オークワ・アルカ | いのちの饗舞台 .. |
[団塊の段階的生活] |
半額音楽人生 |
2012/2/23(木) 午前 5:43 |
久しぶりに大阪梅田で時間があったので、ぶらぶらと丸ビルのタワーレコードに入ってみた。今ではネット経由で欲しい音楽が買えるので、わざわざレコード店に行くこともないとは思う。ま、余程ヒマだったというわけだ。
やはり、しかし、というべきか、レコード店、おっと、CDショップに行くという行為はネットで検索するということよりも具体的で積極性が強く、そのつもりもなかったのに気がつけばCD三枚を手にレジに並んでいた。
いずれもナクソス版で
1)バーバーの交響曲集
2)カゼッラ交響曲第3番
3)アゼルバイジャン人作曲家4名のピアノ協奏曲集
バーバーは別にして後は名を聞いたこともない作曲家。
せっかく多量の在庫を展示してあるレコード店に来たのだ。ブラームスの室内楽・シューマン交響曲集でもあるまい。でもラフマニノフ自演とかボーンウイリアムス全交響曲に思わず手がでたのだが。
ここで逝去したチチオヤ(義父)の遺品のCDを検めたことを思い出した。
いわゆる世界名曲集の類ばかりの、私から見ればなんとも退屈で凡庸なコレクションばかりだったのだ。このような通俗曲を聞きながら悦にいってらしたのかと、少々立腹までした。
これは日頃私が本やクラシック音楽を話題にすると、ヨメは必ず「チチオヤなら知ってたハズ、チチオヤなら持ってたハズ」と、自分の無知蒙昧の肩代わりをチチオヤにさせるのが常だったからだ。
チチオヤが私と同じく読書や音楽を自尊の糧、という言い方が少々まずければ、自分への自己顕示のネタにしていたのは事実だが(同じことか)、しかし私を「チチオヤと一緒にするのは許せん!」のだ。たかが中学生の「クラシック入門」程度のモンじゃないか。
まてよ、しかし、と相変わらずナクソス版を手に私は少し反省する。
私だって高校生趣味から一歩も出てないじゃないか、と。
果たして私は音楽、特にクラシック音楽が本当に理解できているのだろうかと思うのだ。もちろん作曲家の意図や音楽的企みは理解し、それなりに楽しめていることは間違いない。しかし、高校生時代に味わった後期ロマン派のハデな劇的盛り上がりに鳥肌だつという鮮烈な体験の後、当方の鑑賞眼は一向に深化してないのではないかと思える。特に演奏や解釈の微妙な違いなんて理解の外にあるがごとく。
だからナクソス版が私には丁度いい。マイナーな演奏家によるマイナーな曲が多量に、しかも廉価で揃っている。世界的名手が至上の名曲を絶妙に演奏しているとして、私には残念ながらその至高の精神を汲み取るほどの感受性には恵まれていないのである。
逆に言ってみれば、私には有名演奏家のステージのチケットを高額で入手し、高ければ高いほどエラいのだ、と誇るような非音楽的な見栄とは一切無縁でいられたのは間違いない。ただひたすら面白そうな音楽を聞きたいと思っていただけで。
とりわけ自分の演奏が客観的に評価される機会でもあると、私の感受性の粗さが簡単に露呈してしまう。
参加している合唱団で声量だけは抜群の私はモロ指導者の標的になってしまう。ただベルカント風に自分のエネルギーを快く個人的に発散したいだけの私は、客観的にはただうるさいだけの人である(--;
指導者が意図する細かいニュアンス、精密な音程とかは、指摘していただければ、さすがに理解することはできるので、近頃はかなりおとなしくなったと思っているのだが。
しかし、この辺りで明らかにプロの音楽家の解釈に私が遠く及ばないことを自覚する。
解釈ですね。英語で interpretation と言う方が意味がよくわかるのだが、どのように演奏するか?という演奏者側の音楽について私は常に無知だった。
私のピアノも最近ハンミュンデン・メトード(^^)を独自開発、一応「何でも弾ける」のだが、事情は同じ。
やっとプロレベルのレパートリーを誇れるようになり、参考にと本物の演奏を謙虚に聞くということをする。
ここで驚愕の事実に直面することになる。楽譜に書かれてあることを鍵盤上で正確に再現できるからプロフェッショナルなのではない。音楽をどのように自分が解釈するのかを伝えることができるからプロなのだ。
ショパンのノクターンNO.8 嬰ハは、そんなにもゆっくり演奏するものなのか!そんな速度では私ならとても間が持たない。
ゆっくり静かに演奏することが出来ない。 間が持たず走ってしまう。
ピアニシモで抑え続けるだけの甲斐性がなく、早くもフォルテで叫んでしまう。
結局私には、いわば音楽のフォルテシモとアレグロ・ビバーチェしか聞き取れない粗雑な感性しか無く、ピアニシモやアダージョで歌うデリケートな情感に反応できないのではないか?
ひとわたり曲の構造が把握でき、物語の結末が分かってしまうと、もうその地点で私の音楽は終わってしまう。曲が楽しみのすべてで、次に演奏・解釈を吟味するというレベルに深化することはない。
一度読了した本を二度は読まないように、質よりも量にしか違いを見つけられないB級グルマンでしかなかった。作曲者が提示してくれるものだけで、演奏者が与えてくれる音楽の部分は享受できていなった。
どうやら私は今まで音楽の半分しか味わって来なかったということなのか?
うむ、何と言う見事な半額人生だったのか。(← そんなところで変に感心するな!)
ま、しかし、人は多様で自分は自分。
別に自分の感受性の無い部分を嘆く必要なんてどこにもない。
それでも私には音楽が必要で、私なりに楽しみ、演奏できるという無類の喜びがある。
自分の感性で少なくとも音楽を楽しめるということは、なんて幸福なことなんだろう。
音楽のすべてを理解している、ということではないにしても。
と、チチオヤが天国で言う。
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