記憶のカギ オークワ・アルカ..
[団塊の段階的生活]

できることならアップデートしたいが

2012/2/17(金) 午後 5:24
Yahooブログもいつの間にか仕様が変ってしまっていて、気がつくと私のプロフィールが消え、設置当初にいい加減に埋めておいたものにすり替わっていた。
最近ちょいとこのブログのサブタイトルをイジってからか。
 
当初は私は「ヤプー太郎」という名前だったらしい。
もちろんYahooのロゴを見ていて、「プー太郎」という響きがくっついただけだが、現在では立派な年金生活者なのでもうプータロウではない。
しかし、ヒトサマの半分くらいしか貰うものもいただいていないので、やはり今のブログ名がふさわしいろう。
しかたがないのでプロフィールをアップデートした。
 
わかる人は解ってらっしゃると思うのだが、この機会に私のブログ名を解説しときます。
hemidemisemiquaver というのは64分音符という意味。
で、それを更に半分にしたのがHemidemisemi-Half-quver、つまり私である。
実に細かい音符で、そのとるに足らぬゴミみたいなモンが私、という実に謙虚な自称ですねぇ。
実際にも私は学歴、労働期間、年金額その他、ふつーの方の半分くらいしかない。
よく新聞なんかで解説されている「標準所帯」「標準所得」「標準年金額」の半分くらい。
精神年齢となると半分どころか、十分の一レベルらしく、最近も某所でご確認いただいたところである。
 
私はいわゆる「団塊の世代」(堺屋太一)であり、この世代の宿命である「競争社会」から何と真っ先に落伍してしまったヒトなのです。
以降、何事もヒトサマの半分という半額人生をながながとやってきたわけだが、しかしおかげで何事もヨソと競争しようという意識はなく、すっきりと暑苦しい「競争社会」から逃れて生きることができた。
地位や資産、学識、肉体能力を誇ろうなんて下心は当初から皆無だった。
 
で、国民年金分支給条件を満たす加入期間に達した時点で一切の仕事をやめ隠遁、かつかつ他人の半額くらいの年金をいただいてすなおに喜んでいる日々。
でもね、スーパーの半額食品のおかげで量的にはごくふつーの生活(^^)。普通凡庸、つまりは平凡という幸せ(^^)/
 
引退してから気がついたのだが、競争社会から早々と脱落したおかげで標準所帯主催者サマより、圧倒的に多くの職歴や転居歴、つまりは多大な経験を経てきたということになっていた。
例えばウチのヨメの職歴は30年もずっと同じ企業で、え?結婚もたった一回こっきり?
私なんぞ職歴の年金記録から言えは19回の転職変更記載。
年金外の自営経験も雑多で、エレクトーン演奏者、コンピュータプログラマ、仏語通訳案内士等、ほんまかいな?レベルの多種多様さ。
転居歴はと言えば、海外居住中の4回を加え14回。推して知るべし、その他の民事(^^;。
この歳になって平凡な生活という幸せ(^-^)がやってくるなんて思ってもみなかったですぅ。
 
あ、そんなハナシやない。
私のHP www.ne.jp/asahi/ita/home/ は「読書月録」という記事をメインに置いてあるのだが、この更新をもう二年もサボってしまっている。
この読書感想文シリーズは、インターネットプロバイダに加入しホームページ容量が付いてきたので、試に日記につけていた読書記録を集めてでっち上げたものだ。
 
当初の日記文では「書く」というよりも単なる記録で面白くもなんともないが、そのうち明確に「書く」という意識がでてきた。つまりは「読み手」の存在を意識するようになってきたのである。
それまでも下積みのクソ面白くもない日常生活を常に読書で紛らせていたのだが、この「書く」という作業にイタくのめり込んでいった。私はやはり喋る人(Homo Haberatus)なのであったのだ。
 
