[読書控 2022 index]

〔読書控〕2022/01/12(水) 11:11

高村薫「土の記」(上・下) 2016 新潮社

この作を格別な思いで読んだ。
久しぶりの高村だが、新作ということではない。
今この時期の私がこの作を手にしたのは偶然だが、しかしこのタイムスパンが特別な寓意を運んできた。

作家が主人公に与えた年齢が読者の私に正確に呼応してしまったのだ。
作中の時間、2010年から2011年の上谷伊佐夫は72歳から73になり9月に死去する。
この脳血栓持ちの初老が現実と回想の間を徘徊し、あるいは生起する現実の小事件が過去の回想に流れ込み、自分の来し方が現在時間に逆流する・・というような生の末期のひとつの形が克明に復元されていく。
例えば主人公72歳の12月29日の日常を、ほんの少しだけ先に73になった私の12月29日現在が読んでいたりした。
ついでに言えば、強い小説的筋立てがあるわけではなく、作家による他人の人生の私小説という趣でもあり、読者に次々とページを繰らせることを強いる作ではない。
私は毎日の生活の5分、この作の2,3日を参照するようなペースで読んだ。

もう一つの私の時間・場所との符合が「土地」だった。
タイトル「土の記」は一意的には土壌マニア(?)の主人公の土への技術者的な興味や実際の日常の農耕での関わりだが、土地や地域という含意もある。
主人公は若くして奈良県大宇陀の山持ちの婿養子に入り、やがてこの村落一統の本家の主の役割を積極的でも消極的でもなく淡々と受け入れ地域に生きていく。
その非常にローカルな山間の村落の日常、地域住民とのやりとり、あるいは今はニューヨークに暮らす娘・孫とのやりとり、隣接する地区の親戚筋との交流が淡々と、しかし克明に書き込まれていく。
上谷伊佐夫が暮らして居た2011年頃には私は好んで宇陀・阿騎野・菟田野あたりをバイクで疾走していたのだったが、読書時間現在の文脈では私はこの「土地」を離れ、大阪に転居する正にその最中だったのだ。
読み終えた今は大阪ミナミの都心の高層住宅のリビングで南海難波駅上のスイスホテルを眺めながら書いている。
私の昨年は伊佐夫と最後に事故死する久代の本宅がある宮奥の山間の間道で数度野外ラーメン宴をやってりしていた。
この作に実際に引用されている地名は全て私には近しい、自分の生活の場の一部でもあったのだ。
直接私の市は引用されていないのだが、伊佐夫の燐家の大学生の息子は二人とも2011年の(最後の)夏には「天理の健康ランド」のプールの監視員のバイトに行っている(^^;
・・・あ、そうか、健康ランドのポイントで引き換えた3000円の食事券、まだ持ってるので今度使いに行かんと!
奈良に居を定め、モーターバイクの趣味を始め宇陀辺りの山や農道を週末にはヨメと好んで走り回り、それなりの膨大な回想の量を私も脳内に貯めこんでいる。
作家が実際の地名を小出しにする度に私も伊佐夫と同じく、回想の方へと現実が流れ込んでいく記憶の溶解流動を惹き起こすのだった。

そして伊佐夫がその土地の2011年の台風の余波の地崩れで久代と共に終焉にしていく年齢に私は40年ちかく住み慣れた奈良を離れ、最後の時間を大阪に転居して終わることにした。
73歳は私にとっても人生規模の変転に直面した年齢ということになる。

前回「新リア王」を読んだとき、まだ「若い(^^;」女性である高村が東京の日本の政界の80歳の重鎮の日常や思考の中を克明に再現し構成していくこの作家の類希れな創作力に感嘆した覚えがある。

先に作家による「他人の私小説」という言い方をしたが、自分では見落とし記録をするまでもない日常の些事まで克明に再現しようとするこの作家という職業技術は一体どういう類の才能なんだろうか?
他人の人生を克明に再現し、それを読者が追体験する・・それも読書によるもう一つ別の時間、もう一つ別の人生の仮想体験でもある。
確かに読書は、私の海外旅行のように「もう一つ別の人生」を生きていた時間なのだ。


追記) この山里のメインストリート”半坂”、村落共同体の絆社”屑神社”の現在 (5/3撮影)


〔読書控〕2022/03/05(土) 22:30

ローレンス・クラウス「宇宙が始まる前には何があったのか?」訳:青木薫 文藝春秋 2013

原題:A UNIVERSE FROM NOTHING: Why is there someting rather than nothing.

かなり刺激的な最新の宇宙論啓蒙書。
宇宙論を存在論と言い換えてもいい。
「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という命題は今や最新の宇宙生成理論でまったく別の角度からその哲学的根拠を足元から掬われ、まったく無意味(non sense)になったように思われる。いや、別に思考実験としての論理哲学はそのままで存続してもいい。
しかし今日の量子論で明らかになった存在の意味を無視すれば単なる言語遊戯になってしまう。
「存在と無」は対置する概念ではなく、物理学的には無と存在は同じものの表裏に過ぎず・・・我々から見ての表裏だが・・

著者は最先端の研究者として現代宇宙物理学で明らかになった宇宙像を述べ、古典的な宇宙論者、とりわけ創造者としての神を信奉する多数との議論を重ねてきたようだ。
もちろん個人の思想信仰の自由は尊重した上で、前書きでこのように述べている。
「しかし、究極の原因(創造主としての神)があると仮定したところで、『では、すべてを創造した者が永遠に存在しているのと、そのような創造主なしに宇宙が永遠に存在しているのとでは、どこが違うのだろうか?』

このような議論は本文中繰り返えされるので、著者のような先端の物理学者がいかに毎日一般の常識との舌戦にエネルギーを費やすハメになっているのかが透けて見える。
それも当然で、最新の宇宙論が描くこの世界(宇宙)は無の中で生じた量子的ゆらぎに過ぎず、その出自と終焉、あるいはその世界の根拠さえいわば単なる一過性の現象と言わざるを得ない・・という宇宙像が本当の・真実らしいのだ。

真実って?
面白い例えでこのように紹介されている(^^♪
『もちろん、話がうまく噛み合うからといって、そのアイディアが正しいという証明にはならないが、宇宙論研究者のあいだでは、アヒルのように見え、アヒルのように歩き、アヒルのように鳴くものがいたら、それはおそらくアヒルなのだという見方が広がっている。
そして、もしもインフレーションが、重力の働きにより物質と放射が寄り集まって、銀河や星や惑星や人間になるための種となる密度ゆらぎが生じる原因だったなら、まさしくわれわれはみんな、真空・・・それは本質的に無であり、何もない空っぽの空間である・・の量子ゆらぎのおかげで、今日ここに存在するといえよう。』

引用ついでに、私が抜き出したこの書の核心を紹介しておく。
書評にはならんけど(^^; 
しかし、以下の引用を走り読みするだけで、おそらく人生感が変わるだろう、と言わせていただく。

 ---引用開始---

それらは驚くばかりに美しい実験で観察され、現代物理学の屋台骨と言うべき理論から導き出されたものだーー何もない所から何かが生じてもかまわないことをほのめかしている。かまわないどころか、宇宙が誕生するためには、何もないところから何かが生まれる必要がありそうなのだ。さらには、得られている限りの証拠から考えて、この宇宙はまさしく、そうやって生じたらしいのである。
「生じたらしい」と述べたのは、この問題をきれいさっぱり解決できるだけの証拠は、永遠に得られないかもしれないからだ。・・・

99パーセントの宇宙は見えない・・・エネルギーを含んだ空っぽの空間の中に、「暗黒物質」の海があり、わずか1パーセントの目に見える物質がその海の中に浮かんでいる。それが現在の物理学が到達した宇宙像なのである。
・・・それからの10年間に、宇宙論の分野で得られたありとあらゆるデータが、宇宙のエネルギーの少なからぬ部分が、空っぽの空間に含まれているということ、そして目に見える物質は全エネルギーの一パーセント以下にすぎず、目には見えない物質のほとんどは、未知の新しいタイプの素粒子でできているという、出来の悪い冗談のような平坦な宇宙像を、着実に標準宇宙像にしていった。

特殊相対性理論は、光の速度よりも大きな速度で空間の中を進むことはできないと述べている。しかし、空間そのものは、すくなくとも一般相対性理論によれば、その制約を課されていない。・・・遠く離れた二つの天体は空間に乗ったまま運ばれていく。天体はそれぞれ元の位置に静止しているのだが、相手にたいして超高速で遠ざかるのである。

銀河の後退速度が光の速度に近づくにつれ、その銀河から届く光の赤方偏移は大きくなる。かつて可視光線だったものは、波長が伸びて赤外線やマイクロ波や電波になり、いずれその波長は、宇宙のサイズよりも長くなる、そうなった時点で、その銀河は名実ともに姿を消すのである。

「観測できる稀有な時代」
観測の三つの柱とは、宇宙のハッブル膨張が観測されたこと、宇宙マイクロ波背景放射が検出されたこと、そして軽い元素(水素、ヘリウム、リチウム)の存在量の観測値と、それらが宇宙のはじめの数分間に合成されたものとして計算された理論予測値とが、みごとに一致したことである。

空っぽの空間がエネルギーを含んでいることを示す証拠はすべて、宇宙の膨張が加速しているという観測から得られたものだった。宇宙は膨張しているという証拠が得られなくなれば、膨張が加速していることを知るすべてはない。じっさい、なんとも不思議な巡り合わせにより、われわれが生きているこの時代は、空っぽの空間に満ちている暗黒エネルギーを検出することのできる、宇宙の歴史の中で唯一の時代なのである。

われわれはきわめて特殊な時代に生きている。われわれがきわめて特殊な時代に生きているということを、観測によって証明できる唯一の時代なのだ!

