[読書控 2020 index]

〔読書控〕2020/01/08(水) 13:49

佐藤優「悪の正体」 朝日新書 2017

同志社大の神学部を経て外務省ロシア担当。エリチンの側近や鈴木宗男と親しい。
鈴木宗男事件に連座し逮捕投獄経験等異色の経歴を持つ作家。
マスコミに登場していた姿を見かけたこともある。
それなりの期待を持って読んだのだが、結論的にいうとあまり私の「悪の意識」には抵触しなかった。
政治や神学上の悪に力点があるようで、自分への悪の意識の根源には踏み込んでいない。
それどころか神学的には自意識自体が悪の根源というアウグスチヌスの論に還元されてしまう。
「人間とは元より悪なのだ」というグローバルなところにポッカり出てしまうと、個人の内部の罪の意識の葛藤は無意味でまったく個人ローカルな虚妄ということになる。
「ああ、良かった。私の所為ではないし、そんなこと神にしかわからんのだ。」と宗教的安堵に霧散解消し、無条件に神によって救われてしまう。
信仰するということはそれなりに厳しいことだとは思うのだが、私はあくまで私個人で私の悪を担わねばならない個の意識を持った現代人であるし、神が何と言おうと「自分とは善に他ならぬ。」と前提し、我善をどこまでも推し進めるのが現在のグローバルな価値観である。
と私が自分で定義した故に翻って必然的に私は悪に他ならぬと演繹され、結果その世界の悪意が私を存在せしめている。
神が何と言おうと現に私はつらい。
私は自分の悪を担いたいわけでは毛頭ない。
しかし、どうしても私と世界は悪で繋がり、互いの悪を認識しあうことで、つまり相互の悪意によってお互いが区別され存在せしめられている。
創めに悪意ありき。

まったく、この書の内容とは関係のない言葉で遊んでしまったのだが少なくともそのような悪意を抽出し視覚化させるヒントくらいはこの書から検出できたか?

ここ10年ばかり偽善強要社会に悩まされ、いろいろな偽善の諸相を目撃し理解することが私の理性の主たるフィールドだった。
しかし今、それはもはや偽善ではなく、端的に悪そのものが問題になった。
世界のグローバルな悪と私の個人内部に巣くう得体のしれない悪、あるいはその悪の発現の苦痛が私という存在の本質なのか。

悪意あり。
故我存在す。


〔読書控〕2020/02/22(土) 22:10

アントニオ・ダマシオ「進化の意外な順序」高橋洋訳 白揚社 2019

副題:感情、意識、創造性と文化の起源
いままであまり考察されることのなかった進化における「感情」の発達に焦点をしぼった斬新な研究。
訳文が読みにくい。内容の把握に問題はないのだが日本語が少々ごつごつして昔の翻訳口調を思い出す。しかし内容の吸引力に飲まれて読んでいるうちに気にならなくなる程度。
かなり斬新な研究でいろいろ刺激を受けるのだが、最近あまり集中して読書することができず、読み通すのに一ヶ月以上。
今、やっと全体の読後ノートを記入する時になったのだが、もう内容をすっかり忘れている、というハメに(^^;
しかし読書記録は残しておかねばならない。

細胞レベルに発生する感情の原型・・・ホメオスタシス、自己であり続ける意思とそれに反するものへの反発・・・そのあたりから論は始まるのだが、単に生物進化の研究にはとどまらず、生命自体や我々の社会システム(拡大されたホメオスタシス)への考察にも論は波及していく。
しかし、やはり今はうまく纏めてしまえない・・読書ノートにまとめるのはあきらめて、私が付箋を貼った箇所をそのままコピーしておいて自分のレファレンスとしておく。
しかし、これだけは書いておかねばなるまい。 通読中、やはりこの邦題を無意識にも冠するという立場には単細胞生物からホモ・サピエンスに至る「直線的な進化」という抜きがたいドグマが暗黙裡に存在しているのだ。 作者の刺激的な論考に瞠目させられつつも私の内に暗然と湧いてくる異議。
微生物にもそれなりの「高級な」感情の原型が備わっていたのだ、と一見謙虚な姿勢と見まがうのだが、それって偶然の成り上がりが鼻高々に吹聴する逆転した後付けの成功譚からの無意識な上から目線じゃないか、と。
-----
「ホメオスタシスのプロセスが単に安定状態を志向するだけではない・・あとつけで考えると、それはあたかも、単細胞生物や多細胞生物が、繁栄につながる特定の安定状態を目指しているかのように思われる。これは、その生物の未来を志向する自然な上向き調節、言い換えると最適化された生命の調節と、子孫を残す可能性によって自己を未来に託す傾向だと言える。生物は、いわば自身の健康とさらにそれ以上を欲するのである。」
「生理作用はサーモスタットのように既存の設定値に従うことがまれである・・・
それどころか、調節プロセスには、完全に近い段階からほど遠い段階に至る連続的なステップが存在する。このプロセスは一般に感情として経験されるものに対応し、これら二つの事象は密接に関連している。
感情は、自分の健康状態について一瞬一瞬私たちに知らせてくれる。」
ごつごつした日本語だが言わんとしていることはわかる。

神経系が神経回路に配置された神経細胞の活動を用いて、空間内で生じた事象の輪郭を表すマップを描く。
Xの形をした物体のマップを生成生成するとき、脳は適切な位置と角度で交差する二本の直線に沿って配置されたニューロンを活性化させる。その結果、Xの形をした物体の神経マップができあがる。

イメージの生成。
イメージを形成する能力は、生物が周囲の世界を表象する道を開いた。
また、それど同様に自己の内部の世界を表象することを可能にした。

マッピング・シンボル・イメージ

厳密にいえば、言葉というトラックを走る乗り物として働くイメージは、翻訳対象のもとのイメージと並走する。   (何が「厳密」? 誤訳くさいが)
多言語環境で育った人にとっては並行して走る複数の言語トラックを旅するわけだが、複数の言語が交錯して混合したり合致したりするのは愉快でもあれば、腹立たしくもあるからだ。

同じストーリー展開、主人公、場所、できごと、結末が、さまざまな解釈を産み、語られ方によって異なる意味を生む場合がある。・・・
そして嬉々として、過去のけいけんや自分の好悪に基づく偏見でそのナラティブを色づける。
自分の好みや先入観を抑制する努力をしない限り、私たちが紡ぐナラティブに公正さや中立性を確保することはできない。

そして現在の思考、新たなイメージ、早期された古いイマージがゴタ混ぜになったシチューのような想像のプロセス自体も、確実に記憶に刻まれる。こうして創造的なプロセスは将来の利用のために記録され、再び戻ってきては、その瞬間の喜びを過去のっ幸福で補ったり、最愛の人を失った苦悩を深めたりする。・・・・

実のところ過去と未来の記憶のたえざる早期は、現在の状況の意味を直感し、自分が生きていくうえで、直近の未来やかなり先の未来において、なにがおこるかを予測することを可能にする。
私たちは自己の生の一部を、現在ではなく、予期される未来において生きているともいえよう。これは、つねに現在の瞬間を超えて自己を未来に託し、次に何が来るのかを検索しているホメオスタシスの本質のもう一つのあらわれだともみなせる。」

要するに、感情とは、生体内で生じている生命活動の状態の、特定の側面を経験することなのだ。

進化が進み、神経系を備えた生物が非神経的なできごとをマッピングするようになると、この複雑な反応の構成要素のイメージ化が可能になる。「痛みを感じる」と私たちが呼ぶ心的な経験は、この多次元的なイメージに基づいている。

感情は従来の意味での身体状態の知覚とは異なる。そこでは主体/客体、知覚者/知覚対象という二元性は解消する。この局面のプロセスに関して言えば、そこには二元性ではなく統合性が存在する。感情は、この統合性の心的側面なのだ。

この脳内の映画の進行に沿って、数々のシンボルが流れている。そのなかには物体や行動を言葉や文に翻訳する言語トラックを構成するものもある。
言語トラックの存在は、人間の例外主義を少しばかり正当化する、現在でも疑う余地のない証拠の一つとみなせよう。人間以外の動物は・・・イメージを言葉に翻訳したりはしない。
言語トラックは・・主たるまとめの役を演じている。
私たちはとめどなく自分や他人にストーリーを語って聞かせるのだ。・・・さらには・・まったく新たな意味を作りだしさえする。

新たなメディアの目覚ましい発達のおかげで・・・自分が暮らす社会の状況についてかつてないほど詳細に知る機会を持てるようになった。
疑いもなく、この状況は私たちに利益をもたらす。その反面、人々は一般に、大量の情報から意味のある実用的な結論を引き出すのに必要な時間や手段を欠いている。
情報の流れは、企業独自のアルゴリズムに導かれ・・使い続けさせるためにユーザーの嗜好や見解に合うようバイアスのかかった情報が提供されているのだ。

