[読書控 2018 index]

〔読書控〕2018/01/25(木) 10:14

内田樹「レヴィナスと愛の現象学」せりか書房 2001

内田は他のところから軽い雑文の書き手としてインプットされていたのだが、この書でレヴィナスの研究家、それも本人は「弟子」と称しているくらいの入れ込みやってる方だと知った。
うむ、私もレヴィナスは気になっていたのだ。
内田が「弟子」を私称するなら私だって正統的後輩を名乗る資格はある。
なんせ私もレヴィナスの足跡通りストラスブール大(仏)⇒フライブルグ大(独)に学籍を置いていた(^^;←本気にとるなよ。
実際はハイデガーの「孫弟子」を私称していたのだが、ハイデガーよりも哲学科先任教授だったフッサールの現象学に志向(嗜好)が移ってしまった。
その辺りから妙にレヴィナスは気になって。
しかし私には正統的にレヴィナスを読む根気と哲学的エネルギーがない。

しかし、弟子筋の内田が特にフッサール現象学との対比でレヴィナスの哲学を分かりやすく書いてくれていたのだ。
いやぁ、ありがたいですぅ。
感謝と広く現象学哲学の同門のよしみを込めてこれからは内田クンと呼ばせてもらうぜ。
---
しかし今私はイソがしい。
ここでは難解なレヴィナスの現象学を自分なりに消化した内田クンのレシピの重要点を書き出すにとどめる。
私流の一品に仕上げる時間の余裕がない、ちゅうか心理的余裕がない。
実をいうと咀嚼して自分の言葉にする精神の落ち着きがもうない。
それを老いというのか(><)

内田のレヴィナス咀嚼は充分私のこの半世紀に渡る魂の孤独を癒してくれた。
それは「他者」という絶対的コミュニケーション不可能な存在の想定であり、師事するという絶対的知の信頼関係のコミュニケーション論であり、あるいは「愛」というエロス的存在論である。
いや、そのことに私には説明することも、その義務もない。
知りたければ内田のこの本を買ってやってくれ。

○コミュニケーション論
ベースにはユダヤ教のラビ達の果てしない論戦の伝統がある。
永遠の論争に明け暮れるラビたちが目指すのは結論ではない。
『条理と条理が正面からぶつかりあうこの堂々たる戦い、怒りもなければ嫉みもない。この戦いのなかにこそ、正当なる思考は存立するのであり、この戦いこそが世界に平和をもたらすのである。』

ラビたちが口にしたすべての異論は併記される。一度でも思考されたものは記録にとどめられなければならない。議論の終結ではなく、豊かな異論の湧出による議論の継続である。ラビたち一人ひとりがそれぞれにユニークな仕方で「啓示」を聴きとっているからだ。
『私のうちなるユニークさを呼び求めるものとしての「啓示」、それが「啓示」の意味するというときの意味の生成そのものなのである。』

『美しい答えなどなにもないのが、いったいいつになったらわかるのか』(シュシャーニ師のことば)

レヴィナスの言う「意味し得ること」(語る可能性があること(pourvoir-dire))はプラトンのイデア(語ろうとしていること)とは全く違う。それはイデアに収斂するのではなく、むしろ「拡散」することを理想としているからだ。

ここでは明らかにひとつの回答を目指し、何事かを伝えようとする手段としてのコミュニケーションではなく、コミュニケート自体が目的、もしくは回答のようなのだ。
つまりは、コミュニケートする、故我ありと。
ここからコミュニケート不能な「他者」が浮かび上がってくる。

○他者論
『「他者」とはつねに私との対面関係の中に出現する。(vis-a-vis)
「他者」は「他者性」なる属性をあらかじめ具備した自存者(システム内に存在する者)としてすでにそこにいるのではない。「他なるもの」として「享受」されることへの絶対的な抵抗を前にして、私が「享受」をためらったそのときに、「他なるもの」は「他者」なのである。』

永遠に自分内のシステムに取り込めない者=他者

オデッセウス的主体は自分があらかじめ事物に授与しておいた意味を発見して見せるという仕方でしか意味に出会う事が無い。
一方、アブラハム的主体の、それとは別種の壮絶な孤独は・・・なぜなら彼は主の言葉の「意味」が理解できないからである。
主の言葉の意味を推察する交響的な準則をアブラハムは持っていない。その言葉の意味をかれはただ一人で、おのれの全責任において解釈する他ない。そして結局アブラハムはそれを字義通りに解釈することを決断するのである。(子のイサクを生贄にして焼くこと)
『この「神なき宿駅」を歩むものの孤独と決断が主体性を基礎つける。このとき、主という「他者」との対話を通じて、アブラハムは「誰によっても代替不能な有責性を引き受けるもの」として立ち上がる。このようにして自立したものをレヴィナスは「主体」あるいは「成人」となずける。
「不在の神になお信をおきうる人間を成熟した人間と呼ぶ。それはおのれの弱さを計量できるもののことである。」』

○フッサールの現象学の一般解
デカルトの方法的懐疑が前提・・・
懐疑論は素朴実在論を批判することはできるが、それだけでは「理性が覚醒したこと」を証明することはできない。
現象学は懐疑論よりさらに深く強く理性の覚醒を疑うことによって、懐疑論を乗り越えようとする企てである。

素朴実在論は「私たちは確かな実在を前にしている」と言う無反省から出発する。懐疑論は「私たちは確かなものを何ひとつ経験していない」という全否定のうちに停滞する。
「確かなものを経験できない」という私たちの不能はどのおうな様態をとるのか」という問いのうちに現象学は突破口を見出す。

「私たちは・・することができない」というおのれの理性の不能のあり方については、これを「記述することができる」ということを哲学の礎石とするのである。
実在であれ、仮象であれ、「私に対する現象」はたしかに「私にとって」存在する。
とりあえずはそれが実在か仮象にすぎないのかについての議論はとりあえず「棚上げ」しておいて、「私に対する現象」が「私にとって」どんなふうに現出しているのか・・・について考えてみよう、とするのが現象学の立場である。

○存在論
私の主体性は「私が私であることの自明性」でも、「私が存在することを十全的かつ名称的に経験すること」でもなく、「他の人間に対する、代替不能の責務の引き受け」によって基礎づけされる。・・・
フッサールの存在論とは違って、レヴィナスは他(他者やNourriture)を「享受(Jouissance)」することで生きている、とする。
幸福とはおのれの欲求に自足することであって、欲求を消滅させることではない。欲求の「満たされない」ことによって満たされるのである。

Extrateritorialite・・内なる外部。内なるブラックホール。
カオティックで未定型的なものが、凝縮し、分離し、輪郭を持ち、隔壁を作り、「内面」を作り出す。そのとき「空間」がたわんで出来た「内面」に住み着いたものが「私」を名乗るのである。
(ユダヤ教の創造神話「ツイムツム」によれば神は自己収縮し天地が存在するようになった。自己収縮・領域の放棄から創造が始まる。)

