[読書控 2017 index]

〔読書控〕2017/01/15(日) 23:13

小松左京+谷甲州「日本沈没 第二部」小学館 2006

この小説も前作からの長い空白があるが、そちらではなく自分の読書欲の枯渇があり、長い間の空白の後やっと読了。
一体どういうことなのか?
ほとんどもう架空の物語にのめり込めなくなってしまっている。
いや、単に目が悪くなりダイソーの100円老眼鏡をかけねばならなくなったのが煩わしい故か?

この物語なら一気に行けるか?と期待したのだが、やはり朝のトイレでの5分以上読書時間は伸びなかった。
しばらくこの読書欄も止めてしまおうか・・・年度も改まったことだし・・・。

小松の当初の想定通り、この第二部では国土なき国家となった日本がどのように自分たちのアイデンティティを持ち続けるのか、あるいは世界にローカナイズされ消滅していくのか、そのような情況を描いて「日本」という現象を浮き彫りにしていく展開になる。
しかし既に高齢の小松当時70は自分で書くことはなく、数名のプロジェクトチームを組み、最終的にプロットを谷甲州が書くという集合執筆システムを取る。
このようなプロデュースも小松の特技でもあったわけだった。
そして2006年、前作からは33年を経て第二部が出版され、小松は数年後80歳で没す。

長編小説だが、各地に散った日本人のその後と政府首脳回りから各地の公務員までの十名ばかりの小主人公を配したエピソードの連続で構成。
従ってあまり図太いプロットの縦の線は感じられず、エンターティンメント映画風のアネクドートのアイデア集のようになってしまっている。
まあ、それも小松流の未来学へのアプローチともいえ、むしろ小松を中心にしたプロジェクトのメンバーがプロットをああでもない、それでいこう・なんて議論している様子が透けて見え、面白くもないこともないのだったが。
で、日本は?
相変わらず東京オリンピックの日の丸を掲げて日本人をやってるようだった。
一方では国土消滅から3000年たってもアイデンティティを失わないユダヤ人の例もあるので別段無理ではないのだが。
しかし宗教がらみでもない日本が何を持って日本として日本をしてるのか、あまりピンと来なかった。
どうやら科学技術の才というのがどうもカギらしいのだが、それは東京オリンピックあたりの日本なので今ではあまり説得力はないよな。

小松自身ももう一度人工的に国土を復活させるプロジェクトを推進させるのか、新ユダヤ人として各地に浸透しコスモポリタンとして理念だけを残すのか、判断できなかったのが第二部長期断筆の理由とウィキペディアで誰かが書いていた。
小説内でも同様の葛藤をうまく取り込んであったのだが。

まあ、悪くはない。
しかし今はもう何事が起ってもおかしくはない不確定性の時代になってしまっている。
SFなんてもう古すぎるんじゃ?


〔読書控〕2017/02/22(水) 10:31

パット・シップマン「ヒトとイヌがネアンデルタール人を絶滅させた」 河井信和[監訳] 柴田譲治[訳] 原書房 2015

先史時代、現生人類がユーラシア大陸に侵入し、すぐさま食物連鎖の頂点に立ち、結果として別系統の人類ネアンデルタール人を絶滅させた。
その画期的な武器はオオカミの家畜化したオオカミイヌだった。
そのようなアイデアを仔細な資料に即して検証していく。

著者は著名な現役考古学者で前半部分には最近の学会の研究成果が数多く紹介され、それだけでも興味深い内容。
ネアンデルタール人と現生人類の動物捕捉能力は多少の違いはあっても、食物連鎖上からは同一のクラスにあった。
ネアンデルタール人は大型の動物を待ち伏せて駆るライオン型の狩りをし、現生人類は集団で大型動物を追い込んで狩るオオカミ型。
このとき、人類とオオカミとは高度な社会性を形成するという能力が共通し、仲間とコミュニケーションをとる能力は異種間コミュニケーションの成立にも寄与する。

「ほとんどの人間が白い強膜(白目)をもつようになったのは、人間同士だけではなく共に生活し狩りをしたオオカミイヌとのコミュニケーションもうまくいったからではないだろうか。

イヌは指示を求めて人間を見る。
イヌは自分の視線を人間のほうに向け、コミュニケーションの合図としてアイコンタクトを取るようにもなる。
これは野生のオオカミにはできない。
実際に野生のオオカミが人間にじっとみつめられれば、オオカミはそれを威嚇の意思表示と解釈するだろう。」

この白目の研究はアイデアだけで、まだ実証的な研究はないということだ。
ネアンデルタール人は幾度もの気候変動にも耐えて30万年も行き続けてきたが、現生人類が登場し直ぐに絶滅してしまった。
いろんな条件が働いた結果だが、やはり現生人類が食物連鎖の頂点に立ち、同じニッチにいたネアンデルタール人を駆逐したというのが主因のようだ。

ネアンデルタール人も道具や武器を使用したが、家畜は使わかなった。
現生人類がオオカミをオオカミイヌとして家畜化し、大型動物を追い込ませ、狩った獲物の番をさせるメリットは計り知れない。
この獲物を狩場で保管できるというメリットがある種の社会的役割分担を可能にさせ、女性の子育て特化等も可能にする。
馬・牛の家畜化はいわば生産・移動手段の機械化というイメージそのものではないか?
更にヤギ・鶏等の家畜化で定住生活が可能になり、やがて農業が(・・とまでは書いてないが)。

別の人類、ネアンデルタール人との対比に家畜使用能力という指標を導入しようとしている刺激的な書物。


〔読書控〕2017/03/13(月) 16:56

大岡優一郎「東京裁判 フランス人判事の無罪論」 文春新書2012

最近NHK制作の東京裁判再現ドラマを見た。
連合国側の当然の報復感情が主導する裁判だが、印度のパル、蘭レ-リングは法律論に立脚し、あくまで論理で裁く態度を貫き、正式判決に反対意見を提出する。
東京裁判に対する現代からの批判の眼があり、この二名が主役級の扱いだった。
もうひとり仏アンリ・ベルナールも個別反対意見を提出していたのだが、この人物や論理についてはまったく描かれていなかった。
この新書はもう一人戦犯無罪論を主張したが、まったく忘れられている人物に焦点を当て、この人物を掘り下げた労作。
フランスこそは元より植民地王国であり、アジアの植民地化については日本の大先輩格。また、戦勝国といっても殆どドイツに占領されていて戦争というものの巨大な暗闇を実体として理解していたのだろう。
個別の兵士・指揮官に悪としての戦争の責任が問えるのか?
また、そのような個人に戦争責任の責めを負わせて何が解決するのだろうか?
しかし天皇には統治者としての戦争責任があると明確に言明する。
ナチスドイツに占領され傀儡政権とレジスタンスが複雑に入り混じったフランスからは、英・米・豪等よその国で戦争を行った戦勝国の単純な正義の論理や敗者が懲罰を受けるのが当然という感覚はあまりに単純でうすぺらく見えたことだろう。