従来「書く」ことはプロの文筆家でもないかぎり継続できないものだ。記録ならできるが、「書く」こととは違う。
読者を意識したとき、文章に対する吟味が入り、更にレトリックを駆使し演出効果を推敲するという色気が出てくる。なにより、このとき私は自室に篭ってでも作業できる格好の自己表現ツールを得たのだった。
かくして私はインタラクティブというインターネットの本質的な特性を駆使する最初の世代となった。
もちろん、この下敷きには「パソコン通信ニフティサーブ」の各フォーラムへの書込み経験が先行するのだが。
 
下町の町工場勤務の不遇でひたすら散文的な日常から「書く」ことが私を解放してくれた。
私には「書く」という魂の自由があった、というわけだ。
年間100冊を読み、感想文を書きいつの間にか10年が経過し、いつしか記事が1000を越えた。
ちなみに、時を同じくし松岡正剛が「千夜千冊」と題する書評をネット上で配布し、1000項を越えていた。
インターネットという媒体を使用して「書く」世代が台頭してきたのである。
もっともアチラは書くことのプロである。しかし、ネット上ではプロもアマも本質的区別はない。
 
しかし、1000項を越えたあたりから私の読書量は大いに減少してきたのである。
特に会社勤めをやめてからの減少が顕著になった。
ひとつは通勤車内という格好の書斎がなくなったこと。
そして、もう読書に不遇の日常の鬱屈を紛らす必要がなくなったこと(^^)、かな。
 
同時に「読書月録」というタイトルが羊頭狗肉になり、おこがましくなった。
3ヶ月かけて宮城谷昌光の「三国志」9巻を読んだりしていて、月々更新する必要もないというもんだ。
もとより書くプロではないのだ。一定量を読み、そして書かねばならない、という自分への呪縛を解いたということもある。
このブログの「読書控」に感想文を最初にアップすることにしてから、滅多に本拠のHPの「読書月録」を更新しなくなった。
 
いつのまにか2年たってしまっていた!
 
最近、記憶力の減退が顕著で物忘れがひどくなった。
特に喋ろうとして、その単語がでてこなくなる症状がうっとしい。
喋る人(Homo Haberatus)が喋れなくなる日がくるとはね。
せめて「書く」ということを継続しないと、とここで軽く自分を叱咤。
書けなくなるときが死ぬときだぜ! Homo Ecuritus とかね。
 
というわけで、このような雑文もしこしこアップすることにした。
というわけで、HPの「読書月録」をアップデートすることを決意した。
しかし。
 
どうやっていいのかよく覚えてないのである。
元来Perl言語の熟達した使い手であった私は「読書月録」の記事の収集から編集、インデクス作成やフレーム構造の制御を全てPerlスクリプトで記述していた。
ところが、あまりに巧妙なプログラムを作りすぎ、今見るとどこでどう制御していたのか理解できないのだ。
 
そのスクリプトにしても、実際には数年前からブラウザのセキュリティが強化され、起動させると毎回警告メッセージを出されるという小ウルさい始末になっていた。
しかし、一度組んだシステムというのはそんなに簡単に変更できないものだ。
「2000年問題」というヤツである。
 
いや、それでも今回チカラワザで昨年度分を更新した。
ふう。 しかしもう限度である。
いちいちブラウザに文句言われるスクリプトなんて、この簡単無能のブログ時代にはやってけない。
 
これからまだ「書く」つもりなら大々的なシステムの改変をしなければなぁ。
今のシステムでは外部からひとつの記事へは絶対に参照できない構造になっている。
ひとつのエントリが参照されると、関連する年度のシステム全体が起動しその年度版の初期値、年度の最初の記事がアクティブになってしまう。
したがって、ひとつのエントリのみを直接呼び出すことが出来ない。
これじゃぁね。
外部検索からも参照できないのなら資料的価値はないよな。
 
ということで、HPの「読書月録」、近々20年ぶりにフレーム構造や索引法を変更し、簡単無能化を図り、よろしく時代に迎合してやろう!との決断に至った本日の午後である。
 
しかし、残念ながら本体の人間のアップデートの方は既に手遅れ。
どうにも手をつけられない状態になっている。悪しからず。


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