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[静かな生活] |
デュカスと小野十三郎 |
2020/12/9(水)16:17 |
ポール・デュカスは私の中では親しい作曲家名だったが、それは「魔法使いの弟子」の作曲者としてだった。 1955年にウォルトディズニーのクラシック名曲をテーマにしたアニメ「シンフォニア」が日本でも公開され、その筆頭がこの「魔法使いの弟子」。 子供の私は白黒テレビでこの作品を見、その面白さに夢中になった。 だから私をクラシック音楽に誘った最初の切っ掛けだったかもしれない。 日本で中波ステレオ放送が始まったのが1960年、いまから60年前。 当時、一端のクラシックフアンになっていた中学生の私は毎日曜日の午後、毎日放送と朝日放送にチューナーを合わせ、その時が始まるのを待っていた。 当時、「ステレオ」と称する音楽再生装置がそれまでの「デンチク」(電気蓄音器)を凌駕して、洗濯機とテレビに次いで各家庭に普及していた。 「ステレオ」にはLPレコードプレーヤーと中波チューナー2台が標準装備だったのだ。 ちなみに、それ以前にはポータブル蓄音機も普及していた。 まったく電気を使わない手回しバネ式の導管増幅式再生装置で小学校の授業でよく聞かせてもらったものだ。 中波ステレオはNHK第一と第二、毎日と朝日で二局同時中継によるステレオ音楽番組として放送されていた。 後にFM放送が始まり、FMの一波多重放送のステレオ再生が主流になったので1965年には中波ステレオ番組は終了した。 中学生の私は左右の放送の案内に合わせ、アナウンサーの声が左右の中央から聞こえるように左右のボリュームを調整し、「ステレオ同時放送」の開始を待つ。 そして最初のステレオ音楽がステレオ装置から響き渡る。 金管セクションによる華やかで色彩豊かなファンファーレ。 一度聴いたら忘れられないような目もくらむ音響の充満。 移り変わるコードの近代感覚と華やかで勇壮なブラスの豊穣な響きは私に音楽から得られる最上の高揚感を植え付けた。 その後、私は今に至るまでクラシック音楽フアンであり続けるのだが、その初期のきっかけの一つがその「ステレオ」体験だったのだ。 しかし案外クラシック音楽のコンサートで当時聞いた金管のファンファーレにお目にかかることはなかった。 一、二度はどこかで耳にしたかも知れないが、コンサートのプログラムに乗るような正式な演奏曲目ではないようだった。 多分ブラスバンド用のピースのひとつだろう、という印象だったのか。 今年になり、このCOVID騒ぎの室内自閉用にまたベルリンフィルのデジタルコンサートホールの月会員になりいろいろとアーカイブを聴いていた。 今まで聞いたことのない作家や周知の作家のあまり演奏されていない曲を漁って楽しんでいたのだが、作曲家リストにポール・デュカスの名を発見、「魔法使いの弟子」以外の曲があり視聴してみた。 Paul Dukas "La Peri" ペトレンコの指揮で2018年四月のコンサート。 「魔法使いの弟子」の印象でどことなく大衆向き作家のイメージが強かったのだが、豊穣なフランス近代和声で構成された素晴らしい作品だった。 少々自分の認識を改める思いでデュカスについて調べてみた。 子供むけの作曲家どころではなく、ドビュッシーとともにフランス近代音楽を発展させ、メシアン等を育てた大作曲家で、あまりに完璧主義だったので自作を破棄してしまうことが多く、寡作となってしまったらしい。 『しかし、バレエ音楽「ラ・ぺリ」は気に入り、晩年には上演用に開幕の「ファンファーレ」も作曲し・・・しかし、金管セクションだけで演奏されるので、演奏会では演奏されず・・・ブラスバンドのピースとして・・・』 うん? デュカスのファンファーレ? このとき、私の記憶から60年前の中波ステレオの音響の光景が鮮やかに蘇った。 デュカスのバレエ音楽「ラ・ぺリ」のファンファーレ。 Youtubeで検索すると瞬時にあの勇壮で華麗なブラスの響きが確認できた。 実はデジタルコンサートホールでも今年COVID下の変則的演奏会でオルガン演奏で上演されていた。 そのメロディーを少年期に記憶に留め、その素性が判然としないまま気になってはいたが、そのまま私の人生とともにこの記憶も白濁し消滅するという運命だった。 そのようなことは日常的に多い。 しかし、60年前の記憶の素性を今になって確認、という時の経過の人生的永さに茫洋とした感慨を抱く。 ここで76年前の記憶を書いた方の文章を思い出す。 大阪出身の詩人 小野十三郎(1903-1996)が1986年にハレー彗星が地球に接近した時に新聞に寄せた文章を読んだ記憶が忘れられない。 今その記事は再現できないのだが、同じ光景を書いた文章があったので引用させていただく。 たそがれの國原に たた一本の煙突がそびえている 大和郡山の紡績工場の煙突である ぼうせき、それは今死んだような名だが 私は忘れることはできない 明治も終りの夏の夜である 七十六年の周期を持つハリー彗星の渦が 涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の 群青の空に光っていたのを (小野十三郎「ぼうせきの煙突」) 人生の最晩年に子供の頃に見た光景を80年近い歳月を経てもう一度夜空に望もうとする、時の膨大な隔たりの感慨が印象的だった。 ハレー彗星を生涯で二度肉眼で見る人もそんなには多くないだろう。 永劫の天体の運行と螳螂の間の人の一生との稀有な邂逅・・・。 人は自分の生の終着が近づくと、それが始まった前夜の光景を思い出し、その全体をもう一度ちらりと反芻してしまうのかもしれない。 そこに、何の意味があったのか、と。 |
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