[読書控 2019 index]
〔読書控〕2019/01/08(火) 23:34

高田明和「うつのツボ」朝日新書 2018

もう私は鬱に苦しむことはないのだが、それでも鬱は私の親しい長年の友人だ。
まじめな医学者による鬱の対処法。

うつ病と間違えやすい症状に「超敏感」があり、
(1)他人の影響を受けやすい
(2)嫌な人のそばにいることができない
(3)何かを頼まれると断れない
という不安神経症があるという。
ああ、それかもなぁ・・・

『うつや「気にする」は「神が与えてくれた才能」で、うつ病になる人は心優しく、思いやりのある人です。』
はい、そう言っていただければ、もう救われる思いでございます。

著者は禅にも精通しているとかで、主に仏教・高僧の言葉や禅の修行の中に心を安定させる、特に医学的な意味で積極的な作用がある。
言葉や人との会話が脳を変えるのだ。
ということで後半は座禅のやり方等を詳説。
あ、それはもうやっておりますよ私、結跏趺坐。
ただし、私の場合は不安の忘却(現象学的エポケー)ではなく、邪念鎮静なんですがぁ(^^;
やっぱりそれでも肉食が。太ったブタはうつにはならんだろ。
その他、実用的対うつ対策がてんこもり。
だが少々流し読み。申し訳ない。
ということはもう私はうつじゃないんだろな。


〔読書控〕2019/01/23(水) 13:23

山折哲夫・上野千鶴子「おひとりさまvs.ひとりの哲学」 朝日選書 2018

気にはなっていたがこの両タイトルとも読んでいない。
この新書一冊でこの両名の夫々のシリーズの一挙鳥瞰ができれば大変経済的(^^;

上野は確固たる「私は私」という自我を貫き、一部の曖昧さもなく「個」として生き個として死ぬ立場である。(この自同律はもちろん埴谷雄高の意識)
しかしここに「お」と「さま」を付与してあるように別に悲壮でも孤独でもなく、実に淡々と人はそれだけのモンなんだ、と軽く己が生を一笑・・かどうかわからんが、ニュートラルにその事実を当然のこととして受容している。
上野にとって山折の「ひとり」は理念的逃避であり、「孤独」に憧れているのだがその実、現実には多くの周囲の「女性」によって介護され看取られていく、実に中途半端なオッサンの妄想にすぎない、とコキおろす。
対するに山折、タジタジとなりつつも西行・一遍(世を捨て放浪遊行するが常に女性に囲まれていた)、はたまたブッダ(ヨメと子を捨て勝手に出家)ガンジー(ヨメと子を捨て、インド独立の父になるが、子の一人は反ガンジーの急先鋒となる・・とか)の例を引き、「いやあ、どこまでも幻想で中途半端なのが日本の風土のDNAなんですよ」とか嘯く始末。
西欧は神を殺し遂に人はただの「個」でしかなくなるのだが・・日本の風土では神を殺すところまでは、という謂い。
上野は一般に種田山頭火・尾崎放哉に憧れるだけで実際はヨメさんまたは介護士に看取ってもらうのが当然のごとく思っている日本のオッサンの現状を手厳しく批判する。
どうやら上野=西欧的知性による少しの曖昧性もない死生観、山折り=心情的哲学的理念として個人、宗教的境地に至る自然観からの死生観、か。
全体に詰め寄る上野、曖昧さの中に真実を闇に温存し逃す山折りの図だが、両名とも関西的ユーモアのある態度を崩さず、対談としてはかみ合っている。

ここで私自身の死生観も翻って浮かび上がってくる。
独身当時の私は厳しく「一人で生き・ひとりで死ぬ」と、一点の曖昧さもない上野の立場だった。
しかし妻帯した今では山折風にかなり曖昧中途半端なことになっている。
男性でしかない私と女性として生きている配偶者との違いも何となく上野・山折図に重なってくる。

女性はこの現象世界に生き、ここだけですべての生命活動を行っている。
生物史として、まず女性の原生命が存在し生命活動を続けている間に有性生殖を発明し、男性を生み出し(結果的に自分は女性になって)この世界に連れ込んだのだ。
申し訳ないが、この点で聖書はまったく逆。
男はこの世界に根源的な目的を持って連れ込まれている。
生殖相手を探すこと、あるいは単に「探すこと」。

本来は生殖相手であるはずだが、生殖活動が終わっても男性性に根源的に埋め込まれたあくなき探求本能は消えることはない。
男は絶えず駆り立てられ「何かを探して」生きているのだ。
だから男がこの世で完結することはあり得ないのだ。
しかし世界は今ではただ「この世」だけしか存在しないことになっている。
だから男は妄想に乗ってあり得ない「ここ以外」に飛翔するしかなくなるのだ。

Anywhere out of the world ! とある詩人は叫ぶ。

これが男の絶えることのない放浪の物語への宿命的エンジンなのだ。
私もまったく山折風に「ひとり」という孤立感を絶えず意識しているが、それは現実には社会的に完全孤立しているという意味ではない。
むしろ、今は野垂れ死にすることもなく、よく稼いでくれている配偶者のおかげで結構安逸に暮らせ、心的にもその手厚い保護に甘えまくっているわけだ。
しかし、それでもやはりそれがすべてではない、どこかに何か他の・別の・何かがあるはず・・という意識は消えることがない。
その思いが満たされることは遂になく、不完全に生きているという孤独感は癒されることはない。
ひょっとして男はその絶えず「何かを求めて放浪する」、何なのか一生わからんのだが、というのが生きている理由 Raison d'etre なのだ、という気がしてくる。
いや、気がする以上に、それに違いないと、今言い当てた実感さえある。

だから上野の言う意味での「おひとりさま」ではないのだが、男は常に「ひとり」なんだよ。
そういう読後感を得たので、これはお二人の著書シリーズを精読するより、経済的には実におトクな読書だったちゅうことになる(^^;


〔読書控〕2019/02/20(水) 13:26

熊野純彦「埴谷雄高−夢見るカント」 講談社学術文庫 2015

熊野は私よりは一世代下だが、埴谷に青春の鬱屈した想念をからめとられてしまったことでは同世代のようだ。
私は埴谷の影響を受けながらも存在論の周辺をふらふらと低空飛行したまま、フッサールや阿頼耶識に頭をぶつけたりしていただけだったが、後からやってきたこの俊英は埴谷の文に熱中しながらも西洋哲学を修め、カント、ハイデガーやレヴィナスを考察した後、満を持してというような間合いでこの埴谷雄高論を世に問う(2010年「再発見 日本の哲学」)。
今読み終え、膨大な索引の後に付記されいた「あとがき」を読むと、この50年間に出版された埴谷論の数々もリストアップされ、その論者達の顔ぶれからも埴谷世代の同窓会のような懐かしさを覚える。
森川達也・菅谷規拒雄・白川正芳・鶴見俊輔等の埴谷論は私も欠かさず読んできたのだ。
しかし私は埴谷の思考を実際に深く理解していた訳ではなかったので彼らの埴谷論の骨子も今は何一つ覚えていない(^^;

直接の思想的引用ではないが、著者の個人的な読書世界の好みが覗える高橋和巳や須賀敦子の文がちらりと引用されているのも同窓会的意識が(^^)。

このかなり遅れてやってきた時期外れの熊野の埴谷論も長年の習いで何気なく読み始めたのだった。
しかし次第に私の内側にある埴谷に感応した古い記憶部位が活性化されていき、遂には50年前の興奮と同種の熱まで追体験させられるまでの強い読書体験になった。
やはり私は未だに埴谷の仕掛けた想像力の罠に捕らえられたのであり、熊野はその罠の構造を克明に解き明かしてくれていたのだ。

「死霊」の各主人公達の到達した思考・観念の実に理にかなった解題もさることながら、饒舌で特異な文体の、いわば脚色の部分の的確な引用も豊富で逆青春小説、あるいは裏青春小説としての不思議な吸引力・魔力まで蘇らせてくれた。
霧に包まれた夜の運河沿いの道、月の光に浮き出る癲狂院の洋館の時計台等。

折に触れて引用される断片は「死霊」の読者ならだれにでも深く埋め込められてしまった共通記憶を呼び醒ましてくれる。
主人公たちのやたら観念的な会話、突然飛び込んでくる首猛男のセリフ、常に始まってしまう際限のない長いモノローグや微妙な角度で交錯するダイアローグ。

