三月の過去や未来 本日の曾野綾子と..
[団塊の段階的生活]

三月の過去や未来(2)

2012/3/26(月) 午後 3:57
東大の合格発表や卒業式のニュースを見ていて、急に東大に行きたくなった。
かつては私は東大に行くのが当然、というか自然だったように思っていたのである。
しかし、この算段は早くも中学生時代には頓挫していた。
さらに、高校卒業時には東大どころか大学進学さえおぼつかなくなっていた。
そして、19歳の出奔があり、私は永山則夫になる。
 
その後、私なりに海外留学等を決行し、この不遇な少年期の挽回を試みるのだが、一度は永山と共にこの社会から死刑の判決を受けたのだというトラウマは消えることはない。
 
東大の合格発表のニュースを見ていて、あり得べき、私のもう一つ別の人生に思いが飛んだ。
東大合格。その晴れがましさと高揚感。
 
その後、どのような人生が接続するのかは分からないが、東大に合格したその瞬間の、とりまく空気自体がきらきらと輝やき始めるような、身がとんでもなく軽くなって粉々になってしまうような、至福の高揚感を思う。
そして、優越感とこの上ない自尊心に押され、東京三鷹市吉祥寺に下宿を探しに行き、玉川上水井の頭公園近くの6畳一間に決める。
大家に挨拶に行くと、隣の家で昔太宰が住んでいたというではないか。・・・
 
と、なにか他の記憶と勝手に接続していくのだが、これはどこだかは判別できる。
上智に進学した井上國雄君のかつての下宿のことだな。
吉本隆明が先週亡くなった記事を読み、白鳥保二君のことも思い出した。
 
「家出中に埴谷雄高に会いに行った」との私の発言に刺激され、白鳥君は次の週末に東京に行き、吉本隆明に面会に行ったのだった。
1967年春か?井上國雄・白鳥保二は高校の文芸部の同窓生。
 
「読者ですが・・」と白鳥が言う。
「犬が鳴くので早く入って」と吉本は簡単に家に招き入れた。
読者の訪問に慣れているようだった、と白鳥は言う。
しばらく話を聞き、当時吉本が編集していた「試行」の最新号を買わされて白鳥は帰ってくる。
 
実は、私は「般若豊」の表札がかかった埴谷雄高の家を見、近くから電話して訪問する意向を伝えたのだが、応対にでた奥さんだかに、「今、留守にしてます」と言われ、会わず帰ってきたのだ。
その後、太宰が自殺した玉川上水公園を散歩し、神田カルチェラタン闘争中の明治大学学生会館で一週間程勝手に宿泊し、里心ついて帰ってきた。
帰って、親が警察に届け出ていた「家出人捜索願」を取り下げに行った。
 
井上國雄の吉祥寺の下宿訪問は多分その前年の1967年の東北旅行の道筋だった。
この時は仙台の寺島正の下宿も訪ね、東北大文学部の授業を一緒に一時間だけ聴講している。
 
春めいてくるとそのような青年期前夜の過去がふと立ち返ってくるような時間がある。
私は吉祥寺に下宿し、毎日都内の学校に通うことになっていたハズだった。
東大ではなくて、神田のアテネフランセーズだった?
なにかそのような気がしきりにする。
その後東京には何度も行き、神田駿河台の山の上ホテルに宿泊し、吉祥寺や井の頭公園を見に歩いた。
月に7万あれば何とか東京でもやっていける、と思いながら。
 
知り合った女の子を連れ、とりあえず銀座を歩いていると、昨日ウメダの音楽教室の事務所で一緒にいた新人営業マンの三村君がやはりカップルで歩いているのに出くわしたりした。
 
東京は私のような若者にとっても人生的規模の転換を準備する装置だったのだ。
東京から出発する? あるいは東京で終わろうと思っていたのか。
 
いつしか私の青春はしぼむように終わってしまい、それからは東京を彷徨に行くこともなくなっていった。
 
東大に入学するためか、どうしようもなく都会の雑踏の中に隠れて生きるためか、私の記憶の中には東京の4畳半の下宿で生活をはじめるイメージが折り込まれてしまっている。
 
今、東京で下宿し学校に通う、というイメージが40年以上経てふと回帰する。
 
 
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