[読書控 2021 index]

〔読書控〕2021/01/16(土) 13:14

庵功雄「やさしい日本語」岩波新書 2016

副題:多文化共生社会へ
副題が示すように日本語が母語でない子弟への日本語教授法の提言。
著者の研究分野は、外国人や言語的障害者にも解る「優しい、易しい」日本語の構築法だが、それは日本語母語使用者にとってもこの言語を本来の確実なコミュニケーションツールとして鍛えていくための方法論への提言でもある、と明記されている。
また外国人(主として出稼ぎ労働者の子弟)が日本語で確実なコミュニケーションができることは、慈善や恩恵ではなく充分国益に成り得ると、この分野の有効性を先ず説いている。

しかし私の本書への興味はそこではなく、現代の過剰な「ぼかし言葉」の横行や「書き言葉」のネット上でのなし崩し的崩壊を押しとどめる別の視点を得られるのではないか、という期待だった。
私は個人的な言語の嗜好から目に余る過剰な装飾を是としないのだが、日本語のコミュニケーションツールとしての有効性を高めることは、個人的感情論ではなくこの言語の母語使用者の社会にとっても必至事項であり、言語の劣化を押しとどめることは刑法で定めべきともいえる重要性があるのだ、と今更ながら認識する。
↑このようなややこしい日本語をまず書き換えねばいかんのだが(^^;

私自身はこういう「書き言葉」文体を楽しむという個人文化を持っているが、話し言葉のレベルでは当然ヨメにも解る語彙と短いセンテンスで喋っているのもちろんだ。
しかし、今の社会の大勢はツイッター式140文字制限以上の長文を読まず、「書き言葉」の「話し言葉化」文化が際立っている。
センテンスを短くすることで、論理の純化や的確化が促進されればいいのだが、私の見るところ論理性を排除した、単なる感覚的発言だけが抽出されて残っているというのが現状だ。

ま、ソレはともかく・・
日本語を「優しく・易しく」鍛える方法論としての本書の提言は、私の現在の日本語への危機感とは全く異なる方向からの視点だったが、充分当方の言語感覚から同意得心できる内容だった。

以下、注目すべき論点を列挙しておく。

中国語を話そうとする外国人に対し、中国人は減点方式ではなく、加点方式で相手の言葉を聞く。つまり聴き手が積極的にコミュニケーションに関与してくる。
そもそもの成り立ちからして各地方出身者の意思疎通という目的をはっきりもっているのだ。

英語の文法簡略化もしかり。
母語話者は一般的に母語の変化について保守的だ。
例として「ら抜きことば」を挙げられる。
ら抜きことばは日本語の体系的変化の一例であって、「乱れ」と言う観点で捉えるべきものではない。
文法的には「ら抜きことば」の体系では活用の種類の違いによるアンバランスはない。
明示以前の体系にも「ら」系のようなアンバランスはなかった。
日本語は他の言語の影響を受けたにしても文法構造が変わることはない。
変わるとすればそのような言語の潜在的変化の方向に合致していたためである。

「アイドリングストップ」は日本製カタカナ語だが、「アイドリング」が何のことかわからないと日本語使用者でも意味が解らない。
英語でIdling stopと言うとアイドリングしながら停止するという意味になる。

『女医(有標)男医(無標)という言語学タームで、無標の「日本人」「健常者」を「普通」とみなすことは、決して「当たり前」のことではない。
「多文化共生社会」を目指すためには、まず、自分は「普通」だという認識を改めねばならない。』
この指摘は外国人・障害者という明確な有標を考慮すれば当然だが、私の目下の懸念は外見上、社会的位置や肉体的には無標と見なされるがその実有標である、もしくは逆、のようにアナログ的に標識が分布し、絶対的多数が中間にランダムに不規則などこかに位置するという認識の重要性だ。
男性医師であるがトランスセクシュアルで女装し、外見女医である、ということも可能。
つまり、自分は独異的絶対的に自分であり、自分は絶対的に「普通」ではありえない。
「普通」とはどこにも存在しない四捨五入の便宜的抽象概念である、という徹底した自己独自の存在感が。

・・言語感の問題もやはりアイデンティティ、「自分とは何か」という側面に向かってしまったが、このような日本語の意思疎通性に目が向くのは自分が社会的少数者であるという自覚から来るところが多い。
著者は現在大学の教授だが、通信教育で高卒資格を得て大学に進んだという経歴を述べている。やはり、「有標の」少数者としての痛みに感応できる感性が先ず存在し、そして日本語の「無標」的使用者の鈍感ぶりへの問題意識を深めていったと思われる。


〔読書控〕2021/02/19(金) 00:42

吉田滋 「深宇宙ニュートリノの発見」光文社新書 2020

久しぶりの最新宇宙情報。
ブラックホールから私の宇宙認識はあまり進展していないのだが、この分野は常に刺激的だ。この書で最先端の研究情報を得られそうだ。
深宇宙、40億光年かなたの存在から発出された粒子(?)を検出し、その由来を探る最先端の研究者の報告書。
粒子ではないが、光なら波、ニュートリノなら粒子というイメージがやはり直感的に浮かんでしまう。
光は直進するのだが、宇宙に偏在する天体の磁力の影響を受け曲がってしまうらしい。
ニュートリノは電荷もないのでひたすら直進する。
そして重さも殆どないので全ての物質をすり抜けていってしまう。
つまり遠くの天体由来のニュートリノは光より電波より何より減衰することなくひたすら地球に到達し、そして地球をすり抜けて、ひたすら直進していくモンなのだ。
しかし、このニュートリノもごく稀に浮遊電子とぶつかってチェレンコフ光をだす。
そいつを観察し、その由来する遠くの天体を特定しよう、というのが著者達の研究分野である。
そして実際に小柴晶俊がカミオカンデで捕捉したのは地下深く埋設した純粋タンク内だが、著者達は北極の氷の層深くに仕掛けた検出装置でその稀な現象の捕捉に成功する。
・・というのがこの本の概要だが、本当にソレが深宇宙天体由来のニュートリノかどうかを確率的に計算し、理論値としてソレがそうであるという公的な認知を得るための仕掛けや理論や政治や金や・・あらゆる駆け引きが蠢いているという生々しい業界のドキュメントでもある。

研究者としての成功や失敗、その生々しい国際的駆け引きを面白おかしく、しかし正直に書きしゃべくるところはいかにも大阪人(^^;

前書きによると「さして才能に恵まれない科学者の苦闘の記録」だそうだ。
しかし、次第に明らかになるのだが著者は紛れもなくこの最先端の物理分野を切り開いていく現代最高の知性の一人であることがどうしても解ってしまう。
何故かというに、私にはやっぱり理解できない確率統計や論理プログラミングをごく日常的に普通に企画し実行しているのだ。
この分野の同業先駆者小柴氏はすでにノーベル賞まで受賞しているし。
しかしあくまで著者はこの分野の優秀な同僚や同業者の中の一人であり、そのくらいの研究活動なら誰でもやっている、という風に自分の研究仲間の活動と業績もに詳しく紹介しているのだ。
私は最近「ギフテッドの悲哀」という文を書き、IQ130以上の知的ギフテッドは「自分が普通に理解できることをどうして他人は理解できないのか」という素朴な疑念を抱くのだろうと書いた。
正にこの書はそのような「どうしても天才には理解できない他者の認知力の不可解さ」を傍証していると見えてしまう。
この光文社新書の読者は文中に引用される数理・物理・データ解析・統計グラフが添えてあるので課題の理解は容易だろう、という親切心は理解できる。
しかし著者はどうしてこの自明で平易な解説が読者(私)に理解できないのか、決して理解できないのだ(^^;
別に複雑な数式が出てくるワケではないのだが、あるデーダ分析の誤差の確率がその範囲になければならないというような数学的に自明な論理がIQ129の私にはとても理解できるところではない。
吉田サン、これってよく分らんのですけど?と私が尋ねると、そこで著者は絶句してしまう。
そして逆算し、「あ、コイツはひょっとして東大出とらんのでは?と唖然とし、全く珍しいマレな人物を見る目で私を見つめるんやないだろうか?
天体との40億光年の隔たりを実感としてどうしてもイメージできない人も実際に居るんだなぁ。とか。

