真社会性生物」への進化、もしくは新社会性生物としての進化をいう概念を該博な文献からの引用を駆使して構築している。
真社会性静物としてのチャンピオンはアリ(その他10種に足りない生物)で、社会の分業が進み個体そのものがその分業専用生命としての形を持っている。
生殖する女王、精子を提供するオス、兵士として巣を救うために戦う(利他行為)兵士、労働だけを担当する働きアリ。
ここでは一個の個体が自分を守る、あるいは自分の子孫を残すという個体の欲望はなく、ただグループ全体の保存と増殖が生命活動の目的になっている。
この形の完全分業体に(まだ)なっていない人類は進化途上、蟻よりもレベルが一段下の「真社会性生物」という位置付になる。

アリがチャンピオンというのは私も同意するところだが、私は人類が進化のチャンピオンとは言いたくないのだ。
しかし「社会」という形態も進化の道程と見なすなら確かに人類の進化が一方の極北であることは否定しようもない。

元来、私も道具の使用をすることで個体としての進化はストップして当然だと考えていた。
視力聴力を個体として進化させなくとも道具を使えば遠くを見渡せ翼を生やさなくとも飛べるのだ。

そして、社会的分業によって個別能力の集積がグループあるいは種としての能力を数段階向上させていく。
進化という語感には価値判断が入っていて、果たして大量殺戮兵器を開発できることを進化と呼び得るのか、とかいうのはこの本のテーマではない。
進化とは本来的にはその生物が生物学的に有利に存続する技術の開発のことを言いたいのではないか?
進化という概念を私は種の変遷に用いたくない。
環境に応じ、あるいは環境を変え、絶えず変化していくこと。
それが生物の本来姿であって、ある種の予定調和的未来に向かって一直線に進んでいくものであるまい。
戦争兵器開発という局面にまで「進化」してしまうと、種が一方の種を滅ぼすという局面にも至る。
あるいはレミングスのように集団自決することも生物としての何かのバランスに寄与しているのか?
ならば、勝手に滅びよ、人類よ。

あっとそんな勝手な種進化論を述べるの前に検証しなくてはならないことがある。
ある種内の生物中でも分業化によって生殖を保証される個体とそれをサポートし、自らは生殖しない個体とが分離する。
このようなロボット的個体を作り上げさえしているので筆者はアリ・ハチを真正社会性動物の最上レベルに分類している。
人類は歴史的には奴隷を持つのだが、しかし奴隷階級が生殖能力もなくするところには行っていない。
あくまで個体としての生物的能力は共通している。
ただ分業による階級化は厳然としている。

進化の方法として社会を形成するとき、ヒトの段階では個体の利益がグループ(社会)の利益と相反する局面が生じる。 完全にグループ優先に進化したアリ・ハチ類では元よりグループの利益が完全に個体の利益に優先し、個体は当然のこととしてグループに身を殉ずるのだが、ヒトの個対全体の利益の複雑な葛藤は単なる進化の未完成で中途半端な中間形だからだろうか?
著者は後にその不安定な利害のせめぎ合いこそ人類がここまではびこってきた理由である、というような視点を提出している。
少なくともアリ・ハチ系にまで進化してしまうと現在の環境内では高効率だが、グループ全体の柔軟性が損なわれ、不安定な環境に適合することが出来なくなると。

またこのとき、このようなグループ(種)全体の利益を優先する自己犠牲的行為を成しうるのは遺伝的形質に既に書き込まれているものなのか?
とすると個が全体を滅ぼすこともできるヒトという生物は一体?

ま、その前に、コミュニケーション能力が遺伝的に保証されている形質かどうか?その辺りの検証をしておく
ここでチョムスキー普遍文法批判が提出される。
のだが、すんません、中身忘れてしまいました。
言語能力が先天的に備わっていたのではなく、別の能力を後天的に借用した、とか?

ま、そのような議論が展開されていたのだが、今となっては定かではない。結語に近い辺りの引用でお茶を濁しておく
「自然選択が固有の普遍文法を生み出せなかったことによって、文化の多様化がたらされ、そのフレキシビリティや潜在的な創造性から人間の能力が花開いた」
「人間は生まれつき善人だが、悪の力で堕落しやすいのか?それとも、生まれつき悪人で、善の力でのみ救済できるのだろうか?どちらもである。そして、われわれの遺伝子を変えない限り、未来永劫そうだろう。
人間とその社会秩序は、完成することは本質的に不可能で、幸いにもそうなっている。絶えず変化する世界では、未完成なものにしかない柔軟性が必要なのである。」

「生物多様性」という言葉を使い出したのは著者だそうだが、さもありなんという他はない文。
「個体選択は罪と呼ばれるものの多くをもたらす一方、グループ選択は美徳の大半をもたらすのだ。両者は一緒になって、人間の本性における悪魔と天使の葛藤を作り出している。」
生物進化学者が踏み込んでいく道徳の起源。
不完全であるから進化できる。
そのような進化ができる能力があるから不安定な世界に対処できる。
というメッセージである。

別に人類がどうなろうと私に興味はないが、私個人がそのような武器としての不完全性の体現者であると認知していただければ、もちろん社会的に個としての私は生きやすい。
当然ながら厳しく宗教(ここではキリスト・イスラムのような大宗教)の道徳一面性を著者は却下する。
「宗教的信仰は、人類の生物学的歴史の中でさけられなかった見えざる罠と解釈する方がいい。そしてこれが正しければ、服従や隷属をしなくても精神的な充足を得る方法がきっと会うハズだ。人類には、もっとよい待遇がふさわしい。」


解説者、巌佐庸のやや専門的な批判が巻末にあり、著者の業績を称賛しつつもこの書の一方の主題の包括進化論批判に難あり、としている。
この進化論の子細には私は興味がないのでパス。

あれやこれやで楽しく読めた本だが、私の春の鬱期と重なってしまい、しかも「カトマンズで死んだ」りしていたので2か月以上も手元で停滞していた。
著者の提出するすっきりと啓蒙的な図表やデータは個別に興味深かったのだが、今となっては中身を定かには思いだせない。
この書評は不本意ながらあまりアテにならないデキ。


