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[団塊の段階的生活]

裸の王様、ヴィブラート

2010/6/22(火) 午前 1:41
私は別にヴィブラートをかけないでも歌えるのだが、伸ばしている音はヴィブラートで絶えず
エネルギーを補充しておかないと、音程が下がるようだ。
それに、音のきり方がベルのように途切れるようで不自然に思える。
だから、伸びている音には自然にヴィブラートをかけてしまう。
逆に言うと、ヴィブラートをかけないと不安定で不自然な声になりがちである。(←この辺が素人だね)
 
しかし、複数の指導者に質問しても「合唱にヴィブラートは不要」というのが常なる公式解答。
しかし、
「もっと声を遠くに届かして」とか「声を転がして、上から」とか言いながら、ご指導の先生が
見本に歌ってくださるのだが、ソレにはプロだから必ず流麗なヴィブラートがかかっている
のである。
 
「え?ソレってヴィブラートをかけろ、ということでしょ?」と、思うのだが、公式回答はあくまで
「合唱ではヴィブラートをかけてはいけません」。
なんだか、ちょっとした偽善の匂い(^^;
この道のベテランは常に何か声をふるわせているようにきこえますがねぇ。
それって良くないんでしょう?それにしては禁止されてませんが。
 
もちろん、ヴィブラートをかけると音程が揺れるのでハーモニーが幾分くすむかも知れない。
オペラによくある重唱では、力のかぎりヴィブラートをかけてますが、しかし、それでハーモニーが濁るという感じはしない。基本の音程が揺れていないからか?
 
曲の種別や曲想に拠って表現の一種としてのヴィブラートは合唱でもアリと思える。
ノン・ヴィブラートはあくまで、ハーモニーの純粋さが眼目の曲か宗教曲。
ブルガリアンボイスであるとかカール・リヒターのミュンヘンバッハ合唱団のような特徴的な効果。
それ以外の通常の表現ではヴィブラートもアリでしょう。
 
もちろん、ヴィブラートは個人的なもので全体が同一なヴィブラートになることはありえない。
この意味では、各声部が「ひとつに聞こえる」ことを阻害するだろう。
もとより、イタリアオペラのプリマドンナのようなハデなヴィブラートを各自がかけると
エライことになる?・・かな・・おもしろいか・・よくわからんが。
 
私は「各自がまったく同一の声を出す」ということが究極の目的だとは思わないし、
そうならば合唱なんてやめてシンセサイザーの合成音を聞く方がいいっていうもんだ。
 
合唱というからには、いろんな声や音程(笑)があってごちゃごちゃと複雑になり、
つまりは集団のぶあつい表現力になるのでは?
だから、個人個人が一所懸命、ま、それなりに個性豊かに歌えばいいんじゃないでしょうか?
↑しかし、絶対イカンと言われるよなぁ。
なんせ私、合唱団員のクセして自己顕示が強い方で(^^;
 
結局、これも社会と個人の問題に帰納されていく風でもある。
個性を主張することで所属集団がより良く機能すうような形になればいいのだが。
あるいは、限られた集団の枠組みの中でどのようにして自分自身の独異性を守ろうとするのか。
 
要するに、ヴィヴラートのかけ方まで教わらねばならないようなら、かけない方がいい。
自然な表現としてヴィブラートがかかるのは、他者から見ても自然に聞こえるのなら許容できるのだろう。
合唱におけるヴィブラートは明示的には誰も言わないのだが、現に確かに存在している。
 
タブー。
 
裸の王様。
あるいはその逆バージョン。


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