[読書控 2016 index]

〔読書控〕2016/01/08(金) 23:56

スコット・トゥロー「無罪」 二宮磬 訳 文藝春秋 2012


「推定無罪」から23年、作中人物も同じだけ年齢を重ね今はキンドル郡上訴裁判所上級判事になっているラスティ・ザビッチを再び地方検事代理のトミー・モルトが殺人容疑で起訴。
出版する作家の時間と作中の時間がシンクロナイズし、架空の物語に現実的な奥ゆきを与える。
もうひとつ、読者の時間もそれなりに経過していて、そういえばそのような人物も、というような記憶を呼び起こす。

なんという贅沢な物語だろうか?
かつて読んだ物語がうっすらと記憶の中に想起し、新しい展開が今また生起する。
まるで連続性のない私の現実の時間より、読むことで物語に参画し20年前から確として続いているバーチャルな空間で生々しく確実に生きている読者としての私の時間。

前作の内容や感想はほとんど覚えていない。
しかしどこかで見知った人物たちが巧妙に演出され、現代アメリカの一地方都市のリアリティを付与され、希薄でまったくニセモノ的な私の現在をいとも簡単に消し去っていてくれた。
もちろん本来の謎解きや法廷でのサスペンスが進行エンジンなのだが、さりげない細部の綿密な仕上げが本物そっくりの時間をあたえている。

ザビッチは東欧移民の息子で検事あがりの判事だが、この地方法曹会の大物を裁くのにほとんどの同僚判事が忌避し、よその郡の今でも英語がうまくしゃべれないアジア移民系のイー判事が招聘される。
このような移民社会の成功者を登場させても物語の進行にはまったく影響しない。
たんに一地方都市の一社会の雰囲気を醸し出す小道具にすぎないのだが、イー判事の私室にはビバルディの楽譜が飾ってあり、本人はアマチュアオーケストラのオーボエ奏者であるといような情景がさりげなく書き込まれている。
バーチャルな空間で本来的には物語にはなんの関係もない細部が奇妙に、と言えるくらい克明に作り込まれ、そういうなんでもない細部が実に「読ませる」。さすがというか。
法廷でのサスペンスは本来のメインストーリなんだが、読者としては自分の現実を遥かに凌駕する、圧倒的なリアリティでアメリカ中部のキンドル郡に暮らし、この少し奇妙な事件の顛末を地元紙で毎日読んでいるようなここ二週の日常だった。このような小説は分厚いほどありがたい。
後また20年ほど経過すると息子のナットがまた法廷で活躍する物語になっているのだろう。
私の生涯よりそちらのバーチャルな読書内の生活の方がはるかに生きるに値する。

久しぶりに行き当たった読書の楽しみにたっぷりしたり込めた二週間だった。

追記:物語の前作「推定無罪」を読んだ日付を今確認してみた。
   1995.1.8になっていた。希しくも21年前の同日だった。


〔読書控〕2016/01/18(月) 13:37

伊藤哲司「ベトナム 不思議な魅力の人々」北大路書房 2004

今は自分の生活をリセットする可能性ばかりを考えている。
とにかくまた今ここで日本でいつものように暮らしていくことができない。
どうしても鬱鬱とし、生きている喜びなぞ感じることはない。
以前はヨーロッパに渡って全く別の生活圏に入ることを考えた。
今はベトナムが何故かそのような鬱とおしい思考を呑みこんで無に返してくれるような気がしている。
何も考えず、ベトナム中部の町でただ食って寝て暮したい。
もちろんそれが無知な一旅行者の勝手な夢想に過ぎないのは承知なんだが。
ただ、一昨年のシャルリー・エブド事件で見たフランス人の思い上がりへの反感が強く残り、嘗てのようにまたフランスに渡り、ただの一外国人になって暮そうという気にはならないのだ。
ベトナム的カオスがゴミまみれの私も平気で呑みこんでくれるような気がするのは何故か?

かなり前の出版物で昨今の一種のベトナムブーム(?)以前の時代のリポートということになる。
学生時代から頻繁に渡越し、長年に渡るベトナムの人々との交流関係の記述が主。
今ではかなり都市化・観光化し、世界のどこにでもいるような顔の人も目につくようになった、とあとがきで述べている。
嘗てのベトナム。
貧しいが、現在物欲世界の巨人アメリカと戦争して勝ったという誇りが貧しさからの卑屈とは無縁な精神を育んでいるのか。
現在の一旅行者としての私の印象なんて無意味に近いのだが、なんとなくベトナムには貧困故の卑屈という図式を感じなかった。
周囲のベトナム旅行者の印象も同じような感触のものが多い。

本書の後半でベトナム戦争というテーマでの言及があり、キタ(ハノイ)のやや教条主義的なベトナム賛美に陥りやすい印象、南(サイゴン)の屈曲したベトナム戦争観や、当時反戦活動をしていた人々の現在が語られ、本書の価値を類書から抜きんださせている。
前半は貧困だが善良で、人懐っこいベトナム人万歳的記述だけの印象しかない。
著者の持続力はそれでも大したもので、まったく裏のない善良な学者的(学校的?教育的?)良心が貫かれ、まあ、私なんかがとてもマネすることはできない一貫した態度に感心はするのだが。

ベトナム戦争ではアメリカに勝利するのだが、もちろん人々はアメリカに敵対感情を持って生きているわけではない。
普通にアメリカ人旅行者もうじゃうじゃ来ているわけだ。
しかし、著者の見聞によると2000年9.11の貿易センタービルテロ事件に対し多くのベトナム人が快哉を叫んだということだったらしい。
現代日本のようにまったくアメリカ的価値観で世界を見ているということではない。

『アメリカはベトナム戦争での『敗北」をすっかり忘れてしまっている。反省することを知らない巨大な権力が暴力的に振舞うことほど恐ろしいものは無い。 ・・・
暴力(軍事力)で物事を解決するというやりかたを人類はずっと取り続けてきたわけだが、そろそろやめる知恵をうみださねばなるまい。』

著者がベトナム研究者だというと、日本では「あんな遅れている国に?」という反応を示されることが多いと書いている。
発展途上国や一流国といった言い方に含まれる、直線的価値観が抜きがたく現在の日本を支配している。
ベトナムからなら、金と物にだけにしか価値を見ない世界とは一歩離れた世界が未だに見えているのだと私は信じていたい。


〔読書控〕2016/01/22(金) 16:54

円城塔「道化師の蝶」講談社 2012

SF方面で名前は聞くのだが、これが初読み。
以前図書館で他書に目を通したが、ハードSFチックではなく、小道具・小技の類を楽しむような言わば好事家向き、知的お遊びというような趣だったのでスルーした経緯がある。私はずっと遊ぶという心的余裕がないようなのだ。
「道化師の蝶」「松ノ枝の記」中編二本立て。
いずれも「群像」発表作品でSFマガジンではない。
純文学というにはあまりにファンタジスティックで、SFというにはあまりに文藝的過ぎる。
今回もスルーしようとしたのだが、読み始めるとどんどん言葉とロジックの遊びに絡みとられ、次々に万華鏡のような景色を繰り出され、結局どこまでもいっても終わりがなく、止める区切りさえないのだ。

『次の文は嘘を言っている。前の文は真実を言っている。』(道化師の蝶)

この作中の言葉と論理の遊びをそのまま織り込み脚色し物語風に綴ってみるとこのような創作になるのかも。
遊びとしての文芸でまったく無意味なんだが、結構真面目に遊んでいるのかも。
なんとなれば真実というものが無意味であるのなら、無意味が真実なのかも。
少なくとも生きていること自体が無意味であるよりも。
人類の未来のためにとか言いながらそのナンセンスを真実と取り違えて生きている不真面目よりは。

この虚が実を越える、まあ、虚が実を嗤う文芸というジャンルは「松ノ枝の記」でかなり究極的なナンセンスを創出している。
「翻訳者が翻訳した作品を原作者が再翻訳する」のだが、この「原作者の再翻訳が実は最初に翻訳者が翻訳した作品だった」りする。
このようなナンセンスで精緻に論理され、実体化された文章を読むことでかろうじて意味が付与されているような気もする私のあまりに無意味な生という現実の顔をした虚構。


〔読書控〕2016/01/29(金) 11:49

山本啓一「グルコサミンはひざに効かない 元気に老いる食の法則」 PHP新書 2014

どうしても見入ってしまう健康食品・サプリメントのテレビCMF。
悪どいまでに老いの心理をつき、巧妙に仕組まれた合法スレスレの表現。
万事懐疑的な私が見ていても危うくダマサレてしまいそうになる、現在日本の異常な健康ブームを演出し宣伝し拡大し利益を得ようとする企業の商活動。
絶対におかしい、とは思うものの素人の悲しさで私は理性の声を上げることが出来ない。
一般世間はどうでもいいが、そのミクロ版の家庭という小世界ですでに孤立し、あまりの無力感にキレてしまう。
そこでこのような著書にせめて目を通し、自分の直観の正当性の拠り所とする。

テレビに代表されるこのような悪しき商業主義。
これは見方を変えれば果敢な経済飛躍への挑戦といってやってもいい。
我慢ならないのはその営利主義の主張をそのまま真実と信じ、翻って信じられず、健康にいいとされる食物を拒否するものを世界の秩序を破壊する悪とみなし排斥しようとする善良な家庭の隣人がやっかいだ。

生化学・生理学の専門家がズバリとこう指摘する。
「グルコサミン飲んでもひざには効きませんよ」
「コラーゲンなんて摂取しても顔のハリにはなりませんよ」
「ポリフェノールなんて摂取しても抗酸化作用なんて期待できませんよ」
まあ、それだけならわざわざ書評は書かない。
ちらりと内容に目を通してその論理的根拠を家庭戦争における私の側の武器にするだけだが。

著者も暴走気味のコマーシャリズムの拡大に一言言わねばならない、とこのようなキワものめいたタイトルの本を書くのだが、内容はその皮相的な風潮への警鐘にとどまらず、科学啓蒙書として沈読に値する内容だった。
この中には私が嘗て他の記事で指摘した「長寿遺伝子サーチュイン」に関するNHK番組への疑念や「一日4杯までのコーヒーを飲む人は長寿を得る」という朝日新聞の誤認記事等、(逆か?「コーヒー一日4杯、死亡リスク高め」?)ジャーナリズムによる一方的な解釈への警告も含まれている。

「これはCMです」と小さく書かれた新聞の全面広告にはもとより割り引いて目を通すのだが、NHKの番組や朝日新聞の記事のような直接営利主義とは見えない媒体でもこの異常な健康帝国支配の論理からまぬかれてはいない。
データは解釈次第でどうにでもアレンジできるものと科学者は思っているらしいのだが、実際に反論するというような同業者への挑戦的な行動にでることはない。
ここでも最低限の社会的生活への保障を確保しておかねばならない。

著者の筆致には(タイトルの攻撃性とは違って)「反論」というようなセンセーショナルなものはない。
よく考え抜かれ、妥当な見解だろうと思える範囲の表現で停めているのが大部分。
例えば「コーヒーが身体にいい」というデーターの解釈の別解:
コーヒーが一日何回も飲めるような資力、環境で生活している方はその他の生存条件も良く、低所得層よりももともと健康であるという可能性も無視できない、等。

まあ私に言わせれば、コーヒー4杯と数字を言われるとなんとなく科学的に厳密な定義という気になってしまうのだが、私のコーヒー一杯はマグカップで、デミタスの一杯とは四倍くらい差がある。それに焙煎濃度だってそれぞれ違うハズだ。
それがどうして「4杯」という数字の根拠になるのか?
そこに具体的な数字という看板を掲げるとただ納得してしまうような心理の落とし穴を悪用している商業主義のしたたかさを私は常に見てしまう。