〔読書控〕2017/04/06(木) 18:09

鈴木満男「日本人は台湾で何をしたのか」 国書刊行会 2008

副題:知らざれる台湾の近現代史
台南の床屋兼ホステル「理容院哈司托」でこの家の高校生と思える娘と話したことを思い出す。
日本からの宿泊者も増えてきたが、若い人達は殆ど台湾の歴史を知らない、と言う。
私は若い範疇には入らない。
上の世代を代表するような思いで、鄭成功の出自や日本帝国の台湾経営とその遺産を未だに現地で大切に保存していることに感銘を受けた云々とか喋ったわけだ。
私の知識はもちろん常識的なものだった。
その私はいつも同じ総督府が置かれていたはずの台湾と韓国の現在の対日感情の大きな隔たりの所以を理解していなかった。
台湾総督府に勤めていた日本人の官僚や民間人の人間としての質がたまたま良かったのか、とか思わざるを得なかった。
しかし、そんなことはない。
台湾でも朝鮮でも日本は勝手に日本を押し付けたはずだった。

著者は社会学者・台湾史の研究家。
40年前に初めて台湾に渡ってからの見分に基き、その実体験に基づいて「開放以来」横行する一面的な台湾史への違和感を語る。

著者も最初の渡台時には準備として三カ月中国語(北京官話)を習得していったのだが、結局は英語を用いるしかなかった。
しかし滞在した松山の饒河街では英語はもちろん、中国語も通じなかった。
しかし、日本語を使えばよかったのだ、と40年後の著者は書く。
『蒋介石政権が「台湾に逃げ込んできて」から当時はまだ20年しかたっていない。
学校の先生だけが、その頃ようやく、あたらしく「国語」の資格を得た北京官話をはなせるようになったばかりだったろう。』
『西門町の雑踏を見て、「ああ、台湾だ、中国の町だ・・・」と日記に書いている。だがそれが実際だった。』

台湾語と中国語は英語とドイツ語よりも遠い。
何回目かの滞在で私は台湾に移住している同世代の方にそのことを教わった。
中国語も台湾語も私は知らないので、町で見かける「漢語」は中国語であると勝手に思っていたのだった。
数十年間日本語が「国語」であった台湾は、更に数十年「中国語」を国語と決められたのだった。

日本が退場したからやってきた蒋介石政権は日本と同様な植民地支配を行った。
この政権の台湾への為政は敗戦国日本に対するもの同然だった。
私が知らなかったのはこのことだった。
そして、日本の統治が明治日本の西欧列強に範をとった法治主義の原則であったのに対し、蒋介石は中国の伝統的な官尊賄賂の為政だったようだ。
そして台湾の2・28事件。この外省人・本省人の厳然たる階層社会のことも私は知らなかった。
昨年の訪台時に私と同い年で退職してから台湾に移住した邦人と会食する機会があり、外省・本省人と中国語・台湾語の差違を教えてもらった。
しかしその時の私はまだそれが現代台湾を語る上で絶対に外せないポイントだということをその鋤柄氏が指摘していたのに気付いていなかったのだ。すんません。

『いまひとつ、多分一層深刻な要因は、東京裁判の打ち出した史観の影響から十分には抜け出ていなかったこと・・。その影響は実に長く日本人の思考を拘束した。多くの政治家が「植民地支配の罪悪」を他人事のように軽々しく口に出し、あたかも20世紀前半の世界史の大勢がどのようなものであったかを知らぬが如くだった。』

蒋介石政権は当時の中国の知識人・学者を引き連れてやってきて、それがそのまま台湾のアカデミズムの支配層になった。
『日本語に対する・・・”警戒感”や”恐怖感”とでもいうべきものが(台湾知識人に)徐々に拡がっていった。』

1990年李登輝が総統に就任。ここでやっと、劇的に台湾語が復権する。そして日本語。

『日本人のきれい好きが一般化していたが、戦後台湾の蒋政権によって再シナ化してしまう』
『植民地住民の「同化」とは、西欧列強がいまだかって試みたことのない、我々の明治の先人だけが植民地統治に託すことのできた、不思議な「理想」だった。』
『総督府の手による台湾社会の近代化は、思いもかけず、タタミ愛用という純日本風習慣をも教えたのだった』
『本省人の記憶の中に残る日本時代の警察は、ほとんど”legendary"といってよい。ここで「伝説的」というのは、それほど”光り輝いている”という意味である。』
ある韓国人の朝鮮総督府時代の回顧「日本人警官は、口やかましかったが有能だったし、厳正立ったなぁ」』
『東アジア研究が主題のゼミでひとりの女子学生が「創氏改名」について報告した。例に拠って例の如く、朝鮮総督府のその政策がどれほど朝鮮人を「差別」するものであったかを滔々として述べ立てた。
ひとりの男子学生が立ち上がって感想を述べた。
朝鮮人に日本語を教える。日本風の名前に変えさせる。日本仁の風俗習慣を学ばせる、等々。ひとことでいって日本人と見分けのつかぬ人間を育てる教育、それがどうして『差別』なんでしょう。・・本気で差別しようとしたら、そういう余計なことは一切しないほうが効果的だったでしょう。と』

韓国では姓による差別構造があり、むしろ日本姓への改姓を選択したケースも多い。
台湾での日本姓への変更は強制ではなく、許可制(任意)だった。

日本の高等女学校の元校長、田舎に赴任した役場職員の地元民の素朴な信頼関係を勝ち得ていく逸話。

大東亜共栄圏はもちろん時の政治経済の要請が下敷きにある大義名分だったろう。
しかし多くの日本人は素直にその理念を信じていたはずだ、と思える。
いわば小学生的な正義感でもって。
そうして台湾に赴任して行った若者、官吏・警官・教員・職員は当時の日本人的な真面目さでもってその職責を果たしたものと思える。
その真面目さは、後にやって来た蒋介石政権の狡猾・露骨な差別支配に比較されると、”legendair"とまで回顧されるようになっていく。
一方、韓国では日本敗退後は同じ韓国人が政権を握り、徹底的に日本の痕跡を排除する。
私は元よりその時代を知らない。
謙虚に著者の見聞を読み、著者の見た「台湾での日本人」を追体験をしていると、やはり真実は個人の内在する体験にしかなく、真実であるという確信は個人の文体の真柏性に拠るしかない。
嘗ての台湾に居住した日本人も、満州出兵兵士の私の父のように純朴で愛すべき普通の日本人であったのだ、と私は思う。


〔読書控〕2017/05/26(金) 15:57

金庸「鹿鼎記 1-8」 徳間書店 2004

事故怪我療養で仕方なく市図を利用。
金庸の最後まで読む気にならなかった長編を借りて読む。
作者としては近代中国史への思い入れがあったに違いないが、荒唐無稽ハチャメチャ武侠小説を期待する読者には余計なリアル混入ではなはだしく興味を削ぐ。

・・ま、そういう理由でこの長編が私の読書録からは外れていたわけだ。
今回、ケガ療養中だが、まともな本も読むつもりもなかったのでたっぷり一カ月以上かかって最後まで付き合わせていただいた。