今日、「われわれの宇宙」というきと、それは「現在みることができるものと、かつて見ることができたもののすべて」を意味すると考えるのが普通になっている。

「人間原理とマルチバース」
つまり、今日測定されている宇宙定数の値が、われわれ人間が現に存在しているという事実と矛盾しないようになってるなら、偶然の一致と見えるものに説明がつくということだ。
この論法が数学的に意味を持つのは、宇宙がたくさん生じる可能性がある場合だけだ。

しかし、確かなことがひとつある。宇宙創成について、わたしが論争を戦わせてきた人たちが、鉄のように固く信じている形而上学的な「ルール」、すなわち「無からは何も生じない」というルールには、科学的な基礎がないということだ。そのルールは自明だとか、ゆるぎないとか、論争の余地がないといった彼らの主張は、・・・無から物質が生じたり、物質が消滅してなくなったりすることはないという、不正確な主張からの類推にもとづいているのである。

なぜ何もないのではなく、何かが存在するのだろうか?つまるところこの問いには、なぜ赤い花もあれば青い花もあるのかということと同程度の意味しかないのかもしれない。そして、「何か」はいつだって、何もないところから生じているのかもしれない。
宇宙の基本的な性質がどんなものであれ、そこに特別な意味などないのかもしれない。

過去百年間に大きな進展があり、われわれ科学者は新たな時代の戸口に立っている。それはが学者が、もっとも深遠な疑問、・・・すなわち、自分たちは何者なのか、どこからきたのかを知ろうとして、心もとないながらも最初の一歩を踏み出したとき以来の疑問・・に、実験や観測を使ってとりくめるようになった時代である。

   ----引用終了−−−−

もちろん、これらの引用は詳しい物理数学的エビデンスの解説から導かれているのだが、そのような現在物理学の基礎を全て私が理解して同意できたわけではない。
しかし、この学者が積み上げる推論の叙述の真摯な姿勢は、「著者がアヒルだ、というならアヒルなんだろう」と当方を納得させるだけの宗教的啓示感がある。
こういうパラドクサルな神がかり的同意は解説文を書いているドーキンスも言っているとおり:

『われわれはいまだに量子論を理解していないかもしれないが(神に誓って、わたしは理解していない)、率直なところ、この世界のことを小数点以下10桁というおそるべき精度で言い当てる理論が、まったくの間違いだとは思えないのである。』
(ドーキンスによる解説文)

また、科学が万能ではなく、どんなに科学が発達したところで常に限界があり、永遠にその目的には到達できない”客観的且つ科学的な”根拠もはっきりとあるようだ。

『「なぜ」型の疑問は、どこまでも問い続けることができる。最終的には、そういう疑問に対しては、「なぜなら・・」と答えるしかないのかもしれない。しかしそう答えたところで、とくに何かが解明されるわけではないのである。
われわれは全ての疑問に対して答えを知っているわけではないが、それでもわれわれは驚くばかりの知識を得たということ、そして、真の意味での経験的反証は永遠にできないかもしれないような、深くて基本的な疑問に直面しているということだからである。』

どうだろうか。
科学は明らかに存在論の根底を覆し、全知全能の創造者(完璧な解答の存在)を否定した。
しかも科学は、いつかは科学がすべてを解明するだろうという願望や固定観念も「科学的に否定した」らしいのだ。
科学では解らないということが科学的に立証されている・・・
このことの意味は"意味がないのは知っているが、それでも意味を考えてしまう"ということだ。
それが人間の位置だろう、と私は思う。


尚1 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(Why is there something rather than nothing)についてwikipediaに思いの外やたら詳しいオタク風の記述があり、たいへん参考になった。

尚2 え?なんで A Universe ? An Uni..でないの?と赤を入れそうになったが、これは An L shaped の逆バージョンだな、とやっと気が付いた(^^;


〔読書控〕2022/03/29(火) 14:23

大森望(編)「ベストSF2020」 竹書房 2020

現在日本短編SFのアンソロジー。
最近SFと言えば映画でしか見なくなった。
「スターウォーズ」と「2001宇宙の旅」がこの分野に期待する物語的刺激だとしたら、最近の映像技術の方が旧来の文字からの想像力よりも勝るのはいたしかたない。
望むらくは文字が映像を凌駕する力を見せて欲しいもんだ。
最近のSF作品をチラ見するつもりで読んだ。
映像にすべくもない短編コントや文字遊び風・おふざけマンガ的作品は私が期待するものではない。
全11編で昔のSFフアンであった時のような熱中で読めた作品は皆無だった。
二点だけそれでも興味を持てた作品を挙げておく。

オキシタケヒコ「平林君と魚の裔」
まったく科学的リアリティのない進化論を演繹した世界観からの未来世界だが、それなりの物語世界の架空リアリティ感はあり、発想の面白さは買える。「思考実験」というしっかりした想像力の支えは感じた。くすぐりの多い軽い文体は私の世代にはたいして面白くない芸である。

陸秋搓・稲村文悟(訳)「色のない緑」
中国語からの翻訳というが、あまりに日本語が自然なのでそれは文学的擬態かもしれない。しかしそれはどうでもいい。これこそ映像化しようのない、してもしかたのない分野のSF。現在の自動翻訳の課題を踏まえ、未来の言語処理をテーマにした卓抜な思考実験SFだった。
私も自動翻訳には多少経験があり、この分野の現在、あるいは近未来的現在の想像上のリアリティの構築には唸らされた。
海外経験の豊かさを窺わせる英国大学生活の細部にもしっかりうなずかされてしまう。もちろん私は英国留学の経験はないのだが、そちらに留学していればそうなんだろうな、というたしかな同意感。
タイトルにもなっている「色のない緑」はチョムスキーの提出した文例だが、文法的には正しいが無意味な文が、どういうコンテクストで成立できるかを提出しあう「ゲーム」等、言語や自動翻訳に関わってきた当方にも非常にやってみたい遊びだ。
これは確かな今日的日本語でのSFの収穫だったが、残念なことに物語的にはあまり面白くない作品(^^;


〔読書控〕2022/04/02(土) 21:38

池田清彦「ゼルフィルスの卵」東京書籍 2007

タイトルと生物学研究者という外装チラ見で読み始めたが、そうかあの池田清彦の以前の雑誌寄稿雑文のアンソロジーであったか。
昆虫・昆虫採集に関するエッセイはともかく、進化論、環境問題や現代の医療に関する血の気の多い主張は既におなじみの論調で、ともすれば私自身の家内論争でヨメに反論する根拠はこの人の本がモトネタだったのか、とか思いかえすことも多々(^^;
特に現代の医療や老人としての個人が病に向きあう姿勢への主張とかは。

環境問題、あるいは問題と考えることへの反論はあの竹田邦彦サンのようにムキになって鼻息荒く真っ向から切り込むのではなく、あまり公式論拠を鵜呑みにすると政治の思う壺だぜ、風の揶揄調なので・・・ここでこの派の同様の形容をした論客、養老孟司を思い出したが、実は池田・養老は昆虫採集・環境・進化論では同じ穴の虫らしい。
若干、池田の方が養老よりは血の気が多そうだが(^^;

私が読んだ池田本のタイトルは「オスは生きているムダなのか?」だった。そのあたりの少々諧謔的皮肉が池田の文章の量産術か?

この読書中にもウチのヨメとの健康論抗争が勃発:健康診断→早期治療を主張する”健全な”健康第一主義のヨメと、テレビが商業上の戦略で常に健康オプセッションの不安を煽る中であくまで自分という特定個人が個別に必要な医療のみを選択すればいいという私の”健全な”個人主義との対立。

・・いや、家族であれば完全な個人主義を貫徹するワケにもいかんのだ。
先日、私の高校の同窓生が実は65年前にも大阪市西成区の「みのり園」でも同窓だったということが、私の大阪引っ越し準備中の断捨離活動で判明し、これはこれは、というので苦労して連絡をとった吉野クンは強固なワクチン接種反対論者だったのだが、ヨメに言わせれば、ワクチンは本人が罹患しない為だけではなく、家族に罹患させない為に接種するのだという。吉野クンは単身生活者。

だから個人の医療というのは既に個人だけで裁量できる問題ではない。

私は数値が平均や標準から外れているので治療をし、平均値に戻さねばならないとは思っていない。つまりは「標準偏差値大=病」という図式は種々な条件下にある個々人に機械的に適応できるものではない、とはかねがね思っている。
例えば私は大脳左中動脈狭窄症で脳溢血や脳血栓の予防の為、常に血圧降下剤とコレステロール低下剤の常用を処方されている。
しかし、もう老齢の私の血管はかなり硬化し、細くなっているので大脳を活動させるのには通常よりも高い血圧血流を送らんといかんハズと個人的にはイメージしているのだ。
だから低血圧下にコントロールされてしまっている私はすでにかなりボケてしまっているのだろう。
たまたまこの書中に「老年であれば高血圧が当然」という池田節があり、平均値でなければ病という医療・薬業側が意図する戦略スローガンを揶揄する文もあった。

私は別に統計的根拠があろうとなかろうとどちらでもいい。
私は自分で納得できればいい。
それが別に標準値でなくともいいのだ。

ヨメとの論争中に池田の「健康診断受診はやめた。自覚できない病を血眼で見つけて余計なストレスを背負い込むのをやめた。どうせ最後に死ぬのに違いないのだから」とかいう箇所を読んでいたのでヨメに見せた。
「そういうヒトは病気になって勝手に死ねばいい。」という的確な感想(^^;

たしか、私も前回のヨメとの抗争中の文(ただし家内版・非公開)で:

キミが私を生んだ母ではないというのなら 
  せめて  最後は  一人で気ままに死なせてほしい。

と書いたモンだった。
私は現在の医療や病の対処について池田論には多いに同感するのだが、しかし社会生活というのは個人が完全に主体的に運営できるものではないというのが実際だろう。家族・社会・国家が示すそれぞれのルール、道徳、法があり、それらとの絶えざる折衝が結局は社会生活をするということの中身なのだ。

私はあくまで私個人の主催者であろうとするのだが、しかしヨメが私という社会的存在のを共催しているのも厳然たる事実である。
私は別に標準値から自分がいかに外れていようと、更に言うなら標準値から外れている部分の方が私の本体であろうと思うのだが、ヨメはテレビが喧伝する標準値から外れているだけで治療しなくては、と考える健全なヒトである。
・・・出来る限り生きていようとすること自体が生きている目的である、という生物的にはしごく健全である、と思うのは確かだが(^^;

あ、池田本にこういう例もあった:
『ある種のダニは自分がいる木の下で動物が通ると落ち、体表で血を吸って卵を自分の中に孕む、卵は孵化した幼生は母ダニの体を突き破って出生し、母ダニは死ぬ。
ずっと樹上でじっと棲息し続けるより、死んで子孫を残す方が本能的には自然』

しかし、動物のメスの生殖細胞はそのまま子に引き継がれ、不死とも言える。
オスは最初から最後まで「生きているムダ」でしかいないワケだ。
せめてクジャクのようなハデなディスプレイをし華々しく散らないで、ただムダとして生きているちゅうのはなんとも悲しい。
オスは本来的に悲しいのだ。

女性と男性では本能的に人生観が違うのは当然と思う。
それが男女平等観に反するとか、そういう問題ではない。

池田の言はそれぞれもっともだと私は納得する。
しかし私はまた私で池田とは違う社会・世間で生きている。
久しぶりに池田本を読み、結局、私は私と思うしかない、と思う。