手に触れるものすべてが黄金に変わったために飢え死にする伝説の王のように、すべてのものに所有の刻印を押しておきながら、癒しがたい「自己喪失感」に捉えられている。それが「男性性」とういう事況である・・・

この辺りからもう私について行く気もない
○エロス論   になっていく。
ついて行く気はないが、ボーボワールやイリガライの展開するレヴィナス批判が主としてこういう「男性性」優位の哲学的態度を攻撃するのを、逆に位相の混同を犯していると内田が批判するのは野次馬的快感がないわけではない。
まあ、男性性・女性性というのは比喩であり、内在する異質の融合が人間性であるという位相の違いはあるが、それでも実際にフェミニストのジェンダー論議が当時流行の「男女平等」あるいは「人間の平等」という美意識に偏した論議であるという論述の展開は楽しい。
人間は不平等である。いや、もっといえばどうしても理解することができない他者が人間である。
法的人格は平等でなければならないが、それはもちろん人間は平等ではないことを社会的に最低補完するための装置なのは自明のことだ。

レヴィナスの男性性は「選ばれた者」(選良思想だな・・)が無限責任を負って存在してしまう、という強烈で不合理な存在の本質の表明だ。
そんな、人間は平等・男女共同社会なんてので収めきれない、どうしても割り切ることが出来ない「自分である」ということを選択させられてしまった者の孤独はレヴィナスに魅入られたものだけが密かに同意できるものだろう。
誰の責任でもない。ただ私は選ばれてしまったのだ。
そうしてやっと私はこの、どうしても不条理極まりない私の孤独が初めて慰撫されるという経験を得た。

では、私流のレヴィナス批判(!)をひとつだけ最後に端的に。

  「先生、もう大丈夫です。治りました。
  もう私は自分がネズミだとは思ってません。
  しかし・・
  もう私がネズミでないことをネコの方は解っていないのでは?」
                   Hemiq 2018


〔読書控〕2018/02/15(木) 14:03

仁木英之「千里伝 全4巻」講談社 2010

実は別に1〜4巻となってるわけではないが、全4部作で完のようなので。
ちらりと適当に読み始めたら、第2巻にあたる続編だった。
いわゆるファンタジー小説で平たく言えば少年マンガ風の冒険物語。
中国唐代の英雄の名を冠してあり、一応英雄譚の体裁になっている。
金庸の武侠小説風の荒唐無稽支離滅裂何でもアリの豪傑がハチャメチャな活躍をするハナシだが、世界の創世やリセット、超自然現象の極端な擬人化が楽しかったので全部読ませていただきました。
この世は老師が作ったのだが、そのメンテナンスは男女2神に託し、女神は生命を司り、男神は自然物を担当し・・・とかの創世神話から時間がやんちゃ坊主、空間がのほほんとした女の子というような擬人化を施されて登場、その時空や世界をめぐって人間と別種の創造物が覇権をかけて争う物語。
表では「世界を救う」的な勧善懲悪エンジンが物語を進めていくのだが、裏では別に世界はどのようであっても創造責任者側は頓着なく、介入することなく成り行きを見ている、というようなニュートラルな価値観も記述されている。
ここで創造主や時空、それぞれの自然神がいわば人間的な性格を持つように擬人化されていて、神の権威もクソもないのが愉快。
以前水木しげるのマンガで背広を着た悪魔が出てき、人間にポカリと殴られ「痛っ!」とかいう場面があって笑った覚えがある。
そんな既成の価値観を転換して笑い飛ばすような痛快さがある。
物語自体は荒唐無稽なだけで別段少年少女主人公たちへのシンパシーはないのだが、このよう世界のいとも簡単なマンガ的スキーム化に当方の想像力は少々刺激されてしまった。
最近私はこの世界の現象学的な捉え方を表現するのに悪戦苦闘したりしているのだが、ひょっとしたらこのようなマンガ的な極端な世界の単純化という手法で伝えられることもあるのではないか、とか思うのだ。
「我思う故宇宙あり」P.バレリー=Hemiq 等の哲学的直観は考えてみればマンガの世界ではごく簡単に表現できているものじゃないか。
フッサールもハイデガーも言葉や論理ではなくてマンガや寓話で語っていれば簡単に理解してしまえるハズでは?
時代はもう言葉や理論ではなくビジュアルな直観がコミュニケーションの主たる乗り物になっているようだ。


〔読書控〕2018/04/02(月) 14:54

中村彰彦「後を濁さず 家老列伝」文芸春秋 2011

またまたそんなマイナーな。
家老格で小説の主人公になれるのは直江兼続くらいじゃないか?
いや本多正重の小説は読んだか。
この作家はマイナーな人物を掘り起こし、別段なんの劇的な脚色もせず詳しい考証だけで読ませるなんとも地味な作風。
だが、時代の雰囲気や空気が現代とは違うので脚色なしでも充分面白い。
個別の6作のいちいちについて書くことはない。
福島政則の家老福島丹波守重治の伝記等を読むと自分の死を「いかに高く買わせるか」というビジネス戦略が通常であった武士の世界の濃い空気が感じられる。
前にも書いたが、自作「会社業務で死ぬ」夢の記述は現在ではカフカ的なシュールな世界だが、中近世の武士の時代だと当然の感覚だったと再認識させられる。
簡単に死を命ずる死の軽さ。
翻って現在の地球より重いとされる「生」の異常な突出ぶりが笑止、とか(^^;
いつだって生は軽かったんだよ。
地球より重いなんて思っているのは本人だけで。
廃藩置県時会津藩家老職待遇で活躍し、明治では貴族院議員まで栄達する山川浩の生涯は武士と明治という二つの大きな世界に確固として生きた稀有なこの人物を再認識させる。
その頃は特に稀有な例でもなかったのかもしれないが、とにかく大きな時代の隔たりがあり、一方ではかすかに我々の時代と連なっていることが奇妙な感覚を生む。
もちろん山川の履歴はNKHの大河ドラマ「八重の桜」のおかげで親しくなった。
ドラマでは新島譲のヨメで京都商工会議所会頭の山本覚馬の妹の幼馴染・初恋相手として先ず登場していた。
山川の妹の後の大山捨松がアメリカで新島と喋っていた場面もあったなぁ。
その辺りは史実ではなかろうと思うのだが、明治維新期の人材の複雑で図太い個性の絡み合いは史実を追っていくだけでも結構興味深い。
この筆者のてらいのない質実な筆致は素材のおいしさを引き立たせるのは結構いいいのでは。