はっきりいって駄作。
主人公がとてつもない達人で敵を鮮やかに倒していく単純明快なストーリではない。
市井のワルガキが天性の調子よさと割り切り方で倒清秘密結社の首領に推され、一方では清朝皇帝の信を得て公爵まで出世をとげる物語。
おまけにツアーロシアの女帝を支援、帝位を得させるお膳立てまでしてしまう。
ウソクサ〜い、の一言だが、金庸先生にはそれなりの思い入れがあっての設定だったようだ。

物語中、異例の長さで引用物語られる国姓爺(鄭成功)の対オランダ戦の仔細。
私もこの間に台南を旅行し、鄭成功の事績にも関心なくもないことになっている。

オランダという支配者を駆逐した鄭成功、その末裔・後継者を駆逐した清朝支配・・中国史の中でも最も大規模に乱れた時代。
現在の自信に満ちた中国からは暗黒時代でまともに取り上げられない当時の気分を掘り下げて描いておきたかったのかも知れない。

いや、私はそんなモンどうでもいい。
胸のすく武侠英雄の大活躍は期待できなかったが、金庸の作風中の美少女趣味的一面がかなり露出していて楽しかった。

最終的にはそれぞれ武術に優れた美少女で、あるいは妖艶な美女である7名の女性達をすべてモノにし、最後にはハーレム状態で大団円になるその厚かましくもうらやましい厚顔無恥な主人公の性的冒険が突き抜けていて愉快だった。
以前の武侠小説ではあからさまな性行為を遂げる暗示さえ書いていなかったのではないか?
これが金庸の最後の作品らしいが、今は男が最後に到達するあからさまな性的ユートピアへの幻想を身につまされるようにして・・・


〔読書控〕2017/06/08(木) 11:35

宮本輝「睡蓮の長いまどろみ」上・下 文芸春秋 2000

小説を読まなくなったが、宮本輝は読めそうな気がして読んだ。
ストーリは別に面白くもなんともないが、少々古風な語り口の多少の重みやふと現れる苦渋に、直面する世界への当惑がどこか私にも共通して感覚的な理解ができる気がする。
たいした話ではない。
別に読んだからといってどう、という話でもない。
しかし、あまりにも軽々しい躁状態か、あまりにも直截な怒り、小学生的正義感や深刻なテロ、内戦・・といったこのリアルとされる世界の作り物めいたウソくささに辟易している私には宮本輝の「どうでもいいような話」に聞き取れる、「世界の寂しさ」が近しい。
昭和30年代の大阪下町の貧困住宅街で当時はどこにでもあったような金・酒・女に起因する日常の小犯罪の、犯罪とも言えないただの生活の澱やアヤの中で生母に捨てられた主人公が中年になり、まがりなりにも安定した中流サラリーマン生活の中で心のどこかにあって消し去れない世界への違和が、出生の秘密を知ることで。

とかどうでもいいストーリーなワケで出生の秘密なんてことには私は全く興味ないのだが、ただ昭和30年代の大阪の下町長屋の光景が原風景として消し去りがたく私の世界観の原点に居座り、そのような蠢く人間達の汗臭い・小便臭い・まがまがしい営みこそがこの世界の正体であるという確信が重苦しくイヤでたまらんので、直面する世界への絶えざる違和感に何等かの切り口で回避したいという思いは私にもある。

この小説でまったく理由もなく、ということは小説的必然として説明されているわけでもない主人公の中年男のオナニーの描写がどこか身につまされる気はする。
この男は普通に中流サラリーマン家庭生活を主宰しているが、家族にも秘密に月3万で安アパートの一室を借りていて、時々そこに行ってオナニーをする。
自分が女性になり自分と交情するというような全くの夢幻の時間のオナニー。

何とは無く、性的昂奮の中で自分が自分でなくなり、世界が始原にさかのぼり、原風景も突き抜けて母なる宇宙と性的分化する以前の羊水中の漂う一分子になり得るというような。

オナニーの中でウソくさい世界やウソくさい自分自身からすべて抜け出してただの何もない一分子として漂うだけの存在であることを感じられる・・ような気が私にも。

この上下の長編小説の最後がそのオナニーの描写で閉じていることはかなり象徴的に思える。
例え出生の秘密が明らかになっても、しかし何か割り切れない生きていること自体への違和感は残る。
そんな現実の因果関係の話ではない。
どうしてもやり過ごせない生きていること自体へのやるせなさは歳を経てもオナニーの中でしか。


〔読書控〕2017/06/28(水) 11:27

宮城谷昌光「劉邦」上・中・下 毎日新聞出版 2015

ネット配信のチャンネルNECOで中国製のTVドラマ「ThreeKingdoms(三國志)」の総集編版を見た。
かなりの長編で総集編でも2時間x8回の大作。
人物の描き方にかなりの現代的な心理の陰影を施し、史実を知っていても毎回新鮮なエンターティンメント物語を提供してくれていた。
「史実を知っていても」なんて書いたが、劉備が倒れてからの私の史実があいまいで走らされた仲達のその後はまるで知らない物語のようだった。
そんなハズはないのに・・とか思い、念のため私の読書録を検索してみると2011年に宮城谷の「三國志」全12巻モノを読んでいた。
しかし第9巻まで読みすすんだ時点でなんと最後の後三巻がまだ刊行されていず、読書がそこで中絶したと記してあった。なんとね(^^;
2011 宮城谷昌光「三国志」(1)−(9)

日本の作家による中国史物には親しんできたが、よく考えてみると物語の各時代が混沌としてクロニカルに統一された記憶にはなっていない。
私の知識なんていつもそのような無知勝手な変形に満ちているとは最近とみにそう思う。

かいんしゅうしん・りょうかんさんごくりょうしん・なんぼくちょう・ずいとうごだい・そうげんみんしん・ちゅうかみんこくちゅうかじんみんきょうわこく
と受験時代に唱えた呪文は今でもよどみなく言える。

ソイツは誰でも見当がつくだろうがこれは?
かんぎせいえんそちょうしん
コレは私のオリジナルで戦国七雄をパリの区番号のように中心から時計回りに追っていったものだ。
最後の「しん」が上の呪文の最初の「かいんしゅうしん」の「秦」。
これで秦が周王朝を滅ぼし初めて中国統一帝国の皇帝となった秦の始皇帝が戦国時代関外の一周辺国から出たことがわかる。

しかし音の記憶は常にあるのだが、漢字で書くにはもう曖昧で(^^;
秦か新か清か晋かまったくわからんようになってる(^^;。

「りょうかん・さんごく・りょうしん」は「両漢三国両晋」(多分;;)で西暦紀元ゼロ年を挟み紀元前200年〜紀元200年くらいになっている。
三國志はこの中間の時代のことなんだが。

