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[団塊の段階的生活] |
遠い夏の花火 (日本のお盆に) |
2012/8/16(木) 午後 1:57 |
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音はこだますのだが、あまりに遠いので人々の気配はまったく感じられない。
ちっぽけな人間共の夏の祭りを、広大な闇を支配する月が白々とみおろしている。
遠い夏の花火はまぼろしのように儚い。
一瞬浮き上がり、次々と闇に消えていく人びとの夢の痕跡。
遠くの花火を見ていると、孤独だった夏もふいに浮かびあがる。
昨年はドイツに行ってたし、その前は暮れに亡くなる義父の入院だかなんだかで夏の花火を見ていない。
花火は久しぶりに蒸し暑い夏の真っ只中に連れ込んでくれる。
今はお盆休みで、午後の日課のスポーツクラブが閉館、小さい黒バイクにつっかけで他の町の施設に行く。
バイクに乗った当初よく行った近所の生駒山・矢田山を久しぶりに走って帰ることになった。
今では2台で県の南の山地をツーリングするのが常なので、近所の山を走ることもない。
当初、矢田山子供の森だとか、生駒越えの暗峠近辺にヨメを乗せてよく走りに行った。
先週久しぶりにヨメを乗せ、遠くのスーパーから山のふもとの道をたどって夏の夜に帰ってきた。
なま暖かいが、それでも少しは心地いい夜の風に吹かれて田舎の畑道を走っていると、ふと子供の頃にもこういうことがあったような気がした。
いつかの夏の夜、父親の背にしがみつきながら田舎道を疾走し、遠くの花火の音をきく。
いや。そんなことはなかった。
記憶の中で都合のいい情景を繋ぎ合わせ、勝手にそんな風景をでっち上げているのだ。
夏の花火はとっくに死んだ者たちも遠くから見ているような気がする。
夏の夜の記憶は花火の音でフラッシュバックを重ねる。
大河ドラマを見ていたら、清盛の母(本当は義母)が亡くなるところだった。
「こうして大勢の子や孫に囲まれて・・・」というシーン。
ヨメが急にこちらを振り向き「私には誰も居ない」という。
我々には子供がいないので、死ぬときにはたった一人きりだと言うのだ。
それもそうか。なかなか不憫なことだよな。
既に死んでいった者達の情景のフラッシュバックだけに囲まれ、周囲にはもう誰も居ない夏の夜の花火、か。
だから私は「一緒に行こう?」と常に誘っているのだ。
発音は「行こう」だが、もちろん「逝こう」ということだ。
「誰がぁ!」とヨメは即座に拒否するのだが(笑)(←むりやりでも)。
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