[読書控 2023 index]

〔読書控〕2023/01/28(土) 19:07

クリルトファー・C.ジェリー/キンバリー・M,ブルーノ 河辺哲次(訳)「量子論の果てなき境界」 共立出版 2015

副題:ミクロとマクロの世界にひそむシュレディンガーの猫たち

かわいいシュレディンガーの猫ちゃん達をあしらった楽し気な装丁だが、内容はかなりエグイ数式が羅列されていて、しかもソイツ等が本書の骨格になっている。猫に騙されてはいかん。

まず、生きているのと死んでいるのとが重ね合わさっている猫という量子論的存在の実際を実験によって確認する。
光子レベルの”存在”では実際に観測可能で、その実験手順や評価は克明な数式で説明してある。
まあ、その数式や論理評価は私にはとうてい検証不能なので各権威筋が結論したことをそのまま”事実としてうけとめる”という謙虚な姿勢でその部分は読み飛ばさせていただいた。
ついでに、量子論が古典力学もしくは我々の存在感覚に受け入れられない二つの現象、粒子でもあり波でもある物理的存在とその遠隔瞬時情報共有性(エンタングルメント)が純粋理論的仮説ではなく実際の物理現象である、と理解したということにして、最後まで読ませていただいた。(^^; ←苦渋の照れ笑いマーク(^^♪

光子のようなミクロの”物体”(現象か)の「粒子」or「波」という性質は観測した時点で決定される。粒子を測定する為の装置は粒子を検出し、波を測定しようとすれば波となる。
この時、原初の恒星から発出した一光子を今測定するとして、測定装置の作動は現在だが光子は何億年も以前に発出されている。
粒子か波が今決定されるのだが、現在が過去の物体を決定するという因果関係の時間逆行がある。観測が量子を決定するとはつまり「人間の意思が決定する」ことに他ならないという論もある。これは阿頼耶識宇宙の根源的イメージであると私は付け加えたい。

現在時点での量子論の日常社会への応用は「非局在性」(作用が離れた場所に瞬時に影響を与えること)を利用した超高速量子コンピュータだが、この実用化はかなり難しいと思う。
エンタングルメントをセキュリティ確保に利用した暗号通信はすでに実用化されつつある状況らしい。
してみるとやはり量子論は理論仮説ではなく、我々のマクロな日常世界を構成している現実の枠組みであると、ここまでは言える。

結論的に書かれている古典的物理世界と量子論物理世界の境界はこうだ:
『古典的な世界はどこにもない。
すべては量子力学的世界の基礎の上に構築されている。』

また、この著作の多世界(マルチバース)に対する見解は;『解釈である。』と・・・
まあ、理論的実際上マルチバースが存在していても、まったく情報が隔絶した宇宙というのは存在していないのとまったく同じことなのだから。
オッカムの剃刀の切れ味からいうと、私はマルチバース論主義なのだが。

それではあのシュレディンガー猫はどうなるのか:
マクロな世界では量子論的性質は圧倒的な量の環境因子に瞬時に影響されデコーヒレンスを起こしてしまう。・・・
だから猫はかすかな一瞬だけ生死は重ね合わせられてはいるが、ただちにどちらかに決定されてしまう。
つまり量子論的世界と古典物理世界の境界はない。あるのはデコーヒレンスの程度。

・・・この辺りを読みながらしきりに尺取り虫の行動実験を思い出してしまう。
このタイプの蠕動移動虫の進行方向中にモーターで前後に振動している板を置く。
つまり空間的には板が存在し、次に存在しない状態が繰り返される。
この振動が緩やかであると虫はそこには道がないと判断し、動かない。
しかし振動がある識閾より速くなれば虫は振動している板ではなく固定した板と認識し前進する。たぶん板が存在しない時間にも虫は落ちることはなく前進可能なのだ。
つまり、我々の日常はその存在しつつ存在しない板の上で営まれているのだ。
・・・うむ、我ながらなかなかの量子論と古典力学の秀逸なメタファーだな(^^♪


〔読書控〕2023/02/08(水) 11:23

里見喜久雄(他)「障害をしゃべろう(上・下)」2021 青土社

季刊誌「コトノネ」連載の対談インタビューのアンソロジー。
障害者福祉関係の季刊誌という固定したイメージで読み始めるとエライ目に会う。
この対談集はそのような善意・チャリティ・ボランティア・助け合いというようなありふれたレッテルに収められない、むしろその固定観念を攪拌し、まったく違った発想を引き出してくれる新しい社会へのイニシエーションへの提言に満ちていて、しかもそれが要領よく発信されているのだった。
著者が自分の臭覚でインタビューに向かう先は、もちろん当事者としての障害者も含まれるのだが、まったく障害者福祉とは直接関係のない分野の異能達も多い。
ベストセラー作家・ロボット工学者・エッセイイスト・美学者・能演者等々。
自分の主催する雑誌に連載するインタビューの標的の定め方は「何だかワクワクするが、何故だかよくわからん。本人に聞いてこよう。」(数学者森田真生の項)というものらしい。
で、このインタビュアーが嗅ぎ分けた匂いは確かにユニークで他とは違っていて非常に面白い。強いてレッテル化すれば「また別の視点」からの見方、つまりは「この社会の多様化(ディバーシティ)への提言」ということにでもなるか。