〔読書控〕2018/04/25(水) 00:29

津村記久子「ウエストウイング」朝日新聞出版 2012

私の高校の後輩に2名の芥川賞作家がいて、そのうちの一人。
もう一人は町田康。
この二人はいかにもウチの高校の後輩で、間違っても東大仏文閥なんかが書けそうにない諧謔味のあるしゃべくりが身上。
と、言ってしまって東大出にも野阪昭之がいたのを思い出した。
確かに、野阪と町田の語り口は。
とすれば、津村の方がオリジナリティはあるのかも。
凡庸だが探せばどこかひとつは独自の個性があるような普通の社会人たちの日常のさりげない会話と、引き起こすどうでもいいような事件。
テレビドラマではよく見るが、活字で延々と語っていく程のモンか?とは思うが、確かにひとつの芸には違いない、特に関西では。
言葉に対する感受性は確かで、全体の饒舌が上滑りせずリアルな大阪のどうでもいいような小社会を活写し・・・しかし、そんなモン活写してもナンボのもんでもないのだが。
セリフはいちいち面白いのだ。
よくぞそこまでいまどきの大阪庶民・つまりは自分の・つまりは私もか?の日常感覚を文章に起こしてきたなぁ・・と思うのだが、あまりに長すぎるのが少々退屈。
確かに面白いといえば面白いのだが、それがどうした?とか。
私は今、日本語の書き言葉が話し言葉とあまり区別がなくなってきたことを嘆いている最中だし。
いや、大問題主義の本格小説ではもちろんないのだが、何かこの文体は。
そのあやふやな現代日本語を大阪弁を軸にして豊かな表現力を持つ文語に鍛えていくという可能性も、津村がひょっとして?
ゲーテがドイツ語でやったように、って、もちろんこれ、ホンの冗談だし。


〔読書控〕2018/05/10(木) 10:02

宮内悠介「エクソダス症候群」東京創元社 2015

久しぶりに別次元に連れて行ってくれる力量を感じさせる作品に出合った。
100年後の植民地火星の精神病院を舞台に設定。
細部はよく練られていて、読んでいて「そんなバカな」と直ぐバレてしまような安直さはない。
エンターティんメントSF作品には珍しく巻末に参考文献が多数掲載されている。
病院運営・精神分析史系の文献が多いが、カバラに関するもの等のかなり偏屈な分野もある。
しかし高村光太郎の「レモン哀歌」を参考文献に上げてしまうと、とにかく出すだけ出してやろうとかの顕示欲が勝ち、還って馬脚がちらりと見えたりする。
その伝では、100年後のプログラマーがBASIC言語や初歩のフローチャートを云々する場面は唯一の「そんなバカな」級の安直さに見える。
最後まで物語を見定めると、要するに著者が読んだ本で見つけ赤線を引いた知的刺激を組み合わせ無理やりSFにまとめたという風な読後感にもなってしまう。

異常精神・狂気とは何か?時代の文化に許容されない精神の可能性を狂気として隔離・抹殺するのは時代の方の退廃ではないか?発達障害が人間の知的進化を促してきたんでは?という風な非常に面白い知的示唆があり、これぞ思考実験としてのSFの王道、とも思わせるのだが。
物語としては材料を組み合わせてでっちあげた印象が強く、はたしてこれが未来の火星植民地を設定する必然性はあったのか、と。
未来・宇宙というのはSF好きならお約束事なので、そちらに引きずられる心理もあるのはあるのだが。
物語の骨子である「未だ発見されていない未来の精神病に罹患した」マッド・サイエンチストが引き起こす人民寺院風の集団自決のモチベーションも牽強付会にすぎるようだ。
結局物語というより、物語にしたてた読書感想控というような印象になってしまう。

いや、しかし本を読んでしばし別の世界の在り方を思うのは正統的な読書の姿だろう。
まあ、なんせ私もそんな本なら大好物だからな。


〔読書控〕2018/05/15(火) 12:54

中山七里「追憶の夜想曲」講談社 2013

このミステリーはすごい・・ぞ。
作者については全く先入観なく読み始めたが、まもなくこれ本格的リーガルサスペンスになっているのに感嘆した。
ひところ、スコット・トゥローやグリシャムのアメリカ製リーガルエンターティンメントに読み親しんだ覚えがあるが、アレはあくまで陪審員制・訴訟社会の話しで法治文化が違うので日本じゃコレはないよな、と思っていたのだ。
いやいや、ここに。法律や訴訟の実際・東京地検の建物等の細部にわたる小道具に破綻がなく、緊迫した法廷ドラマの知的愉悦を楽しませてくれる和製があった、と。
しかし、この作家の実力はそれだけではなかった。
主人公が単に正義の味方ではなくて、ロマン・ピカレスク(悪漢小説)でもあり、単なるリーガルサスペンスには収まってはいないのだ。
時折見える作家の世界観がなんともシニカルで、昨今の底の浅いヒラメのような均一な小学生的正義感に辟易している私は、つい思わずニコニコと純真無垢な笑みを浮かべてしまったりする(^^;
ピカレスクな主人公のモチベーションが「贖罪」風の口当たりにアレンジするというあらずもがなのサービスはエンターティンメントとしては仕方がないのかも。
私にはこの世は「悪意」で動いているという行間から見える作家の悪意がなんとも気持ちのイイものでございました(^^;

表面的には善意であり、悪意であり物欲であり、それが可視的に世界を動かしているのだが、裏には表からは絶対に見えない事情があり実はそれが。
それは自分のこの世への悪意を自覚しない者にしか関知できない、無自覚な他者の根源的な悪意なのだ。
とか、そこまでは行かなくていいのだが、そのようなストレートには表現しにくいこの世への違和も小説という形なら言ってしまえる。
そのような創作へのモチベーションを刺激してくれる力のある作品。


〔読書控〕2018/06/08(金) 10:46

四方田犬彦「貴種と転生・中上健次」ちくま学術文庫 2001

『お前、このごろ、なにしてるんだ、と彼はいう。
中上健二という名前の男を主人公にした小説をかいてたんだ、とわたしは答える。・・
おれと同じ名前じゃないか。・・・
偶然の一致だよ、あんたには関係ないよ、とわたし。・・・』
後記 I  より

一見大部な作家論集に見えるが、すっかり騙されてしまった。
この書は中上健二の作品を一度も読んだことが無くとも、その全作品に渡る創造エンジンの構造を作者本人よりも明確に理解させてくれるという、前代未聞の小説かもな。

賞を取り私の前に中上の名が同世代として現れ、その作品を読んだが、わざわざ活字で見たくもないその素材の生の感触がイヤで二度と読むことはない、と決めていた。だから、私はタイトルも思い出せない一作を読んだきりだ。
熊野の山中で異質な空間と交流するような場面が多少印象に残り、まあ、そのようなモンが目玉の小説家なんだろう、とラベルを貼って・・

もう中上が死んで4半世紀になる。
当時の文学的、あるいは政治的な一種の時代の熱気が遠のき、今はもうそんな文学で生きるような時代じゃなくなっている。
いや、それは私のことだが・・

しかし、妙な具合に最近私の方で中上の名が浮上、四方田が評論を書いてるのなら、とかでいよいよ読みだしたわけだ・・・

四方田の文章はなかなか格好良くて好ましいし、モロッコ紀行等で示すその感性は新鮮だった。
リアルに思考対象の輪郭を刻んで造形する力もあり、文章を読む興奮を与えてくれる書き手だ。
そして中上の評論集のタイトルが「貴種と転生」と来れば・・