新たなコミュニケーションの世界は、ものごとを批判的に考えるよう訓練を積み、歴史に関する知識が豊富な市民に恩恵を与える。しかし、娯楽や商業の世界に絡めとられた市民についてはどうだろう?
おもに短期的な自己利益の追求が、問題に対する最善のソリューションだとみなす世界で教育を受けてきた。彼らは責めらるべきなのか?
多くの人々が、公共的なものであれ私的なものであれ情報を瞬時に、そして大量に手にできるようになった今日、逆説的なことに、その恩恵に寄って得られた情報を吟味するのに必要な時間が取れなくなっている。
かつてないほど大量の情報を手にしていながら、それを評価し解釈するための時間と手段を持たない大多数の一般市民の力と、情報をコントロールし、そのような一般市民の動向に関して知るべきことをすべて知っている企業や政府の力のあいだに生じた緊張が、今日ますます高まりつつある。


基本的なホメオスタシスの生理学的な根拠と第一の目標は、固体内の生命活動の維持にある。その範囲は、努力することで家族や小集団に拡張することができる。
しかし各個体に見いだされるホメオスタシスは、大集団、とりわけ均質でない集団に対して、ましてや文化や文明の全体に対して自発的な関心を持つわけではない。したがって、大規模かつ均質的でない人間の集団に自発的なホメオスタシスの調和を期待するのは、そのそも起こりそうもないことを期待するに等しい。
残念ながら、「社会」「文化」「文明」は、単一の巨大な生物であるかの如く見なされることが多い。・・たとえとしてはそのとおりだが、現実にはそうであることはめったにない。

とりわけグローバリゼーションの時代に突入し、異文化間の接触が頻繁になった現在においては、多様性は集団内や集団間の亀裂を深め、敵意を助長し、政治的ガバナンスによる解決策の考案や実施を困難にする。
文化の均質化を強制的に推し進めても、この問題の解決策にはなりそうにはない。
そもそも実現不可能であり、望ましくもない。
この問題に対する唯一妥当で実現可能と思われる解決策は、大小さまざまな差異を抱えながらも、教育という手段を通じて、政治的ガバナンスの根本的な要件をめぐって協調しあえる社会を築こうとする、文明的な一大努力を重ねることであろう。

協調的な戦略は、賢明で成熟した心の出現を待つ必要はなかった。
それを示しているのが大きな既存の細菌と、それにとって代わろうとする押しの強い新興の細菌という二種の細菌のあいだで取り交わされた便宜的な密約である。
細胞核を持つ生物や、ミトコンドリアのような複雑な細胞小器官はこのような方法で取引しながら誕生したと考えられる。
もちろんいずれの細菌も、思考する能力など持っていない。
この問題の方程式は、プロセス自体の内部から盲目的にボトムアップで説かれ、結果的に両陣営に恩恵がもたらされる選択肢となったのだ。
この意外な出現順序は、ホメオスタシスの底知れぬ力を明らかにする。
生物は意図せずして、生命を維持し繁栄するための、少なくとも妥当な、たいていはすぐれたソリューションを手に入れる。

大脳皮質・視覚プロセスに焦点を置いている見方、しかしこのような広く流布した見方は、あらゆる点で間違っている。感情や主観性がしょうじるかどうかは、それに先立った、中央処理装置を持つ神経系が出現するかどうかに依存するとかんがえられるが、その仕事をするのが大脳皮質でなければならないといういかなる理由もない。
さらにいえば、感情と主観性の出現は最近の・ましてや人間だけに見られるものではない。あらゆる脊椎動物が、種々の感情の意識的な経験者である可能性があるばかりでなく、・・・中央神経系の設計が人間のものに類似するいくつかの無脊椎動物にもそれはアテはまる。社会性昆虫や、タコもその資格を持っているのではないかと考えられる。


訳者あとがき・・
ジョナサン・ハイト「社会はなぜ左と右にわかれるのか」より
「リベラリズムが保守主義に勝つためには、進化の意外な順序を正しく把握し、それにそくした戦略をたてなければならない。現実的な政治においては、進化の前段階で起こったほかのすべての事象を軽視もしくは無視して特定の理想や理念に固執するなら、リベラリズムは負け続けざるを得ない。なぜなら政治の対象であり参加者でもある多くの人々、つまり以外な順序で生じた進化のプロセスを経て誕生した人類の一員たる一般国民は、良しあしは別として、リベラリストが想定しているような理想や理念に従うことで自らの生を営んでいるわけではないからである」


〔読書控〕2020/03/27(金) 16:42

鷲田清一「老いの空白」岩波現代文庫 2015

文庫版は比較的最近の出版だが、原著は2003年初出らしい。
鷲田は私と同世代の哲学者だが、60前から「老い」を論じていたようだ。
確かに「老い」は哲学の論題ではあり得なかった。
老いは自然に公平にやってくるものでこの上なく自明で明快な事象だった。
今「老い」が論じられるのは今の我々の社会が「老い」を問題として標的するからだろう。
鷲田は現代社会の「老い」や「身体障害」を解決すべき負の課題として問題視する風潮に対し、新しい「老い」の視点を提唱し考察する。
豊富な事例、特に「ぺテルの家」の稀有な実践例を引き、現在の「老人問題」がいかに現在の能力・能率主義だけに立脚した偏狭なものかを論証していく。
それはまさにその通りで、現在の政治・社会が基本的な価値の源泉である生産主義を別の価値感でおきかえないと、群馬やまゆり園事件犯人の植松某こそが究極の回答を与えていると言わざるを得ないだろう。
「命は尊いもの」という一言だけで身障者・ひいては老人の殺害を罪とするような単純な理論構造では植松の思想自体を否定する確実な論拠には成り得ない。

いま世間では新型コロナウィルスでパンデミック騒ぎになっている。
この中でまったく科学的な根拠がないマスクと、それに起因するトイレットペーパーの枯渇が現代社会の情報過多の悪しき帰結を物語っている。
コロナよりなにより情報自体が悪性ウィルス化して蔓延しているのだ。
そしてこのグローバル世界にもうこの情報ウィルス拡散から無縁でいられる場所はない。誰かが「トイレットペーパー不足」を発信すればそれがたちまち拡散しつくしてしまう。あるゲーム理論研究者の発言によれば、ここで科学的根拠がないとしてトイレットペーパーを買い出しに行かなかった者は、結局必要になった時にはもうどこにもトイレットペーパーがないという事態に直面してしまう。
つまり正しいから有利なのではなく、誤っていても社会の大勢に沿って行動するものが有利なのだ。

この意味で功利的有効性から見れば老人や障碍者等の「弱者」を別の次元から意味存在させる試みは常に不毛と言わざるを得ない。
自分の「老い」を意識した時点から自らが別の意味存在に入っていくことはできるが、圧倒的他者が私の新しい意味を共有してくれることはない。
自らが若くて力を持つ者、あるいはそちらのベクトルを良しとする圧倒的多数他者をの確たる存在理由をどのようにしてニュートライズさせ得るのか。
自らの「老人性」への自己肯定への提言ではあり得ても、この世界の根幹を変え、消滅に限りなく近い弱者が強者でもあるという生の通念が変換することはない。
これは哲学の現在の致命的な卑小さではないだろうか。
哲学は自己を変革できるかもしれないが、世界は世界は平気でそれを飲み込み、常に変わることはない。
果たして我々の現代に知的な変革を自分の責務として果たせるだけの知性が社会の大勢を占めるか、または世論を主導しうる可能性がわずかでもあるのだろうか。


------以下、鷲田の視点覚書----※は私のコメント(^^)
ケア・サービスという関係には、サービスの受け手はそこから降りられないが、与え手は下りられるという非対称性があり、そこにサービスが権力関係へと転化してしまう契機がある。
そもそも介護を受けるということは、それ自体が本来他者に秘匿してきた自らの身体のケアを、否応なく他者にゆだねるということをむくむ。言い換えると、自己の身体を無防備にさらけ出さざるを得ないということ、そういう徹底した受動性にすでに、他者からの浸食をうけるという「暴力性」が織り込まれている。

祖父が自分の人生に納得していたのかどうか、わたしは知らない。が、そこには祖父の場所というのがたしかにあった。
・・・そういえば、「居場所」というものに、この時代、老人だけではなく若者もまた渇いている。

<わたし>は、<わたし>でないものでないもの、つまり他者の他者以外のだれでもありえないのだ。
<わたし>が<わたしたち>の単位なのではない。<わたしたち>が<わたし>の母体となっているのである。

<生>とはひとつの閉塞であり、ありえたかもしれない別の可能性を閉鎖することでる。<生>がもし解放をこそこととするのだとすれば、疲れているとき、そして何にもなりきれないときこそ、ひとはより厚く生きているということになる。

社会の意味の体系に憑かれることからの脱落として<老い>を考えられないか。その脱落が人を、わたしたちが通常考えている覚醒とはことなるもうひとつ別の覚醒をもたらすというふうに、「耄碌」というあり方での覚醒というものがあるのではないか。

学校を卒業して会社に入ってもやはり最後まで、「階段」を上らねばならず、つねに「成績」が問題とされ、ついに「窓際」においやられるまでほとんど学校のようなものとなった。いわゆる学校化社会である。そのなかでひとは、いつも途上にある者として、生涯じぶんをまるで通貨儀礼中の存在であるかのように感じるという、奇妙な社会である。

