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[団塊の段階的生活] |
須賀敦子の彷徨 |
2009/1/21(水) 午後 6:19 |
「季刊考える人」(新潮社)という雑誌があり、最新号に「書かれなかった須賀敦子の本」という特集記事がある。 (2009年冬号) 作家 須賀敦子・929-1998 亡くなって既に10年もたっている寡作な作家にしては異例なことのように思える。 数年前に初めて「トリエステの坂道」を読み、この人の目で見たヨーロッパの気分が、ある種の日本の青春の一つの形を感じさせ、この著者の名を記憶した。 読後、この作家が61歳のときに処女作を発表していることや、すでに死去していることを知る。 その後、折に触れこの亡くなって久しい著者を回想する本や記事を読んだりし、日本のエマウス運動にも関わりがあったカトリック者としての硬質の精神性に惹かれた思いがある。 須賀は、この特集でいう「書かれなかった須賀敦子の本」、最後に書こうとした小説「「アルザスの曲がりくねった道」(未完)の取材でコルマールやキーンツハイムをおとずれ、アルザス成城学院(旧聖心系の修道院)の建物を取材している。 この学校の創設にアルザスに当時滞在していた私が通訳として関わっていて(1985)、その地点で当方の青春ともクロスし、この人のことを考えると常に回想のアルザスという気分がふつふつと浮き上がってくるのである。 この作品は完成されることなく、須賀は世を去る。 内容は実際に出会ったカトリックのシスターの生涯を描くという構想だった。 アルザスの修道院から日本に渡り、布教活動を40年にわたって行う。 このようなカトリックの深く強靭な信仰精神には、日本の風土には見つかりにくい、ある種の精神の気質を感じる。 それが須賀の魂にも共振する。 もちろん私はカトリックとは随分遠い場所に住んでいるのだが、このシスターが布教のため日本に渡るというような、あるいは須賀がフランスに留学しやがてイタリアで生活を開始するというような、何事かを求め、今までの暮らしを捨て異邦の地を漂泊するという求心の旅立ちは私にもあった。 もしかしたらこういう漂泊への思いは誰の青春にもあるのかもしれない。 しかし、須賀とは違い私はヨーロッパで生活を開始したのだが、精神的な、あるいは 経済的に確実な生きる基盤をかの地で得ることなく、再び日本に戻り、以降殆ど ヨーロッパとはまったく無縁な場所で生き、現役生活を終えた。 だからヨーロッパは私の青春を封じ込んだまま、私の記憶の中に永久に格納されてしまっている。 須賀の作品や生涯に文章を通じて接する時、深く沈潜した記憶が活性し、冷凍保存されていたかつての憧れや精神の渇望の痕跡が蘇るということがある。 直接的にはフランス留学・アルザスの道というコトバが記憶を刺激する。 しかし、実はそういった言葉を発している、どうしようもない漂泊への思いや、 異邦の地から喚起される魂のあるひとつの強靭な形への希求が、既に失ってしまった 私の青春と密かに共振するのだ。 求めていたものは違う。 しかし、探し、異郷をさまよおうという決断をした遠い日の自分自身の魂のあり方は 同質であると思える。 それは青年の救いようもないような魂の迷い、といってもいい。 そのような焦がれるような、もうひとつ別の生き方への希求は多くの青年達にも近しいのだろうし、善く生きようとする意志を持つ誰にでも共通するものだ。 善く生きようとする青年期kの苦しみの記憶、須賀敦子の小説にはそのような普遍の 思いがあり、今でも支持されているのである。 以下、須賀敦子の小説の書評(2006年)と須賀の軌跡について書かれている本の書評(2007年)を私のHPより載録する。 (1) 須賀敦子「トリエステの坂道」新潮文庫 1998(初出1995みすず書房刊) 不覚にして、この著者の名を知らなかった。だから、海外生活に関する軽いエッセイであると期待して読み始めた。 ミラノの勤め人に嫁ぎ、それはそれで長い生活の積み重なりがしみ込んでいる典型的なイタリアの家庭の内部に入り込んだ著者が、意識を撹拌させながら記憶の底に沈んでいった何十年前の光景を、たんたんとした文体で再現している。無理なく、実際の事物の描写にささえられた堅実な文体で情景を積み重ね、やがてひとつの印象的な光景に全体の気分を収斂させる作法。 やはり、これは小説である、と思える。 私小説に他ならないのだが、著者が記憶から切り取って再構成しようとしている気分は、自らの内面というより、語ろうとする人物の社会的な文脈に沈潜していくようである。 すでになくなった夫を媒介として生じる、外国人としての自分と姑の関係、話にきくだけで実際には会ったことのない姑の人物像。 さらには義弟や北イタリアの山岳の村の共同体の伝統的な「父親」でもある義弟の嫁の父の人物像。 すべては家族の肖像であるが、自分自身の青春、すぎさった時代のヨーロッパの生活、外国語で聞く遠い親戚の話し等、幾重にもかさなったフィルターがノスタルジックなひとつの気分を醸成していく。 この表題の下に収められた十余の短編のそれぞれがほぼ共通の気分で貫かれている風である。 これは著者がすでに完成されたスタイルと文学世界をもった表現者であるということができる。 読了してから、収められた解説や他の資料を参照し、著者がすでに故人であることを知った。 また、最初の著作「霧のむこうに」を発表したのはすでに61歳であったという。 文学的な自己表現者としては10年位の活動だった。長い生活者としての日常の果てに、記憶から呼びおこした自分の世界を表現する10年を持ち、そして静かに退場していく、著者の作品には共通する気分がこの人の一生そのものからも感じられるのである。 (2) 稲葉由紀子(文)稲葉宏爾(写真)「須賀敦子のフランス」河出書房新社・003 一見観光案内風の瀟洒なカラー写真本。 須賀敦子のフランスを題材にした作品への文学紀行である。 須賀敦子を知らなくともフランスの田園の透明な大気が感じられる軽いエッセイとして読めるだろう。 しかし、須賀敦子の足跡をフランスにたどるリポートでもあり、エマウスの熱心な活動家であった この小説家の、若年の心の曲折が異国の風景に際立つ。 日本の精神風土になじまず、学生として昭和50年代に渡仏した心情を思うと多少痛々しい。 今日の安直な海外留学ではない。 異国で、確実に自分が一人であるという地点にさかのぼるのである。 「魂の遍歴」というコトバが似つかわしい求道的な青春があった。 そのような彷徨する青春が、あくまで清冽なフランスの大気を感じさせる風景写真の後から浮かび上がる。 晩年の須賀敦子が訪れたアルザス成城学園を著者達もまた訪れ、職員が快く見学させてくれる。 キーンツハイムの学園の建物は元は修道院であった。 この建物に成城学園の分校を開設する時、私は現地の通訳として立ち会った。 当時の諸我校長の知己を得、あるとき地元の儀礼的パーティをすっぽかし、辻邦生全集の装丁に使われていたクリュニー修道院所蔵の「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」のことなど話しながら鉄道でコルマールまで帰ったことを思い出す。 辻邦生も死去して久しく、アルザス成城学園も既にない。 須賀敦子の足跡を振り返ると、どこか当方の青春の彷徨も供に呼び出してくる共通の気分がある。 「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。 しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない。」 (リルケ「マルテの手記」)とも。 (2007) |
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