この書で私が一番興味を持った体内細菌の話をレジュメておこう。

我々の身体を構成している細胞の数は約60兆。
一方体内に住み着いている最近は10兆から100兆。
われわれ固有の細胞からいえば人間は真核生物だが、身体構成している個数からいえば「原核生物」でもある。こういうさりげない冗談は(^^)v

ところで、大部分の体内細菌(主として腸内細菌)は善玉でもなく悪玉でもない。
ただわれわれと「共生」しているだけ。
けれど、この共生者は単にエサを奪い合うという競合関係になるので外部からやってくる他の細菌に対しての自然な抑止力になる。
善玉か悪玉かという素性を明かそうと製薬メーカーは必死で研究するのだが、同じように健康な人でも体内細菌の数や構成はまったく違っていて、その人の健康にどの細菌が影響しているというような特定はまったく不可能。
また、赤ん坊にはできるだけ多くの細菌と接触させ、雑多な体内細菌を早く取り入れさせた方がいい。←これは多少の揶揄も入っている表現だった。

食物繊維は人間は消化できないので、そのまま腸内まで行きこのような共生者達のエサになる、ということなので必須栄養素らしい。

この我々の身体の細胞は種としての人間として同じだが、一方の体内細菌組成は個人で全く違うという事実はかなり重要だ。
偶然一昨日(1月27日)たまたま点けたTVで「池上彰 テレビ未来遺産 腸内フローラ腸内細菌」というのをやっていて、その中の研究者の言によれば「指紋と同じで、一人として同じものはない」とのこと。
同番組で一カ月の糖質制限ダイエットをした人の腸内細菌組成の変化を調べた結果、一カ月で細菌構成が劇的に変化した事例を紹介していた。
健康な人が自分の体内環境つまり体内細菌組成を維持するのは極めて重要で、この研究者は「我々の食欲は実は体内細菌の繁殖欲、つまりエサを求めている生存欲が支配・コントロールしている」可能性がある、と何とも興味深いことを言っていた。

また、同番組で潰瘍性大腸炎(弟よ、聞いてるかい?)の抜本的治療法として便移植手術を紹介、乱れた腸内細菌バランスを健康な人の便から抽出した細菌群を移植して治癒する方法を報告していた。
ここで重要なのは移植した便の提供者が殆ど同じ文化・食環境で生活していたと思われる家族のものだったことだ。
おなじものを食べていたとしても、一人としてまったく同じ細菌組成にはならない。
腸内細菌を増やすというヨーグルトがいろいろ出回っているが、この研究者によれば夫々の体内環境に依存するので自分に合うヨーグルトは自分で試して納得する以外にない、という。

多分、多くのサプリメントも同じだろう。
テレビで宣伝している平均的多数者向けのコピーをそのまま自分に適応できるとする感覚の無意味。
その無意味を他人にも適用しようとする無知の善意の暴力。

テレビを見ないことは簡単なんだが、テレビを見ている人と接触しない訳にはいかない。
ポリフェノールがどうの、カテキンがこうのというのだが、本当にそれが効果があるのかどうか、この生化学者はそのような次元では言明するという意図はない。
『私はむしろ、コーヒーやお茶の味と香りを楽しむという心の余裕のほうが、じつは健康によい影響を与えているのだと思います。』

テレビを見ている人の意見なんか気にしないで、私は自分の好きな物を留保なく楽しんで食べたいのだ。


〔読書控〕2016/02/05(金) 12:38

宮城谷昌光「草原の風」上中下 中央公論社 2011

懐かしくも親しい語り口で滔々と語られる宮城谷の古代中国モノを読む。
現在の日本語の漢字とは少々色合いの違った用法や見慣れない文字そのものに出くわすのも楽しいが、王朝の栄枯盛衰と特に人間とその生き方のくっきりとした明暗が、混沌もやもやとした偽善の薄暮中の現在からはいかにもすがすがしい。

後漢(紀元25年?)を起した光武帝劉秀の伝記。
「劉秀ほど巨きな寛容力をもった皇帝は空前絶後であろう。」と宮城谷もあとがきで書く。
この覇者にはまったく悪を感じるところがない。
土と労働を愛し、勤勉で他人への思いやりに満ちた青年が一旦革命(前漢の簒奪者王莽の「新」に対する)軍に身を投じると奇跡的という他ないような軍事能力を発揮、遂に皇帝にまで上り詰める。
しかし、この覇者は悪意で報復することはまったくなく、旧敵をことごとく許す。
現在の感覚なら、そのような逆説的な行動をとる裏にはそこに精緻な企業的計算が働いているのだ、と解する以外にないのだが、そこはそれ、時は古代中国なのだ。
古代の史書の学徒である劉秀には善政という理念が確として実在していたようなのだ。
その理念にしたがって危険な選択を毎回行うのだが、不思議なことにすべてがうまく運んでいった。
なぜか?
さて?

小説内での作中人物の解答は「徳」が全てというもの。
うそぉ!小説だからじゃん。
と現代の読者なら一言するところだが、この小説が史実を外すことはない。
現代ではまったく不可能な為政理念だが、これは政治の目的が理想・善・正義ではなく現実的利益・経済的発展・民主主義的偽善に代わっていることが主因だろう。
経済主導と宗教的理念の欠如。
これが現在の狂気の社会学的解答である。

実はこれは次回の書評のターゲット、エマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」の論旨ということにもなる。
すっきりした理念で運営される古代という時代に私は生きたかった。
それがかなわぬなら、せめて宗教的空白+経済優先ではないところ。
せめてベトナムへ。


〔読書控〕2016/03/18(金) 00:51

エマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」堀茂樹訳 文春新書 2016

パリ2015年一月のCharlie Hebdo編集部襲撃のテロ事件に際しフランス市民の多くがテロに抗議するデモに参加し、犠牲者との連帯を表明。
「Je suis Charlie」(私はシャルリ)が共通のスローガンになった。

フランス2のニュースでこの報道を見、「フランスは何を誤解してるのか」としか私には思えなかった。
テロの犠牲者を悼むあまり、反イスラムのヘイトスピーチにそのまま単純に連帯してしまっているのだ。
明晰でないものはフランス語ではない、と嘗てはその理性と理念の崇高さを誇った国ではないか。
テロによる殺害というショックに際し、フランス市民は理性を捨て、「私はシャルリ」と叫び、むき出しの自己防衛本能のまま異端排撃へと走り込んでいった。
この後、イスラム系フランス人に対する迫害が始まり、そして古典的な反ユダヤの機運が表面に露出し、遂にオイロぺがナチスの制服を纏い始める。
テロ攻撃の恐怖が本来の理性を覆い隠してしまったのか?

そうではない。
フランスには既に盲目的な異端排撃へと突き進むべき必然があったのだ。

エマニュエル・トッドは哲学・歴史・人口学の立場からこのフランスの狂気を検証し、警告していた。
「ゾンビ・カトリシズム」と呼ぶ形骸化した宗教心が支配する地域、貧困と自由が裏腹に錯綜する都市部、急激に変化する社会構造。
すべてが「私はシャルリ」を用意し、そしてその後のフランスを予言していた。

いや、フランスは一例にすぎない・・
『したがって、「フランス風」集団ヒステリーの発作は西欧のどの国の社会でも起こり得ます。もし常軌を逸したテロ行為によって、「普遍」なるシャルリが突然、自らが支配し、後ろ盾になっている不公正で暴力的な世界の現実をつきつけられるような事態になれば・・・』

エマニュエル・トッドはいう。
『フランスは、その支配層の不平等主義的で反自由主義的な具体的振舞が、フランス史の最も暗い時期、すなわちドレフュス事件やヴィシー政権の時期を思わせるというのに、間抜けにも、自らを1789年の大革命や、自由および平等の価値や、普遍的人間という理念の後継者だと思っている』

『神が存在しないというのは高度に理性的な考え方だが、人間存在の究極の目的と言う問題に解を与えてくれない。無神論を突き詰めていくと結局、意味なき世界とプロジェクトなき人類を定義するところにしか行きつかない』

『ゾンビ・カトリシズムのフランスのほうは、いったん何かを介するということもなしに、直接ただちに神なき世界、無神論的世界の無限の空白に身を移すことになる。
世俗主義的フランスもまた、それなりの角度から、今日の新しい宗教的居心地の悪さに貢献している。無信仰に慣れなければならないからではなく、ついに、教権主義の側からの異議申し立てという論理的・心理的なリソースを奪われた「絶対」の中で無信仰を生きなければならなくなったからである。』
『われわれは、無信仰のフランスが自らのバランスを見つけるために、もはや使えなくなってしまった自前のカトリシズムに代わるスケープゴートを必要としていることを認めることができなくてはいけない。
イスラム教の悪魔化は、完全に脱キリスト教化した社会に内在する必要性に対応する。』

この書はフランスがシャルリになった時に書かれた。
『テロ事件に反発したデモ行進から数週間、フランスでは、シャルリ現象の意味に関してわずかな疑いも表明することは不可能でした』
事実5月にこの本が刊行されると、多くのメディアで「激昂のリアクションが起こり」そして完全に口を閉ざす以外にはない著者への侮蔑が集中する。
その「炎上」自体が著者の分析の正確さをしめしているのだが。

日本語版は11月に起きたテロ事件(バタクラン劇場他)の理論的批評を求める日本の新聞からのアクセスによって刊行されたということだ。
この時の日本のマスコミの反応も私を苛立たせたのだが、皮肉にも著者には逆に日本からの支援に見えたようだ。
事実、日本語版の前書きの日本への言及には特別な保留を付けている。

『日本における格差の拡大は著しい現象です。
仏教は、・・・(フランスの)カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。
ヨーロッパのいたるところで観察されていることに反して、宗教的空白と格差の拡大が、日本ではどんな外国人恐怖症にもつながらない、などということが可能でしょうか。自分が普遍と考える社会学的法則を免れて日本が存在するという仮説は、簡単に受け入れられるものではありません。』

著者が本論で克明に分析して解明した図式は宗教的空白+(消費社会・あるいはグローバリゼーションによる)格差の拡大=外国人恐怖症だが、日本が例外と見えることに対する戸惑いを表明している。
宗教的空白+格差拡大はあるのに右の項が「?」のままなのが日本の不思議と。

しかしこれはトッドが日本の現状を、本人もいうように良く分かっていないのだ。
フランスでの外国人恐怖症という項は基本理念のカトリック+フランス的理念(自由・平等・博愛)という史的文脈から導き出されるもので、日本では明らかに文脈が違う。
最大の違いは日本の史的文脈からは宗教的な理念があまり重く(高く)なく、どちらかといえば庶民的(あるいは封建的)な世俗倫理観の方が普遍的に浸透していた。

トッドの式は日本ではこうなる。
宗教的空白+格差の拡大=炎上(偽善的正義の強制による現代式村八分)


日本では外国人という宗教・人種的な明確な差異には元より寛容だったが、スケープゴートを求める矛先は日本内部の異端分子に向く。
これは外に求めることよりも更に始末が悪く、まったく救いのない情況と言える。

現在、私は「炎上の現象学」と題する評論をブログに連載中で、トッドの本論のフランス、ヨーロッパにおける外国人排斥の歴史的経緯や人口構成学上の分析を検証することは主眼ではない。

トッドがこの書の出版によって被った「炎上」で、私が密かに逃げ道と目していたフランスにも「偽善の包囲網」が既に完成していたことを知らされ、救いようもないグローバルな世界の閉塞を見てしまう。

『2015年以前のフランスでの類似の事件への対応は『表現の自由が直接的に脅かされることもなく、政府もジャーナリストたちも、大衆社会もパニックに陥っていなかった。どんなヒステリー傾向も窺えなかった。
ところが2015年1月には、批判的分析の声が上がらなかった・・
大衆が動員に応じたことが「素晴らしい」どころか、冷静さの欠如を、つまりは試練の中で人々が取り乱している状態を露見させていた。
テロリズムの行為を断罪するからといって、「シャルリ・エブド」を神格化する必要はさらさらなかった。』