しかし、池田の言を読むのは平均的視聴者向けに流れてくるテレビを見ているより遥かに楽しい。

「お金を支払ってまで人が見たいと思うことをタダで提供するのがボランティアで、素人芸を無料で見せるのは、見せられる側がボランティアだ。」

「学校で陰惨ないじめがあるのは仲良し病のせい。それぞれ違った個性があるのに”みんな仲良く”ではストレスフルだろう。」

「持続可能な発展のためには、人口はあまり多くない方が望ましい。加速度的に進歩している技術は少子化に整合的だ。少子化を前提とした社会システムの構築に努力を傾けるべき。」
これは私の持論でもある拡大生産社会は20世紀で終了と同様。

「速度違反ルールを作って検挙数を上げるために人材予算をさくより、状況に応じて自分が一番安全だと思う速度で走る方が事故が減り、違反摘発する人材費用を激減させるだろう。」
制限速度ルールの設定はやむをえなくとも、実施は状況に応じ柔軟に運用しないとルールの為のルールになり下がる、というのが自説。

「ああ、また始まったよ。正義の物語が。正義とは他人を支配したいという暗い欲望である。」
猫も杓子も「正義の味方」が当方の言い方(^^;

池田の論は私には当然で快い。
しかし池田が正しいとか間違っているということではない。
私が納得できさえすれば論の真贋なんてどうでもいい。

多数決が正しいと決めるのが現在の社会ルールだとすると、私は正しくない人ということなんだろう(^^:


〔読書控〕2022/04/13(水) 10:57

宮城谷昌光「呉漢(上・下)」中央公論 2017

宮城谷の二冊本がきれいに揃っていたので中身を見ずに読み始めた。
しかし、これは再読だな・・と途中で思い出したのだが、それでもいい。
もう読書量を重ねて自尊の種にするような気も失せている。
面白ければ再読でもいいのだ。
宮城谷の語る中国古代の人物達は解りやすく、多くは儒教的に正しく生きた者はそれなりに正史に名を残し、逆は悪徳で紂され、善は史実として記され、その脚色を我々が読む。
現在は・・あるいは当時もそうだったのかもしれないが、善悪の規範が混沌とし、何よりも私自身がそのような規範からみれば悪に外ならない時代になっている。
だから小説を読む・・・
とか考えながら下巻中ごろまで読んだが、呉漢が劉秀の大司馬となり戦功を重ねるばかりになってついにマンネリ感がやってきた。
もういいよ・・。
ということで巻末をチラ見し最後まで呉漢が後漢の大司馬として劉秀との信頼を保持したまま終焉するのを確かめて読了。

ちょいと昔の記述を確かめに・・・(^^:

2019年の書評

三年前に読んでいたが、やはり何か読書エンジンがそんなにフル稼働していなかったような印象らしい。
まだ私の読書感性はそんなに呆化ブレてはいないかも(^^:


〔読書控〕2022/04/22(金) 12:16

野村泰紀「マルチバース宇宙論入門」星海社新書 2017

副題:私たちはなぜ<この宇宙>にいるのか
生きのいい最先端宇宙論専攻の若手著者(天才は常に若手なのだ)が説き起こすマルチバース理論の解説書。
前回の読書、ローレンス・クラウス「宇宙が始まる前には何があったのか?」から今や私への最大の知的刺激はコチラからやってくる。
最先端の宇宙論と哲学の永遠の課題だった存在論が今融合しようとしている時代に私は居合わせているのだ。
もしかして現在とはそのような究極の知が何事か根源的な地点に達しようとしている稀有な時代なのかもしれない。
そして、宇宙論から言えばこの時代(もちろん宇宙史的規模のスケールの時間軸だが)から「先」に行くに従って科学は論理実証という伝統的な自分の存在証明を失っていく、つまりは科学的真実は薄れ遠ざかっていくのが「科学的に」判明している・・・という。
つまり"この宇宙に今"私が居合わせているということの宇宙的特権を感じずには居られない。
つまり私は「生まれてきて良かった」のだ(^^♪

まあ、日常生活に現在のところ影響を及ぼすおそれの全くない遥か彼方の情報を得るということが「生きる喜び」に直結するようなヒトが生活日常的にそんなに多いとは思えないのだが、著者はそのような稀有なタイプの一人で、専門的記述はわからんものの、その考え得心し、すっきりクリアに疑念が掃除される、このタイプの人の生きるモチベーションに直結する知的刺激が切り進んでいくような筆致に共感し興奮する。

「結局、職業科学者もそうでない人たちも、宇宙論のようなものに興味を持つ根源的な理由は同じで、知的好奇心である。」(あとがき)

「多くの宇宙の中の一つの中に生まれた一つの銀河の、そのまた中にある一つの構成を回る惑星の表面に生じたちっぽけな存在が宇宙全体やそれを越える世界を理解できること自体、すでに奇跡的なことである。これは人間の思考の力を信じる十分な理由になるのではないだろうか。」(本文結語)

そしてそのことが生きる意味だとも示唆されているのだ、私は。

存在論と最先端の宇宙理論の融合と私は直感的にいうのだが、科学者としての著者の業績のひとつは、素粒子を記述する量子論を我々の宇宙の外にある無限のマルチバースの存在を記述するのに使用するという究極のミクロとマクロの存在を融合させることでもあったようだ。
しかし、なんという時代なのか・・・。
存在し且つ同時に存在しない、ということが「科学的に」記述でき、そのことが物質の本質を説明しうる・・・
次には同時に複数の場に出現するというオムニポテンツのお方ももうすぐ数式で記述されてしまうことだろう(^o^)

(現在の我々の宇宙は膨張しているのだが、別に宇宙という場自体が膨張しているのではない。ただ星と星、銀河と銀河の距離が増大しつつあるということらしい。
では、この入れ物の宇宙とは何か?
そういった存在を存在させている宇宙とは一体どういう存在なのか・・

我々の宇宙では素粒子が三種の力に支配され物理的な存在を実在させているのだが、その世界を構成させているパラメーターはどのような値であってもいい。しかし、もしパラメーターが違っていたら宇宙の性質はまったく異なり、我々・私が存在できるような余地はなくなる。
しかし、現に我々はこのようにして実在しているらしいので、我々の宇宙はこのような初期値をたまたま持っているヤツだったのだ。
そうでなければ宇宙には何も「存在」できず、私もいないはず。
・・・とか、思わず私なりの「人間原理」のレジュメを書き連ねそうになったが、これは無意味なので削除・・・ ただ、著者が語る理論的には無限に存在するマルチバースの「無限」という数学的なパラドクスを「ダブルカウントによる誤認」と断じている部分を読んでいて、まったく別の文脈だが、望月新一のABC予想の解を思い出してしまったことを付け加えておく(^^;
加算することができるのは加算できる存在だけ・・
しかし、望月はそのような加算カウント可能な数学の基礎を、今の量子力学的な存在論を踏まえて変革しようとしているようなのだ。
1+1は確率的に2、しかし2そのものではないかも・・


「反人間原理」という揶揄表現にも読後ちらりと思い至った。
真空エネルギーが作ってしまう物質と半物質は原理的には同数・・「だが対称性の破れがあり、宇宙が冷える段階でこれらの物質と反物質は、そのわずかな違いを残して対消滅してしまい、物質のみの宇宙が残ったのである。
われわれとその周りの世界を構成する物質は反物質との対称滅をのがれたわずかな「残りカス」である。」
どう考えて見てもこの宇宙は完璧な製品には程遠い欠陥品で、生命・生物・人間という邪悪で面妖なものまで派生させてしまい、秩序正しい美しい宇宙群の中でのまったく希な出来損ないである。
だからどうしても「死と自意識」の絶対矛盾を必然的に孕んでしまっているのだ。
だから私の意味は私の意味なんてない、と得心することなのだ。
とか、現今の宇宙論はそのようなあられもない空想をいくらでも私に育んでくれるのだ。

物質は高速を超えられないが、宇宙自体は高速を超え膨張していくだとか、時間の多義性とか、時空という概念、無限という意味、あらゆる「この世の絶対」が論理的に相対化されていく快感、これが究極の知的刺激でなくて何だろうか?

当分私はマルチバースの真空エネルギーを生きるエネルギーにちょいと拝借させていただくことにする。


〔読書控〕2022/04/29(金) 00:09

東野光生「補陀落幻影」作品社 2017

まったく何の予備知識もなく、ただ適当に手に取った。
聞かない作家名だが、しかし最近の作家名にはまったく暗い。
読んでいくと1945年戦争に学徒動員され、ベルリンの壁崩壊の作品現在時は退職し悠々自適、でもない無為自適中の主人公なので、そこまで若い作家でもなさそうだ。
まったく時代離れした語り口で戦後をどう生きたのが淡々と綴られ、何やら昔の私小説華やかなりしころの「純文学」を思い出した。
で、最後まで”純文学”は続き、少々時代離れした教養ある人物の真摯な友情の物語、という格調高い内容・・・そうと知っておれば読まなかったのに(^^;
しかし、さすがに小説は最初の5ページで枠組みが解るとどうしても最後まで読んでしまう。点けたテレビの最初の5分を何気なく見てしまい、そのままずるずると・・風に。
ま、そのくらいは別の人生空間に導いてくれる小説力はあった。
あまりに純文学的に真面目な主人公で、ウソくさいのだが。
だがしかし、この年代はまだこのような端正な矜持で本気で生きていた方も居たのかもしれない、とも思った。
あまり深く動かされるようなことはないのだが、読後感は無難にさわやか。

読後、作者をWIKIしたら本業は水墨画で、作家としては寡作、私よりわずかに上の年齢。このような作風の現在作家も、まあいてもいいよ。


〔読書控〕2022/05/19(木) 15:00

ホヴァ―ト・シリング「時空のさざなみ」斎藤隆央 訳 化学同人 2017

副題:重力波天文学の夜明け
重力波による宇宙探査は、それまでの見るだけの観察に対し、「聴く」ことに例えられるという。もちろんこの「視覚」には電波やエックス線の電磁波での探索も含むのだが。
聴覚は「既に見えていたものについて多くの情報を加えるし、遠くの見えないものについても情報を与えてくれるのだ。」
見えないものの最たる例は「事象の地平線」の外側だろう。
宇宙背景電磁輻射はこの宇宙が始って30万年後、プラズマ状態の宇宙が冷え、空間が透み電磁波が時空を伝播できるようなってからのものだ。
しかし重力波(アインシュタイン波)は空間そのものの歪みの伝播なので空間内の物理的存在ではない。・・・・まあ、私もよくわからんのだが(^^;
そのような「モノ」=「存在」をどうイメージしていいのやら。