著者にしてもこれまでの社会との関わり方がある契機(関東東北大震災)によって全く新しいフェーズに切り替わるというイニシエーションがあり、以降この社会の「当事者となる」ことになった、と前言で述懐している。
これまでの見方をまったく別な視点から見、それによって自分と社会との関わり方が劇的に変わっていく、そのような契機に障害(障害者)との遭遇があるのは図式的にはよく理解できる。
自ら、あるいは自分の家族が障害者となったとき、今までの「健常者=普通者」という世界が強制的外装的に変り、まったく別の生き方・社会との関わり方を模索しなければ生きられない。
嘗てのように「障害者=弱者=非当事者」というレッテルに甘んじ、福祉対象者として安住する、しかし甘んじるのではなく「当事者」として社会に関わり「普通者」として生きなければ、例えば「やまゆり園」事件はなくならない・・・
障害者福祉の世界とのコンタクトによって著者自身も社会の当事者としての別の意味を体現し、そしてこのような情報を発信することで当事者として社会と関わる、と。
なるほどね。
そのような経緯で別の見方、社会との別の関わり方があることを知るのにワクワクするという新鮮な知識欲が活動の根拠となっているようだ。

下巻まで読んでいくと里見のフォーカスがいよいよ鮮明になり、「死の発明」によって生命全体が生き延びる真核生物の戦略システムがその種を構成する個体の多様性を確保する為の装置であり、脱目的的で合理に反するように見える”普通でない異種の個体”が種の生存を担保している、という生物進化の戦略的帰結を前書きで明確に本人が語ることともなる。
そしてインタビューの矛先は既に”障害者”から大きく離れ、種々雑多・多様な経歴を持つアーチストや研究者、社会運動の実践者達に向かっていく。
里見は的確に語らせるべきことを質問し、あるいは確かな反応で対話者の核心を引き出していく絶妙なインタビュアーぶりを発揮し、なかなか快い対話が繰り広げられていく。

このインタビューが語らせる「弱いロボット」だとか、一糸乱れぬ統制ではない、違和も取り込んで構成していく能楽の共同作業というような、閉塞した日常に思わぬ穴を穿ち、新鮮な空気を取り込んでくれるような”別の発想”の涼やかさにいつしか読者の私も感応してしまうのだ。
自分がちょいと「普通」のカテゴリーに入れてもらえるひとではないな、というようなヘンな自覚が私に先ずあり、成人してからも絶えず「外に自閉する」ような習性を持ちその社会との距離感のままとうとう私は現在に至ってしまったようだ。
著者のような人生的契機に遭遇することもなく、自らの信念を”当事者”として実践し、世界に問うこともなく(^^;

実はインタビューアー里見は私の古い知人で、先日半世紀以上ぶりに再会し話を伺う機会があった。
高校時代には里見も私も周囲のサラリーマン家庭の子弟的同輩諸君とは多少違い、同郷大阪の西成的はみだし方(?)をしていたというような記憶もある。
それから半世紀を経、あの里見クンがこのような形でこの社会の中で自分の居場所を定め、独自の仕事を営んでいるのを目撃するという形になった。
同じ”ニシナリ”でガキ時代を過ごし、大学卒切符も持たず社会に組み入れられたという出発点も同じだったというのに。

50年ぶりに会った里見は、同席した同窓のS氏が相変わらず秀逸な印象であることと、その印象に収まらない思いもかけぬ人生の変転経緯を語ったことに専ら感嘆していたが、現在の私には別段の感慨はなく、まったく「当時と同じ印象」とのこと。
やはり未だ自分の本来の居場所を得ていない私はアレから何も変わらず、やはり未だ”ニシナリのガキ”をやってる、ということか(^^;


〔読書控〕2023/03/11(土) 11:39

池内紀「ドイツ職人紀行」東京堂出版 2018

ハンスザックスの歌謡とヨースト・アマンの木版画に描かれたゲーテ時代からのドイツの徒弟親方の携わる職種紹介に著者の豊富なドイツ滞在の見聞をさりげなく散りばめたエッセイ集。
モロに昔の旧制高校生たちがドイツ文学に憧れた時代の匂いが芬々と漂ってくる、なんとも現代離れした”古きよき時代”へのオマージュだな。
私もその香の幾分かは共有できるのだが、今ではあまりに高踏的で通俗高尚なクラシック音楽のような黴臭さが鼻につき・・・まあ、その黴臭いのも”雰囲気”ではあるのだが。どこから読んでも、いつ止めてもいい5分間の密室読書にはうってつけではあった。


