大震災を悼みつつ 今、自分ができる..
[団塊の段階的生活]

コール・クラポー、上原ひろみ、その他だらだら

2011/3/29(火) 午後 0:57
前週のレディース コーラス フェスティバルに引き続き女声合唱団の演奏会、
コール・クラポー 第4回演奏会
(3.20日(日) 2:00 やまと郡山城ホール 大ホール)
に行く。
 
フェスティバルの方ではトリの「陽声たまゆら会」を聞きに行ったのだが、午前の開幕スタート演奏がコール・クラポーで、もちろん聞くことはできなかった。
私にはあまり縁の無い女声合唱の演奏会が続くが、前回にひきつづき今回もチケット2枚をいただいていた。
私もヨメも半額優待とか無料体験だとかを日頃愛用しているので、こういう場合習慣的にイソイソと参加するのである。
 
プログラムにあるフォーレの小ミサがきっかけで、このチケットが舞い込んできた。
 
このホールに備え付けてあるフルスケールの電子オルガンで伴奏パートを演奏することになっているのだが、このオルガン、もうとっくに製造されていないテクニトーン(旧松下電器電子楽器事業部製)である。
昨年、指揮の小林正夫氏の棒で私も参加した演奏会でもこのオルガンを使用したのだが、普段ピアノを演奏している臨時オルガン奏者の方は当然楽器の機能やレジストレーションの構成が分からない。
ホール側でも誰もこの楽器の奏法・操作を知らない。
 
当然ですね。
松下電器電子楽器事業部が消滅してもう十余年、操作を問い合わせようにもメーカーが存在しないのだ。
家庭用の楽器ではなく、フルスケール・フルファンクションの大型楽器となると、すべての機能を熟知して演奏できる人も、参照する取説もないだろう。
 
そこで私メの出番。
実はワタクシ・・・以前電子オルガンの演奏者をしていたこともあり、ヘタで食えなくなって辞めた後、松下の下請け会社でテクニクス電子オルガンのマニュアルを編集していた、というクラい過去があるのだ。
そして電子楽器事業部の消滅で、またも職を失った私の転落の人生は果てしなく続いていくのだったが、ま、
ともかく、そういうワケでウチには私が作成していたテクニトーンのマニュアルも探せばある。
 
昨年の演奏会ではオルガンの臨時奏者に相談を受け、何回かオルガンの大体の構造とレジストレーションの基本、それにワンタッチペダルの用法等を思い出しつつ解明していった経過がある。
で、今回もお呼びがかかり、オルガンのレジストレーションのアドバイズと引き換えにチケット2枚をいただいたトいうワケだった。
 
多彩・多様・杜撰な私の職業人生で、一番永かったのはこの電子楽器の海外向けマニュアルの編集という業務だった。
元来、私の異常な職歴の三本柱は (1)電子オルガン奏者 (2)コンピュータプログラマ(←30年前は花形職業だったハズ・・) (3)仏語通訳 といういかにもウソくさいものだ。
案の定いずれも大したことなく(^^;、特にミュージシャンとしては最低だった;^^;
電子オルガン(エレクトーン)の初期時代では3段楽譜が読めるだけでプロになれたのだ。
 
結局DTPソフトを使った電子楽器マニュアルの各国語への展開編集という職業が、なんとなく私の性に合い、その下請け会社勤務で私の年金支給の加入期間条件を楽々クリアできるハズだったのだが。
モト受けサンが消滅しちゃったら、それオンリーだった零細下請け会社ではもうどうしょうもない。
 
ともあれ昔のお仕事が思わぬところで役に立ち、ちょいと感無量のチケット2枚のゲットだったわけだ。
 
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さて、演奏会当日。
フォーレの小ミサが一曲目。
オルガンの音色はきっちり響いていたのだが、合唱の立ち上がりのエンジンの始動が遅く、声が伸びずにフラット気味。あまり音楽的な主張が感じられないまま終わってしまった。
次のステージでもインパクトがなく、ただ人形が行儀良く並んでいるだけのような印象。
これは、淡い色のステージドレスがきらびやかに揃っているのに、音楽的な表情が聞き取れないので、人形のように思えたのだ。
ちょいと行儀が良すぎるのでは?
暗譜もいいけど、ただ両手をきっちり下ろして直立不動で固まっているだけでは視覚的にも妙に固苦しい。
 
ところが、休憩をはさんだ第3ステージでは曲目がポピュラーになり、振り付けも入ってステージに動きが出た。
不思議なことに、そうしたら声が客席に届きはじめたのだ。
やはり適当なボディアクションは音楽的な表現力を大いに助けてくれるようだ。
リズム感が良くなり、声も伸びてくる。
そうなると、ちょいと行儀のいいステージドレスが返っておかしいうような気がした。
Tシャツとスラックスの方が動きやすいし、音楽にも合うんでは?
 