『「シャルリとは誰か?」を発表したことで六カ月にわたって多くの侮辱を受けた私はついに、表現の自由が、そしてとりわけ討論の自由が、現時点においては、フランスでももはや本当には保障されていないと認めるに至ったのです。』
という悲痛な文言でこの本が閉じられている。

2015年1月と11月のフランスを私も見た。
フランスはデカルト以来の理知の国ではなく、それが私が「西欧の傲慢」と呼ばざるを得なかった「理知による偽善」だったことが確認でき暗然となった。

私は嘗てフランスに居を移した経験があり、その後も日本で生き難い事態になった時にはいつでも「フランスに亡命」できるということを心理的な救いにしていたのだ。
私が経験したフランスは、各国の亡命者や移民・留学生を受け入れ、その多様性を最大現に尊重する国だった。
黙って同意するより、例え本意でなくとも反論した方が「評価される」とも言われた個人が自由に自己主張する国だったのだ。

しかし私はもうフランスに「亡命」することはない。
私にはもう主張しなければならないという内的エネルギーは何も残っていない。
ただ隙間なく私を追い詰める偽善の包囲網から逃れ、自分のアイデンティティを全て消し去り南アジアの母なる包容力に抱かれることを今は夢想するだけだ。


〔読書控〕2016/03/20(日) 12:40

宮竹貴久「『先送り』は生物学的に正しい」 講談社+α新書 2014

副題:究極の生き残る技術
進化生物学者が生存競争を経て生き残ってきた自然界の生物の様々な有用な技術を紹介、少々こじつけ的に人間社会への応用を提案。
生物の「進化」の技術というと力が強く能力が高い者が勝つといような直線的イメージを抱くが、著者は先ず日本語「進化」の含意が良くないと指摘。
Evolution には日本語のような「前進」するような意味は含んでいない。
生物は環境に適応するよう単に変化してきただけなのだ。

このような生き残りの技術として擬態・寄生・多量の無駄・死にマネ・先送り(態度保留)・潜伏・偽装・騙し・冬眠・蛹化・群体・共生という様々な様相が紹介されている。
ちなみに、著者は「死にマネ」(死んだふり)研究では世界的権威らしい(^^)

そのような自然界の「知恵」に接すると、どうしても自分たち人間社会にそれを応用するとどのような関係に当たるのか考えてしまう。
ここで著者が例示するのは会社の人間関係に応用してしまい、とっくに会社から外れてしまった私にはちっとも面白くないサービスだった。
「死んだふり」をする部下が上司の目をごまかして生き残る、というような例示はあまり卑近にすぎ、生物学的な種としてのストラテジーとは話が違うんではないかと思う。
会社の人間関係では個対個の競争であって、生物界の種対種の場合とはかなり位相が違うだろう。

それより、そのような「進化」の諸相を例示され、人間社会と対比されると人間という種の根本的な異質さが際立ってくる。
先に例示したような様々な「進化の技術」から言えばここ5万年に人類が採用した技術はかなり異質で、だからこそ人類になったのではないか?
意識や感情、自意識やコミュニケーション能力、回想し想像する能力、社会システムの発明等。
そのような異例な技術の採用が人類をこのように人類たらしめていると思えるので、わざわざヨソサマの技術を本気で採用することはもうないだろう。

著者もそのような人間の特殊性についての感慨を後の方で述べていて、「憎しみや妬みという感情」がかなり異質なこの種の特性として挙げている。
「では、憎しみと言う感情は、なぜ進化できたのだろうか?」

進化という言葉の曖昧さがここに露出する。
良かったり、強かったり、比較して優等だったので進化したのではなく、生き残っているから「進化」したのだ、と結果から見ているだけなのだ。
強いから生き残ったのではなく、生き残ったものが強い、と本書の最初の方にある。

進化に垂直に伸びていくような方向性はない。
進化は過去の事例の説明で、将来を予測する根拠にはなり得ない。
現在の地上で一つの種がドミネートしているように見えたとして、次には今「死にマネ」をして新しい主役に躍り出る時に備えているもっとカシコイ種があったりするのかも。

著者も人類が採用した進化戦略には懐疑的だ。
軍拡競争よりも「共生」という方向が生物学的には正しく、このままでは人類はもうアカンだろ、というのがどうやら進化生物学者の学識のようだ。


〔読書控〕2016/04/02(土) 11:24

野口悠紀雄「変わった世界 変わらない日本」 講談社現代新書 2014


アベノミクスでは日本が活性化することはできない。
子供を増やし、金融緩和策を採っても結局は焼石に水。
何故なら現在の日本の経済的退潮は産業構造が現在の世界に合わないことが主因で、人や金を増やすのではなく、構造自体を変えなければ根本的改善はできない。
イギリス(1990年代)やアメリカ、中国経済が好調なのは主力産業の基本構成を情況に応じて変えることができたからだ。
という主張とその実例が詳説されている。
特にイギリスの産業が製造から金融事業にシフトしていった実例は示唆に富む。

現在の安倍政権の経済政策、というより一般的な日本の論調には20世紀型の単純成長経済のイメージしかなく、例えばオリンピックの誘致で経済は活性化し成長を続けるという過去の成功体験をそのまま適用しようとするだけのアナクロニズムである、と私も思っていた。
日本の大手企業がそのまま生き残り、未だに垂直型(製造から販売まで自社)という20世紀型の構造が生き残っている現状を中国はもちろん、アメリカの例をあげ対比する。
それは製造業からit産業等サービス部門への軸足の移動や、あるいはアップルが見せた自社(アメリカ)では企画と販売だけ特化し、製造・アセンブリは夫々強味のある国に分散するようなグローバル化のメリットの享受である。

また、野口は新しい金融商品の開発は必要という立場で、リーマンショック等の悪しき失敗例は金融商品自体の所為ではなく、当初から商品設計に含まれていたリスク許容指標を無視した運用側の責任であると説く。

確かに、近視眼的には世界経済のニッチにうまくすり込み、あるいは積極的にニッチを作っていくというような姿勢は必要だろう。
新しい金融商品を開発すれば先駆者利益は確保できる。
しかし、その利益が他国との収益の差に準拠している限り、グローバル化によって解消されていってしまう。
例えば、サービス部門に特化できるのは製造部門を安いコストで引き受ける他国があるから可能なわけで、このような国の差異が無くなっていけばそのメリットもなくなる。
だから、絶えざる構造的変化が必要ということになるんだろう。

しかし、そういう世界経済の捉え方自体古典的な自由貿易主義の枠内での話である。

あくなき経済競争際限なく繰り返し、少しでも自分の富の優位を確保することが生存理由であるという経済主導の価値観だけを持った人類は果たしてどこまで行くつもりなんだろうか。

今本当に必要なのは経済に依存しない価値観の創出である、と適当に金持ちで一向に生活に困ってはいないが、未だに生き悩んでいる私には切実に思えるのだ。


〔読書控〕2016/05/18(水) 15:11

クライブ・フィンレイソン「そして最後にヒトが残った」 上原直子訳 白揚社 2013

副題「ネアンデルタール人と私たちの50万年史」
原題 "The Humans Who Went Extinct - Why Neanderthals Died out and We survived"

私は多分ネアンデルタール人の末裔だ。
時とすると、5万年前まで生き残っていたネアンデルタール人の目で現代人を見てしまっている。
君らは農耕を始めてから妙に社会化し、種内の格差を拡大し、走り回り争い、やたらと騒がしく、絶対に成熟しようとはしない種族だ。
君らは好きにやればいい。私はもういいよ。
君らをもう見たくもないのでこの辺りでひっそりと消え去ることにする。
別に恨みもしてないが、うらやましいとも思っちゃいない。
ただ、君らの傲慢さはもう見たくはない。・・・

と思うくらい現代人という種の在り方に私は違和を抱いている。
私はやはりホモサピエンスとは違う世界で生きているのだろう。

ネアンデルタール人研究の第一人者らしい著者もやはり私と同族のようだ。
「現代人の傲慢さ」とまでは言ってないのだが、学者の世界でも偏見に満ちた独善的な人類史観が横行している現状に辟易しているようだ。

「ネアンデルタール人はなぜ絶滅したのか?」と題する講演を行うと、「私達人類は優れていた。そして下等なネアンデルタール人が駆逐された」という解答を期待される。
全く根拠がないこの一方的な偏見は研究者でさえ逃れられないものらしい。

「全ての遺跡発掘現場でホモ・サピエンスの骨と遺物がネアンデルタール人のものより上層(後の世代)にある。だからホモ・サピエンスがネアンデルタール人を追いやったのは明らか」とある研究者はいう。
しかし、と著者は次の別解を述べる。
「ホモ・サピエンスはネアンデルタール人がいなくなって初めてその洞窟に入ることができたという可能性もある。」
恐竜が地上からいなくなって初めて哺乳類が繁栄しだしたので、けっして哺乳類が恐竜を駆逐したわけではない。

何らかの生存条件の変動があると、その前の時代を支配(繁栄)していた種ではなく、周辺に追いやられていた弱小種が次のドミネート種になっていく。
生物の多様性はその変動に備えての布石、いわば先行投資と考えてよい。
多くは私のように単なる「捨て石」で終わってしまうのだが(笑)。
現生人類はかつては「優秀な」他の人類によって周辺に追いやられていたが、気候の変動等でたまたま「最後に残った」に過ぎない。
オウストラロピテクス→ハイデルベルグ→ネアンデルタール→ホモ・サピエンスというように直線的に「進化」したのではない。
種々雑多な人類が様々な時代の環境で発生し、時には並存して生きていた。

現在、人類としてはホモ・サピエンスしか生存していない、ということが直線的な進化のイメージを持たせるように私には思える。
5万年以前の我々の祖先なら別の見方ができたに違いない。
大柄でがっしりしていて、脳も大きかったネアンデルタール人は多分我々には「オトナの人達」と見えたのではないだろうか?
そのような「別の人」も居る共存世界に我々が現在生きていたとしたら、こんなにも傲慢になることはなかったろう。
この「唯一無二の人類」と言う感覚を修正するにはこの本を是非精読してください。

例えばハイデルベルク人は体格が大きく、大型哺乳類を捕食していた。
現生人類の祖先はとても体力的に対抗することはできなかった。
しかし、気候が寒冷化し素早い小型哺乳類しか周囲にいなくなるとこの大型人類は絶滅する。
ネアンデルタール人の脳の大きさが何を意味するのか単純には比較できないが、言語能力を含む大脳の潜在能力では現生人類と遜色はなく、あるいはもっと別の知力があったのかもしれない。
「優秀だから生き残った」のではなく、生き残ったから優秀だと結果的に評価できるたのだ。
何が優秀なのかは時代の検証を経てからでしか分からない。
ことによるとバカだったから生き延び、それで優秀と言われるのかもしれないぞ。


例えばオウストラロ・ピテクスの有名なルーシーの一族は非常に冒険的であらゆる環境に進出していった。
格別なチャレンジ精神があったらしい。
しかし、だから繁栄したかどうかは別の問題だ。
我々は別のもう少し地味な能力しかない系統の子孫である。

「丁度いい場所と時に生存していた種が残り、時と場所がうまく合わなかった種が滅びた」と常に著者はこのインター・スペーシアルにニュートラルな立場をとっている。
いろんな能力のある類人猿類が永い時間の中で変化する環境に適合するため種々の試みをおこなってきたのだ。
21世紀現在には現生人類(ホモサピエンス)とチンパンジーの2系が生存している、というだけの話。
チンパンジーは殆ど新しい環境に進出することはなかったが、ある程度の範囲の環境に適合する能力はある。