わたしたちはよりよい未来に向けていま前進しつつあるのだという歴史感覚の根っこのところで、こうしたプロスペクティブな時間意識がつねにはたらいていた。

<老い>の経験はかならずしも人生の回想、これまでの人生のまとまった物語というかたちをとるものではない。そういうまとめ---連続的な時間系列の一つの平板な見方、つまりは時間の権力の側に立ったった見方である。
それよりもむしろ、<老い>のなかでひとは、そのように解釈された時間の物語の<外>に出る可能性に思わずふれる。子どもとともに、「大人」のコスモロジーの外に出たり入ったりする可能性、夢とうつつのあわいを漂うという可能性に触れるのだ。

が、そもそも、なぜ未熟を生の奥深くまで孕んでいることが重要なのか。一見むだとか、夢想とか、非合理だとか、非現実だとかみえるものは、「この世界」の欄外に放逐される。が、「この世界」がその構造の硬直によって破綻しかけているときに、その構造交換のエネルギーとチエを供出しうるのは、こうした「この世界」の外部への感受性である。

<老い>が「深まっていくというよりも、削ぎおとしていって、しだいに軽くなる状態だと考えれば、何かを産み出すのではなく、「ただいる」ということだけでひとの存在には意味があるのではないかという問い、それが<老い>の理解のなかでは賭けられているということになる。

価値というのは意味とも違う。<老い>、その存在に意味があるというのは、もちろん(何かの目的にそった)意味がないこよりはよいことであるーーー「主体的」に生きることのできるような<老い>が保証されていること。がしかし、その存在に意味がなくても価値があるというところに、<老い>の問題は賭けられている。

田中美知太郎によるディオゲネスへの揶揄
「それは一枚の衣と一個のずた袋である、、なおこれに一本の杖や酒樽の家が加わるであろう、これは僅かなものではあるが、けっして単純なものではない。彼の衣は誰が作ったのであろうか。彼はこれをどこから得たのであろうか、ずだ袋とておなじことである。またその中には、主として食料が入れてあったと思われるのであるが、それは何処から得られ何人がこれをつくったのであろうか。酒樽にいたっては、私たちはその背後に、ぶどう酒の醸造や冬季の製造を考え、さらにまたアテナイの会場貿易まで想像しなければならない・・・」
※私の上記、哲学への揶揄の論調に近いなぁ(^^)

パルカルの引用
「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧政的だ。だから、正しいものが強いか、強いものが正しくなければならないのだが、現実にはいずれも不可能であった。そこで、ひとは強いものを正しいとしたのだ」
※これも論理的正しさということの意味をよく表わしてるよ(^^)

ぺてるの家世話人
精神障害ということで病院のカルテのある人がちよりも、カルテのない人たちの悩みの方が深刻ということさえ起こってきたんですね。・・
精神障害という病気を通して教えてくれている・・
あの人たちは嘘をいったりとか無理をしたりとか、人と競ったりとか、自分以外のものになろうとしたときに、病気というスイッチがちゃんとはいる人たちだよね。・・・
※どこまでいってもスイッチの入らない強い人達が社会の大勢(^^)

レヴィナスによって撥ね付けられるのは、包摂や総合といった<同化>の操作である。要するに、<同>のうちで複数の主体をおりあわせることの不可能生、つまりは存在どうしの根本的な異質性に定位した思考を迫られているのである。
※このようなダイナミックな思考法にたえられる人が主となって構成する社会なんてあったためしはない(^^)

結語に近く
ここに掲げられているものは大きい。これまでの言い方を踏襲すれば、<強さ>から<弱さ>へと社会構成の軸を移しかえる、その実験を意味するのだから。
生産性とか効率性、有用生とか合理性を軸として構成されてきた社会をいわば別の軸をとって書き換えるという課題が、ここにつきつけられているからだ。
※つきつけられているのは哲学者であって社会ではない(^^)

※エピローグの中で語られる「絶対的無為の中にただ生きている老人の永遠の時間の美しさ」のような情景、ここで初めて鷲田はロゴスではなくパトスであり得べき老いを語った印象がある(^^)


〔読書控〕2020/03/30(月) 11:47

中村文則「悪意の手記」新潮社 2005

15才に患った不治の病に起因する苦痛が世界と悪意でしか接続していない自我を形成、その延長線上で世界への自己主張としての殺人を犯す・・・という設定で、まったく別の場所に最初からおかれている中村小説のいつもの主人公が登場する。
この作もみごとな突抜方で一気に最後まで読ませる初期エネルギーもある。
それだけではなく、作家としての技術がこの特異な<孤立したまったくの少数者>を鮮明に存在させている。
私もやはりこの世界への違和を常に感じている者だが、中村の主人公のように最初から違っていたわけではない。その意味で最初から違っていた者はまた別の感性の立場がある。登場する我が子を殺害された母の立場は、私と同じくこの社会に存在する悪意によって後天的に形成された違和と反感である。
作中には、もうひとつ以上とは異なる、まったく別の重要な違和への言及がある。
もはやそれは当人が感じる<違和>ではなく、単に<まったく違う>としか言い様のない存在だが、やはりそれも現実世界には散見しうる。もはや悪意でもなく、善悪の彼岸としか形容しようがない、むしろ神のように純粋無垢な存在。
いそいそと新発売の「感動の」ゲームソフトを買いに行き、その足でたまたま出会った幼女を凌辱殺害する無垢な魂というまったく社会や人間という定義を逸脱した原存在。
この存在の位置からは世界や自らの<悪意>を自覚しそれを考察できる立場にまだある、つまり社会と自分という認識項をまだ備えている主人公達自体も、この世界の本質である我々から見た絶対的違和に含まれてしまうのだろう。
確かに現実には存在し、実際にモラルや罪刑と相克するのだが、その魂はあくまで透明で世界と透けあって折り重なり同調も矛盾も生じない。
もしかして、世界は本来的にそのような絶対ニュートラルなもので、言葉や認識で写し取っている世界は単に我々が我々の認識で便宜的に翻訳している仮想なのではないのか。
しかし、それは我々の認識の地平線の外にある存在で、その存在について考察することは既に我々の世界の課題ではありえない。
我々は我々が解釈できる世界だけに棲んでいるのだ。


〔読書控〕2020/05/07(木) 14:34

野口武彦「巨人伝説」講談社 2010

一応井伊直弼とその国学の師でブレーンの長野主膳を主人公に立てた風の歴史小説だが、一向にこの主従は坂本竜馬風の胸のすくような活躍を見せてはくれず、小説は桜田門外の変に至る蒼然とした日本史上の転回点の克明な全体解説書の趣で進行する。
私は見たことがないのだがNHKの大河ドラマ第一作は「花の生涯」(船橋聖一)ということになっていて、どうやらこの冴えない主従二人の共通の情婦村山たかがソチラの主人公だっらしい。もちろん私の視野には長野主膳やたかは入っていないかったのだが、一昨年の大河ドラマ「女城主直虎」でこの井伊家創業時、あるいは徳川政権創業時のいきさつに親しんだりしたので、私よりはひと周り上の著者の世代では主膳・たかの話はかなりのポピュラリティがあったものと推察するわけだ。
著者野口武彦は小説家というよりも学者・好事家とでもいうような書きぶりだ。せっかくの主人公よりも当時の資料で明らかになる諸処の情景を復元するのが主眼になってしまい、劇的に話を膨らませるような演出は一切ない。また、別に懐古趣味に淫する風でもなく、淡々と、時には多少冷ややかに現在からの視点を織り交ぜて饒舌に語っているのだが別に話をわざと盛り上げようとする趣味もないようなので、読者としては少々困ってしまう。
主人公達も俗人揃いで、「維新の英雄」譚はやはり後世の演出で実際はそんなに秀でた巨人達だったわけでもなく、生々しくもバカくさいタダのケンカ的政争だった、とでもいうよういきさつが、それぞれ克明に出展も明記され、学者風あるいはジャーナリスティックでニュートラルな第三者的立場で最後までいってしまう。
幕末動乱の並みいる世間の英雄、直弼の犠牲者のはしりである吉田松陰にも別に大した評価を与えていない風だが、ただ考明天皇が歴史的責任を担うものとして一人迎合しない姿勢を貫く人物と描写されているのが少しだけ印象に残った。
あまり盛り上がらない話で一向に読書スピードが加速しなかったのだが、それにしてはいちいちの挿話がおもしろく、このコロナで間延びした日常で一日2・3ページくらいを毎日楽しんでいたという感じ。
例えば桜田門外上に井伊大老、その他の犠牲者のズタズタになった身体の一部やそんなものが「シャーベットのような」積雪の上に真っ赤になって散らばっている、風のなんとも変にニュートラルで報道写真的な描写で、わざと劇的演出をヘンに外したような筆致がなんとも面白かった。なんだか変に詳しいけど、ちょっとヘンなおじさんだなぁ・・・
今はコロナの非常事態というご時世なので、あまり世間とは違う意見を残すのを遠慮中なのだが、例えばこの書があつかう安政年間にも時のパンデミックであるコレラ(日本ではコロリ)の流行がこの政変を刺激するというような見方も指摘してあった。
世界が変わろうとする時、地震やパンデミックが適当な刺激を与えていたのだよ、昔から。
ちなみに、このコレラはペリーが率いていたアメリカの帆船ミシシッピー号の一乗組員がもたらしたらしい。
この時、江戸では10万以上の死者が出た。今の騒ぎも別に未曽有ということやないのになぁ・・
この著者の語りですっかり気を飲まれてしまったのは主膳とたかの初夜の描写が変に克明でそこだけ例外的にアダルトビデオ風の演出過多な妙に熱っぽく、全体からのその奇妙な突出ぶりがヘンに印象に残ってしまった。
書こうと思えば何でも書けるんだせ、というようなカンジ?。
本格小説をものすにこの著者、器用すぎるきらいあり、としておくか。