〔読書控〕2015/04/17(金) 10:07

石井光太「世界「比較貧困学」入門」PHP新書 2014

アジア・中東のスラム事情に詳しいライターが指摘する特異な日本の貧困の実体。
私の持論は「貧困とは経済問題ではなく、他者との相対的劣等心理のこと」だ。
「比較貧困学」とはそのような情況を言うと思っていたら少々違っていた。
「比較言語学」と同様の使い方で、日本の貧困の実情を他国の問題と比較し、相違点を明らかにしいていくことらしい。
大雑把にマトめると、中東・アジア諸国の貧困者はコミュニティを形成し、そのメンバ内での相互扶助がセイフティネットになっている。
日本では公的セイフティネット制度が完備され、貧困者はコミュニティから切り離されて孤立することが多い。
また、公的セイフティネットからも外れてしまう貧窮者は「絶体」貧困となり、そこからの復帰回復は至難である。
中東・アジア諸国の貧窮者には杜撰な制度を逆手にとった善悪両面にアナログ状に遭遇するチャンスがあり、その地位の回復の可能性も大きい。
例えば窃盗・売春等の「軽」犯罪は必要悪として制度上も厳しくは取り締まらない。
ギャング組織は一方では政府の制度を補完し、更には汚染された政府に代わって地域密着型の福祉支援を担っている部分もある。
どんなに貧困でもいつかは抜け出せる可能性もあるので、貧困者は相対的に明るい顔をしている。
等々。
「比較」なのでティピックな面ばかりが強調されてしまうが、日本の貧困事情に関して大きな問題を提起しているのは間違いない。
福祉制度が完備しているとそれに頼ってしまい自助努力、特に家族・友人・隣人といった小コミュニテイからの相互支援が希薄になるだろう。
貧困対策に完全な解法はないが、自助努力を促すという意味では手厚い支援は害になるかも知れない。
現在イスラミック・ステートが世界的問題になっているが、この組織がどのような意味を持つのかは支配地域の貧困問題をよく見なければ解らないだろう。
日本や西欧諸国の報道の一面的な価値観からは見抜けない事情があるのは、この本のような報告からもうかがえる。

日本の貧困事情ということで私の側からの指摘を加えておく。
中東・アジア各国の貧窮者は移民・国外出稼ぎが重要な生活対策になっているが、日本では自分の住み慣れた地域を離れることが極端に少ない。
貧困とは周囲との比較による劣等心理のことなので、日本のこの貧窮は絶対的に救いがない。例え餓死するような貧窮だとして、周囲が皆そうであれば「自分が貧困である」という劣等意識は生じない。
未だに東北大震災の復旧云々を連綿とメディアが放映しているが、同時期に起きたタイでの洪水被害のニュース映像が忘れならない。
水害で崩壊した家の前で膝まで水に浸かりながら、その辺の家族が平気な顔でたむろし、子供達はニュースカメラに向かって好奇に満ちた笑顔を向けていた。
「全財産を失う」ということの心理的重さが日本とこの映像のタイでは全く違うのだ。
同じ仏教国だったハズだが、現代日本では物欲から逃れるのは至難のワザになっているのだ。
一度、アンタも全財産を失ってみたら?
貧困も死ぬこともそんなにいうほど苦痛ではないんだよ。


〔読書控〕2015/05/07(木) 23:32

鷲田清一「死なないでいる理由」小学館 2002

なかなかのタイトルだが、これはこの哲学者が端的に「現在」の諸相をサンプリングして見せてくれるエッセイ集の一つの記事タイトル。
全体がタナトロジーに関する論だと思って騙され気味に読みはじめたが、別に「死なないでいる理由」を教えてくれているわけではない。
しかし後半によく登場するパラダイムシフト諸相や逆転する価値観の分析を読んでいると、なかなかうがったタイトルという気もしてくる。
生きることに理由は要らないが、死ぬには理由が必要だ。とすると「死なないでいる」にも理由が必要になってくる?
いや、そんな論理のハナシではなくて・・・。
この方は阪大学長を務めているほどのアカデミシャンだが、感性はいたって在野の好奇心に満ちている。なにしろ最先端のファッション評論家でもあるわけで。
エッセイに引用される人物は、吉本隆明ではなくて吉本バナナであったり、寺山修司や村上春樹であったりする。いかにも同世代、団塊的感性が満載。
今ではまったく名前も聞かないがマクルーハン。いましたね、40年前には夢中になってホットなメディアがどうたらこうたらやってたのだった。懐かしいねぇ。
このエッセイ集が出版されたのはもう10年以上前なのだが、いちいちの分析や指摘に示唆されることも多い。いや、示唆というような明確な情報ではなく、見方、捉え方や文章そのものが納得。
そうだね、同世代ですからね。やはり同じ時代の空気を吸っていたというか。

都市論、身体論、幸福論、ファッション論と多岐にわたるエッセイでいちいちレジュメないが、印象に残った文言を少々。
『所有論(propriete):生命や身体を所有する(可処分権)という意識、自己同一性がひび割れている。
何かをだれかのものとして主張するその所有の根拠がどこにあるのか(熊野純彦「レヴィナス」)、そしてわたしたちの社会の所有のかたちは今どういう問題を孕み、どういう変革を求めているのか〈大野剛義)・・・
これまで「所有」というかたちで問題になってきたものの多くを、いまや可処分権という対象支配の言語によってではなく、他者との「交通」という言語で語りなおす必要が出てきている。
臓器移植を「命のリレーです」と報じるマスコミの空々しさ。
人生において新しい言語の水準にうまくはいれなくてとても不安になるときに、ひとは空飛ぶ夢を見ることで、言葉を習得し赤ん坊から人間になった成功体験を自分に言い聞かせている・・・
言葉による自己離脱体験・・どこまで行ってもじぶんがいるところはここなのに、それでもここからじぶんを離したいと希う。』
言葉、外国語、ピアノ演奏、物語化・・自己離脱願望とマトメでもいい?
『パノプティコン(集中監視型監獄)と逆パノプティコン(劇場・テレビ)、逆転する内と外、裏返しの壁。
寂しい時代、「妙に哲学的な時代」・・』

え?この文言はすでにどこかで引用したぞ?
なんだい、やはり再読かい(^^;

では、前回の私の書評を引用し、中途半端なこの記事を置く。


〔読書控〕2015/05/16(土) 10:55

萬田緑平「穏やかな死に医療はいらない」朝日親書 2013

胃瘻やがん手術、多くの延命治療を手掛けてきた外科医だった著者が、何でも治療をしてしまう病院医療に疑問を抱き、在宅緩和ケアにたどり着く。
結論的に言えば、家で老衰し自然死(老衰)するのが最良の終末との確信を得る。

タイトルから私が想定していた通りの内容で、素人の私と医者の著者が同じであっていいんだろうか?とちらと思う程。
もう少し医者としての奥行があった方がなんだかありがたいんだが。

病気を治療しようとするだけの病院に老人を運ぶことの矛盾をはっきりと指摘している。
病気になれば病院に入れ、治療を終了して退院、しかしまた直ぐ次の病気になり入院を繰り返す。
終には病院で生涯の最後の時間を過ごし、病気と苦闘しているまま遂に死亡する。
医者や家族が苦闘する老人を「がんばれ、何とかして行き続けろ」と鳴り物入りで励ます。本人がもう死のうと思っても病院ではそれは許されない。