〔読書控〕2023/03/18(土) 11:07

中村彰彦「二つの山河」文芸春秋 1994

最近あまり小説に目が向かなくなり、今回は適当に無難な時代小説を選んで読んだ。
”無難”というにはあまりに無難で、一昔前なら格好のエンターティンメントだっただろうが、今ではかなり古臭い小説造りと言わねばならない。
三篇の中編小説が収めてあり、標題作「二つの山河」はそれでも実直な筆致で第一次大戦後の徳島のドイツ人捕虜収容所所長の人間性を克明に描いた佳作だった。
噂には聞いていた日本での「第九交響曲」の初演はこの収容所での話で、そのような捕虜と周辺住民との交流が実現する歴史的文脈を詳しく掘り起こし、テーマも筆致も小説的にはかなり成功している作。
しかし後の2作は克明な史料の読みからの書き起こしで今の感覚からするとあまりにも史実に忠実にあろうとする史家的姿勢がくどくて読み辛い。
細かい幕末秘話を小説の形で書き残す意義はなくもないのだろうが、エンターティンメントとしてはまったく退屈な文章がつづく。
読了してからもう30年も前の雑誌掲載小説と知る。
古いなぁ・・この感覚は、と。
..
と、ここまで書いて私の過去のこの著者の読書歴( [Authors' 'LIst] ↑)を確認してみた。
あまり記憶に残ってはいないのだが、この作家の小説を折に触れ楽しんでいたわけだった。
20年前に最初に読んだのはこの作よりも後の1998年出版のものだった。
この作家の、史実を掘り起こし小説として再生する実直な筆致に常に好感を持って読んでいたわけだ。
とすると、これが最初期の作品ということなのか。
小説家として円熟していった作者だったんだなぁ・・・とか。


〔読書控〕2023/04/03(月) 15:56

柳広司「はじまりの島」朝日新聞社 2002

意外と分厚く、趣味的に綺麗な装丁の小説。
中身も趣味的に細部に凝った推理小説風の物語。
ガラパゴス島で遭遇する乗組員の怪死事件をホームズ並みの推理の冴えを若きダーウィンが発揮し、推理し解明するという歴史上の実在のイベントを借りた構成はいかにも趣味的、ゆったりとしたソファーで葉巻でもくゆらせながら読みたい本。

しかし私はそんな優雅で大時代的な趣味は持っていない。
それでも読み始めてしまったので、朝の用足しのおかずで一応最後まで付き合った。
しかしかなり凝った造りで、歴史考証もしっかりしているし、ペダントリな知的情報も混ぜてくれているのだが、まるで面白くない。
随分と時間をかけ仕組みを作り、細部を丹念に書き込んだ労作ということは間違いないのだが、まったく面白くないのだ。
あまりに知的な遊びに偏し、現代的問題意識にはまったく関係なくところで書斎でゆったりと過ごすのもいいとは思うが、それではあまりに退屈。
この上なく良質なエンターティンメントだが、ちっとも面白くない。
私がその類の読む楽しみを求めているような時なら、もっと楽しい読書だったハズだとは思うのだが。

なんという不幸な出会いをしてしまった本だったのか。



〔読書控〕2023/04/26(水) 23:13

橋本省二「質量はどのように生まれるのか」講談社ブルーバックス 2010

量子(色)力学の”ブルーバックス的”啓蒙書。
光子のように質量ゼロの素粒子もあるが、”質量を持つ素粒子はどうやって質量を獲得するのか”を説明していく過程でアインシュタインから始めて最新の量子力学の成果までを読みやすく程よくおもしろい語り口で解説。

最新の成果とか書いちゃったが、この分野の常として”最新”は10年も続かない。
この一連の物理学史ストーリーの”最新”はヒッグス場理論の解説辺りになるのだが、この本の出版から2年後、実際にCERNのLHCが、失礼、欧州合同原子核研究機構の大型ハドロン衝突型加速器がヒッグス粒子を実際に発見し、この理論が証明されたことになった。

ま、しかしヒッグス粒子が全ての素粒子の質量を与えるわけではない。ヒッグス粒子が持つ質量は全体の2パーセントでしかない。だから、この本のタイトルはタイトルにすぎず、質量の起源が完全につきとめられている訳ではない。

著者のこのトピックを量子力学史のそれぞれの地点でつきとめられた理論の解説を積み重ねて最後に質量とはどういうことなのか、という究極の地点まで誘っている企みは見事。それに説明口調が学生受けする日常的な話題をマクラに本題に導入する手腕も見事。
物理学者なのに文章は軽妙で結構うまい。