期待に違わず、というより期待より、「文芸評論」より、「文学論」より遥かに遠くに連れて行ってくれた。
この一か月、毎日少しずつ文章を読み、その度に少なからぬ刺激を受け取っていたものだ。

中上の原作を読むより、遥かに有益で遥かに興奮でるのかも(^^;
今の私には中上の作品を系統的に読むような根気も文学的理解力もない。
しかし四方田のこの作を読めば、作家中上の創作のエネルギーはすっかり明らかになり、創造に立ち会う興奮さえ受け取れるのだ。
四方田は完璧に作家の無意識の層まで精査し、見事に整理し解明しまとめ上げちゃっている。
私にとっては四方田の伝えようとする文章のエネルギーの方が本来の中上への興味を遥かに追い越して、久しぶりに文章を読むというひとつの生きる便法を体感できたのだ。

恐らく作家は評論家が解明し語っていく道筋のように予定調和的に、周到にプランニングされた創作計画に基づいて書いて行ったのではなかろう。
書き起こす文章、物語を語るうち、物語自体が次の物語を胚胎し生みだしていく・・
そのようにして作家は作家になっていく。

四方田が今昔物語と三島由紀夫の「天人五衰」からこの膨大な評論を開始し、その壮大な論を展開していくスリリングな語り説くエネルギーの図太い流れ。
天人五衰とは貴種転生の相であり、中上は物語ることで日本史の裏側に見え隠れしていた披差別賎民を逆転させ転生した貴種であるという逆向きのユートピアを創出・・。
文章を書く、物語る、ということは人をまったく別の次元で再生させることなのだ。
四方田が正史の裏に書かれ、言い伝えられる偽史の壮大な妄想の真実、あるいは真実としての妄想を克明に論ずるのは学者としての天性の目かもしれない。
未だに忘れられないモロッコ紀行の結尾の文章はアラブ世界からみたキリスト世界への違和への新鮮な表明だった。

そのようなスリリングな読書体験を毎日少しずつ積み重ねてきたのだが、さすがにひとつき以上も楽しんでいると原作を読まず、その巧妙で明確な絵解きだけを読み進むという一種の詐欺のような罪悪感まで感じるようになってしまった(^^;
この評論集は中上の作をちょいと経てからもう一度読む事になるだろう。


〔読書控〕2018/06/12(火) 11:46

中山七里「いつまでもショパン」 宝島社 2013

前回読んだ作「追憶の夜想曲」のブラック度がかなり本気だったので映画「さようならドビッシー」を観、この作を読んだ。
どうやらクラシック音楽作曲家名を冠したシリーズらしく、ピアニストが探偵役をやっているシリーズのようだ。
今回はショパンコンクールに絡めたミステリで、ピアノ練習家の私には非常に興味ある素材だった。
しかし音楽的な付け足しはこのエンターティンメントに何らかの新味を上乗せするには至らなかった。
無理やりクラシック作曲家シリーズに収まるようにでっちあげた物語で、あまりにもご都合主義が先行してリアリティが乏しくなってしまっている。
エンターティンメントだとしてもソレらしいリアリティは必要だろ?
このレベルの探偵ピアニストがショパンコンクールのファイナリストに残るのはあ・り・え・な・い。
映画「さよならドビュッシー」ではこの探偵ピアニスト役に本職の清塚信也を配しソレっぽく演じさせていて、そこそこのリアリティはあったのだが、あの荒っぽいリストの超絶技巧練習曲を聴いて感動の涙を流すってのはあり得ない。
映画ではピアニストは本職だったが、主役の女の子のピアノはウソ弾きがすぐ分かってしまうレベル。
エンターティンメントとしては成立するんだろうが、ピアノ練習家としての私には噴飯ものだった。

この作にもそのような素人だましの小細工が一杯で、前回読書作の才能は一体どこに?とか。
文章のかなりの部分をショパンの作品解説に割いていて、そのもの自体にはウソはない。
ちなみにピアノの仲道郁代が監修をしているらしい。
しかし、どう見たって実際のピアニストが抱く感想・評ではない。
ウソではないが素人評の域を出ていないのだ。

例えばスケルッツオNO.1のコーダの第一指のGにEis(作中でも音名標記)を付けて2音同時・2手同時にオクターブで弾かせる超密集和音への言及がある。
なるほど、一見ピアニストにしか分からない指摘と見えるのだが、実際にはごく普通のG7、Gの属7のコード(bass F#)で指には自然な、いかにもショパンらしい転調読み替えの工夫。(Eis=F)
別に本職のピアニストが技巧的にやいのやいの言うところではない。*1)

全体になにかピアノのウソ弾き風の演出が過剰で、あまりノレなかった。
それにぐだぐだ言葉で示すより譜例を上げてくれないと、どの曲のどの部分か判然としない。
本職ピアニストの感想ということであるなら、当然譜例を先ず揚げるだろう。
おかげで今スケルッツオNO.1をもう一度さらう気にはさせてくれたのだが(^^;

いや、それよりあの素人探偵ピアニストがファイナリストになれるんなら、この私がヒマつぶしにポーランドに行ってショパンコンクールにエントリーするのは?なんておもしろいアイデアも与えてくれた。
いきなりショパンコンクールにエントリーするこの私メ(^^)/
そういうのを「ツーリスト」コンテスタントというらしいのだが(^^)/
え?年齢制限あるん?(^^;

付け足して言えば、ポーランド警察の警部が外国人コンテスタントに事情聴取する場面で、相手がポーランド語が喋れないのでこの探偵ピアニストに日-ポの通訳を依頼する場面があるのだが・・
これはいかにも不自然。
当然こういう場合、警部もコンテスタントも英語が共通語になるのが普通。
少なくとも英語がしゃべれない日本人の為に日-英通訳くらいは同席するのかもしれないが。
多分作者は国際コンクールの日本人コンテスタントのレベルは自分と同じだろうと安直に(^^;

まあ、悪くはなかったがソコまで良くもなかった。

いろんな作風で書ける器用な作家だということは間違いなさそうだが。



*1)
 ソラで書いてから本文で確認したが、別に技巧的にハードと言っているわけではなかった。
 しかし、次に「ロ短調のG,B,H の順でフレーズを埋めていく」・・と書いているのは違うな。
 この部分の進行はG-B-HではなくFis-B-H-で明らかにその前のG(ナチュラル)からの誤認だろう。
 



〔読書控〕2018/07/02(月) 16:49

中山七里「贖罪の奏鳴曲」講談社 2011

やはりこのピカレスク弁護士シリーズが飽きさせない。
身体障害者への逆差別という視点、裁判員裁判への批判等は楽しい。
私がすんなり楽しんで読める数少ない作家。
とは言え、この作では主人公の少年(院)時代のモノローグ風回想がアンバランスに長すぎるきらいがある。
あまり説明的になりすぎるとせっかくの緊張感の持続を損ねてしまう。
それと、相変わらず無理やりタイトルにひっかけるための「熱情ソナタ」の挿話がわざとらしい。
あまり全体の伏線や心理的裏付けとはなっていないので遊びすぎだろう。