〔読書控〕2020/06/10(水) 11:49

アダム・ラザフォード「ゲノムが語る人類全史」垂水雄二訳 文芸春秋 2017

ヒトゲノム・DNAのマッピングが考古学を変えた。
考古学だけではなく広く人類学や人種の概念も。
現在ではネアンデルタール人の遺体から採取された細胞のゲノムマッピングがコンピュータで解析され、データベースに登録され誰でもネット環境さえあればアクセスできる。
著者の住むイギリスでは現在2社が個人のゲノムの分析サービスを有料提供していて、遺伝的祖先の特定や遺伝病罹患率等を教えてくれる。
しかし、著者によればひところのヒトゲノム解析完了時のおめでたい未来形のように「全てが明らかになる」訳ではなく、依然としてその大半のDNA配列の意味は解らんのだ。本の文字はクリアに印刷されていて100パーセント読めるのだが、意味が分かる文章は600ページのうちの僅か3ページくらい・・・
その残りの597ページは遺伝情報としては何の意味もないガラクタだとされるのだが、もしかしてその中に、そのカオスの中に本当の意味が?

...あ、ウロ覚えで上の縮尺仮託スケマを捻じ曲げて引用してしまった。
本にはこのように書かれていたのだった。
『生命はおよそ39憶年前から地球上に存在した。
ホモ・サピエンスはたった20万年前に出現した。
文字の使用はおよそ6000年前にメソポタミア地方のどこかで始まった。
比較のためにいうと、この本はおよそ30万字が含まれている。
地球上に生命が存在した時間の長さをこの本で表すとすれば、一つの文字はおよそ1万3000年になる。すると、解剖学的な現生人類の存続期間はこの本の3行ちょっと、歴史を記してきた時間の長さは一文字分にも満たない。』
こういう宇宙的規模の数字を具体的なものに置き換える比喩はカールセーガンの宇宙カレンダー以来、妙に魅せられるタトエ方だった。
地球が野球ボールとすれば、太陽は青垣山あたりにあり、大きさも丁度青垣山くらいだな、と具体的な大きさを実感する遊びをよくやったものだ・・・

著者の言う確実にわかったことの一つはホモサピエンスのDNAの2,3パーセントはネアンデルタール人由来、つまりホモサピエンスのメスとネアンデルタール人の男性は出会う度に交接していた(著者によれば)。
逆に言えばホモサピエンスのオスがネアンデルタール女性を孕ませたという証拠は残っていない・・・
『ネアンデルタール人、デニソワ人、そしていまだに発見されていない幽霊のような一族、彼らも私たちになったのであり、古い骨の中や私たち自身の細胞のなかに彼らを見つけることだろう。古代人たちはけっして絶滅したわけではない。私たちはまさに合体したのだ。』
イギリス王家の血筋とかいうが、DNA的には1000年もすればほとんどの人間にその個人のDNAは行きわたり交雑してしまう。
織田信長の子孫だけあって面長の高貴な顔をしている・・なんていうのはあり得ない。
もっと広く言えば、今地球上に居るすべての人間には最初に揚子江のほとりで農業を行った人のDNAが存在し・・・つまり我々はすべてこの人を祖先として共有しているのだ。肌の色、目の色、髪の毛というような人種はDNAの違いではなくローカルなDNAの発現作用の違いにすぎない。
・・・等々、いろいろ興味のある話題が紹介されている。
著者は遺伝学者であるが、ジャーナリストとしても活躍していて、なるほど文章は面白く脚色され、あらずもがなの楽屋話・密かな自己顕示までもがちらちら。
それも面白おかしく語ろうとするこの著者のスタイルだが、そちらが少々目立ちすぎとも。
特に今の時期に関して二つの重要な論点をピックアップできる。
一つは『ペストは・・・軍隊に壊滅的な打撃を与え、帝国を転覆させることによってヨーロッパを形作ってきた。だがそれは、何のえこひいきもしない盲目的な自然淘汰の副作用でしかない。それは農業、交易、そして繁栄によって、私たち自身が巻いた種なのである。ペスト菌はノミを見つけ、自分の奴隷にした。飲みはネズミを好み、ネズミはいたるところを人間の陰でコソコソと歩き回る。そして5000年以上ペスト菌は自らの遺伝子を、命令を実行するように突然変異させ、それに応じて私たちの遺伝子を突然変異させた。DNAがヨーロッパの歴史を、そして世界を形づくっているのである。』

もう一つ『身長は遺伝によって大きく左右されるが、そういった数字は肌の色、あるいは出身大陸という色眼鏡を通してみた人種とは何の関係もない。
黒人は、遺伝的資質のゆえに、そしてたぶん、忌まわしい数世紀の奴隷制のもとでの育種のゆえに、スポーツに優れているという考えは、私たちの考えていることと、化学が真実だということの間に横たわる深い亀裂の、もう一つの実例である。』
『遺伝学者たちは、人類の変異とその地球全体における分布は、人種、あるいは黒人や白人のような、粗雑で正しく定義されていない用語にがっちさせようとするいかなる試みよりも複雑で、より洗練された眼を凝らして見る必要があることを明らかにしてきた。そういう理由で私は、遺伝学者の視点から、ためらいなく、人種は存在しないと述べることができる。それは、いかなる有益な化学的価値ももっていないのだ。』

ヒトゲノムの解析が完了したということはヒトのすべての気質や個人差が特定できたということではない。著者による比喩では交響曲の楽譜は同じだが、演奏がすべて同じではないがごとくという。プロの解釈の違い、楽器編成の違い、素人演奏家のミスタッチによる違い、再生装置の精度による違い・・・あらゆる複雑な条件がゲノムの解釈や実現をコントロールしあるいはコントロールをせず・・すべては可能性のままなのだ。
無限の可能性の中からどのひとつが選択されるかは・・科学の領域からは逸脱しているのかも。
どんなに科学が究極地点にまで到達したとしても、やはり科学以外の何者か作用するものがある、とそのように私は理解しておく。


〔読書控〕2020/07/06(月) 23:03

帚木蓬生「ネガティブ・ケイパビリティ」朝日新聞出版 2017

副題:答えの出ない事態に耐える力
昨今の安直なSNS上での辛辣な悪口に自殺者が出る世相への提言、というような引きで朝日新聞デジタルがこの書を紹介、即アマゾンで注文入手。
なんとはなしに、この書物の購入も現在進行形風いきさつだな(^^;
あまり多くは読んでないのだが、この著者なら傾聴に値するトピックであろうという信頼はある。
私の思考ベクトルと同じ方向に居る作家という嘗ての印象か。
ネガティブ・ケイパビリティとはキーツが使用した語彙らしい。
しかし文学史上に一度出たきりの概念・定義を考察し、心理学上の大切な思考要素であると見極めた少数の分析心理学者の系譜に著者が連なり、その有用性を説いている。
得に著者の本業の精神分析医の現場ではあまり明確な治療法や結果が出てこないのが常らしい。
時によれば全く打つ手がなく、ただ患者の傍らに居るだけ、という治療しかできないことも。
医者としての立場からすればいたたまれず、逃げ出してしまいたい状況だが、ネガティブ・ケーパビリティの概念を認識することでその状況に耐え、時に何もしないことで逆に多少の治癒効果もあるということにも至るらしい。
ネガティブと言うとポジティブの反対なので、いわゆるネガティブ思考、悲観というイメージを持つのだが、そのネガ・ポジという評価をするのではなく、評価しない、判断停止(著者もフッサールを引き合いにだしている)する、その状況を受け入れてそのまま持続するという態度のこと。
教育はありていに言えば問題解決法だけを教え、その成果を導き出す効率を上げる技術を教えるだけ(=ポジティブへの能力)なので最初から答えの出ない問題を提示することはない。
そして、著者に言わせればこの世界の大半の問題は本来的に答がないのに、教育現場では答えの出る問題しか教えないし、答えの出ない問題は出る形に変形矮小してしまっているのが現状。いわばマルペケ式の思考で解けることしか学校では教えていない。
現在の教育のアンチテーゼとして著者は昔の漢文素読教育を引き合いに出す。
意味も解らず機械的に暗唱する?それって教育?と今の教師は言うだろう。
しかし意味なぞはっきりわかるワケはない。
そうだよね。国語の問題でこの文章は1楽しい2哀しい、どちら?なんぞと・・・
あ、ここで私の記憶が戻ってきた。
小学校4年くらいの音楽の時間に北欧民謡の「野イチゴ」を教わり、試験でこの歌は「楽しい」という答えがマルだった。
私は納得できず、この短調の民謡を職員室の先生の前で思う通りモノさびしく歌ったのだった。
音楽や文学、芸術はそんな簡単に解釈を教えるもんじゃないだろう。
同様に日常社会の問題も答えは常に簡単に出るものではない。
「どんな問題にも答えは必ずある。しかしそれは常に違えている」←私の言だったか?
マルペケ式思考に責を負わせる議論はよく聴くのだが、今、ネガティブ・ケイパビリティというTERMを与えることで、「答えを出さないという能力」という強力な人間の知力・胆力を大事な能力の一つとして明示した意義は大きい。
現行のSNSの底の浅いヘイトスピーチを準備しているものへのアンチテーゼとして紹介されていたのだが、私には昨年の自身の鬱状態を思い出し、この長年の宿痾への対策として有効だという思いがある。
昨年、私は「徹底的に無意味な自分」というような言葉で鬱を表現した。
20歳の一高生なら「人生不可解」と嘯いて華厳の滝に飛び込みもできるだろうが、人生の最終期に自覚する自己の無意味にはそのような簡単至極な決着を思いつくことさえできないのだ
この徹底的に意味の解らん世界に無理に解を求めようとするのが無意味なのだ。
意味も解らずただ居るこの老年にこそ、安直に結論しない能力としてのネガティブ・ケーパービリティが有効なはずなのだと。