ま、ソレは逆僻みとして、著者の同業他者への信頼は完全に同じ論理を追える者同士の相互理解が基盤になっているようだ。
もとより現在の宇宙観測は具体的な組織や設備が必要ということもあるが、データー解析やプログラミングの最適化、問題発見の理論体系の整備等どうしても分業しなければならないほど多岐に渡り、それは一国の一大学だけではなく、常に国際的な集団分業に拠ってしか実現できないところまで行ってしまっている。
従って常にこの部分のプログラムは大野さんが担当し・・とかの記述になる。
それが日本・外国に関わらず意外と女性が多いということも、密かに著者は匂わせている風だ。・・・単に英語のクセで代名詞で受けるのに「彼女は」と繰り返しているだけなのかもしれないが。
読書中日本オリンピック委員会の森会長女性蔑視発言引責辞任ということがあり、私の中の女性観をちらりと分析すれば、宇宙論分野での女性の活躍というのはイメージ外だったのだ。
いや、元よりプログラミングは女性に向いているとかは言われていたのだったが。
日常では女性が多く進出している分野があり、男女差は自明なのだが、どうも最先端の分野の限られた頭脳集団の中ではそんな普通社会の男女差なんて意味ある指標に成り得る数的偏差はないんだろう・・・とか、「蔑視」につながる語彙用法は御法度とかで書きにくいことこの上ない(^^;

個人の内部で何を思おうと、個人の感想として何を言おうとそれは別に個人の範囲の話だが、政治家・公務員ともなるとソイツはイカンのだ。
まあ、そういうところが一般市民蔑視なのは自明なんだが。
そんな言葉狩りをするヤツにロクなヤツはいない。
はい、私は立派に蔑視してまっせ。

まったく、この本の書評にはなってないが、これが私のスタイル(^^;


〔読書控〕2021/04/04(日) 12:27

品川哲彦「倫理学入門」中公新書 2020

今、私は倫理学を教えて欲しいのだ。
どうも私の世界観は他者とかなり違っているようだ。
しかし、それでも日常生活上の差しさわりはないのだが、つまり別に倫理は現代の生活には必須ではない。法律さえ外さなければ。
しかし倫理意識は折に触れ私と他者との相互理解を妨げる。
法律と政治は論理で理解できるのだが、こと倫理意識に関しては私に理解できることは小学校で教えられた教条というくらいの認識でしかない。
人に優しく、環境を守る、社会の秩序を尊重する・・・自分と他人を尊敬する・・
下手すると「地球に正義を」並みのまったくの恣意的で根拠のない教条そのものを倫理観として持っている方すらいる。
それでは私には存在しない、そのような感覚はどこに由来するのだろうか?
だから倫理学として成り立つような論理の俎上に登り、客観的な学問として論理的に理解することができる「倫理」の存在を見てみたいのだ。

『倫理学は特定の活動領域に限定されない最も抽象的な次元で展開される規範理論だと位置づけることができよう。』
ありゃ? 抽象的? つまり客観性が期待できない?

この新書は昨年の出版で、COVID-19と経済グローバリゼーションや米のポピュラリズムの台頭等にも触れ、この分野の最新の考察であるようだ。
『アリストテレスから生殖技術、AIまで』との副題があり、広範囲な倫理問題を取り上げているのだろう。
最近の読書スピード・・一日2,3ページ、これは奇妙なことに私のトイレ滞在時間と正確にシンクロしているようなのだが、で一月かかって読み終えた。
そのスピードでは一つのテーマに関し、深い理解を得るまで考えるまで至らずだが、最近の倫理学の考究テーマやアリストテレス、カントからアーレント、アーベルに至るその方面の学究たちの見解にもれなく目配りしている優れた入門書だな、と見えはしていた。
今改めて内容の仔細を振り返ろうとしても個別の議論は覚えていない。
しかし、これは私が求めている「倫理学」ではない、という思いは常に抱いていた。

私が求めているのは理解できる者(正しい人)だけが理解できる倫理ではなく、「一般倫理」つまりグローバルエチックである。
現在の倫理学はやはり西欧的論理の積み重ねで議論され、どうしても私に「ソレは違う」と思わせてしまう。
アホでも生まれながらの殺人嗜好者でも、あるいは愚鈍でも、もっとグローバルにいうと生きてるのかそうでないのかわからんウィルスにも「解る」存在理由とその存在意義である。
倫理が社会的適合の知恵でしかないのなら、それは法律と同様方便として私は理解する。
しかし、全ての存在が自分の存在意義を疑いなく自覚できるような一般倫理、あるいは存在倫理であるような、カント風に言えば「手段ではなく目的であうような」根本倫理の存在が今私に必要なのだ。

本書で過去の時代の倫理、現在の医療やAI、環境問題に関連する種々の倫理観が解説されている。
しかし、常に私には「ソレは違う」という見解でしかなかった。
ソレって自分が「社会的に人である」ことが自覚できている者たちだけの倫理じゃないか?と。
小学生はその意識があるのか?
ないので教条として教えるしかないのだろう。
人を人体実験に使ってはならないのなら、動物実験はどうなのか?
残酷だから、と反対するのは感情移入が出来る範囲の動物だからで、植物や害虫、細菌類は食用以外でも生命を奪えないと感じる?
根本的にはその動物実験の目的は細菌やウィルスという病原を死滅させることなら、一体その生死を人が決定するグローバルな根拠はどう一般化されるのか?
自己、ひいては自己がシンパシーを抱く側の利益の為という功利主義的倫理解釈であるなら、自己の敵は病原菌のみならず、敵対者という人格まで含む場合がある。
死刑はそのような例で、現に死刑が立法されている国家もある。

そのように各倫理観が仔細される度に私の疑問は繰り返す。
反論ができない倫理は果たして可能なのか?

例えばこのような論理で宗教は否定されている。
『宗教(特に原理主義)自らの信仰のために異教徒を社会から抹殺し、ときには命さえ奪う原理主義者は、当人に他の人と等しき信仰の自由を授ける道徳を否定しているのだから、自分自身の信仰の自由を取り消される。とすれば倫理と対比された意味での道徳はおのずと無宗教的なものになるだろう』
信仰者を倫理の範囲外と切り捨てるならば、少数の知的エリートだけの思考実験としての意味しか倫理学にはないのか。

著者は倫理的教条主義者ではあり得なさそうだし、最終章ではSFもどきの、いわば、クラークの2001スペースオデッセイ的人類の教導者が登場する寓話を書いている。その柔らかい(非教条主義的^^)姿勢は評価するのだが、私に言わせれば寓話のモノリス風の「審級」知的階層意識が20世紀のステレオタイプと見えてしまう。
つまりは知的に上級な存在が「上」から支配・ドミネートするという西欧のドグマである。
著者はこの寓話で現在の感覚が広く同意できるハズ、とでも考えているのだろうか?
本当にドミネートしているのはオレだぜ。(COVID-19より)


『この決意(個人利益追求)を倫理的的な意味で「よい」と評価するひとはまずいない』(P258)
・・・いや、常にいるし、私の周囲の絶対的多数者がそうであるようなのだ。

『人はいつも高次なモノを希求している』?
それは「正しい人」の感覚で、著者の生活している学究社会では基本的共通意識なのだろう。
しかし私は絶対に「正しくない人」である。
そして私の周囲には「正しくない人」しか見つからない。
正しくないわれわれには理解できない共通倫理意識が「正しい人」に固有し、「正しくない人」は永遠にその倫理が理解できないのなら、私が知りたいのはそのような倫理ではない。
倫理が「正しくありたい」と思う人だけの規範であるなら、私が求めているのは既に倫理ではない。
結局無難な法万能主義が最終回答であるなら、なんとつまらない世界であることか。
私はそれでも「正しくない人のための倫理学」を見つけたい。
ひょっとして「悪人正機倫理学」かもな。