アインシュタインが予言した重力波を2016年に始めてデータとして補足したLIGOと称する重力波干渉計(天体望遠鏡)の計画から建設、その発見第一報の顛末やその後をその後の重力波天文学の現在をジャーナリスティックで広範囲な視野でリポートする。
時として饒舌で余計な枝葉の個人的感想も付け加え、おもしろく語ろうとするのでやたらとページ数が増えている印象。
とにかく難しい理論なのでこの干渉計の原理を説明するのにも天文学や宇宙論についての歴史を含めた基礎知識が必要なので、そちらの予備的解説でもページを稼いでいる。

アメリカに二か所建設された瓜二つの巨大なX,Y座標、各辺が4キロある巨大な干渉計の写真を眺めるだけで、どんなに微細なはるか遠くの彼方から伝わった来る空間自体の変形を検知するということの、日常生活感覚からはかけ離れた世界の座標のとてつもない巨大さと微細さの片鱗を実感させてくれる。

私の今の関心は重力波天文学で明らかになってきた最先端の宇宙像の哲学的意味だが、単純にこのハナシ全体の広大さ・・・宇宙の広大さ、あるいは「無限」という概念の決して実感できない強烈な脳活性力を刺激してくれる。
「真空」なら理解できる。しかし空間(時空連続体)ですら存在しない「無」を理解するのに一体私の頭を再構成したらいいのか・・・。
有限な私がどのようにしたら無限を体感できるのか・・・

天文学や宇宙論にのめり込む感性というのは、そのような自分の能力の限界を拡大し、常に新しく再構成していくイメージ・想像力を最大の知的刺激と感じる種族のものだろう。もちろん生活上の欲求は多いのだが、一方でこのような知的喚起はそんなモンどうでもいい、とさえ思わせる高揚感がある。
著者もそんな人種の感性で懸命にその興奮を伝えようとしているので、この饒舌はゆるしてやらんとな(^^;

天の川銀河とアンドロメダ銀河のようにあと数百億年で衝突するという局所的な事象はあるが、全ての天体はお互いに猛スピードで離れていく。
それは宇宙全体が拡大していくので。
というイメージは風船を膨らませる時の表面の二点や、本書の例ではパイ生地のレーズンがオーブンの中で互いに離れていく・・しかも遠くの物ほど過激に早く・・・という例が紹介されるのだが、しかし双方とも空間自体が拡がっていくという例えにはなっていない。
宇宙は何時でも、当初から常に「無限」であり、風船やパイ生地のように有限なものが拡大していく訳ではない・・・
ええっ?それじゃ、どう私はイメージすればいい?

大阪市立科学館の今月のプラネタリウフの上映の一つでは完全に「宇宙の果て」という空間の壁がイメージ化されていたが、宇宙は無限なので果てはない。
これが我々を内包する宇宙であり、存在の全てだが、しかし同時に別の宇宙も我々の存在の場とは別に存在「し得る」ということを図式としてどう理解すればいいのか?
で、その空間すらない真の「無」とは、一体どうやって実感したらいいねん!

こういうのはもはや知的刺激ですらない。
要するに未知への畏怖という根源的な本能の反応だ。
どうあがいても私には越えられない知の限界があり、しかし安直に神や権威や多数決に従うのではなく、絶対わからんとわかっているのだが、少しでもわかる部分を増やそうとして、さらにもっと大きな分からんモンを抱え込むのだが、しかしそれが私の生きている意味なのだ、とここで開き直る以外にない。

実は重力波の存在を理論的に提出したアインシュタインご本人もそのことをどうしても実感できず、「論理的には正しい、しかし本当は理解できん」と言ったとか。


〔読書控〕2022/05/31(火) 19:43

ベッキー・チェンバーズ「銀河核へ」細美遥子訳 創元SF文庫 2019

大阪転居後、お世話になってる大阪市立”辰巳商会”中央図書館にある膨大な文庫本でもやはりいちばん気になるのが創元SF文庫。
嘗てはこのシリーズでSFの古典や名作を乱読させていただいた。
ヴァン・ヴォークトの「宇宙船ビーグル号の冒険」あたりが切っ掛けで、かなりこの分野の作品にのめり込ませていただいた覚えがある。
ズラリと書棚に並んだこのシリーズを眺め、では何か借りなきゃと比較的最近作らしい本書を選んで読んでみた。

しかし、どうも最近の傾向はヴォークトやクラークのような思考実験・・までは行かなくとも知的冒険の新鮮な刺激よりもスターウォーズ風の宇宙ドラマが主流のようだ。
いや、かくいう私自身も実はスターウォーズや宇宙船ギャラクティカは実は嫌いじゃないんだが、しかし知的興奮度が低くかなり物足りない。
この作品も道具立てだけが宇宙で、中身は西部劇というスタートレック型の安手のエンターティンメントでしかない。
作家の創造力はエンタープライズ号のユニークな乗組員、いやアッチは大半が地球人だったがコッチは大半が外太陽系人、別銀河系人なので、そこまでメイクアップでこさえる「何とか人」ではないのだが、いかんせんやはりナントカ「人」でしかない。
古典のビーグル号でさえそんな陳腐な異星生物を登場させてはいないというのに。

こういう作品はその人間の俳優の奇抜なメイクアップを楽しむものだろうが、それでもの類型化された、いかにもアメリカテレビシリーズのばかばかしい仮装行列を楽しむ気にはならない。
一応量子力学的テレポート(ブラックホールのトンネル?)工作船が舞台だが、あまりにも「何とか人」達がアメリカ人的なので、これぞ噴飯物の典型と思える。
外太陽系の知的生物達の職場なのに、食生活や性的興味その他現代のアメリカ人の枠からまったく出られない想像力はどうよ? 私は全く楽しめなかったぞ。
東洋人の私から見るとコイツら全部人類というよりアメリカ人のパロディでしかないのだ。
宇宙史に残るイベントを記念する「年一回の宇宙規模のアニバーサリー式典」の何とか星の大統領の演説??(^^♪
大体、ブラックホールのトンネルを越えた距離にあるような星で「年一回」とはなんやねん?この方、宇宙のどこに行っても”いやしくも知的生命が存在する星ならば”360回自転すれば一年になるハズだと?まさかね。
異星人達の三度の食事(!)内、ディナーを皆で共にする(!)時のアメリカンジョークに満ちた会話(!)そんなもん、わざわざSFでやるなよ。
そして「何とか星語」の発音が難しく(!)、何とか人を「彼」と呼ぶのか「彼女」と呼ぶのか(!)・・・おいおい、そんな呼称の性別なんてモン日本語にだってないぞ。

まあ、その「何とか星人」達の珍妙さを楽しめばいいというものだろうが、あまりにもアメリカ人的バリエーションの中での珍妙さなので、日本人としては面白くもなんともない。
作者にとって日本人は既に想像を絶する「人類」になるんだろうか?
いやしくも知的生物なら英語でジョークを飛ばすハズ?・・
イヤだね、このシオニズム的ユニラテラル世界観。

ということで上下二冊本だが、一冊目の後半までは持たず、これで終了させていただく。
巻末にある他のSFの紹介ページから次は”ハードSF”とされるものから選択するのがよかろう。


〔読書控〕2022/06/03(金) 09:49

和田純夫監修「量子論のすべて新訂版 Newton別冊」2019 ニュートンプレス

数式はまったくニガテな私でも量子論は是非理解したい・・・
ということで本屋でその手の参考書を探すと。
まだ雑誌「ニュートン」ってあったのだ・・と、時どき本屋で見かけるので知ってたが、多分これが最初の通読経験か。
地球物理学の竹内均を編集長に華々しく創刊号を発売したのが、今調べてみると1981年。
当時はかなりのSFフアンで理系の情報にも興味があった私は、多分一冊は買った、とおもう(^^;
しかしパラパラと眺めるだけで、やはり私の興味とは微妙にズレていたので購読はしなかった。

今回は”量子論”についての知識が主たる興味で、やはりIQが130を多少下回る私の脳力では数式を解くことがどうしてもできず、それでも理解したい、という欲求は抑えられない、そんな層を対象にしているようなイラストで直感的に解った気にさせる風の編集本。
ディラックの真空、反粒子の生成の図。
膨張宇宙の原因は真空エネルギー・・・膨張しても薄まらない・・無限とゼロとのイメージ。
無からの宇宙の創成、原初の原子よりも小さな宇宙・・のイラスト。
まあ、本当は違うらしいのだが、そんな辺りのイメージで私は・・・いや、良くない。
やはりもう少し専門的な、それでいて数式に”逃げ込まない”確実な知識を得たいものだ。
監修者の推す多世界解釈(マルチバース論)と量子コンピュータの紹介が量子論の最新の情報というように収められている。
その辺がやはり私の欲求の核なので、精読するがイメージ以上の理解には至らない。
当然か(^^;

ただ、和田氏が提唱する「多世界理論」のイメージに、私は多少の違和を抱いている。
確かにSFチックには素晴らしいコペンハーゲン解釈の反論だと思うのだが。
例えば、波であり粒子である光子が観測された時点で一点に収束し、”縮む”という強引な理論を回避するため、その一点を観測した世界と他の観測結果になった世界とが分離し並行して存在する、という理論は成立するだろう。
しかし、しかし私は別にパラレルに存在しなくとも観測した時点で”縮む”のではなく、”選択される”と解釈すればよりオッカムの切れ味は鋭くなると思う。

世界は確率的可能性の数だけ”存在し得る”し、実際に同時に共在しているのだが、観測以前の共在世界は”量子的スケールのみで重ね合わさっている”だけで観測者の世界は同一である。そして観測された時点でその一点を観測した”世界が選択され”、その蓋然性世界だけが存在し続け、残りの共在世界は消え、存在を失う。  「蓋然性選択世界解釈」2022.hemiq

マルチバース論と基本的には同じだが、力点のニュアンスは違う(^^;
「裏ビットの夢」も見たし。
このようにして今私はどっぷりと量子論にハマっているのだ(^^♪  


〔読書控〕2022/06/14(火) 22:32

木川芳春「がんの半分はニセがん(IDLE)。だから医師の私はがん治療は受けない」 主婦の友社 2016

この手の癌治療HowToものは書店に山ほどあり、いずれもタイトルがこの手の自己主張宣伝文に満ちていて、この本もこの手の典型のような装丁。
あまり読みたくはないのだが、やはり事情が事情だけについ読み始めてしまう。