TVドラマ版「ThreeKingdoms」を見ていると当時紙の使用はなく、命令書や書簡は竹片や木片をヒモでつないだものをつかっている。
文字の国なのにその文字の運搬や保管はさぞかし大変だったんだろうなぁ。
このような目では現在のデジタル化電子化された情報伝達や保管は2000年に一度の文明的規模の節目であるように思える。

もう一つTVドラマ版「ThreeKingdoms」では曹操の演技・演出が際立っていて非常に多面的で深い洞察力に満ちた魅力的なリーダーとして描かれていた。
これも劉備・孔明が主役のように思っていた三國志とは少々違う印象。
日本語吹き替え版だったがこの曹操役の声優の声の演技もなかなかの味があったので特記しておきたい。

という訳で図書館に行って宮城谷の「三国志」を探したら第6巻以降が貸出し中らしく、最後にぽつんと第12巻だけがのこっていた。
しゃーない。隣りの方においてあった宮城谷の「劉邦」上中下を借りよう。

ここでも実は「劉備」と「劉邦」をちょっと混同していたりする。
実は両者とも無頼の輩で次第に実力をつけ歴史に登場するような背景もかなり似ていたりする。
バカな話だが、両者が別人と分かってからも何故か「りょうかん」の「前漢」が劉邦、「後漢」を劉備が起こしたと何となく思ったりもしていたようだ。

「りょうかん→さんごく→りょうしん」じゃないか。
三国時代の「劉備」は結局魏の曹操の宰相格だった司馬懿(仲達)が孔明に走らされて起こした晋に滅ぼされるのは自明なはずじやないか?

まあ、そんなもんだよ。私の知なんて(^^;

というような反省を抱きつつ「劉邦」全三巻楽しませていただきました。
いろいろ楽しみのタネはつきないのだが、二つだけ今思い出して書いておく。

「一杯二杯」の漢字「杯」には別字体もあって当時は併用されていたが今では「杯」しか残っていない。
しかし、この故事(中身は忘れた^^;)を記載するときだけは別字体を使う。
歴史は埋もれ去ったものを時に表層に現させることがある。

・・・2000年も前に廃れた漢字は今も史書で保存され、時に現在にも故事引用のカタチでこの文字も読者の眼の前に現れる。
この不思議な時の隔たりの茫洋とした距離を思うときの、人間としての感動・・とまではいかんが。

劉邦と項羽が戦略的重点地域函谷関を挟んでやり合う。
函谷関の中が関中、外が関外と呼ぶのだが、ここで読者としては宮城谷が自明こととして言及もしていない日本の「関東・関西」という地域名を思い出す。
「箱根山は天下の険・函谷関もものならず」と滝廉太郎も歌ってるじゃないか。
往時の日本人にとって関東・関西という呼称は函谷関にならって箱根の関の東西をいうのは自明のことだったのだ。

別書庫「野外夜巷徘徊記」の赤目温泉対泉閣の中庭で缶ビール片手に2時間ほど過ごしていたのはこの本と。
ま、書評にはなってないのだが、こんなところで(^^;


〔読書控〕2017/07/11(火) 16:52

島田荘司「星籠の海」(上下) 2013 講談社

あいかわらずの分厚い上下本。
読み応えはありそうだが、しかしホームズ流の古典的推理モノを楽しむ読書レジャーは今の私には向いていない。
作家の仕掛ける細かいシカケの完成度合いをパイプ片手に検証するようなゆったりと涼しい時間はありそうにない。
それでも上巻を終えるとつい下巻の最後まで。
結末への畳みかけにはそれでもそれなりのスピード感があり、瀬戸内海の時空の中に綿密に仕組まれた物語としてのリアリティに確かな厚みはあった。
現実的なリアリティ(!)はもちろんまったくないのだが。
え?架空の現実感?
現実の裏側に架空のリアリティを虚構する、そのくらいの力量はもちろんあるわけで。
しかし、そのくらいの力量があるのなら、書くことで現実のリアリティの方に切り込むくらいの作風がいいな。
思えばあまり推理小説(探偵小説)は得意じゃないので、以前は笠井潔とこの作家を混同していた時があった。
絵にかいたような名探偵が登場する長編推理モノの作家ということで混同してたが作風のドス重さはかなり違う。
今調べてみると双方とも1948年産、なるほど団塊世代真っただ中の雰囲気がどこかに共通してはいるのか。
あ、次は笠井潔でも読んでみようっと(^^;


〔読書控〕2017/09/04(月) 14:48

宮城谷昌光「三国志 (10)-(12)」 文芸春秋 2013

中国製作の大作ドラマ「Three Kingdom (三国志)」(2010)の日本語バージョンを今年の春楽しんで視聴した。
抜粋版だがそれでも人物や物語の厚みが飽きさせず見ごたえがあった。
「三国志」の物語は頭に入っているので現代風に解釈された人物像、特に曹操の性格や演技が新鮮で面白かった。
しかし話が進行し、蜀の劉備の死あたりになると何故か本来の物語が思い出せず、私が別の物語と混同しているような感じにもなったのが解せなかった。
私の三国志物語の大半は宮城谷の「三国志」全12巻によるものだった。
私が読み続けた宮城谷「三国志」は実は第9巻までで、行きつけの図書情報館にはまだ第十巻以降が入っていず、あるいはまだ未刊行だったか、私の知識はその辺りで途切れていたということが今年春に判明したのだった。

この辺りの事情は以前にも書いたので今回は省略。
ちゅうか、もう半分は書いちゃったが(^^;

今年の春のバイク事故による私の生活の変化は通う図書館にも及び、なんだかその中で浮かび上がった事実でもある。
で、紆余曲折を経て今回めでたく全12巻を読破ということになった(^^)/

しかし、今度は第9巻までの委細はほとんど忘れてしまっている。
それに三国志の後半は魏呉蜀の第一世代の英雄達、特に孔明が退場してしまってからの歴史はやはり小粒になり、最後には司馬氏の晋に吸収されて行くいわば退潮過程。
だから物語としてはクライマックスは既に終わってしまった後日譚というような趣でそこまで華々しい物語ということではない。
私にとっては50年ぶりに行った同窓会で昔を少し思い出したり忘れたり・・というような読書だったのかも。

「同窓会」ねぇ。
私も既に読書が自分の生活を裏から支えていてくれた苦しい労働の時期を終えしまい、もうほとんど新しい作家の本は読まなくなってしまった。
宮城谷や塩野七海という作家は新作が出る度に図書館で借り受け、むさぼり読んだ名前だった。
いわば大河ドラマの定番を供給してくれる、安心して長編ドラマを楽ませてくれる作風の作家。
双方とも遠い古代の歴史を長編のテーマにとった作家でもある。
雑然混沌とした賃労働の無味乾燥した日常とは対極の世界、まあ出来るだけ精神を日常から離すには格好の物語世界だった、ということだったか。

・・・一向に書評になる気配はないが、別にそれでもいいじゃないか?
誰が読んでいるちゅうわけでもないし(大笑)

今回も古代の人の、(宮城谷が古代といえば春秋・戦国になるのだが、まあ私から見れば日本の古代にあたる時代である)生き方・感情のあり方の歴史に記された痕跡を宮城谷が解釈する口上はたっぷり楽しめたのはいうまでもない。
今付け加えるとすれば、やはり古代の人の「死」に対する感覚の現代との隔たりが際立つということか?