確かに埴谷は真に作家だった。
カントが純粋に構築した思考システムを踏み越え、遥か虚空に飛翔していった。
不可能性への想像力か。

『カントが誤謬推理の出発点として拒否した原則を、埴谷雄高は「未出現の宇宙」を夢見るために取り上げて、承認する。
カントの超越論的弁証論の核心、その形而上学批判を逆手にとった、「夢見る」形而上学がこうして成立することになるだろう。』

熊野の明晰な埴谷の「死霊論」はいろいろ示唆に富み、私にもう一度、今この地点で埴谷の作品を読み返したいと強く思わせた。
私は埴谷から出発したと自分では思っているのだが、今もう一度埴谷と相対して自分の位置を確認してみたい。

---以下私の読書メモだが、文章として完成させる気もないまま、ただ忘備録としてここに残しておく----

(二つの影のうちの)淡い影の話。
「夢見られる中の主人公が常に夢見るこの俺にほかならぬ」
あるものが存在することは無数の他の可能性を排除したことの結果である。
出現それ自体は、その意味で、無限な未出現を抹殺した痕跡にほかならない。
「俺自身はこの「俺自身を常に失って」こそ絶えずこの俺自身になり続けてきた。」

自分自身とは何か・・・宇宙論的ひろがりと埴谷における倫理的意味。

無出現の思索者・不可能性の作家。

つまり私たちがいっさいの可能な存在者のなかで最高の存在者として表象する、ひとつの存在者があって、その存在者がいわば自分自身に対して「私は永遠から永遠へとわたって存在し、私の外には、・・・なにも存在しない。
しかし、私はいったいどこから来たのか」と独語する・・・(熊野によるカントの引用)
最後にその存在の根拠とするものが、虚体・・・

現実の存在(存在する存在)
想像上の存在(存在していない存在)
想像もされていない存在(存在も存在しもしない存在)
もともとしなくてもいいものが存在→大いなる誤謬の歴史→永久革命者の悲哀。
胎児として兄弟殺しによって生まれてしまった者が汝殺すなかれという倫理感から逃れられない(埴谷の存在論の倫理的側面)。

永遠に答えられない問をどうしても孕んでしまう人間の(思考の?)絶対的な哀しさ。

この答のない世界に相対しどのように自分のバランスを取るのか?文学。
生物とは、とここで文学的な飛翔をし、「=存在」とは自己矛盾するということにほかならぬ。
自同律の不快・・・存在することの不快・・・存在するということの矛盾への・・どうしても答えられない苛立ち。

この世界は私の意識の下部構造にある阿頼耶識が創り出している・・・という発想は埴谷の考察の外。

「存在と不在ののっぺらぼう」はエントロピーが最大に達した原宇宙のイメージか・・
しかしすべてのエネルギーが0になっても「ゆらぎ」は生じるという説もある

今自分の人生の終盤に差し掛かり、すべてはどうしても解決できず永遠に引き裂かれている状態、それ自体が存在理由であり、自分が生きていることであるという諦観が私を納得さる。
宇宙のこの齟齬・ゆらぎ・永遠に定義できない・とらえることのできない・原因不明の齟齬が存在を産み更に生命を産みさらにこの想念を産む。
不快故に我在り、と。

「不快故に我在り」(アナクシマンドロス=埴谷/デカルト=Hemiq)


〔読書控〕2019/03/16(土) 00:03

吉村仁「強い者は生き残れない」新潮選書 2009

副題:環境から考える新しい進化論

タイトルの派手なアイキャッチャーとは裏腹に中身はかなり有意な進化論の提唱。
まあ、副題の通りなのだが。
私は「進化」という日本語の概念の中にある含意にある上向きベクトル、予定調和的な人類至上主義がクリスチアニズムと西欧風論理至上主義的世界観の悪しき副作用だと思っている。
著者も私と同様「進化」という言葉は適切ではなく、もっとニュートラルな変化というような概念であるべきと言う。
同様に進化の説明でよく行われている擬人化風の叙述にも疑問を提出。
魚→両生類(陸上適応)を言うのに「陸に上がる」という言い方が無意識に行われているのも自律的に進化するのだという誤解を与えることになるという。
魚は自分の意思で陸に上がったわけではない。

ダーウィンの時代には環境という概念が無かった。
環境が果たす進化への役割の大きさを考慮できなかった。
つまり環境が一定であるという前提での「適者生存」原理であり、「最強が最終的に残る」わけではない。

まったく同じプログラムで動く「電子カメ」でも2台あれば既にそれぞれの行動パターンは違ってくる。
つまり環境は各個体にすでに微妙な差異を与え、「最適な行動」は一義的に決定できるものではない。
固定した環境の中では「適者生存」法則は機能するが、生物は予測不能な環境の変化にも対応できるように保険をかける。
・・・だから私のような環境不適合な個体も産まれてこさせられるワケだ。

哺乳類は現環境への適応力が高いセーファー型、つまり最大の生命効率を発揮できるようにプリセットされて生まれてくる。
しかし個体適応力は単純機能に絞り、それを多産しあらゆる環境変化にも対応しようとするリスキー型の方が種としては有利である。
単純な種子の形でじっと新たな土地・気候・時代にも種を持続させようという植物的リスキー対応型の常なる繁栄。
高機能セーファー型は現在の環境以外を想定して変化することはなく、リスキー型に移行することはできない=「強いものが必ずしも生き残るのではない」。
著者はダーウィンを否定するのではなく、ダーウィンが考慮しなかった「環境変動」が例外的要素ではなく普遍的に常に進化圧をかけていたと主張。

このような環境の変動に対応する能力が「進化」の基本的エンジンであるとし、環境をコントロールする、または固定させ一定にさせ「環境への適応していく」ことが「進化」と定義すると、進化論は生物学をはるかに超え、現在も続く社会・政治・経済活動も同じ論理で説くことができる。
そして現在社会の未来形も俯瞰することも可能になる。
・・・お、これは明確でかなり普遍性を持った理論、知的快感というもんだぜ。

家や社会は環境をコントロールするための進化装置ととらえられる。
人類は変動する環境からの独立という点で「特別な存在である」といえる。
しかし、「共生・協力」は必ずしも人類のみの「進化形」ではない。
共生は既に多細胞生物となったときに生物学的に実現されているのだ。

社会の生産性という視点から一夫一婦制の成立を説明することもできる。
自己犠牲もアリの家の存続というテーマは人間社会だけではなく社会性昆虫(アリ・ハチ)でも同様に見られる。

道徳や法律の成立もこの環境への最大適応という線で説明可能。
道徳は社会内の存立を促す為の内的ルールとして成立するが、「法律」は、主に罰則により外から行動を規制する。
『このルールは本来なら(成立理由からは)運転手だけではなく、周りの車や歩行者の安全のためのルールでもある。だからこそ、私たちは、誰もいない広い道路での「ネズミ捕り」に憤りを覚えるのだ。』
・・・ニコニコ。
道路交通法は人工的で根拠が理論的に納得できないことも多い。不自然だよね。(^^)v

環境からの独立は「所有」という概念を発達させた。
場所の所有、テリトリー。そして農業。
しかしこの所有権の発達により利益の分配に思わぬ問題が生じた。
利害の相反・・・
これは私も農業社会の成立が貧富の差、社会問題の発端になったと明確に主張している。進化論の話にリーマンショックの環境進化論的分析まで出て、単細胞→多細胞→共生→社会→政治経済へと連なっていくのは見事な論法。

では著者の未来への環境進化論的予測はどうか。
『「強いもの」は最後まで生き残れない。最後まで生き残ることができるのは、他人との共生・協力できる「共生する者」であることは「進化史」が私たちにおしえてくれていることなのである。』

最後に少々付け加えるが、かなり個人的な記述も散見しそう固い理論本ではない。
あとがきでは小学校時代に知的にバカにされていた生徒であって・・という話も打ち明けられて、自分は強者ではなかったのだが・・という非エリート的発想の原点の表明に見えた。「雑草の強さ」というか。
社会的弱者の私としては心強い論者というか(^^)/