逆に末期ガンの患者を在宅療養させるのは可能なのか?
著者は積極的な治療を行わないなら可能とする。
そして、多くの場合ガンで痩せ細った患者にそんなに苦痛はないという。
苦痛の種たる原因はチューブで強制栄養補給をおこない、強力な抗がん剤を投与する闘争によるものだという。
末期ガンの老人を無理に闘いに押しやってはいけない。
静かに敗退できるように苦痛の除去だけを医療は行うべきで、これは病院での治療ではなく、在宅緩和ケアがその役割を果たす。

確かに病院で自然死はできないだろう。
病院は治療するための施設なんだから。
家族の生きて欲しいというエゴ、医者の治したいというエゴが死を前にした老人を苦しめる。患者本人は死を受け入ていることが多いのにかかわらず・・・

逆に、穏やかに死を受け入れた患者や家族に感じるほのぼのとした死期の光景にある感動を覚えると書く。

アチラに行く私より、見送ってくれる家族に一読しておいて欲しい本。


〔読書控〕2015/06/20(土) 15:00

たくきよしみつ「デジタル・ワビサビのすすめ」講談社現代新書 2014

副題 ー 大人の文化をとりもどせ
「デジタル」と「ワビサビ」は一見対極にあるような概念だが、意図はコンピュータは決してアナログ的感性を切り捨て感覚の幅を狭めてしまうだけ(わけ)ではなく、むしろ新しい体験や表現をもたらしてくれるツールとしてとらえたい、という含意だろう。

例えば音楽演奏で可聴範囲外の音はデジタル録音では圧縮され切り捨てられてしまう。
しかし音として聞こえなくとも皮膚感覚や空間の奥行き感のような形での音として数値化できない情報も脳にはインプットされる。
このような切り捨てによって、多量のデータに簡単にアクセスできるようになっている。
しかし一方では、初音ミクというデジタライズされた合成音声の歌声に独自の意味性格を発見し、「初音ミク」の歌声をマネて歌う人間の歌手も登場するという現象もある。
・・・このあたり、経済的理由から細かい動きを省略した結果、独自の表現に達した日本アニメのことを想起させる。

現在私も毎日アクセスしヒマさえあれば浸かりきっているネット社会の現状の光と闇の部分を公平に紹介。
フェイスブックのいいね!のわなや、ビッグデータとインタレスト広告。
ニセベートーベン事件やブログ炎上現象。
広く浅く多方面の情報が集約されている現在ネット事情といったところ。

中でも気になった指摘は、ミクシーやフェイスブックは知っていてもインターネットっていうのは知らないという世代が出てきたという話。
我々の世代はそれこそパソコン通信時代からのネット社会の歴史を生きてきているのだが、もの心ついた時からすでにネットでつながりSNSで会話する世代はインターネットというものの存在を意識することはない。
それはそれで、そのような社会になっていけば別にいいじゃん?というようなもんだが、ある日突然ネットが破綻した時、どのように彼らは対処していくんだろうか?

インターネットやデジタルデータとどう向き合っていくか、改めてこの課題を認識させる本。
まあ、自分で向きあわなくても向こうからじりじりと押し寄せて来、気がつけばいつの間にか世界全体がデジタル化され、既に全世界がインターネットで覆われてしまっているのだ。
ネットが破綻すれば空気が無くなるように世界も無くなる。
簡単なことだよね。

他、デジタル機器に関する実用上のノウハウもふんだんに披露されているが、この類いの知識はすぐ古くなってしまう。
この手の本は再版されるようなことはないだろう。


〔読書控〕2015/07/07(火) 17:05

南條竹則「人生はうしろ向きに」集英社新書 2011

ポジティブ思考、生涯現役、最後まであきらめない、希望を持って、etc.
それはそうなんだろうが、実はそうじゃないので無理してそんなことをいうんだろう。
本当はみんなうすうすわかってるんだ。
現実はみじめでどうしょうもなく、未来なんでもっと苦しく救いがたい。
これ以上この世のありさまを見たくない。
今すぐ止めてしまいたい。

と、そこまで行くと簡単なんだが、しかし積極的にこの世とのかかわりを断つという程の切迫はしていない。
ただ何となく未来はもっとしんどいんだろうなあ、と覚悟してせいぜいその時が来るイメージトレーニングは欠かせないようにしている。

そういうイメージ・トレーニングに絶好の本。
まあ、このお方は英文学系の先生なんで、チャールズ・ラムのエリア随想なんかを解説しながら、過去に浸って暮すことの喜びと充実感を確認し、つまらない現在との折り合いをつけることを勧めてくれる。
いうなれば、早いことこの現実世界に見切りをつけ、脳内での文学的昇華を経て自適生活をすべし、という主張か。

すると老荘思想だね。
考えてみれば老荘やペシミズム、あるいは文学的昇華の鎧でこの散文世界から逃れる、てなことは昔からだれでもやってたことなんだ。
宗教世界に憧れ、小説を読みしたり、古い音楽に安らぎを覚えるなんて、正にそっちの方向だろ?

著者と共有する感慨は、西暦2010年現在あまりにも一面的で皮相な「ポジティブ思考」が蔓延し、そのような「健全な」ペシミズムを目の敵にしてしまうような風潮が幅を利かせすぎているということか?
老いや病気に対する徹底的な嫌悪、若さや美容に対する狂信的な種着。
普通に枯れたおジイちゃんをやって、自然死(老衰死)をするなんて現代では許されない贅沢でもあるようだ。
病・老・苦・死を極端に恐れ、考慮の外に追い出してしまう病的なまでのオプチミズムか。

「健全なペシミズム」。そうだね、これだね。


〔読書控〕2015/07/27(月) 10:29

橋本強司「匿名性とブラックボックスの時代」文芸社 2006

現在のスピードではもう過去の出版物といわねばならないが、現在のネット社会、ひいては日本や世界の現状を「匿名性」と「ブラックボックス」というキーワードで分析し、その問題点を指摘する論点はますます確証されつつある感がある。

匿名性はもちろんネット社会の特徴だが、これは発信(=アウトプット)の容易さよりもそれに引きずられるインプット情報の過多とアウトプット情報の希薄性が問題になる。
膨大にして無意味な受信情報と次第に個人性が失われ無意味化していく発信情報。
量的なインプットとアウトプットとの齟齬が引き起こす様々な社会現象の分析。

『自分の世界に引きこもっている場合、突然アウトプットの機会が目の前に現れると、そのアウトプットは過激な形をとりがちである。
そして想像力が衰えた者の過激なアウトプットは他者を傷つけるのである。
「大勢にすり合わせる形で自らの動機づけや自己主張する」ことを得意としてきた日本人は自分自身で主体的にアウトプットする代わりに、他者と合わせてアウトプットする。これは、まさしくいじめ社会の構図である。』