〔読書控〕2018/07/16(月) 17:46

中山七里「総理にされた男」NHK出版 2015

器用な作家でこのような安手思い付風ドラマも物して一冊のミステリに。
現実の政治情勢を下敷きに、前政権の小学校風正義政治がまったく機能せず、どうしようもなく破綻していくサマを揶揄するのはカリカチュアとして楽しいのだが、その同じ口で素人総理が憲法も国際政治情勢も政党論理のアヤも関係なく、ただ「日本人としての純粋な感情」のままトップダウンで政治をやってしまう、という大きな小説中の論理矛盾がヘン。
政治家が小学生並みの正義感では政治ができないが、素人なら小学生並みの正義感で政治をやってもいい、とかいうような。
硬直した現在の政党政治を皮肉った軽いジャブと読めばいいのだが、冗談じゃないよ、本当は小説のネタにして笑ってる場合じゃないだろ?とか、ヘンに小学生並みの正義感で思ってしまうのだ。


〔読書控〕2018/07/31(火) 11:57

平岩弓枝「ベトナムの桜」毎日新聞出版 2015

小説としては何ら秀でたところはない。
紋切り型の古臭い文体といかにも作り物くさい筋立て。
テレビドラマならそれで一クルーくらいは出来てしまうのかもしれないが。
比較的最近の作なので多分作者が実際にベトナムに観光し、そこで遭遇したホイアンの日本人町から着想した小説だろう。
16世紀には既に大航海時代になっていて、日本人もアジア各地に雄飛していた。
ホイアンの日本人橋は今も残っていて観光名所になっている。
しかし、それから日本は長い鎖国時代に入る。
この時代の変転がホイアンの日本人橋から見えてくる。
このドラマチックな歴史の彩を平岩がさらりと小説にまとめた、というような。
純歴史小説というより、ホイアン観光の資料として価値ある小説と言えば失礼か(^^;江戸初期の話なのでタイトルの「ベトナム」はそぐわないし、「ホイアン」も当時の発音・標記ではない。
歴史小説ならこの二つのカタカナは本文中に引用されている当時の標記に改めるべきだろう。
しかし、観光参考書を目するならこのタイトルの方がいいだろう(^^)


〔読書控〕2018/08/08(水) 14:32

武田砂鉄「紋切り型社会」 朝日出版社 2015

「内容はキワものです」と言っているようなキタない真っ赤な装丁の本で、逆にどんなん?と手に取りやすい。
ちらりとのぞくと真っ赤な本当風の文章が目につき、ひとまず読ましていただくことにした。
最初の出版物だそう。
前半の文章は卑近な個人の楽屋話を落語風のマクラにし笑いをとり、するりと本題に持って行くテレビエンターティンメント芸風の類型的な書き手と思えた。
しかし、観察する目は確かで「そだね」と思わされ、そのうちするするとこの書き手の感性と立ち位置が見えてきた。
テレビ・マスコミ・ネットに充満する言葉による「偽善」の不快、そいつ等の処世の卑怯さへの憤懣を同じマスコミ・ネット世界の中で発言し続けているようだ。
そいつ等の口調は「紋切型」、そうかごく単純にそのように紋切ってもいいんだなぁ。
私も典型的なテレビの「美辞麗句」「いいお話化」うすっぺらい「正義感」「おりこうぶり」等々、絶えず辟易しているわけだが、この御仁の次の文に見える時代への苦渋にココロからニタリと同意してしまうのだ。

『言葉はこうしてどこまでもふにゃふにゃにほぐされていく。
言葉はいかようにも体つきを変えるべきだからそれ自体は歓迎するものの、その都度だまされてはいけない。あちらは騙すつもりもなくココロの底からマジだったりするものだから、淡々と受け止め続けるのは容易ではない。』

「あちらは騙すつもりもなくココロの底からマジだったりするものだから」・・・
そうだよね。だから本気になって反論すればコチラが悪者にされてしまうしかない。
だから淡々と受け止め続けるしかないのだが。

曽野綾子の説教節への端的な批判もお勉強になりました。
私も心情的には曽野と同様な感覚なのだが、もちろん私は自分の方が少数者だと自覚しているので決して曽野のように他人に対してこうあるべきと説教することはない。
「知っている世代」のメモリーを強めすぎるあまり、あるファクトをそんなことはなかったなどと言い始める。『メモリーには病みつきになるよう濃い味付けがされているが、駄菓子と一緒で、身体に悪いに決まってる。』
でも、私に言わせれば曽野は馬鹿にされっぱなしの老世代の自尊に向かって書いている(売っている)だけなので、古い時代を共有できない若い世代が本気になって反論しちゃなぁ。まあ、そんなのは淡々と受け止めておいたらいいんだよ。
NHK「プロジェクトX」は『団塊世代のサプリメント』。
私は同世代だがソレではなかった。
まっとうに生きてきたと自負している「団塊の世代」じゃないので、同世代人にはならないな。

テロ的犯罪を犯した犯罪の原因が経歴の「派遣労働者」「契約社員」に同定するが、読書体験の岩波文庫のカント「純粋理性批判」に結び付けるマスコミは無かった。
まさに紋切り型の安直なテレビの何故なに?回答。
あまりに簡単に答えを求めすぎるよなぁ。

私が以前から気になっていたテレビの「翻訳モノ語尾」の違和への言及もある。
学者(女性)が「ええそうなの。・・・だわ。」とか、老年の学者が「そうなんじゃ。ワシも不思議に思っておるのじゃ」とか、後者は「お茶の水博士」の影響らしいのだが(^^;
翻訳者やテレビのプロデューサはこれが「ヘン」だとか「あり得ない」とか思わないのだろうか?
正に勝手な思い込みに現実世界を勝手に近ずけ、「ソッチの方が本当らしいだろ」と真実を実現し、視聴者もソッチがホントらしいと納得している?
ばかばかしいが、これが仮想現実現在と状況だ。

こういう違和に摩擦してしまうというのは、この書き手が私と似た言葉への感受性を持っているということだが、その本人が出版やマスコミ・ネット業界で書いているのだ。
業界内部の習慣化した自己規制の現状についての記事は、現在のマスコミ・ネット社会の息苦しさの現場からの生々しい報告になっている。
プレスリリースの基本線から離れず、スポンサー等からのクレームを事前に排除するのが売文業者としての生命線であるわけだ。
そして売文業でもない一般普通ただの人でさえ、その風潮に沿ってしか文章を発想・発信できない「空気」が充満していく。
文書が書けない者まで、別に発信せんでもいい、と思うのだが、ネット世界は発信してナンボ、いきおい紋切り型の文しか出てこない空気になっていくだろう。
遂にネットで実現・見事な衆愚社会。