この本は見かけほどキワモノではなく、十分納得できる論拠を提示し、声高に極論を叫ぶ愚には陥っていない。

著者の論拠は 1)早期発見によるがんは実際の症状が出ていない状態のもので、放置しても重症化しない癌であっても発見されてしまえば癌治療の対象になる。
2)早期検診により癌患者は増え、早期発見で完全治癒する件数も増えている。
しかし、もともと重症化しない癌(ニセがん)が完治件数を押し上げている。
そして、早期癌検診が本格化する以前の時代と今とでは癌の死亡数自体は変化していない。
3)本当に重症化する本来の癌は放置しても治療しても死亡に至る年数はあまり変わりがない。
しかし治療による生活の質の低下は確実。

もちろんそのような典型的なケースばかりではなく、治療が非常に有効である癌もあるので、治療するしないはあくまで個人の選択、自己責任で、と著者は断っている。

悪性の癌は必然的に死をイメージさせる。
だから必死に医療にすがろうとする。

しかし、癌のすべてが悪性とは限らない・・自己免疫システムのエラーから出現した異常細胞すべてが癌ではなく、このうち悪性のものを癌という。
もともと異常細胞が悪性かどうかの判断はそんなにクリアなものではない。
しかし病理医は医師として当然悪性の可能性があれば「癌」と診断せざるを得ない。
・・・

癌とは何か?を著者は説く:
免疫システムのエラーが癌細胞を生じさせるのだが、このエラー自体が生物の進化の原動力だったのだ。

私自身も”炎上”させられ社会の癌とそしられるような目にもあった。
先日も親族に「異常」と悪意をもって糾弾され、自己主張もできず帰ってきた。

一個の細胞として、生命は本来的に自由気ままに生きていたいのだ。
しかし全体を統括する社会システムは「アンタは消えろ」と糾弾する。
全体の為に個が制限されるのが多細胞世界の原理原則なのだ。
しかし、そういった異常者が本当は社会の進化を担っているのだ。

というようなワケで私はもとより癌細胞には同情的だった。
だから私は癌細胞を攻撃する側には立ちたくない。
という思いを、読後今更ながら新たにした。


〔読書控〕2022/07/06(水) 11:08

山内一也「ウイルスの意味論」みすず書房 2018

副題:生命の定義を越えた存在
COVID-19が喧伝され始めた頃に一度ウイルスのことを調べた覚えがある。
DNAあるいはRNAだけで存在しているモノ、しかも存在し続けようという「意思」が感じられるモノが生命なのかどうなのか・・・そのあたりのどうにも割り切れない不思議な存在を意識せざるを得なかった。

そして同時に私の内なる違和、多細胞生命システムのルールを無視し、あるいはことあるごとに反抗し、原初の自我のように自立して存続しようとする独立細胞の意図を聴いていた時期に。
あるいは、宇宙というものが存在しようと無の中にかすかな弦をゆらす意思を感じる時期に。
あるいは我々の存在すると信じているこの世界が、あるひとつの妄想の中で生じた膨大で巧妙なフィクションであると悟らざるを得ないようになった時期に。
COVIDはこの国ではもう終息し、単なる新種インフルエンザという世間的合意が形成されつつある時期に。
そんな時にもういちどウイルスに関する書物を手にするとは意図していなかったのだが、この副題がどうしても読めと私に言っている気がした。

出版されたのがこのCOVID騒ぎの前夜だったのだが、まるでこの世界的な狂騒を予見したようなタイミングだったようだ。
事実、読後著者をWIKIると今改めてウイルスを知ることに活眼させる書物として話題になったらしい。
著者もこの時世でマスコミその他に登場し脚光を浴びたようだ

しかし、私はそのこととは別にこの書物を読み始めたのだが、やはり単なる科学啓蒙書ではなかった。
読み進む内に頁に挟むしおりが足りなくなるという事態にも。

更に、紹介される知見、考察の合間に意図して語り残そうとする研究者達の足跡、多くの日本の先人の業績と共に著者自身の動物疫学者としての稀有な経験譚は豊かな学者としての基盤を伺わさせるものだった。
天然痘と牛痘の根絶のWHOの活動に双方とも関わっていた人物、戦前の日本統治下における大陸の牛痘防衛網のワクチンの製造にも携わっていた人物・・・
読後どうしても著者の年齢を確認せざるを得なかった。
1931産と。
今ではこの長寿は珍しくはないが、その年齢で変わらぬ知的活動、それも最先端の生命科学のフォローを続け、その著述を成す方は稀有である。

あとがきでも語っているが、疫学の専門家としてウイルスに対していたのだが、退官してからウイルスとは一体何か、という領域に踏み込んでいったと。
そして今、世界は新たなウイルスとの共存を模索するファーズに入ったようなのだ。
この書物の知見もさることながら、この人の生きてきた時代がウイルス学の急激な変遷にシンクロナイズした人と時代の特異性を思うと感慨深い。

疫学者としては敵だったウイルスに、時として共生者というような仲間意識を伺わせる筆致も散見。
『20世紀後半、ウイルスは30億年にわたるその生命史上初めて、激動の環境に直面することになった。現代社会を生き抜くウイルスの姿の一端を眺めてみたい。』(第11章 激動の時代を生きるウイルス)
まるで「ウイルス頑張れ!」じゃ(^^♪

近年のゲノム解析の進展でウイルスの素性もかなり明らかになり、上記のように生命の発生前夜からコイツ等はいたのだ・・・
そして全生命を今でも支え、共生し、時として敵対するDNA、あるいはRNAそのものの姿。

内なる別の生命意思を感応し、敵ながら共生者として密かなエールを贈ってしまう私も、この別の生命の原初の姿とその現代までの気の遠くなるような「存在意思」の存続に・・・「尊敬」しないまでも畏怖せざるを得ない。
尊敬は著者の方にすべきだろう(^^♪

  --- 以下 内容メモ・覚書 ---

細菌・アーキア・真核生物 : リポゾームをコードする生命体
アーキウイルス・ファージ・真核生物ウイルス :カプシドをコードする生命体

会話をするウイルス

ウイルスの内在化 水平感染するレトロウイルスがたまたま生殖細胞に感染し、ゲノムに組み込まれ、宿主の遺伝子の一つになった。
今はヒトのDNA中に眠っている、ただし何か切っ掛けがあると働きだす。

内在ウイルスの例:
胎児が父親から受け継ぐ遺伝子形質は母親にとって異物なのでリンパ球により排除されるはずだが、内在ウイルスのコードするシンシチンというたんぱく質が防いでいる・・・

巨大ウイルスに寄生するウイルス「ヴィロファージ」

海洋ウイルスの総量は2億トン=シロナガスクジラ 7500万頭
海洋ウィルスを全てつないだ鎖は銀河系の直径の100倍を越える。

現在では、ガイドRNAを発現するDNAベクターとキャスナインを発現するベクターが市販されていてゲノム編集が用意にできるようになっている。

自然状態で絶滅した天然痘ウイルスはロシアとアメリカの研究所で保管・・
バイオテロの可能性。
合成ウイルスの危険性。
天然痘ウイルスは種痘すれば予防できる・・・テロリストには好都合。

牛痘に対する中村ワクチンの歴史

抗レトロウイルス療法でHIVをヒトの体内に潜伏させることが可能になった。
このような形で存続しているうちに、おとなしいウイルスに進化するかも。

現代の環境 大規模養豚 森林開発 ・・・ウイルスの異種感染

カモの間で数千万年も平和に暮らしていた(トリ)インフルエンザウイルスは20世紀に鴨⇒アヒル⇒鶏⇒ヒトという思いがけない経路を見つけ、ヒトの新型インフルエンザウイルスに姿を変えようとしている。


〔読書控〕2022/07/23(土) 13:33

和田純夫他「無(ゼロ)の科学 Newton 別冊」2018 ニュートンプレス

SubTitle:「何もない」世界は存在するのか?
図書館で閲覧できる図解一般啓蒙科学雑誌のムックシリーズ。
面白そうなタイトルが並んでいるが、目下量子論と存在論の大統一理論を自前で画策中(^^;なので素早く最先端の時空連続体宇宙の各トピックを確認一覧目配せできるコレに目を通す。

「騒がしい無」? お、いいねぇ(^^♪

2013年にジュネーブの大型ハドロン衝突型加速器がヒッグス粒子(ヒッグス場に生じた波の塊)を確認した。
その表現はいかにも即物的で何のきらいもないのだが、一切の実験論理が書かれていないので「ホンマか?」単なるこじつけじゃないのか?とかいうキツネにつままれた感は払拭できない。しかしそれが数式を理解できなくて、このような一般啓蒙書しか読めない私の限界ということだろう。

ハイゼンベルグの不確定性原理の私の理解では「観測することによって被観測物が影響され、真実は観測不能」というような感じだったが、厳密には「量子論的スケールでは位置の不確定性と速度の不確定性の乗は常に一定値よりも大きい」ということだった。
時間とエネルギー値も同様。
エネルギーは時間の逆数なので限りなく0に近い時間ではエネルギーは無限大に近づく。その一瞬のエネルギーが素粒子の無からの生成と消滅をさせる・・・

素粒子の粒子と波の性質のわかりやすい図解もある。
場を波のように移動していく場の歪のようなもの、アインシュタインによれば「エネルギーの塊」が素粒子。
「場」は空間中を満たす媒体(物質)ではなく、あくまで空間の性質のこと。

「ゼロを回避した超弦理論」(章タイトル)
素粒子は大きさゼロの粒子⇒大きさを持つ極小のひも・・
しかし、ひも:長さはあるが太さがゼロ?
やはりゼロじゃないか。
いずれにせよ、素粒子は物質ではなく、「場の歪」(hemiq)という現象とすればゼロでいいじゃないか。
南極点というのは地点として存在するが、大きさはゼロ。
ソコまで行かなくとも、机と消しゴムの「境」は存在するが大きさはゼロで長さはある?
案外当たり前のことを言ってるだけじゃあないの(^^;
素粒子が存在するのではなく、素粒子という現象が存在する(hemiiq)

ま、超弦理論が「量子論スケール」と「相対性理論スケール」の力学を統一的に記述することが出来得る・・有力候補らしい。

超弦理論では6,または7の余剰次元の存在が計算上の前提になる。
この次元を前提とすればブレーンワールド宇宙論が可能に。
超簡単な余剰次元の解釈:重力だけが距離の2乗に反比例という極端な減衰をするのは重力だけがこの4次元宇宙に固着せず他次元にも伝播し拡散減衰するから。
他の素粒子は光子も含め「開放弦」で両端がこの(我々の)次元宇宙に固着、重力子のみが「閉鎖弦」でこの次元宇宙に限定されず振動を多次元に伝播させ得る・・・

・・・しかしねえ、超弦理論もインフレーション期もマルチバースもブレーンワールドも、観測も実験もできない領域での理論である。
果たして実証できない理論が科学なんだろうか?
カタチ的には哲学としか言いようはない。

そしてそれが一切を矛盾なく説明できたとして、はたしてオッカムの剃刀だけが真実なのか?
もし論理に破綻なく、最もシンプルな論理が「真理」と定義されるとして、この宇宙がしかしながらソレより雑で未完・未熟な半完成品であったり、いきあたりばったりの不条理な全くの別物だったとするマルチ真実、が真理ではないという十分条件の論拠にはならないだろう。
真実より論理の方を真理と定義する奇妙な矛盾がこの宇宙の真実であるとかちゅう?