私は地上の動物で今一番繁栄しているのはアリではないかと常に思っている。
個体数からいうともちろん細菌類がチャンピオンである。
生き残っているのが優秀というなら、そのような「単純な」生物達こそ世界を支配しているのが公平に見た現状だろう。

ところが人間の世界観では「単純→複雑」、「小→大」というような序列に支配されて、なかなか本質が理解されることはない。
いや、このような拡大再生産的価値観は我々の種に固有のものでさえなく、多分「西欧の傲慢」に起源があるように思えるのだ。

この本はネアンデルタール人、あるいは広く古人類史の研究という分野に蔓延する研究者達の先入観を直視し、現代人が当然と考えている価値観がいかに根拠のないものかを如実に示している、と私には読めた。

「歴史とは概して、勝者によって書かれた敗者の物語である。」

たぶん、ネアンデルタール人は現生人類より「頭が良かった」のだ。
だから環境に自分を曲げてまでは抗わず、静かに退場していったのだ。
だって、本当に優秀なヤツを寄ってたかってつぶしに行くのが現代の世界なのはもう自明だろ?
頭が良ければ静かに退場するしかない。ある程度バカでなければ生きられないよ。
現代人は丁度いい具合のバカだった、とネアンデルタール人直系の私は思うのだ。


〔読書控〕2016/06/03(金) 12:49

内田樹「こんな日本でよかったね 構造主義的日本論」バジリコ株式会社 2008

以前、他の欄でこの人を名を挙げ批判した。
文末が完全に「おりこうぶり」(=無責任紋切型NHK風)だったからだが、その文章は又引きだった。直接ソースに当たってないのでちょいと無責任だと思っていたのだ。で、今回少しだけ読んで見ることにした。

やはりそういう無責任紋切型NHK風おりこうぶりの使用者ではなさそうだぞ。
例の文言は「スペースの関係で」編集者が無理やりくっ付けたちゅう可能性もある。
この方もかなり無責任に文章を書き流すお人らしいが、それはそれで自覚的・自虐的自ギャグで開き直っている。

『ですから本書に書かれている内容について「これはいったいどういうことであるか。筆者はただちにこの場に出頭して釈明をせよ」というようなことを言われても、たいへんに困るわけです。
なにしろ私自身、書いた覚えがないんですから。』
とか、しゃぁしゃぁと「まえがき」で弁明しているが、もちろんそんなことはない。
書いた覚えがなくとも、この文章は自分のものだという自覚できないなら著者名をつけて出版しようがないだろう。

『この本にはもっぱら「そのようなこと」が書かれています。
つまり、人間が語るときにその中で語っているのは他者であり、人間が何かをしているときその行動を律しているのは主体性ではなく構造である、というのが本書の主な主張であります』

さっきの私と今の私は完全に同一ではない。
嘗て私がしたとされる私のごときものの仕業を自覚がなくとも「それは私の仕業です」と責任を取ることを自我という・・・とかなんとかレビナスが言ったとかなんとか。

私ももういい加減に自分の文章の責任を自分でとりたくない。
その時はそう思ったのだが、今は違う。
その時はそう思ったと考えねばならないが、しかし全く今の自分とは違う。
それでも自分であった痕跡もある。
そういう矛盾した存在を一挙に「それは私です」と暴力的にマトメて言い切ること。
何でもいいけど、それは私の責任にしてもいいです。
と言い切る時、私は私を主体する。
ここに存在というシステムの暴力的根幹がある。
存在は暴力だ!

あ、今読み返すとちがってたな。
『私の自己同一性を基礎づけるのは「私は私が誰であるかを熟知しているということではなく、「私は自分が誰だかよくわからないにもかかわらず、そのようなあやふやなものを「私として引き受けることができる」という原事実なのである。』

私の知見では構造主義言語学の根冠は意味が先にあって言語がそれを表出する、のではなく言語意識(文法意識)が先ずあって意味を成す。
つまり先ず言語があり意味は言語によって規定され文法上在る物として生じる。

だから何だっていいのだ。
べつに首尾一貫してなくとも正しくとも正しくなくとも。
ただ私は日本語表現者の表現レベルが感知できればもう論理は自ずから分かってしまう。
内容ではない。表現様式である。

・・・ちうようなことを読みながらちらちら思わせてくれる文章の書き手のようだ。

今は「炎上(不謹慎狩り、不寛容社会)問題」での例証を引水中なので、このような構造主義的な論理競合へのアプローチもなんとか取り込みたい。
論理相対主義には「それぞれの土俵が違う」という言い方でも対応できる気もするが、それは前提条件の違いというレベルで位相は同じである。


『原理主義者は「リソースは無限である」ということを前提にして、至純にして最高のものを求める。
機能主義者は、「閉じられた世界、有限の時間、限られた資源」の中で、相対的に「よりましなもの」を求める。
私は人の判断や主張が「正しいか正しくないか」というこおとにはあまり(ぜんぜん)興味がない。私がもっぱら関心を寄せるのはそのソリューションが機能的かどうかである。』
↑これは前提条件の違いになる。

「それでも地球は動いている」という地動説側の負け惜しみがコレだね。
正解は天動説でも地動説でも「そんなもん、どっちでもいい」と私は考えている。
単なる視点の取り方、根拠とする座標軸の設定の仕方の違いじゃないか。
どっちでもいいが、できるだけソリューションが機能的かどうかで決めればいいだけだ。

しかし、この例はなかなか鋭いところにまで行く。
思えば現在では機械的に地動説が正しいと教えている。
別に宇宙ロケットの軌道を計算する必要も恐れもないタダのガキに。
そんなもん、どちでもいいはずだろ。
現に太陽は地球を周っている風じゃないか?
この直観を変更し、本当は地面の方が動いていると教育する必要はどこにあるのか?
そこが先ずおかしい。どっちだっていいじゃないか。
私的にはどちらも間違ってるんだから。 うむ、昔読んだル・クレジオの小説に地動説はオカシイとかいう場面があったと思う。

『正義する自由だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり論理的であったりする可能性がそこなわれる抑圧的で暗鬱な社会である。
私だけが正解を述べており、あなたがたは誤答をしている」と主張する権利は万人にあるが、決定する権利は誰にもない。』

論理じゃないよ、直観だよ。でもなくて、何でもアり。

そうだね。アレがいいだろ。引用するには。
『自分に同意しない同国人を無限に排除することを許す社会理論に「愛国」という形容しはなじまない。
それはむしろ「分国」とか「解国」とか「廃国」というべきだろう。
そういうお前は愛国者なのか、と訊かれるかもしれないから、もう一度お答しておく。
そういう話を人前でするのは止めましょう。
真の愛国者は決して「愛国心」などということばを口にしない。』

「あんたはオカシイ」と言った時点でオマエもおかしいとなってしまう。
この論理相対主義から絶対に抜け出られない精神の硬直。
未だに教育はこういう頭しか作れないのか?


なかなか今様の半自虐的ユーモアを自在に駆使し、硬派雑誌の軽いコラムにはぴったりの書き手。

各コラムには一見反語のように見える提言が満載で、読めばそうとも言えるという知的ひねりが仕掛けてあって言語の楽しみにはことかかない。

「しがない教師にすぎない」という自虐はもちろん東大出の大学教授なので私的には「しがない」なんてことはあり得ない。
自虐ではなくて本当は自虐的自己顕示風にひとひねりしたナンセンスである。
一度「私はしがない総理大臣でしかありませんが」とかいうセリフを聞いてみたいもんだ。


〔読書控〕2016/07/04(月) 16:05

中村彰彦「真田三代風雲録」実業之日本社 2012

小説を読めなくなった。本自体を読まなくなった。
気力の減退か死亡力の増大か。
徐々にエンターティンメントとしての現実なるもののオゾマシサにのみ好奇心が向いていく。テレビをダラ見するようになった、との言い換えだが。
今回は毎回見ているNHK大河ドラマ「真田丸」の演者達の役造りを思い出しながら関連小説を読むという、あまり創造力・想像力を要しないような小説を読むことにした。

テレビでは真田幸村(源次郎)よりも父の安房守を演じた草刈正雄の存在感に新鮮さを感じたが、この真面目な小説で読み取れるのも安房守の際立った事績だった。
結局真田はこの人が全国区に仕上げ、倅二名が夫々名と実を体現し歴史に付け加えたのだった。
小説としてはいかにも地味な演出で、あまりに史実に忠実であり過ぎる。
文体も真面目そのもので悪印象ではないものの面白くもない文章。
大河ドラマの補足ならそれでも読み続けられるという程度。
小説ならもっと華やかに演出して欲しかった。
あたかも「この小説は史実です。ウソは書いてません」と言うがごときは、小説の自己矛盾ではないの?


〔読書控〕2016/07/17(日) 22:05

榎木英介「嘘と絶望の生命科学」文春新書 2014

この年に「理研のマボちゃん」と私が勝手に銘名した女性研究者のネイチャー掲載論文にかなりの盗用誤用が発見され、大きなスキャンダルになった。
一方では京都大学山中教授がノーベル賞を受賞している。
この山中さんは私とはまったく違う価値観をお持ちのようで、ちょいとイヤなヒトだった。
しかしこの世界的な学者に面と向かってモノいう風潮はまったく皆無。称賛こそすれ、私のように自分のブログでアテつけるなんてカゲでコソコソ言う人はまったくない。
炎上同好会諸氏よ、私の記事をリツィートするならソッチにしろ!
別に山中さんが悪いヒトと言うのではない。
全く今様の功利主義を一面的善意の倫理観で固め、紛骨努力を重ねて地位と名誉を得た方で、私とは対極の生き方をされているのでどうもニガ手というだけなのだ。

一方、マボちゃんの方には勝手に持ち上げた反動か、骨までしゃぶるような悪辣で一面的正義感のエセ倫理を武器に心ゆくまでたたきのめす。
私にとっては山中さんもマボちゃんも同質の方としか見えないのだが。
そういう意味では是非STAP細胞は実在し、もう一度称賛の嵐の渦中にひき戻してあげたい。
そしてその善意や正義・倫理感がいかに一面的でどうでもいいものなのかを全員で再確認して欲しいものだ。

この書は拝金功利主義に毒され、ついには倫理感までねじ曲げてしまうこの生命科学(バイオ)の研究現場の実態の報告である。
著者は一旦はポスドクで東大院で研究職にあったが、転身し医者になった経歴もあり、構造的な矛盾が渦巻くこの研究分野の現実を批判し、現状に警鐘を鳴らしている。
実利的な功利性を考える学生は好んでこのバイオ研究という分野を選択する。
それだけうま味があるのだが、それにつけこんだ落とし穴も数多い。

私は子どもの頃には大学の研究者というような職業に憧れたものだ。
しかし私が憧れていたのは金や地位、名誉が手っ取り早く得られるという理由からだったわけではない。
学者という職種を選ぶ人は実社会で金のために働く人よりもエライのだ、と思っていたのだった。
もちろんエライ人もいることはいるのだろう。
しかし実社会と同じ比率で三流の人物もしっかりと混じってらっしゃる。
かえって地位と名誉が突出する社会なので金に対してはかなり無邪気でいい加減な管理でも許されると考えるヒトも。

やはり現在では私が憧れたようなエライ人なんてもうどこにも居ないのだ、と世界のグローバルな同質性に感嘆するのみ。

この書は私の妄言よりもう少しマシな論評でバイオ研究分野の現状を分析している。
マボちゃん事件は起るべくして起きたというような印象。
山中氏に対しては流石に批判めいたことなどは一切書かれていない。
ただ「山中センセ」が登場する軽い揶揄調の例文があり、思わずニヤリ。
その表現で大体分かりまっせ(^^;


