アチラ側へ、加速 年頭の辞 - 人..
[団塊の段階的生活]

「サントリー 一万人の第九」に参加する

2009/12/9(水) 午前 9:12
12月6日(日)大阪城ホール 「サントリー一万人の第九」に参加。
ヨメと始めて舞台で競演するという前代未聞の光景になった。

私がそのような場違いな催しに参加するのは考えても見なかったことだが、ヨメが第九を歌う、
というのも本来的にあり得ないことだった。

私は少々アスペルガー症候群的な自閉癖があって、一切のサークル活動風付き合いはニガテ。
合唱暦はもう40年近いのだが、そんなワケで人間関係が緊密になりかけるとすぐ逃げ出してしまうのが常だった。
だから、初老性鬱時代に突入してからは完全にソノ道から足を洗い、ずっとカタギの生活をしていた。

一昨年、昔の知り合いに呼ばれ、近隣の市の第九の助っ人に行ったのが久方ぶりに声を出す機会になった。
「助っ人」という気楽な立場だったので、「声を出す」だけでよかったので楽だった。
しかし、幸いなことにどういう加齢効果か、私のか細い神経も経年劣化で鈍化し、少々のことでは
切れることもなく、なんとなく集団の中でにこにこしてられるようになっていた。

また、本来「第九」のような明瞭なメッセージを真剣に歌えるような神経ではなかったのだが、
それはソレなりに許容範囲に入っちゃった。
歳くうと余計な羞恥心は朝のトイレで流せるようになるのだ。
次は「演歌」に挑戦か!

で、昨年からご近所合唱団に入団、他人の迷惑をもはや気にもとめず、勝手に声を出させていただいている。
ちなみに今、「金魚のおひるね」を鋭意練習いたしております。

しかし、うちのヨメは大阪に勤めているので平日練習のココに参加することは不可。
無理して参加する程、ソノ道に入れ込んでいるハズもない。

音痴ではないとは思われるのだが、楽譜は読めない、楽器は何もこなせない、鼻歌歌えん、
CD一枚も持ってない、コンサートでは寝てしまう、という現代では珍しい方。
多分、ハハオヤが台所で鼻歌歌うこともないようなご家庭だったんだろう。

見かねて、私メが音符の読み方くらいはタダで教えてあげようとしたのだが、本人は未だ羞恥心の
捨てられぬ年代なのか、固く拒否。

結局、大阪で例の「一万人の第九合唱団」に参加することにしたようだ。
実はもう2・3回出演していたらしいが、わざわざ入場料支払って見に行くような性格のコンサートではないので、
ヨメのステージ姿を今まで一回も見たことはなかったのである。

しかし、まあ、夫が合唱暦40年なら何とか合唱団に参加しようとし、
夫がスイミングスクール暦20年なら自分もスポーツクラブで泳ぎ初め、
夫がバイク歴3年なら自分も免許を取り、
というその対抗意識自体は評価してやってもいいかも知れない。
しかし、結局どうあがいても夫には勝てないのだ。むひひ。

今年の春にはヨメも参加できる土日練習日の合唱団を捜したのだが、超ド素人のヨメと、
この道40年の私が一緒に参加できるところもザラにはない。
結局、今年は私が大阪に練習に行くことにして「一万人の第九」にヨメと参加することにしたワケだ。

ふう。相変わらず長い前書き(^^;


で、12月6日大阪城ホールにてヨメと「一万人の第九」にめでたく参加となる。

もちろん、私は初めてこのような異例な第九公演を体験する。

観客より演奏者の方がはるかに多い・とか
演奏が終わった途端に演奏者自身が拍手しだす・とか
指揮者がまだ答礼しているのに、演奏者は勝手に横と握手をはじめる・とか

それなりに私も5・6回くらは第九公演に参加したのだが、音楽技術的には最悪の合唱団で
あったことは間違いない。

演奏を終えた時、それでも通常やってくる演奏者としての満足感も当然皆無。
これは、何事かの一大イベントであるが、少なくとも音楽を鑑賞するイベントではないことは確かである。

イベントの演出に素直に反応し、喜び興奮している風である善良な魂の同僚唱者を見ていると、
持て余している自分の内なる白々しさが際立ってきて困るのだが、ま、これは年末恒例の
どこの「第九」にでも多少あることだ。
私は「第九」という日本風イベントにあまりノレないタチである。