まあ、そんな面白い、というかコワい、というか(^^;今の日本への言語的違和をかなり自覚的な距離感で書いている。
著者は成城大出身で東大に対する学歴コンプレックスが、いわば下からの目線を逸らさない原点であると言明している。
なぜ東大出は「『いちおう』東大出てますけど」というのか。
成城大も有名大だけどな。
ただし企業から見れば「問題のない、普通の使いやすいサラリーマン」を供給してくれるいい大学らしく、その評価が著者に決定的な学歴コンプレックスを与えてしまっているようだ。
昔の私なら曽野綾子風に「成城といっても大学じゃないか? アマエるなよ、私なんて大学にも行かず・・」とか大学出をひっくるめてバカにしていたと思うが、今は多少違う。
大学出のヒエラルキーの中での劣等コンプレックスは系列外の者が想像もできないようなシビアな苛烈さがあってもおかしくはないと同情はできるのだ。
ま、国立じゃないと大学に行く意味なんてないよ、と豪語していた手前もあり(^^;


〔読書控〕2018/10/27(土) 23:19

更科功「宇宙からいかにヒトは生まれたか」新潮選書 2016

sub:偶然と必然の138億年史

確かにヒトは絶対的にユニークだ。
それはしかし、私自身がヒト類だからそういう他はないのだが、もし私が違う生命なら例えば「確かに我々細菌は唯一無二のユニークな存在だ」とでも言う事だろう。
いや、細菌はそう思いもしない。
思考回路なぞなくとも遥かに強力に存続していけるのでそんな無駄な機能は必要ない。
もし私が宇宙に偏在するニュートラル・公正無比な審判者ならこう言うだろう。
え?ドレが一番ユニークかって?
別にどうでもいいし、ワシには何のかかわりも興味もない。
宇宙には思考することができない、とパスカルが言ってる?
それがどうかしたか?
キミが思考するかどうかは宇宙にとって何の意味もない。

というようなことを私は常に考えてしまう。
「確かに自分がヒト族である」ということをまったく無視して「公平に」判断することは論理的にはできない。
この論理や言語、感覚自体は我々が固有に持つに至ったものだ。
もっと言えば我々が見ている宇宙はそのように我々が見たいのでそう見ているだけなんだろう。
例えば全ては私の阿頼耶識に生じている現象で、私が終わると宇宙も終わるのもアリかも。

といった具合に宇宙からヒトが生じるにはいろんな記述法があるハズだが、その辺り、著者は同じヒト族として可能な限りニュートラルな記述だと思えるようなやり方で説いている。
懐疑主義的な私が読んでも狭い人間原理のような独善には陥っていないと思える。
それに、この人の文章はなかなかうまくて、それ自体が楽しい。

宇宙の始まりから我々の今までを可能な限りニュートラルに語り、更にこれからの地球を同様な論理演繹的記述で予測までしている。
あと50億年くらいは地球は存続するし、ヒト類も一億年弱はまだ居続けるかもしれないと。
しかし、これから太陽の白色矮星化にしたがって地球の環境も変化し、地上の生命の様相も変化していき、最後の細菌も10億年後には絶滅する。云々。

生命はどこから、どのようにして発生し、ヒトはどういう具合に出来てきてどうなっていくのか?
現在の「環境保護論者」が考えもしない地獄的な初期の地球が生命を生み、ラン藻類が酸素を放出し大気を汚染することで「酸素ホロコースト」と呼ばれる劣悪な生命環境に陥れ、地表の生命の殆どが壊滅的な影響を受ける大隕石の衝突が支配種を滅ぼし、こそこそと地味に生きていた哺乳類を有利にはびこらせ・・・
また、カンブリア紀の様相で言えば、他の生命を捕食するシステムの発生が食うか食われるかの戦略的な有利を競う「軍拡競争」で生命多様性の大爆発が起きた・・・

そのような無作為な紆余曲折を経て今ヒトがいる、といってしまえば偶然論だが。
しかし、何十億年前に「偶然」発生した生命が、その文字通りの壊滅的天変地異をすり抜け未だ存続しているというのも偶然といってしまうにしては必然的な意思・力のようなことも感じてしまう。

この著者の巧妙なたとえがあって私は大変気に入っている。

『ある大学に入るには大変お金がかかる。
宝くじにでも当たらなければこの大学には入れない。
その年の新入生は偶然にも全員宝くじの当選者だった。
教授はこのような偶然があるは信じられないと驚いた。
しかし、これは全員が「偶然」宝くじの当選者だったのではなく、宝くじに当選した者だけが大学に入学できたのだ。』

我々が今ここに居るのは、いつかどこかで宝くじに当たったからで、それは偶然でも必然でもない。
当たらなければ私はいなかったというだけで。

最初の私のモノローグに還るのだが、私が宝くじに当たったのは万が一の偶然とは言わない。
たまたま私が当たったから今私がこのように記述しているだけで、当たっていなければ今ここにこの文章は書かれていないというだけのことだから。

このような論理遊びの面だけを書くといかにもキワもの的な本のようだが、いや、本体は実直で信頼できる全地球史の要領のいいまとめ。
要所要所に一般的な地球史への通念の誤認を皮肉も込めて指摘してある。
例えば、地球規模の大災害が恐竜類を絶滅させて、次に現在の哺乳類の繁栄時代が続く、というような解釈。
とんでもない、現在でも哺乳類よりも恐竜の子孫の鳥類の方が数的優位なのだ。
まあ、数的には常に細菌類が絶対的優位であるのは間違いない。

著者の「進化」の評価も「進む」という余計な日本語の価値判断を持ち込まず、「退化」も進化のウチという。
つまり私のように人間として退化することで社会環境に適合するよう進化するのもアリなのだ。

「地球は素晴らしい奇跡的な星です。だから地球を大切にしましょう」というような言い方には著者とともに私もどうしても引いてしまうなぁ。


〔読書控〕2018/11/06(火) 11:07

塩野七生「ギリシア人の物語 I」新潮社 2015

少し目配りが遠のいていたが相変わらずやってますね、塩野女史。
ベネチア史の「海の都の物語」あたりからこの人の語る西洋講談に引きこまれ、30年以上もこちらの読書体験の核になっていてくれていた。
とにかく読書の楽しさ、面白さを味わうにはこのくらいの長さでないと。

今年の夏に久しぶりにフランスの学校に行き、日本人にも及ばない大勢力のイラン人留学生達との軽い面識を得た。
なんとなくアラブ系だろ・・とかの軽いノリで言語や文化についてクラスで質問したら、全く違うPerssanだという。
そうだった、彼らは偉大なペルシア帝国の末裔なのだった。
塩野七生の語る西洋講談ではとにかくギリシア史から語りださねば始まらない、とかで書き始めたようだが、その新興ギリシアに多大な圧力をかけ西洋文明、政治体制や文化を発達させた往時の大帝国アケメネス朝ペルシャ、ダリウス大帝やクセルクセスがこのギリシャ史の第一巻に登場し、当時の世界勢力図にしばし想いを馳せた。
ギリシアで西欧文明の基盤が発祥したというなら、ペルシャこそが西欧文明を生ませたとも言えるだろう。

