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[団塊の段階的生活] |
生活酔い |
2008/9/4(木) 午後 10:59 |
事故で一時的に自宅安静生活をつづけ、ご近所散策で日を過ごす、完全おじいちゃんモード。 歩行速度をゆるめると、いままで見えていなかった町の細部も見えてしまう。 他人の生活の細部も。 私が越してきた20年前には、まだ駅前の**銀座商店街が健在だった。 バーやスタンドに並んで自転車屋や果物屋があった。 今は殆どの店が閉まったままである。 商店街の裏側には旧遊郭があり、以前は旅館と看板を上げた木造3階建ての格子飾りの商家が並んでいた。大正モダニズムの産物の円形タイル張りの劇場造りもあった。 久しぶりに歩いてみると、空き地が目立ち、放置されて雑草が伸びているだけだった。 残っている遊郭造りも手入れされず、ただ朽ち果てて行く風情である。 ただ、どこかから三味線の音が聞こえてきた。 完全にはまだ消えていない昭和初期の色気がかすかに漂っていたのだ。 駅前のパチンコ屋も知らない間に空き地になっているし、アーケード風に張り出していた「**銀座」の看板も撤去されている。 10年ほど前から放置されていたスーパーの跡地には、今年大手進学塾がビルを建てて出店してきた。 その隣には去年から別の塾が営業している。 気がつくと進学塾が駅前を中心にやけにはびこり、不況の商店街とのコントラストが激しい。 駅前商店街の花だった不二家のレストランは昨年つぶれてコンビニになった。 ひところ目に付いた英会話学校も多くは撤退していった。 越してきた頃には確かにのどかな田舎町の風情があった。 しかし、今は単に中途半端な地方都市である。 田舎風に不便なくせに、都会風にうるさい町でしかない。 --- 面白い発見もあるのだが、商店街を歩くと大阪西成や東大阪市の町の記憶をほじくり返されてしまう。 私は大阪西成の萩之茶屋・鶴見橋商店街で育ち、残り大半は東大阪や大東・門真市で下っ端労働者をしてきた。 「町の生活」の悪夢が蘇る。 目にうるさい雑多な生活のうごめき。 色とりどりの喧騒。 ガキ共のわめき声。 小便くさい映画館。 太ったおばさんの暑苦しい移動。 こすからい目つきの男共。 傍若無人な男子高生徒の群れ。 商店街では店舗付住宅と小規模スーパーが林立し、自転車が放置され、子供が走り回る。 何年もの間広告宣伝のチラシがそこここに張り付いたまま色あせ放置され、上から別の チラシを張られている。 商店街のスピーカーから絶えず流れる演歌。 うす暗い喫茶店にうごめく男達。 競馬新聞と株屋。 長屋の低い軒の下には、家屋部分かあふれ出たあらゆる生活用品が積んである。 ポリバケツやさび付いた工具、子供の乗り物と回収日に出す古新聞。 あふれる物の中の貧困の気配。 安い物を多量に買うことで貧困は一時的に忘れることができる。 明け広げられた玄関引き戸の中にも生活が丸見えである。 物の重なり。 雑多な生活。 現在の貧困は多分、住居がどれほど物であふれているのかで計れる。 物はいくらでも手に入り、日常で購入する物量は貧富で差はない。 しかし、物を収容するスペースを所有することは貧者にはできない。 自分の貧しさを打ち消すための物量が返って貧困を如実に示すのだ。 賑やかな貧困。ゴミハウス。 いちいち目に入る他人の生活を生きてしまう。 いちいち他人の存在に反応してしまう。 人間の気配は神経に刺さりこむ。 都会の下町の過剰な人の気配。 目から、耳から、鼻から、皮膚から、少しでも防御が薄い感覚から多量の刺激が侵入し、 いちいち対応しようとする神経をずたずたに疲労させる。 目を閉じると今まで見てきた他人達の生活が押し寄せ取り囲んでいる。 目がくらみ、吐き気の予感。 ひしめく雑多な生活への悪寒。 Mal de vie (Mal de mer : 乗り物酔い) |
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