〔読書控〕2021/05/07(金) 10:06

更科功「宇宙からいかにヒトは生まれたか」新潮選書 2016

副題)偶然と必然の138億年史
すっきりとした読みやすい文章で、わかりやすい例えも交え一気に宇宙の始原から現在、そしてこの先を語ってくれる格好の一冊。
ちなみに私、例の流行り病罹患で強制入院中。この方の宇宙観・進化論・人間観はほぼ私が同意できる位置からのものなので、論理的違和もなく本当に興味深くしかもそんなに頭を使うこともなく読書を楽しむことができた。(>_<)

宝くじの例えがお好きらしく、なにかというとその例えが出てくる。
『私たちはかけがえのない奇跡的な宇宙にすんでいる。
宇宙には人間生存に適さないものも無数にあるはずだ。
これは宝くじを買った人のほとんどが外れてしまうようなものだ。
しかし、人間が現に存在しているという条件をつければ、その宇宙は必ず人間に都合よく調整されているのが必然で、べつに奇跡でもなんでもない。』
これは「人間原理」の一番手っ取り早い説明では(^^)

『今年の入学者全員が宝くじの当選者であることを知り、教授は驚愕する。
しかし、たまたま全員が当選者だったのではなくて、入学金が高額なので宝くじの当選者だけしか入学できなかったのだ。』(進化の偶然と必然のマクラ)

この例にもあるように、我々はことさら稀有な確率で奇跡的にこの宇宙でヒトをやっていると思い込みがちだが、べつにそれがヒトであることが特別なのではなく、たまたま今われわれがヒトであったからで、ウィルスであればまた別の宇宙史を書いているのだろう。
『また、進化とは変異することで完成することではない。進化に目的はないのだ。
進化には退化という方向も含んでいる。』
この言い方もかなりすっきりと人間優位型進化論の思い込みを切り崩している。

『ネアンデルタール人よりも、もっと近接1万7千年前絶滅のホモ・フロレシエンスは島嶼化により身長1.1メートル脳400gに「進化」していった。
人類はまあ数百万年ぐらい経てば絶滅している可能性は高い。意外にあっさり来世紀あたりに絶滅してしまうかも知れないし。ともあれ、ヒトが絶滅したあとも、地球や生命の歴史は何事もなかったかのように続いていくにちがいない。』

本書の最終部には作者による黙示禄が淡々と語られている。
あまり見事に淡々としている・・・つまりはごく当たり前に語られていて、何事もなく「あ、そうなんだ」と思わされてしまう。
奇跡も神も人類の永遠の未来もなく、普通に淡々と。

『数億年のレベルで考えれば、地球は確実に暑くなっていくだろう。
二酸化炭素の減少によって影響されるのは気温だけではない。光合成が行えなくなり多くの植物が絶滅することになるだろう。やがて地表から水分が蒸発し始めれば、すべての植物は絶滅、植物を食べていた動物も生きていくことはできない。
そして地球からはだんだんと生物が減っていくことになるだろう。
まず多細胞生物がいなくなるだろう。つぎに、単細胞生物のなかでも複雑な構造をしている真核生物が絶滅するに違いない。最後に残るのは、きっと真正細菌や古細菌などの原核生物だろう。
地球はこれから50億年以上、太陽系の惑星として存在し続けるだろう。そして最後は赤色巨星となった太陽に飲み込まれて、地球はその一生を終えるのだ。
しかしそれよりもずっと前、おそらく今から10億年後には、気温の上昇によって地表にあった液体の水はすべて蒸発し、海は消滅してしまう。そうなれば、もはや生物は存在できない。
つまり地球の歴史は約45億年まえから約50億年後までのおよそ100億年だが、生物の歴史は約40億年まえから約10億年後までのおよそ50億年というわけだ。
私達ヒトが生きている現在は地球の生命の歴史のだいたい5分の4が終わった時点ということになる。残りは5分の1、およそ10億年だ。』

地球--------------------------------------------------------------> 消滅
   原核細胞菌------------------------------------------>消滅
     真核細胞菌-------------------------------->消滅
        多細胞生物------------------------>消滅
            植物---------------->消滅
              動物-------->消滅
                ヒト->消滅


このすっきりとした黙示録の清潔このうえない美しさよ(^^♪
『そして生命が去り、地球が消滅してしまってからも宇宙は続き、宇宙が消滅してからもどこかで別の宇宙が出現し・・・・
時間と空間を超越した、眼がくらむような果てしない物語の中で、一瞬だけ輝く生命・・・それが私たちの本当の姿なのだろう。』

というのが著者の結語である。
がしかし、これは少々人間的に過ぎニュートラルな目ではないな。
いったいどこに向かって生命は「輝いた」のだろうか?
輝くこともなく、なにも残さず記憶もされず消滅していくカスのひとつが生命なのだ。
私はそのカスがどうして自意識を持つ必然があったのか理解に苦しむ。
自分がカスであるということを自覚する悲しみだけは存在するということ?

(後日付記)
自分の読書控を見、この書は2018に既に読んでいたことを「発見」(^^;
しかも書評の内容も殆ど同じ(^^;
読書中も、書評をでっち上げている過程でも再読とは一度も思い出さなかった(^^;
これは何と言うか(^^;
もう何回でも同じ本を新鮮に愉しめるトシになったというか(^^;
同じレベルの知的感応性がまだ残っていたと、せめて喜ぶべきか(^^;


〔読書控〕2021/05/19(水) 10:39

中山七里「死にゆく者の祈り」新潮社 2019

あ、そうだった。
この作家ならいつだって愉しめるハズだ。
しばらく本棚を見ない間にまた多作の・・質が落ちてなければいいが(^^;
クラシック作曲家タイトルモノはあまりこじつけが過ぎるので遠慮、最初に衝撃を受けた人間の暗さに踏み込んだヤツで・・・
もっとも、ソッチの本流は中村文則本がすぐ上の書棚に圧倒的な重さで並んでいるので・・今の私には読む気にはならないのだが、この作家ならエンターティンメント路線を外すことはないだろう(^^;
やはり期待通り、久しぶりにまっとうに小説本が読め、日ごろの習慣の光テレビの映画を見るよりも吸引力があった。寝転んで本を読む食後の愉しみ(^^♪
ま、最後の小説としてのエンターティンメントを保障するご都合主義的な「偶然」には口を尖らせる他ないが、そこまで厳密な文学作品じゃないのでそれでいいのだ。
疫病上がりの身としては好みのエンタティンメント作家が未だ量産してくれているのは心強い。当分読み物には不自由しないだろ(^^)/。


〔読書控〕2021/05/24(月) 11:08

宮城谷昌光「孔丘」文芸春秋社 2020

や、新しい宮城谷作品か? え、「孔丘」? 孔子なんて小説になるん?
宮城谷もあとがきで小説化に幾度も難航したと記している。
もっとも私の疑念とは違い、作家としては史料の極端な偏りが原因らしいのだが。
もちろん私の懸念は儒者孔子の一生なんて面白いわけがない、という史上隋一の学者君子のイメージから(^^:
この点も宮城谷は完璧な君子像からは少々自由に人間的な孔子像を試みた、と書いている。
戦国中国の覇王や武将の伝記の波乱万丈にはもちろん及ばないのだが、しかし孔子だって一時は権力に命を狙われ、諸国に亡命している。そして遂には帰国を果たし「世界的な」高名を得るのだが、その過程の苦難は初期作品の「重耳」を彷彿とさせる典型的な宮城谷流離譚モノに書き込まれ、本のページを繰らせるに十分な小説的エンジンになっている。
さすがじゃ、宮城谷。
というか、宮城谷によって中国古代史の世界観を植え付けられた当方としては、やっと往時の宮城谷世界に遠游できた待望の新作というカンジの読書だった。

いつもこの辺りで、高校時代から中国古典に親しんでいた旧友白鳥保二君の宮城谷への評価が異様に低いことを思い出してしまう。
多分、宮城谷の語り口があまりに主観的、小説的でありすぎる、ということだろうか。
小説化してしまった語り口は中国古典の本当のリズムとは大きく違う。
しかし、私には小説家が適当に咀嚼して脚色し解説してくれるやさしい古典くらいの読書が楽しいのだ(^^♪


