夏休みの計画につ じりじりとやって..
[団塊の段階的生活]

あまりにも子供が多すぎませんかね?

2011/10/25(火) 午後 1:07
バイクの記事と前後するが、10月15日(土)に私とヨメが所属する合唱団の定期演奏会があった。
 
当日は雨で足元が悪かったが、なんとか車椅子のハハオヤ(義母)を会場に連れ出し、我々の共演する姿を見てもらうことができた。このようなことはヨメの家庭に嘗てなかったし、これからももうないだろう。
会場には車椅子用のスペースがあるのだが、視覚障害者のハハオヤは「ここからでは見えん」といいだし、しかたがないので最前列近くのイス席に誘導した。
なんせよくわからん老人になっているので一人でガサガサして場内の迷惑にならないかと心配だった。
 
しかし、ウチのハハオヤは比較的おとなしく鑑賞してくれていたのだが、5,6歳のガキが最前列の空き席になっている数列にやってきて、イスを次々に移動し寝転んだり立ち上がったりして遊びだしたのだ。
このガキの母親は別の女の子を連れて少し後ろの席にいたようだったのだが、一向に自分の子供の不品行を制止にくる気配がない。
結局幕間もはさみ、最後のステージまでこのガキは会場の最前列でガサガサ動き回っていたのだった。
これは子供が遊びに来るような無料のイベントではなく、観客はチケットを購入して聞きにきてくれているのだ。
演奏している我々の目にもいやおうなくガキの動きが目にはいり、迷惑このうえない。
 
小学校未就学の児童を会場に入れた受付担当のミスでもあるが、この動きまわるガキを演奏会場に連れてきて放置している母親の感覚は、もう私にはまったく異文化を背景にした別種の人類であるとしか思えなかった。
 
また、本来なら会場にいる合唱団の進行係が何とか手を打つか、もしくは指揮者が演奏を中止し、この母親に舞台上から善処を強くもとめる、ということがあってもよかった。
もっとも指揮者は会場に背を向けているので気付かなかったのかもしれないし、舞台上の我々が勝手に動くわけにもいかない。
 
一般的にこのような子供の横暴にあまりに寛容になっていはしないだろうか?
何故オトナの世界にかくもやすやすと子供が乱入してくるのか?
何故子供のためにオトナの楽しみがかくもやすやすと制限されてしまうのか?
 
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「子供手当て」なんぞという悪政以降、ますます子供が増長している風に見える。
たまに行く近所の「イオンラウンジ」でも子連れの客がいると、とにかく騒々しい。
演奏会やそのようなラウンジでは基本的にオトナが静かに時を過ごす場所である。
そんな場所に日頃うるさい自分の子供を連れて来る方はどういう社会意識を持ってるんだろうか?
 
「ウチにも小さい子供がいますので、心配で。」
「子供達のために何とかならないのでしょうか?」
ことあるごとに、この人達は自分の子供をダシにして自分の社会的価値判断を述べる傾向がある。
ではアンタ自身の意見はどうなん?
子供を基準とせず、自分自身の生活上からではどういう価値判断基準をお持ちなのか?
 
テレビでこのようなカタチの意見を聞かされる度に、子供がなく、オトナだけの社会構成単位で暮らしている
われわれ夫婦のような者はまったく無視されているように思えてしまう。
子供じゃなくて、先ずわれわれオトナが社会の主体でしょうが。
あまりにも子供をすべてに優先させる親が増えているのでは?
 
いや、そのような親自身も騒々しい子供に過ぎないのではないか?
オトナになっていない若者が子供のまま親になっていく。
遊ぶのもどこに行くのも子供と一緒かい?
アンタにはオトナの社会に混ざりこんで来て欲しくない。
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ヨーロッパで地元の家庭に招待されたとき、最初に子供は紹介されるのだが、挨拶が終われば子供は自分の部屋に追い払われ、オトナの会話の場に混じらないように厳しくしつけられていた。
しかし、同じヨーロッパ在住でもアジア人の家庭を訪問すると、客がいようと居まいと子供が親にじゃれつき、子供の相手をしながら接客をするという光景があり、更に言うなら客も子供の相手をさせられた。
で、そのとき改めて日本はきっちりアジア文化圏内にあるんだなと実感したのだ。
 
西欧では子供とオトナの世界との区別がきっちり分離していて、はっきりしたイニシエーション(通過儀礼)を通じた後、決然とオトナの社会に入る仕組みになっているようだ。
この夏、フライブルグにいたのだが、町の繁華街で子供の姿を見かけることは殆どなかった。
西欧系の親は自分達が食事をしたり買い物をするときには子供は家に置いて行く。
ぞろぞろ子供と親が繁華街をあるいているのはアジア系の家族の特徴のようでもあった。
 
また、アラブ圏では反対に子供は全く子供らしくはなく、「小さなオトナ」に過ぎないという地域もある。(川田順造「マグレブ紀行」中公新書19971初版 1999復刻版)
つまり、子供が子供らしくしているのは本質的には「女性が女性らしく」という伝の社会圧の産物であるらしいのだ。
 
日本の子供が子供っぽく騒ぐのは日本の社会がそれを容認しているからである。
子供はペットのようにかわいらしければいい、という気分が日本型子供を作っていく。
で、オトナになるきっちりとしたイニシエーションも通過せず、子供文化圏に留まったまま単に親になった世代が今日本の社会の主体になりつつある。
 
年齢を重ねれば自然にオトナになるわけではない。
今月からスポーツクラブの「シニア」会員をやめ「普通の会員」になり夜に通うことにしたのだが、昼間の老人達のうるささに辟易していたのが主たる理由である。
社会人であったときには一応のマナーを守っていたが、老人になった途端にしょうもない子供に返る人も多い。
いや、公共の場所で傍若無人の大声でバカ笑いをしている老人達はもしかしたら常に子供で一生過ごしてきたのかも。
風呂場でプラスチックの腰掛けを足で蹴りながらガラガラと運ぶオジンやトイレのスリッパを脱ぎ散らかすオヤジ。後ろで待っているのに二人で腹筋台に腰掛けて、ながながと世間話に興じるオバン。
 
今、日本にはオトナの住む場所がなくなりつつある。
この国は年齢もさまざまな「コドモのクニ」になろうとしているようだな。
 
・・・と、ここで言い切ってこの記事を終わりたかったのだが。
よく考えてみると私自身、子供からのイニシエーションが不完全なままオトナにされてしまい、未だに幼児性を引きずりながら、何ともう老人の部類にはいろうとしているのである。
私も日本の文化にどっぷりと浸りながらここまで日本人をしてきたのだ。
私はどうしようもなく日本人であるし、その限りにおいて日本の社会文化的背景を批判する刀は自分の身も切り刻む。
そして私の幼児性が引き起こす周囲からの顰蹙にじっと耐えるという痛みもたっぷり経験してきもした。
多分、ドイツの大学に行くことにこだわるというような幼児性が、私の不完全だったイニシエーションとは何だったのかを如実に示しているのだろうな(苦笑)。
ま、しかし、客観的に自らに相対しようという視点と、社会人としての「後悔と自責」の自覚は持っているということで、私はコドモ状態からはかろうじて脱却できているのかもしれない。


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