権謀術数で権力を握ると反対派は弾劾され死罪となる。
それどころか一族領党すべてが抹殺されてしまう。
この徹底した人の道具としての意味付け。
反対に徹底抗戦し最後に城を奪われ、勝将に就くと宣誓しさえすれば罪は許されるのに負将への忠誠を堅持し、敗残全員が死罪を受容して死んでいくという事跡もある。
将の誤解を解く、あるいは忠誠を示すというだけの理由で目の前で地に頭を打ち付けて自死する士とか。

やはり、我々の「死」が徹底して無意味な、無条件に不条理な、絶対的に不気味で容認できないものとう感覚では理解しがたい。
「死」はそんなに容認できないことではなく、「死して名を残す」というような風に単に自分の生を肯定し、輝かせる単なる道具に過ぎないものとして「死」があったのか。
いや、現代のわれわれが自分という個人が絶対の存在で、それ以上の何者も意識にはないことが。
神や師や主や国家や・・・家族、となるとかなり個人の存在が直結して他人ではないので家族の為に死ぬのは現在でも可能かもな・・・

まあ、私に言わせれば現代とは歴史的にはかなり異常な精神の期間だ。
でも、私には懐旧の念はないので断じて保守主義ではない。
ただ、別にこの他人の世界がどうなろうと私には関係ない話とおもうだけで。
これも言ってみれば究極の個人主義なのかもしれないが(^^;
保守主義ではないのだが、やはり古代の人のあり方の方が私には近しいのだ。


〔読書控〕2017/09/27(水) 12:16

宮城谷昌光「三国志 外伝」 文芸春秋 2014


三國志(1)ー(12)の配本の折り込み付録で配布されていた文章だな。
膨大な固有名詞付の人物が三国志に登場し、宮城谷は時には本題から脱線してマイナーな一人物の略歴を語りだす場面も多い。
しかし一ページ後には本題に戻っていなければ小説の流れが滞ってしまう。
しかしそれでも語らねばならない逸話や人物がある、というのが小説家の表現欲だろう。
そのような三国志全体からはあまり影響がない史的にマイナーな人物の生涯だけを集めた小品集という感じの一冊。

本題には影響がないというのは、そこまで波乱万丈でもなく、時代を変えるほどのイニシアチブもとらなかった人生達で、情報としては知らなくとも一向に差し支えのないのだが、人物として二流であったというわけではない。

要するに偶然が積み重なり、ある人物が勢いを得て王となり帝となるが、その偶然の重なり具合によってはそれが他の人物である可能性も常にあったのだ。
要するに我々は必然の世界ではなく偶然に支配された世界の中で、時代に選択されつつ生きているだけなのだ。
しかし、時が選択するのはやはり秀いでた人物の中からで、選択されなかった人物全てが時代を変える能力があったわけではない。
才能と運の稀有な組み合わせが歴史を拓いていく。
なんてことをふと思う。

三国志の正史の裏にはそのような無数の人物達が網の目のように織り込まれている。
このような外伝を本体読了後に目を通していると2000年前の三国志の時代が私たちの時代のずっと向こうにそれでも確実に存在していたという気配の立体的な重みを意識させられてしまう。


〔読書控〕2017/10/26(木) 12:50

中村彰彦 「戦国はるかなれど(上下)」2015 光文社

副題;堀尾吉晴の生涯
大抵の戦国武将の名は親しいのだが、堀尾氏って何?
もう大抵のビッグネームは物語や、近年特に大河ドラマで周知だが、まったく記憶にない名前。
そんなマイナーな武将を主人公にし、この作家がどう上下巻の長編歴史物を構成していくのか? これは面白そうやないか。
今、自分の読書録を検索してこの作家の題材と作風を確認。
少々マイナーな歴史上の武将や軍人達、華やかな戦功・武功でなくそのブレない生き方を貫いた人物達の伝記を地道に書いている作家のようだ。

堀尾吉晴は木下藤吉郎に雇われ、この大創業者が全国区で独占企業となる過程でよく土木工事・外交交渉等の下働きをこなし、豊富政権下で中老、佐和山4万石となる。
関ヶ原以降は徳川家に再就職、そつなく勤労し順調に浜松12万、最終的には出雲・松江24万石を領有するに至る。
思わずサラリーマン風に経歴をまとめてしまったが、そのような出世をしている割りには大河ドラマの主人公にはならない経歴である。
派出な営業戦ではなく、業務交渉や事務手続きを無難に慎重にソツなくこなしていった能吏タイプ、そしてこの作家の筆致もいつもながらまったく派手ではない。
この地味な戦国武将の生涯を語るのに現在可能になるだけの文献や資料を積み上げ、物語の進行を妨げるほどの時代考証を盛り込んでいる。
政治情勢、風俗、地理、習慣、日本語の変遷・・
だから生真面目に資料を積み上げ、その事実から語らせるという作風。
時間をかけて読みこんだ資料をばっさり捨て、史実にとらわれない自由奔放な想像力でぐいぐい押していくというのはない。
小説というより人物研究本というか。
しかし、単なる小説ではないこの蘊蓄が面白い。

武士は馬に乗るとき、刀が邪魔にならないように右側から乗るのが通常・・とかの豆知識風もあるが、重要な視点・指摘もある。
風俗考証でいえば、当時は処女信仰の気はまったくなく、ソレが出てくるのは西欧からの影響下のことだというような。
直接の示唆ではないが、政略的に実があれば離縁させてまで再婚させる、というような当時の常套手段も処女崇拝というようなものがないから可能であったと思える。
新興の堀尾家ではなかったが、名家の若君ならば13才から養育係の女性達が性的な手解きと教育を行う。
なるほど、そうでなければ大奥の存在や側室を抱えて子孫繁殖に励めるような殿様にはなれなかったろう。
まあ、今振り返って覚えているのはそんなことばかりだが^^;地味な一戦国大名の生涯に二週間ほどつきあい、その時代の実相に随分想いを馳せることができた。

他の書庫で「会社で死ぬ日」という私のコントに「しかし現実も似たようなもんだ」というようなコメントを書いた。
現在からは「会社業務で死ぬ」なんてカフカ的超現実世界だが、この戦国就職戦線では当然の現実的な規定だった。
武士は「死ぬ」ことを商品とし、できるだけ高く買わせようと売り込んでいたのだ。
歴史的にはそういう「死」が「生きる」と同等以上の意味を持つ時代の方がはるかに長かったのだ。