〔読書控〕2021/06/30(火) 00:21

ポール・ディヴィス「生命の起源」 木山英明訳 明石書店 2014

何時になっても(と言うか何歳になっても・・)私には生命がどうして発生したのか納得できていない。
この疑問が頭から消えない限り、ミクロ的には自分がなぜ存在しているのか、マクロ的には「存在」はどうして「存在」するのか、という根源的な疑念が私の生活感覚の最深部で蠢いている。
だから私は自分自身の倫理の在り方も現在社会や世界への評価も確信をもって下せない。
私とは一体何なのか? 生命がどうして存在しているのか、が腑に落ちない限り、私が善く生き生きと生きることはできそうにない。
最近読んだ本(更科功「宇宙からいかに人が生まれたか」・・知らずに2回も読んでしまっていたのだが^^;)には「何故と問うことに対する回答はない。ただご先祖がたまたま宝くじに当たったから、今生命は現存している。
それ以外の無数の宝くじに外れた「非存在」は存在していないので、どうして自分が存在していないのか問うこともない。」とかの究極の人間原理が示されていた。
おそらく、「何故存在は存在しているのか?」に回答や理由はない。
気が付いたら存在してしまっていた。
今存在している存在は全員宝くじに当たったから存在していて、自分達全員が宝くじに当たっているので、自分達が宝くじに当たったということを誰も知らないのだ。
しかし、私は「この生命が何故宝くじに当たったのか」を根底的疑念として孕んでしまっている。
それは存在していないものの存在の気配を感じるからか、あるいは自分が存在しているということに心から納得することができていないからか?

かくて、今回もこのようなタイトルを目にすると早速読み始めてしまう。
かなり高名な科学理論家らしく、アカデミックな賞を数々受賞しているようだ。
トリッキーな「人間原理」や「偶然」、その他神がかりな要素を徹底的に排除し、始原の生命の発生のメカニズムをあくまで科学の厳密な土俵で解明すべく、この厄介なテーマを掘り下げていく。
20世紀初頭では自然発生説は排斥され、選択肢は生命は初めからあったか、そうでなければ、その起源は奇跡か、の二つしかないと。

この究極の二律背反を膨大な文献・知見を引用しながら検証していき、遂に結論が。

そこなんだ。その結論を先に・・・しかし、その結論を当方が納得できるにはその膨大な論理の積み上げが必要になる。つまり、私はやはり論理以外の方法では100パーセント納得することができない悪しき近代のヒトである。

生命の誕生は驚くほど稀なできごとで、宇宙全体を通して二度とはおこらないほど稀有な偶然だったかもしれず、あるいは、食塩の結晶ができるのと同じように、始めから決定された、何でもないことだったのかもしれない。そのどちらの答えが得異界かを、どのようにして知ることができるだろう。
狭い生物学的な意味でなら遺伝子を複製することが生命の仕事だといってもいい。
しかし、DNAはそれだけでは無力な存在である。・・・一個の生物は、DNAをつくる遠回りなやり方だとみることもできる。

著者は今日的な視点で、ソフトとハードという概念を持ち込む。
DNAは情報つまりソフトで、たんぱく質はハード。
・・DNAがRNAを使いリポゾームに指定したアミノ酸を送り込み、目的のたんぱく質を出力させる・・・

---以下、例によって当方がピックアップした知見をそのまま引用するが、書評は結論以降に送っておく ⇒・・・・

一個の核酸(DNA)分子を構成する原子連鎖の大部分は無作為な連鎖である。
しかし、無作為な連鎖がすべてゲノムになるわけではない。可能なすべての無作為な連鎖のなかの、ごくごく少数の無作為な連鎖だけがかすかに生物としての機能を果たすのである。

一個の機能するゲノムは、無作為であると同時に硬度に特定化されている。
無作為の突然変異とその自然選択は、生物学的情報を発生させ、短く無作為につくられたゲノムを、長い年月をかけて、次第に長い無作為なゲノムへと正調させるもっとも確実な方法である。
突然変異の外衣をまとった偶然と、自然選択の外衣に包まれた法則の結びつきこそ、この不可能な目的を実現するに必要な、無作為と秩序の同居を可能にしたのである。

RNAが先ずあった説とたんぱく質が最初説。
今日見られる形の核酸とたんぱく質の組成は複雑すぎて、既製品としていっきに発生したものとは考えられないとする点で、科学者たちの意見は一致している。・・・非生命から生命に至るのにより単純な道があるとすれば、今日の生化学的組成はローテク時代の先行者たちのものから派生して、磨きをかけられた姿だということになろう。

自己組織化・・・それは果たしてタダで手に入ったものか?


しかし、生命の起源が宇宙のどこかある特異点にあったとして、それは『この分野の研究者たちがここ数十年悩み抜いてきた生命起源の中心問題は少しも解明されるわけではない。
中心問題それこそ、生命はあまりにもうまくできすぎていて本当とは思われない、という問題である。』

「もし地球以外の場所で別の生命が発見されて生物学的決定論がただしいことが確証されたら、ダーウィン説の偶然性にどっぷり漬かってきた正統派の(最終目的というものはないという)考え方は深甚な打撃をうけることになる。
生命がある意味で不可避なものだとすると、特定の終点に到達することが確実になってくる。終点・目的、それは科学ではタブーの概念だった」

宇宙の生命の探索は、私たち自身の探索でもある。自分は一体誰なのか?・・・
科学的な証拠は何を示しているか。
私たちは、意味のない気紛れか。それとも、生命に絶妙にも優しい宇宙の産物なのか。」
(ここが私の生命の起源に対する疑念の根源だった。私とは何か?)

生命は偶然か必然か。
ジャック・モノーにとっては生命の起源は、まったく運命の一閃であり、盲目的な宇宙くじの結果なのである。

しかし、今日生物学者で、物理法則と同じような意味で生命の法則といったものが存在すると信じるものはほとんどいない。物理法則の上に、物質を生命に導く特別な法則とか原理があるといった考え方は、多分に神秘主義的な、生気論の面影が透けて見える、と考える向きが多いのである。
→さて、もしかすると、生命をつくり出すのに必要な力は、物理法則のなかにすでに隠されているということはないだろうか。
物理学の基本法則と、複雑にして情報が詰まった生ける細胞とを結ぶ通り道とは一体なんだろう。
私たちが愛する自然の法則は、どのような情報も創り出すことはできない。法則はインプットされるデータをアウトプットされるデータに変換するだけである。
法則は情報を整理する。しかし情報を創り出すことはできないのである。

生命の発生へと向かう道の主要な一歩は、分子がただ受動的に普通の科学の道に従っていた状態から、自分自身の通り道を自分でつくるようになった、という変容であろう。
その巨大な一歩は遺伝子の暗号を使ったソフトウエアによる操作を導入することによって、この相反する「自然な」反応と「不自然な」反応の二つを結びあわせることを可能にしたのである。

彼らが従来の物理学と化学で生命を説明しようとしたからである。それは媒体と伝言を(メディアと内容、あるいはハードとソフト、シニフィアンとシニフィエと訳すべきか→訳者へ)を取り違える古典的な一例だったという事ができる。
生命は、化学の命令を「回避」することによって成功しているのである。

複雑性と無作為性。一見無作為に見える数列の背後に、実際には存在する見えにくい公式を見落としていたと言う場合。事実、無作為であることを証明することは大変難しい。

生命は複雑に見えて実際は単純なフラクタルのようなもの、だろうか。少なくとも最初の生命はそうだったのだろうか。後はダーウィン進化で複雑性が不可避に積み重ねられていった・・著者は否と。

ある種の自己組織化する物的プロセスには、複雑性がある閾値を越えると、その自己組織化と自己複雑化の効率が突然高くなる。
そうした法則が実在するなら、その系は球速に生命に向かって進みだすということも考えられる。
物理法則は情報を単に整理するだけだが、複雑性の法則は実際に情報を発生させるかもしれないし、少なくとも環境から情報を掴みだして、物体の上にそれを刻みつけるのかも知れない。

分子のダーウィン進化と組織された複雑性の法則・・
組織化の原理はダーウィン進化だけの場合の漸進的な進化より、あるとき突然複雑性が飛躍的に増大する、ということが考えられるのではないか。