「本当の真空と呼んでいるのは、素粒子が浮かんでいる真空のことだ。
真空とはエネルギーが最低の状態なので、外から十分なエネルギーを与えてやらないことには状態の変化が起こりようもない。
つまり何も起こらない状態のことだ。」

・・・・これはE=mc2という方程式の解だな(^^♪
まあ、結局相対性理論の骨子からいうと、エネルギー(E)がゼロだと質量(m)もゼロ。質量がないならモノは何もないということだ。
しかし素粒子は「在る」。しかし素粒子は粒子ではない。粒子のようにも観測できる波動である。しかし質量が無いなら光速で移動している。逆にいうと、光速よりも遅い素粒子は質量をもつ。真空状態の素粒子はクーパー対を造り、ボース=アインシュタイン凝縮することによって安定し、安心して怠けきり質量も持たず、エネルギーも出さない(真空)。しかし原子間のスピンの向きが自発磁化を発生させ、この系を励起させることがある。外部からのエネルギーがなくとも系の自発的対称性を破ることが起きる(南部陽一郎)。この乱れがわずかに素粒子の速度を光速よりも遅らせ、結果質量が発生する。
つまり「物質的存在」がここから開始されるのである・・・・
という10行が私の理解である。

しかしこのような結論を得るには、各過程に置ける実験と結果を整合させる仮説をあらゆる角度から試み、それが実験結果と完全に、あるいは最小最適に整合するとノーベル賞がもらえるのだが、次のステップで今度は”自分が”、と他の研究者は次のエサに食らいつく、その間には思考と実験の膨大な重層が記録されていく。
この各段階の理論を素人に分かりやすく解説するには自分自身が完璧に理論とその根拠を理解していないとできないことだ。
全てを説明尽くそうとすれば10行では決して収まらず、一冊のブルーバックスに収めるの至難のワザだろう。 某管理組合副理事長M氏のように、自分は京大法学部を卒業しているので完璧に理解している、説明は以上。と肩書を見せただけで証明として通用するような世界ではない。残念ながら私は日本の学歴ヒエラルキーとは全く別枠の出自で、どこの大学出身だろうとそれが彼の説明の正しさを私に保証するわけではないのは公理である。

「満員電車は想像するだけでもうんざりで、その中で本書のようなややこしい話を読まされるのはまっぴら御免だ。満員電車の中ではないが、とにかくここまで読んでくださっている読者を含めて、忍耐力に敬意を評したい。・・・」
三宮からの阪神電車の中でこのくだりを読んで、おもわず噴出してしまった(^^)

最後まで楽しく読ませていただいたのは事実だが、結局私の理解力ではたった10行で片付くちゃちで安直な単なるイメージしか読み取れていないのだ(^^;
まあいいか。どのみち素粒子・量子色力学の知識は「区分所有法」実務理解にまったく関係はない。

それにしても・・・物理学者の飽くことのない興味とあらゆる仮説を試み追及する世界像と「区分所有法」の解釈とは互いに影響を絶対的に及ぼすことのない認識の地平線の向こうのまったく別の世界である。その両世界で同時に存在する不可能性は自発的対称性のボーア=アインシュタイン凝縮による超電導に他ならない。であるから今の私は虚在空間を質量ゼロで漂うしかないのである。


〔読書控〕2023/05/08(月) 11:11

高水裕一「時間は逆戻りするのか」講談社Blue backs 2020

ごく軽い調子で最先端の量子力学的存在論の時間に関する認識を説く。
いくら調子が軽くてもやはりきっちりした理解には至らないのだが、著者はそれも承知でそのイメージだけでも伝えようとかいう姿勢。

マクラでシュメール暦の解説があり、その天体支配で七曜が規定さるシステムが現在まで続いていることの不思議を強調。3000年前のシュメールの天体観測の結果だぜ。
その辺りから素人にも共有できる素朴な興味から発する新鮮な知識への欲求というモチベーションを絶えず刺激してくれる講義になっている。