〔読書控〕2019/03/25(月) 11:40

伊東潤「国を蹴った男」講談社 2012

戦国歴史ものの分野の英雄譚はすでに飽和気味に巷にあふれているが、この作品集は非常にマイナーな人物を歴史から取り出してきて描いているのが異色。
マイナーなというのは、勝利し歴史の表舞台で活躍した側ではなく、滅んでいった側の、それもやや二次的な身分の人物のアンソロジーになっているので。
織田に敗れる武田方について滅んでいく地方侍、三成の同僚だがまったくの経理担当取締役で表舞台では描かれたこともない長束正家、狡猾な直江兼続に使い捨てにされる老臣等。中でも武人大名生活を嫌いまくった今川氏直に同意を通じ密かにこの趣味人の人生を安逸なものにすべく身を挺した蹴鞠の工匠の話は今まで読んだこともない目新しい題材。
蹴鞠作成の行程や競技としての蹴鞠の紹介、その名人に対する称号等、そこまで調べて小説にまとるというのも、なんだかその工芸の匠めいた小説作法だな、とか。
小説に仕立てるための仕掛けに少々無理はあるのだが、ここまでマイナーな世界の仔細を調べ、作品化していただければそんなことはどうでもいい。おもしろく読めましたよ(^^)v


〔読書控〕2019/04/23(火) 14:30

ホール・G・フォーコウスキー「微生物が地球をつくった」 松浦俊輔訳 青土社 2015

sub:生命40億年史の主人公
Org:Life's Engines
邦訳タイトル、サブタイトルはとっつきやすいが、内容はかなり詳しくハードで最後まで目を通すのにほとんど一か月かかってしまった。
といっても、文章自体は親しみやすく読みやすい。翻訳にも違和感はない。
(ただし、本文最後の訳文は意味不明になってしまっている。
『とはいえ、私たちはみな、仲間の真核細胞生物と話す真核細胞生物として巨視的な体であり、私たちの生存は、遠い昔に進化した、微生物にある微視的なナノマシンの進化によってこそありえた。』)
著者は微生物学者だが、物理・科学・宇宙論にも精通していて各分野を総合した見識で生命という現象を描いている。
最新の各分野の成果も反映していて内容的に最先端の科学知識が得られる。
我々の地球が「当たり」、エネルギー交換ができる「ナノマシーン」が生じ、そのまま環境を固定させる役割を踏襲し、大きくは酸素という多量のエネルギー源を作り出し、それによって動物のような高エネルギーを操作する生物にまで至る道が開けた。
しかし基本となるエネルギー代謝エンジンのたんぱく質構造の設計図DNAは当初の微生物が使用していたものの10倍にしか増えていない。
人間の体には体細胞の10倍量の微生物が同居している・・・
残念なことに、私には自分の能力の限界があることを今更ながら自覚したのだが、このナノマシーンと作者が呼ぶ細胞膜を通じてイオン交換をしエネルギーを得る生命活動の本質部分の科学的叙述が理解できない、あるいは明確なイメージを持てないのだ。
それが生命と非生命を隔てる根幹であり、生命とは何か?を定義する科学的に正しい(サイエンティフィック・コレクトと呼んでやろう)規範なのに・・・自分の論理脳の欠陥を恨む。
これがために私には世界の根幹の何事かが理解できないまま一生を終えなくてはならないのだ。
そのような地球型生命の本質(=微生物由来、地球の環境自体も微生物が創り出し調整して成り立っている)を理解した上で作者は宇宙における地球の特殊性に思いも馳せている・・・
私は生命とは偶然と僥倖に満ちた特殊な一過性の現象だと思っているのだが、作者はその回答は保留している。あらゆる偶然の可能性は排除できない。
作者がこの辺りのことを言うのに「クジに当たった」というような表現をしているのが印象的だった。
スノーボールアース・火星起源説のガーシュビングの名も引用されているが、それも可能性の範囲での言及だった。
知的刺激に満ちた書物だが、私にはもうフォローしつくせない分野ということがはっきりしてきた。
残念だが私にはもう生命の本質を考察するような時間は残っていないのだ。


〔読書控〕2019/05/04(土) 11:53

青柳いづみこ「ショパン・コンクール」 中公新書 2016

2015年のショパンコンクールを出演者・審査員・観客・記者、いずれとも違った位置で綴った記録あるいはショパン・コンクール論評。
コンクールの記録としてはページ数が足りないのか多少の個人的付けたしがある。
その辺りが少々書物としての纏まり感を削いでいるのが残念。
しかし、読み手によっては参考になる情報でもあるのだろう。
うむ、読み手?誰が読むのか?
ピアノ学習者と教師? 音楽フアン? 単なる観光旅行愛好家の傍系資料として?
私はしきりに自分の今を奮い立たせる必要があり、「また一つ別のショパン・コンクール」というタイトルを反芻していた。
昨年「もうひとつ別のショパン・コンクール」というTV番組を見た。
コンテスタントとは別にメーカーから派遣された各企業のピアノ技術者がコンテスタントに選ばれ(=コンクール)要求される微調整に限られた時間内でいかに対応していくのか、というドキュメントだった。
私はまた昨年同コンクールを題材にした小説を読み、「トラベラー」としてショパン・コンクールに出場するのは?という着想を得て悦にいったのだが、直ぐに年齢制限があるとことを知り実現不能の単なる妄想の楽しみで終わったのだった。
今回この本で具体的なコンクール各予選の課題等を知り、ファイナル本選の協奏曲はいくらなんでも無理だが、少なくとも各予選の課題曲なら「いつでも」用意できるということが分かった。
私のピアノ演奏能力に関してはこれからソチラの書庫で書く予定だが、少なくとも現在毎日さらっている曲目から言えば私はすでにプロ級なのだよ。むはは。
・・・というような視点で読んでしまったので、著者のそれなりに含蓄のある文章・資料価値をかなり読み飛ばしたきらいはある。
著者は音楽や演奏というまた別の表現技術・精神技術をかなり巧みに再現できる文章力はある。
私には到底できない演奏や解釈の微細なエスティメーションと言葉による再現力。
今思い出すのは『2と3拍目の和音の間の空気感』というような表現は聞き取り能力も文章化発想力も私にはない。
音楽力と文章力を双方持つ才能は中村紘子以来随一のものだろう。
それ以前にも既に演奏者としての肉体的技術力と表現者としての音楽性を兼ね備える演奏家という人種自体、既に稀有な才能というべきだろう。
肉体的能力は私のようなふつーーーうの者でも30年の修練でもあればなんとかクリアできる。
しかし音楽的感受性自体は時間や修練でもどうにもならないのだ。
若いしなやかな感性だけが感知し、感応し自分の表現として具有することができることがある。特にショパンの音楽ならば。
私にはどのようにしても決してできないことがある。
私は最終的、決定的にB級の人物で、永遠にホンモノにはなれないのだ。・・・
というようなことを、あまり本文には関係はないのだが、春鬱の中でちら思いながら読んでいた。


〔読書控〕2019/05/26(日) 17:41

宮城谷昌光「呉漢 上・下」中央公論社 2017

後漢創業者劉秀の大司馬呉漢(呉子顔)の伝記。
実はより大部の「湖底の城」1−9を読んでいたのだが、図書館に途中の中間巻がなく、同じ書棚にあったこちら2巻本を間繋ぎに読んだのだ。
だからということもあるが、印象が薄い。
主人公の呉漢も劉秀に将として迎えられてからは大きな破綻もなく軍事の第一人者として生涯を全うし、波乱万丈ということでもなく。
波乱万丈を知と徳で乗り切った劉秀の下ではどうしてもバイプレーヤーでしかない。
宮城谷中国史ものの最新作だが、そろそろ題材が尽きてきたのかもな。
それに初期の作品に顕著な研ぎ澄まされた感性が薄紙に透けて見えるような簡潔な文の詩的エネルギーがあまり感じられなかった。
それはそれで読む楽しみで私の春鬱を数日紛らわせてくれる物語ではあったのだが。