〔読書控〕2016/07/29(金) 12:40

箒木蓬生「水神(上・下)」新潮社

良かった。やっと素直に楽しめる長編小説に当たった。
いかにも真面目な作家で郷土史を題材に地道な時代考証を積み重ねて物語の細部を構成していく、なんとも手堅い作風。
読み始めると江戸時代の筑後川での打桶という水くみ作業の苦役を担う障害を持つ子供の日常が子細に描写されていて・・何とも地味な・・・かなわんな・・様態。500年前の農村生活の生々しいリアリティがあって、興味なくもない。
次いで村のヒューマニズム溢れる庄屋が主人公格で登場。
下級武士・村回りの下奉行が遠景に見え隠れし、戦乱後江戸時代初期の九州の一国の内政を背景にした全体小説的な視界に拡がっていく。

今も筑後川に残る江戸時代の大石堰の建設の物語。
大河ドラマの材題にどや?というくらいの図太いエンタテインメント性と素直な感動があって文句なく楽しめた。
こういう小説ならいくらでも読めるんだがなぁ。
こういう小説ばかり行き当ると毎日の楽しみができるのだが、このような作風に遭遇するの最近圧倒的に少ない。
本業が医者でもあり、比較的自由に自分の物語りたいことを丹念な素材収集から初めてじっくり語っていける作家の安定感。


〔読書控〕2016/08/03(水) 14:58

内田樹「邪悪なものの鎮め方」バジリコ株 2010

よく推敲された論文集ではなく、ブログで勝手に書いたり、依頼に応じて書き散らした文の再商品化らしい。
短い記事の中に思わず「なるほど!」と言ってしまいたくなるような卓見風の論が軽いユーモアのある語り口にくるまれ快くくすぐってくれる。
まあ、卓見かどうかは良く分からんが、少なくとも私には違和感のない論舌、読み進み読み飛ばすことの快感がある。
読み飛ばし忘れてしまうのも少々勿体ない。
以下内田が語り散らす論舌で思わず「同感!」とか「なるほど!」級座布団一枚判定の記事を引用羅列する。
買った本なら鉛筆で傍線を引くところだが、図書館本なのでそうもいかん(^^;

しかし、私の書評としてこの傍線引きした内容はどうでもいい。
だから次のアスタリスク達まで読み飛ばしてくれ→

*********座布団一枚評価記事引用***************

年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受難者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。
システムの不都合に際会したときに、とっさに「責任者でてこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。

父が全てをコントロールしており、「父」がこの世の価値あるものの総てを独占しており、「子ども」たちの赤貧と無能と無知はことごとく「父」による収奪と抑圧の結果であるというふうに考える心的傾向のことを「父権制イデオロギー」と呼ぶ。
「父権制イデオロギー」では父権制を批判することも解体することもできない。
というのは、「父」を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」は園時世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、子どもたちを赤貧と無能と無直のうちにとどめおくような全能者」が存在しなかったことを知るからである。

さて、どうするか。
もとろん「子ども」たちは自ら「父」を名乗るのである。そして、思いつく限りの抑圧と無慈悲な暴力を人々に加えることによって、次に自分を殺しにくるものの到来を準備するのである。

「子ども」には「システム」の不具合を早い段階でチェックして「ここ、変だよ!」とアラームの声をあげる仕事がある。
別に日本人全員に向かって「大人になれ」というような無体なことを私は申し上げない(そういう非常識なことを言うのは「子ども」だけである。)
5人に一人、せめて七人に一人くらいの割合で「大人」になっていただければ「システム」の管理運営には十分であろうと私は試算している。
(「『子ども』の数が増えすぎた世界」)


おそらく読者は物語を読んだ後に、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して「既視感」を自分で作り上げているのである。
「あれ、この本に書いてあることって、オレのイメージとおなじじゃん」と、自分で脳内においたものを自分で発見してびっくりしているのである。
勘違いしているひとが多いが、人間の精神の健康は「過去の出来事をはっきり記憶している」能力によってではなく、「そのつどの都合で絶えず過去を書き替えることが出来る」能力によって担保されている。
トラウマというのは記憶が「書き替えを拒否する」病態のことである。
(「1Q84読書中」)

自分の偏差値を上げるには二つの能力がある。
自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるかである。
そして、殆どの人は後者を選択する。
偏差値競争が激化するのに相関して、子どもたちの学力が低下するという不可解な現象が起きている。
どうして教育行政がこのような単純な理路を見落とすのかといえば、それは官僚たちが、彼ら自身「他人のパーフォーマンスを下げること」を通じて、今日の地位を得てきたからである。
彼らは自分たちが権限を行使しうる領域については、人々が怯え、萎縮し、卑屈になるためのアイデアしか思いつかないのである。
そして、当の役人たちは自分たちが「そんなこと」をしていることに気づいていない。
これが「呪い」の効果である。
90年代からあと、日本社会では、ほとんどの批評的言説はつねに「呪い」の語法で語られてきた。


私達が歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することは大変にむずかしいということである。
争いがとりあえず決着するために必要なことは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。
「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々はいささか警戒心を欠いているように私には思える。


「こんな日本に誰がした」というような他責的な文系でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
妄想が妄想として認定されるのは、それがあまりに定型的であるからである。


しかし、あれから40年経ってわかったことの一つは、私たち(*70年世代)が恥じていたのは、ナパーム弾で焼かれるのが自分たちではないことについてだったのである。焼かれるべきなのは日本人ではないのか、私たちはそう考えていたのである。
その意味で、新左翼の運動は・・ほとんど観念的な自己処罰の企てであった。
全共闘運動は日本人にもう一度敗戦のときに忘れ去った「疚しさ」を思い出させるために、本土決戦を忌避した惰弱な日本人たちに「罰を与える」ために登場した。それは何かを創造するためのものではなかった。だから、それは破壊すべきものを破壊し終えたと同時にきえたのである。

それから40年近くが経った。・・・ネット右翼の出現や、「ロスト・ジェネレーション」が」の謳う「戦争待望論」はあるいはそのような「日本的小情況」の三度目の甦りの予兆なのかもしれない。「強欲な老人たち」と「収奪される若者たち」という世代間対立図式は2次にわたる安保闘争のときに採用された図式に似ていなくもないからだ。
しかし、この若者たちの世代は・・・「日本封建制度の優性遺伝因子」をもうどこにも見つけることができない。」


ノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。


「ある新聞に「超能力」や「霊能力」のようなものは現に存在する」と書いたら、科学部の編集委員からたちまちクレームがついた。「と思う」を付け加えろという。
「超能力」とか「霊能力」と呼ばれる能力は現に存在する。潜在的にはそのような能力は誰にでもあり、それが開花するきっかけを得た人において顕在化しているという事だと思っている。・・
ただ、この数十年、マスメディアではこの件についてままったく報道しなくなったというだけの事である。


常識にはその正しさを支える客観的基盤が存在しない。常識は「真理」を名乗ることができない。常識は「原理」になることができない。常識は「汎通的妥当性」を要求することができない。これら無数の「できない」が常識の信頼性を担保している。
人間の知性のもっとも根源的で重要な働きは「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に『これは解ける』とわかる」というかたちで現れる。
理論的に考えると「どうふるまってよいのかの一般解が存在しない状況で最適解をみつける」ということは不可能である。・・実際に私たちはそういうときに正否の準拠枠組抜きで決断を下しているのである。「なんとなく、こっちの方がいいような気がした」からである。


死ぬことは生物が経験できる至上の快である。
だから、私たちはこれほどまでに死ぬことを忌避するのである。それは一度死ぬともう死ねないからである。


歴史は「社会を抜本的によくする方法」を採用するとだいたいろくなことにはならないということを教えてくれた。
「一気に社会的公正を実現する」ことを望んだ政治体制はどれも強制収容所か大量粛清か、あるいはその両方を政策的に採用したからである。
大思想家たちに私たちがつけくわえるべき知見が一つだけあるとすれば、それは「急いじゃいかん」である。
人間社会を一気に「気分のいい場」にすることはできないし、望むべきでもない。


道端に空き缶が落ちている。誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて「缶・びんのゴミの日」に出すのは「この空かんをみつけた私の仕事である」というふうに自然に考えることのできる人間のことを「働くモチベーションのある人」と呼ぶ。
左翼知識人は「できるだけ自分の仕事を軽減することが労働者の権利である」という項直した思考にしがみついている。
自己利益だけを追求する人々と、社会の根本的改革を望む「政治的に正しい」人々は、どちらも「おせっかい」なことをせず、私たちの社会をシステムクラッシュに向かわせる。その中で「お掃除する人」は孤立しいている。


ひとが「答えのない問い」を差し向けるのは、相手を『ここ』から逃げ出せないようにするため」である。
「愛って何かしら」
「この子が大きくなるころには世界は平和になってるかしら?」
それゆえ、この場合の正解は可及的すみやかにその場から逃げ出すことなのである。


NHKが「フィンランドに学ぶ」という特集をした。
例えばノキアは最初から世界標準を目指していた。
それに比べ日本のメーカーは国内市場オリエンテッドな商品開発をしているから国際競争に後れを取るのだ、という論旨。
しかし人口が違う。日本は巨大な国内市場が存在する。
・・・にもかかわらず、識者たちは「アメリカでは」「ドイツでは」「フインランドではこうしている」というような個別的事例の成功例を挙げて、それを模倣しないことに日本の問題の原因はあるという語り口を放棄しない。
興味深いのは「日本と比較しても意味がない他国の成功事例」を「世界標準」として仰ぎ見、それにキャッチアップすることを絶えず「使命」として感じてしまうという「辺境人マインド」こそが徹底的に「日本人的」なものであり、そのことへの無自覚こそがしばしば「日本の失敗」の原因となっているという事実を彼らが組織的に見落としている点である。

*****引用羅列終了*******
最後の引用例は私が内田の文章を孫引きし「お利口ぶり」の典型例と書いたそもそものきっかけの反例になってもいる。
孫引きしたのは樫原米紀「フランスがそんなにエラいか」(新潮45 2016年一月号)からだが、これは内田が東仏出身の類型的なフランスかぶれであるとこき下ろしていた文脈だった。
外国由来の思想を何でもかんでもありがたがるという精神は内田の上記の文章からはあり得ないハズだ。
樫原の引用は「私たちは注意深く見つめてゆく必要がある。」という典型的な「おりこうぶり」で結ばれていた、と私は書いたのだが50近くの文章を読んだ限りでは内田は絶体にこの小上品なお利口ぶりで結ぶという芸のない〆方をできそうもない文の芸人である。 たぶん「お利口ぶり」に関しては編集者側が付け足した常識的読者サービスだったのではないか?