著者の第二の仮設・・憶測に今は過ぎない・・
極微の世界では量子力学が有効である。
波動と粒子の共存。
波動はソフト、粒子はハード。
情報には下方に向かった因果の力がある(←意味不明→訳者へ)
情報をもつ巨大分子がいかにして発生したかを説明するには、何らかの量子がかかわるプロセス考慮にいれなければならないかも。。

「疑似結晶」はDNAがそうであるように、莫大なアルゴリズムの複雑性を伴った一見「存在不可能な物体」であるかのよう見見える。しかしそれが、量子力学によって、存在することが可能になっているかもしれないのである。
『決定論の立場からすると・・・私はこの宇宙を「宇宙の冗談」といった風にではなく、意味のある実体として見たい。・・・そのような意味のある実体としてである。」


スティーブングールドも同じように、生命はやがて心を産み出すようにうんめいづけられている、とする見解を否定する。
地球の生命の歴史は巨大な宝くじにも匹敵し、当選したものの背後に無数の外れた者がいる。そこには運命の無数の偶然が重なり、無数の恣意的な奇譚が加わり、その流れは本質的に無作為である。
そこにいくらかでも人間に似た存在が出現する確率は、まったくのゼロである」と断言する。

他方の世界観は、思考する存在が発生したのは、宇宙全体の成り立ちの基本的かつ総合的な部分であって、私たちは独りぼっちではないと見る宇宙観である。

----------引用終了-----
↑これが本文の最後、つまり結論。
だから結局、偶然だったのか必然なのかは未だ棚上げなのだ。
しかし、私はこの膨大な論述から自分の問題点を整理することが出来た。

著者はかなりの部分で原始の生命としてバクテリア(単細胞生物)にフォーカスを宛てた説を展開し、宇宙起源説も詳説する。
この膨大なバクテリアに関する詳細が非常に今の私に役立った。

現在の生物学では謎の生命始原体から古細菌類(メタン菌等)と真細菌類=バクテリア(大腸菌等)が分岐。
更に古細菌の枝から真核生物が分岐する。つまり多細胞生物の起源はまったくバクテリアの系統とは関係がない。
現在の知見ではバクテリアは40億年前から存在し、現在もやはり地球上の圧倒的な優性種であり、数的にも量的にも地上の多細胞生物全体を凌駕している。
だから生命の普遍的な形としてバクテリアを論じるのは理にかなっている。

現在、古細菌から真核生物→多細胞生物が発生し、古細菌ともっと以前に分岐したバクテリアはいわばそれ自体で完結し、多細胞生物的進化という道を全く選択していない。
真核生物から現在の動植物に至る35億年よりもっと長い時をバクテリアはひたすらバクテリアでありつづた。
バクテリアには進化する必要はなかった。
ダーウィンの進化論はバクテリア界には完全に適応できない。
このことは本書では全く触れられていないのだが、私はそう確信する。

進化論者は40億年のバクテリアの膨大な存在期間をどのように説明するのか?
個々のバクテリアは死ぬ必要がなかった。
事故的に消滅しないかぎり、物理的な制約で生化学的代謝ができなくなることが無い限り、個々のバクテリアは消滅しない。
条件が悪くなればただ休眠する。
条件が適すれば活動し、増殖する。
そのようにして宇宙に飛来する隕石にも休眠バクテリアは存在しつづけ、地球に到達し・・真核生物が巨大多細胞生物になっても別に競合することなく、それどころか巨大多細胞生物自体がバクテリアの快適な存在環境になり・・・

バクテリアはひたすら周囲の環境に同化し、あるいは休眠し、ただ存在を続け、存在可能であれば増殖する。
意思をもつ必然性はない・・・ただ存在を続けようとする性質があるだけ・・・
適者生存とは全く別の原理でただ存在する存在なのだ。
これも相当奇妙なことで、やはり生命の始原の根源的疑問なのだが、もう私の「自分とは何か」という問題意識とは土俵が違っているのだ。
そして、バクテリア状の微小生物・・・他の存在と競合することなくただ地球に(あるいは宇宙に)偏在していた生物。それは宇宙と同じようにただ存在した。
私にはそれでいいのだ。
私の自意識は生命の始原由来ではなかったのだ。

圧倒的多数しかも常にドミナント種であるバクテリアにはダーウィン進化の適用範囲外なのだ。
適者生存説は逆に敗者敗退があって成立する。
つまり宝くじにあたった側の世界観である。
バクテリアにはそのような明確な敗者はない。
バクテリアは宝くじをやらない。
逆に多細胞生物は新陳代謝の効率化の故、戦略として「死ぬ」ことを発明したのだ。

バクテリアは競合的進化せず、ただ共存在(coexist)する・・・hemiq 2021。

条件が良ければ存続し、増殖する。
・・・この存続する理由は?単純に惰性だろう(^^♪
今や、私にとって存在論的な疑念の回答としては、そんな簡単なモンで良くなったのだ。
私の根本疑念は圧倒的多数の生命(バクテリア状の存在)の存在のことではない。
バクテリアを取り込んで共生、さらに隣の細胞と手を組んで巨大化していく地球表面型の多細胞生物、(これがダーウィン進化の真の適応枠だろう)の意識の発生のメカニズム。
この囲い込みによって、多細胞生物の共生と勢力・力の論理がダーウィン進化の産物としてはっきりと見て取れるのだ。

後は実に簡単・・・これで社会・倫理の範疇の問題に私は集中できるのだ。
やっと長年の疑問から私は開放された(^^♪

・・著者と適切な紹介者である訳者に謝意を表しておきたい(^^♪。


〔読書控〕2021/07/10(土) 23:29

中山七里「ネメシスの使者」文藝春秋社 2017

この作家を注目させたシニカル・ブラック・エンターティンメントもの。
小説というエンターティンメントの中で主人公達に著者の私憤を存分に語らせるという心憎い芸。
死刑存続賛成80パーセント社会に対する死刑反対国際基準派や温情主義者のせめぎ合いと法によらない社会正義の実行(大義名分殺人)をヒーロー視する無責任なネット社会等、私にも突っ込みどころ満載のテーマを軽く刺しまくり、最後にいかにも風のドデン返しオチをサービス提供するいつもの芸の冴え・・・しかし、あまりにもこの結末は無理やりこさえた観は否めない。

読書中、たまたま主題が近接する映画を見た。
「死刑基準」2011 加茂隆康原作 水谷俊之監督。
こちらは死刑反対派の第一人者弁護士が妻を殺され、死刑は必要と改悛し、死刑反対の根拠は欧米に追従するという以外は「冤罪・誤審の可能性」の排除だけ。
なんとも薄っぺらいエンターティン化で、このテーマでコドモは遊ぶな!と言っておきたい。

中山のエンターティン化の重層する私憤・私見のダメ押しは死刑は極刑ではなく、もっと救いのない最終刑がある、という見方。
このテーマを扱うエンターティンメントとしてはそれなりの問題意識を喚起するくらいの力はある。
物語としてはあまり面白くなかったのだが、死刑制度について各方向に対する私見を再認識していくことはでき、それなりの吸引力はあった。
私の見解は「人は人を裁けない、裁くのはあくまで法」という罪刑法定主義のゆるぎない完遂なので、中山が「法曹界の自助で改めなければならない問題を一般市民に丸投げした・・・」と裁判員制度をチクリと刺すのは快なり。
また、今まで気が付かなかったのだが、裁判員の資格審査で裁判長が明確な死刑反対主義者を意図的に外せる、又は裁判所が明確な死刑反対主義の判事を現場から遠ざけることができる?というような微妙な議論も存在するのを教示してもらった。なるほど。


