この世は天国? | この世は天国? .. |
[団塊の段階的生活] |
この世は天国? 2 |
2012/7/24(火) 午後 1:12 |
(4)
この週末は月一度のハハオヤメンテナンス日で定例コースを実施。
ヨメが通うスポーツクラブが星5つにランクアップしたとき、月1回2名の同伴無料招待が特典で付いたという。
それを利用してハハオヤを連れ、三人で行ったところ、ことのほか気に入った様子。
ちなみに私の通っているのは家の近所の星2つ。
ヨメの星5つは会社の近所の都心である。
ハハオヤメンテナンス企画でどこか温泉にでも、と考えていたのだが、スポーツクラブのジャグジーや入浴施設でも結構夜まで半日たっぷり過ごせるのだ。
それに、プールでの歩行訓練やビート版に頭を乗せ、背泳姿勢で引っ張ってやると、日常では体験できないような新鮮な刺激になるらしい。
スポーツクラブで半日遊び、翌日は都心のデパート2,3箇所の地下食品売り場めぐり。
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これで目に見えてハハオヤの機嫌が良くなっている。ホッ。
と、いっても、ヨメや私に対してぶつくさと文句言うことが無くなったかな?という程度。
もともと宗教心もなく、思索する習慣もない方である。
肉体的、心的不如意の生活が少し緩和されたか、というだけで人生的規模の謝意にまでは至らない様子。
とても、あのうるさいオッサンのように「ああ、天国やなぁ・・」という満面の自足の念は聞かれない。
食っていけるには十分な年金があり、苦労した酒乱の夫はもう2階のホトケさんになって静かだし、娘も頻繁にやってきて一緒に食べることも多い。
住居の光熱費やスーパーのクレジットカードのポイント管理等は娘婿が一括して面倒みている。
これって、どう見ても悠々自適、理想の老境だろ?
しかし、ただ普通に小うるさいバァちゃんをやっているだけだ。
機嫌がいいと娘婿に5千円にぎらすだけで。
この人はあくまで現実密着型で生きてきた。
苦しいときも自殺を思わず、気楽になっても別に感謝するでなく、ただ営々と暮らしを暮らしている。
そのうち金のことより自分の身体の不如意が大きくなり、やはり不足不満の念は死ぬまでなくならない。
等身大の、自分の形になっている生活の中にすっぽり収まり、それ以外の人生を夢想することもなく。
(5)
金曜夜に大阪合唱団のパート練習に参加、2日ハハオヤメンテナンスで都心で過ごし、日曜朝には臨時雇いで別合唱団の練習に参加し、帰宅してぐったり疲れる。
これは少々ヤバイのだ。私のかなり小さい対人接触許容量をかなりオーバーしてしまっている。
案の定、眠り込んで悪夢ばかり見る。
会社と学校の悪夢。
人の中で、どこか感情のいさかいがあり、私はキレてふぃっと出て行くのだ。
「もういいっ!」と出て行くときの感情暴発のカタストロフは一種の爽快さもあるのだが、その後のやりきれない世間との違和感がどうしても夢の中に収まりきらない。
日常に漏れただよっているやり切れない重苦しさの中に目が覚める。
いつまで続くのか、それでも形だけは悠々自適の老境の中での、生きていることへの心の鈍いきしみ。
結局、金のためだけではなく、追い迫ってくる何か重苦しい足音に怯えながら、必死に前に進んでいったのだ。
今、私ほど自由な者がいるか?
返さねばならない負債も、果たさねばならない責任も、やり遂げねばならない仕事もない。
無理に生き続ける義務さえない。
しかし、どこかでこの膨満した自由の中でも、完全な安逸に満たされているわけではないという思いがある。
この自由は貧困や不幸や、強制というマイナスに陥らなくとも良いという自由であるわけだ。
私は死ぬこともそんなにイヤではないので、死なねばならん、というマイナス感もない。
しかし、こんなこの世の自由を精一杯集めたところでマイナス感が限りなくゼロになるだけで、決してプラスにはならない。
この世の不幸を全部なくしたところで、不幸がゼロになるだけだ。
不幸ゼロの安定した世界が天国なのか?
ここにしてまで私を執拗に追いかけ、圧迫してくるものがやはりまだそこにはいる。
金ではなくて、義務でも責任でも、愛情への枯渇でもなく。
やはり「鬱」か?あるいは「存在の不安」とでも?
どうやら私はそれでもやはり走り続けなければいけないらしい。
必死に、とにかく必死に、ともすれば眠り込んでしまう魂をしごきつつ。
止まればこの世は天国という名の、バカバカしい一定地獄に他ならない。
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