少し脱線気味に、私だって内田の東仏出身的「お利口ぶり」と揶揄したいところもある。
『「一度も生活レベルを下げる」という経験をしたことのない人間が「一度生活レベルを上げると、下げることができない」といういのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けてきた「妄想」である。
自分の今の収入で賄える生活をする。それが生きる基本である。」
で、「私はこれまで何度も「生活レベルをさげた」ことがある。・・・だから、私はどんなに貧乏なときも、きわめて愉快に過ごしてきた。』

この嗤い飛ばされている消費者とは「しがないサラリーマン」諸氏なのだ。
他人の庇護の下で細々と下働きをして日銭を稼ぐしかない知的無産者なのだ。
翻って内田は東大仏文卒のエリートである。
この学歴だけでもいつでも十分食っていける。
いまだって、こんな雑文でせっせと日銭が稼げている立場である。
けっして「何も持っていない者」のぎりぎりの生活苦を感知できているとは思えない。

しかし、斯くいう私だって学歴や親の財産や社会的信用と地位、といった指標なんて全く何もないわけだが、こんな批判を飛ばせる口だけは持っていて、私にとっては独異な自己存在理由(Reason d'Etre)にも使っているだが。
その持ってなさの度合いは内田とはまったく違うだろ。
内田があんなコトを言って嗤うのがちょっぴり片腹痛い・・ということを私の方の楽しみとして嗤っておいてやろう。

しかし、私が書評で言いたいのはそのような個々の内容ではない。

2冊ほど内田本を読み、最初にどかんと反語的アイキャッチを行いドスンと我田にひきつけ、たらたらと楽しく読ませ、最後に軽く落として〆るという内田の短文作法の芸が大体飲みこめてきた。

個々の記事で内田が何を言ったとか、知識や論理の真摯な命題と真面目に捕えては内田の術中に嵌ってしまうことになる。
本人も「そんなこと書いたっけ?忘れちゃったよ」とかいうエクスキューズを書物の前後書きかどこかに常に貼り付けている通りだ。

内田の文章では、何を喋っているかではなくて、どう喋っているか、という書き手としての物語作法、その筋のタームで言えばシニフィエ、ちがうな、シニフィアンの方に比重がある。
そういう言語による枠組みや仕掛けを通じて内田の基本姿勢のようなものが感知できてくるので、いちいちの文言内容にこだわっていてはこの論者の本質はわからんだろう。

「大きな船について記述するときのように、船首について話し始めたときには、船尾はまだ視野には入っていない、そういうことについて語るのが僕たちが一番高揚するときなのではないか。
言いたいこことがある。でも、自分が何をいいたかったのかは言い終わって見ないとわからない。」(あとがき)

言い終わった時に、何が言いたかったのか最初から分かっていたように記憶が書き換えられてしまう、ということはアリだろう。
内田は「本質的に物語る人」であって内容ではなく「語り口」自体が語ろうとした内容なのだ。
語ることで後出しじゃんけんのように最初からそうであったこととして自分が決まっていく。
内田とはそんな風な言語の使い手兼享受者である。
だから、そんなところに引っかかっていちゃ、著者の術中に嵌ってしまうようだよ>樫原米紀さん

しかし内田の構造主義言語学とレヴィナス老師の観想は私の武器庫の現象学的瑜伽論でも払いのけられなかった内なる父・世間・イドラの残骸をふと見せてくれることもある。
私は自分の人生とその伴侶に仮託していた勝手なシニフィエに復讐されていたのかもしれんなぁ(^^;
そろそろ私も自分の過去の記憶を勝手に書き換えることにする。

「人生は後出しじゃんけんだよ。」 hemiq 2016


〔読書控〕2016/08/22(月) 23:58

椎野礼仁「テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である」講談社α新書 2014


あの一糸乱れぬマスゲーム、金一族に対する絵にかいたような崇拝の表現、水も漏らさぬ監視国家・・・感情過多の女性アナウンサーの見事な抑揚。
一目見てその嘘クサさに誰でも呆れてしまうだろう。
また、それが心にもない演出された嘘だと確信することで、自分の人間社会や人間性一般に対する自分のイメージが温存できる。
しかし、それは実は誇張され、あらかじめ見たかったものを確かに見たと報道するジャーナリズムによる嘘報道だとすれば?
いわば、あの一糸乱れぬマスゲームや、京城放送のアナウンサーの感情過多が演出ややらせではなく、本当の愛国心や純粋な国家首席への心からの敬愛だったとしたら?

ま、そんなことはないだろうが、日本で報道される北朝鮮の映像はどこか嘘くさい。
嘘くさいと思いたくなるようなそれらしき映像しか我々には見せてくれない。
いくら北朝鮮と言えどもそれなりの人口を抱えた国で、全人口が絵にかいたような「洗脳」された朝鮮人民を毎日演じさせられているわけでもあるまい。
「北」といえども個人的に接してみれば「普通の感情を持った人たちだった」というのが著者のこの嘘くさいタイトルで伝えたかったことだろう。

もとより著者にしても北朝鮮に住んでいるわけではなく、よど号関係の報道にたずさわっわり数回の北訪問の経験があるだけだが、どちらかというと「よど号犯」寄りの姿勢、従ってある程度の北へのシンパシーはあるものと思われる。

例えば、食事をしていたレストランのテレビにたまたま金正恩の報道が映った。
それに気が付いたウエイトレスが手を止めて、画面を見やる。いつの間にか一人二人と従業員がテレビの前に集まって来、皆が画面を囲んでいるようになる。
別に直立不動で見ている訳ではなく、どちらかというとあたかも有名アイドルを見ているような感じだった、という。
敬愛?というより、素朴に有名人への憧れであるのかもしれない。
少なくとも日米戦争時の日本国天皇の映像に対する硬直した反応ではない。

いや、それだって外国人に対する周到なプロパガンダの一環として見事な集団演技で人民の首領への愛情を著者達に目撃させた、と勘繰ることはできるだろう。
しかし、本書からはそんなことまでして対外宣伝に力を注ぐ意味も余裕もないという感じが伝わってくる。
たしかに厳格な国家教育は行われている。
しかし、一千万人の人民全体がまったく同じ画一的な顔になることは不可能だ。

配給食料では食べていけないので闇市が成立し、今では公認ではないが黙認の大きな自由市場さえ設営されているという。
そこでは商売熱心なオバちゃんがいずこも同じ市場の呼び込みをやっている・・。
少なくとも、公式ニュースで流されている一枚岩の同じ顔をした人々のマスゲームはあくまで公式であり、私的にはいずこも同じ人々の生活があるのだろう。

日本とは国交はなく、特別な招待がなければ行けない国だが、中国やベトナムからの観光客はあるようだ。
それに北朝鮮国営の旅行社にコンタクトすれば旅行社が招待元になり、日本人でも北京ルートで観光旅行ができるという。
現にそのようにしてもう何回も訪朝している学生と飛行機で同席になったという。
何故北朝鮮に?という問いに「旅行が好きですから」と件の学生は答える。
なんか、これはホントくさいじゃないか?
この下りを読み、明後日からまた台湾に行く予定だが、私は北朝鮮に旅行に無性に行きたくなってしまった(^^;
私の残りの人生はピタリと終了地点が書き込まれしまい、何をしたってソレは動かないんだし。


〔読書控〕2016/09/16(金) 10:52

吉村愼治「日本人と不動産」平凡社新書 2011

著者は長年三井不動産で現役デベロッパーを勤め、業界の事情を多少趣味的アカデミズムで叙述。
副題に「なぜ土地に執着するのか」とあり、その理由を確認したかったのだが。
日本史中世からの史的背景に多少啓蒙されるところがあったのだが、東大経済出身の著者はあくまで経済構造から説き、私が知りたかった日本人の心的な「一緒懸命」感に触れる所はない。
私が「一緒懸命論」で演繹した農民としての日本人一般論は多少修正する必要はある。
一緒懸命はあくまで武士階級・自作農の心情で圧倒的多数の日本農民は小作人であり土地も財産も懸命する程の執着はなかったのが史的な大勢だったのだろう。

農民の絶対多数が土地を所有するに至るのは第二次大戦後のGHQ政策に拠る。
著者の力点はバブル以前の土地神話の形成にかかっている。
経済史的にはそういう構造だろう。
私としては少々物足りない視点だが、単に私の側に我田引水が出来ない恨みがあるのかも(^^;

土地神話形成のひとつの原因を土地政策の不徹底を挙げていて、この事情が面白かった。

『(日本では)法律というのは、普段は守らなくてもよいものなのです。』


これは、川島武宣の「日本人の法律意識」からの論点の又びきで、原著によれば明治政府の法整備は法治国家としての体裁を外に向かって示すためであって、『文明開化』の日本の飾りであった、と論じ、著者は都市計画等の土地政策も『一応つくるけれども、そう厳格に守られなくても良いし、そう厳格に適用しなくてもよいという考えが住民にも行政にもあるように思う』と演繹する。

そして別に日本だけではなく「アジアの景色の汚さ」「アジア的後進性」は主としてこのような法体系の整備で統治するという施作になじまない国民性が裏にある、というようなほのめかしを行っている。
むしろ私はこの仄めかしが気に入ってしまったのだ(^^;

『法律というのは、普段は守らなくてもよいものなのです。』
--- アジア的混沌とはそのような寛容性のことなのだ。

と私は別のところで引用させてもらった。

むしろ今は西欧の法治主義の理念の中心にある強烈なユニラテラリズムが人間社会に不自然で致命的な破戒をもたらすという危機感がある。
いや、私はまったく個人的視点で生きている人なので「危機感を持つ」ほどの立派な社会人をやってるわけではない。
「違和感」に謹んで訂正しときます。

異端分子の徹底的排除で社会を整合させようとする西欧的社会思想は本当は世界的・歴史的規模からみれば例外的少数派で、限りなく「人工的」つまり非人間的な(形容矛盾だが)システムである。
唯一神信仰がその昔、アタってしまって一世を風靡したように、たまたまソレが18世紀にアタってしまい、現代世界を風靡してしまっているだけなのだ。

という感じで、この本のテーマとは関係ないところでの我田引水に使用させていただきました(^^;


〔読書控〕2016/09/21(水) 10:33

香山リカ「ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか」朝日新書 2014

「私生活を自慢して、賞賛・承認しあう。
その反対の、悪意に満ちたヘイトスピーチ・・・。
SNSは社会と人間をどのように変えるのか?」(表紙裏見返しアイキャッチ文)

一方的な発信を繰り返しているだけだが、それを双方向でオープンなコミュニケーションと当人達は信じている、というのが先ず香山の抱く違和感。
まあ相互仲良し協定や義理で「いいね」を押し合いするだけなんだから、双方向とは言えない。
本名主義のFBでは知人・知り合いに反論することは控えるというよりタブーだろう。
単に相手は「おはよー」とかいう日常の挨拶をアップしているだけなんだから。

私はFBで「いいね」を押さないが、「悪い」と思ってもそれも表明しない。
それが本名で付き合う上での礼儀だ。
他人の意見表明に「いいね」を押し、「友人」に「拡散」させるのは、電話で誰それに一方的に投票依頼をするような日常の付き合い上のマナー違反だと私は思う。
意見表明は別の場所でやってもらいたい。

一方で匿名でのツィートが可能なTwitterではサイバーカスケード「集団極性化」が起きやすい。
「各人が欲望のままに情報を獲得し、議論や対話を行っていった結果、特定の---たいていは極端な---言説パターン、行動パターンに集団として流れていく現象」(萩上チキ)がある。
香山は特に匿名のネット上の「非抑圧性」を指摘する。
本名でのリアル社会よりネット上では善意であれ、悪意であれ社会からの抑圧を感じることなく意見表明ができる。
しかし「善意」は日常でも抑圧する必要もなく発揮できるのだが、「悪意」はネットでしか開放できない。
被抑圧性とはいえ、SNSでは一度発言してしまったことを撤回したり、相手の反応を見て途中で修正したりすることは困難で、最初から「まわりに合わせる」ことになる。
それがサイバーカスケード現象の呼び水になる。

また、私も気になるところだったが、ヘイトスピーチを初めとするネトウヨの過剰な横行へのきわめてアカデミックな(^^)解説も。

「大きな物語」が終わったがゆえの「自分さがし」だそう。

資本主義が一人勝ちし、グローバル経済が生み出すフラット化した物語なき世界で、その昔若者のカリスマだったリベラルアカデミズム(香山は浅田彰とかの名を)がどこかに消えてしまった。
『ネットの世界に論理ではなく感情が持ち込まれ、感情のやりとりを苦手としていた研究者やリベラル知識人はそこから逃げ出した。いや、逃げ出したのではなく「見下した」。「もう付き合っていられないよ」という冷めたポーズを知識人たちが取ったせいで、直情的な右派言論がネット空間の主流を形成していった。
この去っていったアカデミズム関係者を大衆は権威そのものとみなし、攻撃されるべき権威の対象として、さんざんリベラルなことを言っておいて自分たちを放り投げたリベラル派を選んだのである。』(安田浩一)