〔読書控〕2021/08/01(日) 14:49

岸政彦・柴埼友香「大阪」 河出書房新社 2021

著者達の中の「大阪」を語る連作エッセイ。
大阪に来た人(岸)、大阪を出た人(柴埼)という視点だが、両者とも大阪への自分自身の愛着の源泉を掘り起こし、作家離れした飾り気のない語り口(大阪ネイティブ調)で読ませる。
吉本の芸人の「大阪」はあくまで非ネイティブの演出された大阪で、嘗てのナチス・ドイツ本国より周辺の小国が却って大げさにナチスをやっていたという事情をいつも同時に思い出す。
私は大阪は出たのだが、今は着かず離れずの距離で元大阪人を適当にやっていて、両者の語る話に思わず引き込まれてしまうくらいの大阪度はある。
そや、そんな感じやった、とか。
要するに自分が育ち自己形成をさせられてしまった時代と土地の光景は既に自分の内側の属性になってしまっているのだ。
だから著者達にとっても、私にとっても「大阪」を語ることは自分を語ることと同義でもある。
特に大阪を出た人(柴埼)の語る西大阪環状線沿いの地帯の25年前の雰囲気は私の50年前とはさほど違わない大阪の光景だった。
ただし、柴咲の年代・嗜好とは違い私はその大阪を愉しめたことは一切ない。
チンケで小便臭い西成の路地を嫌い、遂にはヨーロッパに移住するまで嫌いぬいた地だが、しかし今は着かず離れずの心理的距離でやっと落ち着いたようだ。
これはザールブリュッケンでひと夏暮らした後に大阪を見た時の印象が以前とは少々違っていることに気が付いたからかも。
ウチのヨメも大阪ド下町の空気を常に輸入して来てくれるし、空気だけならいいがヘンなモンまでウチの県に差し入れていただけたりもする。

昨年、環状線内南端の高校の同窓で関東在住I氏のセンチメンタルジャニーに一日付き合ったのだが、このトシになると密かに少年時代を過ごした大阪下町をもう一度歩きたいという思いが高じるのは私にもよくわかる。
ちなみに、この高校の男子制帽の白線が4本だったのを柴咲の高校時代の述懐(白線3本)を見て思い出したのだが。
そのI氏が断捨離の一環で書物を一山寄贈してくれた内の一冊なのだが、この本には「乞読後返却」の付箋が、おいおい!
しかし、手元に置いておいてもう一度読みかえしたくなるような類の雰囲気があるのも激しく同意(^_-)-☆。

special thanks to K.Inoue


〔読書控〕2021/09/18(土) 15:57

岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一朗「社会学はどこから来て、どこへ行くのか」有斐閣 2018


社会学は暗いのだが、ひょんなことで手に取ったこの書が意外と面白く、しかしそんなに熱中する、というほどでもなく、毎日2、3ページ、とうとう一ヶ月以上付き合ってしまった。
これは評論集ではなく対談集。
中堅社会学研究者たちの気心しれた仲間内での会話の生きがよく、現役ばりばりの大学教員達の進行形の研究の問題意識をぶつけあい、同感し、あるいは違和を唱える忖度無い本音が活写され、ある意味すがすがしい。
特に座長格の岸の発言の巧妙な大阪弁での混ぜ返し方や受け流し法が話芸として見事、吉本系芸人にはその呼吸を是非学んでほしい、とまで思った。

この上の前著評では共著者のことばかり書いたが、ついでにこの機会に、前著での岸の文章も適切な自分の想念を明示化する表現力があり、この人の視線のありかたがよく解った、と今追加しておく。

岸が開示する問題意識のあり方が社会学という枠だけではなく、広く歴史・経済・哲学にも抵触し、社会学の門外漢である私が捉われている問題にも共通する一般性がある。
根源的な問題意識は研究分野を超え、広く共通するのだという風な感慨を抱いた。
存在論であり、現象学のテーマでもあり、倫理へも踏み込む。

しかし、ここではそのことを指摘するだけに今はとどめておく。
要点への付箋はかなり多いのだが、いちいち引用するのももう面倒(^^;

それやこれで、門外漢の私もそれ相応の知的刺激を受けた、とだけ書くのが精いっぱい。もう私の残り時間はわずかなのでできるだけ簡素にいきたい(^^;

岸が自身の手法「質的」調査で、代表性議論にかなり独自の主張というか、開き直りをしている立場も私には深く同意できる。
私が「孤独な老人(一般)」という一人の老人は存在せず、ただ個々の様々な老人がそれぞれに存在するだけだ」と喝破したことと主旨は共通する。
質的調査と対置される量的調査であっても、しかし問題は同じで、サンプリング数をいくら多くしても全てにはならず、それはあくまである一定の条件下の個別の結果でしかない。
それでもなにかしらの傾向を抽出してくることは可能だろうが、それが個々の行為を完全に解明するわけではない。
社会学はあくまである一定の条件下の社会を解析するだけで、人の行為の夫々の内的メカニズムの理解を目的としているわけではないのだ。
岸が文学表現に一定の比重を置いているらしいのは、そのような社会学の射程範囲を補足しようとする内的欲求であろう。

議論の終わりの方で稲葉振一郎がポイントをおさえた社会学の成立事情を語っていた。
端的に言って社会学はマルクス主義への疑義から出発していく。
マルクシズムは政治・経済・哲学をすべて含んだ巨大な体系で、全ての社会問題、ひいては個人の倫理までそのシステムから理解され、説明され得る。
しかし、すべての社会問題は経済、ひいては階級闘争の産物なのか?
むしろその巨大なシステムでは処理できない問題が山積しているのが現在の社会ではないか?歴史からではなく、経済学ででもなく、もちろん政治によるでもない・・それが社会学の立場である。
実際にもアカデミックな場で、政治学や経済学という既存の明確な分野と研究者を社会学が取り合っている状況というのがあって・・・というような楽屋話で一同同意、という場面もある。
で、歴史学ではなく、哲学でもなく、政治学、経済学でもない社会学はどこへ行こうというのか? ほんと。

special thanks to K.Inoue

〔読書控〕2021/10/07(木) 18:46

富岡多恵子・佐々木幹郎「『かたり』の地形」 作品社 1990

副題:大阪詩の原風景
大阪人として否応なく大阪に触発されて物を書く二人の詩人の対話。
この書も大阪出身で大阪を去り、関東在住の旧友の蔵書の借読である。
「故郷は遠くにありて思うもの」という犀星をちらりと思い出してしまうくらい、ノスタルジックな大阪原風景は大阪を去って久しい者達だけが語りうるものらしい。

大阪とは着かず離れずの場所に居る私には大阪で「詩情」を掻きたてられることはない。しかし私はそれにもかかわらず、このやたらと散文的な大阪で青年期まで生きてしまったのだ。
やたらと散文的と思わず書いてしまったが、私の大阪はヨーロッパの森や古都に見え隠れする幻想や物語が棲息できそうもない最悪の時代だったのだ。
佐々木が富岡の質問に応える形で語る浪速や難波宮の時代、あるいは江戸期の大阪の在野の学者や浄瑠璃作家達の豊穣な語りの文化の蘊蓄を聴いていると、いかにも私の大阪は最悪の時代だった・・・そして今もそれは同じだが・・・という思いは変わらない。

この詩人達も大阪の散文性に詩人として言及し、『大阪人はなぜ青春が恥ずかしいのか』と見出しを付された章もある。
それぞれ大阪の詩人であるのにやはりその青春や恋愛を語る気恥ずかしさは共有しているようだ。
それは悪しき大阪文化の伝統を現在やたらと商業主義的にデフォルメしている感がある「吉本芸人」が自分の恋愛体験をマトモに語れるか、想像すれば判るだろう。
今の大阪には全てのロマンチシズムは発酵しようがないのだ。
この書でも書かれているが「好きやねん大阪」という標語を大阪市が使った時があった。私が大阪居住をヤメはその幼児的大阪弁が気恥ずかしく、生理的にイヤだったからでもある。
私の感覚では吉本芸人がつかう大阪弁はガキ言葉なのだ。
ガキが恋愛を語る語彙を持つワケがない。

で、私の父のように利を求めて大阪に押し寄せてくる地方人はその安易なガキ言葉なら容易に理解できたのだ。
参議院に立候補した横山ノックに父は投票し、ノックは当選。
「アイツ、おもろいやん」というのが父のノック投票の辞。