ブラックボックスとは原因結果の因果関係や論理関係が見えないのにそのまま放置せざるを得ない複雑化した社会の宿命だろう。
膨大な官僚機構のそれぞれの細部はもう分からない。
しかしその細部が分からないまま施政としてのアウトプットを受け入れる他はない。
このとき、本来は官僚機構に対する庶民の目の代表として政治家やマスコミがあるべきなのに、つまりブラックボックスを少しでも透明にしていくという役割があるはずなのに、現実にはブラックボックスの意向を強調する形でしか機能していないと見える、と書く。
私には例の地球温暖化論争がまったくこの構図に見えてしまう。
本当のメカニズムは私には理解できないのに、マスコミや政治が率先して旗を振る。
それは決して建前の「環境保全」という目的ではあり得ない。
単なる自己利益誘導としか私には見えないのだ。

著者は開発途上国向けプロジェクトに長年かかわってきた経歴があるが、このような分野でもますますブラックボックス化した「開発援助」の問題が顕著になってきていると指摘する。
『貧困問題とは経済問題というよりはでは社会問題である。・・あるいはそのような生活環境に関わる決定に参加する機会から排除されているという状況こそ貧困情況なのである。・・・
たとえ経済が発展し所得がいくばくか向上しても、富裕層との格差が拡大しては貧困が軽減されたとは認識されない。
・・・経済発展による波及効果は絶対的貧困に対して無力と書いたが、この波及効果ほど貧困問題にとりくむNGOに不人気な概念はない。富裕層をさらに豊かにする経済発展のおこぼれによって貧困層を救うとも取れるからだろう。
人は飼いならされた生存よりも主体的な死を選ぶ。これこそ自爆テロの本質である。』

この最後のフレーズで思わず勇み足をしてしまった感があるが、この文脈では日本のふやけた匿名社会の現状のことではない。
このような情報のグローバリゼーションの中の日本の孤立こそが匿名性とブラックボックスの時代の特徴だろう。


〔読書控〕2015/07/28(火) 12:00

芳賀直子「拍手しすぎる日本人 行列してまで食べないフランス人」 講談社α新書 2011

最近、コンサートのフライイング拍手について2,3考えたのでこの書が目についた。
帰国子女でヨーロッパの目で日本のコンサートの現状を見る違和感を率直に、イヤみにならない真摯な批判で書いている。
ただし「行列してまで食べないフランス人」は単なるアイキャッチャーで、深くフランス人気質を掘り下げて書いているわけではない。
単に行列ができる店に行きたがる日本人への揶揄である。

やたらと感動したがる日本人。
「感動をありがとう」と盛り上がりたがる日本人。
感動の敷居が低すぎるのではないか?
実際の生理的などうしようもない快感ではなく、単なる有名人を見たというだけで、少し自分が有名人と近くなったような自己満足。

いろいろと著者が体験した日本のステージ客の態度に関する見聞が紹介されていて、深く同意することしきり。
私も一時期コンサート評を定期的に書いていたのだが、何も分かっていない客と同じ空間にいることにもう耐えられない。
分かっていないなら静かに困惑していればいいのに、どうして分かった風に拍手喝采しようとするのだろうか?
偽善ということが他人と合わせて生きる日本人の基本的な生活姿勢になってしまったのか?

フライイング拍手について歌舞伎の屋号掛け声とのアナライズがあり、なるほどと思う。
要するに自分は通であるということの披瀝で、歌舞伎ならばそれも舞台空間構成の重要な一要素であるのだが、元来王侯貴族のホビーであったバレーでは演目に観客が参加するという要素は全くない。
まあ、日本の聴衆には拍手も公演を構成する要素という意識があるのかもしれない。
何も感じるところはなくとも、拍手はして帰る。
拍手することで、せめてものチケット代と時間を使ったことへの結論的決着を確認する?
種々のステージと客の態度に関するうがった分析は傾聴に値するのだが、そこから大きく日本と西欧の文化背景の違いに目を向けているのが流石。

行列してまで食べないフランス人を少し解説する。
翻っていうと横並びで自分が集団に帰属しているという意識を持つことが日本人の行動の基礎にあり、「流行です。売れてます。満足度No.1」というと自分も参加したくなる。
しかし西欧的感覚では自分は自分であり、返って誰でも着ているような服なら買いたくない。だから「よく売れてるんです」というセリフは西欧では勧めるキャッチフレーズにはならない。
また、子供と大人の区別も日本では明確ではない。
子供が大人の世界に平気で侵入できてしまっているので、大人になりたいという欲求を日本では持ちにくい。

文化背景の違いはあるだろう。
しかし、皆と横並びが苦手な者にとっては日本はいかにも住みにくい。

『「わからない」「好きでない」といえない日本人が「すごい」といわれるものを実際に見て、感動したと思いこむ。これは・・すごいに違いないと自己暗示をかけて拍手したり、「ブラボー!」と叫ぶのと同じかんかくでしょうか。』

「人と比べなければ幸せになれる」という章タイトルが最後にある。
日本では他人と合わせることが生活するということで、無理して合わせなければならないと思いこむことが不幸。

私も日本での生活を選択した者である。
しかしいろいろ違和感は多く、ストレスのタネはつきない。
そのストレスを外に向かって暴発的に発信してしまう前に、このような本が代弁してくれているのを目撃し、私だけではない、と密かに矛先を収められもする。
この地点で読書は生きる力でもある、と言ってもいい。


〔読書控〕2015/08/10(月) 14:33

宮城谷昌光「うみの歳月」文芸春秋 2015

もう小説は読んでいない。
架空の人生に思いを馳せる程私の精神には余裕がない。
自分の終末をどのように決着するか、それともどのように破滅するか、今その境界を行き来しながら、それでも日常を続けている振りをしいている。

宮城谷昌光の新作なら読めるかもしれない。
いや、読みたいものだ。
遥か古代の凛とした人間の精神性に触れ、一瞬でも自分の不定形の精神に固い芯のようなものが存在することを、あるいはもう存在しないことを、その測定をしてみたい。

作家生活25周年記念完全私家版・・・これは出版を意識せず書いた現代小説群だった。
当初、私よりわずかに上の年齢の宮城谷、確とした古代中国の物語作家が、70歳を目前にして若い日の女性達との感情のやりとりを書くのか、と読み違えたのだが。
これはあくまで未発表の現代小説群で今、宮城谷の創作の力点が変化したということではない。