まあ、それはウソというか、あまりに物語化し過ぎと思う。
第一、今のネトウヨが浅田彰なんか読んでいたワケはない。
しかし、嘗て命をかけて変革を目指した井上君がネットにはまるで関心を示さないのは良く分かる。
私にもSNSなんてのは同窓会で名詞を交換するくらいの意味しかない。 しかし、私にはまた別の意味があるのだが、それはこの書評とは別のことだ。

精神科医としては香山は、この物語喪失時代の「自分さがし」について、「オンリーワン」を目指すが、他人に批判されるのは怖いので、具体的な行動をおこそうとはしないという「新型うつ」を発生させているという。

もう少々、この本で仕入れたこの分野のタームの覚書。
「話を盛る」=SNSに上げる時多少の脚色をすること。
「ネタ消費」=SNSに上げるために(ネタを作るために)行動すること。
このネタ消費で悪ふざけの写真を撮り、SNSに投稿し、炎上するケースが何度かあった。
でも「話を盛る」のはリアルでも常にある。
「話を盛る」こともできないなら文章を書く能力は全くないだろう。

それはさておき、文章を書けない若者が増えてきた。
いや、実は文章を書けない層でも発信できてしまう、というのがネットという空間の本質を形成しているようだ。
文章を書く → 134文字の短文をつぶやく → いいねを押す → 写真だけアップ。
これがブログからツイッター、FB、そしてインスタグラムに流れていく基本構造がソレ。
文章も思想もカスカスになっていく、と香山が言う意味は明らか(^^;

いや違うな。
その昔なら活字に縁がなく、文章を書くこともない元からカスカスの絶対多数者でもネットでは発信できる、というところだろう。
ネットがもたらす本当のマス・コミュニケーション(^^)v
写真だけでコミュニケートしようというインスタグラムが主になれば、思考という古いオリのようにこびりつく人類の悪癖もなくなり、公平でフラットな理想世界はもうすぐ(^^)/

・・・ネットじゃ、上記のような反語や皮肉、軽いレトリックがまったく通用しないんだからね。ったくぅ。

東日本大震災が再び「大きな物語」復活させたという指摘は示唆に富む。
このときの物語のテーマは「絆」であり「つながり」であったわけだ。
主張の発信や議論の場ではなく、「つながること」。「いいね」しかない空間。
それが現在のSNSか。

この「大きな物語」は西欧社会ではテロが復活させたのだった。
そして、同じように"Je suis Charlie"という「絆」大合唱が蔓延。
逃げ出さなかったアカデミック・リベラルのエマニュエル・トッドは炎上。
うん、その辺はつながったぞ。

今「香山リカ」読んでいると言うとヨメに「ええっ!あんな?」と、かなり軽蔑された。
何でも一度テレビで見たが、「コザ賢く解答する態度が気にくわんかった。
でも、一度突っ込まれるともうだまってしまっていた。」とかだそう。

まあ、このような「アイツはキライ」という発言は家族内や会社等の小世界では常にある。
時には私まで知らず知らずに影響され、俳優香川照之にはあきらかにヨメの所為で半分ほどの悪意を家族内文化として共有させられてしまっている。
演技過剰・わざとらしい三枚目が実は東大出というのが実に憎たらしくイヤミじゃないか(^^;
しかし、たまたま「アンフェア」のTV版を見たが、そこまでの悪度さもなく、バイプレイヤーとしての演技を普通にこなしてた。私は謹んで自分の評価を多少変えさせていただきました。

しかし、ヨメがネットで特定の個人攻撃を発信することは絶体にない。
個人的な第三者への悪意発信は家族内でとどまっている限り、香川照之氏には何の実害もないし、返って俳優としての強烈な存在感があるという証明にもなっている。

しかし、ネットでは関係のない第三者が直接自分の憎悪をぶつけに来る。
あるブロガーの述懐が紹介されていた。
「『クソみたいなブログですね』
わざわざそんなことを外部から匿名で書いてくる人たちの無情さに冷たーい気持ちになる。」

もしかしたらヨメは香川氏に「アホ、もう出るな」と直接コメントするヒトかも?
しかし、それはない。
ここに個人の社会観の大きな壁があるのは明白だ。
ヨメはPCもスマホも持っていない。

生まれたときからネットでつながっている世代の社会観はどのようなものなのか?
あまりに手軽に、家族内での「非抑圧性」の無責任な会話のノリでスマホに毎日つぶやいているのだろうか。
それが双方向のコミュニケーションであり、世界とつながるということであり、正義を実践している(あ、「プチ正義」の定義を引用するの忘れた)という生き生きとした昂揚をもたらしているんだろうか。
それが「物語なき世界の自分探し」なら、隣国大国(複数)のように常に外敵物語を国民に与え続ける政策にも一理あるわな。

この話題は既に書評を越えてしまっている。
別にどこかに続きを書くことにする。
たぶん「必要善という処世」というタイトルで。


〔読書控〕2016/10/07(金) 12:18

瀬川正仁「老いて男はアジアをめざす」 バジリコ株式会社 2008

副題:熟年日本人男性タイ・カンボジア移住事情

南アジアに移住したい思いは常にあった。
私には老後を過ごすに日本の物価は高すぎると思っていたからだ。
しかし熟年になり妻帯したので日本での生活基盤がかたまり、海外移住は「もうないよな」ということになっていた。
しかし、一昨年からベトナム・台湾に頻繁に出かけるようになって少々事情が変わってきた。
それはでは経済性という一点だけがアジア移住の理由だったのだが、今は経済ではなく、日本社会が私には純粋に暮らしにくいのだ。
出来ればここから脱出したい、とまた考えている。困ったな(^^;

この書は様々な理由、モチベーションでタイ、あるいはカンボジアに移住していった熟年男性達のインタビューを骨子に構成されている。
どちらかというと週刊誌的な興味本位風なタイのセックス産業がらみの記事も多いので、その辺りは別の資料価値もあるが、10年前のデータということで読み飛ばす。

偶然、先月の台北旅行でその地に移住してきた私と同学年の日本男性と歓談する機会があった。
やはり日本社会の生きつらさということがモチベーションの一つのようだった。
この人は台湾語があまり話せないが、奥さんが台湾の人なので基本的な生活には支障がないようだ。
それにある種の人にとって社会的なコミュニケーションを計らなくともいい、ということが却って気楽に暮らせる要素にもなる。

高度管理社会の習性が今では組織以外の一般社会にも蔓延している。
健康管理や環境対策、あるいは震災復興というような私の個人生活上「どうでもいい」ことに対しても容赦のない批判がどこからともなく飛んでくる。

「どうでもいい」とはどういうことですか!
この日本を次世代に恥ずかしくないように残していく義務があるというのに!
・・とか訳の分からん(「大義名分」という意味もわかっていない)方が平気で他人を罵倒しみんな揃って正義の味方をやっているのだ。

前半ではストレスフルな日本管理社会、あるいは罵倒社会からタイに行き再生する、という高年男性が多く紹介されている。
異口同音に言うのは「(タイに)自分の少年時代と再会したような懐かしさを感じる」。
私の少年時代の日本はもっと貧しく、皆いい加減に生きていたのであまりアカの他人に対してとやかく言う者はいなかった。
この辺りの世代の感覚は広く共通できるようだ。
もちろん、低物価という点だけでタイに移住を決める退職老人も多いが、他に心理的なモチベーションがないと三年位で飽き、日本に帰ってしまう方も多いとか。

日本の息苦しさから逃れる、というモチベーションにも一部入っているのだが、老人の性処理の問題も大きな要素として存在する。
老人男性が若い女性に情欲を持つことを表明するのは日本では完全にタブーである。

先日、老人ホームで近隣の子どもと一緒に食事をさせる試みをどこかの地方自治体が行ったという記事が出た。
「老人に子供」なら「いいね!」、若い女性なら「許せない!」となる。
一老人として私個人の本音をいうなら、子供はきらいだが若い女性のミニスカート姿は大好きだ。
そういう男性としての性欲を表明する、あるいは満たそうとすることがどうして日本ではタブーとされるのか?

日本の女性ががっちりスクラムを組み自分たちの利害を守るために、こういう無理な道徳律を尊守させようとし、高年男性は心無くもこの偽善を旨とさせられる。
私も日本では若い女性に声をかける心理にはなれない。
「必要善」とでも言う他ない自己防衛をしなければ社会生活を「健全に」行っていけないのだ。
一番イカンのが日本の若い女性自身が無意識にこの日本の薄っぺらい偽善文化に自分の価値観を根つかせてしまい、老人男性を恋愛対象として見ることが出来なくなっている。
いや、恋愛以前に性の対象とも感じていないようだ。
日本では「若い」ということが性的価値の全てのようだ。

え?私も「若い女性」と言ってる?
ま、日本人だからね(^^;
見るなら「若い女性」がいいのだが、性的対象としては年齢制限は設けてませんので(^^;

タイに永住している日本人老人男性の多くが現地の女性を「妻」「妾」としている事実がある。
ここで、タイの「若い女性」の夫や恋人用男性選択基準に年齢という要素はそんなに強くなく、それより経済が優先ということになっている。
「恋愛」がパートナー選択の条件ではない。
これは日本でも以前は「見合い結婚」が多かったという事実に符合するだろう。

また「恋愛」という心理の在り方がそもそも違うのかもしれない。
違っていても別にいいではないか。
男女の関係は人それぞれだ。
しかし日本では高齢者の男女関係にまったく自由はない。
だから私は男性に「閉経」がないのを一時は疎ましくさえ思っていた。

しかし、日本以外で暮すという視点を持てば「男は高齢になっても愉しい」と開き直ることもできる。
実際にはもう移住をするには現実的ではない年齢になってしまったが、世界はココだけではない、という視点があればこの重苦しい偽善社会日本から多少の息抜きができる。
日本とは違う国がある。
それが救いだ。

などと自分の都合のいい記事の感想ばかり書いてしまうが、当然裏の事情もある。
若いタイの女性に入れ込み、財産を全て奪われてしまう事例は枚挙にいとまなし。
まあ、タイが日本老人男性天国というわけでもないのは言うまでもない。
しかし、全財産を奪われても「楽しかった。人生に悔いはない。」と述懐する老人も少なくない。

財産だけが価値ではない。
本当にそう思える男性だけが日本を捨て、タイやカンボジアに永住し人生を全うできるようだ。


〔読書控〕2016/10/25(火) 14:16

四方田犬彦「台湾の歓び」岩波書店 2015


以前、モコッロに行くつもりで参考にこの著者の「モロッコ紀行」を読んだ。
文化の比較という観点から見事な指摘が2,3、強く印象に残った。
イスラム圏のガキはただ小さいだけのオトナで子どもっぽい媚びなど一切ない、子供らしさは大人が作るのだ、とか、清潔な抽象模様のイスラム地域からスペインカソリック圏に入ると、今更ながら教会装飾のどろどろしたおぞましさに云々、とか。
その実、私はとうとうモロッコには行かなかったのだが。

台湾へは昨年からたて続けに8回も旅行してしまっている。
一番の理由は飛行機代の安さ(LCC)と旅行の簡便さだったのだが、訪台する度にこの国(?)の独異性、特に「日本」というモノ・コトに対する立場の韓国との際立った違いや、国民(?)性や習俗の在り方に魅惑されていく気がする。

韓国留学の経験を持ち、「お座敷がかかれば世界中どこにでも行くProfesseur errant」(私の評)の四方田ならおそらくこの台湾の独異な魅力の来し方が何かを教示してくれるだろう、という期待はふくらむ。

「台湾の歓び」とはなんと気恥ずかしくも素直な表現であることか。
腹の底から叫んでいるような生々しい情感がある。
私は常に現代日本社会にある種の閉塞感を抱いていて、「どこかウソくさい違和感」というような表現をしてしまう。
何?「台湾の歓び」? ひよっとして、それが私の台湾でもあるのかも?