そのような言語レベルの地方出の労働者から吉本の漫才は圧倒的な支持を得た。
もちろん、それだけが大阪ではない。

東京人の谷崎がどうしても大阪弁で書こうとした上方情緒もある。
大阪モノの歌謡曲のハシリ「月の法善寺横丁」は、歌詞よりもセリフを聞いていた、とこの詩人二人は言い合う。
大阪弁で恋の歌は不可能だ。しかし悲恋をセリフで語ることはできる。
浄瑠璃も浪花節も歌謡ではない。本質的には「語り」なのだ。

今思い出した。
「月の法善寺横丁」を歌ったのは藤島恒夫だが、この芸名は藤沢恒夫にあやかっている。
藤沢恒夫は大阪の作家で私やこの本の所有者I君の母校の旧制中学時代の先輩である。
そして歌手藤島恒夫は西成区出身、私の母によれば「藤島恒夫の家は近所で、親にお金を貸した」と言っていた。
この私もモロ大阪人である。

あまり、本書の内容には関係しないのだが、詩人二人の語る大阪原風景を読んでいると私の記憶にある大阪も自動的に蘇ってきてしまう。
あまりに散文的な大阪だが、私の記憶からは今では失われてしまった大阪西の運河と橋の光景への郷愁の念や、それに中の島公園を高架高速で通過する時、それなりの都市美を感じ、自分の苦しい青春の影がそこにうっすらと漂っているように思うことくらいはある。

関係ないついでにもう一つ書き加えておく。
富岡は大阪文学学校での小野十三郎の弟子だが、小野十三郎のことを昨年ちょいと他の書庫に書いた
その中に「大和郡山の紡績工場」という地名があったので気になっていたのだが、小野は少年時代は大和郡山市に居住していた。
その大和郡山の大日本紡績郡山工場の跡地に建った郡山駅前団地に私も居住していたのだった。
現在、この団地の中には小野十三郎の「ぼうせきの煙突」の詩碑があるようだ。
私もこれこのように、常に大阪とは着かず離れずという距離ではあるらしい。

special thanks to K.Inoue

〔読書控〕2021/10/19(火) 10:45

森本雅樹「生命の旅150億年」1998 イースト・プレス

タイトルを見、中身を確認せず図借出。
読んでみると20年前の出版のごく初歩の啓蒙書だった。
まあいい、何か得るところがあれば(^^;

著者が「森本おじさん」と自称するワリにはソコまでの機軸が練られてなく、中途半端な噛み下し方。当時の宇宙熱に便乗しただけのあまり新味もない本。
非常に原理的根源的な地点から20年前現在の環境問題出現までのとんでもない時間空間のつまみ食いのような(^^♪

「宇宙は時間と空間とが分離して生まれた」
を、なるほど。
『時間の方向を決めているのは原因と結果。宇宙のはじまりでは高温でそれぞれのプロセスに割り当てられているエネルギーがとてつもなく大きい。宇宙全体がほんの少数のプロセスで支配される。そうすると原因結果のむすぎつきが弱くなる。あやふやになる』
『最初に原始一個だったとすると、偶然だから原因結果はない。つまり時の方向性はない。2個になると√2くらい時の方向性が出てくる・・・一万個になると100くらい時の方向性が出てくる。そうして数が支配するようになって時の流れが一方向に定まってくる。』

最初に因果あり・・かと。

望遠鏡の種類の記述説明が面白い。
光学望遠鏡からはじまり、赤外線望遠鏡、電波望遠鏡、X線望遠鏡・・・
ときてニュートリノ望遠鏡が挙げられている。
これはカミオカンデのこと。
そうか、アレは望遠鏡だったんだ。
あれで宇宙を見るのだ。

生物の発生でDNAの説明があり、もしかしてRNA生物が先かもとの示唆。
しかし現在にちかづくにつれ、少々記述が気になりだす。

『それまで、原核生物だけの時代が20億年もあったの対して、15億年の間に真核生物は単細胞から人類にまで進化したのである。』
間違いではないが、この直進的な記述は今では容認できない。
まるで原核生物が真核生物に置き換わられたような記述だが、どっこい相変わらず原核生物は存続し、生物マス圧倒的多数のドミナント種であり続けている。
ソチラの目からみれば現在の真核生物群は地表の一部にこびりついた特殊な少数者で、意に解する必要もない季節性変種なんだぜ。

『温暖化で北極と南極の氷が溶けると海面が300メートル上昇する』などと、とうとう森本おじさんが20年前の馬脚を露してしまう。
北極の解氷は海面に影響せず、南極の棚氷の解氷は計算上6メートルの海面上昇になるんだよ。(ウエブでの検索で^^)

科学啓蒙書はできるだけ新しいのでないとなぁ。


〔読書控〕2021/10/28(木) 10:20

宮城谷昌光「公孫龍 巻一」新潮社 2021

久しぶりに地元の図書館に行ったら宮城谷の新作があったので思わず借りてしまった。
一気に読んで次巻・・と探したが見つからず。
あれ・・?
調べてみると全くの最新作で未だ続巻は発売されていないようなのだ。
図書館に巻一だけ所在しているのでヘンだ、とはおもったのだが(^^;
旧友の中国古典の玄人S氏はあまり宮城谷を買ってないようだが、素人の私としてはこの人の作の読書の時間が無上に楽しいのでどうしょうもない。
簡素な中国古典の古風を現代日本語で朗々と語る宮城谷の小説はS氏にとっては作家の方の演出過多に過ぎるということになるのだろう。
古風には反応できない私にはそのようなノベライゼーションがあって初めてエンターティンメントとして楽しめるようになるのだ。
それに宮城谷の日本語の語り口は講談師ほど騒々しくなく、すんなりと聞き得る。
中国古典をヒントにした日本の小説でいいんじゃ(^^♪

で、諸子百家の名家、公孫龍についてウィキってみると、殆どその人物の履歴が見当たらない。ただ白馬非馬論とかのソフィストであるという概説のみ。
多分、ほとんど史料が現存しない人物なのだろう。
それを逆手にとり、この手慣れた語り手が自由に、しかし史実と矛盾することなくその生涯を創作していく、その手並みを楽しむ作である。
ちなみに、同時代的には戦国4君、楽毅他の宮城谷が今までに取り上げてきたビッグネームが活躍していた時代で、そういった既知のスター達とのからみの逸話も興を盛り上げていくようだ。
現在のところ机上空論の口だけのソフィストのハズが武技の名手として活躍しているのだが、史的には弁舌家にすぎない主人公をどのように史実に収めていき、なおかつ小説的吸引力をクライマックスまで維持継続していくのか、こちらの空想を刺激してくれる。
多分三巻本くらいの分量にするとおもわれるが、後続を期待しつつ既出一巻のみ読了。


〔読書控〕2021/11/08(月) 16:11

養老猛司・玄侑宗久「脳と魂」筑摩書房 2005

あまり熱心な読者ではないのだが、以前から養老猛司の書くモノに私には自然に納得してしまえるいわば同波長感覚があった。
論理的に同意、という脳髄由来の得心ということでもなく、心理的あるいは魂付近の近似性とでもいうか。
確かに学者としては異例に饒舌で、本を書き、マスコミに露出し、新聞で発現しているのだが、けっして声高に現代を批判するのではなく、ななめに構えて揶揄するという一種の大人の風格もある。
この書は臨済宗僧侶で芥川賞作家の玄侑宗久との対談集。
タイトル的に言えば脳の専門家養老と魂の専門家玄侑との論戦と見えるのだが、実はこの両者は驚くようなレベルで親和していて、お互いに相手の言に触発され、すらすらと自己の思索の内部を開示、以心伝心的相互理解を確認という運び、思わず飛び出すキーワードに過不足のない反応が誘い出され、知古との対話のような楽しさが伝わる。
なによりこの禅宗の僧の広範な知識源におそれいる。
カトリックの教義や量子論、世界史の確かな見通し、西洋語の語源等等、宗教者とは本来的に思索することのプロなんだ、と当方を瞠目させてくれた。

養老サンもイエスズ会系の学校で学び、学者として大成した経歴だが、科学の本質は仮説であるという立場に揺るぎはない。
そして仮説は真実に永遠に達せず、この世界の存在の根源と言えば「?」と、判断停止しておく他にはない。
世に喧伝された「バカの壁」とは、そのような一個の仮説にすぎないのにそれが全てだと思い込み、そこから出られない思考をいう、らしい(^^♪