〔読書控〕2020/07/11(土) 00:40

早坂隆「世界はジョークで出来ている」文春新書 2018

ジョークでしか語れないコトもこの世界にはある。
ジョークの解説をしてもしかたがない。
このアンソロジーを編む視野は広い。
安心して楽しめる。
「おわりに」の最後だけ引用しておく。
『共産党による一党独裁体制の続く「紅い大国」は膨張主義を隠さず、「自由の国」を標榜する超大国のトップは「暴言王」、「北の独裁者」がミサイルを撃ちまくれば、元スパイのリーダーが率いる強国もある。
憚りながら、創造主には、
「本当にこんな世界をつくりたかったのですか」
と聞きたくもなる。
まするでジョークのような国際社会。
世界はジョークで出来ている。』


〔読書控〕2020/08/19(水) 12:01

亀山郁夫「ショスタコーヴィッチ」岩波書店 2018

ロシア文学者・ロシア文化専門家による膨大なショスタコーヴィッチの伝記。
この春から例のコロナ自粛でまたベルリンフィル・デジタルコンサートホールの会員になった。
先ず聴いたのがショスタコーヴィッチ交響曲13番「バビ・ヤール」(ネーゼ=セガン指揮、ペトレンコのBソロ)。
いままで歌入りの交響曲は敬遠していたのだが、やはり音楽的魅力と刺激に満ちた曲だった。

私は高校時代からのショスタコーヴィッチフアンなのだ。
しかし、日本でも交響曲第五番を初めとする「国民的作曲家」のショスタコーヴィッチの「表側」作品は演奏されるのだが、それ以外の反体制カモフラージュ作品、あるいは自虐的なひねくれた作品はあまり演奏されない。
時代はすでに大きく代わり、今この業界の享受者の大半がスターリン時代の社会主義リアリズムといってもピンとこない世代になった。
しかし、ベルリンフィルの演奏会の記録を見れば、やはり交響曲作家としてのショスタコーヴィッチの作品はその傾向の関わらず好んで取り上げられる演目になっている。

たぶんショスタコーヴィッチのことを何一つ知らなくてもその音楽はモニュメンタルな20世紀の響きとして演奏会のプログラムには常に交響曲第5は残っているだろう。
作曲家が亡くなり、出版されたヴェリコフの「ショスタコーヴィッチの証言」はそれまでのスターリン賞受賞国民的作曲家ショスタコーヴィッチという解釈を一変させた。
次回定期の演目に第五番を予定していた朝比奈隆は「曲の解釈を大幅に変えねばならない」と新聞のインタビューに答えていた。
私もその演奏会を聞きに行ったのだが、どう解釈が変わったのかは判然としなかった。
それ以来も私はこの作曲家のエネルギッシュなオーケストラの響きのフアンでありつづけたのだが、実のところ真の作曲家の意図を聞き取るということではなかった。
例えば交響曲第五のロストロポーヴィッチ指揮のCDを持っているのだが、異常にテンポを落としたフィナーレのどうしても納得できない演奏に疑問を持つだけだった。
(私の最愛聴盤はイストバン・ケルティッシュのヤツだった。)
今、この伝記のなかでロストロポーヴィッチがこの曲を「どうしても楽譜が要求するように演奏することはできない」と述懐している記述を発見し、解釈演奏という音楽の一方の表現に生じるある種複雑な問題を意識せざるを得なかった。
音楽として、交響曲第5番は時代の新しい趣向を集約した記念碑的な作品で、ベルリンフィルでも佐渡裕やドゥダメル、その他若手指揮者の腕試し的にやはり一番演奏回数が多い。
だから、作曲家の内面がどうであれ、技術を駆使して作り上げた作品はそれだけで音楽的感動を与えることができる。
・・・21世紀の現在、200年前に作曲されたヴェートーベン「第九交響曲」がそれでも毎年全世界で演奏されている。
意外に同「第五番運命」はほとんど演奏されなくなっているのだが。
そして「感動」・・感応なのか・・している享受者もいる。
歴史文化政治哲学宗教・・すべてがまったく違う文脈で作曲されているのだが、それでも音楽の普遍的な語法は理解され、ドイツ語を知らなくとも音楽の意図は感知され、感覚的な刺激を与えている。
私はシラーの詩に感応することは全くないし、大げさで今では滑稽なだけの空虚な言葉だが、音楽としての面白みを感じなくはない。
しかし、演奏されすぎで私にとって新味はまったくなく、お金を出して聞きに行く音楽ではない。

今、更にその前に作曲された「失敗作」の第4番を聴くと、音楽的アイデアとしてはすでにすべて出尽くしているし、更には歳晩年の第15番にも引用される真のこの人の極致である「死の舞踊」(メメントモリ)のモチーフさえすでに30歳の作品には胚胎されているのだ。
後、チェロ協奏曲第二の第二楽章終結部にも。
しかし、社会主義リアリズムの表現として外挿的、意図的に当てはめた物語の効果音楽としてこの書法の表現力は圧倒的な成功をおさめた。
5、7、11、12というある種の映画音楽のような効果音交響曲は、標題音楽としての豊かな可能性を作り出した。
もしこの作家がソビエトではなく、ウィーンに生きたとして果たしてこの才能はこのような世界を創造できたのだろうか?
ウェーベルンの次の世代の12音作曲家としてひっそりと自分の純音楽的探求の中にただ自閉していたのではなかっただろうか?
純音楽は12音、あるいは無調の作品が最先端で、それ以外のクラシックな書法を自分の表現とすることを作曲家は潔しとしなかったはずだ。
つまり作曲家新垣隆氏は本業ではなく、アルバイトとして「それらしき」音楽をこしらえて売ったのだが、しかしその中でも自分の作曲技術を実際にオーケストラで音にしてみたかった、という純粋に音楽家としての欲求もあったのだ、と思う。
作品は世に出ればもう作曲家とは独立した存在になるのだ。
と書けばかなり皮肉な言い方になるのだが(^^;
ショスタコーヴィッチの交響曲の現在の圧倒的なポピュラリティはスターリンのおかげという言い方もできる。
30歳でウィリアム・テルの大成功を得、以降の人生をまったく作曲せず「のうのうと」生きたロッシーニをショスタコーヴィッチは最後まで「ありうべき人生の形」として意識していた。
最後の交響曲第15番のウィリアムテルのあからさまな引用や私のいう「メメントモリ」の骸骨踊り(死の舞踏)の諧謔と自虐とに満ちた冷戦時代の芸術家の生き方の真にコンテンポラリな生々しさ。
交響曲13番のバスソロの声の音楽としての表現力には魅力を感じないでもなかったのだが、当初テキストの内容や題材の史実にはまったく知識がなかった。
しかし当然このドイツ軍によるキエフ近郊のバビ・ヤールのユダヤ人虐殺の材題自体にも当時のソビエトの政治的思惑がらみの介入があり、複雑な作品のコンテキストを構成している。
そのようなテキストや歴史背景への見通し、さらに亀山が克明に分析する作曲家の意図をまったく知らなくとも曲の与える異様な迫力は感じとることができる。
音楽としてそれは紛れもなく20世紀の音響だ。
しかし、そういった背景を重ねてもう一度作品を見ると、それはすでに音楽を越え、はるかに複雑な自己表現としての芸術ということに思いが達する。
多分、このような近代的自我の表出はベートーベンにはあり得ないことだ。
時代と社会、あるいは自分自身への違和の源泉を見つくし、表現しつくし、という「自分を語る」自分を知ることの欲求、存在の探求・・・それが芸術という表現行為なのだ。