しかし、そのように読み違えたい願望はある。
私は今また生き悩み、そして女性達との交流や交情への妄想だけが私の生命を支えているというありさまなのだから。

考えているとおり 苦しんでいるとおり
書けばよいのだ
光などいらない 私は歩きながら書く (歩行考)

宮城谷は遅く、中国古代史の作家として自分の書体を成してから作家になったが、一方では書くという行為は現代の男女関係の中から醸成されてくる感情の彩、一つの気分を語ることから欲求されていたように見える。

それは自分のことを語るということだ。
作家は自分のことを語る為に作家になり、作家であるために自分以外のことを語り続ける。

明らかに文体は作家宮城谷とは全く違う。
小説とは文体のことだ。


〔読書控〕2015/08/24(月) 17:12

小林照幸「アンチエイジングSEX その傾向と対策」 文春新書 2011

私は永らく自分なりの「老人のやり方」を模索してきた。
私としては精神肉体を段階的、あるいはシステマチックに縮小していき、想定した78歳でつつがなく人生を終えるようプログラムしてきたつもりだ。
しかし、今年の春あたりからこの計画に大きな齟齬が目立つようになってきた。
どうもプログラムどうりには私が縮小していかない部分が目立つようになり、全体とのバランスが非常に悪くなってきている。

老いる肉体に連動し精神活動の方も惚けていき全体にゆるいオジイチャンになっていくようなシステムを目指していたのだが、これが大きな誤算という他には無くなってきた。

私の同年の友人達でも、もちろんもう既に死亡した者もいる。
しかし残りの生きている個体の方はすべて「働いている」、つまり社会に積極的に関わっている方ばかりだった。
老人になってからの個体差はまったく千差万別で何歳だからどうたらこうたら、という基準はまったく意味がなくなっているのだ。

「おい?ひょっとして後10年ちょいとではうまく逝ってくれないのでは?」と自問することも。

思えば、この春に自分でもまったく意外な春の再生衝動・リビドーと言った方がいいかも・を感じ、あてどもない恋心のやり場に困り、精神的バランスを崩ししばらく鬱状態だった。
この時は「カトマンズで死んだり」し、何とかリセット衝動を抑えてきたのだが、そのリビドーはくすぶり続け、若い女性達でにぎわう夏の街のそぞろ歩きへの下地をつくっていく。

一向に老いてくれないのは精神の方だけではない。
肉体そのものも明確に老いを拒否し、未だに男性性を一向に捨てようとはしていないのだ。
配偶者は既に更年期に達し、いつの間にか性的に中性に還っていった後にも、いつまでもくすぶり続ける男性性との不幸な葛藤。

いつまでも「男はつらい」のだ。

この新書は文藝春秋が行った老人の性生活に関する読者アンケートの結果を踏まえ、数的に解析し、このあまり正面から論議されたことがなかったこの分野の現状の報告である。もちろん文藝春秋を購読しているような層、殆どが中堅サラリーマン出身とうような層であり、こういうアンケートにも積極的に応えようという意思の持ち主が対象という限定はある。
しかし、著者と共にここでは60歳以上の半数が性的活動(性生活・その他)を日常的に行っているという現状の報告に驚く。
もちろん、裏返せば約半数が既に性活動を終えているということだが。
結論的には老人だからという限定は全く意味がなく、全ては個人差によるという印象。

更に広く言いかえれば、性的活動は自分で終えない限り年齢とは関係なく継続する(できる)ことが読み取れる。
男女を問わず、70台・80台の老人の性活動の報告の多さが傍証になっている。
もちろん男女差は明確で老人世代の約半数が性的活動を行っているということは、男性の75パーセント、女性の25パーセントが「現役」ということも読み取れる。
女性の場合も閉経とは関係なく性的活動を継続しているケースもある。

この数字をどう見るのかは個人の恣意だろう。
著者は非常に楽観的な見解を貫いている。
SEXを「愉しんでいる」老人は精神的にも肉体的にも「若さ」を維持できている。
やはり若さとSEXは相関し、アンチエイジングという見方からSEXの積極的な効用を推奨しているという立場のようだ。
その中にはもちろん不倫・浮気に関する報告も数多い。
しかし、著者は倫理問題に深く触れることなく、あくまでアンチエイジング的なメリットに報告を限定している。
「人の倫に反している、と言われれば返す言葉もありません。でも、彼女と過ごす時間は残り少ない私の人生における生き甲斐なのです。」(小谷さん77歳)
私を含め、著者も含め、男性には素直にガッテン・ガッテンという立場ではないだろうか?

私は男がいつまでも男性性を捨てきれないのでその処理に悶々としていた状態だったのだが、この夏に自分の精神と肉体をじっくり検証してこのように見方を変えてみた。

「男は愉しい」

そのように言い換え、性衝動や性活動が終生可能だということは生物として喜ばしいと素直に喜びたいと思ったのだ。
そしてこのような楽天的な報告に満ちている出版物を目にし私の配偶者に一読を勧めたのである。

・・・
結果、相変わらず私は今「悶々」とし、自分の男性性と命を削っての神経戦を闘っている毎日(:_;)

標準的女性にはまたまったく違った世界観があり、男がいかにアンチエイジングに腐心し、命を削り、世界が崩壊しようと、そんなことは目前の一杯の紅茶に如かないというドストエフスキー的不条理が支配する現実を構成している。

老人一般・標準的老人なんてどこにも居ない。
個々の年齢の個々の人生・個々の家庭を抱えたあらゆる立場の個人がいるだけである。

生きることに関する悩みや課題は終生つきることはないだろう。
我々が過去の社会や歴史から学ぼうとしてもどこにも手本のない、未曽有の老人社会が到来しているのは確かなことだ。


〔読書控〕2015/09/11(金) 12:36

桐山秀樹「ホルモンを制すれば男が蘇る」講談社α新書 2011

最近私のパソコンにやたら表示されるインタレストマッチ広告の文言のようなタイトル。
さすがに「男が起つ」という直截ではなく、単に男性更年期障害は男性ホルモン減少によって引き起こされるので、そこを何とかしようという健全な提案。
まあ、裏で言いたいことは「副交感神経は、人間が食事やセックスなど楽しいことをする時に優位になる。その時に出るのが男性ホルモンだ」とかからこちらで察しておくワケだが(^^;

生物学的には既に繁殖期を終えた男性は速やかに退場すればいいのだが、それが人間場合かなり狂ってきてしまっている。
しかしそんなに簡単に退場できないご時世なので、なんとか男性ホルモン・テストステロンの減少を補う必要がある。
以前NHKの「ためしてガッテン」で全日本プロレスの真田聖也・征矢学(当時)が登場し試技実演、NHK史上初のプロレス中継というように私の記憶ではなっている。
格闘技を見て興奮するとテストステロンの分泌が盛んになるという主旨だった。
NHKにしてはなかなか斬新な試みだったのだが、残念なのはもう一つNHK史上初のアダルト女優の生実演もやって欲しかった・・これは絶体無理か(^^;

男性ホルモンについては以前から活性化を試みていて、本の内容的にはあまり新しい知識は得られなかった。
スポーツクジムでの体練と共にプロレス中継とアダルトビデオ鑑賞は、時にサボりたくなる時もあるが、私の基本的な日常のお仕事と位置ずけて頑張ってやってきた(^^;
ま、特に最近は日々枯渇していくエッチな気分をメンテナンスすることに留意していたのだが、これはどうしても「ためしてガッテン」では取り上げてくれない分野で、したがって一般家庭の健全な主婦層にはその重要性を理解していただけないのだ。

ところで、この本では別にそんなところで苦労してテストステロンを絞り出すのではなく、簡単にホルモン補充療法で補えることが分かっているとか。
え?体外からの塗布で結構補えると?