以上、やはり一般啓蒙書レベルの限界を突破できぬ、私の頭よ。


〔読書控〕2022/08/16(火) 18:57

グレッグ・イーガン「ビット・プレイヤー」山口真編・訳 早川文庫SF 2019

最新のSFの人気作家の短編アンソロジー。
表題の「ビット・プレイヤー」は安手のゲームソフト内のキャラクターが自意識を持つとどうよ?という作品で、設定自体は既におなじみだが、自我とは何かという哲学命題をSFでちょっとやってみました風。
他に最愛のアンドロイドに遺産を相続させるのは法的には認められているが、まだまだ差別は残っている未来社会の現代的差別社会の心理構造をSFでちょっとくすぎりました風とかも。
ハードSFというよりSFでやるとこうなる的な感じで、そうたいした刺激はいただけなかったのだが、最後の2編「鰐乗り」「孤児惑星」の時間空間の設定の広大さは、ちょいと本格SF風に楽しめた。
何十億年も生きてきたのでそろそろ死のうかと会話する夫婦の会話から始り、物語の舞台装置が現時点での最遠最大の時空連続体を舞台装置にしている感じ。

私は少し前、マルチバースをSFの素材にする、あるいは逆にSF的発想で実際のマルチバースを実態実装する方策を少し考えていて、ゲームの自動”バックアップ”を思いついていた。
プレイするキャラクタがトラップに引っかかってゲームオーバーになると、自動バックアップされた少し前の分岐点にもどり、何事もなくただトラップに引っかからない条件下の世界をそのまま継続していく。
結局マルチバースもそのようにあらゆる時点で無限に分岐する可能性の一つを”主体的に”あるいは”唯一の選択肢として”実装化している宇宙が今私が存在しているココなのだ、と。
この作品で10億年も”生きている”生命達はすでにデジタル化して世界に実在、あるいは必要に応じて実体化する存在で、デジタル化された本体は常に任意の時点でバックアップを記録していて、必要に応じその時点から自分の世界を継続できるらしい。言外に再現条件として、再現させようとした時点での意識も付与できるので、その未来の不都合を事前に回避できるようなのだ。
いや、別に”未来の記憶”を付与できなくとも、バックアップが再生した世界は既に、再現させようとした未来の世界とは違っていて当然か。自分の宇宙は常にユニークなのだ。
そのように読者の思考をいろいろ刺激してくれるようなあの手・この手が満載。
私が読みたいSFとは物語による”思考実験”なんだな、と今更ながら確認できた。
だから全宇宙に拡散し、天体の運行さえコントロールできる生命体が未だに人間・あるいは脊椎動物的で、ソイツ等の発想法が現代アメリカン風なのは、この作品では許容してやってもいい。そうでないと英語で物語れる範囲に収まらないだろう。
私としては、生命の形だけではなく、その生存・存在意識そのもの自体が生命とは何か?の無限の解答の可能性を示唆するような物語をいつか物したいと、ソチラの方への刺激も多少いただけたので。


〔読書控〕2022/09/10(土) 11:10

フランク・クロース「なんにもない 無の物理学」大塚一夫訳 白揚社 2011

原題: The Void
前書きに「空間は何の中に膨張しているのか」の文字が見え、そのまま引き込まれてしまった。
こういう問いに激しく想像力を掻きたてられ、もしくはそれが可視化できないことが歯がゆく、いらいらし、一日中その想念から逃れられない(←ウソ、トイレを出ればすぐ忘れるのだが(^^;・・・しかし一生その問いに頭を悩ませ、わずかでもその正体に近づきたいと思念する・・そしてそのままそのように現実生活からもっとも遠くのフィールドをこの世の居場所とする・・・やはり私は天文量子物理学者になりたかったなぁ。それをどこでどうまちがったのか・・・しみじみ・・・

そのような今はもうどうしようもない夢と憧れをいつも掻きたてられる分野の書。

ちなみに、始めの方のこのような記述、この視覚化イメージを実感するときの戦慄に満ちた快感は:
「この文章の終わりにあるピリオドを見て欲しい。そのインクは1000億個あまりの炭素原子を含んでいる。そしてその一つを肉眼で見るためには、直径が100メートルになるまでピリオドを拡大しなければならない。・・巨大であるがまだ想像はできる。
しかし原子核を見ようとすればそのピリオドを一万キロメートルまで拡大する必要がある。これは地球の直径ほどの大きさになる。

原子核を見るには地球の直径にまで拡大したが、(さらにその構成因子の)クォークを見るためには月まで拡大し、さらに20倍の距離まで拡げなくてはならない。

水素原子の原子核は正の電化をもつ単一の粒子で陽子と呼ばれる。一方原子の外側の境界を規定するのは、中心の陽子から遠く離れた電子の軌道である。・・・この距離は陽子の大きさの一万倍・・・
電子のサイズは陽子の1000分の1未満、原子の1000万分の1である。
・・・原子は完全な空虚・・・99.9999999999999パーセントが空っぽの空間であることをみつけてしまう。」

なにもない、空気(H2O分子)もない、例えばこの原子構造中の陽子と電子を隔てている空間・・電磁場がそこを満たしている・・・
何も存在しないが「場」があるのだ・・・

そのような概念から場を成り立たせているもの、遂には超弦理論やマルチバースまで現在の空間論が説明されていく。
しかしもう私は理論的根拠や計算法を検証する気力も能力もない。
ただ科学者が仮定し計算し検証した結果から推論できる「事実」を事実として認知しようとする時の大脳バースト状態が生理的に快い?・・気味悪い?まどちらでもいいが(^^♪

現在の最先端の理論を解説し、既に量子力学で予見されている次元数の存在や場の中でのゆらぎ(弦の振動)までくらいは科学の範疇だが、多元宇宙のような計算的推論を「科学の領域で検証できる」ことには懐疑的という見解をはっきりと述べている。

科学は必然的に最終的に哲学に収束していくのだ。

またヒッグス場は本書出版時点では確認できてはいなかったようだが、スイス CERNのLHCの実験にも参加した著者は科学として予見している。
『だが、空虚が本当にヒッグス場に満たされているならば、私達はまもなくそれを知ることになるのである。』

時間という三次元世界に斜めに切り込んでいる4次元を理論的に3次元世界の拡張して捉えるホーキング・ハートルの「虚時間」を導入した思考実験の解説も私には新鮮だった。
始めも終わりもない「ただ存在している宇宙」というイメージ・・・

著者は古代人の宇宙・世界観にも言及し、何らかの共通性をほのめかす。
結局、我々は何時の時代でも世界を考え、われわれの世界の”虚”性を直感してきたのだ。
もはや神を持ち出す時代でもないが、しかしその圧倒的な全ての”虚”・”無”への畏怖は私を溶かし、すべてが結局はその圧倒的な未知へ流れ去っていくことに、今は密かに安堵する・・まあ、そのような地点で(^^;


---以下 付箋付の抜き書引用・・・(なにかいいスキャナーはないもんか?)---
一つの物体だけを残して、その他すべてを取り除くと、残された物体の質量は空間全体に重力場を生じさせる。したがって、物質が一つもない空間領域を考えることはできるが、一つでも物体が存在すれば、その領域は空っぽではないだろう。その物体からの重力場が本来空っぽである領域全体を満たすから。」

2つ光がその波動的正確のために打ち消しあってゼロになることがあるように、ゼロは釣り合っている2つのものに変わる事ができる、空虚は平均すると電磁場をもたないかもしれなが、零点現象によって生じるゆらぎが常に存在しているため、文字通りの空っぽの空間のようなものは存在しない。現在の観点からみれば真空とはエネルギー量が可能かぎり小さい状態、つまりそれ以上のエネルギーを取り除くとことができない状態である。(基底状態)
基底状態に到達するまで、そうした現実の粒子をすべてとり除くことはできるが、量子ゆらぎは依然として残る。

冷たい状態で私達が見ているままに物質と力を記述する理論は、これらのすべての構造が熱の中で溶け去ることを示唆している。理論によると、私達を支配している粒子と力のパターンは、宇宙が焼く10?17度の温度で「凍結した」ときにできた、ランダムに凍結した対称性の破れの偶発的な残骸なのかもしれない。

量子論によると、宇宙は巨大な真空のゆらぎである可能性があり、そこではエネルギーの総和が零にきわめて近いので、真空とういう会計士が帳簿の終始をあわせるように要求するまで、宇宙は非常に長い間存在することができる。もしエネルギーの総和がちょうどゼロならは、宇宙は永久に持続するだろう。
このように私たちは、真空の量子ゆらぎとして突然生じた宇宙が、どういうわけかきわめて高温で、急速に膨張したという描像をもっている。この描像に従うと、大量の物質と反物質が対照的に生成されたことになるが、今日反物質が大量に残っているという証拠はない。陽子と反陽子の間に何らかの非対称性がなくてはならないことは、一般に信じられていることである。この非対称の起源は今も探求されているが、宇宙は相転移を経た時の自発的対称性の破れのもう一つの例として説明できるかもしれない。

現在観測可能な私たちの宇宙の直径は、約10の26メートルである。これを逆算すると、インフレーションがおわったときの10の28度の温度では、将来私たちの宇宙となるものは、数センチの大きさしかなかったことになる。インフレーションの期間は、私たちの宇宙を10の50倍だけ膨張させたはずであり、ここから、はじまりの泡のゆらぎがわずか10?52メートルであったことがわかる。これは量子重力理論で予想されるゆらぎの規模に十分収まるのである。

この驚くべき偶然の一致を考えるとき、なぜ私たちの宇宙が人間にとってこれほど都合がよくなったのかと不思議に思わざるを得ない。

これらの宇宙のうち一つが生命にとってたまたま都合がよく、それが私たちが進化してきた宇宙であるというわけだ。私は多元宇宙を大いに歓迎するが、このような推論が科学の領域内で検証できるかについては懐疑的である。