〔読書控〕2019/06/11(火) 14:40

宮城谷昌光「呉越春秋 湖底の城 (1)-(9)」講談社 2018

久しぶりの宮城谷の長編。
変則的な長編小説で、越の范蠡を主人公とした呉越の抗争が骨子なのだが、その前史である呉の台頭をもたらした伍子胥の物語が巻1−6を占め、巻7で急に主人公が敵方の将・范蠡に交代してしまうので面食らう。
初期の宮城谷の透明な詩情をたたえた文はもうないが、滔々淡々と物語る語り口は健在で長編物語を読み続けられる間、2500年前の古代中国の時空に浸っていられる幸せが持続する。
古代の賢人達の達観が宮城谷の記述するように現在のわれわれにも納得できるモラルや規範で行われていた訳はないのだが、それは小説家の語りの滑らかさで自然と納得してしまう。
人の徳や威が周囲に感知され、王や卿に心酔し命を託す、義や忠という理念に殉ずる実にすっきりとした古代の心性。
そんなもん、現在のわれわれには全く通用しないからこそうらやむ他ない、簡単至極な生き方。
現代は例外的に「自分の死」が絶対的な悪・不条理としか捉えられない時代だな。
古代よりごく最近まで常に「自分の死」よりももっと大切なものがはっきりとあったのだろう。
近代的自我が確立し、我々は突然不条理で受け入れがたい世界に存在させられることになったのだ。


〔読書控〕2019/06/23(日) 17:29

宮城谷昌光「管仲(上下)」角川書店 2015

この作家の長編ならいつでものめり込める。
古代中国の物語を現代の心性として再現し、小説ではあるがこれが史実でもあるというリアリティを保証し、現代との隔たりのどうしても目測できないその距離に想像を飛ばせてくれる。
そういえば同様に塩野七生のローマものにも読めば常に時空のかなたに飛ばされていた。
いずれにせよ両者とも2000年以上の彼方のことである。
わたしは現代から隔絶した空間に常に飛びたってしまいたい人なのだ。
管仲は前回読んだ伍子胥の呉が台頭する当面の敵の大国斉の宰相で、斉は太公望が始祖の国。
この物語もタイトルは管仲だが、管仲の弟子でもあり、同僚でもあり、敵でもあった鮑叔を当面の主人公として物語を開始させていた。
前回の伍子胥と范蠡のような国家間の敵対を体現した対立ではなく、斉の覇者への道の功労者同士として最終的に対立関係をアウブヘーベンしてしまうので物語に奥行きを与えることになる。
それに加えて中国史最大の知性・宰相とまで宮城谷がいう管仲なのだが、前半生の運命の暗さが単なる一方的な英雄譚になることはなく、苦悩を乗り越えて歴史上の人物になるという小説的波乱の道程も描き込まれている堪能満載の物語。
最近、宮城谷の描く中国古代にはあまりにも現代人の感性からの解釈や演出が入り込んでいるのではないか、と最近の長編にはちょっとした疑念を覚えたりもするのだが、なあに、私は別に歴史を学ぼうというわけではなく、小説として楽しめればそれでいいのだから。


〔読書控〕2019/07/03(水) 11:57

宮本輝「三十光年の星たち 上・下」毎日新聞社 2011

宮本輝の小説なら読めるんではないか、と思ったのだが。
しかしこの作は読むに耐えなかった。
最後まで物語を追わせるくらいの職人的技巧はあるのだが、中身が今様のテレビ連続ドラマ風で、なんでこれがわざわざ宮本が書かねばならない小説なんだ?と思う。
初期・中期のタイトルが星や星座をいつもまとっていたように、全うな世間からは遠く離れた場所に陥っているのだが、その実その世間との関係を捨てることができない人の物語を書く作家だと思っていた。
考えて見れば私と同世代で、しかも世に名の知られた押しも押されぬ作家になり、もう対世間の違和もなく安楽な職業小説家に収まってしまったようだ。
この作には私に共通する何らの問題意識もない。
世間で生きる善意の人のつながり、単純な市井の人物がよく知れば日本有数の技術者であり、目利きであったりするご都合主義の氾濫。
このような作家の経年劣化による堕落を見るのはつらい。
もう薄いベールに覆われた恋や愛の物語を胚胎することはないのか?
いや、同世代なのに未だに青春の蹉跌の中に閉じ込められている私が不甲斐ないだけとか?
まだ同世代同時代の感覚の代弁者として宮本輝には大衆娯楽小説の大家になって欲しくはない。
是非、我々の年齢にしか書けない老いらくの恋の物語を物してから勝手に呆けてほしい。


〔読書控〕2019/07/16(火) 10:04

ゲオルク・ノルトフ「脳はいかに意識を作るのか」 高橋洋訳 白揚社 2016

原題:NEURO-PHILOSOPHY AND THE HEALTHY MIND Leaning from the Unwell Brain
脳科学から存在論へ踏み込んだ刺激的な書物。
タイトルに惹かれて読み始めたが、単なる一般啓蒙書ではなく大変な知的労働を強いる難解で、それでもどこか簡明な論だった。
自分の意識や自我そのものを科学的、あるいは客観的に記述することの困難を考える。それはほとんど究極の思考といえるだろう。
例えば、「考えてはいけないことを考えよ!」と強いられた場合私は「自分とは誰か、思考することとは何を考えることか」というような、言語が表現を想定していなかった命題を考えるだろう。
この本はそのような記述の困難、したがって読解の困難を突き抜け、どうしても我々の思考の根源に大きな影を落としている「存在とは何か」という実存哲学の命題の現象学的解釈の脳神経学的主観への客観的記述をむにゃむにゃ・・・
いままで知的刺激という言葉を「思ってもみなかった新しい知見の発見」というような「解明」するイメージで使ってきたのだが、この書に関しては「思ってもみなかった新しい無知の自覚」というような混沌とした世界に放り込まれるような刺激を受けた。
言葉で語るにはある程度の客観性がなければ言語化できないのとすれば主観を客観視するにはどうすればいいのだ?
著者の方法論はサブタイトル・原題にあるように脳医学的な欠陥のある患者の自我を観察し、その欠如から逆に意識とは何か、自我とは何かを逆算していくというものだった。
しかし訳者(高橋洋)の日本語も周到に吟味され、推敲された最良の品質であるにも拘わらず、私の現在の能力ではすべての論法をクリアに理解していくことはできなかった。
しかしこの論が前人未到の領域へと踏み込んでいっていることは理解できた。
大きな柱でいうなら現代まで仮説されていた「心」という抽象存在を極めて簡明に否定し、自我・意識は心ではなく、脳内の現象であると論断している。
そして極めて慎重にも「しかしそれがどのような作用によって成されるのかはまだ解明されていない」とも。
少なくともこういう研究のおかげで創造主、あるいは我々より高次の存在者や「心」という証明不能の仮定を前提とすることなく意識や自我といった古典生物学や医学では取り扱えなかった現象を科学的客観の場にさらす場の設定が可能になったと思える。
私には根本的な脳安静状態活動の仔細を検討する理解力はない。
理解できないのだが基本的な明晰さと真実にかなり近づいているという方向の正しさは感知することができる。
それはもしかしたら本書の最後にほのめかされているように、ハイデガーや実存主義哲学者が胚胎した存在論モデルの「真実らしさ」への直感と同質のものなのかも。

『安静時脳活動を基盤とすることで、ハイデガーが述べるように「私たち(存在)は時間内にある」ということが可能なのである。さらに重要なことに、安静状態は、世界や世界時間との高い整合性を持つ脳時間の継続的な構築を可能にする。かくして、私たちは、世界と世界時間の一部として自分自身を経験するのだ。脳および脳時間と、世界および世界時間の整合性によって、「時間内にあること」が可能になる。脳のおかげで私たちは、世界時間の内部にあって、自己と人格的同一性の時間的な連続性を経験することができる。そして私たちは、世界時間の内部に置かれているがゆえに、まさにその世界内で存在することができるのだ。世界時間と、その内部に住まう人間存在を超えたところには何もない。時間も、存在も。』