そか・・考えとこう(^^;
そうすれば、別に無理してエッチな気分をメンテナンスする必要もなくなるわけだ。
「ガッテンガッテン!」・・

という訳には簡単に行かんだろう。
逆に、テストステロンが充分であれば当然性欲も高じて行くわけで・・・

ま、そんな男性ホルモンの補充というような即物的なことより、いくつになっても異性に対する新鮮な憧れを持つことや、広くは生活上の未知へのワクワク感を枯渇させないということが男性の生きるという意欲のエンジンになっていると思うのだ。


〔読書控〕2015/09/16(水) 15:28

香西洋一「サイゴン下町暮らし奮闘記」角川書店 2001

ベトナム旅行の参考書として読了。
かなり古い本だが、もう旅行してベトナムをすべて見て来てしまったような強烈な記憶を植え付けられた。
この元大阪人が初めてサイゴン4区に足を踏み入れた時に感じた子供の頃の大阪下町的貧困と混沌はよく理解できる。
しかし、その後のサイゴン下町生活は私が覚えている大阪西成釜ヶ崎の貧困と混沌から類推するよりももっと強烈だったらしく、日本人であることをゼロクリアし未だに著者はそのカオスの中で生きることを選択したままらしい。

なかなか文章も面白く、一種大阪的自虐ネタ風のひねりがあって飽きさせない。
「日本人は世界中のスリから愛されているが、ベトナムでも同様らしい」
カンボジア大使館で労働ビザを申請に行き、相当難癖とつけられ、シボられるだろうと覚悟していたが、申請に何が必要を担当官に聞くと、一言「カネ」と。
拍子抜けし、思わずニッコリし、「好きだなぁ、こういう国」との感想。

まあ、我々の倫理観や文化では相当なエゲつない屁理屈を並べ他人の金を巻き上げるに徹しているサイゴン下町4区の住人の話が大半を占め、その生存文化背景の違いに度胆を抜かれる。
しかし、どこか戦後焼け跡闇市風の突き抜けた明るさも感じる。
自由ということの?

著者はあとがきでこう記している。
「日本やアメリカのように一見自由を享受し、誰にでもチャンスがあるとされる国は、そこに住む普通の人々にとっては、実際には見えないしがらみによってがっちりと固められ、いざ自分でことを選択しなければならないとき、その選択肢は極めて限られたものしかないように俺にはおもわれる。」

「もし、今でもアメリカにいたのなら『諦めなければならない』と考えること自体が悪に近く、何としても障害を取り除き獲得するこっとに、『生きる意味』があると考えていると思う。俺はもうそんな考えはどうでもいい。」

「日本で生活していたならば、いつも将来のことを心配し最悪のことを想定しきゅうきゅうと暮らしていたことだろう。しかし、ここで暮らしているとあまり将来に心配がないのである。非常に精神的にいい。ただしあまり・・・だが。」

違う文化の違う経緯の生活があり、私の周囲に張り巡らされている日本という倫理の見えない壁がもっとはっきり見えたりするのなら、既にベトナムに旅行した意味はあるだろう。
すでに旅行は始まっている。
まだ荷物も作ってないのだが(^^;


〔読書控〕2015/10/23(金) 12:32

吉川永青「我が糸は誰を操る 戯史三国志」講談社 2011

若い世代の作家。通勤時間中に小説の構想を練ったという。
膨大な三国志の文献の中から今までスポットが当たらなかった人物を主人公に小説化。
このような世代が昔の大家や現行の大御所と同じように中国古典劇の舞台で文章を飛翔させることができているのが驚きだ。
しかし、案外大学で中国古典を学んだくらいの知識があれば、そして適度な想像力さえあればいくらでも量産できる素材の宝庫か?ともおもったり。
ちなみに、この第一作の主人公陳宮は若き曹操に見いだされ、その軍師としての天分を発揮するが、ある地点で自らの傀儡にはなりそうにない曹操を裏切り、力だけが取り得の呂布を立て皇帝に押し上げようとする。が最後に失敗し、曹操に処刑される。
しかし、突出した英雄、曹操・孫権・劉邦等とその頭脳だけで互角に闘い自らキングメーカーになろうとした人物の像は異色で小説的な人物造形が面白い。
久しぶりに中国古典劇での有力な作家が出た、と喜んだのだが。

しかし、2作目はただの孫権の将軍が主人公で一作目程の新味がなかった。
別に物書き産業として量産しなくてもいいのだ。
一作でもいい。
この作の最後のシーンのような余韻を読者の記憶にとどめておければ。

陳宮は自ら選んだ人物を皇帝に擁立し、天下の曹操を知略でもう一歩のところまで追い込むが、最後にやはり人物の選択が誤っていて失敗する。
曹操はその天分を惜しみ、なんとか再び自分のブレーンとして働かそうと助命を提案するが、陳宮は敗軍の将として処刑せよ、とあくまで軍師としての人生を全うする覚悟を伝える。失敗したキングメーカーの断頭台での自負がなかなか快かったのだ。


〔読書控〕2015/11/02(月) 10:18

鈴村和成「金子光春、ランボーと会う マレー・ジャワ紀行」弘文堂 2003

ひと月前にベトナムに行った。
今から台北旅行に行く。
たまたまそのような朝。

金子光春とランボーがマレー半島で交差していた。
その辺りの光景を克明に追った紀行文。
モノクロの写真がまるで150年前、100年前、50年前の光景のように掲載されているのだが、その実筆者が撮影したカラー写真のリプリントで10年前の光景にしか過ぎない。
金子光春とランボーの他にも詩人の姿が隠れていて、その一人は鈴村本人である。