ペルシャとの2度にわたる戦役、マラトンの戦いとサラミス海戦、プラタイアの戦闘がこの巻の講談のハイライトだ。
それ以前のギリシャ、ホメロスの叙事詩や古代オリンピックは前8世紀なのだが、なんとなくそれは当時の地方部族の神話時代の話でこの巻では触れられていない。
なんといってもペルシャ戦役でギリシアは西欧ギリシアになったというイメージになる。本文中でも作者は個人的な傾向、派閥を鮮明に出してくれている方が、やたらと公正に記述しようとするような史家よりも有益だ、とか書いている。
塩野の歴史講談ではお気に入りの人物への贔屓があからさまで、それが講談師の熱を煽る風がある。
ローマ人の物語ではカエサルが登場してきたときの熱の入り方が違っていた。
このギリシア民主制黎明期ではアテネのテミストクレスへの惚れ込み方が突出(^^)
まだカエサルでは「女たらし」というような人間的な側面も書き込んでいたが、アテネのテミストクレスでは殆ど神に近い知力、洞察力、行動力のギリシア彫刻の裸の肉体の美しさのような完璧な人間像を書き込んでいる。
作者の立場からの見方になってしまうが、このような古代の人物の完璧さを見ると一体現在の人間というのはどのような存在なのかと暗澹となってしまう。
やはりギリシアは西欧史でいうと黄金時代であり、ローマがしたように常に手本にする存在になってしまうようだ。
哲学と歴史はこの時代のギリシアで始まった、と。


追記)
なぜか古代ペルシャ帝国が気になったので・・
図書館にあったイランの高校歴史の教科書の翻訳のペルシャ戦役の項の記述を調べてみた。
第一次ペルシャ戦役についての記述。
『アテネの人々はアテネの崩壊を防ぐことに成功した。ダレイオス一世は軍に撤退を命じた。彼は翌年に再びギリシャ遠征を行う積りであったが、程なくして没した。アテネ人たちは自分たちの町が征服されずに済んだことを喜び、祝った。ギリシア人歴史家たちもまた、この出来事をダレイオス一世の敗北と一方的に判断した。そして著書の中で、このことを誇大に書き記した。』
(明石書店 世界の教科書シリーズ イラン・イスラーム共和国高校歴史教科書)

塩野も時のペルシャ王の人物像には触れている。
「民主制のギリシャが実はペリクレスの専制統治であり、専制国家のペルシャ王(クセルクセス1)は貴公子であり、絶えず下の意見を尊重する政治姿勢だった」とか。

我々のイメージでは西はギリシャから始まり、東は中国史に沿ってクロニカルイベントを記憶してしまっているが、当時の実情としては古代ペルシア帝国の周辺のローカル地方史がギリシャであり、トルコ系遊牧民の諸国家が絶えず中華を包み込んでいた視点を外しては一方的な見方でしかないだろう。


〔読書控〕2018/11/30(金) 23:50

森達也「たったひとつの『真実』なんてない」 ちくまプリマー新書 2014

副題:メディアは何を伝えているのか?

巻頭に著者が北朝鮮に旅行した経験が書かれていて興味を引く。
私も外交関係や報道等の北の正式な招待がなければ日本人は北朝鮮に入国できない、と思い込んでいた。
昔のパスポートには「北朝鮮を除く」とかの但し書きがあった。
今見直してみると現在のパスポートにはその記載はないな。
著者は北京の北朝鮮領事館でビザをもらい、ちゃんとピョンヤン空港への航空券を買い、普通に観光旅行してきている。
もちろん、旅行業者の招待状が要るとか、現地では通訳(兼監視役?)が着くとかの制約はあるのだが、別に日本人の一般旅行者が入れないということではない。
ではどうして私は北朝鮮に入国はできないものとおもっていたのだろうか?
アノ国は特殊な国、金家の私有独裁国家で国民はすべて洗脳されていて・・
とかの情報は自分の目で見たものではなくすべてマスメディア経由だった。
日本人は行けない、とは言っていないのだが、何かそのような雰囲気の中でそのような雰囲気を伝えようとするものばかりだった。
出版物で言えば「北」に何度も行った経験のある他の著者の体験記は読んでいたのだが。
この「北」への思い込みは例えばこの本を読めばかなりの作為が働いている情報だということが分かるのだ。
この話しをマクラに副題のごとく、現在のマスメディアの主として商業主義が作り出す「フェイク」の実態を例証していく。
著者は全てがフェイクであるとは言わず、「その記者にとっての真実」という表現をする。
真実はひとつではありえない。
当然なのだが、そのことが理解できない書き手と読み手が無暗と増殖している現在の危機を、マスメディアの内部に居た経験を通じて仔細に報告している。
まだテレビだけなら良かった。
現在の「ネット」という未曽有のメディアは。

ネットで一面的な解釈だけで拡散してしまった、演出された奇跡のボイス「スーザン・ボイル」の話を読んだ当日、たまたまウチのテレビで読み流していたYoutubeで正にその映像が偶然流れ、正にネットの拡散力やシンクロニズムに今更ながら圧倒されるハメにもなった。
確かに、読んでからみればかなり怪しい(演出過剰の)映像だが、素直に感動したい人からは「鳥肌立つほど感動した。本当に涙がとまらない。」というように確かに見える。

特に時間で区切られたテレビ番組では単純化した解釈でしか世界を放映できない。
そして世界を見た通りの単純なものと見たい者の見たい世界をテレビは見せる。
しかしこの「情報」でつくられた世界の中にしか世界はもう存在できないのだ。

「僕は時々、人類は進化しすぎたメディアによって滅ぶのではないかと考えている。」と著者は最後に書く。


〔読書控〕2018/12/19(水) 15:17

塩野七生「ギリシア人の物語 II&III」新潮社 2017

今更ながらこの人の書く歴史物語が「〜人の物語」となっていたのを思い出す。
この人の関心は歴史ではなく人物で、それも多少ミーハー風の女性の目から描く魅力たっぷりな男たち。ハンサムで知的でマッチョで誠実、またはずる賢いギリシャ・ローマの英雄たち。
あるいはNHKの大河ドラマ風とも言ってもいいだろう。
そういう目で歴史をとらえて物語ってくれると、やはり無量に面白いのだ。

この出版でそろそろもう書くことは打ち止めと塩野は巻末で言う。
さすがにある種の感慨はある。
最初は「海の都の物語」1980 だったなぁ・・・
よくぞここまで書き続けてきたもんだし、よくもここまでこちらもフォローしてきたもんだ。

巻2ではアテネのテミストクレス。
民主主義の中で狡猾に独裁政権を貫いてパルテノン神殿を擁する大アテネを構築、時の反対勢力がオストラシズム、さらには死罪を決めるとさっさと勝手打ち負かした敵、アケメネス朝に亡命、クセナクセスIIの軍事顧問に収まって保身する、スパイ映画そのままのどでん返しの劇的人生を全うする。
このパルテノン神殿に結実する美意識やそのギリシア文明、ヘレニズムの大きな流れがここで胚胎する、というよりすでに完成してしまっている。
この作家によればこの時代から後の2500年間、未だにこの芸術・文化の粋に世界が達することはなかった、とか。
民主制のアテネで芸術と哲学(学問)が、寡頭制+部分的王政のスパルタで肉体が、専制君主制のオリエント・ペルシャで富と栄華が。
この三者が平行して当時の世界というチェス盤の覇権を争う。
そのような構図が生まれてから更に2500年経たのだが、相変わらず同じチェスで同じルールのゲームをよくもまあ続けているもんだな。
もうそろそろ将棋に変えてもいいじゃないのかい、世界よ?

