トニオクレーゲル 一円の国庫資金も..
[団塊の段階的生活]

イタリアのハロルド

2010/9/4(土) 午前 0:52
深夜、ベッドに横になって眠ろうとして音楽を聞く。
ステレオスピーカ付のパソコンを立ち上げ、メディアプレイヤーの再生ボタンを押す。
最近はインターネット・ラジオのKING FM Symphonic favorites のサイトに接続し放しにしているので、やがて適当に選択された管弦の響きが遠くの方から聞こえてくる。
古典から近代・現代のオーケストラ作品だけを24時間放送しているサイトである。
ふくよかな色彩が部屋に満ち、繭でくるむように外の世界を遮断してくれる。
やはりオーケストラの響きは好ましい。
特に近代の大編成の管弦楽は和声と音色の豊穣の極みで、西欧が到達した最良の文化だといえる。
しかし、もう現代ではこのようなコストのかかる音楽が作られることはない。
 
ただ眠るためだけに100人を超す奏者を雇う、この上ない贅沢。
 
聞きなれた曲もあれば、まったく知らない曲も流れてくる。
まったく知らないといっても、長年の音楽とのかかわりの中での類推は利く。
初めて聞くものであっても、曲の様式や時代、それに作曲者の特定までできるのもある。
そういう時には眠る意図とはうらはらに、最後まで聞き耳を立てあれこれ可能性を考え、曲の終了後にアナウンスされる作曲者・曲名を聞き取るのに神経を集中させてしまってる。
 
ただ、あくまで確認するというだけでそれ以上のことはない。
未知の曲や作曲者名を一つでも多く収集し、自分の博学虚栄のネタにしてやろうというような
若年の頃のような見栄はもうない。
だから、少し考えても作曲者が特定できなければ、そのまま響きをもうろうと追っていくだけである。
 
日本と違って、欧米の24時間局ではいわゆる大作曲家の名曲しか放送しないということはない。
欧米のオーケストラは実にさまざまな作曲家の作品を貪欲に録音しているのだ。
海外の放送でしか聞く機会のない作曲家は実に多い。
まあ、このジャンルが欧米の文化に根ざしているのでそれはそれで当然なんだが。
 
たとえばツェムリンスキー。
グスタフ・マーラーと結婚するアルマの作曲の師であり、恋人だった。
アルマ・マーラーの伝記(”L'art d'etre aimee")を読むと、他にも建築家グロピウスとの三角関係や、画家クリムトとの係累、夫マーラーがノイローゼの診断をフロイトに受けたり、と世紀末ウィーンの個性が続々と登場する。ツェムリンスキーは当時の大作曲家でシェーンベルグにも和声楽を教えたりしているビッグネームらしいのだが、私はその作品をずっと聞いたことがなかった。
 
このツェムリンスキーの交響曲をインターネットラジオで聞いたことがある。
なるほどの正統的オーケストレイションで、しっかりした和声と構成を持つ「本格」交響曲だった。
しかし書法に独創性が感じられない。ブラームスやマーラーの時代を先取りするような個性がなく、まったくその時代の語法・芸術感から一歩も出ていない類型的作品という印象だった。
 
まあ、そのような類型的近代交響曲が実は聞いていて本当に楽しいし、興味深くもあり、眠るにも丁度いい。
ついでに言えば、ツェムリンスキーの弟子のコルンゴルトのバイオリン協奏曲もインターネット経由で知り、これはNAXOSレーベルのCDを発注して買ったのだが、さわやかに楽しい曲である。
このコルンゴルトあたりの書法が多分ハリウッドの映画音楽のバックボーンになったと私は考えている。
 
どうも日本ではクラシック音楽の芸術的側面のみが重要視され、エンターティンメント性が軽んじられる傾向が続いているようだ。
このKING FM symphonic favorites サイトの選曲を見ても、クラシック音楽を「聞いて楽しむ」という欧米の音楽フアンの好みが反映しているように思える。
 
まあ、とにかく、インターネット上の近代管弦楽専門24時間放送、それだけでも私はフリードリッヒ大王よりも豊かな就寝時間を楽しんでいるのに違いない。
 
昨夜、未知のバイオリン協奏曲風の音楽が流れてきた。いや、チェロではないか?
ひょっとしてヴィオラか、と考えたらこの曲の出自が分かってしまった。
ヴィオラ独奏付の管弦楽曲といえばベルリオーズの「イタリアのハロルド」しか知らない。
和声や書法も、ベルリオーズと同定すれば矛盾はなさそうだ。
作曲者を特定でき、安心してこの近代オーケストレーションの父の音響を追っていた。
 
そして最終楽章。突然緊張感に満ちた鋭い音型が立ち上がる。
や、これか!
一度聞いたら忘れられない特徴的なモチーフ。
激しく鋭い感性のほとぼりが凝縮されている。
この切り込んでくるような切迫したリズム感は、現代のロックでもマネできんだろう。
ベートベンのすぐ後の時代の人とは思えない。
やはり時代を先取りする天才に違いない。
 
この部分のモチーフは私の頭のどこかにこびりついていた。
一度この曲を聞いたことがあったのか?
いや、もしそうだとしたら、多分曲名とこのモチーフのセットを私の虚栄のデータバンクに登録していないワケがない。
多分、この終曲は断片として耳にはさみ、「ヴィオラ独奏付イタリアのハロルド」は文字として全く別の文脈で得た知識に違いない。
多分、ショーソンの交響曲の終曲の出だしのように、昔のニュース映画のバックに流れていたフラグメントとして頭のどこかに摺り込まれていたのに違いない。
昔、映画を見に行くと本編上映前にはニュース映画が抱き合わせに上映されていた。
それはテレビ前夜の時代だったろう。
そうかも知れない、もっと別の場面なのかもしれない。
いずれにせよ、記憶の古層にあったモチーフである。
50年前か、あるいは。
 
ああ、これはべルリオーズの「イタリアのハロルド」の一節だったのだ。
 
昨夜、私は眠ろうとして結局、朝まで多少の興奮を持ち越してしまった。
 
 
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