が、別に何も気にすることでもない。
いろんな参加者が居て当然だ。
私はただヨメが合唱団の中で歌うという信じ難い光景が見られる、という興味本位で参加しただけだから。
しかし、一万人も居ればパートの違うヨメの姿も豆つぶのようで、本当に声だしてるんだかは終に未確認。

一万人が同時に立ち上がる瞬間の迫力はギネスものだったことは確かだろう。
もちろん、私のパートは正面向いているので全体の動きは見えない。

昔見た映画「スパルタクス」(チャールトンへストン)で、野に展開した数万のローマ正規軍が、
太鼓の一音でピタリと停止するシンクロナイズに驚愕したことを思い出した。

まあ、ともかく一万人もの人数が第九を合唱するのだ。
周囲の音程なんて気にしても仕方がない。
中には数千レベルの人数が指揮者(佐渡裕)のコントロールも及ばず走り出す、という一大スペクタクルもあった。

もともとベーさんも合唱団の技量にはそんなに期待はしてなかったような曲だ。
そのワリには超絶技巧的箇所もあったりする、いかにも乱暴な合唱パート譜。

まあ、そのごった煮的な群集のカオス感がべーさんの意図なのかも。

本番演奏会に先立ち、リハーサル・ゲネプロ含め何度か練習日がある。
本来、郊外をツーリングしているハズの曜日を大阪に行って過ごしていたワケだ。

指揮者・佐渡裕さんの指導上の演出では、べーさんのいう「兄弟愛」を表現するのに隣のおっさんと
手をつないで歌ってくれとか、肩組んで歌え、とか毎回のごとく要求される。

私は困惑して固まってしまうのだが、大半は嬉々として指示に従っている風。
まあ、ボーイスカウト風のノリとでも言うか。
アマチュア合唱団ってそんなノリのところも多いのだが。

そういう時、手を出さない私より、私に隣り合っている方の方が実は大変だ。
本当はこの人だって気恥ずかしいのだ。
しかし、皆がやるので自分もしないワケにはいかない。
左隣と手をつなぎ、おずおずと(もしくは嬉々として)右手を出したら、それが運悪く私。
手が出てない。
挙げた手のやりどころがない、というヤツ。

そういう困った立場に隣人を追い込むのは私の本意ではない。
「すんません。ちょっとカゼ気味なモンで。」と公式なエクスキューズを入れておく。
さすれば、困惑の相手方の顔もなんとか立つ。

まあ、その場の空気で、どうしても逃げられないと分かった時には、やらせていただきます。
「私は貝になりたい・・・」とでもつぶやいて。

だいたい、こういうことに気をつかうのがメンドいので、サークル活動風イベントはニガテだったのだ。

まあいい。それは承知の上。
周囲に合わせ、限りなく自分自身を希薄にしていくこと。
生きていく、とは常にそういうことだったなぁ。
たまには昔の苦しかった時代の身過ぎを反芻し、現在の無負荷生活を寿(ことほ)がなくっちゃ。

演奏会本番当日の男子トイレ前の長蛇の列には驚いた。
横入りする方が一人も居なかったので、もっと驚いた。
一万人もの人が居て、このような制御が可能だなんて、悪夢のように奇跡的なことだ。

本番終了。
コーダの最後の一音が聞こえた瞬間、合唱団自らが拍手の嵐。
まあ、演奏者より観客の方が圧倒的に少ないんだからそういうことになるのだか。

9999人の何だかよくわからん躁状態の中に、このイベントの趣旨もよくわからない私は
しばらく固まって取り残されてましたが。

このようなイベントに参加するには私は未だ圧倒的な「温度」不足。
けれど「人類皆兄弟」といっとるんだから、私がその中に混ざっていても別にいいんだろう。

ともかく、曲りなりにも「一万人の第九」に参加できたのだ。
どうしても馴染めない温度差から合唱することを諦めた10年前からすれば長足の進歩である。
もう何だってやれる。
恥ずかしいことはこの世にもうない。

これもヨメのおかげだね。
ヨメは今まで出来なかったことを一つクリアし(Aufheben)、私も一つクリアし(Unterheben)て遂に同じステージに立てたのである。
パートの違いで向いている方向が反対だったにしても。


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