別の記事で私は既にこの書から示唆された「ギフテッド(天才)がどのようにして自分が置かれた衆愚社会を生き延びるか」という問題意識について書いた。
私自身もちゃちでもっと愚劣な人生ながら、「トニオ・クレーゲル問題」と呼び、若年より自分と社会との和解法を模索してきたのだった。

今、亀山の仔細な時代コンテキストの解説と深いロシア語テキストの解釈を得て、ショスタコーヴィッチの音楽による芸術的昇華の表現技術をようやく今真に認識する機会を得た。

この記事は書評ではない。
もう一度、曲を亀山の分析を確認し聞き直さねば、本書のテーマを真に理解することはできない。
今、「ショスタコーヴィッチ問題」は私にとっても生々しい課題になっている。

付記:重点的にショスタコーヴィッチの作品を聴いているのだが、やはりプロコフィエフの「第5番」をつまみ聴くとやはりこちらの方が音楽技術的に段違いの才能だと感じる。
プロコフィエフは完璧な「プロ」の、いわば大人の作曲家で、ショスタコーヴィッチはどこか素人臭い、ガキっぽさが払拭しきれない。つまり「ギフテッドの悲哀」がにじみ出てきてしまう。


〔読書控〕2020/08/26(水) 15:51

坂爪真吾「セックスと超高齢社会」 NHK出版新書 2017

副題:「老後の性」と向き合う
なんとも切実なタイトルで、思わす手に取ってしまった。
最後のあとがきに目がいく。
『いくつになっても、身体や頭が動かなくなっても、周りにだれもいなくなっても、最後の一瞬まで、人間らしく「ジタバタしようぜ」!』
なるほど。ではしばし、内容を一瞥してみよう。

・・・しかしまあ、古希を過ぎた私個人にはあまりソッチへの直接なヒントは得られなかった。
相変わらずジタバタして生きる以外にはない(^^;

私のような高齢者が何かのヒントを得ようとかいう本ではなく、NHK的に真面目な社会一般への問題提起とその現状の報告であるようだ。
いや、ヒントもあるのだが、そんなことはとっくにわかってらい(^^;

自明なことだが、高齢者といっても性欲は現実に存在し、更に高齢化による肉体的社会的条件が欲求を満足させることの切実な障害になる。
考えなくともこいつは切実な問題である。
しかし、考えれば若者にもそれぞれの性の問題があるハズで、ソッチの方が強さにおいてより切実かも?とかいう感じもある。
要するに老化を自覚し、自分の存在と現実社会との折り合いが付けられなくなった時点で自分自身の処理をする、それが最低限の老検合格資格(一般老人認定級)ということになろう。
何も考えず過ごせるほど老年はラクじゃない。
還暦になる前にはちょっとは対策しとけよ、と私は思うのだ。

また、高齢・女性・性的マイノリティ・心身障害というような苦のヘレンケラー式三四段重ねとかも視野に入っていて、それはそれでジタバタ感を倍加させる。
だって人間だし、ジタバタするのが生きてるってことだよな。

いろいろ日本の現状への示唆はあるのだが、私個人の問題には残念ながらあまり抵触しなかった。
私の場合、別に高齢になってからクローズアップしてきたのではなく、生涯を通じて常に性欲処理問題が恒常的社会的不如意感、ネガティブな人生観の主たる要因であったりするのだ。
いや性欲に限定すれば、日常的にパートナーがいる時期には大問題ではなかったはずだが、しかしそれでも恋愛や異性への憧憬は穏やかに日常空間には収め切れず人生的規模での未解決で困難な課題で密かにありつづけた。
私が「もう一つ別の人生」を模索しようとする裏には性的要因が糸を引いているのは今では確かなことだ。
ボードレールの「旅へのいざない」の性的暗喩を思え。

個人的にはインターネットやアダルトビデオには常にお世話になっていて、昨年もう10年以上の長期会員だったネット配信のAVサイト、X-cityをとうとう止めた。
しかし別段そちらを卒業したわけではなく、結局海外サイトのXvideosが無料でより過激なので以降はソチラに(^^;
その他、出会い系サイトや最近のFB上のアダルト情報グループにも変名で数種登録中(^^;。
本書でリポートされているその種の情報には事欠かない。
ただ交際クラブは予算的に、官能小説は趣味的に遠慮させていただいてマス。
つい最近もコメダ喫茶店に置いてある週刊現代とかの連載官能小説の主人公が65歳設定だったので何事かこの種の読者層についての理解を得たことがあった。

いや、何処まで行っても男は性的に自足することはない。
絶えず処女地を征服していく風の、未知への純粋な、駆られるような憧れ・・・
その上昇するベクトルが男性という性の本質、ひいては男性という性の存在の意味ではないのか、とか古希を越えた今でも思っている。


〔読書控〕2020/09/08(火) 14:24

高遠広美「物語パリの歴史」 講談社現代新書 2019

ローマ時代から現在に至るパリの歴史の語り(conte)に現代パリの観光的名所案内が付属。
あまりこの手の書物には興味はなかったが、フランス語再学習中の軽い参考書として読む気になった。
今でもJTBの店頭には「憧れのパリ5日間」とかいうパンフレットが目につく。
パリという都市にまつわる思い入れは私にもなくないのだが、「憧れの」といういかにも初々しい好奇心ではあり得ない。
しかし、今だ「憧れのパリ」は商品価値を持っているらしい・・・多分若い女性には。
という先入観の故か、著者は女性であると確信してこの本を楽しんだ。
曰く:
パリに憧れ、その憧れを持続したまま職業人生の最後までフランスと関わって過ごせた波乱のない素直な人生的回想。
「です。ます。でした。でしょうね。調の対人親切丁寧文体。
『私の兄はいまでもパリに行くと交通機関を使わず歩いてしまうことがおおいのですが・・』という兄妹親密風内輪話。
『とくに女性の場合、マリー・アントワネットが好きという答えが帰ってくる確率は決して低くないと思います。恐らくは「ベルサイユのバラ」の影響だと思いますが、たしかに原作の宝塚の舞台も素晴らしいので、そうした学生の気持ちはよくわかります。』
パリ案内中に散見する買い物やレストランの個人的思い入れ・・
等々、なんだか典型的なフランス女子風。

私とほぼ同年代とも言える方だが、このようにパリへの思いれで一生を過ごされた方もいる、まあ女性としては最良の職業人生なんだったのだろうなぁ・・・
とかいう私の苦い人生的規模でのフランス体験を逆に男女差に還元して理解したりもした。

で、最後にこの文章に突き当る。
「セーヌ川はどこですかと警官に訊いたことがあります。警官はにやにやしながら、すぐそこですよ(C'est tout a cote, Monsieur)と言いました。」
あ、著者は男性じゃないか!

日本語は男女年齢によってそれぞれの位相があり、若い女性なら「だわ、なのよ」高年男性なら「そうなんじゃ。じゃのに。」語尾を機械的にくっつけるTVのステレオタイプ式安直外国語翻訳口調にうんざりしていたのだが・・・

ここにして銘記せよ。
日本語はどこまでもニュートラルで一度も年齢・性別判別語を用いずに本が一冊かけてしまう。
しかし、フランス語では「私は・・です」と書いた途端に性別が判明してしまうのだ。
本の内容よりもこの事実に目を開かされてしまったのだ。
もっと言えば、相手に呼びかけるのに「Monsieur,Madame」等のはっきりとしたAppelationがない日本語で、しかたなく「おじいさん!、奥さん!、大将! 社長!」と年齢性別でカテゴライズし、その一般的家庭内や職業社会の想定役割で呼びかけなければならない日本語のシステムの特異性をまたまた考え込んでしまうことに(^^;

付け足し手抜き書評:
やはり中世の各王家の確執や、係累の話がいかにも我々がヨーロッパに抱くステレオタイプの原型の所在がこのあたりだったと思わせる。
ペタンがド・ゴールの上司で、子供の名付け親である、というような現代史裏話風の雑談もあり、先ずは楽しく読ませていただきました。


〔読書控〕2020/09/12(金) 11:42

和田竜 「小太郎の左腕」小学舘 2009

最近の日本映画時代戦国で2本ほど見た作品の原作者。
映画化された「忍者の国」のリアルでもあり、シュールでもあり、飄々としつつどこかユーモラスな多少変わった味のタッチが意外と新鮮だったので、別作を読んでみた。
深みのある作品ではないが、地侍の盟主が実力で支配を広げていく戦国初期の典型的な一地方を舞台にし、歴史上の人物を出さず自由にその時代らしき人物像を描いた作品。
主人公のマンガ的異能は軽いエンターティンメント物語の縦軸だが、戦国初期の領主や侍の中世的感情過多気味の性格や大袈裟な演出の売名、死でさえ自己顕示の重要な機会ととらえる風の価値観のご親切にも分かりやい説明があり、縦軸よりそっちの横軸の方がはるかに面白かった。
エンターティンメントとしては標準的水準、横軸の中世人間模様の描写は秀逸。
今さら戦国の気分をアナール学風に検証しようもないが、昨今のNHK大河ドラマの人物達はあまりにも現代人風の論理や感覚での解釈で描かれて過ぎなのが鼻につく。
この作にはその辺り多少の新味がある。