時間の一方的直進性とエントロピーとの関係を示唆。
私もこのパラドックスをちょいと整理してみた。
1)時間をさかのぼって過去を改変しようとしても、改変できるのは微小な、つまりは必然的なランダムの範囲内に限定される。
いくらさかのぼれたとしても、その時点での過去からの必然性が規定されている範囲内。で親殺しで自分が消滅するような矛盾は生じない・・・
まあ、過去にさかのぼれるという一点だけ許容してもダメでしょうなぁ。
その時点で別の宇宙に分岐させれば可能だが、親殺しを企てた現在はこれではなくならんな。
2)過去を改変するのは未来の自分の改変しようと企てた意識の記憶がないと・・・
単純に過去の親の生殖時間に戻れても、その時点で自分は単なる卵子・精子なのでどうやって親を殺せる?
現在の自分はこの時間軸宇宙の存在なので、時間を逆転させると自分自身も精子状態になってしまうのだ。
3)自分は過去にさかのぼれないが、自分の記憶・意識の痕跡を過去の自分に示す・・これは”インターステラー”風の時間次元扱いだな。
何らかのDNA操作で、そのようなDNAを構成させるような、未来の記憶を織り込むことはマルチバース的な宇宙構造の他ブレーンに重力波通信で情報を与えることは可能だろう。

『4次元以上の次元が存在するとすると、宇宙がかなり不安定になり物体が存在できるような場ではなくなる。
必然的に3・4次元 つまりは現宇宙でしか宇宙は存在できない。』というのは別次元のの存在をかなり考えやすくしてくれる。

また、超弦理論の発展形のブレーン理論の解説もかなり簡単にマルチバースの実際をうなずかせてくれる。
(重力は閉じた弦・他は開いた弦で”この”ブレーンにくっついている。
複数のブレーンが衝突する→インフレーション→ビッグバンの源エネルギーに
『この時空のほかの場所で起こる高次元の現象はすべて、いわば影絵のように、平たいブレーン上に投影された3+1次元の現象として認識されます。』)

著者はアカデミックな研究者だが、子供の頃からの好奇心がアカデミックな宇宙構造探求に直結し、そのモチベーションが職業人生に拡大していく、という私や多くの普通の人には夢のような理想の人生を営んでいる人のオリやアクのない精神が読み取れて読書がすすむ。まあ、ブルーバックスにはそのような「子供の科学」(雑誌名)の楽しみが感じられる著作が多いのだが。

『量子力学的宇宙では「観測」して初めてゆらぎが固定され存在できる。
しかし最初の観測者は誰なのか・・
人間が観測する以前には・・・』
というような疑問は「観測」の意味があまりにも人間的すぎるようだ。
「観測」ではなくある現象が生起し位置、時の一方が規定されてしまうということなんだろう。
・・それは現在の我々が始原の宇宙を考察し、一方を推測した時点でその始原の「時・位置」が決定されてしまう、というタイムパラドックスを含むのかも知れないぞ。(c)hemiq 2023

その他、時間遡行に必須の最新のサイクリック宇宙理論の紹介、理論にはなっていない著者の”感じ”↓等が披瀝されていてかなり楽しい自由な啓蒙書だった。

『生命がエントロピー増大の法則に反して局所的に示すエントロピー減少は、生命ができてみたら結果的にそうなっていたのではなく、生命が形成されるより前に、宇宙の「時間の矢」に逆行するもう一つの「時間の矢」があって、それが生命をつくりだし、その中にやどり、みずからの存在証明として生命を存続させているのではないか、という気が・・』
『ネアンデルタール人の脳の大きい容量のなかで「@未来の記憶」も保持されていたのでは・・→回避できない未来を受け入れ、彼らは消極的な存在でいた?』

ネアンデルタリアンの私と同じ夢想だ(^^)


〔読書控〕2023/06/04(日) 15:58

山口雅也「謎の謎その他の謎」早川書房 2012

私には殆ど興味がないカテゴリーのミステリー。
最近あまり小説に目が向かなかったのでわざと適当に選んで読んでみた。
巻頭の「異版、女か虎か」は正統英国風本格ミステリを気取った作風で、心理の揺れを扱ったテーマと、結論はわざと伏せるという趣向。で、結局、面白く読まされてしまった。その流れで残りの作も適当に読みすすめて楽しめた。
昔の正統ミステリのように難事件をすっきりと解決に導く主人公が活躍する時代ではない。やはりミステリ仕立ての中に”現在の混迷””アイデンテティの喪失”とかラベル化できるような材題をミステリの中身に置いている。
しかし、特に新鮮な素材を発見できるわけではなく、あくまでミステリを構成させる身近な材料手段としてあしらっているだけなので、別に新たな感銘を受けるという程でもない。
文章も少々安直な一般向け現在通俗体文なので、文章だけで読ませる域ではありえない。
一話5分で軽く読み終えられる、毒のない朝の定例読書には役に立つ。