『夜の八時半のチャイナタウンには、凄い熱気が渦巻いていた。ここは暖色の街で、私などが久しい以前になくしてしまった、懐かしい汚れがあった。このきたなさは多分、熱さと関係があるのだが、こういう汚れた熱気にどっぷり身を浸していることには、何者にも代えがたい幸福があった。
自堕落な、ぐたっとした幸福。熱さの中で人の心が溶け出してゆく。溶け出していって自他の区別がなくなること、そこに群集の孤独の核心、その深い秘密の核心があった。』

この文章を物した時、鈴村は私のベトナムと台北の旅の「きたない幸福感」の本質を示してくれる。
群集の孤独とはオルテガの用語だが、まさに暑い国の戸外でうごめくようにただ暮らしている人々の中に紛れて自分のささくれだったアイデンテティを密かに、本人にも内緒で消し去ってしまうことの自分でなくなる淫らな幸福感のアリュージョンになっている。

そうか、君よ知るや南の国、豊饒で淫猥で子供のごとく純一な反文明への憧れか。

この人の紀行のスタイルは先行する二人の詩人の姿も活写して不思議な奥行を感じさせるが、文章自体も独自の感性があってちょいとした言い回しに生の紀行文の即興的な味付けが楽しい。
水道設備があるのに、伝統的な左手で拭いて右手の柄杓で左手を洗う道具も置いてあるトイレをインドネシア人のきたないダンディズムと評す。
しかし直ぐ後で、スコールのざざ降るなかでの、ギリギリの生活を目撃し、「汚いダンディズム」と、あまりに軽く評す旅人の無責任さを自嘲する。
したたかな文章の書き手である。

私はもう紀行文を書かずに旅行しようと決意している。
もう旅の目的が明確にはなくなり、今はただ「熱帯の人格も溶けて崩壊していく幸福感」に逃げ込もうとしているだけなのだ。
しかし、この著者のような歴史と過去の詩人の思いがどこかの脳髄世界の中で独自に組み合わさっている様の目撃者となり、また違った世界の解釈を可能にするような文章の力に感応する能力まで私は失っていない。

もう一人の隠された詩人は清岡卓之。
「マロニエの花が言った」が鈴村にランボーと光春の交叉する足あとが現実世界に存在することを教え、50年か100年か後にカメラをペンにして紀行させにいかせてしまう。
このような詩人たちにとって、旅は生きることそのもののことなのだ。


〔読書控〕2015/11/18(水) 11:23

佐々木譲「警官の条件」新潮社 2011

本当に久しぶりにエンターティンメント小説を読む。
私の中ではこの作家は既に定評があり、もう読むモノがなくてどうしょうもない時、図書館で借りてくる用でプールしている作家名になっている。
少々厚い目の警察小説だったが、最初のページから硬質の緊張感が続く男性向け娯楽小説を楽しめた。
私には全く縁のない警察とヤクザ組織の裏社会の駆け引きの話で、エンターティンメント的脚色に満ちているとは思うのだが、硬派の階級社会の内部事情や男達が習得した技術を駆使して命のやりとりをするマニアックな専門性にも興味をそそられる。
体育会系肉体能力の誇示、ピストルやハイテク犯罪用具の仔細、裏社会や犯罪の血なまぐさい緊迫感、そんなものにやはり血が騒いでしまうのは私にも感応する部分もあるのかと。
この作家の筆致からは、いわば熟練旋盤工のしっかりした手作業の技術を見学しているような即物的・実体的・具体的な、つまりは限りなく事実に即しているような生々しさを感じるのだが、それは経歴上の実社会での職業経験からくるのだと思わせる。

このタイトルもシリーズ物らしい。
ついでにもう少し他の作品も楽しませていただこうか。


〔読書控〕2015/11/20(金) 12:01

佐野洋子「死ぬ気まんまん」光文社 2011

タイトルのエッセイは2008-2009作、他に医師・平井達夫との対談とホスピス入院記「知らなかった」収録。本人は2010年72歳で死去。

このタイトルが気にいって読み始めた。
本気で死ぬことを語ると、どうしても重苦しくなるハズだが、その辺りはテクニックか「天然」か、おそらくその双方だろうが、突き抜けたユーモアで笑いとばし、かるくて時にすがすがしい文章。
死ぬことに対して正視せず、直論せず、できれば「きれいごと」で押し隠して最後まで誤魔化しおおせようとする現在日本の死文化を笑い飛ばし痛快。
私にもその辺りを連載エッセーにまとめたことがあり、著者や私の著作の啓蒙によって今では少しばかり「死」への準備を説くという風潮も馴染んできているように思える。
まあ、まだまだだがね。

著者の言『当時は「人の命は地球よりも重い」なんてそんがバカなことは誰も言わなかった。命が地球よりも重い訳がない』云々。

きれいごとで細部や実像を覆ってしまって、すっきりと整理できる方はそれでいいだろう。
この伝ですべての生活・社会問題の諸相を一面的に断ち切り、断ち切れない者と物は「悪」として排除しようとする風潮がやりきれない。
自分に快くないものの徹底的弾劾。
今は先週の「パリのテロ事件」への日本のマスコミの一面的弾劾だけを例に示しておく。これは自分にとっての快不快という生理判断だが、それを人倫・道徳・社会システム上の絶対悪と「多数決」で決定し、その絶対を疑うことのない皮相性がぁ!・・・

書評として軽い文章・絶えざるユーモアで的確に本質を言っちゃってる著者の末期高齢者としての目の確かさの根拠はどこに由来するのか、だけを書いておこうと思ったが、つい私の今の鬱屈が出てしまった(^^;

故人の文章集という形なので巻末に解説みたいなものがある。
「旅先」の人--佐野洋子の思い出」 関川夏央
『豪放でいて繊細であった佐野洋子から立ちのぼる「よるべなさ」の空気は、「引揚げ者」のそれだった。
・・・彼女は、正統な、そして最後の「大陸出身者文学」の作家であった。そんな彼女は、日本での暮らしが「旅先」にすぎないという感覚から、ついに自由ではなかったのではないか』

おそらくそれは正しい。
自分と今此処が絶対的に、唯一無二の存在の原点であると信じて疑わない精神には、多分死は永遠に見えないのだろう。
自分、今、この日本(世界)を架空、仮託、「旅先」に過ぎないと感じ相対化してしまう視点が自分と世界、生や死を笑い飛ばす。


〔読書控〕2015/12/10(木) 10:39

笹本稜平「その峰の彼方」文芸春秋 2014

「あるいは多忙とは、一種の麻薬、それが言い過ぎなら鎮痛薬だ。それは魂の奈落から目を背けさせてくれる。自分が意味もなくただここにいるという不条理から目を背けさせてくれる。
しかしその答えを追い求めることにしか人生の意味を見いだせない者がいる。」