〔読書控〕2019/07/31(水) 13:04

マーリン・ズック「私たちは今でも進化しているのか?」渡会圭子訳 文芸春秋 2015

このタイトルは少々お門違いで、現代は PALEOFANTASY つまりははやりの糖質制限ダイエットの基本理念に異議を唱え根拠のないファンタジーであると展開する主旨のようだ。
結論的にいえば可視的な現代人の進化、つまりラクターゼの保有、耳垢種の変化、チベットと南米人の両様の高地適応遺伝子の獲得というような比較的短期で進化は起きる、というもの。
したがって我々は石器時代(狩猟採集生活)に長らく適応してきたのでつい最近の農業社会成立による穀物摂取が種々の健康問題を引き起こすという糖質制限、あるいは原始への回帰への理想論はPALEOFANTASYに過ぎず、人類は今でも(いつでも)環境に適合しようという不断の試みを続けているという。
私も主たる人類的規模での転回点は農業が起源すると考えているのだが、これは主として社会的問題を想定していて著者の否定する農業の人体問題的諸悪の根源論とは若干ズレがあるのだが、それはそれで私も一般的な思い込み先入観があることを示唆される部分もあった。
まず、狩猟採集生活をずっと続けていた原始人達もそれなりに環境適合トライアルを不断に続けていて・・・当然絶滅した人類もある・・何十万年もの間種としての安定期を楽しんでいたわけではない。
また、現代ではもし突然変異で新たな異能を持つ遺伝子が発現したとして、医学的に排除される、もしくは異端分子として社会的に簡単に隔離抹殺されてしまうだろう、とはちらりと思うところだ。
それに例えば翼が生えるというような人体的能力を付与しなくとも、すでに人間は空を飛べているのでそのような異能の進化圧はかからないだろう、とも思う。
著者がそのような思い込みは「あなたが工業化された都市社会に住んでいるからそう思うので」依然としてそれは世界の少数の例外的な小社会での話という。
なるほど、ブラジルの奥地ではもしかしたら翼をもつ赤ん坊がジャングルで成人し、今空を飛んでいるのかも・・・とか(^^;ではなく、現に今私が暮らして居る小社会でも私という生理と感覚を付与された異端がそろそろ人生を終えようとしているのだし。
しかし、私は生殖機能がなく、行使もしなかったので(公式には--;)私の遺伝子が拡散することはないのだが(^^;

我々の現代社会でも常に遺伝子の小さな変異は起きている。
我々が翼を獲得するというような劇的な変化ではないにしても小さな異変は常にあり、そして多様な人類が生まれている。
それどころか、かなりの障害者と目されても可能な限りその遺伝子を保護しようという機運さえ現代では可能なのだ。
翼の生えた赤子が生まれれば原始時代では直ちに葬りさられただろうが、もしかしたら現代だからこそ病院で手厚い保護がなされるのかもしれない?

石器時代の平均年齢が35歳だったので、現在は嘗て経験のない高齢という未曽有の困難な体験をしている、といってしまうのも簡単な先入観の誤りがある。
平均年齢は大量の乳児死亡率が押し下げているし、また成人が全員40歳までで死亡するということではない。
やはりいつの時代の社会の中でも高齢者は居たのだし、老化という現象も周知のことだったのだろう。(現代は多量の老人の出現という量的な現象)

「進化」に関しても我々はあらかじめ想定された進化リストの項目にほぼ満点を取り、だからもう進化することはない・・・という人類最強への思い込みの幼児性への指摘は私には当然の認識だが、未だに欧米系人種にはそういうヒエラルキー意識が抜けていないと思える。(ヒト例外論)
この書の邦題タイトルも我々には当然・・という意識があるので目を惹くわけだ。
また、現代社会・文化という人為的だと考えられる外圧自体も「環境」として自然選択の条件になる。
翼の生えた赤ん坊なら神とみなされるのでははなく、社会的例外者として排除されるという文化圧があるのなら、私のように外見は普通でも夜人知れず念力空中浮遊をする擬態を進化させるのだ。・・・

女性の閉経はアロペアレント(自分の子ではない子の育児をする)として存在することが自然選択的に有利に働き、それが閉経という性質の進化にかかわったという仮説もある。
その他、意外と期待していなかった方向への知的散策に誘ってくれた部分散見。


〔読書控〕2019/08/28(水) 06:41

サロモン・マルカ「評伝レヴィナス・生涯と痕跡」斎藤慶典他訳 慶応大学出版会 2016

「エマニュエル・レヴィナスになろうとするならば、リトアニアのカウナス以上に生まれるにふさわしい場所はあるだろうか。」
レヴィナスの評伝であるなら、この文以上に第一章を始めるにふさわしい書き出しがあるだろうか。
著者は私とほぼ同年齢でレヴィナスが校長をしていたパリのユダヤ人学校の生徒になったのが17歳の頃。
後の高名な哲学者になる以前であり、この評伝はそのような業績が世に認識される以前の時間と場所と人物の記憶が浮き彫りされ描かれている。
レヴィナスの哲学の解説書ではありえず、人物の実像を克明なバイオロジーとその人を知る人物へのインタビューから綴っている。例えばジャック・デリダの。

「私の」レヴィナスもそのような哲学以前の思い出から始まっている。
10年前ひと夏を過ごしたフライブルグ大学構内で当地のハイデガーの研究者にレヴィナスの署名のある筆跡を示された時にはかろうじて名前だけは知っていたのだが。
後、レヴィナスがストラスブール大学で哲学を修め、ハイデガーに学びフッサールを学ぶためにフライブルグ大学にも籍を置いたことを知り、ニヤリとしたものだ。
先輩、私もその両大学の後輩なんですよ!

レヴィナスと同様に収監生活を送った後のチェコ大統領バヴェルのその体験を語った文が紹介されている。
『レヴィナスの次のような考え、たとえば<何かが始まらなければならない>とか、<責任が打ち立てる倫理的状況においては、私と相手の関係は非対称的だ>とか、<これは説き伝えることはできず、ただ耐えられるだけだ>といった考えは、あらゆる点で私の経験や私の意見と一致している。言い換えると、私は世界が現にこうであるとことに関して責任を負っているということだ』。
私はレヴィナスの著作を一冊も読んでいないのだが、その哲学の基本的拠り所がその辺りにあると今は認知しておこう。
責任の非対称性・・・あるいは無限責任。
哲学がそこまで人間を生かすのか。

大戦後明らかになったハイデガーの人物の複雑さは弟子であったハンナ・アレントやレヴィナスとの関係に倫理的には割り切れない影を落とす。
そのことに関連したレヴィナスの車中談話。
『レヴィナスは、無ではなく何かがあるということを前にした驚きが形而上学の根本的な出発点である・・・そのようにこれまでの思想家たちが思いなしてきたことこそが、彼にとっては驚きだったといってきたのです。
それから彼は、次のように述べました。彼の眼には、私たちの大地のようにかくも残虐さに満ちた大地の上で、善良さが惹き起こす奇跡のようなものが現れえたということの方が、はるかに驚くに値することだ、と」。

(この項未定・・図書返却期限超過で延滞ペナルティ付き貸し出し不能期間に該当^^)
追記:やっと読了
50台で国家博士号を取得、遅くして大学の哲学教授になり、ようやく今世紀の偉大な哲学者と認知されていく。
「彼はベルグソンと並んで今世紀のブランスでもっとも偉大な哲学者です。・・この二人によって大河の流れがかわることになりました。倫理が哲学の究極の地平だと宣言することで、潮流がひっくり返されたのです。」(マリオン)
「聖書はキリストを収めることができるが、キリストは聖書を収めることはできない」とはレヴィナスがどうしてキリスト教に改宗しないのかを問われてそう応えたという。
トーラ学者としても高名だったが、プロテスタント(リクール)やカソリック(ヨハネ・パウロ二世)の著名人との深い交流もあった。
特にリクールへのインタビューではストラスブール時代から「点、スタカート気味」に知り合っていた二人の高名な哲学者が晩年に至るまで交流を深めていき、微妙なニュアンスの違いがある同時代の思想的立場が透け見えていて興味深い。
リクールの著作も私は読んだことがないのでこの程度の曖昧なことしか言えないのだ(^^;
その他、20世紀の著名な哲学者・文学者による証言や息子(ピアニスト・作曲家ミカエル・レヴィナス1949〜)や孫へのインタビューもあり、20世紀後半をフランスに生きた知識人の家庭生活が窺え、思想とは関係なく読み物としてそれなりに面白く読了。(9/12)