〔読書控〕2023/06/30(金) 00:58

山之口洋「瑠璃の翼」文藝春秋 2004


単なる郷土史家・作家のかなり好事家的ニッチ掘り起こしノモンハン戦記(^^)と思っていたらとんでもないクオリティの佳作だった。
そのようなあられもない印象を抱いたのも書き出しからやたら詳しいローカルな史料の引用、主人公の上司・同僚・部下の固有名詞をこれでもがなといちいち書き添える等、あまりにも史料そのまま再構成小説風に見えたのだ。
しかし決して退屈で単なる史料再現鳥瞰羅列ではなく、ドキュメンタリー映画を見ているようなリアリティと深い史的考察があり、小説的なストーリー展開と情景のくっきりしたイメージ、無理のない自然な文章や語彙が読み進めさせる。
あまりに資料の再現が克明でしかも豊かに肉付けされていて、つい読書中にふと作家の経歴をしらべてしまった。
著者の専門はこのような戦記ではなく、AI専門家副業推理作家でこの詳しい戦記のような分野の地味な作家ではなかった。更に調べてこの野口雄二郎満州国空軍中将(最終階級)は作家の祖父、その関係筋の私的な記録もふんだんに取り入れられ、著者個人の思い入れの深さも各場面の情感を裏打ちし、稀有な戦記小説の形に結実していたのだ。

また、全くの経時的リアリティだけではなく、現代の目から可能になる当時の日本の政治・軍事の情勢・動向もよく分析され、評価された文で記され、この著者の明晰な史判評価力をうかがわせる。
日露戦争当時の国際政治外交における日本の台頭の主因の分析・評価、日英同盟のその後の役割・・・

実はノモンハン事変の名は知っていても、どのような史的文脈でどのような経緯の「戦争」だったのか私は殆ど知らなかったのだ。
だから豊かな文章からのイメージ、まったく未知の第二次世界大戦前夜の満蒙国境、スターリンのソ連と関東軍の軍事的駆け引き、黎明期から実際の空中戦に至る「陸軍航空勤務者」の戦争の実際、機材の性能やその精神性、すべてが貴重な情報でもあり、生々しい情感の小説的再現も新しい私の疑似記憶・疑似体験になった。
主人公が現在の我々の感覚でも普通に同意できる人間性の持ち主として描かれているのも最後までの上質の読書感を維持させた。

かなり膨大な対戦前夜の日本戦史を扱っているので、出くわす挿話が別のソースから得た記憶と時々重なることも意外な楽しみだった。

同盟英国軍への当時の日本人の不評、敵であったはずのドイツへの好感・・徳島坂東捕虜収容所のドイツ人捕虜への待遇が傍証として引用されている・・・第九交響曲の日本初演に関する二・三の出典記憶と繋がった。

当時のソ連軍の戦車が乗員の敵前逃亡を防止するために上部ハッチが外から南京錠で封印されて出撃した・・・これはウクライナ戦争のある種のニュースの逸話と重なった。

有名を馳せた満州の空の英雄の宣伝映画を盛んに制作していたのが大杉栄を暗殺し、退役した満映の甘粕政彦理事で、森繁久彌も映画人として加わっていた・・

森田雄二郎は終にシベリア抑留中に生涯を終えるのだが、つい2週前に私が思いついて訪問した舞鶴の引き揚げ記念館の展示、特に抑留者への共産主義教育と牢名主的待遇を受けようとする軽薄な権力追従者の存在も重なり傍証された。
それと、日本人軽薄追従者の存在と対比的に記述されていた、同時に収容されていたドイツ人抑留者達のきっぱりとした態度という記述・・・等。

小説としても日本近代史の資料としても第一等の書物。


〔読書控〕2023/08/15(火) 19:08

スコット・トゥロー「無罪」 二宮薫訳 文芸春秋 2012

推定無罪から23年・・・何という時の経過なのか。
トゥローやグリシャムのリーガル・サスペンスを好んで読んでいた時もあった。
SFもそうだったが定評のある”名作”を読んでしまえば、毎回そう楽しめる作に出会える分野ではない。
特にSFは折に触れて読んで見ようとはするのだが、もう内容についていけないことが多い。私好みの作風の作家は限られているようだ。

今回はその時代に熱中して読んだトゥローの満を持しての作ということで、かなり分厚い本だがかなり期待して読み始めた。
そして、やはり唸ってしまった(^^♪
やはりこの作家は特別なのだ。
ミステリーが巧妙に仕組まれているのはもちろんだが、やはり文章が本質的に”作家”であることが第一に印象つけられる。
つまりは内容より先に、まず文章で読まされてしまうのだ。

”クリーナーに吸い込まれたように5時になると事務所から人が消えてしまった”
軽いユーモアもまぶしつつ、なんというくっきしたイメージを与える表現なのか。
こういう文章で語られる物語が読書の楽しみを醸し出すのだ。
で、丸一か月毎日少しずつ読む楽しみをとっておき、最後にはもう待ちきれず結末を20頁ばかりの走り読みをしてしまったのだが(^^;