予測どおり第三巻はお待ちかねのアレクサンドロスの物語。
塩野の最大の贔屓男性ヒーローはカエサルだが、プルタークの対比列伝であの大スターに対抗させているのはこの男、アレクサンダー大王しかない。
作者も最後に、その後の世界を最初に西欧が支配することの最初の道を開いたこの驚嘆すべき若者を描き切ったことでこの膨大な西欧英雄譚を閉じるのにもう心残りはないという心境だろう。
実は私、あまりアレクサンダーの事績には詳しくなかった。
ギリシャの辺境王国からペルシャ帝国を打ち破りインドまで行ったことは知っている。
その後、この大王の東西融合策でバクトリアとかのギリシャ系の国がアジアにでき、で、西欧と東洋の哲学者がミランダ王の元で議論し・・←これは今思い出したのだ(^^;
やはり、作者がこの若者の物語を最後に置いたくらいの歴史的大イベントそのものの個人であったらしい。
「クレオパトラの鼻」は単なるレトリックに過ぎないが、この個人こそ「もしアレクサンドロスがいなかったら」という大きな疑問を歴史に残したのは間違いないようだ。
確実にヘレニズム世界を世界史の中央に刻み、ローマに引き継がせ、その矢印は未だこの世界の中央で歴史がどこかに動いていくベクトル力を担っている。
まさにそのクレオパトラのプトレマイオス朝はアレキサンダーの一将が開いた王朝、対する大アケメネス朝の次につらなるセレウコス朝もやはりアレキサンダーの部下だった。
そして人間性としては知的で誠実で剛勇無比、ほとんどその人間的魅力に引っ張られアレキサンダーの兵士達は圧倒的多数のペルシャ軍に打ち勝ってしまう。
まあ、それでも作者の好みとしてはこの一直線に太陽のような好漢の若者より多少大人の知性と狡猾さを兼ね備えているカエサルだろうけど。
つまりアレクサンドロスは一巻だが、カエサルには実に三巻も使って語ってるからなぁ。
その王、王様だが専制君主制の王ではなく、われらの王というような人気者の王の存在が32歳で病没すると、はるかに凡庸な将たちが争い結局プトレマイオスとセレウコスが大アレクサンダー帝国を二分してしまう。
このギリシャ三巻で語られる政治の形態にはその後のすべての専制制から民主制に至る政体が網羅され、それも別に専制制から民主制への矢印があったわけでもなく、ランダムとも見えるような具合で覇権が争われていく。
民主制アテネが崩壊し最後に最大のギリシアを形作ったのはマケドニアという王政国家である。
やはりギリシアか。
すべてはすでにそこで出尽くし、未だに我々はそれを超えるものを見ていない。
「西欧」の出発点となったギリシア史を鳥瞰していると、人間はこれから一体どこに行こうとしているのか?という2500年先への疑問を抱かざるを得ない。


〔読書控〕2018/12/28(火) 21:49

加藤重弘「日本人も悩む日本語」朝日新書 2014


わたしは「違和を感じる」という用法でつかっているのだが、著者によれば美しくないが「違和感を感じる」は「違和感を抱く」とはニュアンスが違う、独自の意味が生じているので容認するという。
「憮然とした表情」は私でも少々悪感情がある印象だが、本来は「表情を失う」という意味だそう。
本来的には誤用なのだが広く通用し、コミュニケーションの道具として問題が生じないのなら容認され、それが一般的認識になれば新しい用法として日本語になっていく。
常用言語とはもとより時代に合わせて定義が変化していくものだから、と著者の立場は寛容だ。
国語学者としては誤用や俗用と判じるのだが、それが通用してしまっているなら認めないわけにはいかない・・・そんなところらしい。

「ら」抜きことばも場合によっては文法的により厳密に区別できるので「あながち間違いではない」という。「飛べる」「飛ばれる」等の区別。

それでも私は言語はコミュニケーションの道具だけではなく、美意識の表現でもあるという側面を強くいいたい。
いくら便利であっても美しくない表現は容認したくはない。
古希という言葉は美しいのだが、いささか現代の感覚とはズレちゃっている。
「私、古希なんで」というと自分でも笑えてしまうよ。

文法は学校で教えるために便宜的に規則化したもので、時枝文法始め多くの別の提唱がある。文法がまずあったわけではない。

「行う」は「おこなう」だが「行った」なら「おこなった」に読めない。
送りがなは規則よりは「感覚」で決まる。なるほど。


著者が例に出す誤用→通用の例。
「こだわる」 拘泥する → 譲歩しない(肯定的)

「捏造」 デチゾウ・ネチゾウ → ネツゾウ
せんおうを極める 壇横を → 専横を
口ごもる・ことばを濁す → 口を濁す。
喧々囂々・侃々諤々 → 喧々諤々 ←これってカナカン変換では何のことやら--;
いやが上にも・否応なく → いやがおうにも
やぶさかではない 吝ではない(強い肯定)→ 弱い肯定
スケルトン 骨格 → 透明な
    「青田買い」 → 青田刈り
「おっとり刀」 急いでいるのでとりあえず → おっとりゆっくりと

とりあえず前半の目につくところを例示したが、ほぼ私なら正用できる自信はある。
しかし次のような例もある。
「全然」は否定で使うのが正しいと思っていたが、実はこれが明治期に学校文法でそのような規則として教えてしまったという便宜的な理由でしかなかったらしい。
漱石は全然を「すっかり」と読み肯定にも使っている。

また否定の疑問に対して「全然大丈夫です」などという応えは誤用といいたいのだが、実は応える側の微妙な配慮があり新しい用法でもある、とか言われると「少なくとも小言は控えなければなるまい」

私が日ごろ気になっているバカ丁寧で婉曲な丁寧語表現もそれなりにそのような表現をする理由がある、とか言われると少々振り上げた手の下ろしどころに困るのだが。
だがしかし、やはりそんな婉曲なニュアンスで微妙な誤解をふりまくより端的で美しい響きを日本語には期待したいのだ。

例えば伝家の宝刀を天下の宝刀と・・というような話をヨメにしようとしたら、もうソチラの言語世界ではそのどちらも存在すらしていなかった(^^;
日本語を美しくだとか端的にだとかより、もっと憂うべき問題が(^^;

next year