〔読書控〕2019/10/23(水) 00:28

吉川浩満「理不尽な進化」朝日出版社 2014

進化論は面白い。
純粋な化学理論としてではなく、進化論という概念自体が既にある種のイメージを掻き立てる力がある。
しかし、進化論啓蒙書を読んでいると「進化」という言葉があまりにも高位への上昇イメージの含意・Conatationが強過ぎるので、しばらく前から私には人間優位、さらには神へのヒエラルキーという西欧文化の産み出した鼻もちならない差別主義に見えてしまい、それとなく反進化論をぶつくさと一人唱えていたわけだ。
それにしてはネオ・ダーウィニズムとかいいつつ、根強く進化論が再生し相変わらず社会の基本合意のような顔をしつづけている現状が何とも歯がゆい感があった。
そのようなワケで常に進化論解説書・啓蒙書には一応目を通すことにしているのだが、この本は正にその「進化論」の私の抱くような一般的誤解がどうして生じたのかを分析・詳述していて完全に私の歯がゆさの原因や、更になぜ歯がゆいのかという現象自体も解き明かしてくれた。
これで当分私は進化論に関しては安心して目を閉じ、情報を読み漁っては無意味に苛立つ習慣を捨てることができる。
私にはやっと巡り合った「完全な進化論解説書」だった。
著者は進化論専攻の学者ではない。
職業著述業、つまりは素人であるといい、その素人の目で今の進化論を論述するという立場を最初に表明する。
そうか、私が今まで読み漁ってきたのはすべて専門家による啓蒙書・解説書だった。
吉川は専門家が言う「進化論」、さらにはダーウィンの「進化論」には当初から私の言う上向きベクトルは含まれていない、と言う。
つまりは専門家には自明で言うまでもないことだが、素人には「進化する」ということが「進化論」であるとの根強い共通社会通念があり、この一般通念の方の「進化論」を分析し解釈する専門家はいなかったのだ。
そこで著者がこの「進化論」という概念の実態と、その歴史的経緯を詳説する労をとってくれている。
ついでに言えば、この本は私が読んだ進化論啓蒙書の中でもかなり分厚いヤツだ。
しかし、少々羊頭苦肉という部分もある。
始めの方で「現在までに絶滅した生物に着目した進化論」という魅力的な手法を云々し大いに期待を高めさせ、その実、そういった古生物学上の事例はほんの2・3例で終了、だから進化は自分の足跡を消しながら進化するのだというキャッチを例証させただけだった。
出現した生物の99パーセントが「絶滅」し、残りが奇跡的に生き残る。
絶滅した、あるいは生き残った生物に優劣があったわけではない(理不尽な理由)ただ、生き残ったので進化したとと定義されただけ。
厳密にいえば「適者だから生存」したのではなく、「生存したから適者」とするのだ。
このトートロジーとその社会的な合意が専門家以外の一般社会の進化論の理解のすべてだという。
適者生存→弱肉強食→生き残る為の絶えざる進化。
それは現実感のある社会的真実として合意されやすい概念で、「進化論」で科学的に立証されているのだ。・・とか。
『目的論的にしか理解できない事象事実(定的進化)を結果論的に説明する革命的理論(進化論)を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらない』
   
本書の大半はドーキンスを論駁したグールドの主張を細かく分析したグールド論で占められている。
双方とも「進化論」という生命の生き残りの変異を科学的な検証作用の場に乗せたダーウィニズムの土台の上で主張を戦わせる。
ドーキンスの合目的的解釈があまりに恣意的に過ぎるとするグールドはとうとう主流派とはならなかったのだが、著者はそのグールドの主張を分析することで「進化論」の持つ人間的側面、更には哲学的側面を際立たせた。
進化論はこのようにして純粋理論でありながら、絶えず社会意識や倫理、哲学を揺さぶり続けているとする。


〔読書控〕2019/10/29(火) 15:37

学習院大学資料館(編)「辻邦生 永遠のアルカディアへ」中央公論社 2019

辻邦生没後20年に際しての各文学的係累の寄稿のアンソロジー。
巻末には生前に行われていた塩野七生との対談も収められている。
付録の年表を見ていると辻は大正14年生。
つまり、昭和元年で1歳、以降昭和と同じ数字の年齢を重ね、平成12年1999年、73歳で没している。
今更ながら辻がいかにも20世紀の作家だったことを改めて思い出した。
作家としては芥川賞を取ったわけでもなく、ノーベル賞にノミネートされたという話も聞かない。
芥川賞的には一般読書界に過大なインパクトを与えたわけでもなく、大江健三郎のような現代世界に生きることの問題に深くコミットするというような作風でもなかった。
今年もノーベル賞を逸したとマスコミや本人とその取り巻きが大騒ぎしていた村上春樹のこと等をちらと思い浮かべれば、いわば辻はあまりに純文学的過ぎる、というところか。しかし、私にとってはどのような賞を取った作家よりも深く自分の精神の形成に影響を与えられた、私にとっての本物の文学を与えてくれた作家だったのだ。

二宮正之の稿「辻邦生文学の源泉に立つ森在正」を読んでいて、私「も」30台前半にフランスに居を移したとき、森在正「バビロンの流れのほとりにて」一冊を携えて海を渡ったのを思い出した。

私に「フランスへ」の直接の憧れときっかけを与えたのは辻邦生から吹き込まれた青春の息吹とでもいうような新鮮な高揚感だった。
既にどうしようもない現実の私の生活をどうにか支え、この世界にまだ存在すると思えたその憧れの高揚感に賭けるという人生的決断に身をゆだねる力はまぎれもなく辻から得たものだった。
更に言えばトーマスマンへの無条件な憧れも、辻(と北トニオさんか)由来であったのかもしれない。
しかし辻はパリだったのだが、私はストラスブール、というどうしようもない違いは当然あって、当然私は元より辻邦生にはなれないヒトだった。

堀江敏幸の稿「生というものを、このようにつかむこと」から引用する。
『ぼくらはね、だれもが辻邦生になりたかったんですよ、・・・その人はしみじみと言った。』と1970年代にフランス文学を志した若者である「先輩」が述懐する。
・・・
『だれもが辻邦生になりたかった。でも、だれひとり、辻邦生にはなれなかった、とその人は言い添えた。…』

20世紀の・・というよりは「戦後」に青春を向かえたこの国の若者は純粋に文化や芸術に憧れ、その方向に自分を絶えず上昇させていくような心的志向を共有していた。
少なくともそのような気質を共有していた若者たちがある一定数存在していたのだ。
「パリに行く」という当時の若者の心的渇望の幾分かは私にも感知でき、そこで本当の自分の人生が始まるハズだったのだ。
辻は東大仏文→フランス留学→学習院大講師となり、以降大学教師を職業とし、一方で「城」を埴谷雄高の引きで近代文学に発表して作家となる。
薩摩琵琶の演奏家を父とし、やはり地方の有力者の眷属があり、一方でやはり大学仏文教授の娘で、東大・パリ留学組の佐保子と結婚する。
佐保子も後の名古屋大教授でビザンチン美術の権威となる。
名古屋の後藤家の古い邸宅も辻の文学の舞台になっている。
更に辻はどの影像を見てもまごうことなき理知的な美男子である。
そんな絵にかいたような理想の人生が私の生きていた汚辱の毎日のすぐ横に実際にあったのだ。
辻は作家として西欧的知的な抒情の世界から晩年の大部な歴史文学へと作風を深め、新たな文学的境地にも至るわけだが、しかしその根底にある出発点からの方向性は変わらなかった。
やはりそれは文学的、あるいは芸術的高揚を極めようと進んでいくベクトルであると言えるだろう。
このアンソロジーのタイトル「永遠のアルカディアへ」の所以もその辺りか

私は物量と経済が基幹になり、絶えず上昇していこうとする拡大再生産型の世界観を20世紀のエピデミーと断じ、松下幸之助・Hフォード・Cセーガン等へのオマージュを書き「夢の20世紀へのレクイエム」と総称したことがある。
1999年に没した辻は21世紀を知らなかった。
そして私は今、自分がやはり「辻になれなかった」のは私の心的、社会的ポジションが違っていただけではなく、既に私は21世紀に生きてしまっているからなのだ、と一方では思っている。
辻の時代性か?
一方で辻の発見者であり、近代文学の同人でもあった埴谷雄高にはそのような時代性を覚えるということはない。