そのような違った時代の空気を比較して見せてくれる作品でもある。


〔読書控〕2017/11/07(火) 11:21

和田秀樹「この国の冷たさの正体」朝日選書 2015

時折乗車する電車で私は優先座席を譲ってもらおうとは思っていない。
平日昼間ならそれでも優先座席は最後に埋まるが、通勤退社時間帯なら優先座席が空いているわけがない。
そろそろ老人歴10年になる私が多少嫌味で前に立っていても席を譲られたためしはない。「席を譲ってくれ」と言えば多分若者なら譲ってくれるだろう。
しかしそんなセリフを私は吐きたくない。
疲れているのなら次の列車に乗ることにしてホームの一番前列で待つ。
その時でもいつの間にか座席にたどり着くまでに、すばしこい通勤者達に後れ取って座席を確保できない時もある。
では座席指定特急に乗るか・・・

「優先座席」あるいは「女性専用車両」そんなモノの設定するから二重にいら立つ。
どんな座席でも弱者に譲るべきだし、はなはだしくは「座りたいのなら優先座席に行け」とか「女性専用車両以外はお触り自由」とかいう心得違いも生んでしまう。

一方では「一億総正義の味方」とでも言うしかない薄っぺらい正義感が蔓延している。
異様な他者への冷たさと自己の正義感とが一切矛盾していないのが「薄っぺらい」と私が言う所以である。

副題に『一億総「自己責任」時代を生き抜く』とある。
ここ数年、特にネット上での炎上・バッシング騒ぎが続く。
簡単に他者を攻撃し、悪人呼ばわりして騒いで楽しむという情けない風潮。
著者によればこの冷たさは与えられた「自己責任」という名分が一般に浸透してきたのも一因とし、その欺瞞性を論点にしている。
為政者や企業が強者の利益を確保する手法として弱者に押し付ける倫理に他ならないと。
小泉政権がやった民営化は採算性を第一にし、たとえばJRが赤字地方ローカル路線を廃止する戦略に通じる。
スマートフォンメーカーはマシンの不具合はユーザーが取扱いを理解していないからだ、ということを正当化する。

他にもいろいろと傍証をあげ、「自己責任」という概念が弱者に押し付ける一方的な強者の論理に他ならないことを力説する。
そして「寝たきり」になっても「生活保護」を受けても卑屈になることなく、自分の生きる権利を行使することが当然という意志を持て、という。
人間というのは本来的に一人では生きられない、むしろ他人に迷惑をかけてしか生きられない存在なのだから、と。

たしかに「自己責任」という言葉は自分を納得させる強烈な帰結感を生む。
私は自分の今の不如意は社会の方ではなく、自分の方の責任であると納得すればこの周囲に対する不条理な怒りが収まり、やや得心もし精神的な安定を回復することがある。
よく曽根綾子氏が「老人は自分の死期を決めろ」等の発言で(いや、アレは私のセリフだった^^;か?)物議を醸し出していたが、私のような年齢の者には「自己責任」という観念は納得しやすい。
私はもとより国・政府・社会・会社・仲間・グループのような他者を自分と同等の感覚を持った集団だとは思わないので無条件で自分を助けてくれるとはもとより期待していない。
「自分で自分の人生に責任を持つ」という意思は私には自明なことだ。

ただし、この「自己責任」はあくまで自分で自分を律する時に言うことなのだ。
この言葉を他者に押しつけることは出来ないし、やってはいけない。

人間は平等ではない。
私と私以外の人間が平等なんて私はまったく思っていない(^^;
同様に他人も私が同じ平等な人間だ、なんて思ってくれてないのは当然だね。
平等なのは「法の下」での話だけ。

あまり論旨とは関係ないのだが、『実態にあわないルールが交通事故を増やす』という章の主張は私が個人的に常に交通当局と論戦を挑んでいる(^^;ところだった。
実情に合わないスピード規制が返って心理的に無理な長時間運転に繋がり事故を誘発しさえする。
まったく同感で、このような時にでも交通当局の勤労者は常に正義を実行しているという絶対的態度から一歩も出る事はない。
見通しのいい近所の踏み切りで、それぞれ車列に並んで一台ずつ一旦停止をして見せる善意の体現者達であふれたこの国では。
いや、先日一台だけ前の車に続いて一旦停車せず発進していった車があった。
その前の交差点で方向指示を出さなかったので小腹を立てたのだが、この踏切での行為で急に私は親近感をもった(^^;

著者の杞憂や正義感は納得できる。
池田小学校殺人犯や秋葉原通り魔事件犯への異常行動の裏にある社会側の責任を見る精神科としての分析もある。

しかし強者の押しつける「自己責任」論がこの国の冷たさの主因とは私は思わない。
現在の日本人が「一億総正義の味方」風の薄っぺらい人格になってしまったことがその前段階にある。
なぜそうなったのか?
もしかするとこの国をそのようにしたのは我々の世代が働きすぎ、経済至上主義的生活感を完成してしまったことが主因であるのかも。
だとすると今の日本のみじめな精神的貧困の現状は私の「自己責任」かもな(><)


〔読書控〕2017/11/17(金) 16:09

吉田たかよし「世界は『ゆらぎ』でできている」 光文社新書 2013

物理学者で医者、その他の多彩な著者が語る『宇宙、素粒子、人体の本質』。
素粒子のそのまた前段階、つまり物質の大元は「ゆらぎ」という現象。
それは長さだけがあって重さも太さの実体もないstring(ひも)の振動がなせる業。
別にそんな「ひも」がある訳ではないが、そんなひも状のものが振動しすべての物質を生成していると仮定すると、この世の存在が物理的に矛盾なく説明できてしまうようだ。

私は別にひもでもイロでも情夫でもなんでもいいのだが、常識的な実体がない、つまりは「物理」という常識には該当しない非物質の「ゆらぎ」が世界の根源である、というイメージは妙に納得できてしまう。
私流に言うと何かの間違いでふと「ゆらい」でしまい、完全なる無の均衡が破れる。
そのわずかな破綻がこの世の全ての存在のはじまりなのだ。
だから最初からどこかおかしい。
だからなんとなく妙に納得せざるを得ない(^^;

著者もその辺りのイメージで素朴に感動し、森羅万象すべての営みは「ゆらぐ」ことで成り立っているというような結構な統一世界観の確信に至っているようだ。
しかし考えてみれば陰陽二元説のような世界観、あるいはアウラマズダと・・え?なんだっけ?とかが絶えず戦いその緊張に満ちた均衡状態が世界を成している・・というような二元のせめぎ合い世界の根源というようなイメージは広く行われていた。
要するに夏と冬、寒暖、男女、交感神経と副交感神経、刺激物質と抑制物質、性と死、そのダイナミズムがこの世というものの本質である、とかいうイメージか。

しかし私が言うとかなり怪しげな立川流カーマスートラ交合世界観のようになってしまうが、著者は流石は東大出の物理学者にして医学者、そのあたりのいかがわしさでは微塵にも揺らいではいない。
フラクタル理論や複雑系というような自然の組成原理、ホルモンバランスのような人体組成の均衡を明晰に説きあかし揺らがない。
いったいどっちだ、というとやはり揺らいでもいたりする。