比喩としての根源、ということで養老はたいへん魅力的な例を引く。
有(存在)を一本の対称線で分けるとまったく同じ2つの有になる。
対称線を二本にすると4つに、・・・そして対称線を無限個にするともうどこにも存在を区別しようもないカオス(無)になる。
これを玄侑は色即是空という。
いや、ちょいとちがったか(^^;
まあ、いいや。そのような両者の相互触発的な対話が非常に面白かった。

私は以前から阿頼耶識という存在論の概念に捉われているが、この両者の世界の認識もそのような目に見えるもの(科学的対象)とは別の相にあるというあたりで一致する。
ソイツは分解してとことん細分して分析しても結局は捉えようもない原存在。
科学者の養老よりもこの臨済僧の方が先走りして量子論、ストリング理論やゆらぎ宇宙という先端の物理をもちだしてくる。
しかしそういう最先端の仮説はすでに大昔から、仏教の中で考えられていたと養老はいうのだ。
で、そのような存在論哲学が今の私には非常に得心のいく・・・解ってないのだが、なんとなく本当はそんなモンなんだろうな、という妙に得心のいく感覚を覚えるのだ。

読書中に張り付けた付箋は数知れず(^^♪
しかしもう以前のようにソイツ等をこの欄にすべて転記する気力も時間もない。
まあ、一瞬頭を掠めていった想念は脳か魂かどこかにほんのわずかな風をふきつけ、機会があればふとその感覚を思い出すこともあろう。

この両者の著作はちゃんと読んだ方がいいかな。


〔読書控〕2021/11/29(月) 13:34

田沼靖一「死の起源 遺伝子からの問いかけ」朝日選書 2001

私の今の思考課題に直角に刺さってくるタイトルを見つけ、中身も確認せず図書館より借入。
読み始めて奥付を確認すると20年前の出版だった。
この分野での20年前は既に時代が違う。
まあいい、当時の趨勢を見据えながら傾聴すべきところはメモしておこう。
・・・
しかし、当時の田沼の主張・着眼は今日では主流と目される位置になっている。
アポトーシスの起源とその生物系統学的意味、バクテリア(原核生物)に死はなく。「死」と「性」は多細胞真核生物が発明した二個一の戦略、というような着眼は現在では広く共有されている認識である。

それでもいささか古い概念からの記述は散見できる。
一倍体生物(バクテリア) ⇒(進化) 二倍体生物(真核生物)の図解の矢印にわざわざ「(進化)」という方向性を付けているのがいかにも時代の感覚、私なら ⇒(変種) と書くだろう。
現在でも一倍体生物は存続し、バイオマスからいえば相変わらず地球の優位種であることに変わりはない。

『死という逆説的なストラテジーを獲得できなかった(そうするすべを知らなかった)生物は繁栄することができず、死に絶えてしまうものもあったろう。』 これは明らかに古いステレオタイプ。
二倍体となり効率的に世代交代を加速させ、変化していけるようになっていったとして、結果として別段その種のみが唯一生存できているわけではない。
それどころか相変わらず地球はバクテリアの星なのだ。

このあたりの時代感覚は資本主義経済原理と相似しているようだ。
大きくなり敵に勝ち一族の存続を確保する。金と力が生存の目的。
しかし、その戦略を採用しない種が死に絶えたわけではない。
ただ金も力も不要な存在様式を続けているだけなのだ。
なんとなれば彼らは「死ぬことがない生物」なのだから。

いろいろ時代の感覚から抜け出ていない語調もあるのだが、基本的に田沼の論は正しいし、「死」が「性」と両輪をなし、進化の「最新型」の戦略であると喝破する着眼は時代の先駆であったのはまちがいない。

戦略的「死」を田沼は仔細に分類し、アポトーシスに対置させるべくアポビオーシスという概念を主張する。
アポトーシスはあくまで一個体内の戦略だが、個体の死はアポビオーシスで生じるとする。
私にすれば社会(種)という複合有機体内のアポトーシスとして個体の死をとらえるのが便利と思うのだが、なるほどメカニズム的には違うことだ。

この地点で田沼はドーキンスの利己的遺伝子説を批判する。
DNAも自死するので決して利己的ではない、更に言えば「利他的」戦略を採用し、個よりも全体の存続を優先することが性生殖をする生物の存在理由と意味(Raison d'etre)である、ということだろう。
しかし、ドーキンスの論はDNAが自分の複製(情報自体)を存続させるという利己性を言うわけで、別に個としての物理核酸DNAの存続を言うわけではないのだが。・・・
え?自分=私というのは厳密には「情報」のことだったの?(^^;

生化学者としての田沼はこの両様の死のメカニズムを克明に記述していく。
ミトコンドリアの獲得・環状DNAから螺旋棒状テルメア付きへの変化等、示唆に富むのだが、私の問題意識はそのメカニズムではなく、その根源にある「生」の意味なのだ。
田沼もやはり最後に存在論哲学に足を踏み込まざるを得なくなる地点に至る。
本書では生化学者の想念というほどの記述でしかないのだが。

「そして生命は、環境の変化をうまく利用しながら、長い時間をかけてさらに進化を遂げ、個体にアイデンティティー(個体がそれぞれ異なる遺伝情報をもつこと)が生まれた。そして、個体のアイデンティティーが生まれた瞬間に、現在「死」として認識されている「個体の死」が予告されることになったのだ。」
私の想念「死が自意識を産む」の原型はこの地点と言えるだろう。
自意識=アイデンティティー=個別の遺伝情報、これが核心だ。
私は田沼とはちがい、死のメカニズムや進化論的意味に深く踏み込む内的必然性は持っていない。
私は自分の自意識がどのようにして発生し確立していったのかを考察し、自分とは何か?という究極の疑義になんとか得心したいのだ。
せめて私個人のウントダウンが終了する前に。


〔読書控〕2021/12/02(木) 15:01

玄侑宗久「リーラ」新潮社 2004

この作者の職業と広範な知識に期待して小説を読んだのだが、ちっとも面白くなかった。
ある種の精神や心理を描くもので私が期待する物語性はまったくなかったのだ。
芥川の「藪の中」風の各人物のモノローグ(モノコント)の造りも新味がなく、却ってフォーカスポイントが散漫になり、読み進むスピードが何時まで経っても加速していかない。
それとなく人の住む世界の重層性や、逆の乖離性(?)のぼやけ方というほのかな思想性がテーマだがシーンを重ねる造りが思わせぶりなだけで、物語としてのクライマックス感に乏しい。
強いて挙げるなら:
(1)リーラというサンスクリット語の副題「神の庭の遊戯」のイメージ。
(2)僅かにクライマックス風の救い暗示する人物「弥生」の語る、縄文から弥生になり、生産性が向上し貧富が出現・・・という何らかの現在の「藪の中」風ディスコミュニケーションの根源への暗示。
が印象に残るのだが、あまりにも小説で書こうとし過ぎ、意味ありげなほのめかしが過ぎる。
この作者には小説を捏ねるのではなく、思想をそのまま語って欲しいのだ。
ほのめかせでないなら、微笑するしかないのかもしれないが。
小説以外を読んでみないといかんのかとか。


〔読書控〕2021/12/03(金) 22:07

二階堂黎人「クロノ・モザイク」文藝春秋 2014

最近日本のSFを読んでないので、ちらりと目に入った本を読んでみた。
アイデアはタイムパラドックスもので「バック・ツウ・ザ・フューチャー」風の過去風俗へのノスタルジーの味付あり。
いわば型どおりの設定で、パラドックスの組み合わせで生じるジグソーパズルを埋めていく進行。
この骨子が分かってくるといちいちの情景の描写が無意味にくどい。
アイデアをシンプルに纏めてくれればいいのに、凡庸で定型的で面白みもない文章が煩わしい。
パラドックスの骨子が予測できると、もう細部を読み下せるだけの吸引力はない。
ぱらぱらと最後の下りまで読み飛ばしてこの本は早めに終了。
挑戦的な思考実験を吹っかけてくる気配は毛頭ない類型的で凡庸な小説。

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