〔読書控〕2019/11/06(水) 13:16

田中英道「日本国史」育鵬社 2018

令和天皇の即位式の様子を見ていて史的存在としての天皇を再確認したくなった。
私の知識は大化の改新頃に始まっていて、それ以前はよく覚えていない。
以前、梅原猛の法隆寺と聖徳太子の強烈な異説を読んだきりでその方面にはまったく関心がなかったのだ。
この本のサブタイトルは「世界最古の国の新しい物語」となっていて、日本固有が当初から頭にかぶさっている。
この方の日本国の成り立ち論が独自で、アフリカで発生した人類が東へと急速に拡がっていったのは太陽信仰によるとしている。
それによってアジア大陸の東果ての当時は陸続きであった日本の関東東北に古代人が至り、そこに縄文様式の文化が発生したとする。
元来の食料を求めて拡散していったとするマルクシズム一辺倒の歴史観からは気候に恵まれた豊かなアフリカを出奔する理由が説明できないのだ、と。
そして東北に日高見国と称する古代国家が成立していたのだ、とするのが著者の独自の主張である。
以降、寒冷化により近畿・九州へと人口が移動していく。
この間の例証として鹿島→鹿児島、東(あずま)→薩摩、と言うような古代の記憶が地名に残っているという。
熊本の熊や鹿児島の鹿も関東・東北由来であるとか。
ふーん、なるほどね。
神武天皇は実在し、2,3世紀の関東の大規模古墳がその証拠であるらしい。
そのあたりで大陸方面から弥生人が渡来してき、やがてそちらが勝利して大和政権に・・・
やがて、征夷大将軍に東北の蝦夷を撃たせ、鹿児島の隼人を制圧するころには縄文日本人は単なる蛮人とみなされ、東北由来である先祖の記憶は断絶する、とか。
大和政権の成立は日本書紀の記述通りで、魏書倭人伝の邪馬台国や卑弥呼の記述はまったく別の未知の地方の伝聞で日本に関しての史的事実は一切根拠がないとする。
後は壬申の乱や曽我氏の滅亡等、天皇家のすこし危ない権力闘争にも触れているが、要するにかくて「万系一世」の系統は現在まで連綿と続いているのである、とする。
「平安時代の天皇と摂関家による400年の安定した政治と社会は徳川時代よりも長い」・・・それはそうなかも。
しかし、天皇は既に政治の実権がなくなり神道の祭司・仏教の保護者・京都宮廷文化の家元風の権威として残っていたのだ。
現在の天皇制がその権威を法的に定めまでしているのはやはり私には解せない事態と感じる。
そのような家系の存在、あるいは捏造してまで存続させていくという世襲権威を法で定めることの不条理感は私的にはとうてい払拭できない。
オマエの先祖はクソみたいな家だったのでオマエもずっとクソ、と私の出自と私自身の現在を法律で規定するようなことでは民主のタテマエの欺瞞もはなはだしい。
著者は一貫して日本という国の独自性や世界史的希少性をいうのだが、それはあくまで現在も続く既存の支配階層が望む国家感で、私のような出自のよーわからんモンの下から目線で見ても「なるほど、日本人はエラいんだ」と納得させ得るほどのグローバルな理解にはなりえない。
そのような歴史観は、あくまでこの伝統ある日本が存続することで自らも安泰するような社会の場所にお住まいの方のローカルな感覚でしょう。
独自だからエライ、世界最古だからいい、聖徳太子が偉大だから、他にはないのですごい、とか。そのような素朴な価値観は個人的でかなり限定された見方だとせざるを得ない。
血統の純一は博物館的な興味以外、一体何を保証しているというのだろうか?
そこまでして歴史的な血統を保持しようとするのはそこにどのような種類の権威を期待しているのか。
貴種への憧れが心理的精神的宗教的権威を形成するのか。
しかし一方で、こうも思うのだ。
これだけの支持者があり資力や潜在的資金リソース(ブランド力)も希少豊穣な現在の天皇家は法律で一切規定されない一私人となればもっと格段に自由で広範囲な社会活動が可能だ。
そうなると必ず経済的政治的に利用する会派が暗躍し、とてつもなく強大な利権行使政治勢力に成り得るだろう。
同様に万系一世の血統の純度を権威継承の唯一の条件としなければ、権威継承の争いが国家的権力抗争に至ることにもなるだろう。この血統による権威継承制は世界的に無益な抗争を避ける有効な手段としてほぼグローバルに採用されている。
だから現在の法定天皇制は現行の社会状況からはギリギリの妥協の産物かとも思う。つまりは第二次大戦後戦勝進駐権力が天皇制の廃止を不能とした社会状況は現在でも継続しているのだ。
天皇制のおかげで私が得たものといえば、ウチには一切お知らせがなかったこの前のよくわからん突然の休日だけ。それもヨメが喜んだだけで私には雨で関係なかったのだ。


〔読書控〕2019/11/14(木) 23:23

佐々木譲「警官の血 上・下」新潮社 2007

最近またスランプ気味。
まだ鬱にまでは行ってないようだが、自尊心が自虐とつるんでアブないカフカごっこで遊んでいる。
いや、ヨメと旅行したのは意外にも老後人生の楽しみ風には作用し、しばらくはそのネタを仕事にして時間が過ぎてくれたのだが。
もうそろそろ、その後のことを企画立案しなければまた鬱に追いつかれてしまう。
と言うワケで佐々木譲の警官モノを読んだ。
読んでいる時は物語に連れ込まれ、別の場所で別の人生を生きる楽しみが続いた。
警察官という私には無縁の職業選択肢のいくらかは誇張された三代にわたる年代記風の物語。
明治の警察創成期、昭和の学生闘争たけなわの時代、経済・金融犯罪全盛の現在、そのような時代を背景にした幾分アンチヒロー的な要素のある主人公たちの像。
警官二代目の父が私と同じ年齢に設定されていて、連合赤軍派事件に絡む経緯はかなりの臨場感で当時を思い出させてくれた。
全体はエンターティンメンとして大きな初代・祖父の死への疑惑解明が太線で最後まで引っ張っていくのだが、背景としての社会や時代がかなりリアルに創りこまれていて、ソチラのドキュメンタリー風の興味からの吸引力がかなり強い。
今の私を忘れさせてくれるくらいの物語力はあった。
主人公の幾分かのアンチヒロー性も笑うしかないウソくささの安直テレビドラマ風刑事物とは一線を画している。とはいえ、それはそれでかなりウソくそいのだが(^^;


〔読書控〕2019/11/25(月) 10:12

佐藤健志・藤井聡「対論『炎上』日本のメカニズム」文春新書 2017

「炎上」を構成する心理、社会状況、その起承転結(メカニズム)を分析し論理つける。炎上はネット用語として最近の社会情勢の産物と捉えていたが、この両論客は炎上の構造自体は人間社会に固有の現象として史的にも地理的にもグローバルに存在していることを論述。
特に佐藤はアヌイの史劇「アンチゴーネ」を引き、人間心理に古今東西共通する非論理的カタルシスに殉ずる傾向を詳述。
当初、少々キワモノ的現象としての「炎上」をこのレベルまでアカデミック(^^;な視点から論じていく、きわめて冷静で客観的な論述に感嘆、とうとう「炎上」も社会・政治学上の歴然たるタームとして認知されるようになったのかと密かに安堵したのだが。
「安堵」?
確かに私は「炎上」が自分の個人史上の大きなイベントであり、私の世界観にかなりの影響を与えられた実体験があり、自分でも「炎上学」を試み、ソレを記述してしまわなければ私の炎上体験は終了しない、という思いがあったのだ。
しかし、この論者達がこのレベルまで炎上を社会学哲学的な俎上にあげ、私にも論理的違和なく詳しく論考していることを見、「じゃあ、私が自分でヤルことは別にないな」とか当初思えたのだ。
しかし、この論者達の炎上は私の「炎上論」とはどこか違う。
あまりに学者的過ぎ、グローバル化しすぎていると思えてくるのだ。
もちろん「炎上」は古今東西に普遍的に見られる大衆・衆愚・極右極左ポピュラリズム云々という社会政治現象や手法の一種として分類できる現象だろう。
しかしそのように普遍化しそのように歴史的な文脈に放り込んでしまっては今・ここ・で行われている生身の、個人の生々しい実体験の本質が薄められ、意味が拡散しいたずらに普遍化されていっていくような、奇妙なズレを感じる。
論者達は「社会にとって炎上とは何か」を論じ、悪しき炎上を社会はどのように回避できるのかを試みようとするのだが、私は「私にとって炎上とは何か」という全く個人的な心理劇に「私の炎上」の本質があると感じている。
もちろん、藤井は個人としての炎上劇も体験しているのだが、その経緯はやはり学者的なあるいは職業上の論争体験に近い。
私の炎上はそうではない。
それは決して社会現象として一般化できない、かけがえのない個人の深層の存在論的で絶対的な疑念だった。
学者は相対化し抽象化し一般化して炎上を記述するのだが、私は個人独自の存在の奥に「炎上」が食い込み自分の人間としての存在を絶対的に脅かす、その得体のしれない人間存在の危うさの認知が「炎上」が論じられるべき真の本質だと思っている。


