だってオリンピッ ブログよ、お前も..
[団塊の段階的生活]

本日産経新聞の論者に注目

2012/8/23(木) 午後 1:21


と、産経新聞を揶揄したりするのだが、しかし私は愛読者である。
起き際に新聞を読み、深く共感、久しぶりにこの世界への違和感のない快い朝を向かえた。
著作権を勝手に無視し、ここに引用し私の激しい同意を示しておきたい。
 
       ======以下 引用===== (・・・)は省略部===
 
哲学者 適菜 収 「正義は法に優先しない」
 
社会全体が卑劣になっている。大津市の中2自殺問題をめぐる騒動を見て、そう思わざるを得ない。ここで私が「卑劣」というのは加害者とされる少年たちのことではない。加害届けを受理しなかった警察でもなければ、いじめを見逃した担任教師や学校、市教委でもない。周囲の対応に問題があったのは誰が見ても明らかであり、わざわざここで指摘するまでもない。
そうではなくて、加害者の少年を批判するやり方が卑劣なのだ。彼らもまた法で守られるべきである。
「お前は家族が殺されてrも同じことを言うのか?」という反論があるかもしれない。問題はまさにそこにある。被害者の家族でも親族でもない人間が「いじめ=悪」という圧倒的な正義に陶酔し、個人的な薄汚い感情を社会に垂れ流す構図が醜悪なのだ。
・・・・
この手の<<正義>>ほど愚劣なものはない。
社会正義はあくまで法の下で達成されるべきものであり、社会正義が法を導くのではない。この順番を逆にしたところにテロリズムは成立する。
 
ドイツ出身の政治哲学者ハンナ・アレント(1908〜75年)は、革命や全体主義を分析する作業の中で、社会正義と弱者に対する同情、虐げられた者に対する憐れみがテロリズムの温床になることを明らかにしている。
「徳の源泉と考えれられた哀れみは、残酷さそのものよりも残酷になる能力を持っていることを証明している」(『革命について』)
人間は悪のために戦うことはできない。歴史的に見れば、国家=法の破壊は、常に社会正義の名の下に行われてきた。正義の暴走を許せば、人間はいくらでも愚かに卑劣になることができる。
・・・
いじめの被害者に同情するのは勝手である。また、事件に義憤を覚えるのも自由だ。しかし、同情や正義といったもののいかがわしさをいささかでも自覚するのが文明社会の住人の責任ではないか。
・・・
      =====(産経新聞・012/8/23 一面「賢者に学ぶ」より) 引用終了=====
 
先ほど私が書いた領土問題への当てこすりも、半分はこのような私的正義の行使者への嫌悪の表明である。
 
神に従え!
しかし神がいないのなら、せめて法に従え!
 
尚、アレントはハイデガー関連で周知した名だが、このようなところで引用され、著作を教示され、私としては名前だけ見知った人に多少の実体を見ることができ、二重に快良かったわけだ。
少なくとも、私と同じようにこの世界が見えている人もいる。
 
産経新聞で何が悪い! え? まあ(^^;
 
 
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