要するにそんなものはなんだか知らないが納得できればいいので、別に真実かどうかなんて我々素人は考える必要はない。
だまって揺らいでいればいいのだ。

大事なことはどんなに厳密な検証に耐える事実である、とされていても本質は揺らいでいて確定できるものではない。
人工衛星が計算された軌道を正確にだどり、世界が計算どおりの存在であると立証されたとして、それはあくまで近似値が有効であったということに過ぎず、その程度の近似で充分実用になったということが証明されたにすぎない(「二体問題」)。
完璧な数字は理論上のもので、この世界の実体はただゆらぎ、ゆらいでいるのである。
あ、すんません。私がいうからアヤしく聞こえるだけで(^^;

後半で人体(生物全体でも)の構成上のさまざまな重要な周期性が語られ、これは宇宙の始原にあったゆらぎ(1/f)に由来するのかも、と述べている。
イメージ的には自然の摂理というものだが、著者が力説するのはその振動、ダイナミズムが肝心なので、例えば躁鬱の鬱や、ネガティブな心理状態も重要な生命維持の役割を持っているという。
臨床心理医師として「鬱も人類にとって大事な役割を果たしてきた」と説明すると、うつ病患者がすくっと頭を上げて聞き入る、という話は身につまされる。

鬱も大事だよ。
特に現代のようなポジティブに浮かれた世相の中で、本当は何かを見続けられるのはうつ病持ちしかいないだろ?

いや、この報告だけでもこの本の価値はある。
私も一人の鬱的傾向持ちとして、いつでもゆらいでいるし、絶対にゆらいでやるぞ。


〔読書控〕2017/12/21(木) 15:11

ピーター・ウィード/ジョゼフ・カーシュヴィンク 「生物はなぜ誕生したのか」梶山あゆみ訳 河出書房新社 2016

副題:生命の起源と進化の最新科学
原題:A New History Of Life
この日本語のタイトルでは生命の起源への哲学的考察であると読み取れてしまう。
これは誤解を生む邦訳で、原題を見るとそんな地点に踏み込むつもりはなさそうだ。

この大部の書物をタイトルに騙されて目を皿のようにして読み始めるのだが、結局、なぜ誕生したのか?ではなく、どのようにして誕生したのか?にとどまるようだ。
だからこの時点で私の主たる問題からは外れたようなのだが、それでもこの著者達の現代最良の知見には「なぜ?」という疑問へのある種の重要な示唆を読み取ることもできる。
生命とはなにか?
宇宙とはなにか?
存在とはなにか?
この問いを発している「私」とはなにか?

つまりそれはこの私という事象に何の意味があるのか?という懐疑に行き着く。
私は私であり、私でなければならない、そのことになんとかして得心したいのだ。
そうでないかぎり私の人生は平穏で幸福ではあり得ない。

私が常にいらだつのは、この根源的命題ににまったく疑念をいだかず、すべてが自明なこととして懐疑せず、平気で生きていける圧倒的多数の存在論的オプチミスト達と共生しなければいけないことだ。
信仰でその回答を得たものはいい。
元より創造する神が不在の日本に生れついてしまた私はどうしても絶対的存在者による一義的天啓的な存在観に安住することができない。
つまりどこまで行っても納得できないのだ。

この類の天啓的一義的絶対者が根底にある文化で育った者は「地球型惑星」があれば生命は自然発生し、適宜進化し自動的に人類風の知的生命体に行き着くという一方的で硬直した思考しか出来ないようだ。
科学的だから正しいとか言ってるのは、根源的な懐疑に至ることがない、そういった不幸な文化風土の産物だろう。
「卑近な」人間原理というか。

と、私の鬱憤を先ず言わせていただき、それからこの膨大な生命の歴史書を読み始める。この著者達は現在最先端の地球生命史の研究者のようだ。
一昔前では考えられなかった新しい手法を用い、私が毒ずくような単純ダーウィン主義の硬直した地球史からは全く出てこない刺激に満ちた記述だった。

あまりに膨大な新鮮な知見に圧倒され、私の初期の「科学研究」への鬱糞(?^^?)を忘れ、たっぷり一カ月楽しんで読ませていただいた。
本来の私のクセだと、読書中に付箋を貼った部分を引用し、自分の防忘録にしてしまうのだが、ちとこの本への付箋は多すぎた(^^;
この欄の書評には膨大すぎてしまうのだが・・・あまりにもったいないので、末尾に小文字で付属させておくか(^^;

前回あたりの「ゆらぎ」理論もそうだが、現在最先端の科学者達は必ずしも古典的で安定した一義的科学信仰の輩ばかりではないようだ。

生命の発生についてまず著者達が指摘するのは、けっして地球型惑星があればかならず生命が発生するわけではないということだ。
嘗ての地球のような無酸素で荒々しい環境があり、幾多の惑星的規模の大災害を経由し、その度になにかが付与され、奇跡のように生命が発生する。
何故か?
いまの地球のような酸素に満ちた水・陸の環境があっても自然に生命は発生するわけではない。
著者の一人は明確に生命の種は地球外で発生し、地球に到達してから生命として存続できたという。
生命とは稀有な、特異で奇妙な現象なのだ。
そんなに簡単に、自発的に発生するような代物じゃない。
我々が今生命であることはまったくの偶然でとしか思えないし、必然だと得心できる根拠が私にはまったくない。
とにかく、ヘブライズム・クリスチアニスム的な文化背景がなければけっして人類が究極の存在形態である、という傲慢な世界観は発生しないし、存在自体が自明であるという杜撰な原理を容認できないだろう。
人は自分を客観することはできない。
自分が現に存在しているということ、を自分の主観以外から立論できるものだろうか?

・・・あっと、また初めてしまった。このハナシ。
しかし、著者達の論述する新しい地球史観は充分謙虚で公正なものだ、とその懐疑論者の私も得心するところが多かった。

訳者のあとがきによれば、ピーター・ウィードは「レアアース仮説」で知られる学者らしい。地球生命は宇宙で唯一ではないものの非常に稀な存在だ、という説で、適当な条件さえあれば生命が発生し、人間に行きつくと主張するようなおめでたい学者ではないようだ。

恐竜が滅びなければ哺乳類はいつまでもネズミ大の逃げ回る生物でしかなかったろうし、大型の恐鳥は人類よりも先に「知」を所有していた可能性がある。云々・・・
仔細は述べつくせない。
この本は絶えず信頼できる知の根拠としての手元に置き、折にふれていて読み返すべきと判断し、さっそくアマゾンに発注、新本入手!
実は図書館の借本をうっかり風呂場に落としてしまったのだったが(^^;)

例えばトカゲは体側の両側から足が生えているので移動している時には身体がよじれて呼吸できない。
後発の哺乳類では身体の下から4足が生え、移動中でも呼吸ができるようになっている。だからといってトカゲは現在に至るまで、別に身体の下から足を生やすように進化しているわけではない。
生きていられるなら別に進化なんぞ別にしなくてもいいワケだ。
進化(多様化)は大絶滅期を経て初めて本気になって発動する・・・