「日本人は台湾に、自分達が喪失したものをめぐる小津安二郎的な懐かしさを求めていたのであって、東京以上に匿名性と凡庸さの編み錠組織が展がる、後期資本主義社会の映像などには、いっこうに関心を向けようとはしなかったのである。」
台湾は古い日本の記憶を保存しているノスタルジア(だけ)ではない。
昔の日本は良かった、という一点だけで台湾を見るのならそこまで綿密な考察は要らない。
徹底的に日本を歴史から消し去ろうとしていた韓国から台湾にくると、「日本」のあからさまな露出にとまどい、これは一部の観光用の媚びではないか?と著者は先ず疑う。
しかし、そうではない。
歴史・民族・宗教・文化等の複合した要素が絡み合い、更に現在という情況も照射し、独自の台湾という現象が目の前に出現している。

比較文学者・映画史の専門家として台湾の作家へのインタビューや論評があり、観光ではない台湾の文化と社会の現在の報告からは、台湾が「嘘くさくない社会」ではない確実な手ごたえを示唆される。
小津安二郎的懐古趣味ではなく、現在のリアルな座標の中に存在する確とした現代文学や映画、日本ではもう誰も振り向きもしないアバンギャルドの熱気。
それは、3重になった多民族国家であり、多言語国家であるという現実を受け入れ、過去の歴史からの反省から独自のアイデンティティとして積極的にその重層性を生かしていこうとする姿勢なのか。
あるいは馬祖(女偏に馬)信仰を核とした仏教・道教・民間信仰の全肯定、あらゆる宗教のデパート、「エンターテインメントとしての信仰」(hemiq)という大らかで、しかも開かれて生き生きと信仰が根ずいている日常か。

同一民族としか接したことのない国では全く異なった価値観を持つ隣人が自分の横に居ることが理解できない。
日本や韓国に住んでいては人間の多様性ということを理解し、認めることは本質的に無理なんだよな。

まあ、別に著者も私も結論に踏み込もうという意図はないのだが、何となく現在日本には欠けている「生活の歓び」のようなものが私にはその辺りから見えてくる。
いや、歓びだけではない。

2014年に当時の馬政権に反対する学生達が当時の国会を占拠する事件があり、著者の報告では占拠は国民的盛り上がりに支援され、秩序だって整然と行われ、暴力や破壊行為は一切なかった。
決起集会にはさる詩人が自作の詩を読み上げその意義を称揚する。
このニュースをラジオで聞いたタクシーは有志で国会を取り囲み、機動隊の介入を阻止・・
というような現在日本では考えられない「60年安保当時のような」(私も著者も知らん世代だが(^^;)若い情熱が政治に素直に向いていた時代の感覚を思い出させる。

また、著者は国民的な宗教行事・進香に参加、この一大宗教行事の盛り上がりの一週間の詳しい体験記も収められている。
進香に参加する巡行者には道筋の各村落から無償で食物や宿が供給されるが、その準備に朝早くからわいわいと愉し気に炊き出し等をしているオバちゃん達の様子の活写も。

政治と宗教への熱。
歴史や土俗慣習の尊重。
多重民族・言語を当然として受け入れる社会。

そのようにラベル化してみると現在日本の閉塞感が一体どこにあるのか丸わかりというモンだ(^^;

歴史や言語、宗教慣習とは経済効率というナタであっさりと切断された現在日本社会。
いや、現象的には台湾の現在も同じ現象が存在しているのかもしれない。
ただ、台湾は狭く、その現在性といたるところにある廟が併存し、植民地宗主国日本と覇権主義の大国中国が現実に隣接し、ハイテクと夜市が併存するモザイク国家なのだ。
あまりにも狭く、どこに行っても個人は歴史的現在・地理的現在の台湾と相対せざるを得ない。
そこは多分、西欧型個人主義や経済主導も至る所にある廟の一つ、その廟に祀られる神サマの一つのように、並列した価値体系の一つとして相対化され、便宜的手段・方便として使用され得、他と並存できる社会なのだ。


本の最初の記事には西門町の天后宮に併祀されている弘法太子像への言及があり、この廟宮を確かに私は最初の訪台で訪れていた。
エピローグで使われていた唯一の写真は、私も台南安平の湿地で撮影した野良犬だった。おそらく同じ犬だろう(^^)v。

私はわずか一年しか台湾を体験していないのだが、この読書はまたもう一回台湾旅行をしたように楽め、また新たな旅行体験として私の台湾に確実な厚みを付け加えてくれた。
台湾は愉しい。


〔読書控〕2016/11/16(水) 11:22

フランク・ライアン「破壊する創造者」夏目大訳 早川書房 2011

副題:ウィルスがヒトを進化させた
原題:Virolution
このタイトル、サブタイトルと原題のアイキャッチ力は相当なもんだ。
ちらりと中身を繰ってみると、どうやら「と」系(^^;本ではない。
いずれにせよ、そのような「ちょいとこいつは」という留保を一瞬抱かせるような痛快な科学啓蒙・解説・報告書。
進化論、特にウィルスを仲介とした並行進化に力点を置いた学説の紹介が前半だが、後半にはそれ以外の古典的突然変異によらない進化のエンジンについての研究にも詳しい報告がある。
進化を研究する時、今この時間に人間をやっている我々自体の存在がどうしても理論の評価に意識に影響を及ぼしてしまう。
「進化の頂点としての人間」という古典的な進化のイメージを固定観念として抱いてしまっては正しくモノが見えることはない。
「進化」という概念そのものも西欧的神学からは出るはずもない観念だろう。

現在の進化論の最先端でもこのような既成概念・固定観念からの根源的な逸脱を要求されるようだ。

原題”Virolution”を「破壊する創造者」という矛盾を前面に出した邦訳タイトルはこのような固定観念を前提にして成り立つ。

進化エンジンは大きく分けて4つ。
突然変異(古典的進化論)
共生発生(ウィルスとの共生)
異種交配(植物ではありふれているが、動物でも)
エピジェネティクス(遺伝子に依存しない後天的な形質発現で遺伝もする)
覚書程度にも内容を要約しておきたかったが、時間の関係もあり今回は詳説しない。
ダーウィン進化論とメンデルの遺伝理論では種レベルの「進化」がどのようにして引き起こされるのか私もおおいに懐疑的だった。

外部のウィルスが細胞内に侵入し、細胞核に融合しヒトの遺伝子そのものに取り込まれて共生するに至る。この共生形はもちろん核分裂しても同様に分裂し子に引き継がれる。
このような形での「進化」もある。
しかもヒトのゲノムを解析すると、そのうちレトロウイルス由来の部分(内在ウィルス)が40パーセントを占めていると。
あ、何パーセントかはもう一度自分で確認してね。
書評ではメンドくさいのでいい加減な記憶で(^^;
現在までこのようなDNA内の内在ウィルス部分は痕跡・ジャンクであると無視されてきたが、実は・・・なんだったっけ? 興味があれば本を読んでください。

来週、上海旅行予定なのでゆっくり書いていられない。
いそいで本日最後まで目を通して、書評を書き飛ばしてしまうしかいない。
しかし、この本は熟読に値する。
できればもう一度最初からじっくり読みたいと思う。

ウィルスと宿主生物との遭遇は、宿主から見ると事故災害という形になる。
エイズの病原体であるレトロウィルスは生物の遺伝子そのものに侵入し、免疫システムや生殖器官という生命の存在に関する機関部分を改変してしまう。
それは単なる感染ではなく我々の身体・生理システムを変更し、多くの場合そのような改変は致命的な驚異になる。
しかし、宿主を破壊してしまうウイルスは自分自身も存在できない。
やがて宿主とウィルスは両者共に利益を得るような形でおりあいを付け、新しい形で共生を始める。
もちろん個体レベルでは当初の試行錯誤で消滅してしまう数が圧倒的だが、うまく共生できる個体が発生すると当然ながらこれは種全体に拡がる。
なんたって他はヤラててしまうんだから。
で、こういう進化もあり得る。

「元は細胞を持った寄生体だったウィルスが、やがて細胞膜や細胞構造を失い、宿主の細胞に依存して生きるまったく新しい存在に進化」

著者はこんなふうにいう。
エイズは今は初心者マークでうまく共生運転できていない、という状態だろう。

ミトコンドリアは核内ではないが、細胞内に他の生物が共生している例で、この宿主と共生者の組み合わせが歴史上のある地点で発生したことによって酸素呼吸できる生物が誕生したのだった。
(核外共生なので核分裂を行わず、母親の細胞内のミトコンドリアだけが子に遺伝する)
ウィルスが侵入するのは一個の細胞なので、その細胞に共生現象が生じても、生物一個体として全体の細胞にどう影響?
それとも、生殖細胞に侵入することが前提だったか?

異種交配では染色体の三倍体が発生するので生殖による減数分裂で正常分裂できないことが不妊の原因とされている。
しかし、多くのケースで異種交配が成立し、結果多くの種が分化していることが明らかになってきている。
ま、いえば(私の仮説^^)三倍体同士が交接すれば6倍体になり、これは2倍体として整数分裂できるじゃん?

ま、なんでもいいが、ネアンデルタール人が現生人類と共生しすぐ絶滅(5万年前)、その後異常なホモサピエンスの進化爆発があったことは?ひょっとして?
ホモ・サピエンスにはネアンデルタール由来のDNA因子はない、とのことだが・・・

両親から遺伝されたDNAからの遺伝子の組み合わせで子の形質が決まり、その組み合わせの環境適合性の優劣で種全体の優位形質が決まり、そのようにして種が存続して行く・・・「ランダムな遺伝子の突然変異による無作為な形質変化が自然淘汰で生き残る」
という物語はシンプルで美しいが、占星術のようなもので現実はそうではない。

遺伝子発現を調節するエピジェネティックなメカニズムがある。
同じ遺伝子でも後天的に(あるいは環境により)違った形質に成長し、その形質は遺伝する。
「生物は環境に直接呼応するようにして進化し得る」

この本の内容を完結に要約することはやめておいて、私の全体の読後感を述べる。
生物は環境に応じて絶えず変化し、環境そのものも生物によって変化していく。
世界はそのような相互の存在としてのダイナミズムとして存在している。
このダイナミズムを現在生きている人間個人から見ると恐ろしい不確実性や危険を意味し
共生者ウィルスとの新しい進化の可能性は先ず恐ろしい病原体との遭遇として出現する。単細胞生物は栄養さえあれば不老不死であるが、ある地点で多細胞となり老化と死を発明し、生殖によって生命を維持するように我々は進化した。
だから細胞自体は本来不老不死である。
しかし、一細胞が何らかのエピジェネティックな制御エラーで不老不死性を回復したときはガン細胞と言われ、多細胞生物の全体を死滅させてしまう。

現在、多くの遺伝病・免疫不全というような病理が研究されているが、果たしてそれは病気ではなく、耐えざる形質獲得への試行と捉えることも?

生命というのはこの壮大な宇宙的カオスの中で一瞬一瞬バランスをとりながらかろうじて今存在している。
ここから先は哲学になるほかはないのだが、これも悪しき論理癖という病の故で別に深く考えることもないのかもしれない。
我々はただ今のところ、ここでこのようにしてただ存在している。
ただそれだけで。

現在の私達が捉えられるドグマ枠を揺さぶられること多し。
特に衛生・栄養・健康オプセッションや、一元的環境保全論にいとも簡単に納得し囚われてしまっている人達にとっては絶体に理解できない科学最先端の研究報告だろな(^^)
(書評未完)

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