相変わらず見事な小説だった。
20年前に読んだことが伏線のようにも働き、まるで私が過ごした時間がもう一度回帰するような人生的厚みまで感じさせられて。


〔読書控〕2023/09/05(火) 10:12

宮城谷昌光「公孫龍(1)(2)」新潮社 2021

現在雑誌連載中の長編の集成出版と思われる。巻3は出版されているのだが、未だ図書館から在庫連絡がない・・
相変わらずの安定した宮城谷の描く古代中国のヒロー譚で、相変わらず面白いのだが、今回は少々私の感想は色合いが違っていた。
宮城谷は歴史を小説化するのではなく、純粋に歴史の枠中に物語を入れ込んで独自の構成力・文章力・想像力で小説化しているのだ。
いわば小説家の想像力を楽しむ本で、歴史を描いていると勘違いすると小説家のワナにハマってしまう。
その意味では上質なエンターティンメントとして楽しめるのだが、勝手に公孫龍の出自(周王朝の公子)や武芸の達人・天才的戦略家・公正無比な人道主義者という認識を無条件に抱いてしまうと思わぬ事実誤認に陥ってしまう。

実は最近有料ストリーミング配信サイトで中国歴史武侠ドラマを見るのを楽しみにしているのだが、ドラマは如何にもフィクションが前提の面白可笑しい作りでこれが事実だと誤認する怖れはない。
しかし宮城谷の作はあまりにも巧妙で歴史的背景描写も無理がなく、かなり批判的に読まねば公孫龍という人物自体がかなりフィクティブな存在であるのを忘れてしまいそう。
ま、読書としてはそれでいいのだが・・・いやそれでいいのだ。


〔読書控〕2023/09/17(日) 11:51

奥本大三郎「ランボーはなぜ詩を棄てたのか」集英社インターナショナル新書 2021

ランボーとはスクリ―ンでアフガニスタンに戦ったアメリカン・ヒーローのことではない。フランス近代のチョー有名な詩人で、えーと・・まあ、その辺は(^^;
しばらく暮らして居たヴェルレーヌにピストルで撃たれたり、アフリカで奴隷承認をやったり・・・とにかく破天荒な天才詩人だが、どの程度のモンか私は知らなかった。
フランス文学もフランス詩も元からあまりのめり込んだ覚えはないし、私はその頃ライナー・マリア・リルケに熱中していて、フランス語と関わることになったのは全くの行き当たりばったり人生の曲折でしかなかったが、ただボードレールの「悪の華」には何かしら影響されたところはあった、とか思い出す。

奥本さんはもちろんランボー研究者だが、現在の本職はファーブル昆虫博物館の館長サンらしい。どちらかというとアンリ・ファーブルの昆虫記の完訳を完成したことがライフワークのようだ。虫とランボー、やはりふやけた日常に侵入し突然思いもよらぬ異形の形態を見せてくれるもう一つ別の世界からのメッセージなのかも。

この新書はアカデミックというより、やはり昆虫観察のような新鮮な驚きを記録し叙述しておこう、という内的共感と情熱に支えられた筆致で読ませてくれる。
フランス近代詩というとヴェルレーヌの秋の歌的な、中原中也風の(^^;ゆあーん・ゆぉーん・ゆあゆおーんというイメージだが、やはりアフガニスタンで戦ったランボーは本質的に破壊者だ。高踏的フランス詩を破壊し、プチブル的趣味が蔓延していたパリの生活を破壊し、自分の生活を破壊し、ついに自分自身を破壊してしまう。天才と形容するにふさわしい常人にはまったくマネしようもないハチャメチャ人生だったのだ。

奥本館長は「イルミナシオーン」や「地獄の一季節」の重要な詩を全て新しく、現在の生々しい日本語に訳し移し、その解釈からこのハチャメチャな詩人の精神の軌跡を読み解き終に「詩を棄てる」地点にまで連れていく。
ボードレールを踏み台に、見者として究極の人工の楽園に到達し、これがランボーがフランス語に奇跡のように定着させたイルミナシォーンだが、それもこの永遠の歩行者は越えてしまってとことんまで行ってしまうのだ。

『探し求めたのとは、全然違う空気と世界だ。人生。
 --- 結局のところ、こういうことだったのか?
 --- そうして夢が冷えてくる。』

奥本サンも大学の先生や館長をして私よりも永くこの世にまだ残ってらっしゃるのだが、そのような全くの異世界からのメッセージを少年期に胚胎し、そして今でもその虫を密かに心の中に飼ってらっしゃるのだ。そしてそれは私にも。
まあ、私は”cafard dans ma tete"くらいのヤツだが(^^;

この天才の心のミステリーの追跡は新書にふさわしい速度と展開で見事に最後まで連れて行ってくれた。
未だソッチの世界に行ってしまいたい、という願望が私には残っているらしい。