〔読書控〕2020/10/10(土) 11:06

塚本青史「春伸君」河出書房新社 2010

戦国4君の一、楚の丞相春伸君の伝記。
他の三君(孟嘗君、信陵君、平原君)は大国の公子だが春伸君のみ庶出。
塚本の本は一度読んだことがあるがあまり感心しなかった。
話自体は面白いのだが日本語のレベルの設定に大きな違和がある。
特に人物のセリフがほとんど現代語で、しかも人称代名詞のみ芝居がかった「みども」「そこもと」となっている。
とりわけ女性のセリフがまったくキャバ嬢言葉風で閉口する。
物語を楽しもうとするのだが言葉の違和感で気力が萎えてしまう。
それでもこの人物を主人公とした小説はこれ以外に見当たらないので一応最後まで目を通した。
実は春伸君の最後が一番劇的で面白いので(^^;
言葉のレベルに無頓着な作家ではいくら希少な歴史物語を紹介してくれても有難み半滅。
中国古代戦国の物語を読む楽しみは、現代から踏み越えられない遠くの景色を疑似体験することだから。


〔読書控〕2020/10/23(金) 23:33

津本陽「忍者月輪」中央公論新社 2014

この作家は随分以前に何冊か読んだが、松下幸之助の伝記以外何も覚えていない。
調べてみると既に2018に他界していた。
テレパシー系の術を得意とする伊賀忍者伝兵衛の半生記。
京都所司代や蜂須賀小六に雇用されて日本史の激動の時代の裏の情報戦に活躍する。
その驚異の忍術の内容はさておき、多分この作家の個性と思われるのが、やたらと細部に詳しく、大きく娯楽小説の背景を逸脱し歴史小説のような細部の組み立小道具にドギモを抜かれてしまう。
当時の上下級武将の名は調べれば解るのだが、この人の凝り方は尋常ではなく、物語中一過性の架空登場人物であっても出身地をきっちり規定し、しかもその現在の地名までカッコに入れて併記してある。
伝兵衛の伊賀の他のアジトは天理市の柳本でこれはウチの近所。
伊賀・甲賀は私のバイクの遊び場だし、大阪近郊は私の出身地でこのやたら詳しい地理上の引用にいちいち具体的な私の土地イメージも呼びだしてくれる。
特に、「木津川砦(現在の西成区出城)」という記述にハタと私の古層の記憶が思いがけず再生し更新させられた。
そうか、アソコは嘗てやはり川中の砦があったのか・・
この戦国史の蘊蓄の上に架空の人物を活躍させ、しかも奇想天外なテレパシー通信までサービスする何とも欲張ったエンターティンメント。
そのサービスが多少物語の擬古リアリティを損ねている気はするのだが。
しかし、まあ、忍者だもんな、そのくらいはやってくれないと。
その精神忍術は人間としての生き方や宇宙の在り方への感応にも通じ、物語のクライマックスでは忍者としての世界観への悟りまで行ってしまうビルディングス・ロマンでもある。
それに登場人物のセリフ回しが、私には判断できない方言と時代言葉で書かれ、ホンマか?とも最初は思わせるのだが、この作家が書いているんだから当時はそのように喋ったんだろう、と途中から妙に納得させられてしまう。
私は俄然、この作家の小説をもっと読みたくなったのだ。


〔読書控〕2020/11/10(火) 11:15

帚木蓬生「インターセックス」集英社 2008

医師であり作家である著者でしか書けない小説。
先端医療の闇や現在医療哲学・倫理の課題を小説の形でびっしりと展開。
この分野の切実な問題・課題の提唱という医者としてのベクトルと、最良のエンタティンメントへの創作意欲という作家としてのベクトルが相乗する稀有な作品。
医療現場や病院医師の主人公のリアリティは物語の小道具と言うにはあまりに切実な今日の課題を扱ってい、その提起力はしばし物語を離れ、私個人の社会適合性への課題まで巻き込んでいってしまう。
タイトルは男女しか存在しないとする社会の中に、確実に存在するそれ以外の人たちを指す。
端的には半陰陽として生まれた子を託された医療の立場が主たるテーマ。
乳児期より早期「治療」で男女の身体にし、本人の自覚をどちらかに押し込めるのが従来の医療としての選択だった。
しかし、身体と自己のアイデンティが違うこともある。そして本人のアイデンティ自体がどちらでもないこともある。
果たして男か女かどちらかである必要・必然はあるのか?と医師である主人公は根本的な人間感からの自分の決断を理療現場で貫く。
このテーマは広く少数者のアイデンティティの問題に連なっていく。
最近、ギフテッド・高IQ者の少数者としての対社会的葛藤に着目していたのだが、ギフテッドの場合は優位性という縦の階層上位性のイメージがあって少数者の例としは特殊すぎる。
比して半陰陽者の自己のアイデンティティと社会圧との葛藤はより個人が生存する枠組みとしての社会の本質に肉薄するテーマと言える。

性同一障害なら自身のアイデンティティははっきりしている、というか、はっきりしているので実際の身体との乖離がストレスになり、少なくともその地点で「治療」は成立するだろう。
しかし性的アイデンティティとはそんなにはっきりと自覚されるものだろうか?
従って、果たして治療されるべき<異常>なのか?
私は?とふと立ち止まって自分を考える。
まぎれもなく私は男子で肉体的には疑う余地もない。
しかし私自身は「男」であるという強烈な意識を持ったことはない。
もちろん多分男性的心理の傾向、論理嗜好、闘争本能・・というような男性的傾向はあるにしても。
しかし同時に音楽や文学という情的念的、女性的とされる趣向も並列的に存在する。
「男なら当然」「男の本懐」というような紋切型の感覚はまったく自覚できない。
当然そういった男性性のステレオタイプは後天的社会的に付与されたものだろう。
性的な関心から若年時には女性の身体でありたい、とよく思ったものだ。
私が女性だったら一生オナニーだけして生きていけるだろうに、と(^_-)
しかし、それは自分の男性としての欲望の投射が反転し抱かせた願望かも。
私は今はこう思う。
私の、自分のアイデンティティは男性でも女性でもない。
ただ社会が既定する男性のカテゴリーに合わせて生きていただけだ。 マッチョ・肉食男性・オレに付いてこい的モデル男子ではあり得ない。
時として女性的だとカテゴライズされる優柔不断軟弱多変、論より情的傾向も自覚する。
性的嗜好はかなりマゾだろうな・・

要するに、男女の区別は社会が外挿的に要請するもので本来的に個人固有の性のアイデンティティがどちらかである必然はない。
私は男子として分類され、特に大きな違和感は持たなかったが、ときおり日本社会での男子という役割を期待され、そうあるべきという社会圧を負わされ担わされ、左様に自発的にも演じようという内圧にも応ずることは私にはかなり過酷なことでもあった。
もしかして女性として生きられたら、現在の社会システム内でもう少し自分の本来の世過ぎができたのではないか、とも思うことさえある。

この著作で主人公は男子と女子の間に(インターセックス)hem,herm,memの三種のカテゴリーを入れ、5種の性別区分を提唱している。
私はその意図は了承するのだが、本来的にすべての人間は両端の中間、我々の大多数は実際には本来的にインターセックスという中間のアナログ的な分布のどこかに位置するのだと思える。*

なお、物語について。 最後のクライマックスに突入するまで物語の前進力は強烈に持続し、きっちりとエンターティンメント性は完遂している。
留保なく素晴らしい作家だ。

*後日付記: ジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」等の性区別についての見解に私は同意する。
 これは、より普遍的なマイノリティのアイデンティティに関して、同名のオクティビア・エリス・バトラーの思考実験的SFへの示唆を得、”バトラー”を検索した副作用だった。
いずれにせよ、自分の社会的存在としてのアイデンティティへの疑念が私に付きまとい最後まで霧散することはないようなのだ。