〔読書控〕2019/11/29(金) 06:00

中山七里「悪徳の輪舞曲」講談社 2018

この作家を最初に読んで感嘆したピカレスク系弁護士小説、御子柴礼司モノの新作。
私はやはり昨今の大衆偽善社会化が気になっていて、ネット上の炎上から大阪市営自転車置き場の「優先」区画まで現在日本のお気楽な大衆参加型社会正義行使ブームを真正面から物陰に隠れて揶揄する大論「無自覚な偽善大国日本」(仮称)を準備しているのだが、これを正面から論じようとすると見え隠れする真の敵をなかなか捕捉しづらい。
もともとこういうのはアカデミックな論考には馴染まず、正面切って戦おうとすると敵は案外自分だったりしてどうしても(^^;マークで逃げてだしてしまいそうになるのだ。
中山七里はこの捕捉しづらい正義の誤謬・悪徳の矜持、つまりは「みんなニコニコ美しい偽善の社会」を出発点から共有していない主人公を設定、そのような公的・私的な公序良俗を歯牙にもかけない冷徹なヒーローにしたて、「無自覚な大衆偽善」を同意もせず、怒りもせず淡々と論破していく本格ピカレスク小説を創造している。
あ、やっぱり、そーゆーのって、正面から論述するんじゃなく、小説の形で物陰に隠れて揶揄するのが頭のいいヒトのやることだなぁ。
特にこの主人公が法では癒されない被害者の痛みを隣人が言う時、直ちに加害者側の法的に決着のつかない苦しみを対置し、無自覚な大衆に裁判員裁判として裁かれることの理不尽な恐怖を当然のことと前提し、人は決して自分が殺人犯として裁かれる立場になるということを想定しない、という時、やはり人を殺したことのない者にはわからない世界を知っているな、という仲間意識を抱いてしまったりする。
すべからく自分が罪の子であるという自覚を持てとはアウグスチヌス師が根本教義として前提していることなんだがなぁ。
しかも作家本人はあくまでエンターティンメントとしての味付にこの「本当の敵」をちら出しているだけで、他の愚にも付かない軽いクラシック音楽タイトルこじつけ小説も量産し、こんなモンほんの大衆娯楽に供する味付けなんで、別にソレが隠れたテーマでございますよ、ちゅうことはございませんよ、というようなスタンスへのカモフラージュに見せさえしているのだ。
ま、そういうことで、本当に真の敵と真っ向から戦おうとするのは、どうしても自分の内なる敵にも相対せざるを得なくなってしまうという面妖なことなのだ。
だから私もやはり存在論哲学に踏み込む愚を犯さず、陰に隠れてちらりとウチのブログあたりのネタにしとくくらいでお茶を濁すのが得策かな、という矜持なき勇気を与えてくれる真のエンターティンメントであるワケだ。
でも、私的に言わせていただければこのアンチヒーロー「も人の子」的な、安直な大衆小説風のプロットが出てくるサービス過剰が少々鼻に付く。
それはそれで作家のよく計算された営業戦略ではあるのだが。


〔読書控〕2019/12/06(金) 18:41

中村文則「私の消滅」文芸春秋 2016

世界と悪意で繋がるしかない自分がいる。
それは自分が選んだわけではなく、そのようにしなければ自分が生きていけなかったのだ
しかし、それはそのような理屈を胚胎しそうしたのではなく、成長期にそのように自分を形成することが世界から必然と強いられていたのだ。
作家は宮崎勤が小鳥を殺して埋め、掘り出して泣いたという裁判記録を読み、一体この世とは何なのだろうか?という感慨を持ったとあとがきで書く。
一般に多重人格や解離性同一性障害を引き起こす原因は自己形成期の耐えがたい精神的苦痛、虐待や性暴力等の自分の人格内の苦痛を回避するための必然的自己救済手段であるようなのだ。
作家は記憶精神分析や深層心理の手法で個人のトラウマを修復する技術を演繹し、積極的に個人の人格を全く他人のものに同定させようとするマッドサイエンティストを主人公に立てる。
そして自分の深い遺恨の根源にある個人を殺させ、その人格からの帰結としての自殺を遂げさせる。
私はこの方面に詳しいわけではないのだが、現在喧伝されている精神分析学上の術語やニュースとして現れる普通でない人の事件、そして自分自身への密かな懐疑を俎上に乗せるとき、この作家が述べる「私の消滅」もこの世界に、あるいはこの世界の密かな裏側に実在するという実感を持たざるを得ない。
文体と語り手が非常に錯綜とし、恣意的に作り上げられた人格が自分と言う時、一体それは誰なのか、という物語上の懐疑が強いては今ここに居ると思われる自分とは誰なのか、この自分が見ている世界とは一体何なのかという絶対不条理な読者自身への懐疑にも誘われる。
小説としては殺人事件が描かれ、一応のミステリの体裁をとっているがもちろん作家はエンターティンメント作成の手法としてこのテーマを使っているのではない。
物語を構成していくことで根源的なこの世界への不条理感を描き出している。
ドストエフスキーもカフカもやはり物語ることでしか自分の世界を語ることができなかった。
この世界は、というか、私に見える世界はたぶん寓意でしか表わしようもないものなんだろう。
決して面白い小説ではないのだが、提起する世界観は抗いようもない深いところに語りかけようとする。あぶない本だな。
今までこの作家は読んでいないのだが、気になって調べてみると独自の世界観を描き、すでに世界的にも定評のある作家で芥川賞も得ている。
この一つ前に読んだ中山七里のピカレスク小説で描かれている世界観は直木賞モノだとすると、この作家の作風ではソッチはまったく無理、やはり芥川賞しかないよな、とか(^^;

「この世界は時に残酷ですが、共に生きましょう。」(あとがきの結び)


〔読書控〕2019/12/16(月) 10:39

中村文則「土の中の子供」新潮社 2005

急いでこの作家の芥川賞受賞作を読んだ。
してみるとかなり前の作品だが私は知らなかった。
当時私は・・・というか今もエンターティンメントとして「どこでもいい、この世以外なら」というような場所へと飛翔させてくれるような仕掛けとしか読書をあてにしていなかった。
特にこの5年前くらいからこの世界への絶対的な心的断絶感が顕在化し、今生きている生身の世界から一筋でも本当の声が聞こえてくることなぞ、思いもしなかった。
世界よ、私にかまわないでくれ。
世界よ、私にかわまず勝手にやっておれ・・・と。
だから、もし当時この作品を手に取ったとしても読めはしないし、読む意欲もなかったのだ。
だから私にはこの作家は見えていなかった。
しかし、まだこの滑稽で悲惨な欺瞞の世界の底から、本当の声が漏れ聞こえてくることもあるようなのだ。
わずか数作を読んだだけなのだが、中村は最初からこの世界の一番外側のぎりぎりの位置でかろうじて存在していた、「土の中に埋めもどされた子供」だったようだ。
その位置からはこの圧倒的にバカげた日常世界とのコミュニケーションが成立するはずもないのに、どういうわけか中村はこの世界にまで到達してくる声を得たようなのだ。
「あとがき」から引用する。
『僕にとって小説はかけがえのないものであり続け、また、生きるかてであり続けた。こうやって自分で書くようになっても、それは少しもかわることがない。』

私は書かなくとも、自分を欺瞞し、自嘲し、苦り切ってでもまだ生きてはいける位置に居る。
書き続けることでこの世界に自分が居る場所をかろうじて保持し続けていく、中村はそのような稀有な作家である。

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