最後の第4ステージもこのノリが持続し、ポピュラー曲ではないのだが音楽の表情がたっぷりと感じられ、確かな伝わるものがある演奏になった。ああ良かった。
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合唱団では暗譜で演奏することが一般的だが、何も手に持っていないとどうしてもキヲツケ姿勢になってしまう。そうすると体も硬くなって音楽に乗るのが難しくなる。
私は楽譜を胸のあたりに持ち上げ、そっと左手で支えているくらいの姿勢が一番自然に声が出る気がする。
プロの声楽家なら歌うとき必ず手を広げるとかのアクションがあるのだが。
一合唱団員が演奏中こういうボディアクションをするとシカられるんだろなぁ・・・
 

 

Hemi歌唱時アクション実像(但し、頭頂カット、豊齢線修正スミ^^;)→
 
ここで、前週のレディース・コーラス・フェスティバルでみたある合唱団の演奏を思い出した。
合唱団員で一人だけ見事なボディアクションで歌っていた女性がいたのである。
 
女声合唱団葦笛&女声コーラス"かりん”&パープル・エコーのメンバーの一人だった。
彼女が歌うにつれ、自然に体が半身になって肩が軽くリズムを刻み、左手が伸び胸の前にいく。
このようなアクションはポップス等「軽」音楽系ならごく普通で、自然に歌っている姿勢である。
しかし合唱団では、まあ、ご法度でしょうな。
この人のコスチュームも普段着に近いスラックス姿で、普段から体でリズムを取って歌っている風に感じられた。団体の中でいかにもこの個人プレーは目立ったのだが、それはそれで見ていて自然で気持ちよかった。
 
考えてみれば、全員が直立不動で一糸乱れず並んでいるという光景は音楽的には何の意味も無い。
それで表現も硬直してしまうのなら、そのような無理な視覚的演出は有害ですらある。
まさか、直立不動のカタチをとることで「軽」音楽ではなく、もっと「重い」音楽をやっていると主張しているワケではないだろう。
 
もちろんアンサンブル表現として厳密なハーモニーが要求されるところでは個人的なアクションは邪魔かも。
でも、私の好みとしては厳密なハーモニーよりも、破格でもいいから躍動する表現力が聞こえてくるほうが気持ちがいい、と言わしていただきたい。
しょせんアマチュアなんだから、どちらというと個人の「歌う楽しみ」を堂々と行使していいんでは?
↑私の「歌う楽しみ」は大声を出すというレベルでしかないので、合唱団中では常に叱られているワケだが(^^;
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テレビでやっと娯楽番組が放映され始めた。
避難所での今一番必要なものは?というあるアンケートで「食料・水」「燃料」と並んで「音楽」が挙げられていた。
ああ、音楽って、生きる根源にも関わることなんだ。人はパンのみによって生きるにあらず、かな?
 
当初は「上品な」クラシックだけだった音楽番組で、NHKで最初に放映した「軽」音楽はジャズだった。
上原ひろみの演奏とインタビュー。 
この若いピアニストはなんて楽しげに演奏するんだろう!
ジャズのインプロビゼーションの歓びが全身から発散しまくっている。
音楽が身体の中から湧き上がり、全身が表現し、最後に指がピアノに音を託す。
演奏中の無我の表情。
演出でもなく、指揮者に指示された表現でもない。
音楽とは生きているという根源的な部分から直接湧き上がってくる表現か。
 
最初に人類が生きている喜怒哀楽の噴出を音楽として表現したとき、クラシックやジャズというジャンルの区別は無かった。演奏と歌、舞踊の区分もなかった。
音楽、詩、祈り、呪い、そのような原始の感情の噴出するカオス、アマルガム・・・(←現在、歯の治療中なもんで・・)
 
避難所でぎりぎりの生活をしている被災者達が、食料とともに必要と答えたものが「音楽」だった。
あるいは「娯楽」ということだったのかもしれない。
生きているという意味は、何かその辺の「遊び」の感覚に直結しているように思える。
 
アマチュア合唱団の演奏を聞いていると、もうすこし自由に個人の表情が見えたら聞く方だって楽しいのに、といつも思うのだ。
 
私は目下ピアノの練習が毎日の生活の基盤になっている。
人前で演奏するという自己顕示の企みはとっくにポシャッてしまっている。
それどころか、他人がいると余計な心理的負担で練習を楽しめない。
ピアノを演奏することではなくて、ピアノを練習することが私の趣味なのだ。
それが遊ぶということで、私は遊べるから生きているのだ。
 
 
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