〔読書控〕2020/12/12(土) 01:32

三国志新聞編輯委員会「三国志新聞」日本文芸社 1996

三国志は数百年来常に日本のエンターテインメントの供給元だった。
私は吉川英治のヤツは読んでないのだが、宮城谷その他の現在作家の中国史モノは折に触れ楽しんで来た。
今はネット配信放送で「三国志-司馬懿 軍師連盟-」(2017年のTV映画シリーズ全86話)を毎週視聴していて、もう二順目になってしまっている。
最近の中国のTVドラマ制作技術はその圧倒的資金力に物言わせてか、物語へのとてつもない吸引力を実現し、NHKの大河ドラマの比ではない。
それに、ネット(チャンネルNECO)では4話分を一度に放映しているので、3時間近く200年前の中国三国時代に沈潜していられるのだ。自宅で過ごせる最良の時間といってもいい。
まあ、そんなワケで古本屋サンでちらりと見かけたこの書を買っちゃったのだ。
この一風変わった「三国志」は中国映画の台頭前夜の20年くらい前、マンガやテレビゲームで「三国志」がブームになった時の企画らしい。
見開き2ページを新聞の1,2面に見立て、レイアウトも活字も新聞紙面そっくりに似せ、各イベントを時事報道記事風に割り付けた冗談企画。
冗談とはいえ堂々たるA4判220ページの大冊で、時に軽いコラムや4コママンガも配し、それなりに凝ることを愉しんでいる様が見ていて楽しい出来。
現代中国ではどうも理想主義者蜀の諸葛孔明より魏の曹操、司馬仲達系の現実主義勢力が再評価されているようだが、この新聞は「三国志演技」より西晋の正史「三国志」に主に準拠したと謳っているごとく、魏側の記事が主になっているようだ。
TVの物語を楽しんでいて気になる事情や人物はネットで検索するとすぐわかる時代だが、このような編年体の見開き記事で並列する歴史の進行を鳥瞰するのも物語の奥行立体感が得られ、有益。記事を書く記者もなかなかオタクで新聞一面・三面記事の要領を心得ている風だが、人物写真がすべて同じアングル同じ丸ヌキでソースが皆同じ感がかなりウソっぽい。ソースはビデオ「三国志演技」全40巻(中国中央電視台)からの盗用であろうと最後に読者からチクられている、ことになっているらしいが(^^)


〔読書控〕2020/12/24(木) 11:57

アナリー・ニューイッツ「次の大量絶滅を人類はどう超えるか」熊井ひろ美訳 インターシフト 2015

現在の状況に素早く手をうったキワモノ出版のようなタイトルだが、これはそう読み取ってしまう私の目がセコく、ヨコシマ・セプティカルな故だった。
出版は5年前だが、まるでこの疫病騒ぎを見越したようなタイムリーなタイトルで書棚から目を引いていた。
で、読んでみると、過去の生命の存亡の歴史を鳥瞰し未来の課題を検討していく、多少アカデミックでその実SF的な思考実験までの知的興味をそそる領域を網羅した良質な読み物だった。

中間部に紹介されている米のSF作家(黒人女性)のオクティビア・バトラーのSFの問題意識が私が今捉われている課題にどこかで共振する。
『なぜ私たちは生き延びたいのだろう?救う価値のある命は、ほかの命となにが違うのか? これから100万年間で人類はどうやって改善されていき、どのような形に変わるのだろう?』

前半では生物の大量絶滅の地球史規模の絶滅事例を分析、それでも生き延び今に至る生命史の事例を仔細、現在の疫病騒ぎも過去に幾度でも起きた史上ごくありふれた事例であるということが今更ながら確認できる。
後半ではタイトルどおり、そのように繰り返し襲ってくる壊滅的打撃をどのように回避し生命として生き残れるのかを研究する学者たちへのインタビュー記事になる。
過去の事例では自然環境の激変が生命の危機をもたらす事例が多かったが、現在では人類による急激な自然環境改変が危機の主たる懸念になってくるということは想定どおり。
しかしながら、著者が地球史の環境激変の冒頭に置いているシアノバクテリアによる極端な大気汚染・酸素充満の「危機」事例は、現在の人類起源の危機も更なる生命の新たな相への移行を促す要因となる、という意図せぬトリガーかも?という暗喩とも思わせる。

例えば人類に原因する多量の炭酸ガス放出による急激な温室効果で地球が温暖化し、人類が絶滅すると、現在の温暖化人類原因説によれば、人類が絶滅しさえすれば、次に大気中の炭酸ガスが次第に海中に溶け込み、あるいは地中に有機物として埋没し次第に寒冷化して氷河期に至るというサイクルに移行するはずだ。
人類自体も自然環境の一部という超人類的宇宙自我を持つ私には、現在の温暖化危機論調がどうしても一方的で近視眼的な倫理感、小学生的正義感の自己中心ドグマチックヒステリーとしか思えないのだ。この「倫理感」の在り方の根拠については後半でもう一度私に考えさせることになる・・・。

その他、生命史や人類史上の絶滅の危機事例がクロニカルに概説されてい、鳥瞰すると今更ながらよく見えてくる大きな生命の存続テクニックが浮き彫りになる。
これはサブタイトルに「離散し、適応し、記憶せよ」(Scatter, adapt, and remember)と記されているのだが、これはかなり簡略化しすぎだろう。

ワニ属と競合していた犬くらいの恐竜族が地の利を得、巨大化し拡大再生産を続け、かなり長期間支配種となるが、小惑星激突による極端な寒冷化で巨体を維持できず(多量食物摂取不能)、弱小種で地中にひっそり隠れ暮らして居た哺乳類がしぶとく生命を維持し、やがて次の支配種となる。
アイルランドジャガイモ飢饉の事例は、極端に効率に依存した単数食物栽培が単なるジャガイモ寄生菌の存在だけで致命的な国家衰亡をもたらす。
中世のペスト禍による社会の変動がルネサンスを用意する。
こういった過去の事例は、偏在する危機に対処し、あるいは危機に図らずも選別され、鍛えられて何とか存続してきた生命という不可思議な存在である我々の本質を示してくれる。
生命は個ではなく、種でもなく、生命全体として存続してきた。存続するのは自分ではない。自分は何かをどこかに伝える為の中継者なのかもしれない。
「離散し、適応し、記憶せよ」・・これはユダヤ人の存続史から学ぶノウハウである。

常に絶滅を回避してきた生命という視点で地球史を鳥瞰すると、人間がかなり特殊な生命形態になってきてしまっているのが気になる。
生命存続の戦略からは、種の多様性も戦略兵器のひとつであるわけで、ある形態だけがドミナントになったり、あるいは他の種を恣意的にコントロールしたりすることは非常に危険な袋小路の入口のようだ。
そして、人間の極端な個の意識の発達をどう評価できるのか。
個の存続が種の存続自体よりも優先できる、と明確に意思できてしまう個人意識というものの存在。
コイツがあると、「次は人間は止めといて・・・」とか、生命をやっていくためのありふれた戦略さえ適用できなくなってしまう。

どうも私は個の意識がどのように種、あるいは生命全体と存続意義、価値観を共有できるのか、という倫理の問題に今捉われているのだ。(「ギフテッドの悲哀」)
人間だけが自分の生命の危機でもなく他者を殺すことができる。
人間だけが生命全体の存続という存在意識を共有することができる。
この個人のまったく統一しようもない意識の価値感・倫理感の恣意性の発現は、多様性という戦略(分散せよ)とはかけ離れた、いたずらな手段の目的化という致命的な逸脱に見えてしまう。

この書の後半は生命が(・・・いや何時の間にか「人類が」になっているのだが)次の100万年を生き抜くための方策を考察している研究者達へのインタビュー。
ここで紹介される未来図は文字通りSF的に面白い。
いろんな人類存続の為の真面目な研究が紹介されているが、私は例によって彼らの倫理観の違いが気になった。

宇宙進出は人類の存続というテーマでは避けて通れない思考実験だが、ある研究者の見解が現在の課題を象徴していた。
曰く、人類は宇宙に進出すべきではない、今地球でやっているように宇宙をめちゃめちゃにするだろうから。
一方では、こういった宇宙環境保護派に対し、ソレは全く問題にならない、何となれば、宇宙には人類以外の生命体は皆無なので、ETを配慮した環境保全を考える必要はない、との見解も。

環境保護というとき、誰の為の環境なのか、それとも人類と自然界という二項対立律と捉えるのか?
人類は自分自身で生命をデザインできるのか?それとも人類はあくまで自然や生命という枠組み、制約の中で自分たちの本質を全うするのか・・
生物的制約からの解放はアンドロイド化という人類存続法が研究されている。
いや、我々は既に誰かの脳髄の中で生ずる、本質的にバーチュアルな宇宙の要素として存在しているだけなのかも。

ま、ソッチは面白いのだが、倫理問題ではない。
個人の利が優先する、という価値観はかなりの一般性を持つだろう。
しかし、その簡単な優先価値が家族、地域社会、国家、民族、全人類、全生物、全宇宙、存在論的存在主とアナログ的に統一されて共有される可能性はまったく考えられない。
絶滅危惧種の保護は環境問題の一環で言われるのだが、1980年にWHOは誇らしげに地球上からの天然痘根絶宣言を発している。
だから、自然・天然との共生意識?は「人類への明示的な利害」という地点での合意が、現在では先ず標準的な倫理の落としどころなんだろう。
しかしその天然痘が深い神の摂理によって地上に存在していたということには人類はまったく気が付いていないのだし。
ハンナ・アーレントの政治論が今チラリと気になった・・・

訳文が三人称単数代名詞「彼女」で受けるのを多用している故か(オクタビィア・バトラーの紹介も含め)女性学者へのインタビューが多いのに気づかされる。自然な日本語なら「博士」や「教授」で言い換えるところだが、著者・訳者とも女性であることを考慮すると、多少意図的な性別の明示であるかもしれない。

next year