このような膨大な生命史を鳥瞰していると、現在の環境や温暖化問題を人類が何とかせんと・・とか言っている方達のアホさ加減に今更ながらうんざりする。
それより一度また地球温暖化で絶滅しませんか?
来るべき種の輝かしい生命の未来の為に・・
とか言うのはかなり我田引水的な読書だが、読書なんてソンなもんでいいんだよ。


      ---- 以下 本書よりの引用集 ------
1)「地球型惑星」とは何か
現在の地球ではなく、地球の変遷がなければ生命は発生できなかった

2)同じ20種類のアミノ酸を使いまわしているのは、手に入る中で最も優れた材料だからなのか、それとも、生命が始めて誕生したときにその20種類が豊富に存在したため、それらを使えという指示が永遠に生命にきざmれたからなのか。
どうやら答えは前者のようである。
この20種類は地球に固有のものであり、地球の生命を特徴づけるものと言えるかもしれない。

3)脂質分子は充分な量が蓄積していれば、攪拌されたときに中空の球体をつくりやすい科学特性をもつ。
水が短期間ながら水面に小さなしずくを作るのと同じだ。脂質の球体ができるとき、RNAに成りえる分子(ヌクレチオド)が液体中に存在していれば一緒に中にとりこまれる。この場合も重要なのは濃度であり(スープ)・・・

細胞壁はヌクレチオドを「摂取する」だけではない。脂質分子をさらに蓄積することで、長く伸びてソーセージ状になったはずだ。やがてそれが二つの球体に分かれ、それぞれがおよそ半分のRNAを抱え持つ。
RNAだけにとどまらないのはいうまでもない。細胞がたとえ短期間であれ正常に機能するにはエネルギーを得なくてはならず、そのためにはエネルギーを生み出す化学装置が必要だ。それがたんぱく質である。したがって、原始細胞の内部には洋洋な化学物質が存在しなくてはならないし、秩序だったメカニズムが・・

進化が始まるのはこの段階である
内部に含まれる分子の性質の違いから、速く複製できる細胞とそうでない細胞が現れる。自然選択が始動し、生命のエンジンがかかる。
つまり、自律性をもち、代謝し、複製して進化する細胞の誕生だ。
あとの話は知ってのとおりである。

4)DNAとRNAとタンパク質の生物、RNAウイルス、DNAウイルス、脂質の原始細胞、たんぱく質の原始細胞など、化学物質が複雑に融合した数々の生命が考えられる。こうした種種雑多の生命と、生命にちかいものがすべてひとつの混沌とした生態系の中で競いあいながらひしめいていた。いわば生命が地球上でもっとも多様化した時代である。これは40億年から39億年ほど前・・
いずれににしても、自然選択が多種多様な生命をふるいいにかけ、最終的には1種類が残った。

5)この小さな水槽は、凍った海と氷山でまわりを囲まれ、孤立した状態で世界中に点在していた。その結果、それぞれがさらされる環境は場所によって異なるものになった。
進化が最も強く作用するのは、孤立した小規模な集団に対してである。。
個体数の少ない集団が孤立していると、遺伝子の数がすくないために短期間で真価を遂げる・・ボトルネック。

火山活動からの温室効果ガスが徐々に蓄積して、最終的にスノーボールアース状態が解除されれば、氷はみるみるきえていき、同時に何千か所もの進化の実験結果も急速にときはなたれていったはずだ。
地球が最後のスノーボールアースを脱したのは約六億3500万年前の事である。
・・其頃の地球は私たちの知っている姿とは全く違っていた。
海には生命が満ち溢れている。ほとんどは単細胞とはいえ、おもにアメーバやゾウリムシのような複雑な原生動物である、なかには多細胞なボルボクスや・・・・・・

6)エディアカラ生物群は 五億5000万から五億4000万年前。
現在のサンゴのように、顕微鏡でないと見えない共生毛が多数。
表面的には捕食者の存在は証明されていない。
エディアカラの園。比較的大型の生物が、捕食者のいない世界で暮らした最後の時代である。
5億4000万年前頃にはすでにこの楽園は消失し、張ったり泳いだりする多種多様な捕食動物・植物食動物がエデンの園のヘビよろしく現れる。

動き回る生物が・・・

7)キャロルが「革新のための秘訣」と呼ぶものの一つ目は、「すでにあるものを利用する」である。新しいものを生み出すのにかならずしも新品の装置や道具で作る必要はない。既存のものを使うのが一番手っとり速い。
2,3は多機能性と反復性である。
本来のものに加えて、新たな機能をもたせる多機能性。
頭足類はつねに大量の水を吸いこんでエラにとおしており、この管をわずかに「いじって」見るだけで新しい移動手段が手にはいる。
・・・
7)カンブリア爆発に伴うその地域が高緯度に気温が所所に温室効果ガス温暖化生物の代謝が促進・・

8)古代のサンゴ礁はどのような姿をしていたのか。
共生と多様な生物の・・
現在のサンゴはどれだけ大型で、どれだけ多数のポリプで出来ていようと、少なくとも遺伝子上では全体で一個の個体である。
それでいてサンゴは一匹の動物ではない。共生。

8)恐らくはこの絶滅がガソりンの役目を果たしていてさらなる多様化への火ぶたが切られたのでは。

9)少なくとも過去5億年における多様性の傾向について、種の数は現在が一番多い。
大気中の酸素濃度の影響が何よりも重要・・・・

爬虫類とは何かではなく、「何ではないか」で定義される。
恒温性の確保。

酸素欠乏と硫化水素による2億5299万年前の大絶滅。

(温室効果絶滅)ベルム紀絶滅が、あらゆるイベントの中でも群を抜いて壊滅的だったことは間違いない。ただしそれは多細胞の動植物からみた場合だ。微生物にとっては、とりわけ硫黄をこのんで酸素を嫌う微生物であれば、この絶滅によって楽園がもどってきたようなものである。
思えば、動物が出現するまでのあいだ、全生命の大多数を占めていたのはその種の微生物だった。
絶滅後にこれほど多様な動物が世に放たれたこともない。 → 哺乳類と恐竜。

動物の体制は強い選択圧によって改良されていった。とりわけ低酸素の世界で。
死が差し迫っている時ほど精神が研ぎすまされることはないように。

大気中の酸素の3文の2がうしなわれてたことで、進化という爆弾の導火線に火がついたのは間違いなく、それが三畳紀になって爆発した。

二本脚で歩く恐竜は低酸素時代の呼吸適応という点から説明できる。
・・・環境の悪化が多様性を生む(「進化」とは言わない?)

温室効果絶滅の可能性はあるが、恐れるには足りない。
非常に長い時間をかけて進行するものであるからだ。
しかもゆっくりと死を迎えるのは・・・私たちの種ではない。

地球の生命は本当に火星で誕生したのかもしれない。
そして火星を去るか滅びるかの選択に直面した。
生き延びることが、紛れもなく私たちの遺伝子に刻まれている。

next year