そうした次元は量子重力の時代には同等に重要だったが、その後、私たちが知っている時間と空間だけが膨張して、今日みられるような巨視的な宇宙に一致するようになったのである。

----引用終了---


〔読書控〕2022/10/10(月) 23:15

アーサー・C・クラーク「太陽系最後の日」中村融 他訳 早川書房 2009

早川SF文庫ザ・ベスト・オブ・アーサー・C・クラーク1
クラークの中短編アンソロジーの第一巻。
最近また宇宙論に惹かれ気味なので、ソチラ方面の新鮮な発想に触れようと現代作家の作を物色しているのだが、なかなか鋭い切り口の思考実験を体感させてくれるようなSFに遭遇することはない。
うがった見方をすれば実際の量子論や多次元宇宙論の方がはるかに強烈な思考実験であるし、科学の枠組みが精密になりすぎ、自由な想像に飛ぼうとする作家のアイデアをかなり不自由にさせているということもあるのかも。
2001 A Space Odessay の時代のような壮大な想像力、特に超越的高次な知性の存在を真面目に書いてしまうと即荒唐無稽との印象になってしまう。
本格SFを構想しにくい時代になってしまった。
だから今、久しぶりにクラークを読みたくなる。

クラークのメインテーマが表題作・巻頭作の”太陽系最後の日”にすでに明確に出現しているのが確認できた。
今ではもう古き良き時代のSFだから許される人類の”明るい未来”を示唆する作。
太陽が超新星化する人類存続の危機を乗り越える人類の能力、特性の肯定的信頼。
超越的知性とのコンタクト。
高次な知的存在同士が融合しコントロールする知性への信頼に満ちた世界観。
正に2001の世界観による宇宙像だった。
ただ、人類はモノリスに触発されて進化するのではなく、持前の探求心や好奇心が自らの進化を促す希に見る若い知的存在ということになっている。

やはり現在の宇宙物理学では地球以外の生命体の存在くらいは否定できないだろうが、”神”のような超越的知的存在を仮定することはもはや出来ないのだ。
そのような意味でクラークやC.セーガンのような世代は宇宙論にとっては唯一希なる世代であったのだ。

その他のアンソロジー中の作は殆どは現在の水準からは類型的な想像力での駄作としかいいようがない。
SFが我々を熱狂させた時代は確実に終ったのだ、ということを淋しく結論する以外にない。


〔読書控〕2022/10/29(土) 10:01

熊野純彦「埴谷雄高-夢見るカント」 講談社 2010

(再発見 日本の哲学)
バリバリの哲学者が読み解く「死霊」、これは私にはかなり重みのある刺激になった。
もとより私は”科学としての哲学”より”文学としての哲学”に主たる吸引力を感じていた。
2011年にフライブルグで当地在住の哲学者大島俶子氏と面談し、同世代のこのハイデガー研究者が埴谷雄高に言及した折、この作家の我々の世代に対する影響力を再認識した。
大島の存在論は埴谷の「自同律の不快」に由来すると、当時密かに確信もした。

今回今すこし若い熊野の論考を読み、当時の”文学的存在論”の影響もさることながら、現在の私が量子論や超弦理論に反応し、深く物理的な存在の根源の探求にとりつかれてしまっている事態に関しても、埴谷が今も私にその方向からの刺激を与え続けている可能性にも思い至った。
埴谷は”文学的存在論”だけではなく、この宇宙の本質への洞察は現在のマルチバース(多元宇宙論)をも正しく予言し、虚体というマイナスの複素数が示す多元的な物質と時間の本質を直感していた可能性がある。
やはり哲学者の熊野の仔細な「死霊」の解説の中にそのような埴谷の現代物理理論と矛盾することのない透徹した直観力を証する文章を正しく引用していることに感銘を受けた。してみると全集『存在の探求』に深く影響を受けた我々の世代だけではなく、熊野のような全共闘以降の世代でも埴谷のビジョンをまさに自分の世界観と重なるものとして深く読み進んだ者もいたのだ

政治的にはスターリン批判(「永久革命者の悲哀」)や冷戦構造(「眠らぬ狙撃手(ウロ記憶(^^;」)を正確に予言し、時を経た今なおその根源的な革命論や政治論が依然として正確に的を射ていることを実感せざるを得ない世界になっている。
この世界はプーチンやトランプ型の政治が依然として世界を動かし、埴谷が箴言の形で述べる政治の本質「やつは敵だ。敵を殺せ。」にいささかも変わりはしないのだ、と。

また熊野の引用する2.3の作家の名前(高橋和巳・高橋たか子・須賀敦子等)にもどこか同時代の文学的熱を共有する哲学者という思いを持つ。

私が20歳そこそこで影響を受けたまま、しかしもう再読し精読するような学究的なアプローチを企てるモチベーションも余裕もないまま現在の老境に至り、今熊野の説く埴谷の存在論への示唆が再び私に、”読み飛ばしてしまった過去”のように目の前にリストとして掲示されていく。
そのように熊野リストを繰っていくとき、あ、それがそうだったのか、とまるでミッシングサークルがつながるような思いを幾度もした。

埴谷がこだわっていた”子を持つこと”の倫理的罪悪感。
「革命の過誤と堕落のまぎれもない第一原因は革命家が子供をもつことによってまず起こる・・」
新生児が先ず発声するこの世に在ることの根源的不快。
あり得たかも知れない無数の可能性の否定の上に自分の生があること。
「私の存在は数限りない可能性を抹殺することでなりたっている、それ自体もひとつの可能性であるにすぎない。」
・・この示唆は埴谷の倫理の根源であることと同時に現在物理が解釈するこの宇宙の虚構性、あるいは物理的存在というものの虚構性も直感させる。
瞼の発生:世界あるいは存在と、人間との間に発生するズレ。
・・・
「死霊」は未完に終り、やはり熊野にしても死霊の小節としての結尾やトリックスター首猛夫の企てる最終的なクライマックスへの言及は避けているのだが、やはり私には首猛夫の「死のう団」が人類史を何らかの形で抹殺し、この間違えて存在してしまった宇宙そのものを”倫理的”に整合する・・・ちやうか(^^♪
埴谷自身は最後にイワン・カラマーゾフが語るゾシマ長老とキリストとの対話を彷彿とさせる釈迦と大雄との対話の場面が終章であると語っていることを別にして。

また、まったく過去には意識なかった次のようなセリフがある:
「無は存在と対立するものではない。それはむしろ、存在とともにあることで、たえざる生成として存在する世界を成り立たせる。発生とは無いものが在るものとなることであって・・」
もちろん、現在ではこれが量子論的な生成過程、もしくはインフレーションを初源とするこの宇宙母体のイメージに直結する思いがする。

「存在するいっさいのものを「どっぷりと容れているこの宇宙そのもの」は、「敢然確固たるたった一つの宇宙なのだろうか。・・・数限りない無限宇宙のなかのたったひとつの宇宙にすぎない・・無からはみ出して存在する・・」
この指摘、直感はとりもなおさずマルチバース理論の先取であるという他はない。

また熊野はカントの研究者であり、埴谷がカントが否定したドグマ(可能性・現実性・必然性)を文学的に拡張し(夢みるカント)その先に思考を進めていった、と捉えている。私はカントに関してまったく知識がないので哲学的史的な埴谷の位置は良くわからない。しかし純粋理性のカントから見て、埴谷はもっと直感や倫理といった人間的たらしめる要素を哲学の原動力としていったと思える。
それは政治活動家としての生の社会・歴史との軋轢や現在という政治的文脈がもたらす必然的な展開でもあったろう。

「のっぺらぼう宇宙 存在せぬ宇宙 ・・・ないにもかかわらずある(「存在と比在ののっぺらぼう」)・・・このようなイメージは現在では直ちに量子論的存在を想起させる。
「いっさいの可能な存在者のなかで最高の存在者として表象する、一つの存在者があって、その存在者がいわば自分自身に対して「私は永遠から永遠へと渡って存在し、私の外には、ひたすら私の意思によってなにものかであるるもののほかに、なにも存在しない。しかし、私はいったいどこから来たのか」と独語する・」埴谷
「最高存在者が「・・」woher bin ich denn? と独語する。私たちはたしかに、その問いの前で立ちすくむ他はないところだろう・・・」熊野
この埴谷的なアフォリズムが存在論哲学の永遠の出発点と言わざるを得ない。
と同時に読者として、熊野の哲学者たる出発点が正にこの辺りであると強く伺わせるに足る箇所だ。

『「存在」とはっきり断言しえるもの」はむしろ「まさに逆に、延々に出現してこない無限な「非在」そのものではないだろうか。
まさに「無限の未出現を内包した全的無出現、つまり絶対無こそが「存在」そのものに他ならない。』
哲学や文学、想像力と論理的思考、転向者として政治的に自己否定した埴谷の到達した地点が行きつく思索の根源が何故か現在物理の開いた時空の存在論と酷似していくのは人間の想像力と物理科学の最上の問いが、同時的に胚胎する同じイメージに結実するのはどういう符合と結語すればいいのか?


〔読書控〕2022/11/21(月) 16:35

竹内薫 「ペンローズのねじれた四次元」講談社 ブルーバックス 2017

<増補新板>
かなり多作でTVにも露出しているサイエンスライター。
しかし竹内均と長い間混同していた。
この増補改訂版は若い時の作の焼き直しとのことだが、かなりクダけたくすぐり文を混ぜてある。あまり本題に関係のない楽屋落ち風ネタは却って純な知的刺激を妨げる印象。
で、あの実直そうなニュートン創刊者の竹内均の印象とは全く違うので今回ネットで検索し、苗字が同じなので混同していたことを確認。←あたりまえじゃ!(竹内均)
本文は現代物理学の雄、ロジャー・ペンローズの多岐に渡る業績を簡単風に紹介するブルーバックス好みの啓蒙書。
ペンローズは斯界の巨人だが、ノーベル賞は受賞していない。ノーベル賞受賞は業績が一般に評価され受け入れた後授与されるのだが、ペンローズは学会のかなり先を行くのでこのケースではない。云々。
ではこの人の業績はどうか:

・・・といつもの長ったらしい本文の引用を開始するハズだったが、図書館の返却期限を忘れていた都合で、すべての付箋を急遽外さねばならないことになって、ソレ省略(^^;
スピンネットワークが時空を創り出す、時空は光(速)を認識するために創り出された概念である、ホーキング=ペンローズの循環的宇宙生成論のイメージ等、記憶しておきたい刺激は多々あったのだが・・・