〔読書控〕2023/10/09(月) 22:35

ジェニファー・フェナー・ウェルズ「異種間通信」幹瑤子訳 早川書房 2016

異種文化とのコミュニケーションが専門の言語学者が遭遇する人類最初のETとのコンタクト物語。
私の興味をダイレクトに惹くシチュエーション。まったく人類とは違った生物とのコミュニケーション、つまりは人間以外の知的生物にどのくらいのリアリティを与えられるかという想像力の極限を探る思考実験である・・と期待。
この一作で人気作家の仲間入りを果たしたというだけの小説的おぜん立てはしっかりしていて、言語学の基礎くらいはありそうで期待したのだが・・・
真打のまったく別種の生命体が登場しテレパシー状のメディアでコミュニケートするくらいはぎりぎり許容範囲だが、この異性物の思考様式が殆ど現代アメリカ人と変わらんと見極めたところで読書投了。
大衆小説としてはその巨大な科学力を持つET氏との抗争・駆け引きを面白おかしく描くのがストーリーを進めるエンジンなので、ソッチを評価すべきだが、その悪漢役ET氏の造形がつまらんので私にはもう意味のない読書になってしまった。
私が若年のひところSFにはまったのはヴァンヴォクトーの「宇宙船ビーグル号の冒険」がきっかけだった。この小説に描かれた人類以外の生命体の造形がしっかりしていて、けっして縫いぐるみを着た人類という貧困な枠組みではありえず、豊かな知的刺激を与えられたのだ。これはシュペングラーの循環史感を演繹したとも解され、その意味ではやはりこの地球型生命とりうる思考形態だが、少なくとも現代アメリカ人の思考様式ではない。思考実験、単に想像力としてもいいのだが、読者が想像もできなかったような世界を見せてくれないSFなら私が読む意味はない。


〔読書控〕2023/11/22(水) 11:08

宮城谷昌光「公孫龍3」新潮社 2023

少し間が空いてしまって記憶も飛んでいるが、やっと続編が刊行され、やっと地元の図書館から連絡があった。
相変わらず大活躍の主人公公孫龍だが、この巻では史実に登場する本物の「公孫龍」と宮城谷が自由に創作した「公孫龍」が実際に魏の平原君の館で対面する場面まで書いてある。
同時代に設定し、超絶した能力を持つキャラクタとして公孫龍を借りたのだが、どうも想像力が先行し史実との矛盾があまりに乖離してしまったので、ここで作者が「すんません。これはあくまで小説ですので(^^;」とエクスキューズしているようなヘンてこな場面だった。
これで読者は安心して架空の物語で遊べるということでもあるのだが、私は荒唐無稽の気味が行き過ぎ、かなりの興趣を欠く感じが否めない。
ながらく旧友白鳥君の宮城谷批判を思い出しながらこの著者の作品を楽しんできたのだが、そろそろ白鳥君の批判の方に軍配を上げたくなってきたぞ。m(__)m(^^;


〔読書控〕2023/12/27(水) 11:15

塚本青史「白起」河出書房新社 1998

最近、オンデマンドストリーミング配信の番組で中国産の史劇・武侠ドラマにはまっている。最近も秦の昭襄王(在位中国史上最高50年)の秦の統一前夜の52回ドラマを見、散りばめられた逸話に親しんでいたので思わず目についたこの書を読みだしてしまった。
この作家は多作で図書館ではかなりの量が見つかるのだが、どうも熱中して読めた記憶はない。
ひとつには宮城谷モノのような物語の力点に集中させる想像力と、その雰囲気を醸し出す語り口の演出に独自性がなく、常に散漫な印象しか持てないことや、人物のセリフが中国史劇モノにはまったく場違いな「あちき・あたい」というような江戸期の遊女風もしくは安直テレビドラマ風であることへの違和感もある。

この作は白起が主人公のハズなのだが、逸話に満ちた中国史の膨大な引用をつなぎ合わせることに腐心するあまり主人公の出番があまりに少なく、読者の集中力を殺ぐ結果になってしまっている。
私にすれば中国ドラマで見た逸話の連鎖をもう一度復習し、もういちどその面白みを頭の中で再現するだけの安直な読書になってしまった。しかし中身が膨大なのでなんともう2カ月近くも読み続けているのだ・・・いくらなんでも、もう止めんとなぁ・・他の借り本が読めん(^^;
ということでこの書はこの辺で(^^;

オマケ:中国産ドラマで昨日完結編52回まで見終わったのが金庸原作の「倚天屠龍記」だった。ひところ熱中した金庸の荒唐無稽作品をもう一度中国映画ロープワーク人海金游ハチャメチャ画像で見られるのも楽しいのだが、最近の中国画像に登場する女優サンの美形ぶりも楽しみの一つになっている。安以軒(アン・イーシュェン)はいいなぁ(^^♪

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