故・高嶋良昭氏を 夏休みの計画につ..
[団塊の段階的生活]

第48回大阪府合唱祭 6月12日SAYAKAホール分

2011/6/27(月) 午前 11:51
6・12 大阪府狭山市SAYAKAホール 第48回大阪府合唱祭
「弁当作って、電車に乗って、一日潰して、わずか5分の出番。なんというもったいない時間の使い方。
こんなこといつまでやるつもり? アンケートにそう書いといて!」(ヨメ)
「はぁ。」(私)
 
ステージ演奏とすればその通りで、わずか5分を歌うために貴重な休日の一日を潰すというコストパーフォーマンスの悪さ、更にはそれだけのために一人幾らの参加費まで支払うというとは、合唱団初心者のヨメには事業仕分け以前のとうてい考えられないイベントだ。
イヤなら参加しなくてもいいいのだが、そこはそれ、団体行動・組織の論理というのもあって、心理的には個人行動の自由はない。
合唱好きの方なら多くの他団体を聞ける機会だろうし、まったくヒマな方なら一日潰せるいい口実になるんだが。
まあ、とかく合唱団というのはそのような個人と組織の論理のせめぎ合いで微妙なバランスをとっている部分がかなり多いのだ。
でも、通常なら自分の人生で絶対訪れることがなかった南海高野線大阪府狭山市駅付近の景観を二人で見学できた機会と思えばいいんじゃないかい?というのも私も相当なヒマ人だからか。
 
まあ、せっかくだから次の休憩まで他団体数組の演奏を聞く。
このようにしてまとめて聞いてみれば玉石混淆状態の合唱団の乱立としかいいようがない。
わずか6,7名では合唱にはならんだろうに、というところから100名近い大合唱団まで。
しかし、「歌いたい」という願望があれば、近くにある合唱団で少しでも声を出せればという人も多いとも思える。
日常生活上で手軽に音楽を楽しめる、というのがご近所合唱団であれば需要はなくならないだろう。
 
わずか10団体足らずだが、本当に何かを聞き手に表現として伝えている合唱団はあまりに少ない。
殆どが自分達の歌う欲求を満たすだけの団体が多くなるのは当然か。
 
大体、私自身の姿勢がそんなものなので、わざわざ金を取って聞かせるステージを開催するというイベントには抵抗がある。しかし、逆にそのような他の人に聞いていただく、という姿勢がないと団体としての明確な方向性がもてないので、指導者としては目標の設定ができず、厳しく指導するという意欲もなくなるだろう。
 
現に合唱連盟にも加盟せず、単に集まって適当に歌うだけという合唱団も以前見学にいったことがある。
↑ココの現団員から聞いたところでは、今では男声が2名しかいないのでテナーはソプラノ、ベースはアルトと同じパートを歌ってマス、ということだった。
いや、しかしそれでも楽しい時間をすごせればそれでいいんだし、この現団員も未だに現団員で活動している。もちろん、合唱祭参加とはまったく別の次元の団体だが、逆に組織としての矛盾はあまりなさそうだ(^^;。
 
合唱祭では年齢の偏りが年々激しくなっていっているようだ。
高校・大学の合唱団ではもちろん若い世代が中心だが、一般団体だと殆どが私のような退役世代中心になる。
現に私も現役時代にはそんなヒマな活動は殆ど出来ず、次第に合唱から遠ざかっていった。
日本のアマチュア合唱団一般の世代の偏り問題にはかくして私も加害者に成り果てているのでしゃーないのだ。
 
ただ、年配の方のコーラスで顕著なのはビブラートが激しいことだった。
特に女性は年齢とともに息の支えが効かなくなり、声を震わすことで声のエネルギーを搾り出すようになる、ということを聞いたことがある。
15名の女声合唱団があり、技術的にはしっかりしているようなのだが、個人のビブラートが激しく目立ち、とても合唱には聞こえなかった。
自分が気持ちよくなるだけのビブラートで、やめると多分歌う楽しみが半減するだろう、ということもよく分かる演奏だった。この団体などは別に合唱連盟に加盟して活動する必要はないのではないかと思った。
 
TVのN響コンサートでロジャー・ノリントンの指揮を見た。
この人は古楽器アンサンブルの経験から近代大オーケストラ曲でも一切のビブラートをさせないで演奏をする。
特に弦楽器にビブラートをさせないのは新鮮な光景だが、心なしか楽員は迷惑そうな顔で弾いているようだった。(笑)
弦楽器のビブラートは全く普通に自然につけているものだが、この演奏でこれ以外にもオーケストラの音色の可能性があるのを感じさせられた。
 
しかし、ソリストがノン・ビブラートで演奏することを想像できるだろうか?
こんな気持ちの悪いことはないだろう。
現在の楽器奏者の音楽表現では、いかに自分の感情をビブラートで表現するか、というのがプロとしての見せ所であり、さらに言えば演奏する楽しみ、音楽家であることの存在証明自体でもあるとも思える。
少なくとも近代(クラシック以降)の音楽はビブラートの発明で、音楽に「個人的感情の表現」という新しいベクトルを付け加えたものだ、というのが私の見解だ。
少なくともバッハ以前では奏者も歌手もビブラートを付与しなかった。
このことを感情表現過多の音楽にまみれた現在では誰もが忘れている。
 
合唱祭ステージではお祭り的イベントで「中高コーラス合同演奏」をやっていた。
中学・高校生の200名近くの大合唱。
感動した。
ビブラートを旨く聞かせてやろうなんて邪心のない中高生のノン・ビブラートの統一された生の声の純粋な表現力。
年寄りの自己表現的色気たっぷりなビブラート演奏を聞かされた後だからか、私は不覚にも感動し涙の気配まで抑えるハメになってしまったのだ。
やはり、合唱では個人の歌う楽しみを行使しては全体の表現力が鈍化してしまうようだ。
 
だからといって、私は自分の「歌う楽しみ」を抑制する気はまったくないのだが。
 
合唱とはそうした個人と全体のバランスをいかに調整していくかのダイナミズムを見つめ、更に音楽というレベルで組織における個人という近代以降の社会の根本的課題の克服を試行し錯誤する現場なのだ。
 
で、その辺まで言わせていただけば、5分間の出演に一日潰したコストパーフォーマンスの悪さの、モトを少しはとってやったという感情的バランスを回復した気に?


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