かなり先進的で刺激的な研究で新たな思考を数値化するのにアインシュタインが微分方程式をツールとして開発したように、ペンローズも独自な記号を使った方程式でメモしていた図が掲載されていたのが多いに興味をそそられた。
もちろん学会に発表するときには時に行われている数学で記載するわけだが、個人の発想を一般に共通の理解を得るにはそのコミュニケーションツールとしての「言語」を先ず開発する必要がある、ということを啓示してくれた。

そうなのだ。
天才的発想・アイデアが天啓することは誰にでもあるが、その内容が世界に理解されるように一般化し、数値化する、つまり言語で説明できるように整理することが不可欠なのだ。そうでないと共通理解・人類の文化知識には成り得ない。
そのコミュニケーションの積み重ねで人間は宇宙を自分の脳の中に胚胎し得たのだ。
・・・
竹内の文章は時に通俗的で安直なユーモアに仮託し読まそうとするのだが、その説明の骨子は相変わらず数式を示す以外にはないようだ。
具体的な日常現象を例にとるのだが、そのような”例え話”で理解できたような気にさせるには・・・それほど現今数学・物理は日常感覚で理解できるような安直なものではない。
一般読者と専門学者をつなぐ竹内のような科学啓蒙ライターは必要だが、その役割は素人を解った気にさせることではなく、”やはりオレにはわからん”と素人にソクラテスの知を悟らせることだろう・・・少なくとも私の頭ではそんなところで(^^;


〔読書控〕2022/12/03(土) 14:32

辻寛之「インソムニア」光文社 2019

この作はまったく適当に選んだものだが、当たりでしたね。
散りばめられた小説的布石が終結に向かって一挙に流れ込むような物語進行の加速度感があり、結尾部分は朝の定期的な短いうんこ本読書タイムをはみ出し、久しぶりにリビングに本をもちだして一挙に結末まで読まされてしまった。
光文社の日本ミステリ大賞新人賞受賞作の改作らしい。

自衛隊のPKO派遣や狂牛病因子等のティピカルな素材を組み合わせ、政治とジャーナリズムの”真実”の扱いを批判し、更にはあまり馴染みのない自衛隊組織内の心理療士職のような新味を絡め、エンターティンメントとしてはかなりいい線行っている。
多少の無理を指摘すると、「事件」の根幹に据えられている未開民俗集団の宗教あるいは習俗がかなりステレオタイプで、その首長の言があまりにも西欧現代人の論理的発言に聞こえるのがこの作を作り物風に思わせ完璧な作にはなりおおせていない。

とは言え、心理療法士が私と同姓で、大きな小説的味付が”各自で違う真実”というテーマとなれば個人的にかなりの贔屓作と言えるかも。
その意味からは、結尾部で”一つの真実”を読者だけに知らせるという構造はもう少しぼかし、それでもそれが真実かどうかは誰にも(読者にも作者にも)わからん風なのがいちばん私好みなんだけど。


〔読書控〕2022/12/11(日) 01:05

須藤靖「不自然な宇宙」講談社 BLUE BACKS 2019

副題:宇宙はひとつだけなのか

(この書の命題は私の問題意識に直接に関わっていて、書評としてはまとまっていないのだが今はこのまま置いておく)

今一番気になっているマルチバースの専門家による解説。
スタイルは「ですます」調の一般向け講演風でかなり緩い目の口調だが、時としてやはりついていけない数式の解説が混ざることもある。
しかし親切にその意味を具体的な近似例を引いてなんとか素人が飽きないようにという配慮が・・苦肉痛々しい(^^;

最初の概論説明の部分で「宇宙」と「世界」の著者の用法が解説されていたが、かなり秀逸な説明で私の語感上の困難がすっきりした。
宇宙は一義的には我々を内在する物理的場のことだが、理論的にはそのようなユニバースが他にも存在し、そのようなユニバースの集合体、あるいは「全て」を含んだ自分の内外の思考が感知する全てを「世界」と呼ぶ、とする。
なるほど。

マルチバースの概念を整理するための、各宇宙の定義を「標準化」してレベル1から4までのラベルをつけて分類する案(マックス・テグマーク)も有益。

この宇宙の構造が安定しているのはその階層構造(原子以下レベル→(人間社会)→銀河以上レベル)の故だが、その階層構造はいかにも不自然である。
この場合不自然とはエントロピーの増加が人為的風に抑制されているから?

天の川銀河には1000億個の恒星がありハビタブル惑星はその一万分の一、つまり1000万個と期待される。地平線球内(我々の感知できる宇宙)にはまた1000億個の銀河、つまり・・・
これだけ多数のハビタブル惑星がある以上、地球以外の高度知的文明が存在しないとすれば、我々は極端に特別な位置を占めることになる。
これは宇宙原理、平凡原理、コペルニクス原理に反する・・・
・・・・・

=> しかし高度知的文明が”極端に特殊である”という認識はあるいは観点の相違で解消してしまう座標でもある。
例えばアリが集団として比較的長期に安定した生物構造を維持し、集団として何かの宇宙的認知を保持し、この宇宙はこの認知が感知する故に存在するとかの?

あるいは、原子も構成できない超高密度の宇宙で何らかの次元での一瞬の感覚が宇宙=自我を悟り、一瞬が永遠と同義になり?

やはり”高度知的文明”という認識が極端に特別であるとは思えないのだ。
たしかに宇宙を認知するという逆説的な知は我々には特殊な能力と思えるのだが、ただ存在し、あるいは存在していないこと、その両義が並立し、あるいは認知などなく、従って存在することもない非宇宙がそれ自体を特殊と言うか?

我々の”世界”を認識するということは確かに我々の世界では特殊であるのかもしれないが、それ以外の宇宙でその認知にはまったく意味がない世界であれば特殊でもなんでもなく単なる辺境の雑多な宇宙の一種であるだけで・・・

人間原理の哲学的解釈か?

コペンハーゲン解釈(観測によって決定する世界→その都度分岐し自分の世界に収縮する世界。
エヴェレットの多世界解釈:自分が今居る世界は一義的に現世界で、他の分岐確率的世界とは絶対的に全ての情報が隔絶している。
たがいに干渉することなく並行して”存在”する多世界解釈。
結局、ここだけが我々の世界なのだ・・・

しかし検証することができない(提案された仮説が間違っていることを証明できない)ことは科学ではない。(カール・ポパー)

穏健派:全て数学で記述できることはない。生物・意識・芸術。数学的に記述可能な側面だけを取り上げているに過ぎない。

中道派;やがて要素還元主義的な物理の適応が困難な系もあるが、やがて数学で理解できるようになるだろう。しかし、それが厳密な記述なのか、それとも数学的近似であるのかはわからない。

過激派:物理法則がある特定の数学の体系で記述できるというより、任意の無矛盾な数学の体型に対応する物理法則、そして世界が存在する。

・・・しかし”無矛盾な数学的構造は必ず存在する”
”存在し得る”と”実在する”とは違う・・・

しかし”知的存在がなく、認知できない世界が実在しないとすれば、たとえば地球に人類が居なかった時代には宇宙は実在していなかったことになる。”
”仮にどこにも知的存在がいないとしてもロンリーワールドは実在する”

法則とはなにか、数学と宇宙との関係とは何か、科学的検証とは何か、知性が存在しない宇宙は実在していると言えるのか。
科学ではなく哲学の課題。

”無限”中には有限の可能性はすべて存在する。・・・
しかしこれを「無限中には有限の可能性には存在しないものもある」と言い換えても論理的矛盾ではない。
「”無限”は全ての有限の可能性を含み、そして全ての不可能性も含む」のだ。
ここでどうしても埴谷雄高の”不可能性”あるいは非在、あるいは虚体というイメージを後ろで見てしまうことは多分私の感覚にすでに深く入り込んでいるあの系列の思考法ゆえだろう。

須藤の主旨の核心は人間原理の不自然さ、あるいはその偶然の確率の稀有さの感覚的違和を論理的思考で解を得ようとする、次の命題と思える。

知的生命が発生する環境(液体としての水の存在等)は極めて低い(不自然)

太陽系が唯一の惑星系であればあまりにもこの偶然性は不自然

宇宙に無数(無限)の惑星系があると仮定すれば、その内ひとつはこのようなケースが存在することは不自然ではない。

もちろん須藤は結論的にこの命題は検証不能であり、そのような問にどう向き合うのかという価値観に依存するという他はない、と述べている。

ここで真摯に疑問に向き合い、何とか解を得ようという須藤の知的立場に好感は抱くのだが、やはり私には科学者のあまりにも論理・あるいは科学的知見の偏重を感じずにはいられない。

かといって埴谷雄高のように「不可能故に宇宙あり」とまったく個人の感覚に帰してしまえばもう既に議論可能な命題ではなくなってしまう。

私はここで自分の立場を纏めることには性急に過ぎるのだが、須藤の立場とはまた別にこの「不自然性」への向き合い方を以前から提示してきた。

生命や知的存在が果たして不自然なくらい特殊な存在なのか?
生命に関しては条件さえ整えば自己増殖する機能を備える物体は”自然”に生起するだろう。
多分、須藤のような科学者は「宇宙とは何か?」「存在とは何か?」を探求しようとするような”知的存在”の発生を稀有な現象であると感じているのだ。
確かに。
しかし、”知的”ではないウィルスや細菌もまた稀有な存在であり、原子の複雑な組み合わせである物体自体も稀有な存在である。
「稀有な」という日本語ではなく「ユニーク」(UNIQUE)という指標と理解して欲しい。
各物体も、あるいは物体でない「場」そのものも、あるいはそういった全ての無限の可能性もそれぞれがユニークであるのだ。
そして知性という属性がユニークだという同じ感覚で、それぞれがそれぞれに独自の現象と言っていいいと私は思っている。
過去からの知見を重ね合わせ、確かに人間はパスカルのいう意味で宇宙を考えるに足るユニークな存在であろう。
しかし、紀元前のインドのヨーガ者が宇宙を自らの阿頼耶識が創り出した内部的存在であるとした知見もまたユニークであり、同様に検証不能、つまり有意な仮説なのだ。
そのように「考える故に宇宙在り」(ヴァレリー)とした論理もユニークであり、また宇宙という概念を必要としない生物もそれぞれユニークである。

もしかして、科学的知見の荘重な集積を一瞬にして瓦解させてしまうような”オムニポテンツ”な何物かが”我々の宇宙”の本質を確実に認知してい、ただそのように存在していて我々には知覚できないことなのかもしれない。

だから私に特にそのような人間原理の根幹にある西欧的知的階層性を存在論哲学の根拠とする感覚はない。

あるいは埴谷雄高もそのような地点から”不可能性の哲学”を感知していたのかも。

(書評・見解共未完)

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