厳寒のマッキンレーの未踏斜面に単独で臨み、既に30日。
生死の境で彷徨う魂が対話する幽冥とも現実ともつかない声。
あるいは自分の内部とも外部ともつかない存在を主催する自然、その実在を実体として見せている作用の意味そのものが発する解答であるのかも。

一人の天才クライマーが遭難する。
しかし周囲の者には人生の正に最も成功した時点で密かに未踏単独行に臨み命のリスクを冒す意図が分からない。

この長編の前半を占めている周囲の疑念や主人公の背景説明がくどく、読むのにも厳冬登山の苦役と忍耐を強いられる。
後半部、何とか生還し、病院で回復しない自己意識の内側でじわじわと回想されていく遭難時のクライマーの見た世界の記述が秀逸で、未知への憧れ、根源的興味、存在論的意味、意義への肉薄が一気に小説的な興奮を与えてくれる。

何故山に登るのか?という古典的な設問は現在でもこのように有効なようだ。
ただ圧倒的な自然の中で無心に命のやりとりをする、そのような究極的に生きることだけにかまけられる極限の「忙しさ」だけが本当に生きているという存在の不安、キルケゴール的な絶望の根源にまで自分を還元させ分解し、生でも死でもない存在のもう一つ下にある、実体として投影されているものの元にある姿を垣間見ることができるのか?
あるいはこれも現象学的阿頼耶識に迫るひとつの手段なのかもしれない。

・・・とかいうような境地をちらりと見せてくれる。

「しかし自分の人生に意味を与えられるのは自分だけだ。・・そして魂はそういう本当の意味に常に飢えている。」
「ただ言えることは、山に向かうとき、それもより厳しいところに向かうとき、なにかが心にふれるのだ。・・存在することの意味を問うことが、神が人に与えた本当の役割なのかもしれないと。」

一瞬のエラーが明らかに死を招くしかない極限の状態で、「あの声の主に護られている−−。そうでも考えないと説明がつかない。
あるいは何らかの理由で脳神経系に異常を来し、恐怖を感じる中枢が麻痺でもしていると考えるしかない。・・・
しかしそのときの自分も尋常ではなく、そんな場面でも冷や汗一つかかなかった。冷静沈着というようなレベルではない。むしろ異常心理と言うべきものだろう。」

生死の境に自ら望んで自分を追い込むとき、自発的ドパーミンの分泌で死への恐怖というアチラへの本能的バリアを取り払うとき、自分の生の意味が客観的に見えてくることもあるのかも。
まあ、見えなくともいいが、見えた気になれば、「そういうことか」と最後にニタリと笑って終えられるのかもしれない。

作家のテーマとは違うのだが、終活を真面目にやっている者にとって結構気になるイメージを与えてくれる参考書とも(^^;


〔読書控〕2015/12/16(水) 13:02

榎本博明「記憶はウソをつく」祥伝社新書 2009

自分が記憶している世界はかなり恣意的なもので、確信があろうとなかろうと既に何らかの変形を受けている可能性がある。
日常的には言った時点では正しいと心から信じていた事実が思い違いであった、ということが発覚したりする。
人が意図的にウソをついているわけではない。その人の記憶が誤っているのだ。

このような現象に自覚があるなら、自己主張のトーンに「ただし、私の思い違いでなければ・・」というような留保が付くハズだ。
しかし圧倒的多数の場合、自分の記憶が誤りであるという自覚はなく、記憶どおりに世界は存在していると信じるしかない。

自分の記憶する世界があやふやなものだったら認知症患者のような存在の不安に捕らわれ、まともに生きることが困難になる。
この新書の奥付け後ページの出版広告に「『自分だまし』の心理学」(菊池聡)というのがあり、「人は、無意識のうちにウソをつく。そうやって自分をまもっているのだ!」とのキャッチ文が付いている。同様な主旨の本と思われる。

自分の記憶が自分の都合のいいいように自由に恣意的に記憶されているのは自分が傷つかないための大事な心理作用である。
しかしことが裁判における他人への証言となると、個人の自由と済ましているわけにはいかない。
この新書は主として裁判の証言に現れる誤認知を詳しく紹介し、分類しその変形や過誤の拠り所を分析する。

あまりにも多くの証人が誤った記憶に基づいて証言し冤罪が成立、実際に死刑になるケースもある。
このような無邪気な証言第一主義で冤罪が成立することに暗然となるわけだ。
このような事態に警鐘を鳴らすことが著者の研究のモチベーションであるようだ。

弘前大教授夫人殺人事件では被害者の母の確信に満ちた「犯人に間違いない」という証言が決め手になって死刑が確定した。
しかし20年後真犯人が検挙されることになる。

知的生涯児施設甲山学園保育士が園児二人を殺害したとして起訴された根拠は保育士が被害児童を連れて行くのを見た、という一人の園児の証言だった。
しかし、最初から証言の事実が事件当日のことなのかどうかの確認ができないままで。
裁判は結局無罪となるが、この事件や裁判が広く報道され、保育士が園児を連れ去るのを見たという証言も周知されることになる。
すると数年後の再審開始になって、事件当初には何も記憶がなかった園児3人が、自分もこの保育士が被害児童を連れて行くのを見た、という証言をすることになる。

この例では証人が施設の児童なので比較的証言の信謬性を議論しやすいのだが、前者の事件の被害者の母親の証言では、その確信に疑念を抱くのは難しいだろう。
誰でも「立派な大人」がウソをついていると思いたくはない。
まして本人が誤認しているという自覚がなく、自分の記憶があくまで唯一無二の真実の世界と信じているんだから。

私は比較的寛容なので各自が自分に都合のいい真実を保持するのは当然だと思っている。しかし、私の真実(見ている世界)は他人の真実とは違っているという意識は常にある。こういう意識があるので、私には周囲の世界への違和感は常にあり、実は日常的に鬱に苦しめられてもいる。

一方では自分の見ている世界、あるいは自分の記憶、が唯一無二のものと信じて疑わない方も周囲に厳然と存在し、このような方とのコミュニケーションの困難さが今の家庭不和の大きな要素になっている。(←ニガ笑)
あ、これは記憶の恣意的変容ということからはズレるのだが、自己確信という心理的防衛から見れば同じようなメカニズムによるだろう。

自分の見ている世界の真正さが信じられなければ生きていけない。
しかし、他人の見ているのはまた違う世界であるという認識を持つのは容易ではない。
「他者の真実」が容認できなければ、それを「悪」とし、完全排除してしまわないと、自分の世界、自分の真実の完全無垢性が保証できなくなってしまう。

私は限りない鬱との闘いを強いられて生きている。
しかし少なくとも私は恣意的な「自分の真実」を守るため、「悪との闘い」を絶対善と信じ力で排除するような傲慢に陥ることはないだろう、と見ているのが私側の真実である。

next year