この世は天国?  不用な金はドブに..
[団塊の段階的生活]

この世は天国? 3

2012/7/26(木) 午後 1:01
(6)
いや、ちょいと言い過ぎた。
「鬱」とか、「存在の不安」たらを出せば、それで安心して(^^;一件落着とやってしまう。
そこで一種の判断停止をやってしまうワケだ。
しかし、そのようなモノはもともと無かったのだ。
 
例えばショパンの憂鬱なノクターンにのめり込んで感情過多の、カプリチオーゾな鬱を自分の感覚にしてしまう。
埴谷雄高の「死霊」にのめり込み、自分が自分であることの違和感というアイデアを自分の思考にしてしまう。
自同律の不快。これか!と。
17歳の第二次性徴期もくしは反抗期のころ手当たり次第に取り込んでから、あまり変りもしない難儀な自我。
 
ショパンや埴谷は例えの一つに過ぎないのだが、私の自我と言うヤツはそのようにして、外から来た概念を取り込んで不細工に肥大していったのだ。
 
ドイツ文学や音楽、果てはドイツ語に触れることがなかったとすれば、私の森への憧憬という原意識は形成されず、くそ暑い大阪の下町で齟齬の無い等身大の自分と未だに付き合っていたのかも知れない。
 
いや、自分の志向を見極め、無理の無い形で周囲との折り合いをつけ、学問として修め、その後の職業人生に生かせていたら、自我を拡大したとしてもこの世界にどこか私がすんなり収まる場所はあったろう。
 しかし、既成のルートから外れたまま、逃避先としてのみ私は余計な感情と思考を肥大させていった。
 
例えば、英語で「肩こり」という概念はない。
しかし、日本語には「肩こり」という表現があるので肩こりを自覚する人が多い。
ドイツ人は「悔し」がることはない。
なぜなら「悔しい」と言う表現がドイツ語には無いからだ。(清野智昭)
 
もちろん、それに近い感覚は去来するのだが、コトバで定着しない限り一過性の感覚のうねりとして流れさってしまう。
一人の天才がコトバや音楽で創造した心中の概念は時に伝播し、新しい感覚や思考として他の心にも定着することがある。文化とはそのようなフェーズを必然的に含んでいる。
 
我々はコトバを通して世界を見ている。
私は自分が仕入れて自我に組み込んだボキャブラリーによって世界を解釈している。
 
ハハオヤの手持ちボキャブラリーには「鬱」や「存在の不安」というラベルはない。
大阪のオバハンの日常密着型ボキャブラリーのフイルタから世界を見ているわけで、自分に見えている等身大の自分にピタリと自我が重なっていると思える。
ただ生きて、ただ死ぬだけの、動物一般として通常普通の世界観。
 
少なくとも自殺を考える人は、自分と世界との間にある齟齬が見えているのだろう。
これが犬猫レベルになると、過去の自分と現在の齟齬もないようだ。
楽しかった子犬時代と現在の不如意との齟齬を悲しみ、道端で老犬が首をつっているのを見たことがない。
 
うむ、ハナシがかなりそれてしまった。
簡単に「鬱」や「存在の不安」というラベルを貼って固定してしまうと、そこで思考が停止してしまうリスクがある。
私はスポーツの後でやってくる快い自由な時間を先ず想起したかったワケで。
 
ただ単にアレは一日の自分の日課をつつがなくこなし、その日の活動を終えた後の充実感だったのかも。
単にイヤなことをしなくてもいいと言う自由には、その類の充実感が入っていないのだ。
充実感の根源は、動物としての人間の本能に刻み込まれた生きるリズムのことなのかもしれない。
 
一日エサを求め、食い、夜満ち足りて眠る。
労働と休息。 あるいは「仕事と日々」(ヘシオドス)
 
金のためだけではなく、生きること、そのもののために本能は働きたいと言っているのだろう。
「鬱」や「存在の不安」は勤労への意欲が途切れたときにやってくるのか。
 
もう私はカネのためには金輪際働きたいとは思わない。
しかし働いていることの充実感を失えば二人三脚で後ろにくっついている「鬱」と「存在の不安」に追いつかれてしまうようだ。
 
死ぬまで走る。
ランナーズ・ハイでこの世から垣間見る天国。
 

 

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